#5【最後の闘い 〜戦艦長門〜】


(戦艦「長門」 昭和19年 大改装後)
基準排水量:39130t 全長224.94m 最大幅:34.6m 喫水:9.49m 出力:82000hp 速力:25kt 航続距離:8650浬/16kt
兵装:40cm連装砲×4 14cm砲×18 12.7cm連装高角砲×4 25mm連装機銃×10 25mm増設機銃×98 航空機×3
乗員:1368名 同型艦:陸奥


 さて、今回は帝国海軍最後の闘いに赴いた栄光と悲運の艦、長門です。
彼女のお話をする前に、彼女の誕生の背景を語っておきましょう。

 一九〇六年に英国がドレッドノートを完成させてから列強各国はこぞって同級を越える戦艦の建造に力を注いで行きます。
いわゆる建艦競争の始まりです。
日清・日露での勝利により、近隣での敵国が無くなった大日本帝国(というより海軍)は予算とメンツの確保のために新たな仮想敵国を考えました。
英国とは同盟関係にありますし、ドイツ海軍は第一次世界大戦の痛手から回復していない。(この点は英国についても同様)
イタリアとフランスでは役不足で、陸軍との予算争いに勝つことは出来ない。
そこで帝国海軍が目を付けたのが、海を挟んでの隣国、アメリカでした。

 当時の帝国海軍が保有していた超ド級戦艦は――
金剛級が四隻
扶桑級が二隻
伊勢級が二隻の計八隻。
(全て三六センチ砲を搭載した艦です)

 しかし第一次世界大戦最大の海戦、ジュットランド沖海戦での戦訓により、防御力と速力の低い戦艦は戦力にならない事が明るみになっていました。
そう考えると、速力が遅く、砲の配置に問題のある扶桑級ではまるでお話になりません。
伊勢級も結局の所、改・扶桑級でしかない為やはり心許ないですし、金剛級は速力については問題なかったものの所詮「巡洋戦艦」であり防御力は格段に落ちる事になります。
保有している全ての戦艦に物足りなさを感じていた海軍でしたが、仮想敵国をアメリカとする事でさらに危機感を増大させて行きます。
何しろ当時のアメリカは、第一次世界大戦の結果により戦前は世界第二位の軍備を誇ったドイツ海軍が消滅した事で、世界第二位の海軍力を保持しており、そこへさらに戦艦十隻・巡洋戦艦六隻を中心とした、計一五六隻もの艦隊を三年で整備するという、ダニエルプラン(三カ年計画)という大建艦計画をスタートさせます。
そこで、それに対抗するため、第三位海軍国家だった大日本帝国は、八八艦隊計画を発動させます。
これは新型戦艦八隻に巡洋戦艦八隻を新たに建造し、さらに先に述べた戦艦八隻を補助艦艇として加えた一大艦隊構想でした。
しかも八八艦隊計画の艦は、ジュットランド沖海戦の教訓を取り入れた高速戦艦化される事になっており、もっとも速力の遅い艦でさえ二六.五ノットの長門級でした。
アメリカのダニエルプランでは、あくまで防御力主体の鈍足な戦艦十隻と、俊足の巡洋戦艦六隻であり、速力の違いによる問題から、運用上は事実二艦隊に分けなければならりません。
全艦艇の高速化は、数では劣る帝国海軍の知恵を絞った艦隊構想であった。

 しかし困った事が起きます。
建艦、特に戦艦の建造は国家事業であり、莫大な予算を必要とします。
第一次世界大戦の戦勝景気があるとはいえ、見境のない建艦競争は両国(特に国力の無い日本)の経済を圧迫して行きます。
また、宿敵ドイツが崩壊した英国海軍にとっては、建艦競争は迷惑以外の何者でもありませんでしたし、何より英国は大戦の痛手から回復出来ておりませんでした。
かといって何もしないで日米の建艦競争を傍観していれば、世界第一位にある海軍の地位、面子を失う事になります。
こうして世界経済を混乱させる勢いで建艦競争はエスカレートして行き、大日本帝国では海軍予算が国家予算の三二%を占めるという異常事態になります。
注意すべきはこの予算が「海軍だけの予算」という事です。陸軍は含まれてません。
防衛費一%云々と論じている現代と比べて貰えば、どれだけ異常な事態か判ると思います。
国家予算が破綻すれば、再び世界規模の大戦が発生するのは、誰の目から見ても明らかです。
こうした危機的状況を打破する為、有力海軍国家が集まり軍縮会議を開催し、規制枠を設けることになりました。
このロンドン軍縮会議直前の大正九年十一月、前代未聞の一隻の戦艦が日本で産声を上げました。
世界で初めて四〇cm(一六インチ)砲を搭載し、二六.五ノットという当時においては驚くべき高速を誇る超々ド級戦艦。
それこそが、八八艦隊計画の第一番艦――長門でした。
彼女は世界に先駆けて生まれた超々ド級戦艦であり、その構造や建造思想は、ジュットランド沖海戦での教訓をふんだんに取り入れた最新鋭艦でした。
それが四〇cm砲の採用であり、二六.五ノットという速力でした。

 長門の完成より一年後の大正十年の十一月、先に述べたロンドン軍縮会議が開催され、各国の保有戦艦数に規制がかかる事になりました。
この会議では当初――
現在建造中の戦艦は全て破棄する
――という事で進んでおりましたが、この事が海軍で問題になります。
この長門には陸奥という妹がいましたが、当時は未だドッグにあり完成しておりませんでした。
しかし、建造中の戦艦の破棄が決まってしまえば、せっかく完成間近の最新鋭艦をみすみす失う事になります。
この事態を避ける為、海軍はロンドン軍縮会議の前に突貫工事で装備もままならない状態――つまり、未完成のままで陸奥を軍籍に入れてしまいます。
会議に参加した各国の代表は当然その事実を知っており、断じて陸奥の保有を認めなかった。
だが何としてでも陸奥の保有を認めさせたい日本は、アメリカが建造中だった新型十六インチ砲戦艦のメリーランド級二艦の保有と、いまだ同クラスを保有していない英国に新たに二隻の十六インチ砲艦建造を許可するという妥協案を提出。
その結果陸奥の保有は承認されたが、その代償としてアメリカ三隻、英国二隻の十六インチ砲戦艦の保有を許す状況を生んでしまいました。
そしてその後の一五年間、世界に海軍休日(ネイバルホリデー)が訪れ、この世に七隻しか存在しない一六インチ砲戦艦は「ビッグ・セブン」と呼ばれる事になります。
こうして長門は世界最強の戦艦の一隻として聯合艦隊旗艦となり、陸奥と共に帝国海軍の象徴として国民から親しまれてゆきます。

 さて、それでは本格的に長門のお話をして行きましょう。
長門の速力が二六.五ノットというのは前述した通りだですが、実はこの速力は軍機密となっており、公表では最大二三ノットとされていました。
ところが大正十二年九月関東大震災が発生します。
当時、聯合艦隊は大連沖にて演習を行っていましたが、関東で大地震発生との緊急伝が飛び込んできますと、司令部は慌てて全艦艇に対して「途中寄港先にて災害地救援物資を積み東京へ急行せよ」の指令を発令しました。
艦隊旗艦たる長門もまた全速力で一路東京へ向かう事になるのですが、この時英国の巡洋艦プリマスが彼女の後をピッタリつけてきました。
当時は同盟関係にあったイギリスに対しても長門の二六.五ノットの最大速力は軍機密でしたが、流石に緊急事態が故にそのままの速度で東京へと向かった事で、彼女の足の速さは明るみになってしました。
とはいえ、軍機より災害救助を優先した彼女を責める事は酷でしょう。

 やがて世界情勢が戦乱の時代へと向かうと、彼女は大改装を受け近代戦艦として生まれ変わる事になりますが、速力を向上させる事は叶いませんでした。
かつては高速と謳われた二六.五ノットの彼女の足も、新たに生まれた機動部隊というシステムには随伴できず、その戦力を持て余す事になります。
それでも連合艦隊司令部としての彼女は健在であり、ハワイ奇襲攻撃の指示もこの長門から発せられていました。
しかしその後大和型戦艦が就役すると、彼女は艦隊旗艦からもリストラされてしまう事になります。
こうして世界のビッグセブンと呼ばれ親しまれていた姉妹は、出番のないまましばらく時を過ごします。

 姉妹に初めて出番が回ってきたのは昭和十七年のミッドゥエー海戦です。
しかしご承知のように、空母を前面に戦艦を後方に配置した陣形、作戦の漏洩、指揮官の判断ミス、索敵の失敗、無線機の不調――あらゆる不幸・不運が重なったかのようなこの作戦で、帝国海軍は無惨にも敗退しました。
初陣であった彼女達は後方にて、本来守るべきハズだった空母達が火達磨になる姿も見ないまま、一発の砲弾も発射しないまま内地へと引き返しす事になります。

 その後大した出番のないまま、昭和十八年六月八日、瀬戸内海にて停泊中の陸奥が突如爆発し、船体がまっぷたつに折れで爆沈してしまうという、海軍全体を揺さぶる大事件が発生します。
調査の結果、火薬庫の爆発と判明致しましたが、その原因が自然発火の類でない事も明らかになりました。
スパイによる爆破等も囁かれましたが、実際の原因に関しては未だにはっきりしていません。
ただ、艦内における「体罰」という名のイジメが原因だったのではないか? と言う説が有力と思われています。

 少し話が脇道にそれますが、旧帝国軍においては「陸軍よりも海軍の方がスマート」というイメージが強いでしょう。
体罰や鉄拳制裁も陸軍の方が凄い! ――そう思われがちですが、現実は逆だった様です。
理由は単純明快で、陸軍の場合全ての兵が銃を持つ事になるからです。
確かに教育課程での制裁は(肉体的にも精神的にも)厳しく激しい物が多かったようですが、そんな風習を戦場にまで持ち込めば恨みを募らせた部下から寝首をかかれる――そんな原因になりかねない為、酷い物はあまり行われていなかったようです。
しかし海軍、特に軍艦乗り込みの水兵の場合は丸腰――つまり、武器を持ちません。
更に船の中という逃げ場がないという環境が彼等の立場を悪化させ、その場で行われる制裁や体罰は陰湿極まりなかったようです。
もしも陸奥の爆沈がこれらイジメによる爆破自殺であるならば、精神的ストレスが最悪の結果になった例と言えるでしょう。

 ともあれ唯一の妹、陸奥は唯の一度も敵艦と砲火を交えることもなく、唐突にその生涯を終える事になりました。
生存者は一四七四名の内、三五三名だけであり、内地の海で停泊中という状況でこの生存者しか居ないという事実は、陸奥爆沈のスピードが急激だった事を物語っています。

 その後、一人残った姉の長門はマリアナ沖海戦に、空母の護衛として出撃するも、戦艦本来の目的である敵戦艦との砲戦はやはり発生せず、飛来する敵機に向けて対空射撃を行っただけでした。
そして捷一号作戦が発動しレイテ海戦が始ましました。
航空援護のない戦艦達を敵船団に突入させる無茶な作戦ですが、作戦そのものは成功します。
被害担当艦による敵戦力の吸引という、無情にも思える作戦は巧く進み、長門と大和、そして金剛・榛名を生き延びさせる為に武蔵をその生け贄としました。
日中、幾度と無く空襲を受けた武蔵がその役目を終えながら沈み夜を迎えると、今まで恐るべき攻撃を仕掛けてきたハルゼー機動部隊は、囮である小沢機動部隊を迎撃する為に北上、大和・長門の主力艦隊から離れて行きました。
捷一号作戦は完璧にその機能を果たし、武蔵の犠牲の上で生き残った戦艦群がレイテ湾の敵船団に砲火を浴びせるのは決定的でした。
しかし主力艦隊は直前で反転、内地に帰還します。

 やがて海上封鎖と戦略爆撃により物資が底を尽き始めると、燃料もなく身動きのとれなくなった長門は横須賀に係留されたまま、爆撃にされされる事になります。
それでもさすがに、かつて世界のビッグ・セブンを謳われた彼女はその強靱さを見せつけるかのようにしぶとく生き残りました。

 昭和二〇年八月――終戦の瞬間、彼女は唯一浮かんでいられた日本の戦艦でした。
聯合艦隊旗艦としての華々しい時代を永らく過ごし、世界最初の十六インチ砲戦艦としての栄光を受けるも、太平洋戦争時においては二六.五ノットの中速戦艦だった彼女は、その中途半端な速力と妹である僚艦・陸奥を失った事でその本来の役目を全う出来ずに終戦を迎えます。
しかし彼女には最後の闘いが待っていました。
それは誰も予想だに出来なかった相手との闘いです。

 聯合艦隊の旗艦として、帝国海軍最後の戦艦として挑む相手――それは原子爆弾でした。

 昭和二一年七月一日太平洋のビキニ岩礁――
その日、長門は爆破地点より千メートルの地点に配置され、広島型原爆相当の原子爆弾が空中投下・爆発実験が実施されました。
B−29から投下された原爆は海面約数百フィートで爆発しそのエネルギーを周囲に炸裂させます。
瞬間爆発点はセ氏百万度という超高熱となり、一万分の一秒後に爆発は直径約三〇m・セ氏三〇万度程の火球となりました。
通常火薬で同規模の爆発を再現したの場合、その温度は約五千度と言いますから、その威力がどれ程凄まじいかが判ると思います。
鉄の溶解温度は約一五〇〇度ですから、桁違いの超高熱火球に襲われれば、いかな鋼鉄の身体を持った軍艦達もただでは済みません。
長門と同地点にあった標的艦・軽巡洋艦酒匂は全身が火達磨となり、やがて海中へと没しました。
彼女達を飲み込んだ火球は膨張し、その膨張した空気は衝撃波を生みます。
それは爆心地を中心として全方位に向けて、音速を上回る時速千三百キロもの勢いで進み、その結果多くの標的艦がなぎ倒され瞬く間に沈んでいきました。
しかし戦艦である長門は沈むことなく衝撃波と高熱に耐えて抜き、実験終了後も洋上にその姿を留めておりました。
同年七月二五日、今度は水中での爆破実験が行われました。
長門はほぼグランドゼロである、爆心地より僅か二〇〇メートルの地点に配置され、水中で爆発した原子爆弾によって発生した巨大な水柱に他の実験標的と共に飲み込まれました。
水中で発生した巨大なエネルギーは、長門と同位置にあった戦艦アーカンソー、ネヴァタを飲み込み、一瞬で轟沈させます。
空母サラトガは大きく傾き、爆発の七時間後に沈みました。
しかし、かつてのライバル達が沈んでも、長門は未だ海上にその姿を留めていました。
それは母国を敗北に追い込んだ原爆に対する、かつての聯合艦隊旗艦としての最後の意地、戦艦としてまともな作戦に参加出来なかった事への無言の抗議か? はたまた国を守れなかった事に対する海軍代表の贖罪だったのかもしれません。

 それから五日間、七月二九日になっても彼女はそのままの姿で浮かんでいたましたが、それが人々に見せた彼女の最期の姿でした。
翌三〇日の朝、彼女の姿は忽然と海面から消えており、恐らく二九日から三〇日にかけての深夜にひっそりと沈んだものと思われます。
ゆえに長門の沈む様を目撃した者はおりません。

捕虜になる事を拒んだ武人のように、自ら人知れず自決したかのような最期に思えるのは、私だけでは無いはずです。

日本海軍最後の軍艦として、彼女はその名誉と誇りを守りながら海の底へと沈んで逝きました。

今なおビキニの海中にひときわ大きく空いた暗い穴――それこそが今も彼女が眠る墓標であり、核兵器の恐ろしさを無言で伝え続けています。


※一回目の核実験における長門の位置が爆心地から700mで、二回目が1000mでは? との情報を頂きましたが、手元の資料では本文通りだったので取りあえず参考情報とさせて頂きます。有り難うございました。

総員退艦!