はなおくらレポート

 

兵庫大仏

日時  : 

2006年11月22日(水) 晴れ時々曇り

目的地 : 兵庫大仏・七福神 兵庫運河 中央市場 和田岬砲台
目的  : 歴史のある兵庫区の街を歩く
アクセス:

JR兵庫駅

日本の三大仏の一つ、兵庫大仏が神戸にあると知って、以前から行ってみたいと思っていた。奈良東大寺の盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)は、関西では小学生の時に必ず遠足でいくところなので、誰でも知っている。鎌倉長谷高徳院の阿弥陀仏も有名で、どちらも1600年以上の歴史がある仏像である。神戸の大仏はどんなだろうか、楽しみだ。
10時に兵庫駅を南側へ出た。この辺りは多くの工場と神社仏閣が混在し、古い歴史と庶民性をかもし出す街だ。区が「兵庫七福神」や、「兵庫津の道」を提唱し、もっと親しめる町にしようと努力している。

「兵庫津の道」とは、平清盛によって基礎が作られた「大輪田の泊」が、鎌倉時代には「兵庫津」と呼ばれ、江戸時代には瀬戸内海有数の港町として賑わった。このような歴史を持つ兵庫区西部地域の史跡を結ぶ道路の愛称。
蛭子神社能舞台
駅を少し南に下り東に向かって歩いていくと、間もなく柳原の蛭子神社(ひるこじんじゃ)が見えてくる。子供の頃、えべっさん(1月9日〜11日)の夜、親に手をひかれ夜店が立ち並ぶ通りを、ゾロゾロとお参りに行ったものだ。  当日は、あの賑わいはなく静かなたたずまいで、正面の能舞台が印象的だった。えべっさんの近くには大黒さんがあり、弁天さんも毘沙門天さんも・・・そして大仏さんも。
えびす像
能福寺の山門で立ち止まり驚きの声を上げた。
空に盧舎那大仏が浮かんで見える。端正なお顔立ちと共に、11mのお姿はとても立派だった。
能福寺の歴史は古く、唐から戻った伝教大師 (最澄)が開き(805年)、平清盛が剃髪したところである。平家滅亡とともに焼け落ち、その後、幾度となく興亡を重ねた。初代大仏は明治24年地元の豪商によって寄進されたが、昭和19年、戦争による金属供出により解体された。
現在の兵庫大仏は2代目で平成3年に再建されたもの。
兵庫大仏
少し南へ歩くと道路の向こうに船のへさきのようなものが見えてきた。行ってみると運河だった。ここに、大輪田の泊の石椋(いわくら)があった。
石椋とは大きな石を海の底にたくさん積んで、防波堤や突堤を造ったものだそうだ。運河に沿って歩いていくと、美しく整備されたキャナルプロムナード(約300m)に出た。以前の兵庫運河を知っている人には想像できないだろう。

大輪田の泊の石椋
キャナルプロムナード
入江橋を渡って中央卸売市場に行った。
昼前になっていたので市場特有の活気はなかったが、市場の中のお寿司屋さんで昼食をとった。
再び運河を渡って清盛塚に。北条貞時が建立したと記されている十三重の塔で、墳墓ではないのだそうだ。この辺りは清盛公を兵庫の大恩人と敬い、親しみを持つ人が多いようだ。
清盛塚
清盛公のモニュメントを横目にキャナルプロムナードを歩き清盛橋を渡って、薬仙寺や和田神社等をまわり、三菱重工業神戸造船敷地の中にあるという和田岬砲台に向かった。
清盛のモニュメント
工場の入り口から案内していただいて歩くこと約20分。巨大な石臼のような形の砲台(直径12.12m 高さ10.60m)が現れた。
窓のように開けられた穴と屋上に、合わせて27門の大砲を備え付けられるように造られている。御影石造りの立派な建物だが、大砲を備え付けられたことも、実戦に使われたこともなかったそうだ。今は残念ながら損傷が激しく、中に入ることは出来なかった。
和田岬砲台
多くの神社仏閣を拝見しつつ、新兵庫探検にワクワクした1日だった。

私たちの歩いたコース

福海寺 ⇒ 柳原蛭子神社 ⇒ 能福寺 ⇒ 大輪田泊の石椋 ⇒ 中央卸売市場 ⇒ 兵庫運河 ⇒ キャナルプロムナード ⇒ 阿弥陀寺 ⇒ 清盛塚 ⇒ 真光寺 ⇒ 御崎厄除八幡宮 ⇒ 薬仙寺 ⇒ 和田神社 ⇒ 三石神社 ⇒ 和田岬砲台

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