「ねぇナギサ、お婆ちゃんからこんなの貰ったんだけど」
ホノカは休み時間を迎えた教室――先程の数学の授業で精根尽き果て机でへばっている親友に近づいて声をかけた。
「うーん?」
方程式に魂を奪われ抜け殻状態のナギサは、首だけをごろんと転がすように声の主を視線に捉えると、唸り声にしか聞こえない挨拶で応じた。
何だろう、珍しいなぁ――ナギサは混濁とした意識の中でふと思う。
成り行き任せで相棒となり、その後親友と呼べる間柄になったとは言え、教室でホノカが親しげに話しかけてくる事は希である。
意外と――とは失礼だが――人の良いナギサは、そんな彼女の姿勢が「以前よりの友人達との間柄を察してくれている」という配慮からよるものだと思っていた。
だから教室内において二人が会話をする時は、大抵の場合ナギサからホノカへ声をかける事になり、こうして彼女から声をかけてくる事は珍しい事でもあった。
頭に浮かんだ興味が死に体同然だったナギサの身体に僅かな活力を与え、彼女はゆっくりと声の主の姿を求めて瞼を開く。
半目状態のナギサの目が、ホノカの差し出した手にが握っている二枚の紙切れを捉える。
教室でホノカに声を掛けられた事と、彼女が手にしている物への興味が、脳内に巣くうXやYといった意味不明な記号を駆逐し、ナギサの気力が戻ってきた。
「なにそれ?」
自律稼働が可能になるほど気力を回復させたナギサは、まるで見たことの無い餌を与えられた犬の様に、親友の手に顔を近づけて差し出された紙を見つめた。
紙は葉書を半分にした程の物で、その表面には何か文字が印刷されている。
ナギサは腰を浮かせて鼻が紙に触れる程までに顔を近づけると、その文字を必至に読みにかかる。
別段そこまで近づける必要は無いのだが、親友の期待を裏切らぬリアクションにホノカは嬉しそうに表情を崩している。
「んと……北真館トーナメント入場チケット……って、凄いじゃん! どうしたのこれ?」
全ての文字を読み終えた時、なぎさは興奮に顔を紅潮させて立ち上がると、眼前のチケットを手にニコニコと微笑んでいるホノカの顔を期待に満ちた表情で見つめた。
ラクロスと同じ程に格闘技が好きなナギサにとって、目の前のチケットは正に垂涎のアイテムだ。
前売りが完売した今、特殊なルートを介さねば入手困難なチケットが文字通り目の前にぶら下がっている現状に、ナギサは極度の興奮に陥り、脳内に分泌されたエンドルフィンは彼女の思考能力を削ぎ落とし、既にその入手先をホノカが述べているのも忘れさせた。
「だから〜お婆ちゃんから貰ったんだよ。それにしても……クスっ、ナギサ嬉しそうだね」
チケットを自分の胸に押しつける様に抱いたホノカが身を乗り出す。
無意識に手を伸ばしたナギサだが、彼女の手はチケットに触れる事なく空を切る。
だがその代わりに、ナギサの手をホノカの手が包み込むようにして握りしめると、二人の顔は互いの息がかかるほどに近づいていた。
「あ……」
ナギサが思わず声を上げたのは、親友の顔が近づいた為ではなく、チケットに触れることが出来なかった為だ。
その事実に気が付いたホノカは表情にこそ現さなかったが、内心少しムッとして、無頓着な親友に対する悪戯を思いついた。
「ねぇ……これ欲しい?」
口元をを歪めながら目を細めて尋ねるホノカに、ナギサはただ無言で頷いた。
「どーしよっかなぁ〜」
手を解き視線を逸らして手にしたチケットを宙で泳がせると、ナギサの顔がリモコン仕立ての玩具の様に釣られて動く。
「ホノカお願いっ私長田弘のファンなのっ! FAWのレスラーにして北真館のトーナメントに挑む漢気! プロテインに頼らずにナチュラルに造り上げたあの肉体が強力無比な北真館空手に何処まで通じるか気になって仕方がなかったのっ。あ、でもお小遣いあんまし残ってないから、出来ればその……安く譲ってもらえないかな?」
どうやらナギサにとって、ゲキドラーゴの肉体は不自然な物として映っていた様だ――それはともかく、まるで神頼みをする様に両手を合わせて必至の表情でホノカを見つめるナギサ。
「それじゃね……私にキスしてくれたら、このチケットあ げ る」
ホノカは長く伸びた髪の毛を手で掻き上げてから、そっと顔をナギサの耳元へ寄せて囀る様に呟いた。
「何だ〜キスくらい幾らでも……って、えぇぇぇぇっ! 嘘、ちょっとやだ、ホノカってば冗談ばっか〜あはははははは」
ホノカの言葉の意味にやっと気が付いたナギサは、自分達が居る場所が教室だという事も忘れて、素っ頓狂な声を上げて後ずさった。
がさつな性格と男勝りな運動量で気が付かない者が多いが、その実ナギサの内心はしっかりと乙女ちっくであり、キスという不慣れな単語を自分で発したという事実だけで、彼女の顔面に存在する毛細血管は活発化している。
ナギサの突然の行動に、教室中の生徒達の視線が何事かと集中する。
「あ、あははは〜何でもないです〜」
紅潮したまま照れ笑いを浮かべて必至に誤魔化しているナギサの姿に満足したのか、ホノカはニッコリ笑って彼女の手を取り、そのチケットを掴ませた。
「冗談言ってごめんね。はいこれ」
「え? これ貰って良いの? 本当に?」
恐る恐る……といった具合に上目遣いで尋ねるナギサ。
「うん。元々ナギサにあげる為に持ってきたんだしね」
ホノカがそう応じると、ナギサはパッと笑顔を咲かせ――
「ありがとうっ!」
――と両手で彼女の手を力一杯握りしめた。
そんな彼女に、ホノカも心底嬉しそうにニッコリと笑顔を返す。
そんなわけで美墨ナギサは偉くご機嫌だった。
手にしたチケットを見つめる顔には自然と笑顔が滲み出ており、お昼時の弁当箱を空ける直前に見せる笑顔よりも輝いている。
そしてそんな彼女を見つめる雪城ホノカもまた、えらくご機嫌だった。
彼女にとって無価値なチケットも、ナギサに笑顔をもたらし喜ばせるという点においては、非常に価値のあるアイテムだった。
そう、彼女――雪城ホノカは、クラスメートであり親友であり、そして戦友でもある美墨ナギサの事が大好きな少女だった。
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