■■■ 相国寺

光源院】【林光院】【大光明寺】【慈照院】【延寿堂墓地】【法然水


京都御所の西北、相国寺門前町にある。
正しくは相国承天禅寺といい、臨済宗相国寺派の大本山で、万年山と号する。

足利三代将軍義満が、己が邸宅室町殿に隣接する地を選び、十ヶ年の歳月を費やし、明徳三年(1392)に竣工した禅寺修行のための寺で、本尊釈迦三尊を安置し、夢想国師を追請開山とし、春屋妙葩を二世住持とした。
義満は南禅寺を五山の上とし、相国寺を五山の第二位に列した。
また中国の制にならって禅宗寺院を統制し、僧侶の出所進退を管理するために僧録司を置き、妙葩をこの職に任じ、寺内に鹿苑院を建てて住持せしめた。

それより五山中の行政的枢軸として特別な権威をふるったが、また僧侶の中から横川景三や詩文にすぐれた多くの禅僧を輩出し、室町時代の禅宗文化を昂揚したことは、わが国文化史上、大きな功績がある。

相国寺は竣工後、まもなく応永元年(1394)九月二十四日の失火によって炎上した。
直ちに再建に着手され、同六年(1399)には高さ360尺(約109メートル)におよぶ七重大塔を造立した。
この塔は、岡崎の法勝寺の塔にもまさるといわれ、落慶供養には千人の僧侶が招かれ、青蓮院門主尊道法親王が導師となり、御節会に準じて盛大に行われた。
瑞渓周鳳は

    
 七級浮図洛北東、登臨縹測歩晴空、相輪一半斜陽影、人語鈴声涌晩風。(翰林五鳳集)

と塔上よりの壮大な景観をたたえた。

しかし、その後の応仁の乱に東西両軍必争の地となり、堂宇はことごとく兵火にかかって焼失した。
それより百数十年のあいだ、足利氏の衰微と相俟って荒廃するに至ったが、天正十二年(1584)西笑承兌(九十二世)が住持となるにおよんで復興の気運みなぎり、豊臣秀吉は寺領として千三百余石を施入し、秀頼は法堂を再建、徳川氏もまた三門を寄進した。
とくに後水尾上皇は旧殿を下賜し、方丈・宝塔・開山堂を再興されたので、ようやく旧観に復するに至った。
しかるに天明の大火にふたたび類焼の厄にあい、法堂をのこして他はすべて烏有に帰した。
爾来、年を遂うて再建につとめつつある。
面積は約三万五千坪、伽藍は南を正面とし、南北一直線上に建ちならび、その左右に塔頭十二院が配置されている。

【勅使門】 (桃山)

総門の西に建つ。
木鼻や蟇股等に桃山時代の建築様式がみられる。
一に御幸門または勅使門ともいい、普段は閉じられ、一般の出入りは総門(薬医門)を以て利用されている。

【天界橋】

勅使門の北、功徳池にかかる橋をいう。
京都御所との境界線の形をなしているので、この名がある。
足利管領細川晴元と三好長慶の天文の乱は、この石橋からはじまったので、一に「石橋の戦」ともいわれ、いまでも合戦当時の旧石材を用いている。

【法堂】 (重文・桃山)

「無畏堂」といい、仏殿を兼ねる。
慶長十年(1605)豊臣秀頼による再建である。

内部はすべて瓦敷とし、中央須弥壇上には本尊釈迦如来像、脇侍に阿難・迦葉両尊者の像を安置し、東壇には足利義満像を安置する。
また天井の蟠竜図(桃山)は、狩野永徳の息光信筆といわれ、雄渾な筆致は晩年の作品にふさわしい威容をみせている。

因みにこの建物は天明の大火に免れた山内最古の建物で、切妻形の化粧屋根裏、両妻唐破風の珍しい玄関廊とともに、桃山時代禅宗仏堂の貴重な遺構となっている。

【方丈】 (江戸)

文化四年(1807)の再建である。
内部は六室に分かれ、縁側の杉戸絵とともに原在中や玉リン・土佐光則等の画家による見事な襖絵によって飾られている。
また前庭は白川砂を敷いて枯山水の庭とし、方丈背後の庭は深い谷間の深山幽谷の景をなしている。

【庫裡】 (江戸)

天明の大火後の再建であるが、禅宗寺院特有の切妻造り、本瓦葺の典型的な建物で、妻を正面とし、正面左寄りに唐破風に桟唐戸をつけ、仏堂風としているのは、内部に韋駄天を祀っているからである。
また入り口の土間には大きな竈を設け、複雑に組まれた天井の巨材を通してはるか上方に煙出しを設けている。

【開山堂】 (江戸)

文化四年(1807)恭礼門院の旧殿を賜い、仏堂として造立したもので、礼堂と祠堂からなり、開山夢想国師の像を安置する。

礼堂はもとの御殿の面影をとどめて奥床しい。
内部もまたそれにふさわしく、円山応挙一派の筆になる襖絵がある。

[庭園] (江戸・昭和)

長方形に広く、切石でふち取った平坦地に白砂を敷き、庭石を配石した禅院式枯山水の平庭であるが、背後に築山を設け、その間を水が流れるようになっているのが、変わっている。
この流れは上賀茂から南流する御用水を採り入れたもので、寺ではこれを「竜淵水」と称し、開山堂を出てからの水路を「碧玉溝」という。
ともに相国寺十境の一に数えられている。
従って本庭は古い形式による築山と流れの「山水の庭」と、切石で縁取った新しい「枯山水の平庭」とが一つに同居したものであって、新旧二態を巧に結びつけ、格調高い庭園としている点が注目させられる。

その他、境内には後水尾天皇の歯髪塚をはじめ、宝塔(経蔵)・僧堂(選仏場)・鐘楼および「宗旦狐」を祀った鎮守宗旦稲荷社がある。

【観音懺法会】

毎年六月十七日に行われる当寺の重要な年中行事の一つである。
観音の慈悲によっておのれの罪業を懺悔しようという儀式で、当日は方丈の明兆筆の「白衣観音像」を本尊とし、脇侍に伊藤若冲筆の「文殊・普賢像」の二幅が掛けられる。
この二幅は、若冲が明和二年(1765)に弟の死を契機とし、「動物綏絵」三十幅とともに、永代供養として当寺い寄進したとつたえる相国寺屈指の什宝である。

【光源院】

相国寺二十八世元容周頌の塔所で、はじめ広徳軒と号した。
永禄八年(1565)足利十三代将軍の塔所となり、その院号に因んで今の名に改めた。
什宝に絹本著色『妙葩和尚像』一幅(重文・明)を蔵する。
また院内墓地には池田輝政の母(善応院)、同家臣荒尾但馬守および相国寺の画僧維明周奎の墓がある。

【林光院】

足利義嗣(義満二男)の塔所として、応永二十四年(1417)西ノ京に創建された。
応仁の乱後、二条等持寺に移り、秀吉の時に現在の地に移ったとつたえる。
境内の鶯宿梅は一に「軒の紅梅」ともいい、京都名水の一に数えられている。

『大鏡』によれば、村上天皇の御代、清涼殿の前の梅の木が枯れてしまい、これにかわるべき梅の木をさがし求めたところ、西ノ京のさる家にあることを聞き、早速それを移植された。
翌朝、天皇がご覧になると、梅の木の枝に一枚の短冊がついていて、それにやさしい女文字で
 
 勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はば如何答えむ

としるされていたので、天皇は深く感動され、歌のあるじをただされたところ、それは紀貫之の娘であったという。
その家はのちに林光院となり、寺の移転とともに梅の木も移植された。
その間、梅はいくどか枯死したが、そのつどひこばえが成長し、今につたえている。

【大光明寺】

文和年間(1352-56)後伏見天皇々后広義門院が、伏見桃山の指月の地に創建された皇室の御願寺であるが、文禄年間(1592-96)豊臣秀吉の伏見築城に際し、相国寺内に移った。
旧伏見宮家の菩提所として客殿にはその位牌を安置し、方丈には本尊普賢菩薩坐像(南北朝)を安置する。
当寺はもと足利九代将軍義尚の塔所常徳院を合併したので、墓地には義尚の塔がある。

なお什宝に絹本著色『羅漢像』一幅(重文・鎌倉)等を有する。

【慈照院】

相国寺第十三世在中中淹の塔所で、はじめ大徳院と称した。
延徳二年(1490)足利八代将軍義政の塔所となり、その法号をとtって慈照院と改めた。
現在の書院は寛永九年(1632)、ときの住職マ叔顕タクが桂宮と親しかった関係から、桂宮家の御学問所を賜ったといわれ、また茶室は千宗旦が智忠親王のために創設した四畳半台目の席で、俗に宗旦好みの席といわれる。
席内には持仏堂があり、利休の像を安置する。
この像は、当時、世間体をはばかり、公然と利休を祀れなかったため、機に応じて布袋の首と挿げ替えられる仕掛けになっているのが珍しい。

なお什宝には絹本著色『二十八部衆像』二幅(重文・鎌倉)ほか三点を有し、院内墓地には八条宮智仁・智忠親王以下、桂宮家および広幡家累代の墓がある。

【延寿堂墓地】

ここには藤原定家・足利義政・伊藤若冲および藤原頼長等、歴史上著名な人の墓が多い。
いずれも境内各塔頭より昭和初期頃移したもので、新しい墓としては蛤御門の戦に斃れた長州藩士の戦死者塔や前京大総長小西重遠博士の墓がある。

なお境内東門を出た道路の北側には、江戸初期の儒者藤原惺窩の墓や薩摩藩士六十一人を埋葬した「殉国群英之碑」としるした顕彰碑等がある。




法然水

相国寺の北、相国寺北門前仲ノ町にある。
「法然水」ときざんだ石の井桁があるだけで、水はない。

ここは賀茂神社の神宮寺の旧地といわれ、境内にはもと清澄な池水があった。
法然上人はつねに賀茂明神を崇敬し、この神宮寺に住んで、しばしば賀茂社参詣した。この池水はそのときの閼伽井に用いるために汲んだとつたえる。

神宮寺は一に「賀茂の河原院」とも称したが、相国寺にあたって一条油小路に移転し、さらに知恩寺とあらため、左京区百万遍の地に落ち着いたが、池水のみは旧地に残った。
のちに相国寺の塔頭松鴎軒の有となったが、明治五年(1872)軒が廃寺となったため、その遺蹟を顕彰するために井戸枠を設けたという。



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