#1【雪と風の物語 〜駆逐艦雪風〜】


駆逐艦「雪風」 (昭和15年新造時)
基準排水量:2000t 全長 118.5m 最大幅:10.8m 喫水:3.8m 出力:52000hp 速力:35kt航続距離:5000浬/18kt
兵装:12.7cm連装砲×3 25mm機関銃×2 4連装魚雷発射管×2
乗員:239名 同型艦:陽炎、不知火、夏潮、早潮、黒潮、親潮、初風、等19隻


 明治維新を経て近代国家として歩み始め、日清、日露戦争を経て列強国家として世界にその名を轟かせた大日本帝国。
島国である日本は海洋国家であり、国力を維持する上で強力な海軍を持つ事は必然と言えました。
しかし日露戦争の勝敗を決定付けた日本海海戦でまさかのパーフェクトゲームを演じ、帝政ロシアをうち破った東洋の島国の台頭を、欧米列国はこぞって畏怖します。
見境の無い建艦競争が始まり、やがて世界経済を混乱させる事態に陥ると、当事国が集まって数々の規制や条約を設け、結果として日本の海軍力が抑止される事となります。
しかし日本はそれら規制の中でその技術力を開花させてゆき、数々の優れた艦を誕生させてゆきます。
やがて世界の緊張が沸点を迎え、第二次世界大戦として地獄の蓋が開くと、日本が産んだ数々の艦達は闘いの場へと、その身を投げうちました。
北太平洋で――
赤道直下で――
ソロモンの地獄で――
太平洋の全域で熾烈な戦闘が起こり、数々の艦がその生涯を終えて行きます。
ある者はその身を真っ二つに引き裂かれ、またある者は燃えさかる鉄塊とされた。
日本人ならば誰もが知っているであろう巨大な戦艦大和ですら、その強大な力を発揮する事なく散っていった凄惨な戦場。
そんな太平洋戦争を通して、ある一隻の小さな艦が奇跡的な働きを見せました。
本来ならば、大和よりも有名にならなければいけない彼女。
陽炎級駆逐艦の八女として生まれた彼女。
その存在を知る者からは、現在に至るも「奇跡の艦」「栄光の艦」等と呼ばれ伝えられている彼女――その名は「雪風」と言います。

 語源である「雪風」とは、雪交じりの風を指し、古くは平安期の書物「蜻蛉日記」において用いられております。
「雪風いふかたなうふりくらがりて――」と綴られている書物の名「蜻蛉」と、姉妹のネームシップであり長女の名前の「陽炎」が、偶然にも読み方が一致するのが何とも意味深であります。

 全長は百十八メートル、排水量は僅か二千トンという小柄な身体ではありますが、彼女が数ある帝国海軍全艦艇の中でもっとも栄光に満ちた存在である事は紛れもない事実であります。
ではなぜそう呼ばれるのか? 簡単ではありますが、以下に彼女の生涯を語らせていただきたいと思います。

 昭和十五年一月二〇日――
雪風は条約の枷から解き放たれた最新型の、航洋型駆逐艦・陽炎級級の八番艦として佐世保の海軍工廠にて竣工――産声を上げました。
開戦当時、最新の航洋型駆逐艦だった陽炎級はその姉妹全てが作戦に駆りだされる事となり、雪風も開戦当初から作戦に従事することになります。
初陣となる最初の舞台は、開戦と同時――つまり真珠湾攻撃と同調して行われる、南方攻略軍でのフィリピン攻略作戦になります。
この十二月八日の開戦日から、彼女は他の艦とは比べモノにならない過酷で熾烈な闘いを続ける事になります。
そう、彼女は太平洋戦争における代表的な作戦の殆どに参加し、幾度も最前線に投入されるのです。
しかしどの様な状況に陥っても、どれだけ多くの敵と砲火を交えようとも、彼女は必ず生きて戻ってきました
それもほとんど無傷で。
彼女が大和や武蔵以上に偉大だと言われている理由はここにあります。

 彼女は開戦当時、世界最強の水雷戦隊と謳われていた第二艦隊第二水雷戦隊に所属していました。
先に述べた初陣のフィリピン攻略作戦を経て、蘭印攻略作戦、セレベス島上陸作戦、アンボン島上陸作戦、チモール島上陸作戦へと相次いで参加。
上陸部隊の護衛や援護に従事して、その後はジャワ攻略作戦に参加します。
この時発生した太平洋における最初の艦隊戦、スラバヤ沖海戦においては、僚艦と共に巡洋艦二隻他を撃沈する武勲を立てます。
続いてジャワ近海の潜水艦掃討作戦に参加して、敵潜一隻を撃沈し、その後はニューギニア攻略作戦に参加……と大活躍します。
しかし活躍を続けたのは何も彼女だけではありません。
何しろ、この時点での帝国海軍の強さは化け物じみており、インド洋から太平洋にかけて、運用可能な英米連合国軍の主力艦艇が殆どなくなってしまう程でした。
ところが太平洋戦争最大のターニングポイントである「ミッドウェー海戦」を迎えると、帝国海軍――いや、大日本帝国の勢いは止まり、以後は常に劣性な立場へと追い込まれてゆきます。
ご存じの通り、ミッドウェー海戦は帝国海軍の強さの根元たる”機動部隊の壊滅”という最悪の結果に終わります。
雪風もこの作戦に参加してましたが、彼女はミッドウェー島占領部隊を乗せた輸送船団の護衛として船団の先頭に立って進軍しており、先を進む機動部隊全滅と作戦中止の報が入った為、反転して内地へと帰還する事になりました。
この後しばらく雪風は、残った機動部隊の護衛を任せられることになり、ミッドウェーから内地へ、そしてトラック諸島へと機動部隊に随伴。そのまま機動部隊同士における初の海戦「南太平洋海戦」にも参加する事になります。

 その後、日本軍のフロリダ島・ガダルカナル島への上陸が始まると、ソロモンにおける地獄のような闘いが始まります。
大日本帝国・連合国共に大量の戦力を投入し、約一年と数ヶ月の間、陸で空で、そして海で……戦いが続く事になるのです。
特に海での戦いは、他に例が無いほどの密度で行われた結果多数の艦船が沈み、何時しかソロモンのガダルカナル近海の海峡は、鉄底海峡と呼ばれるようになります。
この激戦区へと雪風が姿を見せたのは、高速戦艦比叡・霧島を投入した第三次ソロモン海戦です。
双方の水上打撃部隊が殴り合うこの地獄絵図のような戦場でも、彼女は駆逐艦を撃沈する武勲を立てました。
結果的にこの海戦で敵巡洋艦他六隻撃沈・五隻大破の戦果をあげたのですが、帝国海軍側も多大な被害を被る事になりました。
数々の艦が傷つき鉄底海峡へと沈んでしまったのですが、それらの中には高速戦艦比叡と霧島も含まれていました。
戦艦というのは海軍――否、国の象徴でもあり、それが沈む事は兵の士気に大きく影響してしまいます。
無論、精神的な問題だけではありません。
機動部隊に随伴が可能な高速戦艦は、実用的な意味から見れば大和級戦艦よりも遙かに貴重な存在だったのです。
戦艦すら沈み参加艦艇の大半が傷つき亡くなった第三次ソロモン海戦でしたが、雪風は帰ってきました。
多少の被害はありましたが作戦行動には全く支障はなく、彼女は修理のため内地に向かう空母「飛鷹」の護衛をかねて呉へと戻る事になります。
そして今度は修理が終わった空母「瑞鳳」の護衛をしながらトラック諸島へ進出し、以後再びソロモンの地獄へと舞い戻ります。
この時、既にガダルカナル島の放棄は決定されており、連合艦隊は島に残された将兵達の救出活動に難儀していました。
完全に孤立したガダルカナルの兵を見殺しにする事も出来ず、幾度の救出・撤収作戦が行われたが結果は思わしくはありません。
最新のエレクトロニクスで武装した連合軍の目をかいくぐり将兵を救出する事自体が、既に自殺行為にも等しい状況だったのです。
その様な状況においても、雪風は三度にわたるガダルカナル撤収作戦に参加し、参加作戦における総計で一万三千名もの将兵の救出に成功させました。

 昭和十八年――連合国側の大反攻が激化し、ソロモンにおける連日連夜の死闘の結果、大量の艦艇を失った連合艦隊。
ガダルカナルを取り戻す事は不可能となり、それでも日本の死活領域とされていたソロモンの戦線を必死に持ちこたえようとする為に、無謀とも思われる作戦が続けられてゆきます。
 雪風もまた、そういった作戦に駆り出される事となり、ガダルカナル撤収作戦が終了した後はニューギニア支援作戦に参加します。
八千名の増援部隊を載せた船団の護衛に就き、一路ラバウルからニューギニアへ向かいます。
ところが米軍に発見され、三月二日から三日にかけて、のべ三百機以上による大空襲を受けるのですが、これが帝国にとって忌まわしき「ビスマルク海戦」です。
この戦闘で米軍は、爆弾を小石のように海面をバウンドさせる「反跳爆撃」という新戦術を投入し、何と輸送船団が全滅する結果になります。
更に護衛の駆逐艦ですら半数が沈められたこの戦いは、戦場だったダンピール海峡の名を取って「ダンピールの悲劇」とも呼ばれました。
悲劇と称される熾烈な戦闘でも雪風は生き残り、しかも撤退する事なく海上で救出した将兵と、もとより雪風に座乗していた一個大隊を無事輸送することに成功させるのです。

 しかし雪風一人が健闘したところでソロモン戦線が持ち直すはずもなく、日本にとっての戦況は日増しに厳しくなってゆきます。
島に上陸した軍への補給は滞り、餓死者さえもが続出する最悪の事態となりますが、補給を送ろうにも足の遅い輸送船では米軍の防衛網を突破することも不可能な状況でした。
そこで苦肉の策として、潜水艦や高速の駆逐艦で輸送作戦を行うようになりますが、当然ながら効率は非常に悪いです。
しかもそれらを用いてもなお、思うように補給・輸送作戦ははかどらず、結果的に大切な汎用艦である駆逐艦を多数失う結果になってしまいます。
雪風もまた、そんな輸送作戦への参加が命ぜられ、ニュージョージア島のムンダ飛行場のテコ入れの為の増援輸送任務へと就きました。
そんな十八年七月十二日――輸送艦隊は連合国軍の偵察網に引っかかり、コロンバンガラ沖夜戦が始まります。
この戦いにおいて、彼女に初めて搭載された逆探装置が有効に働き、レーダーを装備した敵艦隊とほぼ同時刻に索敵に成功したと言います。
艦隊戦力差が一対二という劣性において、艦隊旗艦の軽巡神通は捨て身の探照灯照射を慣行、その結果敵艦隊の陣形を把握した二水戦は突撃を開始。
当然ながら神通には敵艦隊からの集中攻撃――六インチ砲弾二六三〇発との事――を受け大破し、後に駆逐艦からの雷撃を受け撃沈してしまいます。
しかし彼女が命がけでもたらした情報を元に、雪風の菅間艦長が艦隊の指揮を執って統制魚雷戦を実施。
敵艦隊の軽巡ホノルル、セントルイスを大破、駆逐艦グインを轟沈させると、更に艦隊運動の混乱を誘い駆逐艦ウッドワースを大破させ、数に優る敵艦隊を退ける事に成功し、千二百名もの陸軍将兵の揚陸に成功させます。
久しぶりの大戦果を喜ぶ間もなく同月二十日、雪風はベララベラ沖海戦に出撃。
九月には一度内地に戻り整備を行うものの、翌十月には物資輸送でシンガポールへ出立。
次いで機動部隊の護衛でトラック諸島へ……と、休む間もなく出撃が続きます。

 年が明け十九年六月――連合艦隊が決戦の意気込みで挑むマリアナ沖海戦が始まります。
雪風もまた、この海戦に参加予定でしたが、訓練中の事故で推進器が壊れて速力が半減してしまった為、応急処置の後、油槽船団の護衛をしつつ内地へ帰還する任務に就きます。
彼女が参加しなかったマリアナ沖海戦は、連合艦隊が大敗を喫し、やっと再建した機動部隊も事実上の壊滅となってしまいます。
負け戦に参加出来なくなったのも、彼女の持つ強運だったのかもしれません。
雪風が護衛に就いた油槽船団はと言えば、敵潜水艦に発見され襲撃を受ける事になったものの、彼女の働きで被害をただ一隻にくい止めることに成功し、大事な油を内地に運ぶことに成功するのです。
あ号作戦――マリアナ沖海戦で大敗し、油不足も深刻化した連合艦隊は、帝国の絶対防衛圏をフィリピンから北海道近海までの四つの地域に区分けし、それぞれで敵を迎え打つ捷号作戦(一〜四号)を計画します。
やがて連合軍のフィリピン方面での一大反攻作戦を察知すると、ついに捷一号作戦へ踏み切ります。
それは言うなれば、連合艦隊の残存戦力をすべて投入して行う、レイテ湾への「殴り込み」でした。
規模・範囲・双方の兵力、ありとあらゆる意味で人類史上最大の海戦「レイテ海戦」は、こうして始まったのです。
修理を終えた雪風は、大和・武蔵・長門を中核とした三二隻による主力艦隊に配属され太平洋をレイテへ向けて進みます。
途中発生したサマール沖海戦――戦艦が空母を砲撃したという珍しい戦闘――では、雷撃で護衛空母一隻を撃沈したと言われています。
小沢提督自ら座乗する機動部隊を囮に使った捷一号作戦は、大本営が描いた青写真通りに進み、レイテの防衛網に穴が開きます。
後は主力艦隊(武蔵を失ったとはいえ、戦艦四隻――大和・長門・金剛・榛名――の超暴力的戦力が残っていた)が、その穴からレイテ湾に殴り込みをかけ、米輸送船団を壊滅させるだけでした。
敵からその精神を疑われながらも突撃し、聯合艦隊の全艦艇をすりつぶしながら継続した捷一号作戦は、まさにその成功の瞬間が訪れるという直前、主力艦隊がレイテ湾から反転、ブルネイへ引き返した事で空振りに終わってしまいます。
(この反転劇の詳細は、指揮官だった栗田提督が生涯口を閉ざした為、未だに謎のままです)
本来、主力艦隊の行動と呼応して突入する予定だった西村艦隊は全滅し、囮を務めた小沢機動部隊は役目を全うして壊滅。
そして五度に及ぶ大空襲う受けた主力艦隊も、残存艦艇は僅か一四隻。
それが捷一号作戦の結果の全てでした。
残った艦もその殆どが満身創痍であり、内地に戻ったとしても人員不足と物資の不足により、もはや立て直す事は不可能となり、組織としての連合艦隊は事実上壊滅となりました。
しかし、それでも雪風は無傷で帰還し、彼女には次の任務が与えられるのです。

 レイテ海戦で傷ついた長門の護衛任務を終え横須賀へ戻った雪風に下った新しい任務は、完成したばかりの超大型空母「信濃」(大和型戦艦の三番艦を改装した空母)の護衛任務でした。
世界最大の戦艦の三女として産まれる予定だった信濃は、時代の流れの影響を受け、その途上で空母へと生まれ変わる事を余儀なくされました。
さて、そんな彼女を語る時、最も適切な言葉が「不運」の二文字になります。
人間に幸運な者と不運な者がいるように、艦にも幸運と不運なものが存在するならば、幾多の死線をかいくぐるも生還し続けた雪風は幸運艦となり、生まれて間もない空母信濃は不運艦の代表格といったところでしょう。
大和型戦艦の船体をもつ彼女は、アメリカが戦後になって反応動力型空母を就役させるまで、排水量では世界最大の空母でした。
当然、防御力も大和並――レイテ海戦において米軍は武蔵を沈めるのに二〇発もの魚雷と十七発の爆弾の直撃を要した――のはずでした。
しかしこのあらゆる不運をかき集めたかのような超大型空母は、米潜水艦アーチャーフィッシュの放った、僅か四発の魚雷であっさりと沈んでしまうのです。
沈む前に護衛の駆逐艦による曳航も考えられ、実際に二隻でワイヤーによる曳航作業を行われたのですが……そこはたかが駆逐艦。世界最大の空母を動かすことは叶わず、信濃艦長の阿部大佐は、この不幸な空母が目的地に辿り着けない事を悟りました。
こうして、四隻の駆逐艦に看取られながら、誕生して僅か十日の生涯で、信濃は阿部大佐と共に海の底へと沈んでしまいます。
直後、雪風の甲板には救助された信濃の乗員達で溢れ、一様に項垂れていた彼らを見て、当時の雪風艦長寺内は――
「慣れっこになったなぁ……こういう光景に」
「こんな風にさ、よそのフネの乗員を助け上げる光景によ」
――と、漏らしたそうです。
彼の言うとおり、雪風はいつでもそうでした。
ソロモンでも、南太平洋でも、インド洋でも、そして今や内地にあっても。
他の艦艇がその生涯を終えても、雪風だけは生き残り続けました。
まるで他の艦や兵達の運を吸い取るかの様に……。
故に彼女は、幸運艦とも呼ばれる一方で「疫病神」と揶揄される事もあったと言います。

 守るべきものを失ったまま、呉に辿り着いた雪風を迎えたのは米軍の大空襲でありました。
そんな中でも雪風は大いに奮戦し、大したダメージも受けずに生き残ります。
ただ、この対空戦闘において機銃弾を一万五千発も撃ってしまい、二水戦の参謀から大目玉を食らったと言います。

 開戦以来数々の戦場を戦い抜き、殆ど無傷で生き残ってきた雪風。
この時点でも十分に彼女の幸運さは有名でありましたが、それが神話の域にまで達するのは、実はこの後からです。
昭和二〇年四月、雪風は聯合艦隊最後の艦隊作戦、「菊水一号作戦」に参加する事になります。
戦艦大和と作戦行動可能な残存艦で編成した最後の艦隊での、沖縄への特攻作戦です。
艦隊と言っても僅か十一隻で、しかも内九隻は駆逐艦。
空母もなければ、上空援護もない裸の艦隊。
「特攻」作戦でありますから、最初から成功する確率はなく、戦略的な意味合いは何もありませんでした。
ただ連合艦隊最後の足掻きとして、かつて無い大兵力で沖縄を責め立てている連合国軍に、一矢報いる為だけに大和を突入させる。日本人の意地と、海軍の面子、そして滅び行く祖国への贖罪として一億玉砕の先頭に立つ――それが作戦の全てでした。
昭和二〇年四月七日――最後の艦隊は、沖縄へ向けて進撃を開始しました。
せめて艦隊戦が行えれば、大和の主砲で一矢報いる事が出来るかもしれないし、駆逐艦が持つ酸素魚雷だって、最後に見事な戦果をもたらすかもしれない――しかし、それが都合の良い絵空事でしかない事は、艦隊の誰もが思っていた事でしょう。
そして、その予想は現実のものとなり、十二時四〇分から第一波二〇〇機の空襲を受け、艦隊はその後二時間に渡り、第二波五〇機、第三波一〇〇機、第四波一五〇機、第五波一〇〇機――のべ六〇〇機による大空襲を受ける事になります。
その激戦のさなか、雪風の寺内艦長は露天艦橋にて、でっかい三角定規を使って爆弾の軌跡を読み、操艦を指示したと言います。
鉄兜も被らずに艦橋から頭を出して、タバコを吹かしつつ大声で「俺には当たらん!」とわめき、航海長の肩をけ飛ばして操艦の指揮をしたと言いますから、何とも剛胆な事です。
この無茶とも思える艦長の行動は、乗組員達の志気を大いに沸き立てる事になったそうです。
以前の呉大空襲の時には、弾を撃ちすぎて参謀からとがめられたが、今日の戦闘において遠慮は不要。
何しろ連合艦隊最後の作戦です。
「訓練は実戦のつもりで、実戦は訓練のつもりでやれ!」とは寺内艦長の口癖だったと言いますが、その言葉を自ら実践するかのように、寺内艦長は無数の爆弾や火線が飛び交う中、はげた坊主頭に定規をかざして爆弾の軌跡を読み、航海長の肩をけ飛ばして舵を命じ続けました。
艦長の糞度胸が、雪風にさらなる幸運をもたらす一方で、特攻の要であった大和はついに力尽き、巨大な爆炎を上げてその身を海底へと没してゆきました。
大和の爆沈により、連合艦隊にとって特攻の存続が無意味となり、そして米軍にとっても脅威が無くなった事で戦闘は終了となりました。
生き残った艦は雪風を含めて駆逐艦四隻のみでしたが、あれだけの大空襲を受けたにも関わらず、今回も生き残り、多くの漂流者を救出した彼女は無傷で佐世保に帰還する事になります。
帰還してからの調査で解ったのだですが、実は雪風もロケット弾による命中を受けていました。
防御力の乏しい駆逐艦でありますから、爆発していればただでは済まなかったであろうそのロケット弾は、食料庫に突っ込んだものの信管が作動せず不発に終わっていたのです。
九死に一生を得た彼女の幸運はまだ続きます。

 連合艦隊が壊滅し、硫黄島、沖縄が占領されると、敵の航空機が我が物顔で本土の上空を飛び回るようになります。
空襲を恐れた雪風は、日本海側に待避しますが、結局は逃げ切れずに米軍の空襲を受けてしまいます。
僚艦が次々に被爆する中においても、彼女には何故か一発も当たりません。
しかし回避行動中、ついに雪風は米軍が敷設した機雷に触れてしまいます。
駆逐艦が触雷すれば、沈没はまず免れません。
誰もが雪風の終わりを確信しましたが、何とこれが回数機雷といって、一度触雷しただけでは信管が働かない(通常の機雷に混ぜて使用する)物だったのです。
実際その後ろを航行していた僚艦「初霜」は同じ機雷に接触、今度は信管が作動し爆発、轟沈してしまったと言いますから、幸運を通り越して、疫病神呼ばわりされるのもうなずけてしまう程です。

 数度に及ぶ嵐のような空襲も去り、遂に太平洋戦争は終結を迎えました。
開戦当初存在した陽炎級十八姉妹の中で、その時洋上に浮いていられたのは雪風一隻のみでした。
従姉妹とも呼べる、ほぼ同型と言って良い朝潮級十隻と、改良型の夕雲級二〇隻も全て戦没しており、雪風は彼女の一族において唯一生き残った艦だったのです。
そんな彼女は一切の武装を外され、戦う為の牙を失いましたが、それで彼女の戦いが終わった訳ではありません。
特別輸送艦として復員輸送に従事し、戦争が終わっても休む間もなく働き続けます。
ラバウル、サイゴン、バンコク、沖縄、台湾――かつて戦場だった太平洋の各所を走り回り、彼女の十五回におよぶ往復によって祖国の土を踏んだ将兵は実に一万三千人以上にも及びます。
帝国海軍の艦としての最後の日まで、彼女の甲板は救助された人々であふれていました。
故郷に帰る兵士の目に、彼女の姿は輝いて映っていた事でしょう。

 昭和二二年五月――雪風は連合国側からも最優秀艦と賞揚され、抽選の結果、賠償艦として中華民国に引き渡しされる事が決まりました。
母国で迎える最期の日、彼女は産まれた時以上に、美しく輝いた姿をしていたと言います。
伊藤正徳氏による「聯合艦隊の栄光」という本の最後にこう書かれています。

 『引き渡し式が上海の埠頭で行われた。
  艦内はくまなく整頓されて、塵一点をとどめず。
  検査にのため来艦した米英の海軍将校達は感激して言った。
 「自分たちは、こんなに整頓された軍艦をかつて見たことがない!」と。
  雪風は最後の日まで、日本の名を守った』


 中華民国に引き渡された雪風は、艦名を「丹陽」(タンヤン)と改め、何と艦隊旗艦として迎え入れられます。
たかが駆逐艦が「一国の海軍の総旗艦」にです。
勿論、こんな事例は雪風(丹陽)以外には存在しません。
ついで話ですが、雪風は連合艦隊で、唯一艦隊旗艦を務めた事がある駆逐艦でもあります。
(昭和十八年七月六日より九日までの僅か三日間ですが、第八艦隊の旗艦として将旗を掲げた事があります)
そんな彼女も、まさか自分が一国の総旗艦になるとは夢にも思わなかったでしょう。
中華民国は「礼」を持って彼女を迎えてくれたのです。

 ああ、大事な事を忘れていました。
雪風の偉大さは、単に激戦を生き抜いた事だけではありません。
彼女が最も偉大な艦だと言われる本当の理由――それは、開戦から終戦まで、これだけの作戦に従事し、最前線で闘い続けたにも関わらず、亡くなった乗員の人数は何と十指に満たないのです。
これを栄光と言わずに何と言いましょう。

 栄光に満ちあふれた彼女は、その後も異国にて歳月による腐食と老朽に耐えながらも何度か戦ったそうですが、昭和四一年――ついに台風の影響を受けてその長い生涯を終える事になります。
現在は彼女の戦歴をたたえ、台湾から返還された舵輪と錨が江田島にて保存されています。

 そして終戦から十数年が経過し、復興を果たした日本に、再び軍艦の造船が認められる事になりました。
戦後初めての自国生産による軍艦。
生まれ変わった日本にとって、そして発足間もない海上自衛隊にとって、極めて重要な意味を持つ事になる最初の護衛艦。
その排水量1700トンの彼女に与えられた名は――

「ゆきかぜ」

――です。

この名は、今後も何らかの節目で産まれるであろう大切な娘達に、永延と受け継がれてゆく事でしょう。



※雪風の賠償先ですけど正確には「中華民国」になります。中国と書いていましたが訂正させて頂きます。ご迷惑お掛けいたしました。(ご指摘感謝)
※丹陽となった雪風ですが、蒋介石の国民党軍が台湾へ逃れる際に中華民国軍より離反したので、賠償先が決まった時点では中国との表記でも問題ないみたいです。
※「男達のYAMATO」の影響からか、雪風の映画を撮るべきだとブログや日記に書かれる方が多い様ですが、彼女に関しては(出来は別にして)既に映画化されております。(参考)


※江田島の旧海軍兵学校(現海上自衛隊学校)の敷地内に置かれている雪風の錨(2006年3月・管理人撮影)


おまけ
今更ですが、当ページが2cnの【わが征くは】ラインハルト・フォン・ローエングラム【星の大海】というスレッドで紹介されている事を知りました。
恐れ多くもローエングラム朝銀河帝国初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラム陛下より感想を賜りましたので、以下に転載させて頂きました。

91 名前:名無し客:03/11/24 23:22


陛下は敵として、味方として多くの船を見てこられたと思います。
そんな陛下の目から見て、「彼女」についてコメントいただけますか?
星を渡ることも出来ぬ時代の船ですけれど。
ttp://www.ne.jp/asahi/kkd/yog/gf4_1.htm

92 名前:ラインハルト・フォン・ローエングラム ◆RHUNKLqH/I :03/11/24 23:52


>>91 雪風
…なるほど、幾多にも渡る戦闘において常に最前線に立ちながら
ずっと無傷のまま任務を果たしてきた伝説の駆逐艦か。

予は、運というものを信じたことはない。
この概念は、自らの責任を転嫁したり、自分にとって理解不能な
事象における理由説明の逃避的な道具として使われるからな。
運という言葉を用いるとき、人間は思考停止をしていることになる。
予は、そんな愚かなことはしたくないので、運を信じたことはない。

しかるに、この駆逐艦は決して運がよかったのではない。
強かったからこそ、彼女は戦争の最後まで生き残り、
最前線にあって死なせた乗員が10名以下という栄誉を勝ち得たのだ。
戦争とは、砲火に身を晒してもなお生き残ること、それ自体が名誉ある武勲となる。
「武勲」を重ねた結果、彼女が駆逐艦から一国の旗艦へと昇進したのも当然だろう。
人間だろうが戦艦だろうが、実力に見合った評価がなされるは必定の理だ。

不退転の意志を以って数々の戦場を巡り、自分だけでなく多くの人間の命を救った
名誉ある駆逐艦に、一人の軍人として最大限の敬意を表すとしよう(敬礼



総員退艦!