第二次世界大戦と称された世界戦争の末期である一九四五年、極東にある小さな国家が絶望的な戦いを展開していた。
その時、すでに欧州での戦争は終結しており、連合国側の戦力全てが当時の日本、つまり大日本帝国に集中されていた。
同国の敗北は決定的であった。
戦略爆撃と潜水艦や機雷による海路封鎖及び通商破壊活動により、同国内のあらゆる物資が底を突くのは時間の問題であり、物資が無い以上、戦いを継続する事は近い将来不可能になる事が決定的となっていたからだ。
どれだけ日本民族特有の精神論を唱えても、物資が無ければ近代戦で勝利を収める事は不可能である。
誰の目から見ても戦局の優劣は明かであり、大日本帝国の勝利を信じている物は、帝国軍人の中でも存在しなかっただろう。
だがそれでも日本人は戦いを継続する事を止めなかった。
欧米諸国では考えられない事だが、彼等は不名誉な生よりも、名誉ある死を望む傾向にあり、命は巡り来世が存在するという”輪廻転生”というシステムを信じている民族だった。
独自の精神論を持ち、なお戦い続けようとする大日本帝国の底力――と言うよりも民族性――に驚愕した米軍を中心とする連合国軍は、沖縄への侵攻・占領程度で日本を挫けさせる事は無理と判断。
アイスバーグ――沖縄侵攻作戦を中止し、兼ねてより計画されていた日本本土上陸作戦――コロネット作戦を実行へと移す。
しかし大日本帝国最期の徹底抗戦により予想以上の大損害を出した米国は、驚異的な成長を続け日々強大になってゆく共産勢力に恐れを抱き、誰もが予想だにしなかった大日本帝国との講和を急ぐ事になる。
京都にて行われた講和会議では、ソ連の代表到着を待たずに降伏文書調印が行われた程で――これは米国側が故意に時間をずらしたとも言われている――あり、米国が既に次の戦争に対する準備に入っている事を誰もが予感した。
ともあれ大日本帝国は、最後まで敵に屈する事なく戦いを貫いたという、栄誉有る敗北という形で滅亡した事になった。
コロネット作戦で予想外の被害が出た米軍であったが、当然帝国側の被害がそれ以上にである事を知っていた米国は、共産圏拡大の為の防波堤として日本の復興こそが急務だという考えに至った。
何せ太平洋という巨大な海を挟んではいるものの、ソ連と米国は隣国なのだ。
彼等はまず第一に、自国領土(本土)で戦争が起きることを何よりも嫌う傾向にあるため、日本という相手の喉先に防波堤を築く事が最優先事項とされたのだ。
だが米国主導の元での日本再生(改竄とも言う)を目指した京都講和会議の直後、無条件降伏を受け入れ既に戦争は終結したというタイミングで満州に雪崩れ込んだソ連軍は、米国側の制止を無視してその足を止める気配も見せず、それどころかその勢いのまま朝鮮半島全体を席巻するに至る。
これは明かなソ連による米国への牽制だった。
日本の本土にまで達するのは時間の問題だったが、米国側が日本海へ通ずる対馬、津軽、宗谷の三海峡を海上封鎖し、空母を含む複数の任務部隊を半島の南へと緊急配備した事でソ連軍の侵攻は止まった。
火事場泥棒的に領土・利権会得と、勢力拡大を目指したソ連としては、米国とまともに闘う事までは考えていなかったのだろう。
結局、米国を始めとする民主主義陣営が懸念していた共産主義の勢力拡大はソ連と東ヨーロッパ、中国を経て朝鮮半島とベトナムにまで及んだものの、日本の要塞化と、その他東南アジア国家の独立により完全に止まった。
植民地を失った英国やフランスはともかく――どちらかというとそれも含めて――米国の目論見通りに事が運んだ事になったが、彼等にとって唯一の誤算は、日本の復興の異常な早さだった。
皇家主導による復興は、通常の民主主義国家では考えられぬスピードで進み、僅か十年足らずで日本は近代国家としての水準に戻る事になった。
この頃、共産党によって独立した中華人民共和国では、国民党軍残党による――しかも明かな米軍の後押しがあった――ゲリラ活動が頻発しており、泥沼の内戦状態に陥っていた。
(朝鮮半島に関しては、終戦間際に忽然と現れた金日成という抗日活動の英雄と称する男が支配する独裁国家となっていた)
しかし中国の内戦はソ連軍の圧倒的援助を受けた共産党軍が、おおっぴらに支援や援助を受ける事が出来ずに各地に残った国民党軍を徐々に駆逐していった。
蒋介石は命辛々台湾へと逃れるも、共産党軍はその圧倒的な戦力で台湾を包囲し、それを米軍が艦隊を派遣し牽制した事で世界に緊張が走った。
それと同時に朝鮮軍が突如として日本への軍事侵攻を開始し、先の大戦から僅か十年で、あらたな戦乱の時代へと突入した。
台湾への侵攻に呼応して日本への軍事侵攻を始めた様に思えた朝鮮軍だったが、実は数年前から彼等の経済事情は対外政策の失敗と、独裁政権下での官僚主義が横行した結果、完全に破綻を迎えており、状況を回復する手段が他国への軍事侵攻以外に無くなっていた。
これは長引いた中国国内の内乱で共産党軍が幾度と無く行った焦土作戦により、中国国内で壊滅的な食糧危機が発生していた事も影響している。。
中国が支援を求める事が可能な国はソ連以外に存在せず――東欧国家はソ連の援助を受けている程であったし、ベトナムはフランスとの紛争状態でとても支援できる状態では無いし、もしも戦争がなくともベトナムに中国の様な巨大な国家を支援出来るゆとりがあるはずもない――、そのソ連ですら他国へ回せる程の余分な備蓄はない。
故に、中国は独立後もその属国扱いだった朝鮮――結局日本の統治前の体制に戻ったに過ぎない――から物資の搾取を慣行した。
ただでさえ少ない物資を半ば強奪された朝鮮は、共産党軍の台湾包囲作戦に便乗し、一気に日本へと軍事侵攻を開始したのだった。
この時、朝鮮側の指揮官達は誰もが自国の勝利を疑っていなかった。
問題となる米軍は国民党軍を支援するだけで手一杯だと思われていたし、日本はかつての帝国時代の牙を抜かれた敗戦国、そして攻める朝鮮軍は大戦末期に大陸や半島で関東軍を蹴散らしたソ連製兵器を有し、しかもその朝鮮軍を指揮する最高指導者は、先の大戦における抗日運動の英雄たる金日成だ。
彼等にとっては負ける原因を見つける事が困難な状況だった。
■月■日、包囲された台湾から蒋介石が脱出を計り、それを支援する米軍と共産党軍との間で激しい戦闘が勃発――後に台湾危機と呼ばれ、中国の内政に干渉したという事で米中が本格的な軍事衝突状態へ発展する。
この混乱に乗じて攻め込んできた朝鮮軍だったが、結論から言ってしまえば彼等が日本本土の土を踏むことは無かった。
大小艦艇約百数十隻もの艦隊で尖閣諸島を占拠――この時点で朝鮮政府は日本に対して宣戦を布告――次いで対馬へと雪崩れ込んだが、対馬に橋頭堡を確保する間もなく、彼等はその殆どが海の藻屑と消え去る事になる。
確かに日本は敗戦国であり、コロネット作戦による被害は甚大だった。
だが、中国と半島全域が赤化した事実が、米国からの日本に対する技術援助の無制限化を促進しており、日本の防衛力は共産主義に対する防波堤の意味合いからも、強力な力を有していた。
事実米国は、この時代最新鋭機であり、今だ全軍に行き渡ってもいないF86セイバー戦闘機を日本に対して供与しており、ライセンス生産までも許可していた程だった。
専守防衛に徹して組織された新たな日本軍は、強力な陸軍を持つ必要性が無くなった変わりに、どの戦勝国と比較しても遜色の無い防衛空軍と海軍を擁していた。
海軍の基地航空隊と陸軍航空隊とを併合して組織された空軍は、大戦末期の戦略爆撃と潜水艦と機雷封鎖での通商破壊での教訓を活かして、何よりもインターセプトとシーレーン能力をひたすら磨き上げた完璧な防空組織として機能しており、朝鮮空軍の爆撃機や潜水艦をほぼパーフェクトに迎撃してみせた。
海軍に関しては語るまでもない。
東郷平八郎の息子たる新たな海軍は、彼が名を馳せた同じ日本海で完璧な仕事をやってのけた。
そもそも朝鮮海軍の指揮官達は、帝政時代以降まともな海軍を保有しておらず、スターリンの粛正によって有能な指揮官を失っていたソ連海軍によって指導されており、まともな作戦指揮能力を持っていない。
日本艦隊は寄せ集めの部隊に過ぎない朝鮮艦隊を圧倒し、対馬に多少の上陸を許した事以外は完璧な防衛戦を展開した。
この時、戦闘の指揮を取ったのが、御剣家の当主であり、戦後の日本の復興に力を注いだ御剣■■だ。
皇家に連なる御剣の者が軍職に就いていたのは彼自身たっての願いであり、高校卒業後に帝大ではなく海軍学校へと自ら進み、開戦時には大佐の肩書きで戦艦扶桑の艦長を務めていた。
実質的に練習戦艦に過ぎない同艦の艦長職であるのは、皇族に対する海軍側の配慮だった様だが、本人は断固として拒否し、その後はより実戦的な現場指揮官として巡洋艦鳥海の艦長としてソロモンでの戦いに身を投じる。
流石に皇室関係者が最前線で闘う事に恐れを抱いた軍令部が、■■を召還し、ソロモンでの武勲を賞して一気に中将へ昇進させた。
これは適当な閑職へ回し後方へと下げる算段だったと思われるが、同氏は艦隊司令官への道を選び、再び最前線へと赴く事になる。
この頃■■の現場での支持率は皇族の者であるという理由を無視しても非常に高く、共に戦闘を潜り抜けた部下からの信頼は特に絶大だった。
柔軟な発想と、一撃にかける戦意を兼ね備え、論理的な考えを持ち人柄も申し分無かった。
例え皇族関係者に無意識な嫌悪感を抱く者でも、彼の指揮能力と旺盛な戦意に疑いをかける者は皆無だった。
彼の指揮する第八艦隊は幾度と無く敵を打ち倒し、戦術的な勝利をもたらしたが、彼等がどれだけ奮戦したところで、戦局を打開する事は不可能だった。
彼は最後まで陣頭指揮を取り続けたが、指揮すべき艦艇を動かすだけの油も無くなり、ついに終戦を迎える事となった。
終戦の日、幾人かの将校が自決をしたが、彼は決して腹を切る事はしなかった。
それは死を恐れるからではなく、生きてこそ成し得る事に重要さを見出していたからに他ならず、彼の合理的な精神を伺わせている。
事実彼の艦隊の属する指揮官、参謀達で自決した者は皆無であり、近い将来に自分達の力が必要とさせる事態が訪れる事を達観していた■■の教えによるものだ。
彼の考え通り米国は戦後すぐに海軍の整備を命じ、その指揮官に――無論米軍の顧問も乗艦するが――かつての連合艦隊の人員を配置する事とし、■■とその部下達は再び海へと舞い戻った。
これは別段精神的なものを米国が考慮したわけではなく、効率を追求した非常に合理的な思想に基づくものだ。
つまり陸軍がその初等教育から米軍の指導による再編成が行われた事に反して、海軍に関しては従来のままでも立派な軍を組織できると、米国が判断した為である。
こと■■の能力などは、敵であった米軍関係者の方が信じていた程であり、その腕前――戦術指揮から人心掌握術まで――乗艦した米軍の顧問を唸らせた程だった。
そして彼は、その卓越した指揮能力で数に優る敵を撃ち破り、東郷平八郎の再来とまで称された。
もっとも本人に言わせれば「相手の力が単に弱かっただけだ」と、謙遜とも不敵とも取れる反応を示したに過ぎない。
結局台湾危機は、共産党軍を中国本土へ撤退させた事で沈静化。
米軍並びに日本軍もそれ以上大陸や半島へ侵攻する事はなかった。
アジア赤化の温床である中国への侵攻を叫ぶ米国人も多かったが、直接軍事介入も辞さないというソ連軍が本格的に共産党軍の支援に回り始め事で沈静化した。
台湾危機における米中の戦闘は、公式には米軍の一部が中国内戦への内政干渉をしたという事になっており、米中間における戦争では無い事になっている。
故に、中国本土に対する賠償も発生せず、台湾はそのまま国民党が支配する別の国家となり、唯一朝鮮だけが日本侵攻の責任を罰せられ、多大な賠償金の支払いを命じられる事となった。
この戦いで、日本の防衛力が強固である事が全世界に知れ渡り、ベトナムでの仏軍の撤退を最後に共産圏の拡大は完全に治まった。
その後両陣営は互いの力を牽制し、にらみ合いが続く事になるのだが、その対抗意識はそのまま宇宙開発競争へと雪崩れ込んで行く事になる。
その結果、50年台前半には米ソ両国が人工衛星の打ち上げに成功。
60年台に入ると有人宇宙飛行や月面着陸にも成功し、人類の宇宙開発熱に拍車が掛かる。
だがこの事が人類存亡にとって最大の危機をもたらす事になるとは、この時点で気付く人間はただの一人も居なかった。
そして■■年に米国が打ち上げた無人火星探査船ボイジャーから、火星表面の映像がケープカナベラルに届いた時、その影らしき物が初めて捉えられた。
ボイジャーがその交信を立つ直前に送ってきた、一枚の不鮮明な写真に写された影。
それこそがその後人類最大の驚異になるBETAを映した物なのだが、当然その影が生物のものだと信じる者は少なかったし、その生物がまさか惑星間を移動する手段を持ち、地球へ侵略に来る様な存在だと考える者も居なかった。
結局、生物らしき影に関する公表は一切行われる事なく、ボイジャーの喪失は単なる事故として片づけられた。
この情報操作こそ、この度の人類存亡危機の元凶だとする者も居るが、この時点で火星に生命体が居ると報道したところで、人類のインベーダーに対する組織を作る事など出来なかったはずだ。
当時は東西対立の真っ直中。
如何に相手よりすぐれた技術を持ち、そして相手の知らぬ情報を手に入れるかという事に躍起になっていた時代だ。
とても両陣営が協力して防衛隊を組織するなど、夢にも思えなかっただろう。
そしてこの対立構造と、台湾危機でより悪化の一途を辿った中国の混乱が、人類存亡の危機を決定的なものとする事になる。
というのも、BETAが初めて地球に落下した場所が、中国のほぼ中央の■■省であり、完全に世界から孤立していた中国が、その存在を他国――ソ連も含めて――へ伝える事をしなかったからだ。
人類に対して――と言うより他の生命体に対して――極めて危険なその存在を、自国内でのみ研究した中国政府は、その攻撃力の高さに目を付け、飛来したBETAを隠匿。来るべき侵攻作戦の切り札とする事になった。
世界から孤立し経済破綻を抱えている中国にとって、BETAは正に天から降ってきた贈り物だったに違いない。
この謎の生命体はありとあらゆるモノを貪り続け、そしてその外殻の堅さは大砲の直撃にも耐えうる堅牢さを持ち合わせ、そして地を駆ける速度は自動車を上回り、その繁殖能力はネズミが如くであり、正に完璧な生物兵器だった。
しかし彼等がBETAの本能を制御しきれない事に気が付いた時、既に時は遅かった。
奴等はその本能と言える、天性の攻撃能力を人類へと向けた。
それでも中国政府はその事態を内外へ公表する事はなく、対処に当たった人民解放軍の三個師団が殲滅した時点で、隠蔽が不可能な事態へと発展した。
突然の驚異に混乱する国民が、大量の難民となり国境を越えソ連や近隣国家へと流れ込み、中国国内の混乱は世界の知ることとなった。
彼等にとっての餌である人間――つまり最も多かったソ連への難民を追って国境を越えたBETAの群が、ソ連の国境守備隊を壊滅させるのに数分も掛からなかった。
完全武装したソ連の機甲化部隊はBETAの攻撃力の前に敗れ去り、奴等はそのままユーラシア大陸を席巻して行く事になる。
当時のソ連軍が持つ戦力は、西側陣営との均衡を保つべく当時の地上軍としては最強レベルと言ってよかった。
こと攻撃力からすれば、彼等が保有していたMBT――主力戦車の125mm砲は十分に奴等を撃ち破る事が出来たが、BETAにはMBTとは比較にならない機動力を有しており、弾を当てる事が非常に困難だった。
航空機による攻撃は、それ以前の問題だった。
奴等は空を飛ぶ物に非常に過敏に反応を示し、長距離――驚くべき事にガネフ地対空ミサイル以上の射程を持ち、音速を超えるものに対しても反応する事が出来た――から航空機を撃破する能力を持っていた。
どうやら超音波で測距を行い、圧縮した空気で外殻の一部を撃ちだしている模様だが、まともな装甲防御を持たない航空機は、空を飛ぶ棺桶に代わり、航空機による移動は自殺行為となった。
だが例え航空機による攻撃が可能だったとしても、奴等はその機動力を活かして攻撃をかわした事だろう。
乗り物では無く生物である奴等には、人類が不可能なマニューバ――例えば時速100km/hで移動中、その速度のまま直角に曲がる事すら可能――が行える。
唯一の希望は戦闘ヘリによる攻撃――戦闘領域まで超低空で飛ぶ必要がある――だったが、ヘリの装甲では奴等の攻撃を長時間凌ぐ事は不可能だった。
結局この時点で奴等に対する最も効果的な戦闘は、長距離からのロケット弾や重砲――制圧兵器の大量投入と、猟兵による直接攻撃だった。
ソ連がその威信も尊厳もかなぐり捨て、米国などの西側へ支援を要請した時、奴等の群はモスクワへと迫っており、その数は数万にまで膨れ上がっていた。
事態の重さを知った各国は急遽国連軍の名の元に結集、欧州にて戦線を構築した。
この時、初めてBETAとの戦闘を体験し負傷帰国した米軍将校の一人が、現用兵器の無力さと奴等の驚異を訴えた。
彼はその中で「いずれは北米大陸も同じ状況になるだろう」と語った。
こうなると米国の対応は早かった。
直ちに委員会が組織され、人類の天敵を駆逐する為の新兵器開発がスタートした。
実戦でのデータを基に出た結論は、戦車の持つ防御力、ヘリ並の機動力、そして歩兵の臨機応変に対応可能な万能さを兼ね備える兵器という無茶な物だった。
無謀としか思えぬこの要求を実現可能にした唯一の道が戦術機だった。
人間を模した形をした、所謂ロボット兵器である戦術機は、要求通り戦車並の装甲と、場合によってはヘリと同等の三次元戦闘を可能にする機動力を有し、人型ならではの戦闘・作業両面での高い汎用性を持つとされていた。
ベースモデルとなったXMM001は、元々NASAの要請で日米共同で開発が進んでいた地球外作業機であり、本機を重力下で使用可能な様に設計を見直された試作機が完成したのが■■年。
文字通り人類の期待を一身に背負って大地に立った初号機だが、結論から言えば使えた物ではなかった。
確かに人の様に歩き、銃を構え撃つ事は出来ても、その機体が可能なのは単にその動作の反復であり、複雑な機動を素早く行う事は無理であった。
人間と同じ動作を自然に行うためのインターフェイスが不完全だった事もあるが、何より重力下で何十トンもの質量の固まりが人間の様に動作させる事が技術的に不可能だった。
主機関となるジェネレータの問題。
飛翔用ジェットエンジンの小型化と軽量化。
各関節部分の機敏な反応と、作業や戦闘に必要なトルクの捻出。
それらメカニズムを統合的に管理できるアプリケーションと、出来る限り安易な操縦インターフェイスの構築。
問題点は山積みだった。
試作器の主機関はバッテリ駆動だったが、稼働時間が一時間にも満たないのでは当然実戦での使用に耐えられるはずもない。
ジェットエンジンにしても、実用化からさして日も経っていない。
電算機の小型化すらままならず開発は難航し、その合間にも欧州の戦線はじりじりと後退しつつあった。
モスクワは陥落しソ連が事実上消滅しても、戦術機の開発は遅々として進まず、奴等の侵攻は東欧諸国をも飲み込み始めていた。
自国への侵入を何としても阻みたい一身で、西側諸国はありったけのロケット弾を投入し、連日連夜の制圧射撃を慣行。
ポーランドや東ドイツ、ユーゴスラビアなどの国がその歴史を終えた事を代償に、奴等の進撃は収まったが、それは奴等の侵攻方向を変更させたに過ぎなかった。
奴等の一部は、油田があり重要防御拠点として既に大きな防衛線が構築されている中東方面を避け、ユーラシア大陸を横断する形でアリューシャン列島を伝わりアラスカへと雪崩れ込んできた。
一端は奴等の進撃を食い止め、一時的な勝利に浮かれ喜んだ人類――とくに米国国民にとっては、寝耳に水の出来事だった。
完全に虚をつかれた米国とカナダは大パニックとなり、国内全域に戒厳令が布かれたほどだった。
逆にユーラシア大陸からほど近い日本列島が奴等の侵攻を受けなかったのだが、原因は幾つか考えられる。
一つは台湾危機において実証された日本の高い防衛力と、奴等の行動を制限し隠れる場所の少ない海上という地の利が日本側にあった事で、流れてきた極少数のBETAには十分対処が可能だった事。
もう一つは、奴等が日本へ侵攻する際に通過するであろう朝鮮半島が、度重なる搾取と焦土作戦によって既に貧しい土地しかなく、人口が激減し既に国家として崩壊していた朝鮮の大地は、既にBETAが食い尽くした土地とさしたる変化が無く、奴等は豊かな自然が残るシベリアを経由してアラスカへと向かったのだろう。
皮肉にも、貧しく自然すら原型を留めていない朝鮮半島は、それ故に奴等の侵攻を受けずに済んだ事になる。
もっとも近い将来には、奴等の襲撃を受ける事になるのだが、この時点において侵攻を受けずに済んだのは、朝鮮と日本にとって奇跡と言えただろう。
打って変わっていきなり本土が最前線と化した米国は、建国以来初めて迎えた危機的状況に国民の間でパニックが広がった。
この事態に米軍は欧州戦線から自軍を撤退させ、自国防衛に全軍を当たらせるが、これが欧州方面でのBETA共の強行を引き起こす事になる。
NATOとソ連やワルシャワ条約機構軍の生き残り達だけで奴等の戦力を抑える事は出来ず、程なくして欧州全土が奴等に蹂躙される結果となった。
強力な陸軍を保有していたドイツは奮闘したが、フランスがあっという間に陥落し、背後を突かれる形で崩壊を迎える事となった。
スペインやイタリアも比較的短い期間で蹂躙され、スイスに至っては言うまでもないだろう。
永世中立など、奴等には何の意味も無い。
イギリスは欧州本土に派遣した自国軍を退くタイミングを見誤り、自国防衛の戦力が不足していた。
それでも流石に一流の練度を誇るロイヤルネイビーはドーバー海峡で立派な防衛戦を展開したが、いかんせん敵の数が多い事とフランスとの距離が近すぎた事が災いし、ついにはイギリス本土への上陸を許してしまった。
その後は語る必要はないだろう。
結局、戦闘の決め手を欠く人類にとっては、現状では焦土作戦以外に奴等の侵攻を食い止める手だではなく、北米ではアラスカ全土――米国としてはカナダも含めていた――を防衛線と決め、米軍はほぼ全力をもって制圧攻撃を行った。
それは追いつめられた人間の狂気を感じさせる圧倒的な物量の投入だった。
例え戦術的な勝利を収めても、その土地の自然と資源は永遠に失われる事になり、地球防衛・人類存亡という現状においては、その作戦で戦略的な勝利を得ること等不可能だった。
しかもそれでも尚、奴等の進軍は確実に進んでいたのだ。
日に日に後退して行く戦線に、米国首脳部はいち早く宇宙往路機で軌道ステーションへの待避を決め込み、高官や高位階層者達はこぞって今だ敵勢力の及ばぬ豪州へと脱出に踏み切った。
日増しに強まるBETA共の驚異に、追いつめられた人類に狂気が蔓延し、北米では自殺者が一気に増えた。
戦術機の開発は難航し、北米全土に国家非常事態宣言が出されると、開発チームは一路共同開発元の日本へと渡る――技術者や機材の搬入には、今のところ最も安全な乗り物である潜水艦が使用された――事になった。
米国の事態を受けて、一刻も早く対BETA戦の決戦兵器である戦術機開発を必要性を痛感した、当時国土防衛委員の名誉会長であった御剣家の当主■■は、国民総協力令を提唱し、政府に働きかけた。
そして政府は民間人員の強制徴用を慣行する。
近代国家運営としては暴挙以外の何ものでも無いこの発令により、日本で戦術期開発計画が急ピッチで再スタートした。
実はこれより以前から日本では独自の戦術機開発を推し進められており、双方の技術の摺り合わせにより、その開発速度は格段に向上した。
日本が独自の戦術機開発を進めていたのは、ベースモデルの地球外作業機器が元々日米共同開発機であり、基本データが揃っていた事がその原因だ。
米国側の戦術機開発では、大出力のジェネレーターと緊急飛翔用のブースターが既に完成していたが、機体の間接部分を支えるアクチュエーターが今だに未完成だった。
採用していた油圧式のアクチュエーターでは精度が悪く、仮に反応速度を要求性能並に上げると劣化が激しくなり、数時間の戦闘動作で全ての関節部を総交換する必要があった。
日本側はジェネレーターの出力向上に失敗していたものの、逆に関節部に関しては磁力で摩擦を抑えたリニアアクチュエーターの完成させていた。
また、米国で戦術機開発が遅れた最大の原因は、そのインターフェイス部分だった。
人間と同じ行動を取る戦術機の複雑な操作を、パイロットの動きをそのまま模する、モーショントレース方式を採用予定だった。
確かに完成さえすれば容易な操縦が可能になるだろうが、整備が大変であり、後方ならともかく前線での整備が不可能なレベルだったし、なによりパイロットの固定すらままならない欠陥システムだった。
日本ではそういった冒険的なシステムは見送り、従来の航空機に似たシステムを開発していた。
操縦桿とペダル――無論、その他機器のスイッチ類は多かったが――基本的な操作はそれだけで可能だった。
ただ操縦桿とペダルの組み合わせと状況によって機体を制御する電算機の性能と小型化が追いつかなかった。
しかしこの問題に関しても、米国の開発チームが日本へ流れた事で解決の道が開けた。
元IBMの技術者達による最新の技術と、日本人の職人的気質が戦術機に収めるだけの性能を持つ電算機を完成させた。
骨格となるフレームは重力下での使用を可能にするため、ベースモデルの物をより強固な物へ変更し、フレーム全体を支えるシリンダもより強化された物へと換装された。
この点に関しては、ベースが同じ事もあって日米双方がほぼ同じ物を作り上げており、この事が相互の技術交換を円滑にさせる事に繋がっている。
装甲はチタニウムとセラミックスの複合装甲とし、最重要区画のコックピットは機体のほぼ中央に置かれ密閉型とされた。
その為外部の情報は全てレンズを通した映像信号としてパイロットに伝えられるのだが、その映像表示に安易なモニタ式でなく、角膜投影式が選ばれたのは、使用されるブラウン管が戦術機の激しい機動に追従出来ないからだ。
(米国がこの方式を採用していた背景には、モーショントレース方式を採用していた事がある。尚、日本はモニタ表示式だった)
ヘルメットと直結したデバイスからパイロットの角膜へ映像を投影する事で、戦術機がどれほど激しい動きを見せても、パイロットに投影される映像に変化はない。
パイロットは装甲に囲まれたシートに座ったまま、外部の情報を得て、操縦桿とペダルで戦術機を操作する。
基本操作はさして難しくはない。
パイロットの望む操作を、瞬時に理解し、実行できるプログラムと電算機、そして素早く動作に映す各関節。
奴等の攻撃をものともしない堅牢な装甲に、それらを機敏に進ませるだけの推力。
これらのシステムを統合し戦術機は、日に日に完成へと近づいていった。
無論ハードウェアだけではなく、それを操るパイロットの育成も急務であり、その育成も平行して行われていた。
日本では統合空軍や海軍の航空隊、陸軍の戦車兵や回転翼機パイロットなどを対象に人選を開始したが、民間からの志願も受け入れられ、選考に残った人員は専用プログラムによる訓練が速やかに開始された。
新しい兵器であるため、操縦技術に関しては未知の領域であり――それでも各パイロットから選考されたのはマシンを操るという共通概念を所持しているからであり、志願兵も自動車免許の保持が最低限の必要資格だった――パイロットに求められたものは反射神経と基礎体力、そして高いサバイビリティだ。視力に関しては角膜投影式というシステムが不問とした。
初期プログラムで訓練を終えたパイロット候補生は約200名であり、その内の1/8は一般志願兵だった。平均年齢が22歳と低いのは、若い者ほど全く新しい技術の集大成である戦術機への順応力が高かった事が原因と思われる。
ともあれ、戦術機の開発とパイロットの育成が、多少の困難は当然生じたものの順当に進んだのは、戦後の日本の技術力が向上していた事と、奴等の侵攻を受けずにいられた賜物であり、世界の情勢を見れば、それは正に奇跡と言えた。
だが、日本にとっての奇跡もここまでだった。
アラスカ・カナダを遂に突破したBETA共が北米大陸と南米大陸を席巻すると、欧州を食い尽くしたBETA共もまた、その矛先を残った日本とインドシナ方面の各国へと向けて来たのだ。
(尚、米軍やNATO軍の大半が引き上げたにも関わらず、中東方面へのBETA侵攻が無いのは、砂漠が広がるあの一帯の土地が奴等の興味を引くことがなかったと考えられる。その為アフリカ大陸は今だ侵攻を受けていない。オーストラリア大陸が無事なのは、あまりにも距離が離れているからだろう)
BETAの群が朝鮮半島を縦断し日本海に達した時、日本は日本海に配備されている艦隊のほぼ全力――海軍全体の約42%――を持って迎撃に当たったが、以前とは比較にならぬ程増殖し、また地球の環境に合わせて変化を見せた奴等の進撃を食い止める事は不可能だった。
辛うじて全滅こそは免れたが、九州に上陸を果たされた事で戦局は変わった。
もはや海軍が出来る事は、艦砲射撃による制圧攻撃だけであり、それは防衛組織として機能している新海軍にとって苦渋の行動だった。
台湾危機同様、艦隊の指揮を執っていた■■は、残存艦艇と太平洋艦隊の一部をまとめ、関門海峡にて防衛戦を展開する算段だったが、政府の命令によって撤収を余儀なくされる。
政府にとって関西以東の防衛こそが急務であり、その時間稼ぎと陣地構築の為に部隊の撤収を命じた事になる。
それはつまるところ、九州と中国――そして恐らくは四国も――地区の破棄を意味していた。
■■はやり場のない怒りを必至に抑え撤退を命じると、かくしてBETA共の宴は始まった。
日本列島の西半分が瞬く間に食い荒らされ、その勢いはやがて関東地方にまで迫った。
関東一帯が奴等の手に落ちるのは時間の問題とされると、首都機能はコロネット作戦時一時的に政府組織が移転し今だ奴等の侵攻を受けていない松代へと移す事となった。
だが関東一帯の市民達へ与えた動揺は激しく、必至の治安活動も虚しく人々はパニックを起こした。
東北や伊豆諸島へと逃れる難民で道路や船に難民が溢れ、日本の社会システムは崩壊した。
人類の支配地域を示す地図から日本列島が姿を消すのは決定的と思われたが、人類の希望である対BETA決戦兵器である戦術機が戦場へと姿を現す事になる。
関東地区で陸軍と一部の国連軍が絶望的な防衛戦を展開する中、霞ヶ浦の郊外にある工場でやっとロールアウトにこぎ着けた、一個中隊分、12機の先行試作戦術機■■−■■■が投入された。
奴等との近接戦闘は死を意味していた人類は、遂に奴等を駆逐可能な力を手に入れたのだ。
■月■日、世界初の戦術機による戦闘が行われたこの日、投入された戦術機は完成したばかりの一個中隊12機であるが、試作機であるが故に極限まで丁寧に製造された■■は、その完成を待ってひたすらシミュレータで訓練を繰り返していたパイロット達の努力に応じ、開発チームの願いに答えるかのような働きを見せた。
この小さな戦闘は、戦略的な概念からみれば、勝敗には全く影響しなかったが、人類の反撃の狼煙には違いなかった。
完成した戦術機のデータは速やかに世界各国へと伝えられ、やがてその量産が急ピッチで始まる事となる。
人類を無礼るな! ――新潟沖で今なお戦い続けている■■が洩らした言葉は、そのまま人類の対BETAスローガンとなり、人類の反撃が始まる事となる。
そしてその最中の■月■日、実戦運用データの収集と、更なる性能向上、そして問題点を見極めるべく戦術機を用いた実験小隊が編成され、最前線へと投入される事となる。
人類とBETAの戦いの行方は、まだ誰も知らない。
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