#11【海と空の邂逅 〜航空母艦鳳翔〜】

by ヨグ



航空母艦「鳳翔」(新造時)
基準排水量:7470t 全長:168.25m 最大幅:17.98m 喫水:6.17m 出力:30000hp 速力:25kt 航続距離:不明
兵装:14cm単装砲×4 8cm単装高角砲×2 航空機:常用15機
乗員:887名 同型艦:なし


 軍艦には様々な種類があります。
戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、揚陸艦etc……、これら軍艦の中で最も新しい顔なのが空母です。
無論細かい種類を言えば強襲揚陸艦や戦略原潜の方が新しいかもしませんが、大雑把なカテゴリという意味合いからはそう言って差し支えないでしょう。
今回は、そんな空母の誕生と、世界初の制式空母として誕生した「鳳翔」について書きたいと思います。

 まず「鳳翔」という言葉ですが、これは完全な造語であり、「鳳」は霊鳥である「鳳凰」(聖天子が国を治める時に現れると言う伝説上の鳥で、雄が「鳳(ホウ)」で雌が「凰(オウ)」を意味します)を指し、そして「翔」は「羽ばたく」「かける」という意味がありますので、即ち鳳が羽を広げて天を駆けるという意味になります。
いきなり話が脇道に逸れますが、日本海軍艦艇の銘々基準には法則があります。
ご存じの方も多いとは思いますが、この場で簡単に説明しておきます。
海軍が創立してから明治三七年頃までの間は明確な基準が存在しませんでしたが、明治三八年の四月に時の海軍大臣、山本権兵衛が艦名選定の標準化を作成し、明治天皇へと奏上。その時の原案が基準となり、新たな艦種や時代の流れに合わせて若干の修正を加えつつ太平洋戦争の頃には、概ね以下のような形となります。
 戦艦――国の名。国の美称。
 航空母艦――瑞祥(めでたいもの)の動物名を模した漢語。後に国、山の名でも可になる。
 潜水母艦――鯨の名を模した漢語。
 重巡洋艦――山の名。
 軽巡洋艦――川の名前。
 一等駆逐艦――天象地象の名。
 二等駆逐艦――植物の名。
 海防艦、敷設艦――島の名。
 揚陸艦――半島の名。
 練習艦――神社名。
 水雷艇――鳥の名。
 潜水艦――固有名は無く番号。
……と、細かい部分ではもっと区別できますが、大体こんな具合です。
(自衛隊の艦艇になるとより明確化されてますが、それはまた別の機会に)
日本の軍艦名で諸外国と異なる最たる部分は、人名が存在しないところですが、どうも日本人の感覚に合わない事と、仮に用いたとしても同性が多く、ならば姓名両方を用いれば、冗長になってしまうから……という事らしいです。
確かに、いくら海軍に貢献したとはいえ、戦艦に「山本権兵衛」という名前を与えても、どうも馴染めない様な気がしますし、名前を聞く度につい笑ってしまいそうです。

 さて、それでは話を空母の話へと戻します。
 空母は航空母艦の略語であり、英語ではエアクラフトキャリアとなり、当然「飛行機」という物の存在が無ければ成り立ちません。
その飛行機ですが、有名なライト兄弟による初飛行が一九〇三年でありますから、当然それらを運用する空母はそれ以降に考案開発された艦種になります。
飛行機そのものの軍事利用は、第一次世界大戦からになりますが、それを軍艦に搭載して使用するという発想事態は、このライト兄弟の初飛行の直後から米海軍が考えたといいます。
結果的に太平洋戦争を通じて熟成した空母は、戦後から現在に至るも、最強の洋上戦力として君臨し続ける事になりますが、それは遠い未来の話で、まだ飛行機というものが出来たばかりの当時においては、軍艦に飛行機を搭載する――というアイディアは、どちらかというと突飛なものとして考えられてました。
しかし一九十〇年十一月十四日、米国の飛行家ユージン・エリィ氏が早くも軍艦から飛行機を飛び立たせる事に成功させます。
飛行機がこの世に登場して僅か七年! 恐るべきスピードです。
それだけ飛行機という物に、世界が注目していた証なのでしょう。
この発艦は米海軍の軽巡洋艦バーミンガムの前甲板に長さ二五メートル、幅十七メートル、艦首に向けて前下がりに傾斜しているの滑走台を設置し、カーチス陸上複葉機(出力は五十馬力)によって行われました。
風上へ向かって航行する事によって作られる十八.五km/h(約十ノット)の合成風を受け飛び立ったカーチスは、フワリという言葉通りに浮き上がり、海面へ激突しそうになる不安定な姿勢ながらも何とか立て直し見事発艦に成功、そのまま機は陸上にて着陸を終えたそうです。
この実験の成功によって、航空機の軍艦への搭載を各国が模索する事となるのですが、発艦だけが可能というだけでは、その利用に様々な制限がかかってしまいます。
永久機関を搭載した飛行機というものが、現代においても存在しないのですから、離陸した飛行機は当然「着陸」させなければなりません。
そこで今度は軍艦に着陸――着艦の実験と相成るわけですが、その実験は発艦実験から僅か二ヶ月後の一九十一年一月十八日、同エリィ氏によって行われ見事成功させます。
風速五メートルの追い風がある状況下で、氏の操るカーチスは着艦台のピアノ線にフックを引っ掛け、見事二四メートルの距離で停止させてみせた。
この実験で使用されたのは装甲巡洋艦ペンシルヴァニアであり、彼女の後部甲板に設けられた着艦台は長さ三一メートル、幅は十〇メートルというのだから、エリィ氏の腕は殆ど神業と言って良いでしょう。
発艦と着艦が成功したからと言って、それが即艦載機と空母の登場という訳にはいきません。
なにしろ、着艦というのは現代でもそうなのですが、パイロットにとっては最高難易度を誇る作業になります。
パイロットの育成、専用機の開発など、そして今だ誰も見ぬ空母の建造――問題は山積みです。
そこで、もっと簡単に航空機を搭載し利用できないか? という事が考えられ、その回答は水上機という形となって現れます。
エリィ氏が着艦を成功させて一ヶ月後の二月十七日には、カーチス社がフロート付き水上飛行機を完成させ、ペンシルヴァニアの側舷着水を成功させます。
この機体はペンシルヴァニアのクレーンで一旦引き上げられたが、その後直ぐに水上へ降ろされ、そのまま離水実験を行い成功します。
この一連の実験成功は、航空機を軍艦に搭載し運用する事が実用化される事を意味し、このニュースは世界の列強各国を刺激して独、英、仏はそれぞれ独自に軍艦に搭載する事を目的とした艦上機と水上機の開発を始めます。

 世界の列強と肩を並べたい――そんな野望を抱いていた日本でも飛行機に対する関心は強く、一九十二年(明治四五年)には、海軍が飛行機を採用し、横須賀の追浜に水上機基地が作られます。
一九十五年(大正四年)には水上機の運用を行う為に貨物船「若宮丸」(元々は英国貨物船レシントン)を改造し、世界初の水上機母艦「若宮」として竣工させます。
(水上機母艦は英国の「アークロイヤル」が世界初とよく言われてますが、これは誤認であり彼女の竣工は若宮の四ヶ月後)
 ついで話になりますが、当時は「水上機母艦」という名称は存在せず、若宮は非公式に「航空隊母艦」と呼称されており、それが大正九年のに定められた海軍艦艇分類によって「航空母艦」とに制定されます。
つまり、日本で初の空母というカテゴリに属した艦はこの「若宮」という事になります。
もっとも後に制定される空母の意味合いからは外れてしまうため、現在ではそうは思われてませんが、当時は紛れもなく「空母」として存在していたわけです。
さらに若宮は大正九年に改装を受け、艦首に全長十八メートルの滑走台を設置、日本初の飛行機発艦実験に用いられ、それに成功させます。
(この実験に用いられた飛行機はソッピース社製の複葉戦闘機「バップ」であり、風速十〇メートルの向かい風があれば離陸に必要な距離は何と驚愕の六メートル!ハリアーもびっくりなSTOLっぷり)

 一九十四年八月に第一次世界大戦が始まると、航空機は初めて戦場へ投入される事になります。
航空機を搭載した軍艦もこの頃に本格的の登場し、英軍では水上機を三機搭載出来るように改装された旧式巡洋艦ハーミスが実戦投入され、その偵察能力を発揮させます。
元々艦隊の目としての能力を担っていた巡洋艦が、航空機を搭載するのが当たり前になって行くのは、このハーミスでの実用結果が有効であった為だと言います。(尚、彼女は一九一四年十一月独潜水艦の魚雷を食らい戦没してしまいます)
十一月には英軍が商船改造の水上機母艦「アークロイアル」を完成させ、さらに何隻かの商船を水上機母艦へと改造し、艦隊へ配備させてゆき、偵察と爆撃任務に活躍する事になります。
同年のクリスマスには、艦載機による初の爆撃が行われ、突然の空襲に独軍は慌てふためいたと言います。
 予想外の場所から攻撃が可能――これこそが艦載機を運用する空母の最大の特徴であり長所であり、それはこの初戦においても発揮されていると言って良いでしょう。
更に地中海では英軍の艦載水上機が航空魚雷を発射し、トルコ軍の輸送船を撃沈させ、世界初の航空機による船舶撃破を達成します。
運用して艦載機の利点に気が付いた英国は、その実用性を向上させる為、より多くの機体を搭載可能な母艦を欲し、一九十六年には十機の水上機を搭載可能な改装水上母艦機「カンパニア」を完成させます。
彼女には船内格納庫から飛行甲板へと移す為のエレベーターが初めて採用され、以後の水上機母艦の運用効率が上がってゆきます。
当時の水上機の性能は航空機としては大した物ではなかったですが、それでも艦隊の目として偵察任務には非常に有効な点が重宝され、同年五月、英軍がジュットランド沖で独軍の大艦隊をいち早く発見し、後に発生する世紀の大海戦「ジュットランド海戦」で英艦隊が独艦隊を打ち破ったのも、水上機による偵察がもたらしたものです。
ただ水上機にも限界があります。
先にも述べた通り、性能が低い事と、運用面の制限がそれです。
つまり普通の航空機と違って、フロートという余計なギミックを有している水上機は、空戦になった場合完全に不利で全く太刀打ちが出来なく、また機体を収容する際は、母艦の足を停めてクレーンなどで回収しなければなりません。
そこで陸上機を載せる艦が模索される事となるのです。
当時、大西洋や欧州海上の空を支配していたのはドイツの巨大飛行船――ツェッペリン級です。
初の戦略爆撃を行い、空の魔王とまで呼ばれ英国や仏軍の兵士達を恐れさせたツェッペリンは、洋上の高空を悠然と飛翔して偵察や観測任務に就いていましたが、水上機での撃墜は不可能でした。
そこで英軍は陸上戦闘機を搭載可能に改装した軽巡洋艦を就役させます。
この時艦載機として採用されたのが、日本初の発艦実験を成功させた超STOL機のバップ戦闘機です。
一九一七年八月にバップを搭載した軽巡洋艦ヤーマスが北海にてツェッペリン級飛行船に遭遇、発艦したバップは見事これを撃墜。
以後、英軍では軽巡洋艦以上の艦すべてに、艦載機の搭載を行ってゆき、そした更なる運用の向上と搭載機の拡大を目指し、航空機を専門に運用する新たな艦を模索してゆき、航空母艦へと一気に発展してゆく事になります。

 さて、この様な背景があって空母は誕生するのですが、何しろ初めての種類なものなので、作る方も勝手がわかりません。
英国では軽巡洋艦フューリアス(巡洋戦艦程の性能や大きさを有していたが防御力が軽巡程度だった)を空母へと大改造するのですが、これが完全な失敗作に終わります。
艦橋や煙突を挟んで、艦首と艦尾にそれぞれ発艦用と着艦用の飛行甲板を設置し、そして飛行機の移動が不便という理由で、後からそれら二つを結ぶ通路が艦橋を挟むように両舷に作られたのですが……発艦はともかく、煙突から排出される熱気が艦尾の気流を乱れさせる事で着艦は困難を極めます。
着艦コースにつく航空機は例外なく激しく揺れ、それでも無理に着艦すると、風に煽られて飛行甲板から横滑りに落下してしまう有様。
何とか無事に着艦できた数少ない機にしても、煙突前に設置した防御ネットに絡まる形で不格好に停止し、どこかしらに破損箇所を産むという実用不可能なレベルで、空母としての運用は不便極まりなく、結局は艦尾の着艦甲板はテスト段階以降、実戦では一度も使用されませんでした。
しかし、これらの失敗のデータが空母には、余計な艦上構造物が不要であるという認識を産み、空母のひな形が完成してゆくのです。

 さて、ここで日本に目を向けましょう。
最初から空母として設計・建造された空母を制式空母(正規空母とも)と言いますが、その制式空母のパイオニアが一九十九年(大正八年)末に起工し、三年の歳月を経て一九二二年十二月二七日に完成・就役した「鳳翔」です。
初めて空母を見る者に、彼女の姿は酷く不格好に思えたかもしせませんが、艦体の端へと寄せた――いわゆる「アイランド型」の艦橋や、それに準じた煙突、そして艦首から艦尾まで繋がるフラットな飛行甲板を備えた姿は、正に空母としての標準的なデザインを有していました。
排水量は七四七〇トン、全長一六五メートル、速度は二五ノット、搭載機は三一機(ただし常用は十五機)というスペックは、ゼロからスタートした初の本格空母としては十分な性能と言えるでしょう。
着艦時に何かと悪影響を及ぼす煙突に関しては、起倒式煙突を採用し、情況に応じて直立状態から水平状態まで角度を調整する事が可能になっています。
格納庫は前後二つに分かれており、それぞれ戦闘機用と攻撃機用とされ、飛行甲板とを結ぶエレベーターが一基ずつ装備されていました。
完成時の武装に関しては十四センチ単装砲が四門、八センチ高角砲二門を装備していましたが、これは後に全て撤去される事となります。
なお、フューリアスの失敗に懲りた(と思われる)英国も、同様に制式空母である「ハーミーズ」の建造を始めるのですが、その起工は一九十八年と、鳳翔よりも早いのです。
それだけではありません。実はこのハーミーズの起工は、フューリアスの改造よりも早かったのです。
当時の空母の建造が、如何に手探り状態だったかが伺えます。
結局、ハーミーズの完成は第一次世界大戦の影響もあって、起工より六年後の一九二四年の二月となり、後から建造が始まった鳳翔の二年も後になってしまうのです。
ですから、世界初の純粋な空母としてよく知られている鳳翔ではありますが、書類上では「若宮」、建造順で言えば「ハーミーズ」の方が早く、正確に言うと「世界で初めて竣工した制式空母」となります。
更にややこしい事に、日本の空母艦籍記録上では三番艦になっていたりします。
これは大正九年に日本海軍が「航空母艦」という艦種を制定した時、鳳翔は既に「第七号特務船」という名前で建造が始まっており、時を同じくして議会に承認された八八艦隊計画の計画書上にて第一号空母の名称が「翔鶴」として既に発表されていた事と、先に述べた水上機母艦の「若宮」が、この時点では航空母艦として分類されてしまった事によるものです。
ですから入籍順で言えば、日本空母は一番目が若宮、二番目が翔鶴、そして三番目が鳳翔となるのです。
日本空母を多少なりと知っている方であれば「あれ?」と思う方も多いと思いますが、ここで言う「翔鶴」は昭和十六年に竣工した日本空母の集大成とも言うべきそれでは有りません。
意外と知らなかった方も多いと思いますが、彼女は鳳翔(当時は第七号特務船)の拡大改良型として八八艦隊計画の中で建造予定だった空母で、神戸川崎造船所にて起工準備が進められるも、ワシントン軍縮会議の影響で建造中止となった幻の艦です。

 余談ながら、”この”翔鶴が二代目で太平洋戦争で活躍する翔鶴は三代目となります。
んじゃ初代はダレよ? ――という疑問が浮かぶと思いますが、これが調べてみると……何と一八六四年の文久三年(おおっ江戸時代!)に幕府が英国のデント社から購入した排水量三五〇トンの木造蒸気外車船でした。
彼女は大政奉還により、慶応四年四月十一日(九月に「明治」へと改元されるので明治元年とも言えますが、四月はまだ江戸である為こう記載します)に朝廷へ献納され、同月二八日には正式に国有となり、帝国海軍籍の第二号艦として記載されます。
更に余談ですが、第一号は「朝陽」と言い、オランダにて「EDO(江戸)」という何ともストレートな仮称で建造された木造蒸気内車船で、明治二年、官軍と幕府軍の間で行われた函館海戦にて、火薬庫への直撃を食らい爆沈。帝国海軍最初の戦没艦となりました。

 話を鳳翔に戻しましょう。
肉の入っていない牛丼が牛丼とは呼べないのと同様、空母であるからには当然、搭載される飛行機を必要とします。
この艦載機は、鳳翔に先駆ける事一年、一九二一年(大正十年)に、三菱航空機によって完成されております。
日本初の国産制式艦載機である「一〇式艦上戦闘機」と「一〇式艦上攻撃機」がそれです。
戦闘機の方は時速二百キロ、武装は七.七ミリ機銃を二挺搭載した複葉機で、攻撃機の方は速度が戦闘機とほぼ同じで四六センチ航空魚雷を装備した日本唯一の三葉機で、雷撃機としては珍しい単座の機体でした。
このように、艦載機も作り準備も万端、英国のハーミーズを抜きさり世界初の空母として就役した彼女ですが、実は産まれたもののその運用法に関しては殆ど白紙状態だったと言います。
何しろ、当時の日本には空母への着艦が出来る者が居なかったのですから、当然と言えば当然です。
発艦に関しては、冒頭でも述べた様に若宮での実験も終えており、合成風さえ作ればさして難しくはなく、極端な話――度胸さえ有れば何とかなる、といった日本お得意の精神論でも大丈夫でした。
しかし飛び立った飛行機は着艦しなければ、空母として作った意味は有りません。
ともなれば、せっかく作った航空機も無駄になってしまう――そこで困り果てた三菱航空機は、「当社の一〇式艦上戦闘機で最初に鳳翔への着艦を成功させた方へ賞金を差し上げます!」とパブリッシングに務める事になります。
この宣伝に身を乗り出したのが、当時来日中で三菱航空機が雇っていたテストパイロットのジョルダン元海軍大尉(英国人)です。
この着艦実験――というより着艦コンテストは、鳳翔が完成して三ヶ月も後の一九二三年(大正十二年)の二月五日に東京湾にて行われ、彼は九回に渡って発着艦を成功させ、誕生間もない海軍パイロット達に模範的手本を示しました。
なお、賞金は一万五千円だったそうです。(当時の初任給が帝大などの一流大卒で約八〇円ですから、相当凄い金額だと言う事が判ると思います)
ジョルダンの成功に触発され、翌月の三月十六日には吉良俊一大尉が日本人として初めての着艦に成功。
しかし、二度目の実験では失敗し、飛行機もろとも飛行甲板から落下してしまいます。
(それでも彼は無傷で救出され、そのまま別の機体で三回目の実験へと飛び立ったと言いますが……何とも凄い話だ)
さて、そんなパイロット達の捨て身の実験を繰り返す内に、鳳翔の問題点が明らかになってゆきます。
まず問題となったのが艦橋構造物。
フューリアスでの教訓を活かして右舷へと寄せて作られた艦橋だったのですが、さして大きくない鳳翔の艦体にはサイズが大きく、しかもその場所がちょうど艦首にかけて艦幅が狭くなって行く場所に在った為、甲板の面積を極度に圧迫して発艦作業の邪魔になる事が判りました。
また飛行甲板は、発艦を助長させる為に艦首に向けて前下がりに傾斜がかけられていたのだが、これが実際の発艦において何の意味も無い――否、むしろ安定感が無くなるという事が判明します。
これらの問題点はすぐさま改良が加えられ、年内には艦橋が撤去され、傾斜角を撤去したフルフラットな飛行甲板を装備した姿となります。
さらに着艦制動装置の改良も進められてゆきます。
当初、甲板上に縦方向でたくさんのワイヤーを張り、着艦時における艦載機の横滑りを防止し、かつタイヤとの摩擦を利用して減速を促していたのですが、機体を停止させるという性能は持ち合わせていませんでした。
そこで昭和五年になって、米海軍がラングレーで実験し実用化させた制動装置――飛行甲板の左右に間隔を置いてワイヤーを横に張っておき、着艦時の航空機は尾部からフックを降ろしてワイヤーに引っ掛ける――を取り入れます。
(なお、本ページ冒頭でも書きましたユージン・エリィ氏が世界初の着艦を達成した時、すでに似たような方式が採られていましたが、この頃はワイヤーの先端に砂袋を吊し、着艦した機体を徐々に停止させるという物で、当時の布張りの飛行機では急激な制動をかけると剛性不足でバラバラになる為の措置でした)
そして昭和九年には起倒式煙突を廃止し、水平よりやや下へ向けた角度の固定式煙突へと改めます。
その理由は、起倒装置の重量があまりに大きく、トップヘビィを助長し艦の復元力を損なう恐れがあった為だと言います。

 このように、空母という未知の艦種を探る為の実験艦という意味合いが強かった彼女ですが、決定的な欠陥もなく、続いて産まれるであろう次世代の空母の為の貴重なデータと経験を与えた艦として、海軍に大きく貢献します。
こうして実験艦でありながら彼女は、各種実験をこなし問題が見つかる度に改装工事を行った為、小型ではあるものの完成された艦として熟成し、小型空母として実戦参加が可能な性能を有していました。
時代が前後しますが、一九三二年(昭和七年)一月二六日――上海の日本海軍陸戦隊と中国軍の間で武力衝突が発生し、これが上海事変へと発展するわけですが、彼女はこの時空母「加賀」と共に第一航空戦隊を編成し上海沖へ出撃、艦載機による偵察や上陸援護、敵陣地爆撃などの支援作戦を展開します。
既に旧式艦となっていた彼女にとって初めての実戦ですが、二月五日には初めて姿を見せた中国軍機との空中戦を行い、彼女から飛び立った艦載機――三式艦上戦闘機が敵機を撃墜します。
これこそが、日本海軍機による初めてのスコア(敵機撃墜)でした。
更に同月二二日には中国軍が雇った米国のパイロット、ロバート・ショート中尉の操るP12戦闘機を撃墜するなど、単なる実験艦の枠を越えて活躍し、空母の実戦能力を証明して内地へと帰還しました。
次いで一九三七年(昭和十二年)に支那事変が勃発すると、彼女は再び出撃、上海や広東方面の支援作戦へと従事しますが、流石に戦力としては期待されず、搭載していた艦載機を空母「龍驤」に移送して本土へ帰還し、翌十三年には予備艦に編入され、練習艦として使用される事となります。
もっとも彼女の場合、実戦参加こそが特異で、練習や実験こそが本業でありますから、元の立場へ戻ったといったところでしょう。
しかしそんな彼女も、太平洋戦争が始まると同時に現役復帰を果たします。
ただ既に艦齢が二〇歳近い彼女は、航空機の発展と戦術の変化による新型機の運用、そして機動部隊の高速化に追従出来ず、第一線で戦う機会は訪れませんでした。
それでも彼女はミッドウエー海戦で大和を初めとする主力部隊の護衛艦として参加し、彼女の娘達が倒れてゆく悪夢的現実に至り、そのまま無傷で帰還します。
以後、彼女が作戦への参加する事はなく、内海にて本業――練習空母として海軍航空パイロットや空母要員達の育成に務めます。
彼女の飛行甲板から旧式の九五式艦上戦闘機や、九二式艦上攻撃機で飛び立ち、やがて激戦地へ向かうパイロット達にとって、彼女はまさに母親と言えます。
しかし、そんな彼女も続々登場する新型機を――練習とは言えども――運用するには難しくなり、飛行甲板の拡大改装を行い、この結果甲板の全長は一八〇.八メートルとなり、一六五メートルの船体よりも長くなってしまいます。
この結果、彼女の完成されていたスタイルのバランスが崩れ、外洋を航行する事が不可能になり、遂に空母としての運命を断たれたわけです。
誕生してから日本海軍の空母運用力を養い、数々の実験や訓練、新装備のテストベッドとして改装を続けられた彼女は、練習艦として呉で終戦を迎えます。
終戦時、無傷だった数少ない艦であった彼女は、最後の改装を受ける事になります。
それは一切の武装と飛行甲板の不要部分を撤去する事でした。
航空機を飛ばす事も、着艦させる事も出来なくなった彼女でしたが、この改装の結果、再び外洋へと旅立つ事が可能となったのです。
そして彼女が航空機の代わりに搭載する事になったモノ――それは数々の戦場で戦い続けた兵士達でした。
彼女はその身体に無数の兵士達を抱き、彼らを故郷へと届ける復員輸送船として活躍します。
結局、実戦で航空機を飛ばす事は無かったものの、太平洋戦争を最初から最後まで見届けた唯一の空母として、その生涯を全うした彼女は、全ての役目を終えた一九四六年九月に解体処分とされました。

 彼女の存在はどちらかというと地味ではありましたが、それでも世界初の制式空母として誕生しその名を歴史へ刻み込んだ事は事実であり、近代空母の発達と完成への道を切り開いた事の功績も高いと言えるでしょう。
そして、なにより日本海軍の空母は、彼女に始まり彼女で終わりを迎えた事で、日本海軍空母の歴史そのものと言っても過言ではありません。

故に、将来日本が再び空母を保有する時代が来たとしたならば、再び「鳳翔」の名を与えて、新たな歴史を見届けて欲しいと願います。



総員隊艦!