清末姓の歴史
   

    明治3年農民や町民も名字を許す太政官布告が出された。明治5年にはじまる戸籍制度の制定によって、国民全員に「苗字必称令」が出された。多くの平民は共同体に属しており共同体の名字を私称していた。大半はそれを名字としたようである。なかには、縁起のよい名(嫁の実家の名字など)に変えた家もあったようである。(久米忠臣氏)

    清末姓の歴史は以上から推察すると、その出自は、宇佐氏庶流、平家の落人、長州清末藩からの移住の3ルートとなる。

   11世紀の頃、宇佐市岩崎に岩崎荘ができ、清末名ができた。名主は宇佐氏庶流といわれる。12世紀壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人が船で柳ヶ浦(宇佐宮の北5キロの駅館川河口)あたりに上陸し、清末名内に身を隠した。14世紀頃に岩崎、小野荘の清末名から杵築、安岐、武蔵、国東の各地に分家した。

    15世紀、岩崎荘の清末氏が到津へ移住し、到津清末氏が誕生した。また一部は大友氏の武士となった。大友氏没落後、杵築藩主松平氏に仕えた。

   19世紀長州清末藩から一部の武士・町人が日出・国東半島に移住した。

    1872年明治5年「苗字必称令」により農民・町人も名字を名乗ることになった。一部のものは他姓から清末姓に変えたものもいるという。

    現在の清末姓の分布は宇佐・国東、北九州以外では主に大分市、別府市、福岡市、東京都および周辺、大阪市および周辺に展開している。歴史人口は中世:約100人、江戸幕末:約400人:現在:約1600人と推定される。(日本の歴史人口:中世 700万、江戸幕末 3000万、現在 12000万より推定)