#12【受け継がれるべき資質 〜戦艦金剛・比叡・榛名・霧島〜】


(高速戦艦「金剛」昭和十三年、第二次大改装後)
基準排水量:32200t 全長:222m 最大幅:31.02m 喫水:9.6m 出力:136000hp 速力:30.3kt 航続距離:10000浬/18kt
兵装:36cm連装砲×3 15cm砲×14 12.7cm連装高角砲×4 25mm機銃×10 航空機×3
乗員:1303名 同型艦:比叡・榛名・霧島



 のっけから下らない話で恐縮ですが……この世の中には、仮想戦記というジャンルの小説があります。
こんなページをご覧になっているくらいですから、当然ご存じの方が大半だと思いますが、それでも知らない方が居るかもしれませんので、簡単に説明させて頂きましょう。
その名の通り、史実とは異なる戦闘と結果によって変化してゆくその後の歴史を描いた物語――といったところでしょうか。
シミュレーション小説といった名で呼ばれる事もありまして、一般人がおおよそ興味を向ける事のないジャンルでございますが、ごく一部の日本人には大変馴染み深い物であります。
敗退を続けた大日本帝国は連合国に対して無条件降伏し滅亡した――それは誰もが知る現実ですが、やはり日本人である以上、自国の敗戦と滅亡という現実には、精神的なフラストレーションを感じずには居られません。
勿論、敗戦を糧として現代の日本を作り上げて頂いた先代達の努力と行動には、現在をのんびりと生きる者として、ただひたすら頭を下げる事しか出来ませんが、それを頭で理解はしていても、心にわだかまったフラストレーションを発散させる事が出来ない人間も居るわけです。
そしてそんな一部の日本人は、酒が入ったりしますとついつい――
「何故最初から小沢に任せないんだよ?」とか
「頼むから山口の言う通りにしてくれってっ!」とか
「三川め日和ったな!」とか
「何故栗田は反転したのかっ?」とか
「牟田口だけは絶対に許せないっ!」――などと、一般人には理解しがたい叫び声を上げて、周囲を困らせたりします。
無論、その様な叫び声を公共の場で上げてしまうのはかなりの上級者だと思われますので、通常レベルの者は本屋の新書コーナーに列ぶ仮想戦記本を手に取る事で、自分のフラストレーションを発散させます。
それらの書籍の中では、戦艦大和が連合軍を思う様蹂躙したり、遙か南方の島々での無謀な作戦を見事回避してみせたり、ミッドゥエイで米機動部隊を一方的に殲滅したり……と、現実にはあり得なかった光景が広がっております。
それにより、一部の日本人は、心にわだかまったモヤモヤを払拭でき、また明日から気分良く勉学や職務、そして家事を行う為の活力を得る事が出来るのです。
つまりぶっちゃけるなら、仮想戦記とは一部の日本人の精神的ストレスを緩和させる為に産まれた、ある種の処方箋なのです。
ただ……困った事に、書店で安易に入手可能なこの処方箋には劇薬が多いのも特徴的でして、そのあまりの酷さに――現実味が無い物、やたらと都合が良い物、文章が稚拙極まりない物等――かえって精神を病んでしまう恐れも多く、服用には十分な吟味と耐性を有しますので、初心者が手を出す際は周囲の意見をよく聞く事をお勧めします。
本ページによって、初めて仮想戦記に興味を抱いてしまったが何を読んで良いのか皆目見当も付かない――という奇特な方は、取り敢えずインターネットで先人達の推薦書籍を調べてみて下さい。
それすら面倒だという方は……取り敢えず佐藤大輔か横山信義の本を読んでおけば、概ね間違いは無いでしょう。
間違っても近所のBOOKOFFでよく見かけるからといって、志茂田影樹や霧島那智などの本に手を出してはいけません。
彼等の作品と向き合うのは、もっと経験を積んでからにしましょう。
そしてなにより、私としてもせっかく興味を抱いた方を、みすみす逃したくは有りません。
……とまぁ、服用上の問題点はともかくとして、仮想戦記では幾つかのお約束事項が存在します。
その中に「金剛級は出来る限り活躍させるべし」という物があります。
これはラブコメで言えば、幼馴染みの少女が毎朝主人公を起こしに来るのと同じくらいのお約束であり、仮想戦記における不文律です。
それはつまり、金剛級に属する戦艦群が如何に使い勝手の良い戦艦であったか、そして彼女達が人気者であった事を意味します。
今回は、そんな人気者の金剛級――「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」四姉妹と、彼女達が揃って参加したソロモンにおける海戦、そして金剛の名を持つ者が関わった「ある出来事」を紹介したいと思います。
ただ、上手くまとめきれず長文になってしまいましたので、それなりの覚悟をもってお付き合い願います。



 まずはいつもの様に名前の説明から入りたいと思いますが、彼女達姉妹にはご覧の通り全て「山」の名前が宛われております。
帝国海軍の軍艦銘々基準から考えれば、山の名は一等巡洋艦に与えられる名前ですので、必然的に彼女達が純粋な戦艦として産まれた訳で無い事が伺えます。
金剛山は大阪府と奈良県の県境を形成する金剛山地の最高峰で、標高は一一二五メートル。
比叡山は京都府と滋賀県の県境にある八四八メートルの小ぶりな山で、天台宗総本山の延暦寺がある霊山として有名です。
榛名山は群馬県中部の複式火山で、中央の火山丘が一三九一メートル。頭文字Dの舞台「秋名山」のモデルとして、世の走り屋の皆さんに慕われております。
霧島山は、鹿児島と宮崎両県に跨る火山群の総称で、韓国岳と高千穂峰など大小二二の活火山からなっており、七四二年以降、約六〇回の噴火記録があります。広大な原生林を有すその雄大な山峰は、屋久島と併せて国立公園に指定されている程です。
これら名は幾度も用いられており、その事だけを見ても彼女達が活躍し、周囲から好まれていたかが判ると言うものです。
金剛は初代がコルベット艦「金剛」(正確には「金剛艦」)、二代目が本ページで詳しく述べる高速(巡洋)戦艦「金剛」、三代目は自衛隊のイージス艦DD173「こんごう」となります。
比叡は代を重ね生まれ変わっても、金剛の妹として生を受けており、初代が金剛級コルベット艦二番艦「比叡」(正確には「比叡艦」)、二代目が金剛級高速戦艦の二番艦「比叡」となります。ただし三代目の護衛艦DD142「ひえい」は、「はるな」の妹(二番艦)として産まれています。
榛名は初代が金剛級高速戦艦三番艦「榛名」、二代目が最初のヘリ搭載護衛艦であるDD141「はるな」級の一番艦であり、「ひえい」と姉妹の立場が入れ替わって生まれているのが面白いです。
霧島も初代は金剛級高速戦艦四番艦「霧島」、二代目が前述したこんごう級イージス艦二番艦のDD174「きりしま」となります。
……とまぁ、以上のように彼女達は、何かしら姉妹として常に生を受けているわけで、その絆の強さ(?)が伺い知れます。
他の代は後に捕捉するとして、彼女達が四艦揃って姉妹であった戦艦としての金剛級を説明していきましょう。

 戦艦――国の象徴であり、海戦の花形、海軍力の具現とも言うべき存在。
日露戦争における日本海海戦での連合艦隊の大勝利を受けて、列強各国は強力な戦艦を揃え持つ事が、海軍力の決定打であり、ひいては国家間の覇権争いにおける重要な要素になると考えられました。
これが大艦巨砲主義時代の始まりです。
各国がこぞって戦艦を建造し、その数を揃える事に躍起になっていた時、英国において戦艦「ドレッドノート」が登場します。
今まで本コーナーに何度も登場した彼女ですが、今回は少し詳しく紹介してみましょう。
「勇猛無比」と言う意味を持つドレッドノートは、その名が示す通り、全てにおいて革新的な戦艦でありました。
日本海海戦における連合艦隊の旗艦だった戦艦三笠は一九〇二年完成ですが、その僅か四年後一九〇六年に完成したドレッドノートは、三笠と比較して僅か三千トン大きいだけにもかかわらず、片舷砲戦能力は三笠の倍の八門もあり、しかも長砲身である為、弾頭の初速力や射程距離、そして威力も全てが上回っていました。
つまりドレッドノート一隻で、三笠二隻分以上の戦力を有していたのです。
しかも新たに蒸気タービンを採用した事で、主機関のコンパクト化に成功し、艦全体の重量を抑えると共に、従来の戦艦以上の速力を得る事にも繋がりました。
現行の戦艦の性能を超越していた彼女が世界各国に与えた衝撃は凄まじく、各国で建造中だった戦艦を、それこそ船渠に乗っている段階で既に時代遅れの物としてしまいます。
日本海海戦完勝の勢いに任せて、新たな帝国海軍の象徴となるはずだった「薩摩」「安岐」も、ドレッドノートの完成より一年前から建造中だったにも関わらず、その完成を待つ前から旧式艦へと転落してしまいました。
ドレッドノートの成功を受けた英国は、同性能を持つインヴィシブル級巡洋戦艦を建造し、それらを取りそろえたロイヤルネイビーは世界に類を見ない強力な海軍となったのです。
このように、戦艦の革命児であるドレッドノートが登場してから、列強各国はそれを同等の戦艦――準弩級戦艦を建造し、そしてついにはドレッドノートを上回る――超弩級戦艦の建艦競争へと発展します。
その中で大日本帝国がその威信をかけて建造を始めたのが、他ならぬ金剛級になるのです。

 長女でありネームシップである「金剛」は、明治四四年(一九一一年)一月に英ヴィッカース社で起工した一等巡洋艦で、世界で初めて三六センチ主砲を搭載した主力艦であり、大正元年八月二八日の類別標準改訂に伴い巡洋戦艦に分類されました。
当時、日本は既に大多数の艦艇を自国建造していましたが、技術輸入の為に敢えて英国に発注をしたもので、次女の「比叡」以降の帝国海軍主力艦艇は全て国産となり、金剛は最後の国外発注主力艦となりました。
そして英国で建造される金剛の技術はそのまま日本へと伝わり、ほぼ同時に行われていた妹達の建造に活かされてゆきます。
つまり同型艦でありながら、長女の金剛だけが英国生まれで、次女以下の三隻が国産というわけです。
(なお、国産と申しましても、次女・比叡の身体は、百パーセント英国から輸入した資材を国内の造船所で組み立てたものであり、続く榛名、霧島にしても、全体の八〇〜七五パーセントは英国からの輸入資材を用いているとの事です)
こうして帝国海軍の期待を一身に背負って誕生した金剛達四姉妹は、先にも述べた様に当初は一等巡洋艦として建造がスタートし、その途上で巡洋戦艦に類別された事で、排水量二六〇〇〇トンを誇る日本初の超弩級戦艦として産まれました。
以後、妹達も続けて産声を上げ、大正四年(一九一五年)末っ子の霧島が竣工した事で、後の太平洋戦争にて活躍する四姉妹が揃いました。
主砲は世界に先駆けて三六センチ砲を採用し、連装四基八門の砲戦力を有しています。
速力は、金剛級の見本となった英・ライオン級(世界最初の超弩級戦艦)よりも若干早い二七.五ノットと、こちらも当時の戦艦としては破格の速度でした。
彼女達四隻によって編成された第一艦隊第三戦隊は、その高い攻撃力と速力から世界最強の主力艦戦隊と呼ばれ、各国海軍関係者の羨望の的となったと言います。
それは第一次世界大戦において、宿敵ドイツ海軍との戦いに苦戦していた英国海軍が、金剛級の貸与を申し出た事からも伺えるでしょう。

 列強各国が超弩級戦艦を建造しつづけた事で始まった建艦競争はエスカレートし、やがて軍縮が叫ばれると規制案が産まれ、海軍休日時代が訪れます。
帝国海軍は八八艦隊計画を破棄し、既存する主力艦艇のアップデートに務めるわけですが、その中で最も旧式艦だったのが金剛級でした。
ワシントン条約が締結された後、真っ先に金剛級が改装を受ける事になったのもそれが理由です。
まず一九二〇年に主砲事故を起こしていた「榛名」の大改装から始まったのですが、彼女の大改装が終了したのが一九二八年と、新規の建艦以上に日数を有していますが、これは軍縮時代だった事で急を要さなかった為だと言います。
姉妹は続けて改装を受け、「霧島」が一九二七年から、「金剛」は一九二九年からそれぞれ始まり、最終的に一九三一年の八月に三隻の大改装は終了。
この時の大改装では、金剛級の弱点――というより、巡洋戦艦であったが為の特性――である装甲の強化に重点に置かれました。
何しろ、ジュットランド沖海戦では、金剛級のモデルとなっているライオン級巡洋戦艦が、ドイツ海軍の砲撃により一撃で爆沈するという結果が在っただけに、何よりも優先的に行われました。
(長距離で放たれた砲弾は、ほぼ真上から落下して来るため、従来の速力や重量に落下エネルギーが加わり、巡洋戦艦の脆弱な防御力では防ぎきれず、殆どの巡洋戦艦が一撃で沈む憂き目にあったのです)
最重要区画――バイタルパートの装甲強化は勿論、雷撃を想定した水中防御の向上も図られ、装甲強化だけでなくバルジも増設されます。
両測舷に張り出したバルジは、装甲を強化した事で生じた重量が艦の浮力を圧迫した事に対する処置と、水雷防御を兼ねた装備ですが、これを取り付けた事に彼女達の全幅は三メートルほど増える事になりました。
(このバルジが後に金剛級にとって思わぬ弱点となってしまうのですが、それはまた後で述べたいと思います)
更に遠距離攻撃を可能にするべく、主砲の最大仰角も三三度から四三度へと改められ、射程距離は二八〇〇〇メートルまで向上。
機関も新型の重油専燃罐に変更する事で、小型化を図り、その事は航続距離の増大にも寄与する結果となります。
(ただし、三女の榛名だけは、予算の都合上の問題から缶の総交換が行えなかったとの事)
罐――つまりボイラーの換装を行った事で罐室が縮小され、三本あった煙突も一本撤去され二本煙突の外観となりましたが、外観上の大きな変更としては、艦橋のデザインも如実と言えます。
従来のマストを廃し、パゴダ(仏塔)型の新型檣楼に置き換えられ、見た目も随分と近代戦艦っぽくなりました。
その他の目立った改装箇所としては、水上偵察機の搭載が行われた事も上げられるでしょう。
これらの改装の結果、防御力は上がったものの彼女達の重量は二九〇〇〇トンに増して、速力は二五〜六ノットへと低下してしまい、艦種も「巡洋戦艦」から通常の「戦艦」へと改められました。
脚は遅くなったものの、名実ともに「戦艦」へとなった金剛、榛名、霧島の三姉妹ですが――って、あれ? 三姉妹? 何だか一隻少なくなってますね。
実は次女の比叡は、ロンドン軍縮条約において列強各国の主力艦保有数に制限が掛けられた事を受けて、現役の戦艦として保有する事が出来なくなってしまったのです。
ただ、同軍縮条約においては「廃棄されるべき戦艦であっても、非戦闘艦として改造すれば保有が認められる」という、まるで逃げ道の様な条目があり、比叡は姉妹の中で只一人、練習戦艦として生まれ変わる事になったのです。

さて、当時、大日本帝国が保有していた超弩級戦艦は、金剛級が四隻、扶桑級と伊勢級を併せて四隻、最新の長門級が二隻と、合計で十隻でした。
保有数が九隻と制限を受けた事で、一隻を練習戦艦へと改造しなければなりませんが、その中で比叡が選ばれたのは以下の理由からです。
 ・最新鋭の長門級は問題外なので除外。
 ・ジュットランド沖海戦の結果から、巡洋戦艦の価値が低くなっていた。
 ・第一次大改装の結果、金剛級は「戦艦」となり、巡洋戦艦として唯一優位だった速力の早さを失っていた。
 ・扶桑、伊勢級も速力は遅かったが、攻撃力と防御力は金剛級より上だった。
 ・榛名と霧島の改装は既に終了していたが、金剛と比叡は未だ改装中だった。
 ・金剛よりも比叡の工事の方が遅れていた。
……というわけで、比叡は練習戦艦として、一度生まれ変わる事に相成ったのです。

 「練習戦艦」とは、歴とした戦艦カテゴリに属する艦種の一つで、その名の通り兵の訓練に用いる戦艦の事です。
そんな訓練用の非戦闘艦でありますから、当然各種の改造が必要となります。
まず速力、十八ノットが上限となりますので、機関を交換しなければいけません。
比叡の場合は、混焼罐が三六基だったところを、重油専罐を五基、混焼罐六基の計十一基に換装され、出力は一万六千馬力にまで落とされました。(改装前は約六万四千馬力。ちなみに改装を受けた金剛は約七万五千馬力)
主砲も三基までの制限がかかり、四番砲塔を撤去(当然、弾薬庫なども併せて撤去)し、十六基あった副砲も全て取り払われています。
更に装甲まで取り外す必要があり、舷側の装甲帯と艦橋の装甲版が撤去されています。
後部の主砲を撤去した事などの影響で全体的な重量バランスが崩れ(艦尾側が軽くなりすぎてしまい)、浮力を調節する為にバラストを搭載したりと、面倒な改造を余儀なくされています。
そんなこんなで練習戦艦となった比叡ですが、諸外国が練習戦艦に転用した戦艦が彼女以上に旧式で、第二次世界大戦では役に立たない戦艦だったのに対し、彼女は遙かに有力な艦であり、軍縮が解除された暁には再び現役復帰できる様考慮されて改造されていたとの事です。
更に一九三三年、比叡は大演習や観艦式などで天皇陛下が乗艦する為の「御召艦」(おめしかん)としての機能を追加される事になります。
なお、御召艦として選ばれると、実際にどうなるのか調べてみました。
実際に御召艦だった比叡に中甲板士官の中尉として乗り込んでいた吉田俊雄氏の本によれば、まず天皇陛下が乗艦される二週間前から、乗組員の上陸が禁じられるそうです。
これは、外部より伝染病やその他病原菌が艦内に入らない様にする為の処置でありますが、それだけでなく、艦内の整理整頓もテッテ的に行われるとの事です。
しかもただ単に清掃をして綺麗にするだけでなく、艦内のペンキを全て塗り替えるという徹底ぶりで、お陰で艦内は就役当時よりもピッカピカになるそうです。
そして乗組員達は、御召艦の一員としての誇りを胸に、いつも以上に気合いの入った働きをみせ、そして実際に天皇陛下が乗艦されて、檣頭――マストの先端に翻る天皇旗を見ては喜びに浸るのだそうです。
そして御召艦は立場が「偉い」。(そりゃそうだ)
とにかく周囲のあらゆる艦から最高の敬礼を受けるらしく、乗組員達は――無論、それが自分達の所為で無い事は、百も承知ながら――実に良い気分になるとの事です。
そしてその様な栄誉を、比叡は実に四度(天皇陛下の御召艦を三度、満州国・溥儀皇帝の御召艦をも一度)も受け、その大任を無事に果たしました。

 昭和十二年(一九三七年)、緊迫の度合いを増す国際情勢を受けて、彼女達は再び大改装を受ける事になります。
扶桑級と伊勢級が設計上の失敗作だった影響もあり、金剛級はその高いトータルバランスから、最も古い超弩級戦艦ながらも重宝され、二度目の大改装によって再び三〇ノットの速力を得る事になり、日本海軍としては初の「高速戦艦」へと生まれ変わりました。
この時の大改装では、高速戦艦として生まれ変わる為に、艦尾の延長と主機関の換装が行われ、新型の焼罐と、やはり最新式の艦本式減速タービンを搭載した結果、その出力は改装前と比較して倍近い十三万六千馬力にまで一気にパワーアップを果たしたのです。
まるで界王拳二倍みたいな超絶パワーアップです。
今回は前回とは異なり、比叡も同じ改装を施された為、四姉妹は再び揃って戦隊を組む事が可能になりました。
比叡に至っては、姉妹達が二度に分けて行った改装を一度に行った事に加え、大和級戦艦に用いる予定の新技術の実験台にも選ばれた為、改装前と改装後とで比べますと凄まじいパワーアップぶりです。(その所為で、比叡は他の姉妹と比較すると、艦橋の形状が随分と異なってます)
姉妹は武装面でも改装が施され、舷側に並んでいた単装副砲の仰角向上が図られ、射程距離の向上と対空射撃が可能な様にった他、対空火器の強化も行われ、十二.七センチ連装高角砲四基と、二五ミリ連装対空機銃十基が追加されました。
搭載機は水上偵察機が三機と、数に変化は有りませんでしたが、カタパルトが装備された事で、その運用は格段に向上しました。
逆にオミットされた装備として、水中魚雷発射管がありますが(速力の増加に伴い使用不能になってしまった)、これは近代戦艦としては無用とも言える装備であったと言えるでしょう。
近代化の為の改装に必要不可欠なのが、指揮所――つまり艦橋の大改装になります。
複雑化する戦術や日夜発展する装備・兵器を運用する為に、射撃指揮所、測的所、照射指揮所、防空指揮所、注排水装置、司令部施設、見張所、無線装置……等々の近代装備が集中する様になり、それらを内包するべく巨大な艦橋へと変化を遂げます。
こうして二回目の大改装の結果、最も旧式艦であるはずの金剛級姉妹達は、三〇ノットの高速を発揮できる貴重な戦力となって太平洋戦争を迎える事になります。

 彼女達が他の戦艦よりも活躍できたのは、一にも二にも、新たに与えられた脚の早さが在ればこそです。
小回りが利き、速力が早いという事は、それだけでも強力な武器であるのは言うまでもない事ですが、機動部隊という新しい組織に組み込む事が出来る高速戦艦は、機動部隊の直衛艦として極めて理想的な存在でもありました。
(航続距離にしても、金剛級は他の戦艦を凌駕しており、その事も活躍の場が多かった要因と言えるでしょう)
もう一つ、ネガティブな理由として「最も古い戦艦だから」というのも、最前線で活躍した理由に挙げられます。
つまり「大和級や長門級では勿体ない」という事であり、この発想がどれだけ無意味かは、彼女達が辿った生涯を見ればいいでしょう。

 太平洋戦争が実際に勃発するまでは、どの国でも海戦の勝敗は戦艦同士の殴り合いで決まるものだと思われておりましたが、実際に蓋が開いてみれば、格段に性能が向上した航空機が戦艦を上回る働きを見せつけます。
それはつまり機動部隊こそが海戦の主役になった事に他なりません。
となれば、機動部隊に随伴が可能な高速戦艦にこそ出番は多く回って来るのは当然の結果であり、逆に速力の足りないその他の戦艦に出番が来ないのも、明白と言えるものです。
更に彼女達はそのフットワークの軽さと、旧式艦という扱いやすい立場によって夜戦部隊の主力としても駆り出されたりと、常に矢面に経つ事が多くなり、他の戦艦がその巨体を持てあましている間に、数々の戦場でその力を発揮させる事になります。
それでは、彼女達の奮闘ぶりをみてみましょう。

 彼女達はその全員が、太平洋戦争が始まったその日から前線にその身を置いてました。
次女の「比叡」と末娘「霧島」が真珠湾攻撃へ向かう南雲機動部隊の直衛艦として参加、長女の「金剛」と三女の「榛名」が南方部隊の本体として、英国東洋艦隊の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」に対する対抗戦力として進撃をしますが、奇襲に成功した真珠湾では機動部隊の艦載機によって米太平洋艦隊の戦艦群が壊滅的ダメージを受け、マレー沖では陸上航空隊の攻撃によって英国東洋艦隊の戦艦が姿を消す結果となり、金剛級姉妹達に直接の出番は無いまま作戦は終了します。
その後、彼女達は四姉妹揃ってインド洋に展開した南雲機動部隊に随伴し、終始護衛任務を全うします。
なおその際、昭和十七年(一九四二年)三月一日――ジャワ島の東方にて、比叡と霧島は米駆逐艦「エドソール」を砲撃によって撃沈しており、これが太平洋戦争における最初の戦艦による撃沈記録となりました。

 この時期の変わったエピソードとして、その後の同年三月七日のクリスマス島攻撃があります。
金剛と榛名を含む艦隊が、南雲機動部隊の主隊との合流地点へ向かう途上、英軍の無線局があるインド洋のクリスマス島を砲撃したのですが、これは「ちょっと驚かせてやろう」という、いわば挨拶程度の軽い攻撃(榛名の例で言えば主砲を三発、副砲を十四発)に過ぎなかったのです。
ところが、その砲撃でクリスマス島に白旗が上がってしまい、島からは降伏の為に英軍の指揮官がモーターボートでやって来てしまいました。
同島の上陸・占領など全く考えてもいなかった司令部は、慌てて艦隊を引き上げさせ、合流地点へと逃げてしまいました。
つまり降伏した英軍は、その行為によって日本の艦隊を退けてしまったという珍しい話です。
まるで、そんな気はない女性に冗談で「付き合わない?」と声をかけたらOKされてしまい慌てて逃げ出した男の様です。
何事も計画的に行うべし――と言ったところでしょうか。

 インド洋での作戦が終了し、太平洋からインド洋に至る広大な海域に、敵の戦艦が存在しなくなると、連合艦隊はハワイ攻略の足がかりとして、ミッドウェー作戦を実施します。
この作戦で機動部隊の護衛として参加したのは、霧島と榛名でありますが、皆さんご承知の様に、護衛の奮闘も空しく機動部隊は壊滅の憂き目に会います。
(金剛と比叡は、ミッドウェー作戦と並行して行われた北太平洋方面のアリューシャン攻略作戦に参加し、その後内地へ帰投)

 ミッドウェーでの敗戦が尾を引く中、ガダルカナル島を巡った攻防戦が始まると、金剛級の四姉妹は全艦がソロモン海域へ投入される事になります。
昭和十七年(一九四二年)八月二四日、比叡と霧島は、「翔鶴」「瑞鶴」を中心とした機動部隊の護衛としてガダルカナル島方面へ進出し、「サラトガ」「エンタープライズ」「ワスプ」の三空母を中心とする米機動部隊とぶつかり第二次ソロモン海戦が発生しました。
この海戦で日本軍は軽空母「龍驤」と駆逐艦「睦月」を失い、兵員輸送艦(正確には特設巡洋艦)「金龍丸」が大破するという被害を受けましたが、米軍に対してもワスプを撃沈、エンタープライズを中波させます。
(この海戦は航空機の戦いに終始し、比叡と霧島の二艦に出番はありませんでした)
しかし、日本軍はガダルカナル島を奪還する為の輸送船団は引き上げざるをえなくなり、その合間に同島の防御はより強固なものとなってゆくのです。
米軍にしても相当な被害を受けていましたが、圧倒的な物量を武器に消耗戦に持ち込んだ事で、終始優位に立つ事になります。
逆に最も懸念されていた消耗戦へと持ち込まれた日本は、満足な補給や輸送も行えなくなり、やがて駆逐艦を輸送作戦へと駆り出してゆきます。
その結果、大量の駆逐艦をも失いますが、その補充も満足に行えない危機的状況へと雪崩れ込んで行きます。

 ガダルカナル島を巡る攻防戦は、同島に存在するヘンダーソン飛行場を巡る戦いと言っても過言ではありません。
同飛行場は、日本軍の設営隊がジャングルを切り開きやっとの思いで建造したものでしたが、その完成直前に米軍によって占領されたものであり、米軍はすぐさま飛行場を整備し飛行隊を配備させました。
この結果、同島の制空権は米軍の手に渡り、日本軍はラバウルから何度も爆撃機を飛ばし必死に抵抗を試みますが、米軍の装備と物量が、それを稚拙な抵抗程度に押しとどめ、後はひたすら苦戦を強いられる事になります。
そんな状況下において、日本軍は起死回生の作戦とばかりに、兵器・弾薬・食料といった物資を満載した選りすぐりの高速輸送船団を突入させ、飛行場を奪還する為の一大反攻作戦を計画します。
問題となったのは、只でさえ突入が厳しいガダルカナル島へ、大船団を如何に無事届けるかという一点になり、それには忌々しいヘンダーソン飛行場を無力化する必要がありました。
色々と討議した結果……
・航空機の爆撃程度では直ぐに飛行場は修復されてしまう。
    ↓
・駆逐艦や巡洋艦程度の戦力では敵艦隊と当たった時に追い払われる。
    ↓
・ならば頑丈な戦艦を突入し、その主砲で飛行場を壊滅させれば……
    ↓
・(゚д゚)ウマー
……という策が浮かび上がりました。
無論、図体のでかく喫水の深い戦艦を、底の浅く狭い水道内へ突入させて敵基地の目前で艦砲射撃を行うなど、前代未聞である上に無謀な作戦でもありました。
しかし今はその危険を度外視しても実行すべきだという事で、十月十三日から十四日にかけて作戦は実行される事になります。
この作戦が、金剛級を紹介する上で外せないガダルカナル島砲撃作戦です。
本作戦には金剛と榛名の二艦が投入され、護衛の艦隊と共に十三日の夜半にガダルカナル島近海への突入に成功。
水上偵察機の落とした吊光弾を目印に金剛が主砲を発射したのが二三時三七分。
それから一分半後に妹の榛名も射撃に加わり、飛行場南西のアウステン山に隠っていた観測員からの報告によって射撃データの修正が行われると、やがて両艦は一斉射へと切り替え、二艦合計で十六門の三六センチ砲が連続して炎を吐きました。
十四日の午前一時に「射ち方止め」の号令が下るまで、両艦合計で九一八発の三式弾を放ち、その一方的な艦砲射撃の結果、飛行場の設備は壊滅状態。航空機も五〇機あまりが地上で破壊されました。
この時に艦砲射撃を体験した米軍の兵士達は、その攻撃力に恐怖し、その破壊力は「戦艦一隻の攻撃は、地上軍四個師団の攻撃に相当する」とまで言われる様になりました。
米軍はそれを戦訓とし、旧式の戦艦を地上攻撃の為の支援兵器への転用を図るのです。
さて、金剛と榛名姉妹の攻撃で壊滅したかに思えた飛行場ですが、確かに壊滅的被害は受けたものの、米軍は直ぐに修復を行い、何と翌日には不完全ながらも応急処置が終わり、発着する飛行機の姿が確認されました。
おまけにヘンダーソン飛行場とは別に、米軍が独自にこしらえたもう一本の滑走路は砲撃対象になっておらず全くの無傷でした。
結果、十五日から行われたガダルカナル島揚陸作戦では、その作業が八割程終了した時点で、飛行場に残存していた米軍機の反復攻撃を受け、せっかくの補給船団は壊滅し、陸揚げした物資も殆どが失われる結果となってしまいました。
(砲撃で機数は減ったものの、船団の上陸地点が飛行場からあまりに近く、何度も何度も反復攻撃が行えたと言います)

 それでもガダルカナル島を巡る戦いは終わる事が無く、双方が新たな戦力を投入した事で、同年十月二六日に機動部隊同士が真っ向からぶつかり合う南大平洋海戦が勃発し、互いの機動部隊に被害が出ます。
この海戦において、比叡と霧島の二艦は、空母翔鶴と瑞鶴の直衛にあたり、前方から味方空母へ向かってくる敵機を、対空砲火で追い払う役目を担いました。
これはつまり、戦艦が既に海戦の主役ではないという事の証明でもあるのですが、それでもなお海上決戦の主役は戦艦であると信じていた日本海軍は、大艦巨砲をもって雌雄を決する夢を追い求めていました。
その為、大和や武蔵はその戦力を温存する為に、前線への出撃機会を得ることなくトラック島に居座り続け、周囲からは「大和ホテル」と揶揄される様になるのでした。

 金剛と榛名の艦砲射撃は確かに効果的であったものの、爆撃や砲撃だけで敵施設を何日も使用不可能にさせる事が難しい事も事実であり、ガダルカナル島を奪回するには、結局大量の地上兵力を投入する必要がありました。
そこで陸軍大本営は最後の試みとして、もう一度大兵力の投入を決意。
連合艦隊もまたその作戦に呼応し、比叡と霧島を含んだ第二艦隊(戦艦二、軽巡一、駆逐艦十一、計十四隻)の投入を決定。その砲撃力で再び飛行場を火の海へと変え、上陸船団の露払いの役目を担いました。
更に金剛と榛名に、空母「隼鷹」と「飛鷹」を含んだ部隊を、付近の海域に集結させ、艦載機による上陸支援態勢も整えます。
海と空という立体的な援護攻撃の下に、輸送船団はガダルカナル島へ突入、第一次ソロモン海戦で一方的な勝利を収めた第八艦隊が船団の直接支援を行うというのが、その作戦の全貌であり、陸海軍共に当作戦の成功を信じていました。
そして十一月十二日、ソロモンにおける最大の海戦、第三次ソロモン海戦が発生します。

 日本軍にとっての不運は、派遣した空母の艦載機が少なく、最初に攻撃部隊を発進させた時、十分な打撃力にはならず、その殆どが撃墜という憂き目にあった事でしょう。
結果、上空支援は無くなり、水上部隊だけで作戦を続行せざるをえなくなってしまいます。
戦艦を含んだ艦隊がガダルカナル島を目指して突っ込んでくる情報を得た米軍は、即座にそれが先月に行われた飛行場攻撃を目的とした艦隊だと見抜き、サボ島沖に巡洋艦五隻と駆逐艦八隻を潜ませ待ち伏せる作戦を採ります。
新月の夜である為周囲は完全な闇となり、先に敵を発見したのはレーダーを装備していた米軍側となりました。
指揮官のキャラハン少将は、日本艦隊の前面に艦隊を横陣形にならべ、丁字戦法にて殲滅する事を目論みます。
しかし、日本軍の駆逐艦「夕立」「春雨」が偵察の為に艦隊から飛びだし、また米軍側もレーダー未搭載の駆逐艦「カッシング」が先頭を突っ走っていた事で、双方が僅か二七〇〇メートルという近距離で遭遇を果たしてしまいます。
突然の遭遇によってカッシングが左回頭を行い、続く後続の駆逐艦もそれにならって回頭を行った事で米艦隊の陣形は崩壊。
混乱の最中、比叡も敵艦隊を発見、その時の距離は僅か三千メートルでありました。
三千と言えば戦艦の主砲は水平発射可能な必中距離でしたが、敵の駆逐艦も主砲や機銃が即座に比叡の艦橋目がけて乱射されたものだから、目がくらんで指揮所からの射撃指示が出せない事態に……更に艦内のペンキや木材が燃え始め、その炎は更なる的の砲火を招いてしまいます。
あまりにも突発的な会戦――互いが相手を確認した途端砲火が切られた程――であった為、両軍ともまともな艦隊運動もとれません。
その間にも双方の距離は縮まってゆき、混乱は更なる混乱を招き、時には同士撃ちまでもが行われた程だったと言います。
その結果、各艦が単独で行動を取らざるをえない情況になり、かつてない大乱戦へと発展します。
比叡は射撃指揮が取れなくなった事で主砲を持てあまし、米駆逐艦もまた放った魚雷は、距離が近すぎて安全装置が外れず不発弾になってしまう有様でした。
そこで比叡は、探照灯による照射を強行し、右舷から近付いていた巡洋艦アトランタをその光束の中に捉えます。
その距離、何と一五〇〇。戦艦にとっては零距離と言っても過言ではない至近距離でした。
水平発射された比叡の三式弾はアトランタ艦橋で炸裂し、その場に居た人員を瞬時に亡き者へとしました。
続く霧島も砲撃に加わり、アトランタは行動不能に陥ります。
比叡の探照灯は次々に暗闇の中に潜む敵艦を炙り出し砲撃を加え、護衛の駆逐艦も必殺の酸素魚雷を見つけた目標へ向けて発射します。
米軍の指揮官キャラハン少将の命令ミスも加わり、米艦隊の混乱は増し、その中を比叡は、戦艦の砲戦距離としては異常極まりない五〇〇〜一〇〇〇メートルという近接戦を続けました。
しかし探照灯攻撃は、自身をも暗闇の中に晒す捨て身の戦法に他ならず、比叡は敵艦からの攻撃を一手に浴びる事になります。
あまりにも距離が近すぎた事で、本来であれば「アウトレンジから主砲で一方的に攻撃が出来る」という、戦艦の特性を活かす事ができず、比叡はその巨体が故に米艦隊の攻撃を甘んじて受けるのです。
この第三次ソロモン海戦の緒戦となる会戦は、僅か三〇分程度の戦闘だったものの、比叡は敵の旗艦である重巡サンフランシスコと軽巡アトランタを戦闘不能に陥れ、駆逐艦ラフェーを撃沈、巡洋艦ポーランドや駆逐艦オバノンに命中弾を与えるなどの戦果を上げました。
なお、主砲の命中弾を出しながらも比叡と霧島の撃沈した艦が少ないのは、彼女達の主砲弾頭が陸上砲撃を想定して焼夷弾の三式弾が装填・準備されていた事が原因です。
目標地点到達まであと僅かだった事で、既に三式弾の準備が整えられており、戦闘の最中に徹甲弾への換装は不可能だったのです。
もしも、直ぐに徹甲弾に換装が出来れば彼女達の未来も大きく変わったでしょうが、歴史にIFが存在しない以上、この事を悔やんでも仕方がありません。
それはさておき、この戦闘の結果、米艦隊は巡洋艦二隻と駆逐艦四隻を失い、その他の艦艇も何かしらの大損害を受け、無事だったのは駆逐艦フレッチャー一艦のみという壊滅敵打撃を受けました。
対する日本艦隊も駆逐艦「暁」「夕立」の二艦を失い、四隻の駆逐艦が小破の被害を受け(雪風ですら、この時には多少の被害を受けています)、探照灯攻撃を敢行し味方の攻撃を導いた比叡は大きな被害を受け、本来の目的だった飛行場に対する艦砲射撃を行う事も叶わず、艦隊は引き返す事になりました。
比叡は八〇発以上の命中弾を受けたにも関わらず、戦艦らしい強靱さを見せて沈む事は無かったのですが、「舵の損傷」という不運が彼女の運命を決定づけます。
そしてその不運を呼び寄せたのが、先に述べた金剛級の弱点とも言うべき、バルジにあったのです。
少し詳しく述べますと……バルジその物には複雑な機構や機能は無いものの装甲自体は大した事がなく、この戦いで受けた巡洋艦の主砲(二〇センチや十五センチ)や、駆逐艦の豆鉄砲(十二.七センチや十センチ砲)弾程度でも易々と穴が空いてしまう様なものでした。
特に、今回の様な零距離射撃で打ち合えば、図体の大きな比叡を狙った弾が外れる事は殆どありません。
その結果、装甲で防御されたバイタルパートはともかく、装甲の薄いバルジなどには、大量の穴が空いてしまいます。
二度の大改装によって増した重量を、バルジによって補い浮力を得ていた彼女ですから、穴が空いて機能を失ったバルジの分だけ浮力を失えば、当然その分艦が沈む事になります。
艦が沈めば、装甲防御の弱い後部測舷、水線ギリギリに空いた穴から大量の海水が流れ込みます。
そしてこの時の比叡は、艦後方の装甲防御が薄い、しかも水線ギリギリの部分を撃ち抜かれており、その破坑から流れ込んだ大量の海水によって、付近にあった舵機械室が浸水する、という事態を招いてしまいます。
その結果、舵が言う事を聞かなくなり、身動きが取れなくなってしまった……というわけです。
結局、彼女の運命を決定付けたのは、後部の舵機械室付近に穴を開ける事となる、米巡洋艦の放った一発の二〇センチ砲弾とも言えるでしょう。
浸水によって、面舵を切った状態のまま舵が動かなくなった比叡は直進不能となり、例え主砲や機関が健在であっても、それは戦地において絶望的な状態でした。
何とかサボ島を回る形で退避はしたものの航行不能に陥り、司令部は随伴していた駆逐艦雪風へ移乗します。
彼女を救おうと修理が突貫で行われるも、そんな努力を嘲笑うかのように夜が明け、ヘンダーソン飛行場から敵機が上がっては、身動きの取れない比叡に対して爆撃を開始しました。
動けない比叡は残った対空火器で応戦をしたのですが、撃墜するには至りません。
しかし米軍パイロットの技量は低く、停止した巨大な戦艦にもかかわらず、命中弾を当てる事ができなかったと言います。
その代わり飛行場は目と鼻の先にあるので、爆弾を撃ち尽くすとすぐの基地へ戻り、爆弾を搭載しては再び爆撃に来るという反復攻撃を実施され、のべ七〇機以上の攻撃に晒されたと言います。
ただし命中弾は僅かに三発だったとの事で、自分たちの爆撃の下手さに業を煮やしたのか、正午を過ぎると今度は雷撃機を十二機寄越してきましたが、やはり技量は低く命中弾は二本のみでした。
しかし右舷に命中したその魚雷が機械室に命中、浸水した事で各種機械の使用が出来なくなる致命傷となり、復旧作業を断念。
午後四時ついに総員退艦が発せられ、キングストン弁を開いた比叡は、駆逐艦雪風が放った二本の魚雷を受け、鉄底海峡へとその身を沈める事となりました。
ただこの時の魚雷では完全に沈まず、別の作戦部隊がこの地を訪れた時、比叡はまだ洋上に浮いており、その後その部隊が再び戻った時に、初めて沈没が確認されたとも言われています。
その真相の程はともかく、彼女は一八八名の戦死者の骸と共に自沈の道を選び、日本にとって最初に失われた戦艦となったのです。

 緒戦で両軍甚大な被害を出したものの、第三次ソロモン海戦はまだ終わったわけではありません。
未だにジャングルで戦い続けている陸軍部隊を救う為にも、ヘンダーソン飛行場を放置しておく事は出来ない司令部は、上陸作戦用の輸送船団の突入を続行、その露払いを今度は重巡鳥海を旗艦とした第八艦隊へと託します。
第一次ソロモン海戦勝利の立て役者である第八艦隊は、十四日の真夜中にルンガ沖に到達し、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を行い、五百発もの砲弾を打ち込む事に成功します。
しかし金剛と榛名が行ったそれに比べ、二十センチ主砲に過ぎない重巡洋艦の砲撃では効果的な攻撃は行えようもなく、十八機の飛行機を破壊させただけで、滑走路は応急処置によって、またもや翌朝には使用が可能な情況になってしまいました。
その結果、日本軍の輸送船団はまたもやヘンダーソン飛行場から発進した航空機による攻撃を一日中受ける事となり、日没までに六隻の輸送船が撃沈、一隻が航行不能へとなってしまいました。
残った輸送船は四隻でしたが、それらは夜の闇に乗じてひたすらガダルカナル島を目指し、それに呼応する形で、今度は戦艦霧島を中心とした合計十四隻の第二艦隊の残存兵力で再度海峡へ突入し、ヘンダーソン飛行場への艦砲射撃を行う様、命令が下ります。
米軍もまた次の艦隊が来る事を察知し、飛行場を絶対防衛すべく、戦艦ワシントンとサウスダコタ以下六隻の艦隊を投入し防備を固め、第三次ソロモン開戦の後半戦へと突入します。
最初に現場へ到着したのは米海軍の増援艦隊で、次いで日本海軍第二艦隊から分離した掃討部隊(軽巡一、駆逐艦二。本来駆逐艦は三だが、索敵の為に一艦を別動させていました)が水道に入り、互いに存在を関知。
ただ、距離が遠すぎる所為で、掃討部隊は米戦艦から一方的に砲撃を受ける事となり、右へ左へ舵を激しく切っては肉薄せんと突撃を開始しました。
掃討部隊の旗艦・軽巡川内が接敵を全軍へ伝えると、後方の霧島を中心とした主力部隊も現場へ急行。ただし、前夜とは異なり、既に敵艦隊の存在を確認しているので、主砲は三式弾から徹甲弾へと変更させました。

 さて、ここで少し脇道に逸れて、別の彼女の話をさせて頂く事をお許し下さい。
霧島以下の主力部隊が到着する直前、索敵の為に単身で水道に突入した一隻の駆逐艦が居ます。
彼女は吹雪級駆逐艦の十一番艦で、その名を「綾波」と言います。
某TVアニメーションのお陰でやたらと高い知名度を誇る名ですが、その名の元となった彼女はこの戦いにおいて、獅子奮迅の働きを見せます。
単独行動を取っていた綾波は、自分が属する掃討隊へ一方的な砲撃を始めた米艦隊を発見し、味方を救うべく単身で全速突入を開始し戦闘に割り込みます。
一対六という劣性(しかも敵は戦艦二隻を含む)において集中攻撃を受けながらも怯むことなく突撃し、主砲の一斉射撃をしてその初弾から敵駆逐艦へ全弾命中させてみたり、被弾によって艦橋直下部分と魚雷発射管を一基失いつつも、残った魚雷を発射し、敵駆逐艦二隻に同時命中させるという離れ業をやってのけます。
日本海軍水雷戦隊の底力と言いましょうか、技量の高さと気質が伺い知れます。
綾波はたった一艦で米駆逐艦ウォークを轟沈させ、同ペンナムを大破・行動不能にし、主砲の砲撃によって同プレストンを沈没させたのですが、そんな彼女も直後に舵を失い行動不能へと陥ります。
しかしその時になってやっと軽巡川内以下の掃討部隊が到着し、綾波を攻撃していた米駆逐艦グウィンへと砲弾の雨を降らせます。
この結果、グウィンは大破炎上し戦線を離脱。
護衛の駆逐艦四隻を一気に失ったばかりか、(距離が縮まった事で)戦艦としてのアドバンテージを失ったサウスダコタとワシントンは、全速で直進し退避を図りました。
そしてその場へ霧島以下、主力部隊が到着します。
綾波の身を挺した活躍により、戦いを優位に進めていた日本海軍でしたが、この直後、痛恨のミスをしてしまいます。
月も無い漆黒の闇の中で、霧島の夜間見張り員が八〇〇〇メートルの距離で戦艦サウスダコタを発見し、日本海軍の夜戦における常套手段として探照灯照射による砲撃を開始します。
霧島以下、重巡愛宕と高尾からも光の帯が暗闇を引き裂く様に伸び、暗闇に姿を浮かび上がらせたサウスダコタへ向けて、全艦が一斉に砲撃を開始。
霧島の放った三六センチ主砲と重巡の二〇センチ主砲が飛んでゆき、敵艦で炎が炸裂すると、その初弾が電気系統の装置を破壊し、自分達へとむきかけていたサウスダコタの主砲塔が沈黙します。
更に重巡部隊は魚雷を一斉発射し、サウスダコタに砲雷同時の集中攻撃を加えます。
艦上構造物を破壊され、その土手っ腹に魚雷の命中を示す水柱が上がったサウスダコタは大破。
戦闘力を失って行く敵戦艦を眺めながら、日本軍の誰もが勝利を確信しかけた時、右舷後方より飛来した砲弾が、霧島の全身を震わせました。
米艦隊唯一の生き残り、戦艦ワシントンが行ったレーダー射撃による主砲の一斉射は、何とその九発全てが霧島に命中してしまったのです。
戦艦ワシントンの存在を完全に見落としたミスにより、日本軍に向いていた大勢は崩れ、第三次ソロモン海戦はその終局へと一気に雪崩れ込んで行きます。
三六センチ砲に対する防御しか持たぬ霧島が、四〇センチ砲の一斉直撃に耐えられるはずもなく、彼女のあちらこちらで爆発が発生。
各種機器に損害が出ましたが、水圧管が破壊された事で後部の第三、第四主砲塔が旋回不能に陥ってしまいました。
それでも主機関は健在で、まだ全力発揮が出来たのですが、敵の攻撃は致命的な被害を彼女に与えてしまいます。
舵機械室の浸水――それは姉・比叡の命を奪ったものであり、姉と同じ怪我を負った霧島は、主機関と罐室が全て健在だったにもかかわらず、身動きを封じられてしまいやがて航行不能へと陥ります。
サウスダコタを大破させたものの、ワシントンから十四発の四〇センチ砲弾と、十七発の二〇センチ砲弾の直撃を受け、更に水線下で爆発したと思われる六発の砲弾の影響も響き、霧島は戦艦としての機能を失いました。
重巡愛宕以下の艦が回頭してワシントンを追いかけますが、全力退避をしていたワシントンは日本軍の砲弾を一発も受けることなく逃げおおせる事に成功します。
舵をやられ直進の出来ない満身創痍の霧島は、修理の為に機関を停止。
その際、鎮火しかけていた炎が勢いを取り戻し、その炎が前部主砲火薬庫に迫った事で、火薬庫への注水を決断します。
これによって霧島の全主砲は戦闘力を失い、例え舵の修理が出来たとしても(主機関は健在だった)飛行場を砲撃する事は叶わなくなったのです。
だからといって、国の象徴であり、貴重な高速戦艦である霧島を失うわけにはいきません。
潜水服を着た作業員による応急処置も行われますが、その必至の努力も虚しく、とうとう霧島の舵は蘇る事は有りませんでした。
日付が変わって十五日の午前零時二五分、姉の金剛が沈んでから僅か三二時間後――姉を追うように、妹の霧島もまたキングストン弁を抜き、自ら海中へと没する事を選びました。
同じ怪我に泣いた姉妹は揃って鉄底海峡へと沈んだのです。
この連夜の海戦において、日本軍は戦艦二隻と、綾波を含めた駆逐艦三隻、米軍は巡洋艦二隻と駆逐艦六隻を失いました。
そして同日夜半、陸軍の上陸部隊と物資を乗せた残りの輸送船団は遂にガダルカナル島への接舷を果たしましたが、揚陸作業を行っている間に夜明けを迎え、船団は殺到した米軍機の攻撃を受けて全滅する――という結果をもって、三日間に及ぶ第三次ソロモン海戦は終わりました。
陸軍の上陸部隊とガダルカナルの守備隊が必要とする多数の物資、多くの輸送艦と勇猛な兵士達、そして貴重な高速戦艦二隻を含む多数の艦船を失った日本の陸海軍は、以後同島への積極的攻勢に出る事は無く、ミッドウェーの敗北と併せて、大日本帝国そのものの基盤が大きく揺らぐ事になってゆきます。
なお、大破した戦艦サウスダコタと駆逐艦グウィンは九死に一生を得て、ボロボロのまま基地への帰還を果たしました。
米軍艦のダメージコントロールが、腹立たしいほどに優れているかが、このことからも伺えます。

 次女と末娘を欠き、生き残った長女・金剛と三女の榛名は、しばし第一線から離れて、物資補給や兵員輸送の任務に就かされます。
そして米軍がサイパン目指してマリアナ諸島へと雪崩れ込んで来た時、空母機動部隊の護衛としてマリアナ沖海戦に参加。三式弾や各種対空火器による防空戦闘を行いました。
結局、この戦いでは大量の航空機と搭乗員、そして正規空母の「翔鶴」「大鳳」を失うなど惨敗を喫し、日本軍の機動部隊は事実上壊滅となってしまいました。
マリアナ沖海戦で勝利した米軍がサイパンへの上陸を果たすと、敵船団がひしめくレイテ湾への殴り込みが決定し、金剛と榛名の姉妹も、一路レイテ湾を目指す主力艦隊へと組み込まれます。
目標へ向けて進む主力艦隊は、その途上で戦艦武蔵を失いつつも前進し、サマール沖で敵の空母部隊に遭遇します。
これが世にも珍しい「戦艦が空母を砲撃した海戦」――サマール沖海戦です。
例えそれが正規空母ではなく、護衛空母に過ぎなかったとしても、戦艦が空母部隊を攻撃したのは事実であり、奇跡的な出来事でもあります。
そしてこの海戦が、数多の海で活躍してきた金剛にとって、最後の檜舞台となるのです。
米護衛空母群は退避すべく必至に煙幕を張ってスコールの下へと飛び込み、攻撃機を飛ばして必至に防衛に勤めます。
その所為で大和や長門、そして榛名は敵に対する砲撃が封じられたものの、位置関係によって敵艦の居場所を把握できていた金剛一艦は、一万六千メートルの距離で主砲を発射。
やがて副砲も射撃に加わり、彼女の放った砲弾は護衛空母ガンビア・ベイへと襲いかかります。
しかし商船を改造した護衛空母に過ぎないカンビア・ベイには装甲が無く、金剛の放った徹甲弾は全ての甲板を貫通しても信管が作動しかった為、ただ船体に穴を空けるだけしか効果が無かったと言います。
その事実に気が付いた金剛は、射撃目標を喫水線の下へと変更しこれを撃沈させました。
護衛空母とは言え、戦艦がその砲撃で空母を沈めた瞬間です。
金剛は他に駆逐艦サムエル・ロバーツをも撃沈し、この海戦全体では護衛空母セントローと、駆逐艦二隻を撃沈、二隻を大破、三隻の護衛空母に損害を与えました。
なお、戦艦大和の四六センチ主砲を食らった護衛空母カリニン・ベイですが、十三発もの直撃を受けたにも関わらず、その砲弾はその威力が故に、全て貫通してしまい撃沈には至らず、穴だらけになりながらも無事帰還を果たします。
「装甲が無い」というマイナス要因が産んだ戦場の奇跡と言えるでしょう。

 その後のレイテ海戦における事の顛末は、既に何度も書いているので省かせて頂くとして、金剛は大和と共に捷一号作戦終了後、帰還したブルネイから修理の為に佐世保と向かいます。
日本近海を――それも真夜中に航行していたという気の緩みから、金剛以下護衛艦隊は対潜行動を取ることなく進み、それが米潜水艦シーライオンからの雷撃を許す結果へとなります。
シーライオンが放った魚雷の内の二本が金剛に炸裂し、彼女の身体に大量の海水が流れ込みます。
敵潜からの攻撃を回避すべく、十八ノットへ増速して戦場から退避した金剛でしたが、この時に思いもよらぬ被害が彼女を襲います。
本来であれば、戦艦である彼女が二発の魚雷程度で沈む事は無いのですが、老体に鞭を打って開戦初日から最前線で戦い続けてきたツケが回ったのでしょう。破坑が予想以上に広がってしまいます。
特に機関部付近に直撃を受けた事が彼女にとっての不運であり、大量の海水が罐室にも流れ込んだ事で機関は停止。
排水も満足に行えず、傾斜は悪化の一途を辿ります。
それでも一時間半に渡って、彼女は故郷を目指しましたが、やがて力尽き横転。
昭和十九年(一九四四年)十一月二一日未明――脱出しそこねた一二五〇名もの乗組員達と共に、東シナ海へとその身を沈めてしまいました。

 なお、シーライオンによる雷撃は戦艦大和にも三発の魚雷が向けられておりましたが、護衛の駆逐艦「浦風」が、その身を盾として護った為に被害は有りませんでした。
しかし護衛艦としての義務を果たした浦風は瞬時に轟沈――生存者は皆無だったとの事です。

 太平洋戦争では、遂に日本海軍が思い描いていた様な艦隊決戦は起こらず、幾多の艦艇が海の底へと沈みました。
その中で、旧式艦でありながら――否、旧式艦だからこそ活躍の場を与えられた金剛姉妹も、長女の金剛が東シナ海に沈み、三女の榛名を残すのみとなってしまいました。
その彼女は、捷一号作戦の後に輸送任務に就いてから、命令を受けて昭和十九年十二月呉に帰還します。
この時、既に連合艦隊は組織的反攻作戦が行うだけの力は無くなっており、榛名の帰還命令にしても、本土決戦用に彼女の十五センチ副砲を地上砲台へと転換する――いわば「パーツ取り」の為だったと言います。
(地上設置の為に、対空機銃までもが四分の三も接収されたとの事です)
高速戦艦として最前線で働き続けた彼女は、遂に動かす為の燃料も与えられずに、呉に繋ぎ止められその本分を失いました。
そして昭和二十年三月十九日――呉が米軍機の空襲を受け直撃弾を一つ受け、続く六月の空襲でも再び爆弾の直撃を受けます。
その後、彼女は水深が僅か十一メートルしかない江田島の海岸へと運ばれ、その乗員も削られてしまい射撃もロクに行えない有様になってしまいます。
無論、燃料がなく動かす事もままならない彼女に、大勢の乗組員は不要かもしれませんが、彼女の機関や主砲がまだ健在だった事を考えると、寂しさを感じずには居られません。
終戦も間近の七月二四日――十機程度の空襲を受け直撃弾一、更に四日後の二八日には二四〇機もの大空襲を受けますが、米軍パイロットの技量は低く、大柄で動けない彼女に対する直撃は殆ど無く、この空襲でも生き残りました。
しかし午後になると、今度は大型機B−24編隊の空襲を受けてしまいます。
午前の空襲で主砲の射撃指揮所と測距儀を破壊されていた為、照準が行えない榛名でしたが、主砲員が山勘で発射させた三式弾が、見事敵編隊の一番機に命中し撃墜させる事に成功します。
このささやかな抵抗が、彼女にとって最後の戦果となりました。
その後、まるで報復の様な大編隊の空襲を受け、十三発の直撃弾によって大破着底。
大正四年(一九一五年)産まれの彼女は、昭和二〇年(一九四五年)、内地にてその長い生涯を終えました。


 まともな作戦に参加する事なく内地にあり、レイテ海戦で敵戦艦との撃ち合いの末、無惨な最後を遂げた扶桑と山城。
活躍の場を与えられる事なく訓練中に爆破事故を起こし、その結果米軍から「両生類」とまで呼ばれる奇妙な姿へ変貌した伊勢と日向。(ただし防空戦艦として大きな働きを見せた他、輸送任務にも役立った)
やはり前線に立つ機会は少ないまま妹・陸奥が内地で爆沈。しぶとく生き残るも、原爆実験の標的として静かに沈んだ長門。
あまりにも大切に扱われ過ぎた為に出番を失い、敵戦力の吸引を全うしてシブヤン海に沈んだ武蔵と、無謀な特攻に駆り出されて沈んだ大和。
結局、日本の戦艦では、金剛姉妹だけががむしゃらに戦い続け、他の戦艦には大きな出番が回る事なく、その力は陳腐化してしまいました。
だからこそ、金剛姉妹が愛されているのでしょうが、他の娘達にももっと活躍の場が与えられたのではないか? そう思わざるを得ません。
そしてそんな不満を感じる者は……
「大和級を前線へ出せ!」とか――
「陸奥にも活躍の場をっ!」とか――
「何とかして扶桑を高速戦艦に出来ないものか!」――といった叫びを上げ、そんな叫びは新たな夢想を産み、夢想を臨界点まで膨らませた者によって新たな仮想戦記が書かれ、書店へと姿を現すのです。
そして恐らくは、その物語の中においても、金剛姉妹達は史実以上の大活躍を見せてくれる事でしょう。
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……と、オチを付けて文章を締めたのですが、「金剛」を紹介する上で忘れてはいけないエピソードがもう一つあります。
やや本コーナーの本筋とは無関係な部分も大きいですが、日本人として知っていて損はないエピソードですので、併せてご紹介しておきたいと思います。

 明治二三年(一八九〇年)六月、オスマントルコ帝国からの特使オスマン・パシャが、明治天皇へトルコ皇帝からの勅書を奉呈(献上)する為に来日していたのですが、彼が座乗した「エルトグルル号」(エルトゥールル号とも)が同年九月十八日、その帰国の途上の紀州大島樫野崎灯台沖合で台風の暴風雨に巻き込まれ座礁、機関が爆発して沈没するという大事故が発生しました。
台風の最中の爆沈、しかも夜中とあっては、その五八七名の乗組員の生存は危ぶまれましたが、大島の樫野村住人達が必至に捜索・救助活動を行った事で、六九名の命を救う事が出来ました。
しかし、この村は通信施設も存在しない僻地である上に、自分達の食いぶちを確保するのが背一杯なお世辞にも裕福とは言えない寂れた村でありました。
当然トルコ語を話せる者がいるはずもありませんが、村人達は身振り手振りで生存者を励まし、冷え切った身体に自らの身体を重ねて暖め彼等の命を救ったのです。
更に村人達は、異国で遭難した彼等の事を思い、僅かな備蓄を彼等に分け与え、それが無くなると、村における「いざ」という時に食料とする鶏達をも振る舞い、彼等の世話に尽力します。
また、岸に打ち上げられた遺体は全て回収し、墓を穿って丁重に葬ったと言います。
その結果、村人達が救ったトルコ人達は回復し一命を取り留めました。
全乗組員に対して一割程度の生存者でしたが、全員が亡くなってもおかしくなかった状況の中にあっては、村人達の必至の救出・看護がその偉業を成し得たのは紛れもない事実です。
この事は、和歌山県知事の言上によって明治天皇の耳にも届き、ことのほか遭難者を心配された天皇陛下は、生存者を本国へ送還する為に海軍に船を出させるよう命じました。
この時に選ばれたのが、コルベット艦(当時は航海練習艦)の初代「金剛」と「比叡」姉妹でした。
姉妹は遭難したトルコ人達を載せて十月十一日に神戸港を出立、翌明治二四年(一八九一年)にイスタンブールへと到着し、トルコ皇帝をはじめ大勢の人々の歓喜によって迎え入れられました。
ご承知の方も多いかもしれませんが、このお話には続きがあります。
それはまだ記憶にも新しい、一九八五年三月十七日の事です。
当時の中東はイラン=イラク戦争の真っ直中で、イラクのサダム・フセインという困ったちゃんが、膠着状態を脱する為に「今から四八時間後にイランの上空を飛ぶ全ての飛行機を撃ち落とす」と……何と無差別攻撃を世界へ向けて宣言をしたのです。
やる事も無茶苦茶ですが、四八時間というリミットに世界の各国は大わらわ。
当然、イランにも派遣されている日本の企業人やその家族達が在しており、彼等は慌ててテヘラン空港へと向かいました。
しかし、どの飛行機も満席である事は言うまでもなく、定期便にあぶれた人々は空港へ取り残されてしまいます。
世界の各国は自国の救援機を出してそれぞれの自国民を救出しましたが、当然ながら自国民優先であるが為に乗せて貰える日本人は少なく、約二百人がイランを脱出する事が出来なくなってしまいました。
そんな事態にも日本政府の対応は遅れ、自衛隊機の海外派遣は許される事なく、外務省が依頼した日本航空は「(時間的に)帰る際の安 全が保障されない」として派遣を断念してしまいます。
タイムリミットは迫り、もしも脱出できなければ戦争が終わるまで彼等の帰国は絶望――最悪、戦闘に巻き込まれて死亡するかもしれません。
そんな危機的状況の中、テヘラン空港に二機のトルコ航空機が颯爽と降り立ち、取り残されていた日本人二一五名全員を乗せて脱出する事に成功しました。
その時、タイムリミットの僅か一時間十五分前。(イラン領空から出るまでの時間を考慮すれば本当にギリギリと言えるでしょう)
何故、政府による打診も要請も無かったにも関わらず、危険を省みずにトルコ航空機が助けに来てくれたのか? 即座にその理由に思い当たる者は、マスコミはおろか日本政府にも居ませんでした。
朝日新聞などは「日本がこのところ対トルコ経済援助を強化しているからでは?」といった、まるで金目当ての恩売り行為の様な書き方をしましたが、その理由こそが、前述したエルトグルル号遭難事故だったのです。
トルコの方々にとって、その事故は国民であれば誰もが知っている(歴史教科書にも載っているとの事)逸話であり、その時に日本人がなした献身的な救助活動を忘れていなかったのです。
一世紀の時を経て行われた恩返しも、彼等にしてみれば「あたりまえ」の行動に過ぎなかったのです。
トルコの派遣してくれた二機の航空機は、百年前の金剛姉妹に対する恩返しとも取れるでしょう。
知らなかったのはただ今の日本人だけ――自国の歴史に対する無知がどれ程恥ずべき事か……実に思い知らされます。


 ……とまぁ、話が逸れましたが、金剛と比叡の名を持った船が国際外交にも大きく寄与していた事は、太平洋戦争における活躍以上に、彼女達の名が今後も延々と使われる理由としても十分だと思います。
「比叡」と「榛名」は「ひえい」「はるな」となって、近年の海上自衛隊の中核をなし、長きに渡って日本を護ってきました。
そして「金剛」と「霧島」は、「こんごう」「きりしま」となって、日本を護る盾――イージスとして今も日本を護る為に働き、「いざ」という事態があれば、太平洋中を走り回った先代達の様に活躍をしてくれるでしょう。
しかし願わくば、同じ名を持ったもう一つの先代達の様に、戦場からは程遠い場所にて、良き国際外交に寄与できる様な娘である事を期待したいところです。
そして、それこそが彼女の名を受け継ぐ者達に求められる、正しき資質ではないかとも思っております。


※エルトグルル号遭難事故に関しては、こちらサイト(球史探訪:エルトゥールル号事件のこと)も参考にさせて頂きました。
※建造時における輸入資材比率の情報を頂きましたので加筆修正致しました。ご指摘感謝です。


総員退艦!