#10【島に吹く奇跡の風 〜試作高速(丙型)駆逐艦島風〜】

by ふれでぃ様(+ヨグ)


丙型駆逐艦「島風」(新造時)
基準排水量:2567t 全長:129.5m 最大幅:11.2m 喫水:4.1m 出力:75000hp 速力:39kt 航続距離:6000浬/18kt
兵装:12.7cm連装砲×3 25mm連装機関銃×2 13mm連装機銃x1 61cm5連装魚雷発射管x3
乗員:267名 同型艦:なし


 試作――『試しに作る』
次世代においてより良きモノを生み出すために。
この艦も、その運命の元に生を受けた。

戦艦『大和』の二十分の一以下の抵抗しか持たない船体に『大和』の半分の出力を持った機関を搭載。
駆逐艦『島風』(U)は日本駆逐艦建造のメッカともいえる舞鶴工廠で産声を上げた。
『島風』は第四次海軍艦艇補充計画において一隻だけ建造された、つまり同型艦は計画されてない。
それは『島風』が試作としての意味合いを多く含む艦だったからだ。

では、『島風』が……そしてその後継たる駆逐艦群が目指すモノは何だったのか?

答えは明快だ。
より速く、そしてより雷撃力の強い駆逐艦。
艦隊決戦前夜、少なくとも数においては確実にこちらを上回る米戦艦を一隻でも多く屠るために。

『島風』の艦名そのものさえもがそれを表している。
その名は、かつて日本海軍最速を記録した峯風型駆逐艦から譲られたものなのだから。

八八艦隊計画が潰え、ワシントン、ロンドン両条約において課せられた重い足枷。
さらには、日本海海戦の栄光を再び再現するために。
『島風』は日本海軍が生み出すべくして生んだ、日本海軍そのものの駆逐艦だったのだ。

事実、『島風』は誇るべき優秀艦だった。

多少荷重が軽い状態だったとは言え、公試では40ktを記録し、その名に相応しい韋駄天ぶりを示した。
五連装三基の発射管に込められた魚雷は文字通り隔絶した性能を誇る酸素魚雷。
『島風』によって、日本駆逐艦の技術は決戦用駆逐艦として理想の域に大きく前進した。

事実、第五次海軍艦艇補充計画では一個水雷戦隊用16隻の島風型が計画されていた。
そればかりか戦隊旗艦として島風型に対応すべき能力を持った改阿賀野型軽巡洋艦さえも。
繰り返す、『島風』は最強の水雷戦隊への大いなる一歩だったのだ。

……だが。

太平洋戦争が始まった。
総力戦における鉄則の一つ。
『未完成の優秀艦より戦場に在る平凡な艦』

その意味において、『島風』の構造は精緻に過ぎた。
少なくとも、その優秀性を引き出す根源である缶は戦時に量産できる代物ではなかったのだ。
改第五次海軍艦艇補充計画で建造されたのは夕雲型駆逐艦だった。
(しかも、その一隻たりとも実際に起工されることはなかった)

かくして……夢は、潰えた。
『島風』は報われなかった。

いや、それ以前に……
『島風』を生んだ日本海軍の建艦思想さえもが現実と遊離していた。

『島風』の竣工は1943年5月10日。
孤独な『島風』は第一一水雷戦隊での訓練を経て第二水雷戦隊へと配備される。
その後、オルモック湾に最期を迎えるまでの一年半において『島風』が赴いた戦場は……

『奇蹟』のキスカ。
マリアナ沖の無残な敗戦
聯合艦隊の最期、レイテ沖海戦。
そして、地獄のオルモック輸送作戦。

果たして、その何処に『島風』が『島風』である必要があった作戦があるだろうか?

その事実は『島風』の優秀性を何ら辱めるものではない。
だが、それでも……

歴史が違ったなら存在し得た筈の最強の水雷戦隊。
その先駆けという華が『島風』の名に添えられなかったことが寂しい。






管理人ヨグより:
ふれでぃさんより駆逐艦島風のお話を投稿を頂きました。
実は、ふれでいさんよりこのテキストを頂いたのは、何と何と一年前の十五年五月五日!
(調べて驚くと同時に申し訳なくなって胃が痛みました。本当に、申し訳ございませんでした。いずれ埋め合わせをしたいと思います)
ずっとTOPページで「準備中」になっていたわけですが、本当の事を言えば何もしてません。
結局、今日半日かけて手持ちの資料を慌てて調べて書いたわけなんで、私の慌てぶりを鼻で笑いながら、以下へお進み下さい。



 さて、島風です。
その名前の意味は「島から吹いてくる風」または「島で吹く風」を指し、初代は大正九年十一月十五日に舞鶴で竣工した峰風型駆逐艦になります。
計画速力三九ノットの超高速駆逐艦で、初代島風は公試運転時に四〇.七ノットの艦速新記録を樹立しました。
これにより、彼女は日本で初めての四〇ノット突破を果たした艦となり、昭和十八年に二代目の島風に破られるまで、長い間タイトルホルダーとして君臨する事となります。
意外と知られていないと思いますが、この初代島風も太平洋戦争に参加しています。
昭和十五年四月一日に駆逐艦から哨戒艇へと籍を移し、名称も「第一号哨戒艇」という、何とも面白みや風情に欠ける名前に改称されて太平洋戦争に突入し、開戦時にはフィリピン攻略作戦に参加。
次いで蘭印攻略作戦に参加し、あのミッドウェー作戦にも参加しています。
ウェーク島攻略作戦に参加した時は、僚艦の「第三二号」と「第三三号」の挺身的な強行接岸によって上陸成功を果たし、緒戦における大きな武勲も立てています。
昭和十七年八月以降は、地獄の戦場――ソロモンへと投入され、ガダルカナル島への輸送任務や、ショートランド島方面への哨戒・護衛任務に就きますが、昭和十八年一月十二日、給油艦「あけぼの丸」の護衛任務中に、米潜水艦「ガードフィッシュ」の雷撃を受け沈没してしまいました。
かつて「島風」と呼ばれた彼女が南太平洋で長い生涯を終えてから四ヶ月後――昭和十八年五月十〇日、彼女が生を受けた同じ舞鶴の地で、その名を受け継いだ新たな「島風」が生まれます。
彼女こそ、帝国海軍艦艇が好きな方ならば、ほぼ確実に知っているであろう試作高速駆逐艦「島風」です。
何しろ同型艦が一隻も存在しないのだから、その特殊性が伺えます。
ガンダムに代表される、世のアニメや漫画、ゲーム等で試作機に過ぎない主人公メカが、改良され熟成したはずの量産型よりも強いのは、こういった艦の影響が多分にあるのかも知れませんね。
ハイテクかつ余りにも複雑な構造故に量産に不向きなジェネレーターを搭載し、重武装で高速――という設定に加え「試作高速駆逐艦」という形式名称が、ヒロイックな雰囲気をバシバシ出してますんで、太平洋戦争をアレンジした今日的戦闘アニメーションを作るならば、主人公メカは島風以外にあり得ないっ!……かなぁ。

と、どうでもいい話は置いておき、彼女の生涯は上でふれでい氏が書かれた通りですので、私の捕捉は彼女の生まれた背景と、彼女が関わった作戦で有名なキスカ撤収作戦に関して、詳しく説明したいと思います。

 先にも述べたが彼女の存在は特異であります。
普通、軍艦――特に、駆逐艦の様な汎用艦を建造する場合は同型艦が作られます。
これは単艦で作戦行動が基本的にあり得ない(独海軍は例外)事と、同じスペックを有した艦同士の方が、何かと運用上利点が多い事、そしてなによりコスト(何種類も作るよりは、同じ艦を複数作った方が遙かに安価かつ効率がいい)の問題があるからです。
当然ながら彼女にも十六隻の同型艦建造計画が有ったのですが、彼女の身体は余りにも量産に不向きだった事で取りやめとなりました。
一人娘となって運用上、非常に難しい立場の彼女のアイデンティティは、「高速」で「重武装」という点に集約されます。
速度が速ければ速いほど作戦を有利に進めるのは当然でありますから、当然どの国でも少しでも速く速度が出せるような研究や設計はされます。
彼女はその極端な例という事です。

 軍艦――砲撃艦は大雑把に分けて、戦艦、巡洋艦、駆逐艦という三種類に分けられます。
水上戦闘でのぞれぞれの役目は、戦艦が大きな大砲で一撃の元に敵を屠る事(なおかつシンボルとして自分の身も守る必要がある)で、巡洋艦は高速を活かして先陣切って敵に突撃し敵にダメージを与える事(なおかつ戦艦の盾となる事も必要)、駆逐艦は巡洋艦より更に高速で迫り、魚雷という必殺武器で敵を沈める事になります。
当然、駆逐艦は外洋で運用される最小の艦艇であるから、他の大型艦艇の盾となる事もその大事な役目となり、となれば当然「消耗品」として扱われてしまいます。
(日本の駆逐艦に厳密な艦長が存在しないのはその為)
このような認識が、時の帝国海軍には有った為、日本の駆逐艦は「速度」と「雷装」に拘るわけです。
特に日本は酸素魚雷という、他国が遂に実用化出来なかった強力な武器を所持していたので、その傾向がより強くなります。
(逆に他国の場合は、その消耗品としての汎用性の高さに目を向け、攻撃力よりも防空や対潜といった防衛能力を高めて行く事になります)
そんなお国柄的背景があって、島風は誕生したわけです。

 当初の計画速度は何と驚きの四五ノット!(時速換算だと八一km!)になりますが、こうなるともはや艦の速度ではありません。
目標を達成する為のプロトタイプとして、彼女はコストも手間も度外視された設計がなされ、高速を得る為にパワーユニットには高温スチームタービンエンジンを積み込み、その出力は戦艦「扶桑」と同じ七万五千馬力! 駆逐艦に搭載するには明らかなオーバーパワーを与えられます。
しかし、大出力のエンジンはそれだけサイズも大きくなるわけで、島風の船体は普通の駆逐艦と比較し大きくなり、それだけ重量も増してゆく事になります。
結果として防空駆逐艦の秋月級に次ぐ大きさになってしまった彼女は、目標の四五ノットを達成する事は出来ませんでした。
それでも公試運転において当時の駆逐艦としては文句なく最速の四〇.九ノットを記録したのですから、十分讃える事が出来るでしょう。
(消耗物資を減らして公試に挑んだとの事)

 帝国海軍駆逐艦のもう一つの特徴である雷装に目を向けてみましょう。
島風に搭載されているのは、零式五連装魚雷発射管が三基となり、最大同時発射数は驚異の十五本――と、こちらも駆逐艦とは思えぬ極端な重装備となります。
他の標準的な駆逐艦が概ね四連装二基、同時発射数八本ですから、その打撃力の凄まじさが判ると思います。
(尚、零式五連装発射管も、島風独自の装備であり、他の艦艇には採用されていません)

外観上は、環境構造物や船尾形状、主砲配置等、特に目新しいものはないが、速度を追及した結果随分と細長い印象を受けます。
(艦首の形状はだけは、それまでの駆逐艦が採用していた「ダブルカーベチャー・バウ」から「クリッパー・バウ」へと変更された)

 というわけで、採算度外視で生まれた一人娘でスプリンターの島風ですが、彼女は就役後訓練もそこそこに、その強大な雷装を買われ第二水雷戦隊に編入します。
そして彼女が最初に参加する作戦が、昭和十八年七月二九日に行われたキスカ撤収作戦です。
この作戦は後に映画にもされるほど、奇跡的な成功を収める事になります。
訓練も終えていない彼女が二水戦から引き抜かれ、この作戦に組み込まれた原因は、作戦を任された第一水雷戦隊が彼女の持つ最新鋭の電探を欲したからだと言います。
それではこのキスカ撤収作戦を語りましょう。

 北太平洋のアリューシャン列島に属するキスカ島には、当時約五千名の日本軍守備隊が常駐してました。
米国としてはアラスカとは言え、本土にほど近い島を占領されているわけで、その奪回は何としても成功させなければならない事であり、強力な打撃部隊に守られた一万一千にも及ぶ上陸部隊でアリューシャン列島の奪還作戦を実行に移します。
昭和十八年五月十二日、キスカ島に先立ちアッツ島への上陸作戦が行われましたが、対する日本側の兵力は僅か二六六五名の守備隊しかありませんでした。
二九日には陣地の大部分を奪取され、残存兵力は一五〇名まで激減。
司令官の山崎大佐は大本営に決別電を打ち、その日の夜、残兵を率いて米軍陣地へ突撃を敢行し、文字通り玉砕を果たす事となります。
こういった情況は隣のキスカ島にも起こるだろうと考えられ、北方軍司令官の樋口中将はキスカ島からの兵力撤退を決意し、海軍――第五艦隊への協力を求める事になります。
制海・制空権を米国に抑えられた地域である為、当初の計画は潜水艦を使用した撤収作戦でしたが、使用可能な潜水艦を総動員しても九月末まで時間がかかるとされ、とても完遂できるとは思われませんでした。
そこで濃霧を利用し水上艦艇を突入させて一気に撤収するという、ほとんど博打的な作戦が採択される事となります。
一応、五月二七日から六月十八日までの期間、当初の計画通り潜水艦による撤収作戦も行われたが、参加した第一潜水戦隊一四隻によって行われたのべ一六回のキスカ湾突入の結果で収容できた人員は八七一名。潜水艦も三隻を喪失する結果となりました。
やはり効率も悪く、かつ被害も馬鹿にならない結果に、艦隊突入作戦が実行に移される事となります。
突入する事になったのは第一水雷戦隊と決まりましたが、一水戦は阿武隈、響、若葉、初霜の四艦だけしかなく、これでは撤収する守備隊を乗せる事も出来ません。
そこで他の部隊から船を掻き集める事が必要となるのですが、これが大変です。
何しろ混成部隊を編成するわけですから、その練度や連携には不安があります。
しかも突入すべきキスカ島の周辺は米軍の濃密な哨戒網で包囲されており、おまけに視界が無くなるほどの濃霧が立ちこめる湾内へ艦隊を向かわせなければなりません。
ですが米軍の艦隊と航空機によって封鎖された海域へ侵入するには、濃霧を逆に利用するしか方法がありません。
色々な問題を抱えながらも、各所から掻き集めた軽巡二、駆逐艦十一、補給艦二、特巡一の計十六隻で編成された急造の水雷戦隊によって、キスカ撤収作戦は行われる事となります。
そしてこの艦隊の中に、島風の姿があるわけです。

 さて、作戦開始当初の七月七日、艦隊が作戦待機点に到達しキスカの天候状態や敵情を探ったところ、霧は殆ど発生していない状態だという事が判ります。
これでは駄目です。
濃霧に紛れて突入する意外に成功する見込みが無い為、部隊は待機し七月十一日とされていた突入予定日を十三日とします。
ところが願いに反してキスカの天候は晴天が続き、そのまま好機を掴めず艦隊は突入を断念し帰投する事となります。
この帰投に対して、水雷戦隊を指揮していた木村少将に対する反発が沸き起こり、大本営の参謀の中には司令官を臆病者呼ばわりする者も居たとか……。
だが当の木村少将はそんな風潮を気にする事なく、じっと霧の発生を待ち続けます。
やがて気象観測班から「オホーツク海で発生した低気圧が東進し二五日頃にベーリング海に到達、アリューシャン列島西部は南高北低の気象状況となり、ほぼ確実に霧が発生すると予測される」という旨の報告が入ります。
待ちわびた報告を受けた七月二二日――好機到来とばかりに水雷部隊は再度出撃し、一路キスカを目指します。
(艦隊の編成は総数こそ同じだが一次出撃時とは多少異なり、軽巡二(多摩、阿武隈)、駆逐艦一〇(響、朝雲、夕雲、風雲、秋雲、若葉、初霜、長波、五月雨、そして島風)、海防艦一(国後)、補給艦一(日本丸)となっていました。

 孤立した友軍の救出という目的からも失敗は決して許されないのですが、八月になるとベーリング海は穏やかな気候となり晴天が続く事になり、撤退作戦を実施するには今回のタイミングが最後のチャンスでした。
七月二六日、正に背水の陣で出撃した水雷戦隊は南方からキスカへと突入すると、予報通り周辺付近の海域は濃霧が立ちこめていました。
各艦は艦尾より霧中標識を曳航して濃霧の中を三百メートル間隔で慎重に進みますが、霧で隊列を離れてしまい僚艦を見失った海防艦「国後」が、軽巡「阿武隈」の進路に割り込んでしまいます。
阿武隈は突如霧の中から現れた国後を避ける事が出来ず二艦は衝突。
更にその混乱は、後方の駆逐艦「初霜」「若葉」「長波」三隻の玉突き衝突事故を引き起こし、その結果損傷が著しい若葉が帰投を余儀なくされます。
当時、米国艦隊にはレーダー装備の艦が行き届いており、いくら濃霧で姿が見えぬとは言え、水上で立ち往生していればたちまちレーダー射撃の餌食になります。
しかも衝突事故を起こした上に、闘わずに落伍した艦が出るようでは、作戦が失敗に終わると思った者も多かったででしょう。
ところがこの時、キスカ島を包囲・封鎖していた米国艦隊は、先だって哨戒機から「日本軍艦隊発見」の報告を受けてキスカ島の西部へ動いており、レーダーで発見した霧の中の標的へ向けて猛射撃を加えているところでした。
当然、標的は誤認によるもの――恐らく極端に濃い霧がレーダーに反応してしまったもの――で、その幻の日本軍艦隊へ向けられた、戦艦二、重巡四、軽巡一、駆逐艦四という強力な戦闘力は完全な空振りに終わります。
しかも高速で現場へ急行した米艦隊は燃料切れに陥り、二八日に一度後補給のために後方へ下がる事となります。
この時、合理的な考えから米国艦隊はキスカの沿岸の常駐させていた哨戒艦隊の艦艇までも一斉に引き上げさせ、全艦同時に補給を実施していました。
これにより二八日の夕刻から二九日にかけて、僅か一日ですがキスカ島の封鎖線が姿を消しました。
撤収作戦に赴いた水雷戦隊がキスカ湾に突入したのは、まさにこの瞬間でした。
艦隊が到着したのは現地時間で十二時四〇分。
現場周辺は濃霧に包まれているにも関わらず、キスカ港の真上からは薄日が差し込み視界は良好だったそうです。
上陸していた守備隊の面々は既に撤収作業を終えており、兵員の収容は順調すぎるほど上手く進み、十四時三五分には、守備隊五一八三名全員の収容が完了します。
そして全艦の出航準備が整った瞬間、撤収する艦隊の姿を隠すように、今まで海面を照らしていた陽光が消え去り深い霧が立ちこみ始め、湾の外に出た時には艦橋から艦首が見えない程の濃霧に艦隊は包み込まれます。
それでいて帰路の海上は静かで波も無く、出撃した水雷部隊は三一日、全艦無事に片岡湾へと帰還しました。
「こうでなければ作戦は成功しなかった」という事例のオンパレードで終わったこの作戦は、まさに奇跡。まさに天佑と言えましょう。
隣のアッツ島や、遙か南のガダルカナル島に送られた兵達と比べると、キスカの兵達は本当に幸運だったと言えます。

 結局、米軍はキスカ島から日本軍が撤退した事には全く気付かず、七月三〇日に駆逐艦二隻が牽制の為に二百発の砲弾を放ち、その三日後には戦艦二隻、軽巡三隻、駆逐艦九隻の艦隊を投入艦砲射撃を実施。二三一二発もの砲弾を撃ち込みます。
更にその後約二週間、十五日まで入れ替わり立ち替わりにキスカ島への艦砲射撃を反復的に加えた後で、カナダと米国の連合軍約三万四千がキスカ島へ上陸を開始。
しかし彼らが発見したものは、もぬけの殻となった日本軍陣地だけであり、それどころか上陸作戦における混乱から同士討ちが発生、二五名の死者と三一名の傷者を出したと言います。

――というわけで、以上が奇跡の作戦と称されるキスカ撤収作戦の大まかな流れです。
ご覧の通りな情況ですから、上でふれでいさんが指摘している通り、島風本来の能力を活かす事のない作戦だった事が判ると思います。
四〇ノットの快速も、十五門の雷装も、濃霧の中の隠密行動では全く意味を持ちません。
その後、重巡「摩耶」「鳥海」や空母「沖鷹」の護衛で、横須賀――トラック間を数度往復し、翌十九年三月末日まで内南洋方面の護衛任務に就いていましたが、やはり彼女の能力から考えると、不釣り合いな任務と言わざるを得ません。
護衛艦に必要なのは、あくまで対空・対潜能力であり、それは突き詰めると「機銃と爆雷をどれだけ積めるか?」という事になります。
如何に彼女の持つ十五本の酸素魚雷が強力であろうと、敵が航空機と潜水艦ではまともに戦う事すら出来ません。
その後十九年六月のマリアナ沖海戦で戦艦「大和」「武蔵」の直衛艦として参加し、十月のレイテ海戦にも栗田艦隊に所属して参加、武蔵が猛攻を受ける中で自らも至近弾で傷つく事になります。
結局、彼女はその持って生まれたアイデンティティを活かす場を与えられる事なく、翌月、十一月十一日マニラからレイテ方面への輸送護衛任務中に、オルモック湾で米軍機の攻撃を受け、三時間余りの奮闘の末に海中へと没してしまいました。

艦隊決戦という晴れ舞台があれば、彼女の快速と雷撃能力は、十分に役に立っただろうが、戦場の主力が航空機に取って変わっていた時代において、彼女の存在はあまりにも場違いでした。
彼女から活躍の場を奪った航空機の、その優位性と活用方法を考えたのが、他ならぬ帝国海軍であるというのも皮肉である。
そんな彼女の誕生と開戦が後二年速ければ、恐らく彼女は大勢の姉妹達と共に大海原を白いウェーキを牽きながら疾走したない違いない。
だが現実は厳しく、最後の瞬間まで一人で戦列に参加し続ける事を強要された彼女に、奇跡は起こらなかった。

尚、初代、二代と当時の最高速駆逐艦に与えられた島風の名称なのですが、昭和六二年に就役した護衛艦DD172に「しまかぜ」の名が与えられました。
さぞかし脚の早い艦なんだろうなぁ〜……と期待しておりましたが、何故か三〇ノットの標準速度の艦でしたとさ。
_| ̄|○

くっそぉー、命名した責任者は前ぇ出ろっ!!


※文中にて島風の機関に関する誤りがございましたので修正致しました。ご指摘感謝です。

総員隊艦!