八瀬・大原
 
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京都大原里づくり協会

 八瀬

上高野の北、大原に至る若狭街道上に散在する洛北幽閑の一邑で、比叡山麓下にある。
その中央を南北に流れる高野川は、このところに至って急湍となり、多くの瀬を生じるところから、八瀬の名が生まれた。

  八瀬を瀬々の井堰にせきとめて水引き掛くる小野の苗代 (夫木抄、五、苗代) 隆実法師

と古歌にも歌われた如く、今も七瀬・余韻・美濃瀬など瀬とよばれるところが多く、川中にはまた奇岩怪石が点在する。
一説に壬申の乱に大海人皇子(天武天皇)は大友皇子と争われ、。敗れてこの地を通過されようとしたとき、敵の流れ矢が背中にあたって負傷された。
ときに村人達が「かま風呂」を奉って、皇子の傷の手当をした。
因って「矢背」と称するともいわれるが、これは地名付会の説で信じられない。

八瀬jは古くは愛宕郡小野郷に属した。
中世は八瀬庄と称し、青蓮院を本所として延暦寺への奉仕をする一方、村人達は八瀬童子と称し、朝廷の駕輿丁をつとめ、課役免除の特権を得ていた。
口碑によれば、延元元年(1336)後醍醐天皇が比叡山へ蒙塵の際、鳳輿を護衛して山上に送り奉ったのをはじめとつたえ、その功によって免租の綸旨を賜ったという。

それにより村人は平生寝るときにも常に枕辺に草履・提灯を置き、京都に急変があればすぐにも馳せ参じこころ構えを怠らず、明治維新のときにはことごとく御所に詰め切って、宮中の御用に奉仕したという。
今なお即位大礼にあたっては、賢所の御羽車をかつぎ、御大喪には葱華輦をかつぐならわしになっている。

八瀬は古来耕地が少なく、村人は主に林業を業とし、薪炭を京の街に行商した。

  年深き雪もいとはで御竈木をとりどり急ぐ小野の山人 (閑田詠草、冬) 伴 蒿蹊

とうたわれた御竈木とは、平安時代に毎年正月十五日、百官がその年の燃料として宮中に奉った薪をいうたものであるが、八瀬は大原とともにその供給地であった。

婦人の服装も大原女と同じく独特の衣装をし、方言もまた父を「ノノ」、母を「ウマ」とよぶなど、古い時代の名残をとどめているのは、永年に亘る都市との隔絶した強い保守性によるものであろう。

しかし、昭和二十四年四月、京都市左京区となってからは次第に都市化され、近年はまた道路の整備と相俟って、交通至便の地となった。

 八瀬遊園地

八瀬の入り口にあたる八瀬野瀬町にある本市に於ける古い遊園地の一である。

戦前の京都には円山公園以外には、これといった公園がなかった。
とくに子供本位の遊園地などは大阪の枚方遊園地まで行かねばならなかった。
大正十四年(1925)十二月、京福電鉄は比叡山四明ケ岳に至るケーブルカーを敷設するにあたり、同社田中博社長の創意と努力により、八瀬川(高野川)の流域三万坪を利用し、ここに遊園地を設けるに至った。

2001年末に閉園。

 かけの(石+戔)観音寺

八瀬遊園地より北へ五百メートル、若狭街道の左の崖上にある。
真言宗泉涌寺派の寺で、小さな本堂には自然石の表面に線彫をした観音像を安置する。

寺伝によれば、平治の乱に戦い敗れた源義朝が東国へ逃れんとして、この地で山門の僧徒のp邀撃に会ったとき、石に「やじり」で一躰の観音像を刻み、その霊験によって難を逃れたという。

この地は古来、「千束ケかけ」と称し、八瀬川の急流にのぞむ懸崖絶壁の地となり、交通の難所といわれたから、この観音像は道路交通の安全を祈って安置されたものであろう。
『山州名跡志』巻五には、もと川岸にあって、「観音石」と称したと記している。

因みにこの観音像には「いぼ」「痔」の平癒祈願の信仰があるが、その理由は分からない。

 甲ケ淵

近年河川の改修工事等によってそのところを明らかにしないが、古書には千束ケかけより半町ばかり下流とつたえる。

源義朝の家来、斉藤別当実盛が「かぶと」を脱ぎ、むらがる山門大衆の中に放り投げ、敵が奪いとろうとして争っているうちに、主従三十二騎が一挙に駆け抜けたところという。

 義朝駒飛石

かけの(石+戔)観音前、八瀬川の東岸にある巨石をそれとつたえる。
義朝が血路をひらいて敗走の途次、騎乗のままで飛び越えた岩とつたえる。

真偽の程は保証の限りではない。
 

 神子ケ淵

同所より北へ五百メートル、八瀬川にのぞむ深瀬をいう。
『雍州府志』は古老の伝として、付近にある春日岩が祟りをなすので、一人の巫女がこれを鎮めんとして祈祷した。
しかし効果がないを愧じ、この淵に身を投げたところとしるしている。

 竈風呂

八瀬天満宮に至る旧道の西、八瀬川をへだてて西岸にある。
むかしは「八瀬のかま風呂」として大いにもてはやされ、その盛んなころは十六軒もあったが、現在あるのは一基だけで、しかも風呂として利用するためではなく、保存用として復元したものである。

この「かま風呂」は土饅頭の如き形をし、狭い入り口が一ヶ所しかなく、内部は三畳敷ぐらい、このなかへ青松葉を焚き、竈中の土が充分に熱した頃合を見計らって火を引き、塩水を浸した筵を敷き、その上に寝転んで温まるのである。
原始的な一種の蒸風呂で、現在のサウナにあたる。
天武天皇が壬申の乱で負傷されたとき、八瀬の里人が「かま風呂」を以ってその傷を癒し奉ったのが起りと伝える。
薬風呂として利用され、文禄四年(1595)四月六日には山科言継も養生のため、八瀬の「かま風呂」wp訪ねた旨をその日記『言継卿記』に記している。

 八瀬天満宮

八瀬の東北、御所谷山麓に鎮座する旧村社である。

当社は菅原道真を祭神とする八瀬の産土神で、比叡山法性房の阿闍梨尊意が道真の没後、勧請したとつたえる。
道真は幼少の頃、尊意にしたがって勉学し、比叡山にのぼるときにはここで休息したとつたえ、境内には「菅公腰掛石」というのがある。

また後醍醐天皇が比叡山行幸のさい、鳳輦をしばし駐め給うたという「御所谷」は、当社の背後二百メートル余の地をいい、もと山王権現を祀っていたが、今は天満宮社の境内に移されている。
なお例祭は五月九日、二期のみこしが渡御する。

 秋元神社

本殿の南にあり、秋元但馬守喬知を祀る。
喬知は戸田忠昌の子で、はじめ甚五郎高朝といったが、上総国(千葉県)秋元庄の秋元家の養嗣子となり、万治二年(1659)但馬守、寺社奉行等を歴任し、元禄十二年(1699)老中となった。
宝永元年(1704)武蔵国(埼玉県)川越城主となり、正徳四年(1714)八月、六十六歳で卒した。

たまたま老中として在職中の宝永年間(1704-11)、比叡山と八瀬村の結界(境界)争いが起こり、後醍醐天皇以来、地租免除の恩典に浴する八瀬村民は、ために生業を奪われて困窮に陥った。
全村死活の問題として、ただちに江戸幕府へ訴え出たが、幕府は容易にこれを採りあげようとはしなかった。
よって最後に喬知に愁訴したところ、彼は現地をつぶさに巡見し、八瀬村民の理のあるところを認め、土地争いを解決せしめるとともに、旧例通り一切の年貢を免除したという。
当社は村民が、この報恩のためにその霊を祀ったものである。

 赦免地踊

一に「灯篭踊」ともいい、秋元喬知の遺徳をしのんで、毎年十月十一日に行われる秋元神社の奉納芸能である。

この踊は女装をした青年たちが、自作のすかし彫りの紙灯篭を頭にいただき、哀調をこめた唄をうたいつつ、一晩中おどり明かすのである。
また友禅の小袖をつけ、花笠を被った十歳前後の少女十人が、音頭にあわして踊る。
中世の風流踊に念仏系統の灯篭が加わった洛北の奇祭として、無形文化財の指定されている。
 
両陛下が「赦免地踊り」を鑑賞

第16回国際解剖学会議の開会式に出席するため京都入りしている天皇、皇后両陛下は2004/08/21日夜、京都市上京区の京都御所で左京区八瀬地域に伝わる「赦免地踊」を鑑賞された。 

赦免地踊は、八瀬郷土文化保存会が披露。太鼓などの音頭に合わせ、切子灯ろうを頭に乗せ、女装した中学生らが幽玄に踊った。天皇陛下は、高さ約70センチもの灯ろうを支える中学生や会の男性らに「高校の準備は大変でしょうね。元気でね」「大切に継承していってください」と声をかけていた。 

 弁慶背競石

八瀬天満宮の入り口、石鳥居の南側にある。
高さ2.40メートルの細長い自然石で、無銘。
『都名所図会』巻三には、弁慶が比叡山西塔より揚げてきたといい、あるいは下山の都度、この石に背競べをしたとつたえる。

 矢負坂地蔵

上同所の小堂内に安置する。
高さ1.50メートル。
花崗岩製。
長方形の表面に二重円光背を浅く彫りくぼめ、下に蓮華座を線彫りとした地蔵立像(鎌倉)を浮き彫りとしている。
像は右手に錫丈をもち、左手に宝珠をもつ通常の型であるが、写実的によくできている。
また堂前には、付近から出土したものと思われる多数の小石仏や五輪板碑(室町)がみられる。

因みに矢負という名は、社前の旧道を矢負坂と称するところから生まれたとつたえる。

 大原

小原とも記す。
八瀬の北にあって、比叡山麓下の大原川(高野川)の流域にひらけた細長い山間集落であるが、古来風光明媚の地として知られ、四季折々の眺めも市中とは違った趣がある。

もとは愛宕郡に属し、大原荘または大原郷といい、戸寺・上野・来迎院・勝林院・草生・野村・井出の八ケ村からなっていたが、明治二十二年(1889)大原の北部に散在する小出石・百井・大見・尾越の四カ村を合併して大原村となり、昭和二十四年(1949)四月京都市左京区に編入され、今は「大原」を冠する十三ケ町から成っている。

元来、この地は山林を業とし、薪炭を生産販売する「炭竈の里」・「炭焼きの里」であり、宮中で使用される「みかま木」の供給地であった。
しかるに平安時代中期頃、比叡山延暦寺の俗化を嫌った一部の僧侶たちが大原に着目し、ここに草庵や房舎を建て、仏道修行の場とするに至った。
なかでも長和二年(1013)勝林院にひらいた寂源がもっとも早く、次いで嘉保元年(1094)良忍が来住して来迎院をひらき、融通念仏を唱導した。
それより大原は念仏僧の修行地として栄え、堂舎僧房は大原の山野を圧した。

これらが集落化したのが「別所」である。
その多くは、今はほとんど湮滅したが、比較的よく規模が整って残っているのは、現在三千院の本堂となっている往生極楽院であり、また寂光院もその一つとみてよい。

大原はまた嵯峨とともに隠棲者の里でもあった。
惟高親王をはじめ、文献の上であきらかなだけでも、源顕基・良暹法師・藤原貞憲・同惟高・平親範・加茂氏久等が挙げられ、なかでも寂念・寂然・寂超は世に「大原三寂」として知られた。

もっとも中には、求道よりも大原の山里生活に憧れて来住する者もあった。
とくに結婚生活や恋愛生活に破れた失意の者にとっては、傷心の身を癒すにふさわしい地とされた。

しかし、現実の大原での生活、とくに冬の大原は寒さと孤独に耐える厳しいものであったから、よほど強靭な精神力の持ち主でないと長続きするものではない。

されば鴨長明も、はじめ五年ばかりは大原にいたが、のちに洛南日野山に移り、建礼門院もまた五年足らずして大原を去り、都へ戻られたとつたえる。

その後の大原は主に梶井門跡の支配下となり、若狭(敦賀)の物産を京都に運ぶ街道筋の近郊農村として栄えた。
近世以降は専ら『平家物語』の一章「大原御幸」ゆかりの地として注目を浴び、文人墨客の来遊するものが多かった。

今なお鄙びた風景は各所に点在し、古蹟を愛するものにとっては楽しいところである。

 大原女 images.google

この地で採取した薪・柴を京の町に売り歩く大原の女性をいう。
その服装は頭に縫文様の手拭をかぶり、紺衣に御所染の帯を締め、二巾半の前だれを腰につけ、手には白の甲掛と足に脚絆、草履に白足袋といういでたちで、頭上に薪・柴などをのせる。

かつて建礼門院に近侍していた阿波内侍が、山に柴などを刈りに行くときの装束を真似たものといわれ、その風雅清楚な服装は上臈めいたところがある。

 花尻の森 大原の里マップ

花尻は一に「波那志里」または「花散」とも記す。

大原の入り口にあたる花尻橋の東北隅にある一叢の森をいい、猿田彦神を祀った小野源太夫社と称する小社があって、江文神社のお旅所となっている。

口碑によれば、ここは源頼朝が松田源太夫なるものをして、寂光院に隠棲された建礼門院の動静を監視せしめたという源太夫の屋敷跡とつたえる。
また一説にむかし大原村井出の大渕という池に悪蛇がいて、ときどき村にあらわれて人を害するので、村人によって退治された。
その蛇の尾を埋めたところといい、頭の方は寂光院の近く草生村(草生町)の「おつうが森」に埋めたといわれる。

薮椿の大木が群生する花尻の森である。

 阿弥陀石仏 (鎌倉)

上同所の小堂内に安置する。
高さ一メートル余、花崗岩製。
巣葉の蓮華座上に坐す定印の阿弥陀像を厚肉彫とし、無地の二重円光式光背とともに一石で彫成している。
保存が頗るよく、格調の高い美しい石仏である。

 惟高親王墓

花尻の森より三千院にいたる途中の大原上野町、字亀甲谷と称する山麓にある。

墓は鎌倉時代の作と思われる。
その近くには親王の霊を祀った小野御霊社と称する小祠があり、また御墓より北二百メートル余を字御所田を称し、親王閑居の址とつたえる。

文徳天皇の第一皇子惟高親王は母が紀氏の出身であることや、藤原良房の女明子に惟仁親王(清和天皇)が降誕されたことから外戚藤原氏をはばかって出家され、寛平九年(897)二月、五十四歳で薨ぜられるまでの二十五年間を世捨人としてすごされた。
その閑居の生活については、くわしいことは分からない。
だた『伊勢物語』八十三段や『古今集』巻十八に、在原業平がある年の正月早々に、雪踏み分けて年頭の挨拶に訪れ

  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君をみんとは

と詠んで親王の慰め奉ったのに対し、親王は

  夢かとも何か思はむ浮世をば背かざりけん程ぞ悔しき (新古今集、巻十八、雑歌下)

と返歌されたという。
これらの歌の詞書には「比叡の山の麓」なる「小野」というのみで、具体的にそのところを明らかにしない。

ここ大原上野町は小野山の麓にあって、眼下に大原の里を一望に収め、まことに見晴らしがよく、隠棲地としてはふさわしい。
しかし、業平はその日の夕刻には京都へ戻っているので、時間的にも距離的からみても親王の山荘を大原上野とすることは首肯できぬ。
むしろ修学院方面にこそ求められるべきであろう。

 大原香水

大原上野町の久保家の邸内にある井泉をいう。
同家の説によれば、天長年間(824-34)弘法大使の霊感により、その高弟真済僧正が悪疫をはらい除くために掘り出したものといい、爾来井泉の傍らに一宇を建て、瑠璃光薬師如来を安置するに至ったという。

この井泉はふだんは水は湧かず、毎年一回、旧暦の六月十六日だけ湧出する。
しかも早晩から湧き出し、午後に至って止む。
俗に「せんき」の水と称し、この水を飲むと疝気・癪気に霊験があるといわれ、当日は井戸より汲み上げた水を、薬師瑠璃光仏を安置した座敷の前庭へ竹樋にて流し、一般参詣者に授与される。

因みにこの井泉は、むかし久保家の先祖が白狐の危難を救った報恩に、白狐がこの奇瑞をあらわしたものだとつたえる。
同家にはまた惟高親王とつたえる僧形坐像を安置する。

 摂取院  (蛇寺)

上同所より一渓をへだてた大原大長瀬町にある。
竜女山と号する浄土宗鎮西派の尼寺で、俗に蛇道心寺ともいう。

寺伝によれば、当寺の開基浄往法師は在家のころ、妻の妹と密通し、妻はこれを苦にして悶え死んだ。
その怨霊が小蛇となって男の首にまといつき、はなれようとしない。
おとこは前非を悔いて出家し、この地に草庵をむすんで亡妻の冥福を祈ったところ、晩年に至ってようやく蛇はその首から離れたという。

それより村人はこの法師を蛇道心とよび、寺を蛇寺とも蛇道心寺ともよぶようになったとつたえる。
因みに女に祟られるものが参詣すれば、厄をまぬがれるとつたえる。 

 大長瀬町宝篋院塔 (鎌倉・南北朝)

摂取院より北、大原大長瀬町の民家の背後にある。
南北に二基ならんで西面する。

いずれも花崗岩製で、塔身正面に弥陀の種子キリークをあらわし、正面格狭間の両脇に元亨元年(1321)三月十五日、一結衆等が建立したという刻銘がある。
全体に温和にみえるのは、笠の隅飾りが二弧であり、また基礎の三面に輪郭をつくらず、格狭間のみとしているからであろう。

左の塔は、右の塔を手本とした南北朝時代の作で、塔身に胎蔵四仏の梵字をあらわす。
但し相輪は後補である。

 名号石塔婆 (室町)

上同所より三千院に至る道の北側にある。
中央蓮華座上に「南無阿弥陀仏」とあり、天文二十二年(1553)の銘を刻む。

 五輪石塔 (鎌倉)

上同所より三百メートル、魚山橋手前の駐車場の一隅にある。
全体の形状は温雅であるが、地輪が低い。
弘安九年(1286)の銘を有する。

その左にある観音石仏(室町)は、扁平な自然石の表面に蓮華をもった観音坐像を線彫りとし、背面に永正六年(1509)の銘を刻む。

 梅ノ宮神社

新若狭街道の東側にある。
江文神社の境外摂社で、木花咲耶姫を祀る。
古くは姫宮と称し、江文神社の妻女を祀るといわれた。
今は大長瀬町の産土神として崇められている。

 三 千 院 images.google

天台宗延暦寺派の寺で、古くは円融院(円融房)または円徳院、梨本房、梶井宮などとよばれたが、明治四年(1871)三千院と改めた。
寺伝によれば、延暦年間(782?806)伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を創立した時、東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構えたのが起こりとつたえる。
その後、貞観二年(860)承雲によって堂塔を整備し、最澄自作の薬師如来を本尊とし、一念三千院または円融房と称した。
また山麓の東坂本梶井の里(大津市)に里坊を設け、梨本流の拠点とした。
次いで応徳三年(1086)白河天皇中宮賢子の菩提のため盛大な供養が行われたとき、丈六の九体阿弥陀像を安置し、円融房を円徳院とあらためた。

当院が門跡寺院となったのは、堀河天皇の第二皇子・最雲法親王が梶井に入室し、大治五年(1130)梶井の第十四世法主となられたときである。
これが皇族入寺としてのはじめてであり、それより梶井の宮と称するに至った。

このとき、大原魚山の大原寺を加預(管轄)され、大原に政所を設置し、来迎院を中心とした上寺と勝林院を中心とした下寺の取り締まりにあたった。

魚山とは、承和五年(838)入唐した慈覚大師円仁が、中国山西省天台山の支峰魚山で流行していた声明(しょうみょう)を修得し、帰国後、大原の地を相して声明の本源とさだめたとき、唐土魚山にならって山号を魚山と名づけ、また大源の水を去って大原寺を号したのに因る。

爾来、魚山の本坊となり、承仁(18世)・尊快(20世)・最仁(22世)等、代々法親王の入室する門跡寺院となり、青蓮院・妙法院とともに天台三門跡の一つとなった。
鎌倉時代の貞永元年(1232)火災にかかって堂舎を失ったのを機会に、以後は坂本より京都市中に本拠を移した。

はじめ市中を転々としたが、建長二年(1250)船岡山(北区)の東麓に移り、ここに壮麗な御所を造営した。
而してこの地にあること約二百余年におよんだが、応仁の乱にかかって焼亡し、所領の大原に移った。
元禄十一年(1698)、徳川将軍綱吉は入道慈胤親王(43世)が天台座主に補せられるにあたり、上京区梶井町の地に住房(里坊)を造進し、寺領1064石を寄進するにおよんで、大原は修行の地となった。
しかし、明治維新に昌仁法親王(50世)が還俗し、梨本宮家をおこされたため、里坊(梶井御殿)にあった仏具類はすべて大原に移管し、大原の政所を梶井門跡の本殿とさだめ、円融房の本堂三千院に因んで三千院と号するに至ったものである。

【客殿】

天正年間(1573?92)、梶井門跡跡応胤法親王(40世)が禁裏修理の余材を得て建立されたとつたえ、政所竜禅院に因んで一に後竜禅院とも称する。
現在の建物は大正初年に修補され、内部各室の襖や杉戸には今尾景年・望月玉泉・鈴木松年・菊池芳文・竹内栖鳳等、当時の画壇を代表する画家達によって飾られている。

【聚碧園庭園】 (江戸)

地泉観賞式の小庭をいう。
面積は約255坪。
山畔を利用して上下二段式とし、「さつき」の刈込みと複雑に入り込んだ浅い池によって構成されている。
金森宗和の修復といわれるが、現客殿の建てられた大正時代に改作された跡がみられる。

【宸殿】

宮中で行われた御懺法講(おせんぼうこう)等の法儀を執り行うため、昭和元年(1926)に再建された当院中、もっとも重要な建物である。
故に外観は紫宸殿に模して寝殿造りとし、内部中央の間(内陣)には本尊薬師瑠璃光如来と御懺法講に用いられた楽器類が安置され、西の間には歴代法親王が秘仏とされた救世観音半跏像(重文・鎌倉)および不動明王立像(重文・室町)を安置する。
また東の間(玉座の間)は一に「虹の間」ともよばれ、下村観山が描いた七彩の虹が、襖から鴨居のうえまでとどくように描かれ、その大胆な構図はみる人を一驚せしめる。

【瑠璃光庭】 (大正)

往生極楽院に通じる苔庭をいう。
青苔のみどりにはえる紅葉の秋景は、晩春五月の石楠花のうつくしさとともに、色彩美の極致と賞賛されている。

【涙の桜】

瑠璃光庭の一隅にある。
室町時代の歌僧頓阿が、その友陵阿上人の極楽院旧栖を訪ねたとき、上人手植えの桜をみて

 見るたびに袖こそ濡れる桜花涙の種を植えや置きけん (草庵集 巻十)

と詠んだのに因んで「涙の桜」とよばれた。
一説に西行法師の手植えともいわれる。

【往生極楽院】 (重文・藤原)

もと極楽院と号し、三千院の境外仏堂であったが、明治になってその本堂となった。
恵心僧都の妹・安養尼の持仏堂といわれたが、近年高松中納言実衡の後家・真如房尼が、久安四年(1148)に建立した常行三昧堂であることが判明した。

江戸時代に正面に一間の向拝をつけたりして、旧態をだいぶ失った。
しかし内部は周囲一間通りを外陣とし、中央を内陣とし、外陣は化粧屋根裏としている。
殊に舟底天井は珍しく、それに二十五菩薩の来迎図を描き、また本尊背後の来迎板には両界曼荼羅図、外陣の小壁には千仏を描き、さらに柱・長押等には仏像・宝相華のうんげん彩色をほどこす等、藤原時代の阿弥陀堂のいみじき有様がありありと思い起こされる。

堂内に安置する阿弥陀三尊像(重文・藤原)はいずれも寄木造り、彫眼入り、金皆色。
このうち中尊は丈六の坐像で、上品下生(じょうぼんげしょう)の印相をしめし、八角形の低い台座に裳裾をたれて結跏趺坐する。
光背は二重円光に蓮華唐草と梵字十三個を彫り出し、周辺部にも蓮華唐草と十三体の化仏を透彫としている。

また右脇侍の観音菩薩は両手を蓮台にささげ、左の勢至菩薩は合掌し、ともに膝を屈し、蓮台上に跪坐する姿は、来迎の姿をあらわしたものというべく、本像は藤原時代を代表する屈指の優像である。

【有清園庭園】 (江戸)

往生極楽院の周庭をいい、面積は約五百坪。

【阿弥陀石仏】 (鎌倉)

律川をへだてて三千院境内の東北隅にある。

俗に「大原の石仏」といわれ、高さ2・25メートルの大きな自然石の表面に定印の阿弥陀如来坐像を厚肉彫に刻み出している。
光背は無地の二重円光式。
大きさといい、形のよく整っていることでは、京都付近では屈指の石仏である。

【売炭翁旧跡】

石仏同所とつたえるがなにもなく、むかし、この辺の山中で炭を焼く炭竈があったのに因んで称したものであると思われる。

売炭翁とは炭の生産販売を業とする人々を擬人化したもので、『白氏文集』巻四に、炭を売る翁は常にうすい衣をまといながら、売った炭は他人の保温料となるも、自身の寒さを防ぐには足らないという意を寓した詩があり、これに因んで炭焼く人々を売炭翁と称した。

大原はもと山林を伐採して薪炭とし、これを販売するのを業とした炭焼きの里である。
その起こりは平安時代に宮中に御竈木(みかまぎ)として納めたことに因る。
それより大原の山中各所に炭竈が設けられたが、そこから立ちのぼる煙は、王朝時代の歌人によって歌枕として採り上げられ、世に有名になった。

 来迎院

三千院より東、呂川に沿って三百メートル余、幽邃な小野山麓下にある。

天台宗延暦寺派の別院で、慈覚大師円仁が中国天台山を模して堂塔を建立したのが起こりとつたえる。
その後、嘉保元年(1094)聖応大師良忍が来往し、梵唄の音律を統一大成して大原魚山流をたて、勝林院と並ぶ声明音律の中心となした。
応永三十三年(1462)火災によって堂舎を焼失したが、間もなく永亨年間(1429-41)再建され、さらに天文年間(1532-55)に改修したのが現在の建物である。
なお境内子院に浄蓮華院・蓮成院・遮那院があり、この三院が輪番で来迎院を管理している。

【本堂】 (室町)

堂内中央に薬師・弥陀・釈迦如来坐像(重文・藤原)を安置する。
脇侍に不動明王立像(藤原)と多聞天立像(藤原)があり、背後の脇壇上には慈覚大師坐像(鎌倉)・元三大師画像(鎌倉)を安置する等、さすがに古い伝統をつたえる古寺という感銘をうける。

なお三尊前の前卓(室町)は牡丹唐草の美しい透彫からなり、「鎌倉彫」の一資料として注目される遺品である。

【同鐘】 (室町)

鐘楼にかかげる。
全体に摩滅損傷しているが、永亨七年(1435)山城国大原郷来迎院鐘として、大工藤原国次が作った旨を刻んでいる。

【獅子石】

本堂右手の上段地にある。
「獅子飛び石」ともいい、獅子がうずくまったような形をしている。
『元亨釈書』巻十一によれば、良忍上人が文殊の秘法を修していたとき、石が獅子となって庭上を吼え廻ったとつたえる。

【五輪石塔】 (鎌倉)

上同所にある。
花崗岩製。
笠の軒がやや薄く、反りもゆるやかなので特殊な風格をもっている。

【聖応大師良忍墓】

来迎院本堂の背後の律川を渡った対岸にある。
良忍上人は延久四年(1072)尾張国(愛知県)知多郡富田村の生まれ、幼にして比叡山壇那院の良賀上人の室に入って研学にいそしんだが、天台にあきたらず、二十三歳のとき、大原山に隠遁した平安時代後期の念仏僧である。
それより三十余年この地に住み、一人の念仏を万人に融通して往生に導くといういわゆる融通念仏の教義を唱えた。
また諸国をめぐって各地に念仏弘通の道場を開いた。
長承二年(1132)二月、来迎院にて寂した。
年六十一。
のちに聖応大師と追諡された。

墓石は三重石塔(重文・鎌倉)で高さは二・八二メートル、花崗岩製。
鎌倉時代初期の古調をよくあらわしている。

 勝手神社

上同所より律川沿って西へ下ったところの山麓下にある。
魚山の守護神として、良忍上人が大和国(奈良県)多武峰より勧請したとつたえ、本地仏は毘沙門天という。

 音無の滝

小野山の山腹にあり、巨巌をつたって滔々と落下する滝は水声をきかないので、この名が生まれた。
一説に良忍上人が、滝の音に声明が乱されるのを嫌い、呪文で水声を止めたともいわれる。

 呂律川

小野山を水源とし、三千院を南北にはさんで末は大原川にそそぐ二つの渓流をいう。
南を呂川、北を律川と称するのは、いずれも声明音律に因んで名付けられた。
なかでも呂川に沿うて魚山橋から来迎院に至るあいだは、楓樹が多く、もみじの名所となっている。

 清和井ノ清水

三千院の門前、呂川にかかる魚山橋の東北端にわずかに旧跡をとどめている。
母乳にとぼしい産婦がこの水を飲むと不思議によく乳が出るといわれ、一に「清和井の乳水」ともいう。

 後鳥羽・順徳天皇大原陵

三千院より勝林院に至る参道右手にあって、南北二陵が相並んでいる。

後鳥羽上皇は承久の乱に敗れ、隠岐の島に流され給い、在島実に十八年余、延応元年(1239)二月、宝算六十歳で崩じられた。
また順徳天皇は佐渡ヶ島に流され給い、在島二十一年、父帝におくれ給うこと三年後の仁治(1242)宝算四十六歳で崩じられた。

御遺骸は配所に於いて御火葬に付し、遺詔によってこの地に埋葬された。
『増鏡』(ふぢ衣)によれば、これは後鳥羽上皇の皇子であり、順徳天皇と同腹であった尊快法親王が、その頃、梶井宮第二十代の門主として在職されていたからであり、同親王は御母修明門院(藤原重子)と計らい、父帝の御所であった水無瀬御所の材を移し、御陵として法華堂を営まれた。
法華堂は享保二十一年(1736)焼失し、明治年間に御陵が宮内庁の管理となるにおよんで、陵外西北部に再建されるに至った。

 勝林院

一に大原寺(だいげんじ)と号し、一条天皇の長和二年(1013)寂源によって創建された天台宗延暦寺の別院である。

寂源は左大臣源雅信の五男、俗名を時信(叙)といい、従五位下、右少将に累進したが、十九歳のとき発心出家し、延暦寺の皇慶阿闍梨の弟子となった。
しかし山内の空気に堪えきれず、比叡山を下って大原に在住し、唱名念仏につとめること三十余年におよんだ。

寂源が勝林院とともに史上とくに有名なのは、寛仁四年(1020)台嶺(比叡山)の碩学を請じ、本阿弥陀如来像の前で法華八講を行ったことである。
このとき覚超・偏救の二僧が仏果の空不空について議論をし、覚超が不空を論ずると本尊がその姿を隠し、偏救が空を説くとたちまちその姿をあらわし、中道実相の証明に立たれたといい、これより世人は「証拠の阿弥陀」と称するに至った。

寂源の没後、勝林院は大原魚山流声明の根本道場として栄えた。
わけても文治二年(1186)の秋、顕真僧正が法然上人を招いて浄土教について論議せしめたいわゆる「大原問答」の会場となったことは、さきの「大原談義」以上に有名ならしめた。
このときの席には笠置寺の解脱上人(貞慶)東大寺の俊乗坊重源等、当時の学匠や名僧が多く連なり、各自弁舌をふるって法然に発問したが、法然は弥陀の本願が末世の凡夫を救う所以であることを理を究め、証を挙げて論述したので、三百の聴衆はことごとく信伏し、そろって念仏を唱名するに至った。
このとき本尊もまた手から光明をはなち、念仏衆生を必ず救うとの証を示されたという。

その後、文明八年(1476)後花園天皇七回忌追福にあたり、応仁の乱にて皇居が焼失して修することができなかったから、やむなく勝林院証拠堂(本堂)にて御懺法講とともにおこなわれ、また江戸時代の万治二年(1659)には後水尾院・東福門院が融通念仏を当寺に於いてうけられたことがある。

明治維新までは、塔頭子院として宝泉・実光・普賢・理覚の四院を有し、これを総称して勝林院と号したが、明治維新以後は本堂だけの尊称となり、塔頭もいまは宝泉・実光の二院のみで勝林院を交互に管理している。

【本堂(証拠阿弥陀堂)】 (江戸)

もとの建物は享保二十一年(1736)の火災によって焼失し、「証拠の阿弥陀」とよばれた旧本堂も失った。
いまの建物はその後の安永七年(1778)の再建ではあるが、天台伽藍特有の堂々たる建物で、魚山の本堂たるにふさわしい威容をみせている。

内陣には本尊阿弥陀如来坐像を安置する。
元文二年(1737)仏師香雲の作による丈六の巨像であるが、近世仏像彫刻特有の形式化した硬さがみられる。

注目すべきことは、この本尊の御手から五色の綱が下っていることである。
これを『善の綱』といい、これに触れれば結縁を得るといわれ、また白布の綱は葬儀のとき、門前の来迎橋までのばし、そこに安置された新しい死人の棺上に先を垂らし、如来の導きによって極楽往生をするという儀式を行うためという。

他に法然上人像をはじめ、踏出阿弥陀像・元三大師画像等、多くの仏像が安置されている。

【問答台】

八講壇ともいう。
本尊前の左右にあり、問答論議を行うための台である。

【銅鐘】 (重文・平安)

鐘身の高さ一・四メートル、口縁外径七六センチ。
無銘ながら平安時代前期の様式をあらわした優品である。

【石造宝篋印塔】 (重文・鎌倉)

本堂右手の雑木林中にある。
基礎の一面に正和五年(1316)の銘がある。
相輪とともに完備した鎌倉時代の典型的な宝篋印塔で、浄土往生を欣求する念仏行者によって建立された供養等であろう。

【梶井宮墓】

上同所より東へ入った山林中にある。
梶井門跡四十三代慈胤(後陽成天皇々子)・同四十六代道仁(伏見宮貞致王子)・同四十七代叡仁(有栖川宮職仁王子)・同四十八代常人(同左)・各法親王を葬る。
墓石はいずれも無縫塔である。

また本堂の背後には四十一代最胤法親王(伏見宮邦輪王子)の墓(無縫塔)があり、さらに勝林院より北、聖谷には四十二代承快(後陽成天皇々子)・四十四代盛胤(後水尾天皇々子)・四十九代承真(有栖川宮職仁王子)各法親王の墓および四十五代清宮(霊元天皇々子)の墓がある。
いずれも墓石は無縫塔や宝篋院塔である。

【法華堂】

安永七年(1778)の再建で、堂内に普賢・聖観音像を安置する。
もとは、後鳥羽・順徳両帝の陵域内にあったが、明治年間に現在地に移された。

【法然腰掛石】

法華堂の前、来迎橋の西南隅にある。
法然上人が勝林院に通うたとき、この石上で休息したとつたえる。

【熊谷腰掛石】

萱穂橋の西南隅にある。
熊谷蓮生坊は、師の法然が「大原問答」中、この石に腰をかけ、法問の勝劣を聴聞したという。

【熊谷鉈捨藪】

三千院の門前、現在茶店の建ちならぶところとつたえる。
熊谷蓮生坊は、「大原問答」で法然が敗れた場合、その法敵を討ち果たそうとひそかに袖に鉈を隠し持っていたが、法然に強く諭され、鉈をこのところに投げ捨てたとつたえる。

 宝泉院

実光院と同じく、勝林院山内の一院で、寿永年間(1182-85)声明研究の専門寺院として再建されたとつたえる。
現在の書院は室町時代の文亀二年(1502)の再建であるが、廊下の天井は俗に『血天井』とよび、慶長五年(1600)伏見城を死守した鳥居元忠が自刃したときの板間とつたえる。
また庭内の「五葉の松」は、樹齢六百年を数える老松で、近江富士に型どってつくられているのが珍しい。

【袈裟かけ石】

書院玄関前の庭内にある石をそれとつたえる。
『山州名跡志』巻五によれば、皇慶阿闍梨が大原在住のとき、常に従う護法童子は師の袈裟の汚れを天竺の無熱地に行って洗いすすぎ、この石に掛けて乾かしたという。
もと若狭街道の路傍にあったものだが、近年移したものであろう。

無熱地=ヒマラヤ山地の北にあり、瞻部州に注いで潤すと考えられている池。マササロクル湖ともいわれる。弘法大師が神泉苑で祈雨修法を行ったとき、この行けの善女竜王を勧請したことがある。

 大原和田石仏 (鎌倉)

大原川に架かる和田橋より北へ約百五十メートル、旧若狭街道の西側、大原来迎院町の路傍の石窟内に安置する。

かなり摩滅しているが、調和のとれた温雅な石仏である。

 寂光院 【images.google

翠黛山(小塩山)の麓、大原草生町にある。

天台宗延暦寺派に属する小寺であるが、『平家物語』がつたえる建礼門院ゆかりの地として知られ、今なお多くの人々の訪れる洛北屈指の名刹である。

寺伝によれば、当院は推古天皇二年(594)聖徳太子が用明天皇の菩提を弔うために建立され、承徳年間(1097-99)聖応大師良忍の開基とも伝えるので、おそらく来迎院配下の子院として、平安末期頃に再建されたものであろう。

中世以降は近江国坂本(大津市)の聖衆来迎寺に属し、同寺で得度した尼僧が寂光院の歴代住職をつとめるならわしとなり、現在におよんでいる。

建礼門院が当院傍らに一宇の草庵をむすび、平家一族の菩提を弔われたのは、文治元年(1185)九月とつたえ、次いで後白河法皇が夏草の茂みをふみわけて大原へ御幸されたのは、その翌年の陰暦四月下旬であったことは『平家物語』によって世に知られるところである。
このとき女院は花を摘みに外出中であったが、法皇は荒れ果てたわびしい庭内に入って

  池水に汀の桜散り敷きて浪の花こそ盛りなりけれ

とよまれ、また庵室の障子にしたためられた女院の御製とおもわれる

  思ひきや深山の奥にすまひして雲井の月をよそに見んとは

という歌をご覧になり、往時の女院の華やかな暮らしを追憶して落涙された。
ほどなく山から戻って来られた女院は、予期せぬ法皇の御幸におどろきつつ、三年ぶりの対面をされ、六道輪廻にたとえて変転極りなかった御自身の生涯について物語られた云々。

上は『平家物語』灌頂巻にかかげる「大原御幸」の要約であるが、この一章は同書のフィナーレを飾るにふさわしい一編の叙事詩として、古来多くの人々から愛読され、いつしかここが女院の隠棲地といわれるようになった。

現在の本堂は室町時代の建立であるが、慶長四年(1599)豊臣秀頼の母淀君によって改修され、同八年(1603)には寺領三十石が寄進されたのは、このような伝説を信じたからであろう。
堂内には女院像や阿波内侍張り子の像を安置しているが、しかし本尊は二メートルをこえる地蔵菩薩立像(室町)であり、内陣壁面におびただしい地蔵菩薩の小像を安置するのは、当寺がはじめ地蔵信仰とむすびついた寺であることを想像させる。

現在の寂光院は『平家物語』に因んで、堂前の池を「みぎわの池」、桜を「みぎわの桜」、向かいの山を「翠黛山」、谷の林を「緑羅の垣」と称し、いかにも大原御幸の舞台にふさわしくしつらえられているが、むしろここは古典平家に描かれた文学遺蹟としてみた方がよかろう。
 

【建礼門院庵室址】

寂光院の裏門を出た北にあり、垣をめぐらした狭い平坦地の中央に「御庵室遺蹟」としるした石碑が建っている。

また谷川をへだてて向かいの山中には、女院に仕えていた阿波内侍・大納言佐局・右京太夫局・治部卿局の墓と伝える四基の小さな五輪石塔がある。
いずれも後世に供養等としてつくられたものであろう。

 建礼門院大原西陵 【images.google

寂光院に接してその東北隅にあり、小さな五輪石塔を以ってしるしとされている。

女院は平清盛の二女として生まれ、十七歳で高倉天皇の女御となり、次いで中宮となって安徳天皇を生み奉った。
その崩御の日時や享年については、『平家物語』流布本には建久二年(1191)二月中旬、三十七歳とあり、延慶本・四部合戦状本の『平家物語』には貞応二年(1223)三月下旬、六十九歳となっている。
但し宮内庁では建保元年(1213)十二月十三日、五十九歳と認定されている。

またその崩御の場所については、一般には寂光院となっているが、一説に東山鷲尾ともいわれて、明らかにしない。
かかる異説が数多く出るのは、女院が世をしのぶ身であり、加えて不自由な庵室生活に耐えかね、各地を転々として移住されたためであろう。

 神明神社

寂光院背後の西北山腹にある草生町の産土神で、境内には伊勢神宮と同じく内宮・外宮の二つの社殿があり、天照・豊受両大神を祀る。
その創祀由緒をあきらかにしないが、文明十八年(1486)六月十六日、当社の拝殿にて送別の宴をひらき

  大原の神はあまてるかけながら頼む春日もおなじ光を

と歌をよみ、神殿に法楽をしたことが『廻国雑誌』にみえる。

因みに『山城志』巻五によれば、当社を延喜式内「大柴神社」の後身としているが、あきらかにしない。

 朧の清水

寂光院から三千院に至る草生町の路傍にある井泉をそれとつたえ、今なおわずかに水が湧出している。
建礼門院が朧月夜に井水に姿を写し、身の上を嘆かれたといわれ、古来歌枕の一として知られる。

 良暹法師住房址

現在その所を明らかにしないが、『後拾遺和歌集』に掲げる贈答歌等によって、「朧の清水」に近い大原草生町付近かと思われる。

良暹は『小倉百人一首』にもえらばれた平安時代後期の歌僧であるが、詳しいことは分からない。
もとは比叡山の僧で、祇園別当となり、一時紫野雲林院に住したこともあるが、晩年は大原に隠棲し、康平年間(1058-1065)六十七歳前後で没したと伝えるのみである。

『袋草紙』巻三によれば、源俊頼は友人数名と連れたって大原へ来遊したとき、俄に下馬して歩き出したので、人々が驚いて問うたところ「知らないのか、ここは良暹法師の住んでいた旧房だぞ」といったので、人々は感嘆して下馬したという。
また、当時の住房の障子には
 
 山里の甲斐もあるかな郭公今年も待たで初音ききつる

と良暹が書きつけた歌が、未だ消えずに残っていたという。

 芹生の里

大原草生の南、野村、井出に至る間にあった村落をいい、大原川をへだててはるかに小野山と相対する景勝の地にあたる。

平安時代以来、歌枕の一として知られたが、江戸時代のはじめ頃、村人は大原川の対岸、勝林院村に移住した。
今なお閑寂な風景は、むかしを偲ばせるに足るものがある。

 おつうの森

一に「大津の森」とも記す。
寂光院と野村の分かれ路の東北角にある一叢の森をいい、森の中には「竜王大明神」としるした石碑があるだけで、社殿はない。
ここは大原川にそそぐ草生川に近く、水害をもたらす水神をなだめるために祀ったものであろう。
三月十日には野村の人達は、二メートル余りの太い藁縄をつくり、これを蛇体になぞらえ、櫁の枝を差して神前に供える。
これが大原の蛇祭の起こりという。

古来、大原には蛇にまつわる伝説が多い。
『大原物語』によれば、昔京の女が若狭国(福井県)小浜に行き、かの地において結婚したが、夫を恨むことがあって、大原まで逃れてきて大原川の水底に身を沈めた。
そこを女郎淵という。
その後、夫がそこを通りかかると、女は大蛇となって乗馬とともに川中へ引き入れようとした。
そこを馬守淵という。
夫はうまく逃げ去ったが、のちにまたここを通りかかると、大蛇が現れたので、従者が石を打ちつけて退散せしめた。
そこを石籠淵という。
大蛇はその後、蛇井出村(大原井出村)の大淵池に住み、ときどき里に出ては人をとろうとして暴れまわるので、山門の法力によって退治された。
このとき里人達が一ヶ所に非難したのが、大原雑魚寝の起こりであるとつたえる。

しかし、これだけでは話としてはあまり面白みがないので、これを潤色した次のような物語が生まれた。
それは昔、大原に「おつう」という美しい娘がいた。
若狭の殿様に見染められ、召されて若狭へつれて行かれたが、のちに飽かれて村へ追い返された。
「おつう」は懊悩の日を過ごすうち、再び殿様が大原を通るということを聞き、そのあとを追いかけたが、家来に妨げられた。
そこで蛇身となって追い迫ったが、遂に切り伏せられた。
その首を埋めたところが「おつうの森」で、尻尾は花尻の森に埋めたという。
今でも毎朝、大原の里にかかる朝もやは大蛇の姿に棚引いていますし、乙(おつう)が森では、年に一度 おつうをなぐさめるお祭りが残っています。

一説にこれとは逆に「おつう」が殿様を嫌い、一緒に帰ろうとしないので、怒った殿様によって斬られたのだともいい、異説があっていずれとも断定しがたい。

上の伝説は『大和物語』百四十五話の平城の帝に仕える采女の悲恋物語を根拠にし、江戸時代の好事家によっていいふらされたものであろう。

因みに「おつう」を二つに斬った怨念が、今も霞となって浮遊するといわれ、これを「小野霞」という。
この霞は小塩山の谷から発生し、二方面に長く裾を引いてたなびき、夜中に出会うといわれ、大原における珍しい自然現象の一となっている。

 真守鉄盤石

大原野村町の北部、路傍の西側にあり、またその傍らに自然石で周囲をたたんだ小さな井泉があって、今なお水をたたえている。

『山州名跡志』巻五によれば、ここは鍛冶大原真守の宅跡とつたえ、石や井泉は刀剣を鍛えたときに用いたものと伝える。
真守とは伯耆国(鳥取県)大原在住の刀工で、数代または数人あって、代々大原真守を号した。
初代真守は平家重代の名刀「抜丸」(国宝)の作者とつたえる平安時代後期の刀工であるが、左京区大原に在住したという文献的資料はない。
たまたま大原の地名と同じくするところから、のちに混同しされ、かかる伝説を生むに至ったものであろう。

因みに一説に三条小鍛冶宗近が用いたものといい、井水を「小鍛冶の水」、石を「平清盛鉄盤石」とよぶというが、信じられぬ。

 江文神社

大原野村町の西南、江文山(金毘羅山)の麓に鎮座する。

大原八郷の産土神として古くから崇敬され、本殿には倉稲魂命を祭神とし、級長津彦社等の末社を有する旧村社である。
創建は明らかにしないが、江文山を神体として創祀されたものであろう。
式内社ではないが、うっそうたる樹木に覆われた境内は、古社らしい森厳さにみちみちている。

【大原雑魚寝】

節分の夜に当社の拝殿にて行う行事である。
むかし、大原村蛇井手(現井出町)の大淵という池に大蛇が棲み。ときどき里に出て人を害するので、里人は一ヶ所にかくれ、難を避けたという。
それがいつしか節分の夜に当社に参籠通夜するに至った。

西鶴の『好色一代男』にはこれを採り上げ、その夜の情景を面白おかしく記している。
しかし一村の男女が一ヶ所に集まり、灯を消すこととて風紀上いかがわしく、明治以前に禁止されてしまったとつたえる。

  世之助が大原の里の雑魚寝よりわれの雑魚寝はなまめかしけれ (祇園歌集) 吉井 勇

因みに例祭は五月五日であるが、九月一日の「八朔祭」には午後に湯立ての神事があり、夜には大原地区の青年男女による奉納が行われる。

 金毘羅山

江文神社の背後に突兀としてそびえ立つ山をいい、古くは江文山と称した。

高さは海抜五百七十二メートル余。
全山秩父古生層の露岩に覆われ、すこぶる怪奇な山容をしている。

『山州名跡志』巻五によれば、昔からこの山頂に火壺・風壺・雨壺という自然の石窓があって、風雨祈願の信仰があり、魔所として怖れられていたという。
一説に造化三神(天乙御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)を祀るともいわれる。
おそらく古代祭祀の遺跡磐境であろう。
近年、山頂近くに篤信家によって金毘羅大明神と崇徳天皇を祀る琴平神社が創祀された。
口碑によれば、讃岐国(香川県)で憤死された崇徳天皇の霊をなだめるため、都のみえるこのところに祭祀したのだとつたえる。

 江文寺址

金毘羅山に登る途中の山腹の地とつたえるが、一説に江文神社の旧鎮座地ともいい、明らかにしない。

当寺は平安末期に成立した『後拾遺往生伝』に、参議藤原為隆は各地の名山霊寺に四天王像を安置し、不断供養法を修した際、当寺がそのうちに選ばれたとあり、また延暦寺の快賢上人は西塔より当寺に移住し、巌泉のほとりに草庵をむすび、泉下房と号したことが記されている。
また『元亨釈書』巻十一には、鎌倉時代の末期頃、比叡山の釈蓮坊も江文山に籠もって参禅修法を行ったことがみえ。『捨芥抄』諸寺部にもその名が記されていることから、当寺は平安末期から室町時代に都の鬼門東北の鎮守寺として創建されたものであろう。
その後、寺運は次第に衰退し、今は当寺をしのぶに足るような遺跡・遺物は見あたらない。

 江文峠

一に「静原峠」ともいう。
江文神社の南、大原より静原に至る約一キロの坂路をいい、上古に於いては大原と鞍馬をむすぶ重要な往環路であった。
吉田経房が義兄の平親範を極楽院に訪ねるべく、承安四年(1174)二月十六日、大原来訪のとき、鞍馬から静原を経、江文峠を越えた旨がその日記『吉記』にみえる。
このとき、江文寺へ参詣し、別当僧より寺の窮状をきき、灯明料として日別一合の施入を約束している。
後白河法皇が大原へ御幸されたときも、またこの路を利用されたものと思われる。

 阿 弥 陀 寺 - 古知谷

三千院より北へ約二キロ。
若狭街道から六百メートル余り登った山腹に有る。

古知谷光明山と号する浄土宗知恩院派の寺で、慶長十四年(1609)木喰僧弾誓上人が創建した如法念仏の道場である。
上人は尾張国海辺村の生まれ、九歳にして出家し、諸国を回遊して京都に至った。
たまたま五条橋上より北方に紫雲がたなびき、光明赫然たるを発見して、遂にこの地に来って一宇を建立したのが、当寺の起こりと伝える。
上人はこの地に住すること四年、慶長十八年(1613)五月、六十二歳で示寂した。

本堂(開山堂)には世に「植髪の像」と称し、弾誓上人の髪を植えた自作の像を安置し、右脇壇には阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉)を安置する。
その背後の開山窟には、上人の遺骸をおさめた石棺があり、宝物殿にはまた上人常用の法衣や仏具等が展示されている。

【御杖水】

書院の背後の谷間に有る。
弾誓上人が鉄杖で掘ったところ、清水が涌き出たといわれ、これを服するものは病苦を免れると伝える。

【禅公窟】

書院の背後三百メートル余りの山上に有る。
享保年間(1716?36)弾誓上人の行跡を慕って来山した澄弾上人が参禅した石窟とつたえる。

因みに当寺には古来安産守護の信仰があり、毎年五月二十三日の開山忌には産前産後の婦女子の参詣でにぎわう。

また山間渓谷にのぞむ境内は、清涼な水が滝となってほとばしり、夏日の納涼によく、秋は満山の楓樹が紅葉してひとしお美しく、真に洛北の仙境というべきところである。

 

 

 

 
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