朝が来たことを感覚的に察知し瞼を開ける。
回復した視界に、カーテンの隙間から差し込む日差しが照らし出す見慣れた天井が伺えた。
間違いなく陽が昇り、朝が訪れたわけだ。
ふと壁に掛けられた時計に目を向けると、その針はほぼ垂直を――つまり六時を指していた。
冬場とは異なって、間もなく衣替えを迎えようとしている今は、この時刻にもなれば外は明るくなっている。
目が覚めたときに温かいというのは、寒さが苦手な俺にとって、実に歓迎すべき事だ。
ぼんやりとした意識でそこまで考えて、俺はある違和感に気が付いた。
今だ完全に覚醒出来ていない俺の脳ではその正体に気が付く事はなかったが、とにもかくにも身を起こす事が先決だという事には思いついた。
普段であればもう暫く布団の中で微睡みを味わえる時間に起きなければならない理由は、今週から俺が週番をやらされる事になっているからだ。
自分でも実に似合わないと思うのだが、三年になってから何故か風紀委員という役職に就かされており、今週が俺の当番というわけだ。
故に身体を起こし着替え、そして学校へ行く――それこそが、今の俺にとっての最優先事項なのだ。
だが――
「うーん?」
いつもと変わらぬプロセスに身を投じようと試みるが、どういう訳か今日に限ってそんな簡単な事が億劫に感じられる。
身体中を支配ししているのは、何とも言えぬ気怠さであり、体を動かす事を躊躇わせる。
だからといってこのまま再び夢の世界へ旅立つ事は許されない。
何しろ今日は新たな一週間の始まり、月曜日なのだ。
内申点を考慮し、風紀委員を務める勤勉な学生を自負している俺としては、何としても定刻通りに学校へ赴く必要がある。
気力を総動員して腕に力を篭めて身体を動かすと、俺の身体はバランスを失い布団から床へと転げ落ちた。
ベッドで無いのが幸いしたが、どうにも体調がすぐれない。
確かに昨夜はついつい深夜番組を見てしまい、慌てて床についたが……
「あれ?」
ふと疑問を感じて声が出る。
俺は何故床に敷いてある布団で寝ている?
いつもはベッドで寝ていたはずだ。
目が覚めて天井、窓、時計……と見慣れた物を見た時に感じた違和感。
それは、見慣れたはずの物が、普段とは異なるアングルで俺の目に映った事だった。
「それに……俺っていつ寝たんだ?」
確かに俺は日曜日の夜に、普段は見ない深夜番組を見て、それで寝るのが遅くなった。
これは間違いない。
しかし、俺がテレビを観ていたのはリビングだったはずだ。
では何故俺は自分の部屋で寝ているんだ?
テレビ番組の内容も思い出せないが、何時テレビを切って、何時部屋に戻ったんだ?
そして肌に感じる床の冷たさ……って、え?
「なんだ? 俺……どうして裸?」
布団から転げ落ち剥き出しとなった俺の身体に、フローリングの冷たさが伝わってくる。
数々の疑問が沸き起こると、言いようのない気分の悪さに動悸が早まり、胃酸が必要以上に分泌される。
「くっそ……っ。何だって言うんだ」
気持ち悪さを気合で抑え込み、力の入らないボディに鞭をくれて床から這い上がると、まるで初めて立ち上がる子馬の様に、一瞬バランスを崩しかける。
腕を振ってバランスを取り両の脚で立ち上がると、股間には我が息子が少し揺れてぶら下がっていた。
うーん、見事に全裸な俺。
秋子さんが起こしに来る可能性がある以上、いつまでもこんな姿を晒すわけにはいかない。
クローゼットの中から新しい下着を取り出し、続いて壁に掛けられているワイシャツと制服を取って着替える……のだが、何故か制服が見あたらない。
いつも俺の制服が掛けられているハンガーには何も掛かっておらず、周囲を見ても床に落ちているわけでもなかった。
パンツ一丁で立ちつくすのも考えものなので、取り敢えず下着同様に控えの制服をクローゼットから取り出すと、それに着替える事にした。
だが身体全身が思うように動かず着替えは難航した。
普段の四〜五倍の時間を費やし、やっとの事で制服へと着替えた俺はふと時計を見つめる。
六時一五分――着替えに時間がかかったとは言え、まだまだ十分余裕がある。
これだけの気怠さにも関わらずこうして朝早く目覚める事が出来る自分に、俺は隣室で寝ているであろう従姉妹との血縁を疑わずには居られない。
「あ……そう言えば、俺何で布団に寝てたんだろう?」
先程感じた疑問を解消すべく、俺は振り向き自分のベッドを確認してみた。
そこに俺がベッドを追われる理由が有ると思っていたが、きちんとベッドメイクされた綺麗なベッドが有るだけで、何者の存在も確認は出来ない。
「う〜ん」
状況が掴めずに首を傾げてみる……と、途端にバランスを崩しかける。
ただ首を傾げただけでよろめくとは、どうも俺の身体は相当に調子が悪いようだ。
「参ったな。え〜と……」
改めて全身を確かめてみるが、身体が怠いというだけで、怪我等の外傷は全く見あたらず、熱が有るわけでもない様だった。
怪我でも病気でもないと判断した俺は登校する事を決意する。
「よっし! 何とかなるぞっと……あれれ?」
気合を入れ直して机の上から鞄を掴むつもりだったのだが、その気合はすっかり空回りした。
制服同様に鞄までもが見あたらないのだ。
「盗まれたか?」
いつも同じ場所に置いているので紛失するとは考えにくいし、幾ら何でも学生服と揃って行方不明という状況は普通じゃない。
「な、何だよ一体……」
真琴の悪戯によるものかとも思ったが、どちらかというと俺の身体に対する直接攻撃を好む真琴が、このような陰湿な手段を用いるのは考えにくい。
ならばこの全身を覆う気怠さ――これが真琴の悪戯なのだろうか?
いや、まさか。
以前ならいざ知らず、春の訪れと共に戻ってきた真琴が、此処まで悪質な悪戯を行うはずがない。
曖昧な記憶、布団……しかも裸で寝ていた俺、無くなった鞄と制服、そして重度の気怠さ。
数々の疑問が俺の頭の中で渦を巻き、焦燥とした心が俺の無意識に叫ばせた。
そして自分の叫び声を聞き、水瀬家中が異常な程静かなことに気が付いた。
朝の六時にもなれば、秋子さんは朝食の支度や洗濯などの家事を始めているはずだし、家事手伝い見習いのあゆがドタバタと音を立てているはずでもなる。
だが、今はそんな音が全くしない。
どこか居心地の悪さを感じると、収まりかけていた胃の痛みが再発し、動悸が激しくなった。
「おい名雪!」
俺は身体を引きずるように部屋を飛び出し、ノックもそこそこに名雪の部屋の扉を開けた。
「……嘘だろ?」
その部屋に主の姿はなく、ベッドには彼女のお気に入りである、巨大なけろぴーの縫いぐるみが鎮座しているだけだった。
「馬鹿な! アイツがこんな時間に起きるはずが……」
俺は名雪の布団を引き剥がしてみたが、当然その中に彼女の姿は無く、白いシーツだけが存在するのみだった。
焦燥とした心が、身体の気怠さを駆逐し、俺は慌てて更に隣の真琴とあゆの部屋の扉を開けるが――
「……、真琴も居ないのかよ」
踵を返し階段を転がり落ちる様に降りリビングへと向かうと、その存在を求めて名前を叫んだ。
「秋子さん! あゆ!」
だが、俺の叫びは無人のリビングに虚しく響くだけで、返事が返ってくる事はなかった。
身体の力が抜け、俺はその場で項垂れる。
「一体どうしたんだよっ!」
そう叫んで両手で顔を覆った時、俺はある違和感に気が付いた。
「……え?」
手のひらに伝わる感触。
俺は体を起こすと急いで洗面所へと向い、鏡の前に立つと、それに写った自分の姿に声を失った。。
「……な、んでこんなに髭が?」
俺の顎には髭が一センチほど伸びていた。
「有り得ない。俺は毎晩風呂に入った時に剃っているし、昨晩だって……あ!?」
そこまで口に出して、俺は昨夜の記憶が曖昧なのを思い出した。
「何かがおかしい……」
俺は震える身体を引きずるようにリビングを出て、玄関で靴を履くと逃げるようにドアノブを掴み、ドアを開け放った。
途端眩い光が視界を覆い、同時に――
「あーっ!」
という驚く声が耳をつんざいた。
そして明るさに慣れた俺の目が、水瀬家の門に佇んでいる者を捉え――。
「なっ……!?」
思わず声を失った。
なぜならば、俺を見て驚きの声を上げた者、それは紛れもなく俺自身だったからだ。
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