一鶴会は結束の固いクラス会でした。1976年(昭和51年)頃から3年毎に会を開催していました。結束が固いのは以下の理由からです。入学試験は大分一高(現大分上野丘高(大分中、第一高女、第二高女が統合の高校))を受験したのに前年末1950年(昭和25年)、新設高設立(大分三高、現大分舞鶴高(大分二高は大分商・大分工が統合の高校))の発表があり、合格者は成績順に振り分けることになったのです。新設高は当初は校舎はなく王子中学校に間借りして、一年後やっと校舎ができました。入学式は市役所のホールを借りて行いましたが、父兄から校長にブーイングが多発しました。校舎も設備も伝統もなく格差をどうやってなくすのかと。校長の決断は有名大学への進学実績を上げること。そのために夏休みに補習授業をする。修学旅行は中止にするでした。一鶴会の発端は皆で高校時代に出来なかった修学旅行をしようと40才での京都奈良観光旅行でした。振り分け入学はその後10年継続しました。