長州清末藩 |
全国で清末という地名があるのはここ、下関市清末町だけである。「清末藩史話」、「清末再発見」などによると下関の清末町とその周辺は、中世鎌倉時代から南北朝にかけて土豪の厚東氏が支配していた土地で、その後大内氏の支配が続き戦国時代に毛利氏の支配下となった。 清末藩(1万石)は、下関市清末町を本拠とした、長州藩の一支藩にして、承応2年(1653)毛利元知より廃藩置県に至まで、8代218年の歴史を重ねていた。清末藩士の名簿禄(清末藩御家中分限帳)には清末氏の名はない。藩名と同じ名字が許されないのは当然だが、清末藩成立以前の中世にも清末名の名田も見当たらないようである。 ところが幕末清末藩から数名の下級武士・商工業者が密かに日出藩内に移り住み清末姓を名乗ったという。また、幕末に藩内随一の蘭学者渡辺澄(号:東里)が天保9年(1838)江戸で突如行方不明となった。一説によると幕府の蘭学者圧迫を逃れるために日出藩内に身を隠くすための隠れ蓑ではなかったかという人(下関歴史研究家:大濱博之氏)もいる。日出藩との関係は養子を迎えた間柄であり親密であったので、藩士の移動は容易に行われたという。 日出在住の郷土史研究家のP氏に調査依頼したが、日出の清末姓四人の内の二人に聞いたが先祖は国東の出であるといい、清末藩との関連ははっきりしてない。 |