こんにちは 小林暉昌です


筆者の会と離れ(2001年3月4日、東京・綾瀬の東京武道館で)


 権威主義排した先達に学ぼう
   アクセス1万件と還暦の所感

 L弓射論の甘さ突かれ四苦八苦
 「朝嵐ーー本多流を求めて」のホームページにアクセスしていただいた回数が2年足らずで1万回を超えました。2000年3月に開設したときは、無視され続けてオンボロの陋屋になってしまうのかなと思っていましたが、うれしい誤算でした。ただ、なるべくこまめに更新して新しい情報を取り入れようと思いましたが、忙しさに紛れて更新回数はわずか2回に止まりました。画像の取り入れ方など更新の方法を忘れてしまうほど。更新を期待してアクセスしていただいた方には申し訳ありませんでした。
 ご意見もいろいろお寄せいただきました。他流派からの厳しいご指摘もあり、私の弓射論の甘さを突かれ四苦八苦しました。「本多流が合理的といっているが思い込みに過ぎないのではないか」「正面打起しを賛美するなら、斜面打起しも経験してみたら」「受け売りが多く独自の論がない」など。思わずカッカしながら反論して、1夜明けて感情的になりすぎたなと反省したこともありました。「本多流の完成型は小離れというが、本多流と称している先生方で小離れを教えている人は少ないのでは」と指摘されて「初心者には大離れを教えており、稽古には段階がある」と、段階論で釈明する一幕もありました。
 メールによる交流の幅は広がり、80歳を越えるお年寄りから高校生まで多彩です。先日は、福島県の高校生から、会津の伝統を守ろうと前三角(斜面)の打起しをしているが、会津と本多流の関わりを教えてほしいとのお便りをいただきました。通っている高校の100年史に大平善蔵師範の時代に本多利實、碧海康温、田辺唯司、阿波研造ら諸先生が教えにきた記述があるそうです。本多宗家の皆さんからは、大平、阿波、徳永純一郎、石原七蔵さんらのお招きで、流祖利實翁が一門とともに、福島、仙台、九州などへ泊まりがけで出かけられた話をお聞きしていましたので、そんな状況を伝えました。この高校生は、昔の弓道探求の情熱を感じ取ったのか、感動したようでした。明治時代になって弓道が復活し隆盛した頃は伝説の名人が多く出て、まさに巨人の時代。今のスマートな流れに物足りなさを感じるのは、この高校生ばかりではないと思います。

 L「弓のコーチ」も社業の一つ?!
 大学弓術部の寒稽古(げいこ)に参加し、若者に負けずに10日間で2222本引きました。2002年の2月に第2の人生開始を記念し2のゾロ目です。2が4で西の落日、4つの2で死に、のお陀仏の声も。本人はそれでも2222(フフフフ)でゴー。動静はHP「朝嵐(あらし)」でどうぞ。お世話になりありがとうございました。
 この短文は、朝日新聞の社報2月号に出稿した定年の挨拶です。
定年が奇しくもホームページのアクセス1万件と重なりました。1965年に入社して長野、金沢、神戸各支局、大阪整理部、阪神支局取材主任、東京内政部、政治部、名古屋社会部次長、政治部次長、浦和支局長、論説委員、編集委員と各地を転々とし、仕事の合間に各地の道場で弓を引かせていただきました。
 定年の挨拶に弓の話とは不謹慎な、と思われる方がいるかも知れません。しかし、私は弓も仕事として会社に申告していました。朝日新聞には業績評価制度というのがあって、目標を書いた自己申告をもとに部長、局長が評価する制度があります。自己PRしなければ格好がつかず、何とも日本的美徳や新聞記者気質にそぐわない代物なのですが……。その申告書に書かれた仕事の目標欄に、弓を通して世界を広げるとともに朝日新聞のPRにもなるとして大学や高校の弓のコーチを仕事の一つに挙げました。自己申告の結果査定でこの項目については、時間がなくて目標に遠く、達成率は40から50%といつも書いていました。
 弓の仲間のひとりがこの申告書のコピーを見て「遊びを仕事に挙げるとは」とあきれていました。しかし、上司から修正要求は一度も言われずじまい。最もこんな申告をしていたからあきれられて全体の評価がよくなかったのかも知れません。それでも本人は、「これがリベラルの朝日よ」と粋がっているわけです。そう思わなきゃあ、新聞記者の世界に夢がなくなりますから。
 新聞記者の取材で趣味もかなりの武器になります。私は蝶の生態写真を撮るのが趣味で、政治家や官僚とマン・ツウ・マンの話になると、よく野山を4輪駆動車で走り回っているおもしろさをしゃべったものです。新聞記者から政治の話ばかり問いただされる彼らにとっては気分転換にもなり興味あるものだったようです。福田赳夫元首相は私が尋ねていくと「ミスターバタフライ、ようこそ」といって迎えてくれました。「マダムバタフライ」をもじっての洒脱なネーミングには脱帽です。昭和天皇が群馬県の伊香保温泉で国蝶のオオムラサキを観察するのにお供したことなども話していただき、蝶の話で盛り上がったこともありました。
 政治家によっては私が贈った四つ切りの蝶の写真を議員会館事務所や自宅の応接間や廊下に飾って下さる人もいました。1977年3月に江田三郎氏の社会党離党・政界再編騒動がありました。その中心人物のひとりが「もう春だね。君も特ダネを書いておかないとテフテフを追いかけられないのではないか」と突然言い出して、電話に設定された録音を再生して、江田氏とのやりとりを聞かせてくれました。今後の社会党離党スケジュールの詰めの話でした。翌日の紙面には「江田氏、○○日に離党表明」と大活字が踊りました。
 弓を媒介にして食い込みをはかりましたが、マイナーなスポーツだけに広がりがいま一つでした。自民党参議院会長や法相を務められた郡祐一さん、外相をした大来佐武郎さんら東大OBを中心に親しくしてもらい、いろいろ勉強させていただきましたが、際立つ独自ダネはあまりありませんでした。弓をやる人は慎重できまじめなのかなと思ったこともありました。

 L「異法に驚き心深く無きもの相伝ふべからず」
 さて、定年を迎えて少しは時間も出来て、弓をもう少し掘り下げようかなと思っています。定年挨拶の寒稽古2222本はその意欲表明です。定年に当たって特別休暇を利用して好きなスキーも、カナダのウィスラーにまで行って楽しみました。もうガンガン突っ込むような滑りはできず、のんびり大回り。弓も弓力や矢数に頼らない楽しみ方があるのではないかと思っています。私の弓も昨年はじめには20キロ台が引けなくなって、あっという間に18キロに。さらに今後のために17キロを用意する始末です。矢数も寒稽古では踏ん張ったものの、最近は1度に100射引こうとすると、80台で息切れ失速するようになってしまいました。昨年12月に的前矢数35万本を達成しましたが、生弓会の先達・今城保先生の50余万本には遠く及ばず、50万本の節目までいつまでかかるやらの感じです。
 どうも、あえぎあえぎの弓の探求になりそうです。そんな状況の中でどう楽しむか。広く目を広げることは必要ですが、評論家的にはなりたくありません。高木](たすく)元全日本弓道連盟副会長、学生弓道連盟会長の道場である洗心洞の新年射会では、洞守の横山粂吉先生が日置流竹林派の伝書『本書』の書き出しを読み上げるのが習わしになっています。「日置流射形師弟の起請秘記の事……師の恩教を信じて強きを猜まず弱きを讒らず、正直を神として法度に任せて心底に治する者には相伝す可し。昵懇の弟子なりと雖も、道に愚にして異法に驚き心深く無きものには相伝ふべからざる者也」。これは流派探求の重要原則です。目をキョロキョロしないで、本多流を基本にして見聞を広げ、弓射論を組み立てていきたいと思います。
 余り権威主義にならないこと、これも大事な原則にしようと思っています。とかく流派の伝承となると秘伝口伝やら教外別伝とかいって煙に包まれてしまうところも多いのですが、できるだけ煙を払って行きたいと思います。言葉でどこまで説明できるのか、できない部分はどんなところなのか、安易に秘伝論で逃げないことです。
 竹林派の重要弓書である藤原正伝の『射法輯要』(宝暦11年=1761年)は、流派の秘技伝承の世界の中で興味深い記述があります。東京大学弓術部が出版した本多利實編『日置流竹林派弓術書』(明治41年=1908年)から引用しますと、「四ケの離 切 拂 別 券」について「右四ケの離何れも能き離也。古書に曰く、中り矢早遠矢抜矢其の外射る物の品に依て、四ケの離を夫々に用ふるとあれども、予は夫迄の修学に至らず、後学能く功を積で其味ひを悟るべし。勿論、四ケの離共に人々の生れ得たる所あり。切る離に射覚へたる者は四ケの離をいか様に射分ると雖皆切る離に成るなりと予は思ふ也。是又後学吟味し悟るべし」と書いています。続いて「鸚鵡の離」については「古書に曰、鸚鵡の離は懸の離なりと有れども其掛の離と云ふ味ひ予は知らず」と書いています。「切拂別券というけれどわしはようわからん」「懸けの離とは何ぞや」と極めて率直に解説しています。あまりに率直なせいか、この部分には流祖の註解もついていません。
 藤原正伝は内藤惣右衛門ともいい、江戸竹林派の基盤を作った家元ですが、わからないことは秘伝口伝とでも言っておけばよいものを、権威主義にならず問題提起していることに好感が持てます。知ったかぶりせず、わからないことはわからないとして、ぶつかっていくことが必要なことを『射法輯要』は教えてくれているようです。
 今後の弓修行を思うに、基本は頑固に守り、権威主義に陥らずに、柔軟な目と考え方で一歩一歩、道を確認しながら本多流の頂きを目指したいと思います。
                            (2002年2月18日記)
*]は非かんむりに木







   「中らない弓」で定評がありますが
   時には優勝盾をいただくことも

   2000年2月
   第19回本多流・洗心弓友射会で




 ◇◆問題提起の雑記帳に
 「弓は何段ですか」とよく聞かれますが、「段なし」です。一口に的前矢数30万本、弓歴43年ですが、まだまだ未熟です。朝、よく稽古をしますが、いくら引いてもうまくならないので、あきれているのが現状です。そんな人がなぜホームページを開くのかと思う人もいるでしょう。弓を気楽に引いて楽しむ、そしてこんな弓を引きたい、それを目指すのはどうしたらよいのだろうかと考え、あっちへぶつかりこっちにぶつかりの試行錯誤の連続。それらを綴って、問題提起を試みる雑記帳にしようかなと思っています。
 弓の書き物となると、教科書風が多く、随想でさえ羽織袴を着てしまいがちで、弓引きの気持ちを躍動させるものはあまり見当たりません。私の拙文が旧来型を乗り越えているというほど、うぬぼれてはいませんが、弓射論議を起こすきっかけにはなりうるのかな、とちょっぴり期待をもっています。八方破れ弓道論が集中砲火を浴びるようでしたら、かえって成功なのかなと思っています。気軽にのぞいて下さい。全日本弓道連盟の弓が大勢をしめるなかで、本多流の弓がどんな弓を目指しているかわかっていただければ幸いです。
 ページの題名「朝嵐」は「朝嵐身にはしむなり松風のめには見えねど音のはげしき」(本多利實翁の書)からとったもので、射の極致を目指そうという意気込みを表現したものです。
 このホームページつくりでは、本多利實翁関連の写真や利生3世宗家講義録の掲載を許していただいた本多利永4世宗家に深く感謝致します。また、5月の更新に当たりましては、ゲストコーナーの一番手として、ご登場いただき、私のホームページの名前である「朝嵐」について論述され、粗末なわが家を立派に輝かせていただき、ありがとうございました。
(2000年5月10日記)

◇◆学生と弓を楽しむ

 私の弓引きの足場を説明しておかなくてはなりません。東京大学弓術部コーチ団幹事代表(ヘッドコーチ)、浦和高校弓道部コーチの肩書を持っていますが、どうも人に教えるのは苦手で、道場へ行っても自分の弓に没入してしまう、頼りがいのないOBです。理論よりはむしろ矢数優先派。「あと10万本も引けば何とかなるかなあ」とわが身によくいい聞かせながら弓を楽しんでいます。東大、浦和高校のほか、浦和市民体育館でも稽古しています。
 高校時代に、森戸康之、久恵両範士に教えを受け、大学で寺嶋廣文、戸倉章両師範から指導を受けました。寺嶋先生とは卒業後も薫陶を受け、本多流の弓を追求する足掛かりを教えていただきました。今は本多流の研究・親睦組織「生弓会」に入って、横山粂吉、今城保両顧問ら諸先生の指導を仰いでいます。
 弓の試合での栄光の記録は全くありません。インタハイ、インカレに出場していますが、インカレ団体4位が最高。ただ、コーチに就任してから、インカレ男子団体で東大が1997年は優勝、98年は4位、射道優秀校受賞、98年の東京都学生弓道連盟リーグ戦で男女とも1部入りを果たしています。男子は99年に2部に戻りましたが。浦和高校も97年にインタハイ31年ぶりの出場。こう書くと、いかにもコーチの効果があったかのように受け止められるかもしれませんが、学生のみなさんの実力がつかんだもので、コーチの役割は全く微々たるものでした。
 1942年、埼玉県桶川市生まれ。名前の読み方は「きよし」。本職は朝日新聞の政治担当記者。いまでも老骨にむち打って、フーフーいいながら国会を歩き回っています。時々署名入りの記事を書いていますが、難しい話が多く、読んでくれる人は少ないのが残念です。CS放送・朝日ニュースターの「各党はいま」の党首インタビューも担当しています。ケーブルテレビを入れている人は時にはのぞいてみて下さい。 
                               (2000年3月24日)
*テレビの党首インタビューも朝日新聞退社と同時に役を降ろしていただきました。


T0Pページへ