#9【十二姉妹物語 〜防空(乙型)駆逐艦秋月級〜】

by ふれでぃ様(+ヨグ)


乙型駆逐艦「秋月型」 (新造時)
基準排水量:2701t 全長:134.2m 最大幅:11.6m 喫水:4.2m 出力:52000hp 速力:33kt 航続距離:8000浬/18kt
兵装:10cm連装高角砲×4 25mm連装機関銃×2 61cm4連装魚雷発射管x1 (改装後・後期型は増設機銃多数)
乗員:263名 同型艦:12隻


『姉妹』……同型の艦船がこう呼ばれるときもある。
そして、姉妹の数だけ物語が存在する。
鏡写しのように似た経歴を歩んだ『伊勢』と『日向』。
幸運と悲運を分けあった『翔鶴』と『瑞鶴』。
そして、この姉妹にも運命的な何かを感じさせられずにはいられない。

駆逐艦『涼月』は1942年12月29日、『冬月』は1944年5月25日にそれぞれ秋月型駆逐艦の三女と八女として生を受けた。
軽巡洋艦『夕張』に匹敵する超駆逐艦級の船体に日本海軍最高の対空砲、通称『長10サンチ砲』を八門搭載。
そう、彼女たちは機動部隊を護る盾としての使命と期待を一身に受け誕生した。
事実、長姉『秋月』は初陣にて二機の大型爆撃機を屠る戦果を上げている。
アメリカ側も『テルヅキ』タイプを非常な強敵として迂闊に近付くことを禁じたほどだった。
(アメリカは終戦までネームシップを次女『照月』と信じていた)

だが……『秋月』が誕生した時点で世界最強を豪語した南雲機動部隊はその半ば以上を喪っていた。
1942年、ガダルカナルを巡る攻防にも実質的に間に合ったのは『秋月』と次女『照月』だけだった。
そのうち『照月』は潜水艦の雷撃によって大破停止、『涼月』の誕生一週間前に自沈して果てた。

1943年は空母による戦闘なく過ぎ去った。
だが、転用された空母航空隊は容赦なく消耗、過酷な撤退戦の中で米巡洋艦に叩きのめされ『新月』が鉄底の海に呑まれた。

1944年6月、絶対防衛ライン、マリアナ諸島を死守すべくマリアナに小沢機動部隊が出撃。
しかし、絶望的な錬度とテクノロジーの差の前に惨敗。
しかも、その中に『涼月』と『冬月』の姿はなかった。
生まれたばかりの『冬月』は訓練中。
『涼月』は艦首と艦尾を吹き飛ばされるほどの大損害を受けドックで傷を癒していた。

同10月、フィリピンにて聯合艦隊最後の組織的作戦、レイテ沖海戦が生起。
最後の機動部隊として『瑞鶴』以下が出撃。
だが、またしても『涼月』と『冬月』はその使命を果たすどころか、その機会さえも与えられなかった。
二隻は、それぞれ潜水艦により艦首を吹き飛ばされ、呉に留まっていたのだから。
そうして機動部隊を護り、戦場に赴く夢は断たれた。
そして、もう一つ。
小沢機動部隊に随伴した姉妹、『秋月』『初月』『若月』『霜月』は唯の一隻も南の海から還らなかった。

故に、残された『涼月』と『冬月』が第四十一駆逐隊を構成することとなったのは当然の成り行きと言えるだろう。
そして、軽巡洋艦『矢矧』を旗艦とする第二水雷戦隊に編入される。
その理由も簡潔だった。
最早、艦隊型駆逐艦が構成する戦隊はこれしか残されていないのだから。

1945年、4月。
遂に聯合艦隊最後の出撃が行われる。
『涼月』『冬月』の姿もそこにあった。
目的地は沖縄、護るべきは巨艦『大和』。
そして、待ち受けるは2000機を越す米機動部隊。
……すなわち、絶望だった。

『冬月』は『大和』を間近で看取り、『涼月』は三度艦首を破壊され後進で敵潜の徘徊する海を戻った。
他に生き残ったのはかの幸運艦『雪風』と『初霜』のみ。

全ての艦隊が、最後の油が喪われた。
それは、艦隊を護るべき秋月型の存在意義の喪失と限りなく同義だったのかもしれない。
だが、それでも……
防空砲台と化した二隻はそれぞれP-51『ムスタング』とB-29『スーパーフォートレス』をその高角砲で叩き落している。
せめてもの、証明とでも言うかのように。

そして、太平洋戦争は終わった。
辛うじて生き残った艦は復員作業に当たった後にそれぞれの道を歩む。
ビキニに沈んだ『長門』『酒匂』、復興の資材へとその身を換えた『伊勢』『日向』。
そして賠償艦として引き渡された『雪風』。
秋月型の多数もその運命を甘受することになる。
だが、『涼月』と『冬月』の二隻には別の運命が与えられた。

北九州、若松港。
そのコンクリートの中に一組の姉妹が今も寄り添って眠っている。
安らかに、そして永遠に。







管理人ヨグより:
ふれでぃさんより秋月級防空駆逐艦のお話を投稿を頂きました。
感謝します。

さて秋月型防空駆逐艦ですが、彼女達のファンが多いのは、やはりその基本性能の高さと、スタイルの美しさによるものだと思います。
せっかくですので、私も少し彼女達姉妹の話を書きたいと思います。

秋月級――乙型駆逐艦は、機動部隊の防空直衛艦として設計され、初めて本格的に強化設計された対空兵装と、機動部隊に随伴できる長大な航続力を備え、さらには帝国海軍駆逐艦としてのアイデンティティとも言える雷装すら取り外し、全てのステータスを対空能力に振り分けた「直衛艦」という新艦種となる予定でした。
しかしそんな姉妹達は、その設計途中で用兵側からの強い要求によって設計が見直され、雷装を施されました。
秋月級の中央に場違いな風体ともとれる形で、一基だけ魚雷発射管が鎮座してるのはその為です。
(次弾装填装置付きなので、八発の魚雷を搭載します)
結局、雷装への拘りと、長年染みついた艦隊決戦思想と突撃気質が捨てきれない帝国海軍は、敵機から機動部隊を守る上では全く無用な雷装を直衛艦に盛り込んだのです。
(結果から言えば、秋月級が魚雷を放ったのは、ソロモン諸島におけるクラ湾夜戦にて四女「新月」が一度行っただけになります)
その結果、艦種も従来通り「駆逐艦」というカテゴリに属する形で建造がスタートします。
まず昭和一四年度マルヨン計画で予算が承認された最初の六隻が建造されるのを皮切りに、結果として一二隻建造されたわけですが、当初の計画では三九隻が作られる予定でした。
これは彼女達の持つ性能・性質が、後になってようやく認められたからに他ならないのですが、その大事さに気が付いたときは既に後の祭りです。
ミッドウェー海戦により、主力空母四隻を一挙に失う、取り返しの付かない大打撃を受け、守るべき存在の無くなった姉妹達は、その存在理由を失い半数以上が堕胎――つまり建造中止とさせられます。
無論資材不足なども大きな原因ですが、日本は自ら作り上げた機動部隊というシステムを昇華させる事が出来ずに居た事も、その大きな原因の一つだと言えます。

彼女達は機動部隊というシステムを、敵航空戦力から守るために産まれました。
機動部隊は、空母の集中運用という画期的な運用により、かつて無い程のシーパワーにおける決定打となったわけですが、その考案者である日本にはその防御用の防空艦が当初存在していなかったのです。
結果として、目測による従来の高角砲や機銃で迎撃するしかなく、その射撃精度は機銃門数が百門以上もある戦艦でさえ命中率はごく僅かだったと言います。
太平洋戦争のターニングポイントであるミッドウェー海戦において、世界最強の練度と攻撃力を誇った機動部隊を失った日本。
この頃の日本には近接信管といった最新テクノロジーも無く、その後活躍する三式弾でさえ完成してません。
しかしせめて、日本初の防空用に作られた長一〇センチ高角砲を搭載していた彼女達姉妹が揃って居てくれれば……と悔やんでも仕方有りませんが、長女の秋月が就役したのが、ミッドウェー海戦の1週間後、昭和一七年六月一三日というのは、皮肉以外の何者でもありません。
IFを語る事は滑稽ですが、もし彼女達姉妹が、開戦当時から機動部隊に随伴されていれば――予定通りの数が就役していれば、日本の機動部隊はより恐るべき存在になっていたでしょう。

可能性のお話はきりがないのでこの辺りで止めましょう。

防空駆逐艦として産まれた秋月級には、他の駆逐艦とは異なる部分が多々あります。
まずは兵装ですが、彼女達を語る上で外せないのが、新開発の六五口径九八式一〇センチ高角砲――通称「長一〇センチ砲」です。
六五口径という長い砲身が産み出す最大射程距離は、高度一万四七〇〇メートル、水平発射だと二万メートルに達し、半自動装填装置により発射速度は一門辺りで毎分一九発を可能としました。
長砲身であるから、射程距離が伸びる以外にも、弾速が速くなる効果を生むので、その分命中率も高くなります。
最初から対空兵器として設計されている為、砲身の向きを現す仰角は、マイナス一〇度から最大九〇度まで――つまり真上にも射撃を可能としています。
最大仰角での射撃でも、一万三千メートルまで射撃可能との事でしたので、性能上では高度一万メートルの成層圏を飛来してきたB29爆撃機にも届く事になります。
当時の標準的な対空火器である四〇口径一二.七センチ高角砲と比較して、最大射程で一.六倍、発射速度は一.四倍と遙かに上回る高性能を発揮します。
ちなみに、この優れた新型高角砲は、秋月級の主砲以外に、空母大鳳や軽巡大淀にも搭載されました。
尚、この新型高角砲に合わせて、それをコントロールする指揮装置も新型が作られ、九四式高射指揮装置として搭載されています。
この装置で敵機を捕捉すると、約四秒で搭載されている四基八門全ての砲火をコントロールし、射撃を開始する事が出来たと言います。
長一〇センチ砲以外の対空火器は、竣工当初こそ二連装九六式二五ミリ機銃が二基のみと、お世辞にも防空艦として相応しいとは言えませんでしたが、最終的には大小合わせて五〇門程度にまで増える事となります。
次に航続距離です。
長大な距離を進む機動部隊、その中核である空母を他の艦艇が守るわけですが、その中でも駆逐艦の航続距離は空母と比べて短く、三〜四日おきに燃料を補給しなければなりません。
故に直衛艦にも空母と同様の航続距離が求められるのは自然な成り行きですが、その為には大量の燃料を積み込む容積が必要になり、その分身体が大きくなるのも必然です。
秋月姉妹が日本の駆逐艦の中でとりわけ大きな身体をしているのは、装備の面だけではなく運用上の理由もあるのです。
更に防空艦として必要な「目」ですが、完成間もない二一号電探(レーダー)を優先的に装備しています。
これは元々戦艦や空母に装備する装備なので重さが〇.八四トンもありましたが、身体の大きな秋月級には問題ありませんでした。
尚、昭和一七年十月の南大平洋沖海戦時で、この電探を装備していた艦は、空母「翔鶴」「隼鷹」「飛鷹」、戦艦「榛名」「金剛」「武蔵」「伊勢」のみ。
そんな貴重とも言える装備を、秋月姉妹が優先装備されていたのは、機動部隊の直衛艦という立場によるものでしょう。

と言うわけで、最新の装備と高性能を与えられた秋月姉妹は、長砲身一〇センチ高角砲を連装で四基、更に約二〇門の機銃、そして四連装魚雷発射管を中央軸線上に配置し、そのシルエットは駆逐艦というより軽巡洋艦に近く、その機能美豊かなスマートな外観と共にデビューします。
実際、長女の秋月の姿を米軍が初めて認識したのが一九四二年、つまり昭和一七年九月二九日のブーゲンビル島近海でしたが、最初はそのシルエットと大きさから軽巡と誤認していました。
その姿を撮影した写真を分析した結果、新型の防空駆逐艦と判断し、ソロモン方面に展開している味方航空機に対して、うかつに近付かないよう警告を発しています。
その警告が出される前の事ですが、長女の秋月がトラック島からソロモンのショートランド島に向かった昭和一七年八月二七日、米軍のB17爆撃機の三機編隊が秋月を発見し水平爆撃による攻撃を仕掛けたが、新型の九四式高射指揮装置で捉えた彼女は、たちまち内二機を撃墜しました。
これは従来の一二.七センチ高角砲では届かない高度を飛行していたB17をも撃破可能とした事を意味しており、彼女の性能の高さが伺えます。
とまぁ、このように性能も外観に負けず素晴らしいものであった事が、より彼女達姉妹を人気者にしていると思います。

しかしその卓越した能力も、本来の目的に使用されて初めて有益である事は、人の世と同じ事。
サッカー選手に野球をやらせても意味がないのです。
彼女達姉妹は、昭和一七年に四隻、翌一八年に二隻が就役したましたが、その殆どが完成次第「駆逐艦」としてソロモンの地獄へと投入され、その結果僅か数ヶ月で沈んだ娘もあります。
本来の目的、つまり機動部隊の直衛として出撃できたのは、昭和一九年六月のマリアナ沖海戦と、十月のレイテ海戦だけでした。
しかもこの二つの海戦は、日本の機動部隊の能力が著しく低下していた時期であり、その結果も悲惨な物となってしまいました。

秋月姉妹が全部で一二隻である事は先にも申し上げましたが、全一二姉妹の名前は以下の通りです。
長女から順に、秋月、照月、涼月、初月、新月、若月、霜月、冬月、花月、春月、宵月、夏月となり、以下は建造中止となりました。
計画では花月が一二番艦、つまり末っ子の予定だったのですが、その他の艦の工事が遅れた為、実際に竣工――誕生順に並べると上の通りとなります。

戦時中に就役した新型艦である秋月級は、完成次第最前線へ投入された為、新しい艦が産まれた時には既に姉となる艦が沈んでいる事も有り、一二姉妹が揃った事は一度としてありません。
在籍数であれば同時六隻が最高で、修理や訓練期間等で戦力外の物を外せば、実際に戦列を共に出来た姉妹は四隻が最高でした。
尚、長女・秋月の建造日数が満二年を要したのに対し、末娘の花月では十ヶ月と半分以上に短縮されていますが、これは艦体構造や艤装の簡略化が大きな原因です。
(それでも対空兵装や電探装備は充実されているのです)

長女・秋月は、就役翌日から空母瑞鶴の護衛に当たり、そのまま休む間もなく輸送艦鎌倉丸の護衛に当てられ、帰国後にやっと一ヶ月の訓練期間を貰ったという、非常に慌ただしいデビューでした。
その後、彼女はすぐさまソロモンの消耗線へと駆り出され、十月二〇日の南太平洋海戦に参加し空襲で損傷してしまいます。
横須賀での修理後は、第一〇戦隊旗艦となりラバウルへ進出。
翌一八年の一月二〇日にショートランド島沖で被雷した為、トラック諸島で応急修理後に再び内地へ帰還しますが、その途上で応急処置が甘かったのか、キールが切断してしまい、艦体の後部だけが佐世保に帰投します。
実に波瀾万丈な生き様です。
さすがにこれだけの大損害ですので、今回の修理には時間がかかり、完成したのは翌一九年になりました。
そして同年六月一九日――彼女は姉妹の「初月」「若月」と第六一駆逐戦隊を編成し、旗艦「大鳳」の護衛として初めて機動部隊の直衛として本来の仕事に就く事になります。
しかし、このマリアナ沖海戦は、戦術面の失敗に加え、米軍の科学技術が日本の人員技量を凌駕した時期にあって大惨敗に終わります。
守るべき主である、旗艦「大鳳」も沈み、その乗員を救助した後、空母「瑞鶴」の護衛をしつつ内地へと帰還しました。
同年十月二五日――彼女にとっての命日がやって来ます。
レイテ海戦に参加した秋月は、囮となった小沢機動部隊に配備され、大空襲の中で奮闘。
そして主である空母「瑞鶴」を守るため、米潜水艦ハリバットの雷撃に己の身体を差し出してエンガノ岬沖にその生涯を閉じました。
(空爆による沈没説もあり)
享年二年と四ヶ月でありました。


さて、せっかくなので今度は妹達について補足しましょう。
ふれでぃさんが書いてくれた「涼月」は、秋月級の三女として、三菱長崎造船所で生を受けました。
姉妹達の中では最も長命であり、終戦まで生き残った数少ない帝国海軍艦艇存です。
彼女と同じ日に生まれた姉妹「初月」と共に、長女「秋月」が旗艦を務める(秋月姉妹四隻で編成される予定だった)第六一戦隊へと組み込まれます。
しかし同戦隊にて組み込まれる予定だった、姉「照月」が既に短い生涯(約三ヶ月)を終えており、予定通りに秋月姉妹四隻が揃うのは、妹「若月」の誕生を待つ事になります。
実は、涼月の妹「新月」も同戦隊へ組み込まれる予定でしたが、彼女もまたその名――天空に僅かな時間留まる新月の様に、就役後三ヶ月で沈んでしまっています。
涼月の初陣は昭和一八年三月二二日、航空部隊基地用部材を搭載した輸送任務であり、いきなり本来の使用目的とは異っている辺りが、当時の日本と連合艦隊の状況を物語っています。
その後戦艦「武蔵」の護衛を経て、輸送作戦と船団護衛に従事。
一九年の一月一六日に、ウェーク島からの輸送任務中に、敵潜水艦の雷撃を受け艦橋より先と艦尾を失います
艦体の半分近くを失ったにも関わらず、彼女は何とか沈没は免れ僚艦に曳航されて呉まで辿り着きました。
短時間で修復されたものの、十月一六日にはまたしても雷撃を受け再び艦首を失い、この怪我により彼女はレイテ海戦に参加出来なくなりました。
結果的にこの事が、彼女の命を長くしたものとも言えますが、安息の日は訪れる事はなく、翌年四月六日――連合艦隊最後の菊水一号作戦に、戦艦「大和」護衛で参加する事になりました。
そして米機動部隊の大空襲により、またしても艦体の半分をもぎ取られ操艦不能に陥ります。
沈没してもおかしくない被害でしたが、それでも彼女は超低速で後進し続け佐世保に奇跡の生還を果たします。
長女同様に凄まじい生き様です。
その後の顛末は、ふれでぃさんの述べた通り、妹の「冬月」と姉妹揃って若松港で眠っています。

先に出てきた「照月」についても少し書いておきましょうか。
一七年八月三一日の就役直後から、沈むまでその生涯を最前線――ソロモンの地獄の中で過ごしました。
翔鶴、瑞鶴、瑞鳳の護衛を経て、南太平洋海戦に参加し被弾、その後は輸送任務に投入され続けるも、第三次ソロモン海戦にも参加し、戦艦「比叡」の直衛、沈んだ戦艦「霧島」の乗員救助を経てトラック諸島へ帰還。
そのままソロモン海域での作戦に従事し続け、エスペランス岬沖で敵魚雷艇の大群に襲われ航行不能、翌日沈没しました。
秋月姉妹の次女として産まれ、約三ヶ月半の生涯で沈んだ事は先に述べましたが、彼女は同じ三ヶ月間の命だった妹の「新月」と比べると、その生命の炎を完全燃焼させて逝った感じがします。

そうですね、もう一隻、四女の「初月」についても語っておきましょう。
前述した「涼月」と同日に竣工。
マリアナ沖海戦に参加し無傷で戻るも、レイテ海戦では小沢機動部隊に所属し、ハルゼーの大機動部隊に悪戦苦闘。
瑞鶴の乗員救出後に内地へ向け進むも、その途上の十月二五日、残存艦隊より落伍。
(その理由は機関損傷とされているが、生存遭難者の救助の為という説もあります)
その後「敵艦隊と接触、交戦に入る」という無電を最後に消息を絶りましたが、戦後になって米軍側の記録によって彼女の最期は明らかになりました。
記録によると、艦隊から落伍した彼女は、追撃してきた米軍艦に補足され、米艦隊に対して単艦で戦闘を挑んだとあり、集中攻撃を受けるも、約二時間もの間戦い抜き、最期は炎に包まれて沈んだと言います。
その最期の瞬間まで応戦し続けていたという彼女の乗組員に生存者はいません。
艦長以下全員が運命を共にしたとの事です。
※私の持つ資料では上記の通りでしたが、別のある本によれば、戦闘前に瑞鶴乗員を救助していた内火艇が現場に取り残され、沈没後に乗員の一部が乗り込み、二一日間もの間漂流を続けるも、何とか黒潮の流れに乗って島へと辿り着く事に成功し、二五名が生還したとの事です。
(情報を提供していただいた杉太郎様、感謝です)


終戦の時点で存命だった秋月姉妹は全部で六隻。
半数が生き残ったわけですが、彼女達のその後は以下の通りです。

三女「涼月」上記の通り。防空砲台として終戦を迎え、若松港の防波堤に転用。
八女「冬月」菊水作戦より生還後は門司で対空砲台となり殆ど無傷で終戦を迎えるが、その後に港内で触雷し大破。そのまま曳航され若松港の防波堤となる。
九女(計画では十二番艦)「花月」内海での大和の護衛を行った程度で作戦への参加が無く無傷のまま終戦を迎えた。二二年八月二八日に米軍へ賠償艦として引き渡され「DD934」という番号で軍籍に入る。独軍の「Z39」「T35」と共に性能を徹底調査をされた後に除籍・解体。
十女(計画では九番艦)「春月」大規模作戦に参加する機会が無く無傷のまま終戦を迎え、二二年八月二八日にソ連への賠償艦として引き渡され、「ポスペシュニイ」という新たな名を与えられるも、その後の彼女の運命は誰も知らない。
十一女(計画では十番艦)「宵月」:就役後は対馬海峡で護衛任務に就いていたが機雷で小破。その後呉で空襲を受けるも小破。そのまま瀬戸内海で終戦を迎え復員輸送艦となり、その後は賠償艦として中国へ引き渡され「汾陽」(フェンヤン)と改称された。
末娘(計画では十一番艦)「夏月」竣工した日が大和沈没の翌日であり、既に燃料もなく出撃する事の無いまま門司で終戦を迎える。戦後復員輸送に就き英国へ賠償艦として引き渡された。しかし国内で売却されそのまま解体された。


「十二姉妹物語」と銘打った割に、十二艦全部の紹介をしてない中途半端な内容になってしまいましたが、今回はこの辺で失礼させていただきます。

ところで全く関係無いですが、十二姉妹というと某妹ゲームを思い出してしまいます。
残念ながら私は興味が湧かなかったのでゲームを遊んだ事はありませんが、その姉妹達が揃ってこの秋月級の名前であったなら、ついついチェキしていたかも知れません。

――と、珍しく余韻ぶち壊し気味に終わります。


※2014/11/17 加筆修正しました。

総員隊艦!