朝が来たことを感覚的に察知し瞼を開ける。
 回復した視界に、カーテンの隙間から差し込む日差しが照らし出す見慣れた天井が伺えた。
 間違いなく陽が昇り、朝が訪れたわけだ。
 ふと壁に掛けられた時計に目を向けると、その針はほぼ垂直を――つまり六時を指していた。
 冬場とは異なって、間もなく衣替えを迎えようとしている今は、この時刻にもなれば外は明るくなっている。
 目が覚めたときに温かいというのは、寒さが苦手な俺にとって、実に歓迎すべき事だ。
 ぼんやりとした意識でそこまで考えて、俺はある違和感に気が付いた。
 今だ完全に覚醒出来ていない俺の脳ではその正体に気が付く事はなかったが、とにもかくにも身を起こす事が先決だという事には思いついた。
 普段であればもう暫く布団の中で微睡みを味わえる時間に起きなければならない理由は、今週から俺が週番をやらされる事になっているからだ。
 自分でも実に似合わないと思うのだが、三年になってから何故か風紀委員という役職に就かされており、今週が俺の当番というわけだ。
 故に身体を起こし着替え、そして学校へ行く――それこそが、今の俺にとっての最優先事項なのだ。
 だが――
「うーん?」
 いつもと変わらぬプロセスに身を投じようと試みるが、どういう訳か今日に限ってそんな簡単な事が億劫に感じられる。
 身体中を支配ししているのは、何とも言えぬ気怠さであり、体を動かす事を躊躇わせる。
 だからといってこのまま再び夢の世界へ旅立つ事は許されない。
 何しろ今日は新たな一週間の始まり、月曜日なのだ。
 内申点を考慮し、風紀委員を務める勤勉な学生を自負している俺としては、何としても定刻通りに学校へ赴く必要がある。
 気力を総動員して腕に力を篭めて身体を動かすと、俺の身体はバランスを失い布団から床へと転げ落ちた。
 ベッドで無いのが幸いしたが、どうにも体調がすぐれない。
 確かに昨夜はついつい深夜番組を見てしまい、慌てて床についたが……
「あれ?」
 ふと疑問を感じて声が出る。
 俺は何故床に敷いてある布団で寝ている?
 いつもはベッドで寝ていたはずだ。
 目が覚めて天井、窓、時計……と見慣れた物を見た時に感じた違和感。
 それは、見慣れたはずの物が、普段とは異なるアングルで俺の目に映った事だった。
「それに……俺っていつ寝たんだ?」
 確かに俺は日曜日の夜に、普段は見ない深夜番組を見て、それで寝るのが遅くなった。
 これは間違いない。
 しかし、俺がテレビを観ていたのはリビングだったはずだ。
 では何故俺は自分の部屋で寝ているんだ?
 テレビ番組の内容も思い出せないが、何時テレビを切って、何時部屋に戻ったんだ?
 そして肌に感じる床の冷たさ……って、え?
「なんだ? 俺……どうして裸?」
 布団から転げ落ち剥き出しとなった俺の身体に、フローリングの冷たさが伝わってくる。
 数々の疑問が沸き起こると、言いようのない気分の悪さに動悸が早まり、胃酸が必要以上に分泌される。
「くっそ……っ。何だって言うんだ」
 気持ち悪さを気合で抑え込み、力の入らないボディに鞭をくれて床から這い上がると、まるで初めて立ち上がる子馬の様に、一瞬バランスを崩しかける。
 腕を振ってバランスを取り両の脚で立ち上がると、股間には我が息子が少し揺れてぶら下がっていた。
 うーん、見事に全裸な俺。
 秋子さんが起こしに来る可能性がある以上、いつまでもこんな姿を晒すわけにはいかない。
 クローゼットの中から新しい下着を取り出し、続いて壁に掛けられているワイシャツと制服を取って着替える……のだが、何故か制服が見あたらない。
 いつも俺の制服が掛けられているハンガーには何も掛かっておらず、周囲を見ても床に落ちているわけでもなかった。
 パンツ一丁で立ちつくすのも考えものなので、取り敢えず下着同様に控えの制服をクローゼットから取り出すと、それに着替える事にした。
 だが身体全身が思うように動かず着替えは難航した。
 普段の四〜五倍の時間を費やし、やっとの事で制服へと着替えた俺はふと時計を見つめる。
 六時一五分――着替えに時間がかかったとは言え、まだまだ十分余裕がある。
 これだけの気怠さにも関わらずこうして朝早く目覚める事が出来る自分に、俺は隣室で寝ているであろう従姉妹との血縁を疑わずには居られない。
「あ……そう言えば、俺何で布団に寝てたんだろう?」
 先程感じた疑問を解消すべく、俺は振り向き自分のベッドを確認してみた。
 そこに俺がベッドを追われる理由が有ると思っていたが、きちんとベッドメイクされた綺麗なベッドが有るだけで、何者の存在も確認は出来ない。
「う〜ん」
 状況が掴めずに首を傾げてみる……と、途端にバランスを崩しかける。
 ただ首を傾げただけでよろめくとは、どうも俺の身体は相当に調子が悪いようだ。
「参ったな。え〜と……」
 改めて全身を確かめてみるが、身体が怠いというだけで、怪我等の外傷は全く見あたらず、熱が有るわけでもない様だった。
 怪我でも病気でもないと判断した俺は登校する事を決意する。
「よっし! 何とかなるぞっと……あれれ?」
 気合を入れ直して机の上から鞄を掴むつもりだったのだが、その気合はすっかり空回りした。
 制服同様に鞄までもが見あたらないのだ。
「盗まれたか?」
 いつも同じ場所に置いているので紛失するとは考えにくいし、幾ら何でも学生服と揃って行方不明という状況は普通じゃない。
「な、何だよ一体……」
 真琴の悪戯によるものかとも思ったが、どちらかというと俺の身体に対する直接攻撃を好む真琴が、このような陰湿な手段を用いるのは考えにくい。
 ならばこの全身を覆う気怠さ――これが真琴の悪戯なのだろうか?
 いや、まさか。
 以前ならいざ知らず、春の訪れと共に戻ってきた真琴が、此処まで悪質な悪戯を行うはずがない。
 曖昧な記憶、布団……しかも裸で寝ていた俺、無くなった鞄と制服、そして重度の気怠さ。
 数々の疑問が俺の頭の中で渦を巻き、焦燥とした心が俺の無意識に叫ばせた。
 そして自分の叫び声を聞き、水瀬家中が異常な程静かなことに気が付いた。
 朝の六時にもなれば、秋子さんは朝食の支度や洗濯などの家事を始めているはずだし、家事手伝い見習いのあゆがドタバタと音を立てているはずでもなる。
 だが、今はそんな音が全くしない。
 どこか居心地の悪さを感じると、収まりかけていた胃の痛みが再発し、動悸が激しくなった。
「おい名雪!」
 俺は身体を引きずるように部屋を飛び出し、ノックもそこそこに名雪の部屋の扉を開けた。
「……嘘だろ?」
 その部屋に主の姿はなく、ベッドには彼女のお気に入りである、巨大なけろぴーの縫いぐるみが鎮座しているだけだった。
「馬鹿な! アイツがこんな時間に起きるはずが……」
 俺は名雪の布団を引き剥がしてみたが、当然その中に彼女の姿は無く、白いシーツだけが存在するのみだった。
 焦燥とした心が、身体の気怠さを駆逐し、俺は慌てて更に隣の真琴とあゆの部屋の扉を開けるが――
「……、真琴も居ないのかよ」
 踵を返し階段を転がり落ちる様に降りリビングへと向かうと、その存在を求めて名前を叫んだ。
「秋子さん! あゆ!」
 だが、俺の叫びは無人のリビングに虚しく響くだけで、返事が返ってくる事はなかった。
 身体の力が抜け、俺はその場で項垂れる。
「一体どうしたんだよっ!」
 そう叫んで両手で顔を覆った時、俺はある違和感に気が付いた。
「……え?」
 手のひらに伝わる感触。
 俺は体を起こすと急いで洗面所へと向い、鏡の前に立つと、それに写った自分の姿に声を失った。。
「……な、んでこんなに髭が?」
 俺の顎には髭が一センチほど伸びていた。
「有り得ない。俺は毎晩風呂に入った時に剃っているし、昨晩だって……あ!?」
 そこまで口に出して、俺は昨夜の記憶が曖昧なのを思い出した。
「何かがおかしい……」
 俺は震える身体を引きずるようにリビングを出て、玄関で靴を履くと逃げるようにドアノブを掴み、ドアを開け放った。
 途端眩い光が視界を覆い、同時に――
「あーっ!」
 という驚く声が耳をつんざいた。
 そして明るさに慣れた俺の目が、水瀬家の門に佇んでいる者を捉え――。
「なっ……!?」
 思わず声を失った。
 なぜならば、俺を見て驚きの声を上げた者、それは紛れもなく俺自身だったからだ。










■U−1’










 ”コポコポ”と音を立ててコーヒーが注がれるとい、コーヒーの香りがリビングに広がってゆく。
 そんな事だけで、今まで人の気配がしなかった空間に活気の様なモノが充満してゆくように思え、居心地の悪さは幾分か和らいだ。
 とはいえ、まだ俺の頭は混乱している。
 自分の認識と現状があまりにもかけ離れているからだ。
 まず今の時刻は午後六時半だ。
 そう、朝だと思っていたが今は午後、つまりもうすぐ日暮れという時間だった。
 何となく陽の向きがおかしいとは思っていたが、余りにも他に考えるべき事が多すぎてすっかり失念していた。
 次いで水瀬家が無人である事に関してだが、まず名雪は部活に出ている為今だ学校であり、あゆと真琴は二人で買い物、秋子さんは社用で出張という話らしい。
 そう言えば、日曜日に秋子さんが『来週は仕事で家を空けます』というような事を言っていた事を思い出した。
 どうにも記憶が混乱しる様だ。
 そしてなにより――
「はい祐一。コーヒーだよ」
 俺の顔でにっこりと微笑み、俺の声色で優しく語り、制服姿の俺にカップを差し出す制服姿の俺。
 実に気色悪い光景だ。
 俺は無言で差し出されたカップを手に取り、そのまま口へ運ぶ。
 ズズズズ……瞼を閉じ、音を立てて熱いコーヒーを飲み込む。
 ふと、視線を感じて目祖開けると、テーブルを挟んで向かい側に、両方の肘を付き頬を支えているもう一人の俺が、ニコニコとした笑顔で俺を見つめている。
「あのさ……」
「なぁに? 美味しい?」
 俺の言葉に誉め言葉でも期待していたのか、もう一人の俺……って、紛らわしいから以後「祐一’」と呼称しよう。
 んでこの祐一’は、目を輝かせて身を乗り出してくる。
「不味くはないが、俺が聞きたいのはそんな事じゃない」
「ん?」
 祐一’が首を傾げる。
「お前……誰?」
 俺の質問の意味が判らないのか、祐一’は唖然とした表情を浮かべて、それから暫く何かを考える仕草を始め、そして「ああ」と手を叩いて頷いた。
 なんつーか、その動作の一々が俺の姿には似合わない仕草だ。
「祐一は一週間も寝込んでたから覚えてないんだね」
 だが、その口から発せられた言葉に、俺は驚きを隠せなかった。
「ちょっと待て、一週間だと?!」
 思わず声を荒げれ叫ぶと、祐一’は「うん。そうだよ」と笑顔のまま答え、そして――
「だから、私が祐一の代わりをやっておいたよ」
 と宣った。
「なに?」
 ちょっと待て、今何かとんでもない事を言わなかったか?
「質問がある」
 俺は気を落ち着かせようと手を挙げてから声を出した。
「なぁに?」
「俺の代わりと言ったか?」
「うん」
「代わりとは、お前が俺になりすまし、学校へ行ったという事か?」
「そーだよ」
「なるほど……では、お前が俺のように名雪と登校し、香里や北川と授業を受け、栞や美汐と食事をして、舞や佐祐理さんと遊びに行ったり、あゆや真琴をからかったというんだな?」
 俺は考えられる事を一気に並び立てて尋ねると、祐一’は平然と頷いてみせた。
「うん。何だか祐一ってすっごいモテモテだね。驚いちゃったよ」
 何ですと? この目の前の見かけは俺様で、中身はパープー女みたいな奴が俺になりすまして生活をしていたと?
「……」
 俺は声を失い、目の前の祐一’を見つめていた。
「だ、大丈夫だよっ! バッチリ君になりきって演じておいたから、誰も気が付いてないよ」
 嘘臭ぇ……。
 もの凄く嘘臭ぇ。
 声色は確かに同じだが、微妙にイントネーションは違うし、何よりしゃべり方が全く別人だ。一人称も違ってるし。
「な、なるほど……では、貴様を見て他のみんなは何か言ってなかったか?」
 叫びたい衝動を抑えつつ俺は尋ねた。
「う〜ん。特に何も……ただね、みんな不思議そうな顔してたよ」
「……試しにみんなにどうやって挨拶してたか、俺にしてみせろ」
「うん良いよ。えっと……」
 俺の言葉に頷くと、少し真面目そうな表情で喉を押さえ「あ〜」とか「ああ〜」とか言い出した。発声練習だろうか?
 やがてぱっと笑顔にした表情を俺に向けて口を開いた。
「やぁお早う! 今日も良い天気だねっ」
 俺は盛大に顔面をテーブルにぶつけた。
 誰だ貴様ぁっ! 何だその元気ハツラツな態度は! 何だその爽やかクンなご挨拶は?
 しかもそんな態度で一週間俺に成り済ましたって?
 それに今週は――!? そこまで考えて俺は重要な事を思い出した。
「おい」
「なぁに?」
「俺は今週週番をする事になっていたと思うんだが……まさか」
「うん。バッチリ務めておいたよ。うんとね、決め台詞は『私の目の黒い内は校内で不正は許さないっっっっ!』っていうの。ねぇねぇ格好良いと思わない?」
「……」
「あれ? どうしたの?」
 身体を震わせていた俺に、不思議そうな表情で声をかける祐一’。
 例えその行動が、俺を心配する善意からのものであれ、俺はこれ以上自分を抑えることが出来なかった。
「こ、この偽物野郎がっ!」
 俺は叫ぶと椅子を倒して立ち上がり――
「あ……」
 偽物が唖然とする表情を見つめながら、リビングの床に倒れた。
「……くっそう」
 そうだった。力が入らないのをすっかり忘れていた。
「大丈夫?」
 心配そうな表情で俺に駆け寄る祐一’。
 頼むから俺の顔で、俺の声色で俺を慰めるのは止めてくれ。
「大丈夫なわけあるかっ……くっそ」
 情けないことに、偽物の手を借りて再び起きあがり椅子へと座る。
 自分の必要以上に爽やかな笑顔と心配そうな表情のお陰で、すっかり怒りが霧散してしまった。
 ってゆーか、俺ってこんな表情が出来たんだな。うむぅ。
「うーん、やっぱり点滴だけじゃ力は出ないよね、栄養分を補充するだけじゃまともな運動も出来ないんだから、人間って不便だよね」
 そんな俺を哀れむように祐一’が言う。
 その言葉に俺は大事な事を思い出した。
「そ、そういえば俺は一週間寝込んでたって本当か?」
「うん。正確に言えば祐一が倒れてから百十二時間と三八分だから……五日間は経ってないよ」
「なんでそんな正確に判る? ん? 待てよ……じゃ今日は金曜日か?」
「そうだね。あ、もうこんな時間だ。早く準備しなきゃ……」
 祐一’は突然、一方的に話を打ち切って立ち上がった。
「お、おい。何処へ行くんだよ」
「何処って……食事の準備だよっ」
 キッチンへ向かう途中、壁に掛けられていたエプロンを付けながら笑顔で答える祐一’。おまけにウインクまでしてきやがった。
「食事の準備だ? いやそものもお前は一体何者なんだよ?!」
 寒気に鳥肌を立てながら俺が言葉を投げかけた時、リビングの扉が開き――
「ただいま〜」
 明るい声の挨拶と共に制服姿の名雪が姿を現した。
「あ、祐一……」
「お、おう」
 俺の姿を見て何かを感じたのか、名雪が頬を紅く染めて、何処かモジモジとしながら俺の顔を見つめる。
「祐一……帰ってたんだ。あの、えっと……さっきの話なんだけど……その、わたしなら別にOKかな〜なんて……えへへ」
 身をくねらせながら話す名雪だが、その内容の意味するところは全く不明だ。
「名雪……お前一体何を言ってるんだ?」
「え? 祐一まさか忘れちゃったの?」
「忘れたも何も恐らくは初耳だろうし、何の事かもさっぱりわからん」
 俺がそうきっぱりと言い切ると、名雪は目を丸くして驚いた表情を見せ、そして次に肩を震わせて手にしていた鞄を床へと落とす。
「名雪?」
 俺がそっと声をかけると、名雪は無言のまま俺の身体へその身を投じてきた。
 現役陸上部の身体能力を活かした見事なぶちかましに、栄養不良のマイボディは耐えられず、そのまま名雪に抱きしめられたまま床に倒れ込む。
「痛ぇ……な、名雪。一体どうし……」
 俺は続く言葉を飲み込んだ。
 なぜならば、俺を見つめる名雪の瞳には、深い哀しみが見て取れたからだ。
 十和田湖よりも深く潤んだ瞳は、どんな言葉よりも雄弁に名雪の心情を物語っている。
 しかし俺には、残念ながら名雪が悲しんでいる理由が判らないのだ。
「祐一……」
 名雪がそっと俺の名を呟く。
「わたし……嬉しかったんだよ。わたしの事好きだって言ってくれて……私の傍にずっと居るって言ってくれて……お母さんが帰ってきたらちゃんと話しもするって……それから」
「はい〜ぃ?」
 名雪の言葉に、俺は耳を疑った。
 何といつの間にか自分の将来設計が決まっているではないか。
「それでねぇ〜取り敢えず籍は卒業した後でも良いと思うんだよね」
「な、なぁ名雪。幾らお前の趣味が寝る事とは言え、起きている時に夢を語るのはどうかと思うぞ?」
 俺に身体を預けながら夢見がちな表情で恐ろしい事を語る名雪の肩を掴んで引き剥がした。
「式は家族だけで挙げたいな〜。香里とか先輩達を呼ぶと何だかぶち壊しそうだし〜、あゆちゃんと真琴は一応家族って事だから特別に呼んであげるけど」
 って、聞いてねぇし!
 どうやら俺の言葉は名雪の耳には届いていないようだ。
 顔を紅潮させ陶酔気味に夢――というか妄想を語り続ける名雪に、俺は舞直伝の脳天唐竹割を見舞う。
「痛っ。祐一酷いよ」
「名雪、俺は只でさえ寝起きで混乱しているんだ。これ以上かき混ぜるのはやめてくれ。そもそもだな……」
 涙目で唸りながら訴える名雪を無視して立ち上がり、俺が置かれている状況を伝えようとした矢先――
「やぁ、お帰り名雪」
 エプロンを付けた祐一’がキッチンから顔を覗かせると、名雪に元気よく声をかけた。
「へ?」
 そんな声と共に名雪の身体が固まった様に動かなくなった。
「あれ、どうしたんだい名雪? 熱でもあるのかなぁ……どれ〜」
 状況が掴めずに固まったままの名雪に近づくと、祐一’がその額を名雪のそれに重ねてみせる。
「〜〜〜〜っ!」
「あややややややや」
 俺が声にならない悲鳴を上げ、名雪は気恥ずかしさから言葉を詰まらせ、そしてその当人は――
「あれ? 名雪すごい熱いよ。熱があるのかな? 明日は休みだとは思うけど、今日は早めに寝た方が良いね」
 ――と、額を摺り合わせたままの距離で、平然と言ってのけた。
 そして名雪は祐一’から身を離して俺と見比べてから「きゅぅ……」と短い言葉を残して気を失った。
 幸い床に倒れる前に、祐一’が名雪の身体を抱き留める事が出来たが、その光景を見て俺は言いようのない焦りの様なものを感じていた。
「な、名雪!」
「大丈夫だよ。気を失っただけみたい。あはは、どうやら驚かしちゃったみたいだね。えっと……取り敢えずソファーで良いかな?」
 俺を見て苦笑すると、祐一’は名雪の背中と膝裏に腕を回し抱っこすると、そのままリビングのソファーへとその身体を横たえる。
「後は冷たいおしぼりを頭に載せておけば大丈夫だよ」
 そう言ってキッチンへと向い、暫くして濡れたタオルを片手に俺の元へとやってきた。
「はいこれ。名雪の事お願いするね。私は料理で手が放せないんだ」
 そう言い残すと再びキッチンへと姿を消した。
「お、おい……」
 一体何がどうなっているのか? 錯乱する頭を抑えながら、俺は冷たいタオルを持って名雪の元へと向かう。
 足取りは今だにおぼつかないが、ソファーの脇に座り込むと、タオルを名雪の額へと載せた。
「……」
 何も言わずに目を回している名雪を見て、先程の名雪の態度と、偽物の名雪に対する言動を思い出してみる。
「まさかとは思うが……」
 あの祐一’、つまり偽物は、この一週間俺に成り済ましていたと主張する。
 しかしそれは俺には似ても似つかない酷い物だった。
 だが周囲の人間は驚きこそはすれども、アレが本物の俺だと言うことに疑いは持っていない。
 先の名雪の言動がそれを物語っている。
 それらと現状をまとめて考えると、俺の中で恐るべき疑念が浮かび、そしてそれは直ぐさま確信へと代わりつつあった。
『ただいま〜』
 とその時、玄関からあゆと真琴らしき声が重なって聞こえてきた。
 どうやら買い物から帰ってきたのだろう。
 やがてドタドタと廊下を走る音が近づいて来て、リビングのドアが勢い良く開け放たれると同時に、二人が我先にと室内へと雪崩れ込んできた。
「祐一〜っ。ちゃんと真琴が買い物してきたよ!」
「うぐぅ。ボクだってちゃんと買ったんだよー」
 リビングに姿を現すと同時に喚き立てる二人が、やがてソファーで名雪の介抱――頭を撫でている俺の姿を認めると――
『あーっ!』
 声を揃えて声を上げた。
「な、何だよ?」
 驚きの声を上げる間もなく、二人は超高速で俺の元へ移動すると、あゆは背中目がけてタックル気味に、そして真琴は俺の足下目がけてスライディング気味に襲いかかってきた。
 見事なコンビネーションアタックだっ! と関心する間もなく、二人に体当たりを喰らった俺は、その場で一瞬気を失いそうになった。
「祐一〜〜〜〜っ!」
「祐一く〜〜〜ん!」
 二人がそれぞれのポジションで俺に抱きついてくる。
 判りづらかったが、どうやら攻撃ではなく愛情表現の様だ。
「し、死ぬ……マジで止めろ……」
 俺は必至に声を絞り出した。
「え〜さっきの祐一はこんな事で根を上げなかったわよ?」
「そうだよ。正中線への連撃タックルを受けても無事だったのは、祐一君が初めてなんだから。ボク嬉しかったよ」
 そう言うと俺の言葉を無視しながら、二人は更に力を篭めて抱きついてきた。
 起伏の乏しいボディとは言え、全身で感じる若い娘の身体の感触は悪くない。
 だが、今の俺にそれを楽しむゆとりは無く、しかも彼女達から脱するに今の身体は余りにもパワー不足だった。
 力の加減をしない二人と、それをコントロールする事が出来ない俺という図式が導くものは、ただの拷問に等しい。
「た……すけて」
 全身が悲鳴を上げる中、やっと口にした言葉をあゆと真琴が聞き入れてくれたのか、二人が顔を見合わせて俺から離れていった。
「本当に苦しかったんだ。大丈夫?」
「でも本当に祐一? さっきまであんなにピンピンしてたのに……」
 二人は俺を心配と怪訝が混ざった様な視線を向けている。
「大丈夫だ……くっそ!」
 精一杯強がってみせたが、正直この二人の成すがままになった事に、俺は自分の衰えた体力を嘆いた。
「それでね。ほら〜ちゃーんと買ってきたんだよ」
「そうそう。だから祐一、約束のご褒美頂戴〜」
 そんな俺の心情はお構いなしに、二人がそろって「う〜ん」と目を閉じて唇を突き出してきた。
「はい?」
 状況を掴めずに唖然とする俺に、二人は黙ったままその体勢を維持している。
 これって……ひょっとしてひょっとする?
 自問自答で導き出された答えに、俺は更なる戦慄を覚える。
「祐一!」
「祐一君!」
 何時までも訪れない唇の感触で痺れを切らしたのか、二人が目を開けて俺に抗議してきた。
 何やら喚きながら、二人してパンチを繰り出してくる。
 普段は痛くもない攻撃だが、今の俺にはその一発一発がリチャードフィルスの攻撃に等しかった。
 やがて騒ぎを聞きつけたのか、台所から祐一’が顔を出し――
「あゆ、真琴、二人ともお帰り」
 と声をかけたところで、二人の攻撃はピタリと止んだ。
 見れば、二人とも驚いた表情で、俺と’を見比べている。
 祐一’は、名雪同様に固まった二人に近づくと「お使いご苦労だったね。有り難う」と爽やかな笑顔を浮かべながら、二人の頬にキスそした。
「〜〜〜〜っ!」
「あぅあぅあぅ〜!」
「うぐぅ〜〜〜っ!」
 俺と二人が驚く合間にも、’の野郎は「それじゃ直ぐに作っちゃうからね」と言い、二人が買ってきた食材らしきものの入った袋を持ってキッチンへと消えた。
「な……」
「な……」
 その背中を目で追ってから、二人は身体を震わせ――
「なんで祐一君が二人いるの!?」
「何で祐一が二人も居るのよっ!」
 揃って叫び声を上げた。

















■没理由
最初はシリアスにしようと思ったんですが、途中からコメディに変更したんだよなぁ。これ。
目が覚めたら現実とは微妙に異なる世界で・・・って感じをにしようと思ったのだが、途中から「見た目が全く変わらず性格が異なるもう一人の祐一」を出してドタバタを書く事になった。
結構軽い気分で書き始めたんですが・・・・これ以上連載増やしてどーするっ……ていうのが正直なところです。
妹が来たり、女になったり、まぁそういうのと同じ路線で、話にもあまり目新しさも感じないし、自分にギャグとかドタバタコメディを素直に書けるかどうかという心配もありました。
いわゆる完璧な主人公である「U−1君」を、客観的に画こうっていう事も考えていたんですが、どうなんでしょうかね? こーゆーの。

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