朝は必ず訪れる。
この悪魔に魅入られた街、アーカムシティとて例外ではない。
ブラインドの隙間から差し込む朝日に、目を細めて俺は上半身を起こす。
ベッドの脇に置いてあった灰皿に、まだ半分ほど残したままその先を揉み消された煙草を見つけると、昨夜寝る直前までくわえていた感触が唇に蘇る。
これがパツキンボインボインでフェロモンがどっぱどっぱ出ている女――そうだなぁ、あの孤児院を兼ねた教会に住むシスターの唇であれば、俺の生活も彩りが出るってものだが、生憎現実はそんな甘っちょろいものじゃぁない。
こちとら暑苦しい程に逞しき男共と武道一筋の青春を過ごし、畳と汗の臭いを嗅いで今まで生きてきたんだ。
女の体臭なんざ、お袋の乳を飲んでいた頃からすっかり忘れている。
朝一番でいきなり鬱な気分になったが、吸いかけの煙草をとって口にくわえると、それだけで何だか気分が楽になってきた。
どうやら俺の身体はすっかりジャンキーになっちまったようだ。
合法とは言え、煙草だってドラッグの一種には違いない。
武道を嗜む身としてはやはり慎んだ方がいいのだろうか? ――そんな考えが頭に浮かぶが、それが不可能である事も自分ではよく判っている。
諦めて本能の欲求に従い、同じキャビネットの上に有った安物のライターで灯をともすと、新品の煙草では味わえない何とも貧乏くさい馴染みの味が肺の中に充満した。
「ふぅ……」
肺の中に溜まった煙を、二酸化炭素と共に吐き出すと、自分の身体を動かすのに必要な活力が湧いてきた。
うむ。やはり煙草は俺の原動力なり。
ベッドから音を立てずに降りて部屋の中央へ静かに移動。
煙草の煙が、ブラインドの隙間から差し込む光の筋を浮き上がらせる中、部屋の中央に立ち目を閉じた。
胆に力を込め、自然な流れで正拳を打つ。
何もない宙に、右、左と連続して拳を繰り出す。
その回数を何度繰り返しただろう。二百回くらいかな? 真面目に数は数えてないからよく判らないが、適当に数をこなす内に、やがて全身から汗が迸る。
軸足を出来るだけ動かさずに上段蹴りを、左右交互に出し、次いで踊るようにワンツーのジャブから回し蹴りへのコンビネーションを放つ。
「……うーん、こんなものかなぁ?」
ものぐさな自分にしては、真面目にやっていると思う。
こんな事が自分の仕事に役立つと言えば立つし、そうでないと言えばそうでないかもしれない。
もしかしたら、自分が毎朝行っている習慣じみた行為は、全くの無駄かもしれない。
それでも俺は止める気にはならなかった。
俺の拳は彼等に対して無力かもしれないが、この拳を今でも維持する事は俺が俺である為の、この街で俺が生きて行く為に必要な事なんだ。
「さてと……」
ベッドとタンス、そしてテーブルとイスが一組しか無い簡素な部屋。
無論お世辞にも綺麗とは言えない乱雑な部屋にあって、壁に貼られた写真と賞状の周囲だけは整頓されている。
そしてその写真の横に吊り下げられているのは白い胴着と黒い帯。
それらに刺繍された”真神館”の文字。
日本語はあまり詳しくないが、この三文字は物心ついた時から知っている。
そしてその文字が刻まれた黒い帯をまとう為に、世界中で幾人もの男達が、血反吐を吐き、地獄にも通ずる苦行にその身を投じている。
写真に写っているのは、かつてこの街に存在した道場。
その中央のやや右に、若き日の自分の姿が見て取れる。
周囲に居る仲間達。
所謂同じ釜のメシを食った仲――苦行を共に進み、互いを鍛え有った仲間達。
俺は毎朝続けている簡単な鍛錬を終えると、その写真と胴着に向かって頭を下げる。
物に神が宿るというのは、日本人的な気質であり、俺自身にもそれを信じているわけではない。
だがこの古くさい胴着は紛れもない、過去の自分がその場に居た証であり、そこに神ではなくとも、仲間達の絆の様なものを感じ取る事は出来る。
だから俺は毎朝、仲間達に礼をするんだ。
組み手の前にやっていたように。
シャワーを浴びて汗を流すと、頭髪や髭の処理は程々にして着慣れた制服に腕を通す。
「そんじゃ行きますかね〜。ストーン君は時間に五月蠅いからなぁ」
頭を掻いて帽子を被り直すと、面倒くさそうに玄関を出た。
ボロアパートのエントランスを潜り外へ出る。
見上げた空は、綺麗な青空だ。
アメリカ全土でも、もっとも高い犯罪発生率を誇るこの街から見上げても、空は他と変わらぬ青さを誇っている。
視線を戻す。
こんな街でも、人々は活気に溢れている。
そう、この街――アーカムシティは、どれほどの驚異や恐怖、そして危険が潜んでいようとも、そこに住まう人々に活気を与える活力に満ちている。
そして俺はこの街のささやかな治安を守る警察職員。
人の手をもって、人ならざるモノの驚異から、この街の平和を守る絶望的な仕事を生業にしている因果な男だ。
だがそれでも良い。
俺もこの街が好きだ。
やれる事を、やれる様にやる。
それだけで十分だ。
難しい事は上司と、正義の味方に任せて、俺は俺のやれる正義を行おう。
もっとも俺のこういう態度が、ストーンの様な熱血ポリスマンには許せないのだろうが、自分の器を知るのも武人として大事な事だ。
俺の名はネス。
覇道財閥の援助を受けてこのアーカムシティの治安を維持する警察の警部をやっている。
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■アーカム大作戦(仮) |
定時ギリギリに出所したネスは、部下であり相棒のストーンを伴い、いつもの様にパトカー(覇道財閥の援助により装甲車として改造されている特注車だ)でパトロールをしていた。
ハンドルを握っているストーンは相変わらず、やる気の無い上司に正義のあり方を説いているが、彼の説教が馬の耳に念仏である事は語るまでもない。
ネスにとっては、自分の身に余る事は給料の範疇外であり、自分の命を危険に晒してまで他人を守る必要は無いと考えている。
目先の正義に囚われて死んでしまえばそれまでであるが、生きてさえいれば別の正義を行う事ができると信じているからだ。
だからといって正義の理想論を語るストーンを煙たがっているわけではない。
ネスは彼の実直な部分はとても好きだった。
自分には無い真っ直ぐな――馬鹿正直な性格は、彼が当の昔に何処かへ忘れてきたものであり、それを羨ましいと思うことすらある。
ストーンの言葉をBGM代わりに聞き流しつつ、パトカーの窓から街並みを眺める。
高さこそ及ばぬ物の、マンハッタンにも劣らぬ見事な近代的な建物と、古来からの石や煉瓦で作られた古い建物が並ぶ街が見て取れる
急速な発展・開発による新しい建物と、モダンな雰囲気が漂う従来の古き建物が渾然一体となり、現在のアーカムシティを形成している。
この街で最も高い建築物は、市の中心部にあるミスカトニック大学の時計塔で、石造りの建造物としては異常とも思える200mもの高さを誇る。
その尖塔の頂きには直径約20mもある巨大な時計が、この街に住む全ての者達に時を告げている。
ふとネスが時計塔で時刻を確認すると、間もなく正午を迎えようとしていた。
「あ〜ストーン君。そろそろメシにしないか?」
「は? 昼食でありますか?」
「そうそうランチ。給料日前だからさ……今日は吉野屋が良いなぁ」
「はぁ……」
ストーンが上司のやる気のなさに溜め息を付きながらも、車をメインストリート沿いにある吉野屋へと向かわせた時、緊急を伝える連絡が無線で送られてきた。
血気盛んに現場へと急行するストーンを見て、今度はネスが溜め息を付いていた。
現場はアーカムの中央を外れた倉庫が立ち並ぶ人気の少ない場所だった。
ネス達が現場に着くと、既に立入禁止のテープが引かれた向こう側で、何名もの同僚達が忙しなく周囲を検分していた。
パトカーを止めてKeepOutと書かれたテープを潜って事件現場へと入る。
その瞬間、二人の鼻が血の臭い嗅ぎ取った。
今だ直接の現場にたどり着いていないと言うのに、これだけハッキリと死臭が漂ってくるのは、明かな異常事態だ。
ストーンはともかく、ネスも珍しく表情を引き締めて先を進み、現場である倉庫の中へと入る。
「!」
「うっ……」
ネスは煙草を口から落とし、ストーンは思わず両手で口を塞いだ。
倉庫の中には数名の男が倒れていた。
仰向けになっている者、うつ伏せで倒れている者など様々だが、彼等に共通しているのは全員が銃やマシンガンで武装している事と、血で出来た水たまりの上に横たわっている事、そして全員が事切れている事だ。
白かったと思われる壁には、無数の返り血が付着しており、事件の凄惨さを物語っている。
そして何より二人を驚かせたのは、倒れている男達が、全員頭部を黒いマスクで覆い隠している事だった。
「ネス警部! こ、これは……?」
「あちゃぁ〜……こりゃまずいなぁ。まずいよ〜。あ、ちょっと」
馴染みの鑑識に声を掛けると、先刻この隣の倉庫に、その持ち主が訪れた時、この場から血が流れ出している事に気が付き、警察へ通報してきたらしい。
「……」
ネスが折り重なって倒れている死体を見て考えを巡らせると、周囲から同僚の乗ったパトカーのサイレンが近づいてきた。
だが、そんな音も彼の耳には何処か遠い世界の事の様に思え、目の前の惨劇が意味する事をただ呆然と考えていた。
「ブラックロッジの戦闘員が殺された……」
ネスの横でストーンが震える声で呟いた。
ブラックロッジ――それこそが、このアーカムシティを脅かす災厄にして、実体不明の秘密組織。
その首謀者であるマスターテリオンの名は広く伝わっているが、その正体や組織の全貌、目的は一切不明。
言える事は、奴等が非常識な程進んだ科学知識や魔導知識を有して、何らかの地下活動を行っているという事だけだ。
この街で奴等に喧嘩を売る事が出来るのは、街の事実上の権力者である覇道財閥と、その庇護を受けている治安警察、そして正義の味方――白き守護天使だけだ。
しかし治安警察はその組織の特性上、彼等に対して自ら先制攻撃する事は皆無であるし、覇道財閥の私設軍は余程の事が無い限り介入してこない。
たとえ先制攻撃を仕掛ける事が合ったにせよ、同じ覇道に仕える組織である以上、こんな殺人事件まがいな事はしないだろう。
そして残るは――
「どう思う?」
現場から署に戻る途上、車中でネスがストーンに話しかける。
「ん〜〜〜、どうもこうも、現場には一ダースの死体が有っただけで、目撃者は今のところゼロだという事ですし……ただ死体は全員、額と心臓に二発ずつ喰らってました。相当の凄腕ではないかと」
「なるほどねぇ……だが、凄腕ってだけでアイツらに喧嘩をふっかけるか?」
「しかし周囲に流れ弾すら飛んでないんですよ? 周囲には弾痕が無く、ブラックロッジの連中も発砲した形跡が無い。これが意味するところは……犯人は一発も外さずに十二名もの人間を倒したという事です。これだけでも十分に異常ですが、ブラックロッジ側が一発の銃弾も放っていない事はもっと異常です。これは完全な奇襲されたか、もしくは……」
「打つ暇すら与えなかったか?」
「……」
ストーンは黙って頷いた。
そんな事が出来るものだろうか?
被害者の戦闘員達はみな銃を剥き身で構えており、武装している十二人もの人間を文字通り瞬殺する事など、人間業ではない。
死者が一二名、打ち込まれた弾丸は一人あたり四発であり、外した弾はただの一発もないという現状は、単純に考えても使用された弾丸はきっかり四八発だ。
という事は、武装した戦闘員達が反撃をする間もなく、四八発の弾丸を無駄なく撃ち込んだ事になる。
当然リロード時間があったようには思えないので、犯人が複数でない限り、得物は弾数の多い自動小銃やマシンガンとなるだろう。
だが、フルオートで弾丸を射出する様な得物で、狙撃のような正確無比な射撃が出来るはずがないし、逆にこれだけの腕前を持つ人間が複数居る事も信じがたい。
ならば話は早い、犯人は――人間じゃないんだろう。
他の街ならいざ知らず、このアーカムシティに住む者なら「人外の存在」というモノを認めなければ生きてはゆけない。
奇怪な出来事が平然と起こる街。
それがアーカムシティなのだ。
「もしかして正義の味方が?」
同じ答えに行き着いたのか、ストーンが少し声を潜めて自分の意見を述べた。
その存在こそが、彼等ブラックロッジに正面切って啖呵が切れる唯一の存在だ。
声を潜めたのは、自分でその答えを信じては居ない――彼なりの慎みなのだろう。
「馬鹿言いなさんな。我らが守護天使殿があんな無骨な武器使った事あるか?」
ネスが現場に残されていたマシンガン――ドイツ製のシュマイザーであるから戦闘員達の所有物だろう――を思い浮かべて苦笑しながら反論する。
アーカムシティ住民の希望の光――白き守護天使は、今まで鉛弾など只の一度も使った事はない。
「では?」
「さぁ? 別の”人間じゃない何者”か……そんなところだろうな」
「ネス警部、それでは何の解決にもなりもません!」
「おいおい、しっかり前を見て運転してくれよ? それになぁ、そんな熱くなってもしょうがないと思うぞ。俺が思うところ、今回の事件に関して俺達の出番は無いよ、うん。どうせ覇道の方からお達しが……」
ネスの言葉を遮る様に無線が入る。
「はい……あ〜やっぱそうですか? いえ、こっちの話しです。はいはい了解〜」
無線のマイクを置いてストーンに向き直ると、ネスは帽子をいじりながら口を開いた。
「あー、覇道の方で内々に処理するらしいから手を引けって。被害者の遺体と、それから遺留品も向こうで残らず回収するってさ。はいはいお終いお終い」
「け、警部!!」
騒ぎ捲し立てるストーンの声を無視して、ネスはすっかり冷えたコーヒーの缶を持って口に運ぶ。
ストーンの言いたいことはネスとて判る。
彼とてこの街の平和を望む人間の一人なのだ。
だが、幾ら自分を鍛えたところでその力が及ばぬ相手も存在するのだ。
「あんな事件にね、付き合ってたら命が幾つ有っても足りないっつーの。こっちはこっちの身で対処出来る事をやらせてもらうさ。それよりもさ、いい加減メシにしないか?」
幾ら日本の武道を習っているとはいえ、彼等の美徳である自決攻撃をするのは、生粋のアメリカ人である彼の望むことではない。
かくして今日もネスは、不満そうに鼻を膨らませているストーンを労り、自分でもこなせるひたくり犯や痴漢等の小悪を追う事に精を出す事にするのだった。
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§ |
アーカムシティの実質的な創立者である覇道鋼造。
このに住む者――いや、アメリカ全土及び日本においても、彼の名を知らぬ者は居ないだろう。
覇道財閥の創始者である覇道鋼造が遠く日本より移民として渡米したのが、今から半世紀ほどの事。
その後テキサスで手つかずだった新たな大金脈を発見し一躍超富豪となった彼が、単なる田舎町だったこの街を合衆国随一豊かな街へと創り変えた。
それだけではない。
当時悪化の一途を辿っていた世界情勢――こと日米関係を改善に導いたのも、彼と彼の資産によるところが大きい。
ドイツのハンガリー侵攻によって始まった欧州での戦争に、日米が巻き込まれずに済んだのも、彼の尽力による賜物だ。
二度目の世界大戦へ発展すると思われていた戦争は、欧州限定における争いとなり、それと同時に発生した中国では共産党と国民党との間で内戦が勃発。
大きな戦争に巻き込まれずに済んだ日米は、共に物資を売りさばき特需景気を迎える事となる。
だがその結果として、欧州はドイツが支配する新たな巨大帝国となり、ソ連と中国では泥沼の内戦状態、アジアにおける欧州国家の植民地が一斉に独立という、実に慌ただしい世界情勢と化す事になった。
支配力を強化し強大な帝国を築き上げた大ドイツ。
中国の内戦で外貨を稼ぎ、またアジアの植民地解放を援助した事でアジアの盟主となった日本。
そして一切の戦争に荷担せず、独自の政策を推し進めて国力の温存に務めたアメリカ。
それが1950年の地球における3大勢力であり、それらの均衡した力でもって世界は一応の安定を迎えている。
だが欧州での戦争が単なる休戦状態に過ぎない事は、世界中の誰もが知っている事であり、カナダへと逃れた英国の王室及び政府機関と首脳陣は未だに徹底抗戦の構えを解いていない。
いずれその火は大西洋を越えて北アメリカ大陸へと飛び火するだろう――大方の人々の見解がそうだった。
そんな張りつめた糸の様に不安定な世界において、人々は精一杯生きている。
だが、ことアーカムに住まう者達の心配事は、世界情勢などではなく、いつ暴れ出すか知れぬ巨大な破壊ロボと、その手先である戦闘員達のテロ活動だ。
この時代における科学技術を遙かに越えたテクノロジーを有する謎の組織ブラックロッジ――その目的こそ不明だが、彼等の戦闘力は米国の連邦政府ですらおいそれと手が出せるものではない。
もっとも連邦政府が軍を出さないのは、彼等ブラックロッジの活動が、ほぼアーカムの周辺に限定されている事と、マサチューセッツの州軍よりも強大な戦闘力を誇る、覇道の私設軍が対処に当たっているからだ。
それだけ強大な覇道とブラックロッジ――二つの組織の板挟みにあっても、アーカムの人々は力強く生きている。
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§ |
「はぁ……はぁ……っ」
男が息を切らせて走っている。
口からは涎がだらしなく糸を引いて垂れ、その目は虚ろだ。
それでも男は走っている。
まるでその男の呼吸と靴音を消し去るように、雨が急速にその勢いを増し雨音が激しくなる。
アーカムシティの中央を流れるミスカトニック川を渡る石造りの古い橋を駆け抜けていたが、やがてその中程で立ち止まると、柵に両手をついて呼吸を整える。
「畜生……」
男は黒いうねりを見つめながら唸るように呟いた。
夕刻から降り注いだ雨の影響で水位を増したミスカトニック川は、その勢いを増し黒い濁流となって街を縦断している。
「畜生……何だって言うんだ」
男はもう一度呟く。
早くこの場から逃げなければいけない。
現在居る場所は、遮る物も無く、進む方向も限定され、逃げる者にとっては酷く不快な場所だ。
生物としての危機感が警鐘をならしている。
だが、肉体的限界へと達している身体は、その警告を無視してその場へ居座る続ける事を要求していた。
先程までは全てが上手く行っていた。
己の限界を悟りまっとうな道を進む事を諦め、普通ではない神に縋る事で手に入れた新たな秩序の中、彼はその力を強め今の地位へと辿り着いた。
彼の一言で数十名の部下が動き、彼等はどの様な非情な事をもやってのける。
部下達の手柄を自分の物として上に報告し、その地位を更に上げて行く。
そのロジックを積み重ねた結果、あと少しで彼の夢であるブラックロッジ幹部の椅子に辿り着くはずだった。
だが――今の彼にとって、その夢は遠く儚いものとなった。
昼にテロ活動を命じた部下達が一人残らず殺されたという報告が入ってからというもの、今度は彼自身が何者かに付け狙われている。
身体にまとわりつく殺気が、徐々に自分を追い込んで行く――そんな感覚が、彼の精神を極限まで削って行く。
やがて殺気は、物理的な衝撃となって男を襲う。
突如背中に受けた強い衝撃で、男は数メートルの距離を吹き飛んだ。
その一撃で背骨に異常をきたしたのだろう、吹き飛んだ男は身体を起こす事もなく、その場で苦痛に顔を歪める事しかできない。
「鬼ごっこはお終いか?」
低く淡々とした声に、男は必至で声の方向へと顔を向ける。
暗闇の中、降り注ぐ雨を気にせずに、漆黒のコートに身を包んだ体躯の小さな男が立っていた。
身長は150cmかそこらだろうか? この国でなくとも小柄と言えるこの男が、俺を吹き飛ばしたというのか? ――男は信じられなかった。
だが、そんな疑問は何の意味も持たない。
彼は現状を唯一救う事が可能であろう、自分の所属する組織の名を口にする。
「……き、貴様っ。俺をブラックロッジのモンだって」
痛みに顔を歪めながら声を絞り出す。
この街の者であれば、覇道に直接仕えている者でない限り、たとえ警察官であろうとブラックロッジの看板に刃向かう者はいない。
だが、小男はさもつまらなそうな表情を浮かべるだけで、物怖じする事は無かった。
「もう良いか? んじゃ、死んでくれ」
180cmはあろうブラックロッジの男の首根っこを、その小男は片手で掴み上げると、そのまま野球のピッチングの様な気軽さで放り投げた。
「っ!」
彼は自分の人生を呪う間もなく、ミスカトニック川の黒き濁流へと落ちていった。
「……」
男が落ちる様を見届けると、黒いコートを身に纏った者はそのまま振り向く事もなく歩き去って行く。
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§ |
アーカムシティでは、深夜の街中へ出る事は、自殺願望者のする事だと認識されている。
勿論それはごく普通の一般市民にとっての常識であり、治安警察という組織の一員たるネスにとっては当てはまらない。
彼は給料分はその肩書きに恥じない仕事をする者であり、武道を歩み続けた者としての実力も兼ね備えている。
その日、珍しく残業――ストーンに無理矢理付き合わされた――をした彼が署を出て自分のアパートへ向かった時、すでに時刻は午前二時を回っていた。
夕方から降った雨は既に上がっており、見上げれば夜空に月明かりを受けて青白く輝くミスカトニック大学の時計塔が見えた。
街のランドマークとも言えるあの尖塔も、深夜に見ると薄気味悪い姿に映る。
ミスカトニック大学――覇道財閥のバックアップもあって、このマサチューセッツ州においては最大規模を誇る総合大学であり、その名は世界中に轟いている。
とりわけ最も名が高いのが、「魔術」での分野だ。
この大学には正式学科として「魔術」が存在しており、こと魔術に関する知識や抱えている物品は世界最大の規模を誇っている。
特に大学図書館の奥――選ばれし者でなければ閲覧はおろか入室さえ出来ない魔導図書館には、有りとあらゆる魔導署が補完されていると言う。
その中でも有名なのが、世界でも五冊しか現存しないと言われている「ネクロノミコン」だ。
原題は「アル・アジフ」と言い、西暦180年頃にアラブの狂える詩人アブドル=アルアズラットによって執筆された禁断の魔導書であり、ミスカトニック大学に存在するネクロノミコンはそのラテン語翻訳版だ。
そこには人間が知り得ない外宇宙の情報や、知られざる人外の存在や、忌むべき神々とその眷属、彼等に対する警鐘が記されていると言う。
ネスは月明かりに浮かぶ時計塔を見て思う。
あんな大学があるからこそ、この街は災厄に見舞われているんじゃないかと。
しかしそれでもこの街には、人々を引きつける魅力――魔力と言ってもいいだろう――がある。
他ならぬネスもそうなのだ。
あの日、ブラックロッジのテロ活動で道場ごと仲間を失ったあの日以来もこの街に住まい、こうして警察の制服を着ている事も、全てはこの街に惹かれているからなのだ。
ネスはいつものように面倒くさそうに頭を掻くと、自分のアパートへ向けて歩き出す。
月明かりがアスファルトへと落とす自分の影をぼんやり見つめながら暫く進むと、ふと地面に自分以外の何者かの影が現れ、次いでネスの首筋に殺気が走る。
咄嗟にその場にしゃがみ込むと、つい先刻までネスの首があった空間を青白い光が走った。
姿勢を低くしたネスは、間髪入れずに振り向きざまに下段の回し蹴りを放つ。
決して太くは無いが鍛え抜かれたネスの足が相手のむこう臑を捉えた。
「〜〜〜〜っっ!」
声にならない悲鳴を上げて、ネスの背後から襲いかかって来た暴漢は姿勢を崩す。
一撃を見舞ったネスは、そのまま面倒臭そうな表情で、一歩踏み込むと暴漢の鳩尾へ正拳を叩き込んだ。
その一撃が完璧に決まった事は、拳を伝わる衝撃が教えてくれた。
暴漢は泡を吹いてその場に倒れており、手にしていた凶器――刃渡り30cmはあろうコンバットナイフが地面に落ちて月明かりを反射させている。
「やれやれ……え〜と、無事か? もしもーし?」
頭を面倒くさそうに掻きながら、ネスは声をかけて男に近づくが、完全にのびているらしく、ぴくぴくと身体を痙攣させているだけで応答はない。
「うーん、人間相手ならこの拳も役に立つんだがなぁ……」
ネスはそう呟くと、面倒くさげに周囲を見回し、公衆電話から自分の職場へと連絡を入れた。
五分もしない内にパトカーが現場に辿り着き、ネスはとっ捕まえた暴漢を担当官に引き渡すと「はいご苦労さん」と欠伸交じりに言い残してその場を後にした。
そして彼がアパートへ戻ると、そのエントランスに人影が蹲っている事に気が付いた。
いや、蹲っている様に見えたのは、身体がことのほか小さいからであり、その者は単にエントランスの階段に腰を下ろしていただけだった。
その者がネスの接近に気が付いたのか、顔を上げて立ち上がる。
立ち上がった人影を、雲から顔を覗かせた月が照らし出し、浮かび上がったその人間が年端もゆかぬ少女だという事が判ったのだ。
年の頃は10歳前後だろうか? 肩口で切りそろえられたショートヘアはプラチナの様な輝き共に、彼女が歩く度に流れる様に揺れる。
彼女の小さな身体を包む黒い衣装は、彼女をまるで人形の様に思わせる。
「……おいおい」
ネスは驚くと同時に呆れた。
アーカムの夜は完全は無法地帯だ。
その危険極まりない場所に、彼女はただ一人で暢気に座っていた。
「……お嬢ちゃん、こんな時間に一人でいるなんて危ないぞ」
職業柄からか、それとも根の優しさからか、ネスは――彼にしては精一杯――優しげな表情と声色を用いて少女へと近づく。
だが、少女は不安の欠片も見られない無邪気な笑顔を浮かべて口を開いた。
「こんばんは」
彼女の口から出たのは、人々が夜分に出会った場合にかわすごく普通の挨拶。
だからこそ余計、この街のこの時分には似つかわしくない。
呆けるネスに、近づいた少女は黙ったままのネスの顔を下から見上げるように覗き込み……にっこりと微笑みながら、彼の上着をその小さな手で掴み――
「あの……えっと……私、実は……あなたが……あなたが好きなんですっ!」
――と、とんでない事を宣った。
一瞬何を言われたのか判らなかったが、彼の脳味噌が彼女の言葉を認識した瞬間、彼はくわえていた煙草を落とし、次の瞬間大声を上げた。
「な、何ですとぉぉぉぉっ!」
夜中のアーカムに、ネスの叫び声が木霊し、遠くで犬が一斉に鳴き始めた。
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