■■■ 龍安寺石庭

>>更新 2002.09.08




 
 

傑出している理由 - 第一の謎

龍安寺石庭が諸々の庭園より際立つ印象深い存在として人々をひきつけている理由を一言で尽くすならば、石庭は優れているための要素をすべて備えていることである。
石庭は自然主義的ではなく、石組(人工)主義で、具象的ではなく象徴主義に徹している。
また布石が一ヶ所に偏重集中することもなく、空間構成に優れている。

○ 石組主義

結論を先に述べると、石庭には樹木が一本も存在しないから優れている。
 
日本庭園の石組変遷史を体系づけてみる。
1. 平安時代は自然(植樹)美を尊重したので、石組(人工)美はあまり目立たない存在であった。
2. 鎌倉時代になると中国より渡来した北宗山水画に影響されて、石組が主要な鑑賞対象物の地位を占めるようになる。
3. 室町前期の庭園では石組が完全に主要な地位を占めて、樹木は従属的地位に後退する。
4. 龍安寺石庭が作られた室町後期になると、鑑賞の対象物はすべて石組で構成されるようになり、空間構成を重要視することになって、石組の形式は完成し黄金時代を迎える。
5. 桃山時代になると、石組による造形が偏重されて造形過剰期に入り形式的に崩れる。しかし鑑賞の対象物はいうまでもなく石組で構成され、樹木が介入する余地はないほどである。
6. 江戸初期になると石組の占める割合は後退することになり、それに応じて樹木が鑑賞対象物の構成に介入するようになる。それでも樹木はあくまで従属的立場にあって、いわゆる「石主植従」の時代となり、そのため庭園は堕落する。

○ 象徴主義に徹している

「象徴」ということについて説明すると、庭園造形の分野は、その基礎理論の多くを絵画に負うところがきわめて大きい。
大和絵が唯一の絵画であった平安時代の庭園造形は、その基準を大和絵に求めた。
従ってその景観は当然大和絵式となった。
これに対して鎌倉中期から始まった唐様石組は、垂直線を強調する北宗山水画を模倣して発展していった。
さらに強調したいことは、大和絵には存在しないが、北宗山水画には象徴という画法があることである。
水墨山水画は山岳が見はるかす雲煙のかなたまで連なっていると、そのすべてを一幅の画面に描こうとする。
この場合には「象徴」という技法を必要とする。
「万里の遠きを咫尺の間に得べし」とは象徴という意味を説明するのに最も適切である。

鎌倉中期以降、北宗山水画の理論を背景として発足した日本の象徴的な石組技法を無視しては、折角仏を作っても魂を入れないことになる。
しかし石組する場合、象徴的に布石表現することは、口でいうほど簡単なことではなかった。
そのため、この象徴技法を習得するために、鎌倉中期を振り出しに、鎌倉末期・南北朝・室町初期と四時期にわたる長い年月の試行錯誤を繰り返した。
かくしてようやく鎌倉中期になると、象徴的技法による山水画的石組が完成されるに至った。
そして鎌倉中期末葉になって禅僧般若房鉄船は象徴的な石組を得意としたが、彼は象徴することを「三万里程を尺寸に縮む」と喝破した。

実際に「象徴的に石組する」とはいったいどのようにすればよいのかというと、一個の石を配置することによって一つの山または一つの島と感じるように演出するということである。
演出する場合最も大切なことは、庭の中に庭石以外の物は置いてはならないということである。
例えば石庭の傍に石灯籠とか植木鉢といった人工品があっては、石は単なる一個の庭石に引き戻されて、決して山や島には見えない。
また具象的な造形品、たとえば石橋などがあると、石庭は石橋の大きさと比較されることになって象徴力は決して発揮できないことになる。

○ 骨法的空間構成

石庭が白砂の庭園いっぱい広域にわたって配置されていることが指摘できる。
鎌倉中期に構築されたと推定する天龍寺の龍門瀑は、造形的にきわめて優れているが、庭園の一ヶ所に集中して造形されているにすぎない。
平安時代から鎌倉時代に配置された石組は、庭園の限られたある部分だけに集中して布石されることが多い。
これに対して、石組の形式がしだいに完成する室町初期から中期頃になると、たとえば金閣寺や常栄寺などは庭園全体に布石して空間構成に対して大いに配慮されている。
そこで「空間構成」の意味を説明すると、庭いっぱいに散置してある庭石が、高低、大小、遠近などから生ずる相互間の緊張美や比較対照美を意味している。

庭石はもともと具象的な造形をするための素材としては全く適当ではなく、むしろ空間構成的に分散配置することに適している。
ところがこのような比較対照によって生ずる美はきわめて抽象的であるため、庭園史研究家の間でもほとんど重要視されることがない。
このような理由から、空間構成的に意図された布石を鑑賞するのは、審美上高度であるため多くの人に受け入れられ難い。
それに加えて桃山時代になると、庶民大衆が台頭するので、これらの意を迎えるため空間構成美はしだいに軽視されて造形主義に堕落してゆく。
このように考えてくると、室町時代庭園の重要な特徴の一つとして、空間構成の優れていることを挙げることができる。

龍安寺石庭は平坦であるから、その上に並ぶ庭石には僅かな高低差しかないため、見る者にとtっては平凡で地味な布石にしか感じられないのは避け難いことである。

龍安寺石庭は、地味な布石に加えて庭石には名石が使われていない。
『龍安誌』を書いた無著道忠は、石庭の庭石を醜石と喝破している。
このように醜粗な石に加えて、石庭の面積と比較した場合、庭石の質量が少ない。
しかも白砂一色で色彩感に乏しく樹木が一本もない。
このように庭園の通常概念を破った石庭を、骨法的布石の庭園であると解釈する。

もう一つの考え方は骨法的布石と少し異なるが、破墨山水的表現であるとも解釈できると思う。
鎌倉中期以降の庭園は北宗山水画的地割と石組によって造園されている。
そして室町時代、特に室町末期の庭園は、山水画の影響を最も大きく受けて形式的に最も完成している。
したがって水墨山水画に破墨山水という描法があるように、庭園の方でも破墨山水的布石があってもよいのではないか。

破墨とは水墨画の一つで、淡墨で描いた上に漸次濃墨を加え、墨色の濃淡や滲潤の趣を見せる描法である。
溌墨という方法もあるが、この描法はまことに暗示的であり、はなはだ象徴的である。
したがって石庭に布石された不足一歩手前の質量は、きわめて暗示的な配置であって、決して満ち足りた布石とは考えられないところから破墨的表現であると解釈する。
このように考え始めた糸口となったのは、この石庭の作者を子建(画僧名是庵)であると推定したからである。

石庭の手本となった雪舟が作庭されたと推定される山口市常栄寺庭園の前庭枯山水部を選ぶ。
石庭を作るに当たって雪舟の影響を受けた画僧子建が浮かび上がる。
子建は雪舟が長く修行していた相国寺山内慈雲庵の第三世住職子建のことであり、画号を是庵と称した。
子建は妙心寺霊雲院の庭園を作ったばかりでなく、庭園で有名な西芳寺(苔寺)の住職もした作庭家でもある。
慈雲院の初代であり、天下僧録司であった瑞渓鳳大和尚の侍衣(高僧の近侍)を勤めていた。
このような環境にあった子建を作者に推定した理由として、当時の方丈南庭は仏事を修するための聖なる空間とされ鑑賞物などを設置することは禁じられていた。
その掟を承知の上で布石するためには、天下僧録司の許可が必要であったが、侍衣をしていた子建ならば、瑞渓大和尚も許可を暗黙のうちに与えたであろうというのが子建作庭説を支える理由の一つである。
その作庭時期は室町末期の天文五年(1536)頃と考える。

○ 満月下の石庭

天正六年(1578)に天龍寺の高名な学僧策彦和尚は、月明下の銀閣寺庭園を見て「一天明月銀沙を曝す」と詠じた。
この詩を読んで連想するのは龍安寺石庭である。
面積二百五十平方メートル(七十六坪)の約九割を白砂で占める石庭は、五つの石組以外全庭が月光を照り返すはずである。

独立式か借景式か - 第二の謎

○ 独立説の論理

独立説の理論
「象徴化された芸術としての庭園を一方で要求していながら、他方で写実的(自然主義的)な要求を持つはずがない」というのである。
少し補足注釈すると「抽象の極致とされている龍安寺石庭に借景という自然的(写実的)要素は不要である。したがって相反するこの二者は両立すべきものではない」という論拠に立っている。

この理論の根底に「天然自然の風景は、それがどんなに美しくても芸術ではない。芸術とは人為的なものでなければならぬ」という考え方があり、さらに独立論者は次のように述べる。
「室町末期の庭園は日本庭園史を通観して最も芸術的に完成し、特に禅院を中心として高揚してきた庭園は、外部の景色などに依存せず、限られた禅院内の一区画に、しかも切り詰められた造庭費用で、高尚な造形を意図すれば、おのずから華麗なものは避けて、芸術的に純度の高い庭園が出現する」と。
このように誇り高い禅院の庭に、借景は必要でないというのが、借景否定論者の考え方である。
このような借景式蔑視論者にわざわいされて、円通寺や正伝寺の庭園は優れた石組や構成を持ちながら、借景式であるために、長い間過小評価を受けて思わぬ迷惑を蒙ってきた。

かくして龍安寺石庭を独立式と考える人々は、十五個の庭石が何を基準として配置されたのか、あるいは布石の動機については全く触れることなく、ただ「抽象庭園の作者は、独自の芸術的感受性によって、感興のおもむくまま、自由に布石したものであろう」という程度の解釈にとどまっている。
そのため抽象式庭園に関する限り、地割(庭園の設計図を実際に地面に割り付ける)配置や様式などを研究する必要は感じていないようである。

○ 借景説の論理

籬島軒秋里が寛政十一年(1799)に刊行した『都林泉名勝図会』の龍安寺の頁には、次のように書いてある。
「所謂方丈の庭は相阿弥の作にして洛北第一とす。庭中に一株も無く、海面の体相にして中に奇巌十種ありて島嶼になぞらえ、真の風流にして他に比類なし、是を世に虎の子渡しと云う。抑々此の地は文明年中細川右京大夫勝元の別荘也、此の人書院に坐して遥かに八幡神廟を毎時拝せん為に、庭中には樹木を植させずとなん」とある。
管領細川勝元の祖先源氏の氏神である石清水八幡宮(龍安寺から十六キロ)を遥拝するため庭内には樹を植えなかったので、書院から八幡宮のある男山が見えていたことが推察され、これは借景説を支える資料の一つである。
ところが、石庭が作れて長い年月を経るにつれて、庭の外の樹が次第に伸び、外景を眺めるのにだんだん障害になりはじめたと考える。
石庭が作られて約二百五十年経過した寛政十一年ごろには視界が目立って遮られてきたことが前記の『都林泉名勝図会』に書かれている。
それから百五十年の歳月を重ねた昭和初期には、外景とは隔絶した状態となり、さらにまた数十年を経た現在では、その昔、借景式であったとは考えられないほどの状態となっている。

これと同じ経過をたどって外景が見えなくなた例として、大徳寺本坊の東庭がある。
もともと遠方の比叡山や東山の雄大な眺望を背景とした借景式庭園であったことは、同じ『都林泉名勝図会』の絵などからも判明している。

借景、非借景の問題を根本的に研究するため、龍安寺石庭と同じ抽象平庭式枯山水庭園である大徳寺東庭、真珠庵東庭、円通寺、一休寺東庭、正伝寺等を選び出して系統的に調査する。
その結果、抽象的庭園は例外なく借景式であるという思いがけない事実が出てきた。
この事実は独立説の理論を根本的に否定している。
したがって、これらの事例から次のような考えが生まれる。

まず抽象式庭園が作庭されには、借景するのに好都合な立地環境であることが前提条件ではあるまいかと考えるに至った。
この考えを裏付ける理由は、天然の山野が眺望できる場合には、重ねて庭の中に築山を作ったり、さらに山を象徴する庭石を据えるような重複的景観を避ける。
そのかわりに自然的山水の景とは異なった抽象的な内容を盛り込んだ野心的な配石をすることになる。
このような高級な意図のもとに作られる庭園は、だれにでもできるというものではなく、特定の作者に限られるのはやむを得ないことである。

○ 借景説の立証

1. 寛政年間の記録
寛政十一年に発刊された『都林泉名勝図会』に、「後年塀の外の古松高く老いて、昔の風景麁となる」と記されている。
寛政年間にはすでに外景が相当見えにくくなっていたことが判明する。

2. 土塀の高さ
石底面からこけら葺きの塀の峰までの高さは、南側の塀でだいたい1.9メートル。
これに対する比較資料として、借景を目的としない方丈南側の土塀の高さを示すと次のようである。
妙心寺塔頭玉鳳院 3.15メートル
大徳寺本坊方丈南庭 3.10メートル
この二例と比べて、龍安寺の土塀がわずか1.9メートルであるといことは、借景上の目的でこのように低くしたものと考え得ると思う。
石底面から方丈の畳までの高さは約115センチで、成人が正座したときの眼の高さ約90センチを合計すると、205センチとなる。
従って塀の高さ190センチと比較すると、目の高さのほうが15センチほど高いことになるので、結論として正座姿勢でも外景が見えていたと考えることができる。

○ 環境の変化に伴う性格の変化

1. 借景時代
作庭当初の面積は、東庭をふくめると、現在の1.8倍の広い面積であったと推定する。
しかも外景が遠くまでよく見えていたから、実感としてはそれ以上の広さと感受していたに違いない。
そのため庭石の存在を現在と比較すれば、相対的に小さく感じていたであろう。
また、当初の前庭の景観を想像すると、三方を山野に包まれていたので、大自然の一部としての前庭であって、現今の自然から隔絶した石庭の姿と比較すれば、拒否反応を感ずるようなことはなかったと思う。

天正十六年(1588)二月二十四日には、豊臣秀吉が狩の途中、龍安寺に遊び、石庭の西北隅にあった糸桜を見て和歌の会を催している。
しかし、七首とも庭石には触れていないので、桃山時代にはまだ布石されていなかった。
と主張する江戸初期作庭説の間接的な傍証の一つとされ、そのため作庭時期は室町末期か秀吉以後かの決定的な結論が今日まで出なかった次第である。

2. 隔絶への過渡期 [延宝九年(1681から寛政九年(1797)までの約百十年間)]
石庭が作られて約百五十年も経過すると、塀の外の松などが高く伸びて、だんだん外景が隠れるようになり、人々の注意は次第に庭石の存在に集まるようになる。
延宝九年に黒川道祐は『東西歴覧記』に「方丈の庭に石九つあり是を虎の子渡しといえる畳のようにて庭を作るもの是を手本とす、云々」と述べている。
以上のように配石が目につき始めたということは、逆に庭外の古松が伸びて山野の風景が隠れ始めたからであると思う。
翌天和二年(1682)四月に偏した『雍州府志』にも黒川道祐は記している。
以上の記録などから、1681年当時すでに石庭の配置は凡俗の及ぶところではなく、庭を作る者のお手本となっていたことが判明する。

山科道安(侍医)が、当時の第一級文化人として著明な太政大臣近衛予楽院家熙公(1667-1736)に向かって、次のように述べているのは興味深い。
「龍安寺の庭は相阿弥が作にて、虎の子渡しとやらん名高きながら、私(道安)ていの者の見ては好悪の論は及び難し。一向上の事にやと申し上げしかば云々」と『槐記』の享保十四年(1729)五月四日の条に記している。
またその後に御前(予楽院)にも両所ともに御覧あり、「大徳寺中にも相阿弥が作の庭あり、今日より見ては合点のいかぬものなれども、それにも厳う法のあることの由なり」と庭園に関心の深い予楽院が、石庭の難解さを素直に打ち明けているのは、龍安寺を知る上で貴重な資料である。

現在よりも1.8倍も広かった東西両庭にわずか五群の石組のみが点在する極端に非現実的な造形の石庭は、外景との連絡を絶ち始めたために、まず配石の動機が消え失せた。
そればかりでなく、山野の美しい風景と隔絶して赤裸々な庭石だけが残され、配石の拠り所も分らなくなった。
そのため上記三名の代表的な知識人たちがみな解釈に苦しむなど、石庭史を通じて最も理解困難な抽象的造形となったに違いない。

神秘的配石 - 第三の謎

○ 外景との連関による解説

庭園を造るとき、まず庭のどの位置に重点を置くかを決定するに当たり、庭を取り囲む環境を見渡して、最も比重の大きい風物と対照的な方角に、最も重要な造形物を設置する。
この主要な造形(主石群)が、庭園の性格を決定し、その他の庭石はすべて主石群に対応するよう、つぎつぎに配石してゆくものである。

1. 主石群
主石群の位置は、石庭から一番近い西山の反対側(東端)に、前述の原則どおり布石されている。
その主石の形状は、はるか遠く東の空に優美な曲線を描く東山の容姿と対照的な男性的性格の庭石である。

2. 西側の分散三石群
抽象的庭園の石組に勝手な固有名詞をつけることは、明らかに間違ったことである。
しかし五群の石について説明してゆくのに便利なので、やむをえず方便として説話的な名称を使用する。
庭に向かって西側に三つの石組がある。
そのうちで石庭の中央に近い石組は、「虎の子渡し」の通称を持っている。
丸みを帯びた大きな青石が親の虎で、その右手の小さな丸い石を子虎に見立てた、まことに稀な手法である。
横三尊は龍安寺以外には数例しか存在しない独特な形式手法であるだけに、龍安寺石庭を研究するための重要な資料といえる。

西側の三つの石組が、いずれも低い姿勢を保っているのは、背景の西山が高く嶮しく迫っているからであるが、いま一つの理由は、右手に『徒然草』で有名な仁和寺の五重塔が、その麗姿を現しているためでもあろう。

3. 中央奥の石組
東西それぞれ異なった性格の石組を連結する役目の配石が、正面塀ぎわに低く長く横たわる石である。
この石組こそ作庭者の最も苦心を払った布石と思う。
その理由は次の通りである。

a. まず東側の主石と西側の三つの石組群を結びつけるような形でなければならない。
また主石の峻嶮な性格と反撥し合うような尖った石は避けるべきであると同時に、両側三石群のどの石とも異なった形でなければならない。

b. 方丈前庭は横に長く奥行きが浅いので、布石によって深味を出さねばならない。
そこで遠近法的構成による配石が要求され、したがって定石どおり、庭に左端に主石と右端に分散三石群を据える。
これら両端の石組は視点に近い故に大きく表現されているが、本来は小さな島であるものと理解すべきであろう。
塀ぎわの細長く低い石は、元来雄大な連山が、水平線のはるか彼方に小さく見えているところを象徴しているもので、大きさといい形といい、まさに最適といえる。

c. この庭の布石は東端の主石から順次西の方へ配置されたのではなく、左側の主石と右側三つの石組群の位置と性格は、外景との関連から少なからず自動的あるいは必然的に決定され、作者としては比較的順調に工事もはかどったと思う。
しかし、塀ぎわに配置されている細長い石は、石庭の遠近法的構成から推察しても、左右両側が布石された後、最後に据えられたと思う。

とかく最後の石というのは、周囲の石や背後の風物との釣り合いなどから、いろいろと制限を受ける。
従って、あらゆる条件にそうものでなければならぬため、作庭者は納得のゆく形の石を選定するまでには、ほんとうに苦心を重ねたであろう。
この石には、小太郎・清次郎という名が刻んである。
作庭工事をした職人が自分の名前を庭石に刻みつけることは、大変珍しく、むしろ例外的というべきである。
しかしながら、名前を彫り残す庭石としては、探し出すにも据えるにも一番苦労したこの石こそ、最適ではないだろうか。

昨今、この文字を清と読むことに疑問を投げかけられて、彦とか徳または沫と読む試みもあるが、『大雲山誌稿』には清次郎と読んでいる。

○ 施行面からの解説

1. 西北隅の石
まず亀の甲羅によく似ている「方丈に一番近い西北隅の石」は、石庭の中では大地に深く根ざしている印象を与えるが、実際にはあまり地中に埋まっているとは思えない。
なぜなら、足元(石が地面に接する線)が痩せ細り、削がれているからである。
しかし、作庭者は、根張りの欠けた個所を隠すため地中に深く埋めることなく、根の浅さを見透かされても、少しくらいの欠陥は意に介せず、量感を誇示するようにつとめたと思う。

なぜならば、この石は、遠近法的効果をあげるため、反対側(東側)にある主石群に次ぐだけの塊量性を当然必要とする。
この石の左右に二個の平たい石を、地面すれすれの高さに埋め込んで、この石の基底をできるだけ大きく見せている。

正面から見るこの石は、根張りを欠いているだけでなく、義理にも形のよい石とはいえない。
しかも、裏面は方丈から見ただけでは、とうてい想像もおよばないほど不恰好である。
こんな不安定な石を正面からまったく気づかれないように据えるとは、その度胸のよさに恐れ入るほかはない。

2. 二石組
石庭を構成する五群の石組は、それぞれ二個以上の庭石で構成されている。
なぜなれば、一個の石だけでは天然のままの姿であって、人為的とはいえない。
少なくとも二個以上の自然石を組み合わせることによって、自然が創り得ない日本独特の石組美が創造されるからである。

蓬莱思想の影響で、古くから七・五・三はめでたい数として喜ばれ、その反面、偶数の二・四・六は忌み嫌った。
また作庭の上でも、偶数は石組するのがむずかしいので避けられてきた。
しかしながら龍安寺の作者は、この二個組の手法にあえて挑戦して、見事に成功している。

3. 従属的据え石
東端の主石は三石が一体となって主要部を形成している。
しかし、それだけでは主石群としての量感や貫禄に乏しいので、平たい石を地面とほとんど同じ高さで左右に配置して底辺を充実している。
このほか他の石組群もすべて従属的な添え石を持っているが、それらの添え石は、主石の稜角を整え、基底を広くして安定感を与えるのに、大きな効果をもたらしている。

この石庭は旧来の形式を破った独創的構成であり、意欲的作品であることはいうまでもないが、注意深く観察すると、その手法はじつに奇手、新技法に満ちた冒険的表現であり、作者の強烈な創作的執念をはっきりとうかがい知ることができる。

○ 配石の構成

1. 七・五・三形式
七五三という定型化した配列様式を、庭園の石組に試みたのは龍安寺が最初だと思う。

もともと中国や南蛮渡来の名器を飾りつけるための方法として、棚飾りや押板飾りが、永正から天文年間に急速に発展した。
それら渡来名物の置き方が、次第に洗練されて最も完成した配置様式が七五三形式であるといわれている。

石庭の周囲は、花崗岩の細長い短冊形の切石(葛石)で仕切られている。
長方形の石庭が押し板の形に似ているのは、偶然の一致かもしれないが、このような型の庭は、従来にはない独自の形態である。
唐物名物などの飾りつけが流行したのは、だいたい永正・大永・天文年間(1504-1554)で、この石庭作庭時期も、後に詳述するように、1536年ごろと推定している。

2. 扇形状配石
配石を平面図に表して見ると、五群の庭石が方丈の中央を要として扇形線上に配置されていることがわかる。
石組の配置構成に関するただ一つの見解は、方丈に対して平行する四条の線上に布石されていると説明されてきた。
これは油土塀に平行する細長い石を第一の線とし、第二線は横三尊と二石を結ぶもの、第三線は主石群で第四線を西北隅石としている。
この布石線設定の論拠は、永正・大永年間が唐物名物を飾りつける流行時代であり、押板飾りが数本の平行線上に配置したとのことであったから、石庭の配石もこれに習ったとの推測によるものであるが誤解である。

3. 鑑賞位置
作庭当初の方丈の中央を要として、扇を拡げたような半円形に配置されている。
その扇の要、すなわち視点から見ると、理論的には十五個の石が全部視野にはいるわけで、作者もその視点から配石の指図をしてであろう。
ただし現在は堂内に立ち入ることが禁止されているし、また現実的には現方丈と石庭との結びつきがずれているので、すべての石組を一度に全部見ることは到底できない。
ところが、いつのころからか、龍安寺石庭の鑑賞法として、方丈の縁側を東側より西端まで歩きながら眺めると、一足ずつ歩くたびに、いずれかの石が一石ずつ隠れて、常に十四個だけしか見えないと、いかにももっともらしい俗説がいわれるようになtった。
元来、正しい鑑賞視点は方丈内にあるべきはずであり、広縁は全庭を一望のもとに見渡せる視点ではない。
つまり方丈内約三メートルの所まで引き下がらなければ、建前上十五個全部を見ることにはならない。
作庭当初の石庭間口が二十五・一メートルであるのに対して、奥行きは、間口の二分の一以下という細長い形であるため、作庭に当たりいかなる構想によって配石すべきか、作者は定めし頭を悩ましたであろう。
苦心の末に遠近法を採用したと思う。
このような遠近法的配石は借景的布石説とともに本庭の配石構想を解明してゆくための重要な糸口になる。

ちなみに日本画に明快な遠近法を確立したのは有名な画僧雪舟であるが、雪舟の作庭と考えられる常栄寺庭園も遠近法的配石である。
そこでこの石庭の作者も雪舟系統の作者である可能性が感じられる。
これは本庭の系譜を考えていく上で重要な手がかりとなる。

石庭の面積 - 第四の謎

龍安寺の現在の方丈は、寛政九年(1797)の火災後の寛政十一年に同境内の西源院より移建したものである。
そして焼けた方丈の間口は『東西歴覧誌』に記載されているように、八間(約十四・四メートル)であると考えられていた。
ところが、龍安寺石庭に新しい一ページを加える次のような新事実が判明した。

○ 方丈の変転

1. 寛政三年作製の平面図
方丈や仏殿などは寛政九年に焼失したが、それより六年前の寛政三年に書かれた旧方丈や石庭の平面図によって、旧方丈の桁行(間口)は十三間であったことが判明した。
しかし『東西歴覧誌』が刊行された天和元年(1681)、即ち平面図が作製された寛政三年より約百十年以前ごろの龍安寺旧々方丈(創庭当時の方丈)の間口はたしかに八間であったと記録されている。
それから百十年経過したのちに平面図が作られたときには何故か十三間(一間を六尺五寸とする)となっている。
そこで考えられるのは、この期間中に、八間の方丈が焼失、あるいは老朽のために新築したか、それとも拡張のために改築されたかの三つの場合である。
もし焼失したのであれば記録に残るはずであるが、そのような古文書は龍安寺ではまったく見当たらない。
寛政三年作の平面図を基礎として、旧方丈の復元図を製作してみる。
その結果、黒川道祐の『東西歴覧誌』より起算して、百十年以前の間口八間の旧々方丈を基本として、旧方丈が十三間に拡張されたものであったことが明らかになる。

2. 間口八間の方丈
黒川道祐が『東西歴覧誌』にしるしている銀閣寺東求堂の間数は、現在測った寸法とまったく同じである。
それ故に龍安寺の「此方丈ハ勝元在京ノ時ノ書院ナリ、東西八間、南北五間ナリ」という黒川道祐の測り方にも、信頼がおけると考えられる。
旧々方丈(書院)のことについて『山州名勝志』(元禄十五年=1702・白慧偏)は、上御霊社の西畔から移建されたことが判明している。
そこで旧々方丈が現在の位置に建てられたのはいつ頃であろうかと考える。
この問題について他方『実隆公記』の明応八年(1499)六月二十六日の条には、「今日龍安寺方丈上棟云々」と記してある。
明応八年(室町中期末葉)に上棟した方丈と、上御霊社西畔にあった勝元の書院を改造した方丈とが、はたして同一の方丈かどうか、はっきりしない。
この問題については最後のところで詳しく解説する。

寛政三年に作製された平面図の方丈は、桁行十三間である。
従って差し引き五間も広くなっているが、石庭の横幅は作庭当初とほとんど変更されていない。
しかし、平面図を仔細に分析調査したところ、石庭の東端は現在よりも約五十センチ東側であったという計算になるが、この算出方法に誤りはないと思う。

3. 作庭当初の石庭間口
石庭の間口は、創庭当初の旧々方丈の東端と西端よりも、それぞれ約五メートルずつ長かった。
従って方丈と石庭相互の結びつきは、左右相対に規則正しい関係にあったと推測する。
それで石庭の東西全長は、方丈の間口八間とその両翼に各々二間半(約十六尺)の合計八十四尺(二十五・五メートル)になる。
したがって石庭の西端は東端の雨溝外側から測定して二十五・五メートルの地点までということになる。
現在その地点には、西側土塀に添って雨だれの跡が一列に並んでいて、昔はそこに雨溝があったことを物語っている。
従って、現在石庭東西の間口(東の雨溝の外側から西の雨溝の外側まで)は二十四メートルで、旧間口(約二十五・五メートル)との差は一・五メートルである。
その内訳は東端で約五十センチ、西端で約一メートルそれぞれ長かったと考える。
この計算方式によって創庭当初の石庭と間口八間の旧々方丈のほぼ正確な相互関係が明白になったと思う。

○ 見通せていた東庭
もっとも目立つ変化は石庭の東側であろう。

1. 二枚の古絵図
焼失前の全景図が、それより十七年前の明和九年(1780)刊行の『都名所図会』に掲載されている。
原在厚が描くこの全景図を見ると、当時の玄関は現在のような豪華な門構えではなく、正面油土塀と同一線上にあって、簡略な構造であり、歩廊の西側には壁がなく、東側にも壁はなかったものと思う。
また同一人物の下絵による焼失前の木版摺り『洛北龍安寺』の絵図を見ても、西側歩廊には壁がなく、柱だけで支えられている。
そして東側にも壁があるとは思えないので、従って東隣りの白砂庭が見通しできたのではないかと思う。
東の白砂庭は実測によると間口約十一・五メートル(歩廊の幅を含む)、奥行き十二メートル、面積百三十八平方メートル(約四十二坪)であり、この数字は今も昔も変わっていないと考える。

2. 主石にだけ盛り土した理由
約四十二坪の東庭も空虚を感じないように充実させるためには、不本意ながら盛り土でもしないかぎり、充分に空間を支配するだけの塊量感が出せないため、やむを得ず盛り土をして、背伸びさせたという窮余の策をとったのだろうと推測する。

3. 主石群の位置
西源院より移建してきた唐門と方丈を結ぶ歩廊が、焼けた歩廊より短いため、唐門玄関が油土塀の位置より石庭の中へ約五メートル喰い込んで建てられた。
しかも歩廊の壁で東西の両庭が仕切られてしまったので、方丈からは東の白砂庭は見通せないようになった。
もし焼失以前から東庭が歩廊の白壁で区切られて、石庭(西庭)だけにかぎられていたならば、主石群はもっと庭の中央近くに配石されていたに相違いない。
なぜならば、反対側の西北隅石は西端雨溝との距離が五・五メートルもあるから、本庭最高、最大の主石群が支配する空間は、庭内のどの石組群より最も広範囲であるべきである。
ところが現実には東端よりわずか五十センチの片隅に布石されている。
この配石位置からも、焼失以前は東庭が見通せていたと考えざるを得ない。
この考え方は石庭の性格決定に重大な影響を与えるものである。

4. 現方丈移建以後
方丈炎上について『大雲山誌稿』は、「寛政九年二月廿日夜、失火シテ方丈ヨリ庫裏、仏堂、開山堂焼亡、火廿一日朝止ム」と記している。
それから二年後の寛政十一年に、西源院から方丈が移建され、同時に方丈に付随して石庭の東端には唐門玄関歩廊も設置された。
そのため見通せていた東庭が遮断されるなどで、庭の様相は著しく窮屈になり、方丈から眺めた石庭の風情は、昔を知っている人にとって、きわめて不満足なものになった。
現在の龍安寺石庭も、比叡山が雲で遮られたときの円通寺庭園と同様に、山野の景と隔絶した狭い庭のみが、現実の姿として我々の前に展開する。
このように借景から独立への景観の変化は、庭の性格にも当然影響をおよぼすものと考えるべきであろう。
東庭が見えていたと思える火災以前に比較すると、現在の面積は約半分となり、著しく狭くなったのが幸いして、小ぢんまりと纏ったので、庭石と面積との釣り合いが、偶然にも常識的な庭園の比例に近づき、見る者に純粋かつ哲学的にさえ感じさせる結果になった。

5. 西側油土塀の雨だれの線
油土塀の屋根から落ちる雨だれが、石庭を囲む雨溝に落ちるのは、しごく当然のことである。
しかし、西側だけは雨溝に落ちず、一メートル外側の土塀ぞいの地面に直接落ちている。
そのため油土塀に沿って、雨だれの線が行儀よく一列に並んでいる。
これによって創庭当初の雨溝が、現在雨だれの落ちている線上にあったことは容易に推定できる。
この考え方によると、石庭は西の方へ約一メートル広がったことになる。
それでは、何故に石庭の面積を幅約一メートルにわたって縮減したか、その点を考えてみたい。

寛政九年の焼失により、東庭は歩廊の壁で遮断されてしまった。
したがって、東への広がりを知っている人にとっては、石庭の東側が以外にも狭苦しくなり、窮屈さを感じたに違いない。
それと同時に主石群が、壁に突き当たったように片寄って見えたのは想像にかたくない。
他方、反対の西側三つの石組群は、いずれも低い姿勢であり、西北隅石と西端の雨だれの線までは六・五メートルの余裕を持っていた。
これはいかにも不均衡で、焼失前の庭を見慣れていた人々には辛抱しきれない。
そこで東側との不釣合いを少しでも緩和するために、西側の雨溝を一メートル縮めたものと考える。
『都林泉名勝図会』や、『大雲山誌稿』にある龍安寺の古絵図によれば、西側の塀際まで白砂の庭となっているようであるから、方丈移建後いつのころからか、石庭の西端が一メートル縮減されていることは間違いない。
いじょうのことから判断しても、東庭は見通していたものと思う。

○ 石庭の北限

1. 西北隅石の位置に対する疑問
北側雨溝とわずかに二・五メートルの例外的な距離しかない。
これはどのような理由によるものであろうか。
幾多の抽象式借景庭園を調査して、配石地割の通則をしてみて得たことは。
庭内ならばどこにでも配石してよいものではなく、配石は庭面積の正面塀寄り二分の一以内のみに、限られていることが判明した。
そこで、奥行きの半分を超して、方丈寄りに配石すべきではない、という通則を龍安寺石庭に照らしてみると、西北隅石の位置は明らかに近過ぎているといえる。
あるいはまた西北隅石が作庭当初のままの位置であるとすれば、逆に石庭の北辺、すなわち方丈との間隔が何らかの理由で狭くなったのではないか、という考え方も出てくる。

2. 現石庭の北限に対する疑問
西北隅石の位置が方丈に近過ぎる原因は、作庭当初の方丈の位置と比べて、焼失後の現方丈が石庭へ乗り出して建てられたからではないかなどという見解は、『平面古図』の出現によって訂正しなければならなくなった。
しかし、作庭当初と比べて現石庭が狭くなったのではないかという疑問は、依然として解消しない。

3. 作庭当初の北限
寛政九年に焼失した方丈の入側柱列(広縁の奥に入り込んだ側柱の列)の位置は、現方丈の入側柱列の位置とまったく同一であって、少しも前後に移動していないことが判明した。
側柱とは、部屋と部屋を仕切る間仕切り用の柱に対する建物の外側の柱のことである。
それでは石庭の広さに変化が起きたのはいつごろであろうかということになる。
その可能性のある時期といえば、創建当初の方丈が、寛政三年の「平面古図」に拡張されたとき以外には考えられないことになる。
この方丈拡張に伴う変化の原因には、二つの場合が想定できる。

1. 方丈の位置の移動 
柱列の延長線は、仏殿や法堂へ通じる歩廊とも一致していて、諸建物の基本線を成しているため、これを動かすことは他の建物との関係にも変化を生じるので、基本的に不可能に近い。

2. 入側柱列から葛石までの距離の変化
室町末期に作られた山口市の常栄寺、東福寺の龍吟庵、大徳寺の龍源院、大徳寺の大仙院などの方丈は八間間口である。
これら室町末期の小規模な方丈に対して、江戸初期に建てられたものは著しく巨大化している。

方丈の強大化に正比例して広縁の幅も一間から一間半と広くなったこと、また広縁から一段低い濡れ縁、そしてさらに一段低い簀縁、更に敷き瓦などのため、雨溝までの幅も一間から八尺に広くなった。
すなわち合計十三尺から十八尺になり、その差五尺だけ北側の葛石線が南へ、即ち石庭側へ移動した結果、石庭面積が狭められて西北隅石に接近した。


 

石庭の手本 - 第五の謎

龍安寺石庭は、ほかに類例のない独特な構成であるが、この石庭が出現するにいたるまでには、参考になるような庭もあったであろう。
山口市常栄寺庭園の一部分に、石庭の手本を見出すことができる。

A 作庭者雪舟について
”雪舟庭”の通称をもつ常栄寺庭園は、傑出した芸術性においては日本庭園中第一級で、有名な画僧小田雪舟等楊(1420-1506)が作庭したものと推定され、最も格調の高いものである。

雪舟はもともと京都五山のひとつ、東福寺出身の禅僧であるが、同じ五山の相国寺の高名な画僧天章周文に師事して、画法を学んだことは周知のとおりである。
後に周防の大守大内氏の庇護を受け、山口に行ったのが三十五、六歳で、郊外に長年住み雲谷庵を結んでいたこともよく知られている。

雪舟の築庭と伝えられるものは、島根県に三庭、山口県に六庭、福岡県に三庭、広島県に三庭、あわせて十五庭が現存する。
けれども作庭の時代考証、雪舟的石組手法、雪舟的地割構成、そして芸術的品位などから総合判断した場合、ほんとうに雪舟の作庭と推定できるのは、常栄寺庭園のみ。

イ 雪舟作庭説の根拠

雪舟の常栄寺の石組手法は、雪舟独自の描法に似ていて、水平な平面を持つ庭石と、垂直な稜角を持つ庭石を直角に噛み合わせる構成法を用いている。
しかしながら、常栄寺庭園の作者や作庭時期については、江戸初期説や雪舟以前説などの異論もある。
しかし、常栄寺庭園を江戸初期の作庭とする異説を打ち消しうる文献を発見。
それは雪舟の庇護者大内教弘公の菩提所、闢雲寺の古文書『闢雲志』の下巻、慶長十二丁未年(1607)の条に、当山再任一三二代桐菴昌鳳禅師は記録している。
この『闢雲志』下巻には元禄十四竜集(1701)暮秋(陰暦九月)の奥書がある。
以上の記録は雪舟等楊が妙喜寺(現常栄寺)に築庭した文献としては最古のもので、貴重な資料である。

ロ 中国留学の意義

雪舟は周知のように山口に到来して十三、四年ばかり経過した応仁元年(1467)、おりから勃発した応仁の大乱をあとにして、相国寺の多くの僧たちとともに、遣明船に便乗し、五月に中国の寧波に上陸して八月まで滞在した。
ついで一行は大運河を北上して十一月に北京に着き、張有声と李在の二人に水墨の筆法を学んだ。
文明元年(1469)雪舟(五十歳)は、遣明使節の一行とともに北京を二月に辞し、六月寧波を出帆して帰朝した。

もともと雪舟が渡明した目的は、馬遠や夏珪などという水墨の先人に接することにあった。
しかし、それらの巨匠は、すでにこの世を去っていたので、彼が師と仰ぐに足る名家はほかになく、雪舟としては中国大陸の山水それ自体を師とする以外にはなかった。
在明の期間は短かったが、親しく彼の地風光に接して、無限のいきた画材を得た。

雪舟にとって、彼を育てた如拙・周文以上の妙手が、すでに中国にいないことを知って自信を深めた。
帰朝後は北画的な堅緻な筆法と、南画的破墨の手法をあわせ駆使して、線描によらず墨色の塊によって対象を描こうと試み、充実した最盛期に突入した。
晩年は運筆を徹底的に省略する破墨的な抽象的画体となって、龍安寺石庭のごとき表現法に近似するようになり、雪舟の円熟期における新たな画境を作った。

常栄寺は、もともと大内氏の邸宅であったが、康正元年(1455)大内教弘によって、母妙喜尼の菩提所とするために寺観を整えたものと考えられる。
常栄寺に雪舟が創庭したのは、帰朝後の文明八年(1476)から、文明十八年(1486)までの間と推測される。
明確な資料がないので、作庭時日は不明であるが、雪舟の作であることは前述の記録の出現で、非常に確実性を増してきたといえる。

B 石庭の原本 「三山五岳」の配石
常栄寺本堂北面の平庭に、大小約三十個の石が、超感覚的に分散配置してある。
この平庭は本堂の建っている地面よりも、約一メートルばかり高い大地状を呈し、中央前面のくぼみを除けば、ほとんど平面に近い芝生である。
俗に”三山五岳”と呼ぶこの配石を手本として、一木一草も植えない抽象的平庭枯山水である龍安寺石庭が出現したと解釈する。
この両庭は時間的にも近接しているだけでなく、発送においても様式的にも、同系列の布石であると確信する。

”三山五岳”とは、中国大陸を意味するという。
したがって常栄寺の三山五岳のお手本は日本にはなく、中国に求めなければならない。
”三山”とは廬山・百丈山、それに日本の富士山のことで、”五岳”とは泰山・華山・衡山・恆山・嵩山を指す。
しかし創庭当初から以上の呼び方をしていたわけではなく、時代により多少の変動はあったが、いずれにしても中国大陸を意味していることには変わりない。
この三山五岳の石組の豪放さ勁直さは、雪舟独特の直線と直角を表現する筆法とじつによく似て、非日本的気風を感じ、雪舟の絵画をそのまま、大胆にも抽象的に庭園化した荘厳な配石。

石庭の作者 - 第六の謎

龍安寺と兄弟関係にある花園妙心寺塔頭霊雲院が、あらゆる角度から一番適当であるのではないかという確信。
霊雲院庭園に立ち入ってみる。

その一 石庭成立に関する諸条件

A 霊雲院と龍安寺との関係
臨済宗妙心寺は、法流が四派に分かれている。
霊雲派、東海派、龍泉派および聖沢派の四派で、霊雲院は霊雲派の本庵である。
この寺は細川家の重臣であった薬師寺一族の菩提を弔うために、大永六年(1526)に建立され、大休禅師を開祖に迎えたものである。

この大休禅師は、龍安寺の”方丈上棟”当時の住職特芳和尚とは師弟の間柄である。
特芳禅師が八十八歳で死去した直後、当時四十四歳であった大休禅師は、龍安寺塔頭西源院に移った。
『妙心寺六百年史』に、大休禅師は「龍安寺を兼務せしが云々(中略)妙心寺再住後霊雲院創立に至るまでは、主として龍安に在りし如く察せられる」と記されている。

B 新書院増築に伴う庭園の改変
大休禅師の徳望は天下に高く、そのため駿州太守今川義元、越州や尾州等の太守諸公はじめ、薬師寺元一の嗣子国長、将軍足利義晴、管領細川高国たちも禅師に仏道を問うた。
禅師の名声は遍く、時の帝後奈良天皇も宮廷にお召しになり、ついに禅の蘊奥をお究めになった。
その後天皇は御修道に熱心のあまり、御みずから足げく霊雲院に臨幸遊ばされるようになった。

創建以来十七年経過した当時も、霊雲院の伽藍はまだ整備されていなかった。
しかし、天皇たびたびの臨幸のため、新書院と方丈の建造を急いだことが『正法山誌』に記されている。
それを裏づけるように書院の天井板背面銘文に、「天文十二年(1543)八月吉日、ひつめの与四郎宗次建立する也」と記されているところから、おそらくこのころに新書院は完成したものと思われる。

天皇が参禅されるため、方丈と新書院との間に、”龍駕潜幸の路”と称せられる路を作った。
そして新書院には”御幸の間”と称する天皇の御座所がある。
しかし、現在の前庭が新書院の増築直後のものか、あるいは十七年前の開創当初のものであるか、今のところ未解決であるが、おそらく新書院増築直後のものであろうというのが定説のようになっている。
その差は十七年のことでもあるし、また手がかりになる文献もないし、それに加えて霊雲院の作庭時期は庭園史学にとって、たいして重要な問題ではなかった。

ところが龍安寺石庭の作庭時期を決定するための基準庭園として、まず霊雲院庭園がいつできたかを、明確にする必要に迫られてきた。

古書院の建坪は約九十平方メートルで、それを取り巻くように約七十坪の庭園が作られていたと思う。
その後天皇参禅のため、新書院六十六平方メートルを増築するに当たり、古書院の一部を縮小しなければならなかった。
その縮小した跡が、現存する古書院に歴然と残っている。

しかし、古書院を縮小しただけでは、新築するのに敷地が足りないため、創建当時(十七年前)に相国寺の禅僧子建(画号是庵)が築造した庭園の一部を残してその大半を取り壊し、新書院を建てたものと考える。
それで作庭当初の面影を残しているのは、新書院南側の約二十平方メートルに過ぎない。
創庭時代から残存している環状石組が、新書院の中央から眺めると滝組のように見えるとしても、それは偶然であって、庭の石組は新書院から見るようには、作られていない。
古書院の方角からよく見ると、石組の意図が鶴島として作られたことが了解できる。
このことから次のような考え方が成立する。

霊雲院も最初は鶴亀ともにそろった正常な庭で、現在と比較して作庭当初ははるかに広く約七十坪あったと思う。
しかし、鶴島とその左側に向き合っている亀島との間に、方丈と新書院とをつなぐ”潜幸の路”が造られた。
そのためせっかくの鶴と亀の仲を割くような結果になったと考える。

それから百五十年後の元禄六年(1693)開山大休禅師の百五十年遠忌に際し、方丈の拡張や渡り廊下の架設などで、そのときになって亀の石組はついに取り壊され、かろうじて鶴を残すだけの六坪の狭い庭になったものと推定する。
以上は現存する方丈や庭園、新書院、古書院を実測した結果による考えである。

その二 子建西堂

石庭が有名であればあるほど、その作者が誰であるかを知りたいのは人情である。

A 幻の作者
作者の推測は慎重でなければならない。
なぜなら作者は作品の母体であるから、鑑賞や解釈に与える影響も大きい。
従って、想定上の人物が、石庭形成上のどこかで矛盾する存在であれば、作庭候補としては失格であり、いかなる条件にも適応する者でなければ、有力な推定作者とはいえない。

もし作者が判明すれば、その人を中心とする人脈、芸統もわかるし、あのような石庭を作った作者が、ほかにどんな庭を作ったであろうかという興味ある問題も明らかになってくる。

従って、昔からいろいろな作者の名前があげられてきた。
その数も他に類例がないほど多いなかでも、最も長期間にわたって有力候補にされてきたのが相阿弥である。
そのほか龍安寺の大檀那細川勝元説、龍安寺開山義天禅師説、中興の祖特芳禅師説、茶人金森宗和説や、小太郎・清二郎説、はなはだしきに至っては夢想国師説など現れては消えて行った。
それら諸説がだれによって、いつごろから、どのような根拠で提唱され、何故に消えていったかについて、一人ずつ書けば長くなるので省略する。
戦後は故西村貞博士によって、龍安寺の塔頭多福院の開基般若房鉄船禅師作庭説が提唱された。
しかし、この説にも理論的に飛躍があるなどで、いよいよ真の作者は厚い神秘の扉に閉ざされてしまった印象を受けている。

B 「子建」割り出しの経過
第五の謎に書いたように、龍安寺石庭を作った者は、当然のことながら、雪舟の芸脈を引く者であらねばならないと思う。
そして相国寺の僧子建(画号・是庵)が、相国寺に三十年間居住した雪舟の画法を嗣いだ可能性のあることに思いを馳せた。
しかも、子建が作庭した霊雲院は。龍安寺と住職・大檀那などの点から、兄弟の間柄であることが判明している。

三寺院の相互関係図解を項目別に説明すると次のようになる。
1. 龍安寺と常栄寺の三山五岳との相似性は、非常な緊密性を示している。
2. 住職は霊雲院・龍安寺ともに大休禅師である。
3. 大檀那の細川・薬師寺両家は主従関係にある。

C 子建の紹介

イ 子建に関する文献

『正法山誌』第九巻「霊雲院樹石子建作」の頁
『都林泉名勝図会』 寛政十一年(1799)刊行

ロ 子建の年齢

子建は西芳寺の住職になったことや、霊雲院庭園を作ったこと以外資料が少ない。
子建が龍安寺石庭の作者として、今日までただの一度も候補にあがらなかった理由は、龍安寺の作庭時期を、明応八年の”方丈上棟直後”とする説が有力であったことに原因しているように推察する。

『鹿苑日録』の天文六年(1537)十月三日の頁に、「子建を西芳寺の住職に任ず。(中略)細川家の下知出也」という記録がある。
子建が西芳寺の住職に任ぜられた天文六年当時、庭園解説書の述べるように五十二歳であったとすれば、それより三十八年もはるか遡った明応八年(1499)の”方丈上棟”直後に、龍安寺の石庭を作れるはずがない。
それゆえに作庭者の候補にあげられなかったと考える。

子建の年齢が従来あまり明確でなかったので、相国寺慈雲院の『住職過去帖』を調査した結果、従来の推定と必ずしも合致しない点が明らかになった。
子建は文明十八年(1486)に生まれ、天正九辛巳年(1581)正月四日、九十六歳で逝去している。
但し墓碑には天正八年正月四日と刻銘されている。
この『過去帖』に基づくと、西芳寺の住職となったのは五十二歳のときという計算になる。
『日本画家辞典』によれば、文明十二年生まれと書いていて、六年の誤差がある。
しかし、『歴史住職過去帖』に準拠して文明十八年の誕生としたい。

子建が西芳寺の住職に任命された五十二歳は、戦後の今日でも若いとはいえない、
住職になったのが若い年齢であったと、専門家の一部で思われているとすれば、出生と死去の時期が不明瞭であったものと思う。
少なくとも庭園史書で子建の年齢・出生・死去の日などに触れているのを知らない。

ハ 子建の履歴・環境

子建は三十三歳のときに相国寺慈雲庵の第三世住職となり、道号を寿寅といい是庵と号した。

慈雲庵の住職は、初代も二代も音声雅亮で、声明に秀で、子建は当時声明の第一流と謳われた黙堂寿昭に師事して、声明法を嗣いだ。

世に妙心寺を算盤面、大徳寺を茶人面、東福寺を伽藍面、建仁寺を学問面、相国寺を声明面と呼んだ。

『増補古画備考』には、子建について次のように紹介している。
子建は京都相国寺の僧、名号西堂といふ。
別に自牧、是庵、松屋老人の号あり。
伝詳ならず。
「丹青(絵画)を嗜み、牧谿(中国の画家第一人者)を慕ひて、自ら自牧と号するといふ。書法も亦絶妙と称される」と記している。

子建が師と仰いだ雪舟等楊は、永亨二年(1430)十歳にして相国寺に入って、画を周文に学んだ。
康正二年(1456)三十七歳のころに、『鹿苑日録』で有名な相国寺の鹿苑院にいた記録もある。
約三十年間相国寺にいたことからみて、雪舟はもちろんのこと、その師天章周文等の画蹟も、当時の相国寺に相当保管していたと考えうる。
子建も天文二年(1533)ごろ鹿苑院の侍衣をしていたから、「雪舟の筆法を受け継いだ人物」(中根金作『日本の庭』・早川正夫『日本の美術』別巻『庭』)と称せられる理由もまた容易に納得できる。

雪舟は日本画に明快な遠近法を確立したので、水墨画史上の重要な人物であり、常栄寺庭園も遠近法則によって構成されている。
子建は雪舟の画法を嗣いだ可能性が多く、龍安寺も遠近法に従って配石されていることは重要な共通点である。

子建は瀟湘八景を描くのが得意であり、相阿弥の絵に似て、溌墨柔潤で気韻があったと狩野永納編『本朝画史』に記されている。
子建が作ったと推定する龍安寺石庭が、約三百年の昔から相阿弥の作と考えられたのは、子建の絵と共通性があったからではあるまいか。
また龍安寺が一種の破墨山水画的構成であることは、画史の記録と合致するので、子建作庭説の一資料になると思う。

子建と庭園との結びつきは、応永・延徳(1394-1491)ころの相国寺山内には、多数の庭園ができていたことが、『蔭涼軒日録』に記載してある。
常徳院の聯輝軒庭園、雲頂院の集雲軒庭園、蔭涼軒、万松軒、養源院、栄敢軒、宝雲庵、意足軒、香酔軒、慈照院の宜竹斉の庭等がよく知られていた。
それで子建もおそらくこれらの庭園から学ぶところも多かったと思う。
しかし、度重なる兵火によって、これらの庭園が全部失われてしまったことはまことに残念である。

作庭の時期 - 第七の謎

室町末期説が一般的に有力である。
しかし、学者のなかには、江戸時代初期の作庭であると推測する異論もある。

A 作庭時期に関する記録
室町末期説のなかの”方丈上棟直後説”とは、方丈建築にまつわる次の文章から出たものである。
三条西実公の(1445-1537)の日記『実隆公記』の明応八年(1499)六月二十六日の記に、「今日龍安寺方丈上棟云々」と書かれている。
また龍安寺中興の祖といわれる徳芳禅傑の法語集である『西源録』第三巻の「龍安寺函丈上棟題語」というところには、上棟式は『実隆公記』と同じ日に行われ、「住持比丘禅傑」「大檀那間政元」「長林伊賀督」「大工藤原家久」等の名が記されてある。
以上の記録によって龍安寺石庭が作られたのは、方丈上棟直後であると推定されているのである。

しかし、『実隆公記』や『西源録』には方丈上棟の件が記録されているのみで、庭を造ったという肝腎の記録はまったくない。
実隆公は大臣家の一人で、四代の天皇に仕え内大臣に昇った人である。
庭園には特に深い関心を持っていた記録もあるから、もし上棟直後に作庭される計画があるならば、おそらく日記に書き留めていたであろう。
また特芳禅傑和尚も、『西源録』に方丈上棟のみ記録して、南庭に配石することについては何も触れていない。

その他、資料としては次のようなものがある。
1. 『見桃録』 特芳和尚の次の住職、大休和尚の法語および本寺に関する記録。
2. 『大雲山誌稿』 龍安寺(龍安寺の山号を大雲山という)のことを詳細に記録したもの。
3. 『鹿苑日録』 当時の禅宗寺院全般の詳細な記録として有名。

もし配石の事実があれば当然書かれるはずの関係古文書に目を通しても、方丈南庭に布石したという記録は、申し合わせたようにまったく残っていない。
”方丈上棟”より二年後の文亀元年(1501)三月十九日に、近衛政家公が龍安寺を訪れている。
そのことが『後法興院記』に記載されているが、しかし、石庭のことについては何も書いていない。
数多くの庭園史研究家が、長い年月にわたって石庭作成の時期に関する文献を探したが、現在までのところ発見できなかった。
以上のような事情で作庭時期が不明であることも、龍安寺石庭の神秘性をいっそう深める原因となっている。
そこで一歩退いて、従来最も有力であった方丈上棟直後作庭説を再検討して、そこから生ずるいくつかの問題点を明らかにしてみたい。

B 寺院制度と石庭との関係
もともと禅院の方丈は原則として南向きである。
そして正面の庭、すなわち南庭は、仏教的儀式をとり行うために白砂を敷いた”庭”である。
したがって南庭は宗教上必要な場所であり、また方丈南側の三室は、室中・礼の間・檀那の間と称して、儀式的な部屋であるため、当時としては鑑賞目的の庭園を作るわけにはいかなかった。

福田和彦氏は『日本の庭園』のなかで、「方丈南庭に作庭され始めたのは、塔頭制度が改革された江戸初期からである。したがって龍安寺方丈南庭に石庭が作られたのは、江戸初期である」と解釈しているほどである。
しかし、このことだけで、作庭時期を江戸初期であると決定するわけにはいかない複雑な事情が潜んでいる。

南禅寺金地院の崇伝長老(1633年示寂)は、幕府の信任厚く、一名「黒衣の宰相」として権勢を振るい、元和五年(1619)には、天下僧録司という禅林を総轄する最高の役職についた。
徳川幕府は壇徒制度など諸制度の改革を意図して、以心崇伝長老にこれらの編纂をさせた。
その結果新しい寺院諸式となり、方丈南面の庭が晋山式など儀式の場所としての必要性を持たなくなったので、その後初めて観賞用の庭園が作られるようになった。

禅寺のこうした制度改革から推察すると、別格本山の寺格を持つ龍安寺が、改革前にはたして方丈南庭に配石したか、という疑念が湧いてくる。
いずれにしても龍安寺石庭よりも以前に、この制度を無視して作庭した例がないということは、その制度が”方丈上棟直後”時代も、やはり守られていたのではないだろうか。
少なくとも初めから造庭計画があったとは考えがたい。

C 管領細川家の事情
龍安寺はもともと細川家の菩提寺として建立された。
ところで、再建は遅々として進まず、着手してから十二年目、明応九年(1500)九月二十八日にやっと鐘楼ができあがるとい状態であった。
特芳和尚の『西源録』巻三には、「龍安寺掛鐘幹縁偈」と題して、「この山ひさしくすでに華鯨[梵鐘]を欠いていたが、やっと今になって大器の晩成をみることになり喜んでいる。(中略)またこの大鐘は、薬師寺長英の寄進である」ことなどが記録してある。

仏殿や法堂が建立されるのは、いずれも方丈建立以後である。
この建築順序は応仁の乱以後に再建された紫野大徳寺とか、花園妙心寺の例に照らしても確かである。
しかし、龍安寺の場合は方丈だけが記録され、仏殿や法堂が、いつごろどのような経過で上棟されたのか、落慶法要の記録がないので明らかでない。

時は戦国時代、まさに乱世である。
当時は氏族同士で争いに明け暮れ、庶民の一揆も全国的に絶え間がなく、細川家の内部も安穏とは縁遠いものであった。

政元公には子どもがいなかったので、まず先関白九条政基公の末子である澄之(当時十四歳)を迎え、続いてさらに阿波の国の同族、細川義春の子六郎を後継と決め、澄元(当時十四歳)と名乗らせた。
一人だけに止めておけば波風も立たないのに、それぞれ利害を異にする二人の養子を迎えて紛争の種を蒔いたので、細川家は二派に分かれて激しい内紛を起こし、血で血を洗うことになった。

このように真っ二つに分かれてのお家騒動のために、細川家の財政状態が困窮していたのは当然で、龍安寺再建にまで、おそらく手が回らなかったものと考える。
まして、この期間に方丈南庭にまで作庭するとはとうてい考えられない。

D 妙心寺派の弱い立場
妙心寺は、当時いわゆる京都五山に列しない、一段低い地位に甘んじていた。
そして五山の寺から、”山隣(林)派”として軽視されていた。
ことに当時の天下僧録司、つまり禅林を総轄し取り締まる役職にあった相国寺の鹿苑院からは、血涙を呑まされるような仕打ちがたび重さなった。
しかし隠忍自重しなければならない弱い立場にあったので、妙心寺の別格本山である龍安寺の方丈南庭に、鑑賞物を作るような禁制を犯して、鹿苑録より叱責される口実を作ることはまず考えられない。

龍安寺石庭の作庭時期について、従来のうちで最も有力な「方丈上棟直後説」は、以上述べてきたように三つの大きな難関を抱えているのだけではなく、「直後作庭説」を積極的に支える有力な理論も見当たらない。

E 西芳寺(苔寺)の住職子建

子建が作庭にきわめて卓越した手腕をもっていたことは、有名な庭園をもつ西芳寺の住職に任じられたことだけでも、充分に知ることができる。

きわめて重要な西芳寺の住職に子建がそうして抜擢されたのか。
その理由はなにか。
『鹿苑録』の天文六年(1537)十月三日の頁に、
 「寅子建西堂、(中略)細川家之下知出也」と記されている。
下知とは、もとより下の者に知らせる号令、指図、おおせの意味である。
それでは何故に管領細川家が直々に、子建に対して住職任命の下知を出したのか。
義満公以来、足利将軍家が愛着してきた秘苑西芳寺の住職に任命されるのに値するほどの技倆が、いかなる機会に評価されたのか。
そして細川家が子建に対して、何故にそれほどまでに恩誼、もしくは義理を感じなければならなかったか。

その理由は細川家の菩提所、龍安寺方丈の前庭に、子建が庭石を配置したしたからであると思う。
この考え方お裏づける論拠は、西芳寺の池岸に散在する横三尊と同一の石組は、龍安寺以外に求めることのできない特殊な技法であるから、この二庭は同一の作者による石組であるという考え方である。

「虎の子渡し」の石組、すなわち横三尊の特殊技法は、龍安寺石庭と西芳寺の池泉以外の庭園にはまったく存在しない。
この共通性は龍安寺石庭を、子建の作庭と考える重要な論証の一つである。

F 方丈南庭に作庭し得た情勢の変化

イ 方丈南庭の宗教的役割の軽減

平安朝のころまでは、南庭を儀式の場所とする制度が厳守されていた。
しかし、その後鎌倉時代には、方丈内の廂の場所である広縁が儀式場にあてられ、次第に南庭が利用されることは少なくなっていった。
さらに室町時代になると、建築物の内部が儀式場となり、南庭の実用的意義がなくなるとともに、南庭の面積も時代が下がるにしたがい狭くなった。

現存する方丈のなかで最古と考えられる東福寺龍吟庵の方丈(国宝)は、室町初期(1428-1440)ごろの建築として、貴重な存在である。
南正面にだけ幅広い縁があり、広縁の内側は桁行八間、奥行五間である。
また大徳寺南派の本庭である龍源院の方丈(重要文化財)は、永正十四年(1513)に建築がはじまり、東福寺の龍吟庵同様に、南の縁だけが広く、桁行も約八間、奥行も五間で、当時の方丈建築としては重要なものである。
龍安寺石庭が作られた当初の方丈が、前記二例と同じく八間と五間であったことは、『東西歴覧記』に記載されているとおりである。

以上のように室町末期には、まだ制度としての南庭は残っていたが、実質的にはもはや使用されていなかったといわれている。

ロ 妙心寺派の地位向上

天文六年(1537)ごろは、後奈良天皇が霊雲院にたびたび行幸されるようになり、寺勢は著しく高くなった。

また一方、足利将軍家は名前だけの将軍で、政治の実権は細川管領家に移っていた。
従って足利家を大檀那とする相国寺と、細川家を大檀那に持つ龍安寺との関係は、従来とはまったく形勢が逆転した。

特に天皇が帰依されていた大休禅師の兼管する龍安寺の方丈南庭に、庭石十五個程度を布石することは、相国寺の僧録司である鹿苑院に遠慮しなくても差し支えないまでに、情勢は変化していたと考える。
時世が変ったといえば、天下総録司の鹿苑院が従来見下していた妙心寺の霊雲院に、侍衣をつとめる子建を作庭におもむかせた大永六年(1526)ころより、すでに主客は顛倒し始めていたのではないだろうか。

さて『鹿苑日録』第十二巻天文五年(1536)二月二十二日の条に、慈雲庵住職子建は天文二年五月二十一日当時、鹿苑院の侍衣であったと記されている。
このような僧録司の身の回り役を勤める立場にいる子建が、禁制の南庭に配石することを引き受けたのは、僧録司が暗黙の承諾を与えたといえないこともないと思う。
あとの祟りを畏れることなしに、たとえ庭石わずか十五個であっても、当時の南庭に布石しうる立場にあった作庭者は、子建西堂ただ一人ではあるまいかと。
この子建の立場は作庭説を支える最も重要な論拠としたい。

しかも、子建は十一年前に、大休禅師の霊雲院庭園を作った因縁もあるので、龍安寺の住職も兼ねていた大休禅師が、子建を説得した可能性は充分にあり得ることである。
前述のように、当時の南庭に布石しうるのは子建だけであったとはいえ、子建といえども簡単に布石を承知したとは考えられない。
そこで細川家が子建に対して、ことさら義理を感じる事情が浮き彫りにされてくる。

『鹿苑日録』の第九巻天文五年から、第二十五巻永禄九年(1566)までの三十年間に、寿寅西堂(子建)の名前が、三十三ヶ所にわたって出てくるのは、寿寅が鹿苑院の侍衣という相国寺の奥深く、枢要な位置にあった理由によるものと思う。
この子建が夢想国師以来の天龍寺派の名刹西芳寺を復興するための住職に、細川管領家によって抜擢任命されたのは、異例に属する人事といわなければならない。

以上のように、当時としてはかなり強引な意思をもって作られた石庭は、作庭当初より問題の多い庭であったと思う。
そのような事情は施行関係者にも敏感に伝わり、相当な意気込みをもって従事した気持ちが、小太郎・清二郎の刻銘となって反映したように思える。
かくして天文六年十月三日に、西芳寺住職任命の下知が出たのを基準におけば、龍安寺石庭が作られたのは、恐らく前年の天文五年頃ではないかと推考する。
参考までに子建の墓石は相国寺の集団墓地にある。
墓の形は僧職独特の卵塔(無縫塔)である。
墓碑には「前住真如子建正堂和尚天正八年正月四日」と刻銘してある。
真如とは子建が若い時、等持院の東隣にある真如寺で修行したからである。

ハ 作庭家名簿抹殺の社会的事情

数多い庭園の中で、作庭された時期と作者の判明しているものは非常に少ない。
ことに室町末期の庭園はほとんどの作者名が抹消され、霊雲院の作庭に関する記録などは、むしろ珍しいといわねばならない。

作庭者が明確にされない理由については、次のように考えられている。
平安末期から室町初期にかけて、作庭担当者として活躍していた石立僧(作庭家としての僧侶)にとってかわり、「山水河原者」と称される人たちが室町中期より輩出した。
「山水河原者」とは、作庭の土木工事に従事する労務者という意味である。

将軍義政公の知遇を得た有名な善阿弥や、その孫又四郎などは、人格・学識が、時の知識階級である僧侶を凌ぐほどであった。
こうした人たちが設計兼施工者として、作庭業を独占するようになり、その活躍は室町中期から桃山時代を経て、江戸時代まで続いた。
しかし、何故か造園者の名前は故意に伏せられる習わしとなった。
その反面、傑出した庭の作者といえば、きまって夢想国師・雪舟・相阿弥・遠州などの名前が、それぞれの作庭時期に応じて借用されている。

その他の疑問

A 石庭と糸桜

秀吉の和歌にまつわる”糸桜問題”は、江戸初期作庭説にとって、ありがたい史料であり、反対に室町作庭説に都合の悪い材料とされてきた。
しかし、それは一面室町作庭説に有利な材料となっていることが判明した。
龍安寺石庭を少し調べると、必ず糸桜の問題が出てくる。
この石庭の意図が、草樹をいっさい排除した構成であることはいうまでもない。
しかし、糸垂桜の存在について、いろいろ問題もあるので、少し考えてみたい。

イ 庭石配置の傍証

豊臣秀吉は天正十六年(1588)二月二十四日、方丈前庭の糸桜を見て和歌を詠み、供奉の大臣もこれにならった。
秀吉ほか六名は糸桜のことばかり詠じて、石庭を歌の題材にした者は一人もなかった。
このことは従来、作庭の時期決定の重要な要素とされてきた。
石庭を江戸初期作庭と考える人々は、詠まない理由を。方丈南庭には庭石が配置されていなかったからと主張している。
しかし、配石について必ず詠まれるはずであると思うことも、一方的な考えのようであるから、この問題に対する新しい見解を述べる。

糸桜が生えていた場所は石庭の西北隅で、作庭当初の石庭の境界を示す雨溝に接していた。
そして方丈から仏殿に通じる西舗廊との隙間、その幅わずか一メートルに満たない狭い空き地に植えられていた。
もともと糸桜は自生しにくいものであるから、このような特定の場所に偶然成長するわけもなく、意識的にその場所に移植されたことは疑う余地もない。

従来この糸桜問題は、室町作庭説にとっては不利な材料であったが、考えようによっては、かえって有利な材料といえないこともない。
なぜならば、糸桜の位置から判断すると、南庭には庭石が配置されていたことを物語っているように思うからである。

第一の理由として、もし前庭に庭石が何も配置されていなければ、広々とした南庭のどこへなりとも植えてよいはずで、このように限定された、狭苦しい隙間に植える必要はない。

第二の理由として、糸桜は周知のように、枝を四方八方に拡げるものである。
それにもかかわらず、西舗廊にほとんど密接した位置を選んだことは、南庭内に植えるのを、意識的に避けたと考えなければならない。
避けた理由は、方丈前庭に糸桜の介入を許さない布石が、すでに存在していたからと考えられる。
かくして糸桜の存在位置は、逆に方丈前庭に庭石が配置されていたことを物語る一つの好材料になる。

ロ 糸桜移植の理由

鑑賞式庭園は元来正面性のもので、視点が建築物中央に集まるように設計されている。
従って、この石庭も正面以外の不特定な位置に立てば、配石構成が不均衡に見えるのもやむを得ない。
特に龍安寺の布石には、側面的配慮が欠けているので、石庭の左右両端に近いほど、配石が偏頗に見えるのは避け難いことである。

火災以前の旧方丈から、法堂の方へ通じる西舗廊に立って石庭を見た場合、石組の構成が不均整となる。
そこで、この弱点を隠す必要から、前述の秀吉遺愛の糸桜が植えられたものと考える。
この植えられた場所から植えた意図が充分推察できる。

桜の根株は、石庭の西北隅に今も小石で環状に囲まれているので、昔の位置を知ることができる。
そこから眺めた石組の配置を具体的にいえば、塀ぎわの細長い石と、西北隅石と、横三尊石が一直線上に重なるだけでなく、左の空間が無意味に広く見える、石庭一番の泣き所である。

秀吉遺愛の名桜は、寛政九年(1797)の大火で旧方丈と同時に焼けるまで存続し、約二百三十年間石庭の西北部分を大きく覆っていた。
しかし、石庭本来の姿に復元する立場から見れば、桜が焼枯したのはむしろ歓迎すべきことで、糸桜は文字どおりの仇花であったといわねばならない。

B 掛け軸 「龍安寺敷地山之図」

龍安寺が所蔵する同寺境内の古絵図は、寺伝によれば相阿弥筆となっているが、専門家の鑑定の結果、江戸初期の狩野派によって描かれたものと判定されている。

この絵図の方丈南庭を囲む塀の中央に、門が設けられている。
中央に門があるということは、常識的には石庭が存在しないことを物語っている。
また絵図の南庭に庭石は描かれていない。

この古絵図は。石庭の作庭時期を江戸初期とする学者にとって重要な資料である。
その理由は江戸初期の狩野派によって描かれた古絵図の方丈南庭に、石庭が描かれていない。
それで石庭が作られたのは古絵図が描かれたときよりも後であることを証明しているというのである。

しかし、この論拠はきわめて危険である。
なぜならば、古絵図は細川勝元公が宝徳二年(1450)に創建したときに描いた伽藍の全景であると考えられるからである。
応仁元年(1467)に、敵軍山名宗全の兵火で焼失する以前の寺観を描いた原本を、江戸初期になって狩野派の画人に模写させたものが、現存する「龍安寺敷地山之図」である、という解釈が成立する。
従ってこの古絵図は応仁元年以前の寺観であり、石庭とはまったく無関係であるから、江戸初期作庭説の論拠とはならない。

また、もし狩野派が描いた古絵図を証拠資料として、江戸初期作庭説を主張するならば、寛政初年に発刊された『都名所図会』は、狩野派古絵図と寺観がまったく一変していることに気づくであろう。
そこで狩野派の描いた古絵図の寺観を天和元年(1681)以前に焼失させて、その後、間口八間、奥行五間の方丈を建て、それからこの方丈を間口十三間に拡張してはじめて『都名所図会』に描かれている伽藍と一致することになる。
しかし、それを裏づける記録資料など何一つない。
従って、古絵図を江戸説の論拠とするのは、無理を積み重ねた脆弱な考え方といわねばならない。

C 寛永年間作庭説の否定

桃山時代の庭園は、その時代性を反映して華麗であり、豪壮な特性をもっている。
しかし、その両どなりの室町末期と江戸初期の庭園は、比較的地味な点で一脈相通じる共通性をもっている。

それ故、日本庭園の様式史を研究する人にとって、室町末期と江戸初期の判定は特に間違いやすい。
龍安寺が江戸初期の創庭ではないかと誤認されるのは、皮肉にも最も混同されやすい室町末期の作庭だからである。

およそ庭に使用される石の、庭面積に対する比率は、桃山時代が大きく、室町末期と江戸初期は小さい。
また使用される石の形状や稜角が、桃山時代は豪快かつ雄勁であるのに比べて、室町末期はきわめて鋭角的であり、清楚で、冴え返っており、他方、江戸初期には軽薄かあるいは鈍重である。

桃山時代の石組手法は、派手に見せるため庭石をできるだけ露出させる。
いわば眼で見る石組である。
それに対し室町末期は地味であり、心で見る石組である。
あたかも北宗水墨山水画を見るようで、石と石とが緊密な連係を保ち、芸術的純度も高く、品位と魅力に富んでいる。
庭石を組む場合には、石と石との距離が近いほど、連係を保つのは容易である。
その反対に距離が遠くなるにしたがって、脈絡は切れがちとなる。
龍安寺石庭では、各石組みの距離が最大限に開いているにもかかわらず、みごとな脈絡を保っていることは、驚くはなれ業である。
樹木を一本も使用せずに、庭石ばかりで一つの庭をまとめることが、想像以上に困難である。
龍安寺が非凡な庭であるといわれるのもここにある。

大徳寺本坊方丈の東庭は、俗に七五三の庭と称され、寛永十三年(1636)に作られた。
龍安寺石庭を模倣したと考えられる。

D 石庭施工者小太郎と清二郎

石庭に向かって左から二番目。
小太郎のほうは明確に読めるが、清二郎のほうは清の字が摩滅しているため、何と読むか種々の説がある。

古くは『大雲山誌稿』三十七巻中、第四巻に「清二郎か」と判読している。
彫刻されて四百年もの間、風雪にさらされて摩滅したり苔が生えたりして、しだいに識別しにくくなった。
この難読な字が、もしも彦と読めたら”方丈上棟直後(1499)説”にとって非常に有力な証拠となる。
その理由は延徳三年(1490)十月二十九日の大乗院寺社雑事記に「相国寺松泉軒に作庭す、左近四郎、彦六、彦二郎」と記されているので、方丈上棟時代に彦二郎なる者が庭師として名を留めているからである。

昨今は徳とか沫などと読む試みもあるなかで、方丈上棟直後説論が自説に都合のよいように、「彦」と読むのは少なからず無理がある。
やはり『大雲山誌稿』どおり、「清二郎」と読むのが最も妥当のようであるが、確定的な判読はできかねる。
しかし、二人の名前が、室町末期から桃山時代によく出てくる労務者の類似名であることに異論はないにしても、特定の人物と結びつけることはできない。

小太郎・清二郎の二人は設計者ではなく、施工者の名前であると思う。
なぜならば、事実作庭工事に従事していた労務者はたくさんいた。
そして労務者にも善阿弥や又四郎など例外的に優秀な庭師もいるが、龍安寺石庭の発想や構成などは、単に作庭工事に経験深いという職人的な技術のみではなく、もっと高度の創意を必要とするからである。
いま一つの理由は、設計者が二人ということもあり得ないからである。

いずれにしても、庭石に監督者や施工者の名を彫刻した例は、きわめて珍しいことである。
刻銘された時期を、近郊の山や川から石庭に送られる間とする説や、油土塀の修理の際とする説など種種であるが、落書き的性格のものではなく、書体も立派な本格的彫刻であり、在銘場所から推察して、配石直後と思う。

配石された庭石はわずか十五個に過ぎず、工事日数もおそらく十日を出ていないであろう。


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