■■■ 下賀茂神社

下鴨

賀茂川をへだてて出雲路の東、高野川とのあいだの地域(左京区)をいい、中央を泉川が流れ、南部に於いては賀茂・高野二川が合流し、あたかも扇の如き地勢をなしている。

したがって水利に恵まれ、古代に於いては農耕生活を営むには適していたであろうことは、この地に賀茂(鴨)氏が賀茂下上社を創祀し、世々その一族のものが祠官となって栄えたことでも創造できる。
北部を賀茂、南部を鴨の字を当てているのは、地勢上からのことであって、賀茂氏一族の居住地であることには変わりない。

下鴨は古くは愛宕郡蓼倉郷に属し、おおむね賀茂社の神領地であったから、ここには一個の寺院(注1)の建立も許されず、もっぱら都市近郊の農村集落として近世に至った。
下鴨村が都市化するに至ったのは、大正七年(1917)京都市に編入されてからであって、とくに大正十二年(1923)下鴨の南部、宮崎町の荒無地をひらき、松竹の映画撮影所が設立され、下鴨神社の境内で映画のロケーションが行われたことから、世に知られるに至った。

さらに昭和九年(1934)北大路通りの開通によって本格的な住宅地となる。

【下鴨神社】

糺の森に鎮座する本市に於ける最も古い神社の一つ。
正しくは「賀茂御祖神社」といい、上賀茂の賀茂別雷神社を上社(上賀茂神社)というのに対し、当社を下社(下鴨神社)というのは、地勢によって区別したものであるが、両社の祭祀・行幸等は同じ日に行われ、まったく一社のようになっているので、両社を称して単に賀茂神社ともいう。

当社は賀茂氏の祖神鴨建角身命とその女玉依姫命を祀る賀茂氏の氏神社である。
上社は玉依姫を生んだ別雷神を祀る神社といわれるが、これは後世の付会説であって、本来は雷神を祀って稲の豊饒を祈った神社である。
下社もはじめは井泉を神格化し、五穀豊穣を祈ったのがそもそもの起こりであって、それがのちに人格化されて女性の水神となり、これに仕える巫女が玉依姫となったもので、泉の信仰が玉依姫の信仰へと転化し、これが進化して御祖神の観念を発生せしめたものであろう。
今なお境内に井泉にまつわる遺跡の多いことが、これを明白に物語っている。

はじめは単なる一地方神にすぎなかったが、賀茂氏が秦氏と提携し、山城北部に勢力を占めるにおよんで、西の松尾大社、南の稲荷大社とともに、古代の信仰の中心となった。
次いで、平安遷都には王城の守護神とあがめられ、伊勢神宮につぐ崇敬を得、行幸・斎王・式年造営等、すべて伊勢神宮に準ぜられた。
また延喜の制には名神大社に列せられ、四度の官幣および相嘗祭・祈雨祭の幣にあずかり、多くの神領を寄せられるなど、社運は隆盛をきわめた。
中世には山城国一の宮となり、明治初年には官幣大社に列せられたが、第二次大戦後は国家の庇護を脱して本来の姿に戻った。

鎮座地はうっそうと樹木の生い茂る糺の森の中にあって、朱の鳥居や楼門が緑に映えてひときわ目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相まって、王朝時代さながらの景観を呈している。

【本殿】 (国宝・江戸)

白砂を敷きつめた清浄な神域内にあって、東西に並ぶ二棟の社殿は、左に建角身命と、右に玉依姫命を祀る。
文久三年(1863)の再建。

また幣殿をはじめ五十五棟からなる多くの社殿(注2)(重文・江戸)は、いずれも寛永五年(1628)の建造で、建物としては新しいが、全体によく古式をとどめ、昔の貴族住宅をしのばせる。

【三井神社】

本殿の左にある摂社の一つで、中央を建角身命、左を玉依姫命、右を伊可古夜姫(玉依姫母)を祭神とする。
延喜式内の大社として、古来本社におとらぬ崇敬がある。
三井とは三身、即ち三柱の神をいうたもので、『釈日本記』に収める「山城国風土記」逸文にしるす「蓼倉里三身社」とあるのは、当社とされている。

【出雲井於神社】

楼門左にある。
東面する摂社の一で、健速須佐之男命を祀る。

はじめ出雲氏が井泉を神として祀った神社といわれ、もとの(注3)鎮座地を明らかにしないが、出雲氏の衰微によって、いつ頃にか現在の地に移ったとつたえる。
延喜の制には大社となり、本社(下鴨神社)の上位にランクされる屈指の古社である。
一に比良木社ともいい、下鴨の地主神として、また厄除けの神として崇敬され、願いが叶うとお礼に柊を献ずるならわしがある。
因みに当社の周囲にいかなる常緑樹を植えても、すべて柊の如く、葉にのこぎりの歯を生じるので、不思議とされている。

【御手洗社】

本殿の東。御手洗池を前にして西面する末社の一で、瀬織津姫命を祀る。
井戸の上に社殿があるので、一に「井上社」ともいい、江戸時代には式内出雲井於神社に擬せられたこともあった。

社前の池はみそぎ祓の斎場とされ、毎年立秋前夜の「夏越の祓」は、この池中に大小の斎串五十本を立てて行われる。
さらに式後、参拝者が斎串を争って奪い合うことから、一に「矢取ノ神事」(注4)ともいう。

また毎年土用の丑の日に行われる「御手洗会」は、池中に足をつけると夏痩せを防ぎ、病気にかからないといわれ、また安産の信仰がある。
いずれも王朝時代以来のみそぎ祓の遺風を今日につたえる特別祭祀である。

当社の祭礼中、賀茂祭りは葵祭ともいい、上賀茂神社と同じ毎年五月十五日に行われる。
その前の五月十二日の御蔭祭は、比叡山麓の御蔭神社から神霊を移す神事であるが、還幸の途次、糺の森の切芝で行われる神事(還立の儀)は、すこぶる優雅をきわめる。

河合神社

下鴨神社本殿より南へ約三百メートル、糺の森の南部に土塀をめぐらした一画内にある摂社の一である。
賀茂川と高野川とが合流する河洲にあたるところから、鴨川合坐小社宅神社というのが正しいが、略して河合神社と称し、玉依姫命(注5)と上下賀茂社の苗裔神を祭神としている。
社宅とは社戸の意で、神に祈願することを世襲とする賀茂社の社家をいう。
その名の如く、もとは小社であったが、延喜の制には名神大社に列せられ、四度の官幣並びに相嘗祭にあずかる大社となった。

因みに『方丈記』の筆者鴨長明は、当社の社家に生まれ、河合社の禰宜を望んで果たせず、世を捨てて出家した話は有名。

糺の森

下鴨神社より河合神社に至る広大な境内の森をいう。
面積は十二ヘクタール(約三万六千坪)。
「ただす」は只州とも記し、賀茂・高野二川の合流するところでできた川州によるが、河合神社の祭神多々須玉依姫に因んで多々須の森、社名に因んで河合の森とも称する。
さらに偽りをただす神のしずまります森にたとえ、糺(注6)の文字をあてはめたものであろう。

糺の森は、平安時代には七瀬の霊所の一として、水辺にてみそぎ祓が行われた清浄な地であったが、中世には兵馬の馳せ交う戦場となり、また勧進猿楽の興業が行われて、市民の集会の場ともなった。
近世はもっぱら納涼の場として親しまれた。
これを「糺の納涼」という。

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注1)
現在、下鴨松ノ木町にある法泉寺(真宗)は、昭和三十二年、移転してきた寺。

注2)
神服殿は夏冬の御神服をを奉製するところで、勅旨殿または着到殿ともいう。
天明・嘉永両度の内裏火災のときには天皇の御座所となった。
爾来、行幸のときの玉座の間となり、現在は「開けずの間」と称している。

注3)
志賀剛著『式内社の研究』第三巻によれば、相国寺東門の東、毘沙門町・毘沙門横町付近を当社の旧鎮座地と推定されている。

注4)
矢(いぐし)をとるということは、福を得ることと信じられ、また勝負事に勝ともいう。
また子のないものは、矢を持ち帰って神棚に供えると、必ず子供を得ると信じられ、特に大串は男児を得られるいう。
これは玉依姫が瀬見の小川で丹塗の矢を得、別雷神を生んだという神話伝説に因るものである。

注5)
本社祭神とは同名異神。
神武天皇の母という。

注6)
糺は糾の略。
しらべただすこと。
下鴨に伝わる古い伝説によれば、祭神鴨建角身命は人民の争いをききただし、事の処理をはかったといい、また裁判にあたって邪念を払うため。昔から日蔭のかずらをかけたという。
後世、儀式や会議に日蔭のかずらを用いるのは、これに因るものといわれ、さらにこれを模様として染めぬいたのが、改正前の裁判官の法服であり、法冠であると伝える。
いわゆる望文成義の説で信じられないが、伝説としては面白い。
近年、糺の森に家庭裁判所が設置されたのは、偶然の一致ともいえないものを覚える。
 



 


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