修学旅行
 


● 広隆寺
 
蜂岡山と号し真言宗御室派に属する。
当寺は推古天皇十一年(603)秦河勝が聖徳太子より一体の仏像を賜ったが、同三十年(622)太子の薨後、その菩提を弔うために一宇の仏堂を建立したのが起こりと伝える。
はじめ紙屋川上流右岸、現在の北野白梅町付近にあったが、天智天皇の御代に現在の地に移されたといい、あるいは桓武天皇の平安京造営に際して転出せしめられたとの説があって、明らかにしない。
創建当初は秦氏の氏寺として崇められ、一に秦公寺(うずまさでら)と称したが、また所在の地名によって葛野寺、所縁によって蜂岡寺・桂林寺・三槻寺とも称し、聖徳太子有縁の寺院として栄えた。
しかるに弘仁九年(818)に全焼の厄に会い、承和の頃に秦氏出身の道昌僧都を中心として復興されたが、久安六年(1150)再び全焼し、永万元年(1165)に至って復興した。
現講堂はこのときの再建であるが、往古の伽藍の制は今はみられない。
しかし、平安時代以降は本尊薬師如来に対する信仰があつく、上下の人々は競って当寺に参籠した。
その後、薬師信仰にとってかわって太子信仰が盛んになると、境内に桂宮院の八角円堂を建立し、太子の故宮として顕彰され、また太子像を祀った上宮王院を以って本堂とする等、近世以降は聖徳太子の寺として朝野の信仰をあつめた。
京都に於ける最古の寺院の一として、今なお仏像・絵画・建築・古文書等にわたって多くの古文化財を有する屈指の名藍である。
 
【 南大門 】 (江戸)
 
元禄十五年(1702)の再建。
総体に木割は雄大で、屋根の出も深く、堂々たる威容は江戸中期頃に出来た楼門の一典型。
正面左右の金剛柵内に安置する仁王像は、楼門よりやや古く、室町時代の作と考えられる。
なお門前右手にたつ「太秦広隆寺」としるした標石の台石(平安)は、塔の心礎を利用したもので、塔はもと講堂の西にあったとつたえ、創建当初の広隆寺が法隆寺式の伽藍配置であったことをうかがわしめる。
 
【 講堂 】 (重文・藤原)
 
南大門の北にあって南面し、俗に「赤堂」とよばれる。
永万元年(1165)の再建になる当寺における現存最古の建物である。
もとは奈良唐招提寺金堂のように正面の柱一列が吹き放しになっていたが、永禄八年(1565)の補修の際、両端に壁を塗り、禅宗建築の特徴である花頭窓をつけ、扉は柱から一間入ったところにあるのが変わっている。
内部は内陣と外陣に分かれ、平安時代の古式を残している。
床は漆喰叩きで、中央の高欄のついた須弥壇上には任明天皇女御永原御息所の御願とつたえる本尊阿弥陀如来坐像(国宝・平安)を中央とし、右に地蔵菩薩坐像(重文・平安)左に虚空菩薩坐像(重文・平安)を安置する。
いずれも古来より著名な阿弥陀三尊像である。
 
【 太秦殿 】 (江戸)
 
講堂の北にあり、天保十二年(1841)の建立で、秦河勝・漢織女 あやはとりめ ・呉織女 くれはとりめ を祀る。
【 上宮王院太子殿(本堂) 】 (江戸)
享保十五年(1730)に建立。
聖徳太子三十三歳の等身像を安置する。
この像には歴代天皇が即位の大礼に着用される黄盧染御袍 *盧は木ヘンです*の束帯を着せられるを例とする。
なお毎年十一月二十二日には御火焚祭が行われ、太子に法楽を捧げる。
この日、土木建築業にたずさわる人々が行事に奉仕するならわしになっている。
 
【 石灯籠 】 (鎌倉)
 
本坊書院の前庭にある。
但しその模造品が現在太子殿の前、左側にある。
古来、「太秦形灯籠」として茶人から愛され、模作品が多い。
寺伝では源頼政の寄進とつたえる。

【 桂宮院本堂 けいぐういん 】 (国宝・鎌倉)
 
一に八角円堂ともいう。
境内の西北端、築地塀にかこまれた一郭にある。
ここは聖徳太子が楓野別宮を起こされたところとつたえ、つとに鎌倉時代の諸書に広隆寺と並記されている。
従って広隆寺との関係は、あたかも法隆寺とその東院に於けるが如く、現在は広隆寺の奥院と称され、その八角円堂は法隆寺東院の夢殿に相当する。
現在の建物は建長三年(1251)西大寺叡尊の弟子、中観上人証禅の再建による。
堂内安置の本尊聖徳太子半跏像(重文・鎌倉)と隋の煬帝が聖徳太子に奉献したと伝える阿弥陀如来立像(重文・藤原)および如意輪観音半跏像(重文・平安)は現在霊宝殿に移されている。
 
【 弁天島経塚 】
 
昭和四十五年(1970)境外東の弁天島から経塚十七基が発見され、その後、宅地造成に当たって、そのうち二基を移築復元したもので、約一メートルの石室からなっている。
平安時代の経塚は山腹に築かれるケースが多く、弁天島経塚のように平地に造られた例はきわめて珍しい。
主なる出土遺物は、京都市考古資料館に展示されている。
 
【 霊宝殿 】
 
昭和五十八年(1983)春に竣工した四柱造り、鉄筋コンクリート建ての新しい収蔵庫。
内部中央に百済国から伝来し、聖徳太子が秦河勝に与えたとつたえる木造弥勒菩薩半跏思惟像(国宝・飛鳥)と新羅国から献上され、俗に「泣き弥勒」とよばれる木造弥勒菩薩半跏像(国宝・奈良)を安置し、木造十二神将立像十二体(国宝・平安)をはじめ俗に「埋木地蔵」とよばれる木造地蔵菩薩立像(重文・平安)等、多数の仏像が講堂や桂宮院安置の諸仏像とともに一堂に展示されてるさまは、壮観の一言につきる。

● 大酒神社

広隆寺の東にある。
広隆寺の伽藍神で、秦始皇帝・弓月君・秦酒公を祭神とし、併せて呉織女・漢織女を合祀する。

『広隆寺由来記』によれば、当社は仲哀天皇四年、秦氏の祖功満王が来朝し、始皇帝の祖霊を祀ったのが起こりとつたえる。
嘉祥二年(849)には従五位の神位を授けられ、延喜の制には官社に列せられる等、松尾大社とともに秦氏一族の奉祀する神社となった。

一説には当社は秦氏来住以前からの鎮座といわれ、もとは大鮭辟神社と称した。
「辟」とは開く(開墾・開拓する)こととも考えられ、農耕殖産の神であったろう。
あるいはまた悪疫・悪霊を「避ける」るためともいわれ、その社名や祭神については明らかにしない。
たまたま秦氏一族の統領秦酒公(はたさけのかみ)とその名をおなじくするところから、大酒神社と改めたものであろう。

因みに当社は、もと桂宮院の域内にあって、その鎮守社であったが、明治維新の際、現在の地に移された。
近年広隆寺の境内を斜めに道路が敷設されたため、今はまったく境外社となっている。

● 牛 祭

大酒神社の祭礼で、毎年十月十二日の夜、広隆寺の境内で行われる。
天下の奇祭といわれ、青鬼赤鬼の行装をした四天王を従えた摩ダ羅神が、牛に乗って境内を一巡するので、俗に牛祭という。

寺伝によれば、三条天皇の長和元年(1012)天台僧恵心僧都が摩ダ羅神を勧請して念仏の守護神とし、法会修行のあと、風流を興行したのが起こりとつたえる。
摩ダ羅神は慈覚大師円仁が、唐より帰朝の際、順風を祈り、帰朝後比叡山において祭祀したのが、のちに広隆寺に移したともいわれる。
この風流が中古以来、この地の素朴な農民の祭礼と習合し、牛祭りとして今につたえられるに至ったものであろう。

● 木枯神社

大酒神社本殿の傍にあったが、台風によって社殿が倒壊し、今は大酒神社本殿に合祀されている。
『広隆寺縁起』によれば、広隆寺の旧本尊薬師如来像は向日明神の神作といわれ、乙訓郡より広隆寺へ迎えたとき、門前の大槻に明神が影向されたところ、忽ち木が枯れてしまった。
そこで神霊をも移して祀ったところ、木はもとの如くに繁茂したので、木枯明神と称したという。
延喜式外社であるが、太秦地方での古社の一に数えられ、歌枕にもなった神社である。
 


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