■■■ 六原

六波羅蜜寺 ・六道珍皇寺 ・

一に六波羅ともしるす。
北は建仁寺より南は五条通まで。
西は鴨川より東は東大路通りに至る東西七百メートル、南北三百五十メートルの地域をいい、古くは愛宕郡愛宕郷および鳥部郷にまたがり、鳥部氏一族の居住地である。
彼らの祖神を祀った氏神社は今はあきらかにしないが、一族の菩提寺としての鳥部寺(宝皇寺)は知られている。
しかし、同寺は天安二年(858)四月、火を発して灰燼となってからは、鳥部氏をしのぶべきものはない。
ただ鳥部山が阿弥陀ケ峰と改め、鳥部野が葬場として残っただけである。

六原は鳥部野と同一地域をいい、その名の起こりは、霊の多くあつまるところに因る。
即ち六の「ろく」は霊の古言で、「六」の字を当てたのは、「六」の訓「む」が墓地にある語とされたからである。
墓所がなまって六所となった如く、例のあつまる原野というところから六原の名が生じた。

六原がいつ頃から葬送地となったかはあきらかにしないが、『河海抄』に引用する『延喜遷都記』によれば、ここは桓武天皇が平安遷都にあたって葬所とされたところで、珍皇寺を建てて弘法大師の聖跡とし、東寺をして管領せしめられた旨をかかげている。
この葬場は、主に一般庶民の遺骸を葬るところとし、王后貴族はもっぱら南鳥部野がえらばれたことは、『栄華物語』等によって知られる。

珍皇寺はこの葬場の管理をする寺で、はじめは愛宕(おたぎ)寺と称した。
愛宕寺は大宝年間(1110−3)には広大な寺領内には、三昧堂としての私堂が造立され、その数は四十八宇の多きにおよんだ。
平正盛の常光寺(正盛堂)や教盛の教盛堂のごときは、その一例である。
その願主は摂関家に属するような高貴なものではなく、国司のような次の階級の家柄の人々によってつくられた。
また空也上人の西光寺、千観内供の千手堂(念仏寺)の如く、僧俗のいかんにとらわれず、多くの人々によって仏堂が造立されたようである。

とくに空也上人がこの地を選んだのは、ここが庶民の葬場であったからであろう。
西光寺は一般には「六原の寺」とよばれた。
のちに弟子の中信が、仏語の六波羅蜜をあてて六波羅蜜寺とあらためたので、それより「六波羅」の文字を用いるようになった。

平安末期に平家がこの地にその一族の邸宅を本格的に構えて六波羅第と称し、清盛を六波羅入道大相国とよんだのも、この地名によるもので、次いで鎌倉幕府がここに六波羅政庁を設け、六波羅探題を置くに至るや、政治権力の中心地となった。

中世以降は幾多の兵火によって焼亡したが、さいわい焼け残った六波羅蜜寺を中心として再び再興して、清水寺に通じる松原通の沿道には閻魔堂・姥堂・地蔵堂などの多くの仏堂が建ち並び、盂蘭盆の精霊迎えには庶民が群参する抹香臭いところとなった。

■ 六波羅蜜寺

轆轤町にある。
普陀落山と号する真言宗智山派智積院に属する寺で、西国三十三所観音霊場の第十七番札所として、古くから信仰されてきた寺であるが、今は多くの仏像彫刻を有する点に於いて美術史上貴重な存在となっている。

当寺の創建年代については諸説あり、あきらかにしないが、空也上人が開創した寺という点に於はいずれの説も一致している。
上人は若くして仏道にはいり、阿弥陀念仏を唱えながら諸国を巡歴し、橋を架け、井戸を掘るなどして一般民衆とむすびつき、伝道教化につとめたから、「市聖」とよばれた。

天暦五年(951)天下に疫病が流行したとき、上人は一体の十一面観音像をつくり、これを洛中に引きまわして祈願をこめると、たちまち悪疫が熄んだといい、それと前後してまた上人は、十余年の歳月と多くの人々の協力によって、紺紙に金泥で書いた大般若経六百巻の書写を行い、応和三年(963)鴨川のほとりで盛大な経供養会をおこなった。

このとき建立した寺を西光寺と称した。
西方浄土の教を京都の内外につたえようとして寺名としたものであるが、阿弥陀如来像を本尊とせず、あえて十一面観音や梵天・帝釈天・四天王の諸像を安置したのは、悪疫のみなもとをなすと信じられていた死霊の祟りをしずめ、人々に現世利益を得させようとしたからであろう。

中信は寺の復興と同時に先師空也の行業を慕い、南北二京の名僧を講師として招き、毎日昼は法華経、夜は念仏を行う法会を開いたから、東西両都の男女が雲集するに至った。
また菩提講や観学会・結縁講なども引き続き行われた。
地蔵講も毎月二十四日に町の人々が集まって行ったことは『今昔物語』にみえる。
同書には、また地方に於いて霊験あらたかな地蔵堂を六波羅蜜寺に納めたといういくつかの話が収載されていて、次第に地蔵信仰とむすびつき、中世以降は一般に「六原の地蔵堂」としてよばれるに至ったさまが知られる。
されば『太平記』巻八にも、元弘の乱に当たって、赤松則村の軍勢が鎌倉幕府の六波羅政庁を攻めたとき、「地蔵堂」とのみ記し、六波羅蜜寺の名をみないのはこのためであろう。
寺の建物はこのときの兵火で類焼したものとみられる。

現在の本堂は、その後の貞治二年(1363)、僧観実の努力によって再建され、応仁の兵火には免れた。
さらに天正十八年(1590)豊臣秀吉は大仏殿建立の余材を以って堂宇を修繕し、寺領七十石を寄進して当寺の庇護に当たった。
また三十三所観音霊場の札所の一として数えられてより、近世は寺運も興隆し、再び六波羅蜜寺の名を以ってよばれるようになった。

江戸時代の頃は境内も広く、今の松原通に面して総門(北門)があり、本堂の東には開山堂や不動堂・地蔵堂・天満宮・松尾社等があって、かなり広い寺域を占めていた。
しかるに明治維新に際して寺領を没収され、今は境内中央に南北の道路が通じ、狭い地域内に僅かに旧観をとどめているにすぎない。

【本堂】 重文・南北朝

貞治二年(1363)の再建で、本堂としては規模の大きい部類に属する。
内部は板敷きとし須弥壇を設けた内陣と周囲をとり囲む外陣とに大別される。
外陣の天井は鎌倉末期風の重厚な感じがただよう。
内陣は天台寺院の古い姿を伝えるものとして注目される。

【本尊十一面観音立像】 重文・藤原

高さ二・五メートルの一木彫成の優美な仏像で、空也上人開創当時のものといわれる。

また本尊厨子の両脇に立つ四天王立像(重文・藤原)は、増長天像のみは鎌倉時代の補作とみられる。

【地蔵菩薩立像】 重文・藤原

高さ一・五一メートル。
典型的な藤原時代後期の優作である。
本像はもと地蔵堂の本尊といわれ、左手に毛髪を持っていることから世に「かつら掛けの地蔵」とよばれる。
その名の起こりについては『山州名跡志』巻三に大略次のような伝説を揚げている。
即ちむかし母を亡くした娘があって、父は久しく他国に旅行して不在中であった為、葬儀をするのに困ってただ泣くばかりであった。
ところがその夜一人の僧が訪れ、遺体を沐浴し、みずからそれを背負って野径に埋葬してくれた。
娘は喜び、僧はいずれに住み給うやと問うたところ、僧はただ、「愛宕の里」とのみいい捨てて帰り去った。
後日、父が帰宅してかの所に至り、堂内に地蔵尊を拝すると、左手に母の持っていた「かつら」がかかっていた。
この「かつら」は葬送のとき、棺の中に入れていたものであった。
ここに於いてかの僧とは、この地蔵尊の化身であったことを知り、それよりますます信仰するに至ったという。

平康頼の『宝物集』巻三にも同工異曲の物語をかかげているが、これには地蔵尊の足もとに土がついたので、「山送りの地蔵」とよばれたとある。

また『今昔物語』巻十七、第廿一話 には、但馬の前司国挙は頓死して冥土に行き、閻魔王の前にひき出されたが、地蔵菩薩の尽力でふたたび娑婆へもどされたので、報恩功徳のために一体の地蔵像を造って安置したのが本像であるともいわれる。

いずれにせよこのような多くの説話伝説の生まれたもとになったのは、ここが六原葬場の入り口にあたることと、地獄に堕ちた亡者を救うという地蔵信仰とがむすびついたからであろう。

このほかの多くの仏像は、近年本堂の背後に建てられた収蔵庫に納められている。
主なものを書く。

【薬師如来坐像】 重文・藤原

一木造りより寄木造りへの過渡期の作で、僧中信が当寺を天台寺院に改めたときの本尊とつたえる。

【閻魔王坐像】 重文・鎌倉

当寺の北にあった閻魔堂の遺仏。

【吉祥天立像】 重文・鎌倉

造像の経緯や当寺に安置された由来については、明らかにしない。

【地蔵菩薩坐像】 重文・鎌倉

玉眼入り。
もと当寺の境内にあった十輪院の本尊といわれ、十輪院は仏師運慶の菩提寺であったから、運慶自身の作であろうといわれる。

【運慶・湛慶坐像】 重文・鎌倉

ともに十輪院の遺仏。
自作といわれるが確証はなく、衣文に形式化した硬さがみられるので、運慶より一世代あとの時代の作と推定される。

【空也上人立像】 重文・鎌倉

口から念仏唱名になぞらえた六体の化仏が出ている姿は、よく念仏行者としての上人の姿をあらわしている。
運慶の四男康勝の作であることが体内の銘記によって判明したが、康勝は生前の空也をみたわけではないので、康勝在世当時の空也僧をみて製作したものだろう。

【伝平清盛僧形坐像】 重文・鎌倉

浄海入道と号した晩年の平清盛の姿を写したものといわれるが、造立銘文や作者名等については一切不明である。
おそらく六原の葬場にあった私堂の遺仏の一を移し、平家ゆかりの地に因んで清盛僧形像といいふらせたものであろう。

【弘法大師坐像】 重文・鎌倉

体内に「巧匠定阿弥陀仏長快」の墨書銘があり、仏師安阿弥快慶の弟子長快の作であることが知られる。

【夜叉神立像】 藤原 二体ある

非常に珍しいもので、その製作遺例は甚だ少ない。
夜叉神は元来土地の守護神であるが、のちに伽藍神として山門などに金剛力士像と同じく、吹きさらしの場所に置かれたから、本像も風化が甚だしい。

【阿弥陀石仏】 鎌倉

花崗岩製。

【清盛塚】

江戸時代作の形の悪い五輪石塔で、平家ゆかりの地に因んで近世に至ってつくられたものである。

【阿古屋塚】

古墳の家型石棺の蓋を台にし、その上に古風な形の宝塔が立っている。
相輪を欠いているが、鎌倉中期の遺品で、花崗岩製。

因みに阿古屋とは五条坂の遊女といわれ、平家の侍大将悪七兵衛景清の情をうけ、畠山重忠から景清の行方について琴責めで詮議をうけるという。
浄瑠璃『壇浦兜軍記』によって世に有名になり、のちにここに墓をもうけるに至ったものであろう。
一説に火葬のときに棺に火をつけることを「下火あこ(下炉)」ということから、遊女の阿古屋とむすびついたもので、本当は火葬所をいったものだろうともいわれる。

【祥雲院霊堂】

元和九年(1623)近江彦根藩主井伊直孝が亡父直政の菩提を弔うために建立した境内仏堂の一であるが、むかしの六原葬場に設けられた私堂の名残をとどめるものとして注目される。

【岡本豊彦墓】

松村呉春に師事し、景文とともに四条派の双璧とされた江戸後期の画家で、文人画風な山水画を得意とした。
門下に塩川文麟・柴田是真等がある。

■ 六道珍皇寺 ろくどうちんこうじ

俗に「六道さん」と称し、お盆の精霊迎えに参詣する寺として親しまれている。

『伊呂波字類抄』によれば、当寺ははじめ愛宕(おたぎ)寺と称した。
土俗の説では山城国分寺の後身だという。
弘法大師は幼少の頃、その師慶俊僧都に従い、久しく当寺に住したことがあり、参議小野篁が檀越となって開創したとつたえる。
またそれにつづいては同書は、当寺の鐘が慶俊僧都の鋳造したものといわれるのは、かかる伝承によるものであろうと述べている。

また一説に東山阿弥陀ケ峰(鳥部山)山麓一体に住んでいる鳥部氏一族の建立した鳥部寺(宝皇寺)の後身ともいわれ、あるいは承和三年(836)山代淡海等によって国家鎮護の道場として建立されたともいわれ、諸説あって明らかでない。
かつて境内付近から奈良時代の瓦を出土したことがあって、平安遷都以前、すでにこの付近にあった古い寺を継いだことはほぼ間違いない。

珍皇寺はもと真言宗東寺に属したが、中世の兵乱に荒廃し、南北朝時代の貞治三年(1364)建仁寺の僧良聡によって再興された。
現在は建仁寺の境外塔頭となっている。

【迎え鐘】
鐘楼にかかげる銅鐘をいい、毎年盂蘭盆にあたって精霊を迎えるためにつくので、迎え鐘という。

この鐘は古来、その音響が十万億土にまでとどくと信じられ、亡者はそのひびきに応じてこの世によびよせられるといわれる。
鎌倉初期に成立した説話集『古事談』によれば、この鐘は慶俊僧都がつくらしめたという。
あるとき僧都が唐国に赴くにあたり、この鐘を三年のあいだ、地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ったが、留守を守る寺僧は待ちきれず、一年半ばかりたって掘り出して鐘をついたところ、はるかに唐国にある僧都のところまで聞こえたので、
僧都は「あの鐘は、三年間、地中に埋めておけば、その後は人手を要せず、六時になると自然に鳴るものを、惜しいことをしてくれた」
といって、大変残念がったという。
『今昔物語』巻三十一にも同工異曲の物語をかかげているが、これには寺を愛宕寺とし、慶俊僧都を鋳物師としている点が違っている。

いずれにしろ、唐土にまでひびく鐘なら、冥土にまでとどくだろうと信じられ、かかる「迎え鐘」となったものであろう。
但し現在の鐘は明治四十三年(1910)の鋳造である。
因みに「迎え鐘」に対して、精霊を冥土に送るための「送り鐘」というものがある。
場所は、寺町三条上がる東側 金剛寺(俗称矢田地蔵) 
ここにも小野篁にまつわる伝説がある。

【篁 堂】

右手に笏を持った等身束帯姿の小野篁の立像(江戸)を安置し、傍らに閻魔王坐像(室町)や善童子・獄卒鬼王の像を安置する。

小野篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の役人といわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説がある。

かかる伝説は大江匡房の口述を筆録した『江談抄』がもっとも早く、次いで『今昔物語』や『伊呂波類抄』、『帝王編年記』、『三国伝記』等の説話集にみえ、室町時代に至って、篁の冥官説はほぼ定着したものとみられる。
さらに江戸時代になると、篁が冥土に至る往路は当寺からとし、帰路は嵯峨大覚寺門前町(六道町説もあり)といわれた。
これがため六原を「死の六道」、上嵯峨を「生の六道」と称した。
その発生の因については明らかにしないが、珍皇寺の小野篁建立説と冥土に至る鳥辺野墓地とがむすびついたものであろう。

因みに本堂背後の庭内には、篁が冥土へ通ったという井戸があって、その傍らには彼の念持物を祀った竹林大明神という小祠がある。

【精霊迎え】

毎年八月十五日の盂蘭盆に、各家庭に於いて先祖の霊を祀、報恩供養が行われるが、その前の八月七日から十日までのあいだに、精霊を迎えるために当寺に参詣する風習がある。
これを「精霊迎え」、または「六道詣り」ともいう。

当日は花屋で高野槇を買い求め、迎え鐘をつき、本堂で経木に戒名をしたため、これを石地蔵の前の水盤につけて水回向をする。

古来、精霊は槇の葉に乗って冥土よりくるものと信じられ、これを家へ持ち帰って井戸の中に吊るしておき、十三日に仏壇に供える。

槇を用いるのは、むかしこの地が槇の林であったからとも、槇は地中で腐らないからだともいわれ、あるいは当寺の開基弘法大師の高野山金剛峰寺に因み、高野山の槇を連想したものだろうともいわれ、諸説あってあきらかにしない。

かかる信仰と習俗は、地蔵信仰のさかんとなった室町時代以降のことで、とくに江戸時代にはもっとも隆盛を極めた。
清水寺の「千日詣り」や六波羅蜜寺の「万灯会」等と重なって、境内界隈は大いに賑わう。

【六道の辻】

珍皇寺の門前、松原通に面する轆轤町と新シ町とのあいだを南に至る丁字路をいい、その南をもと六道大路(今はその名はない)と称した。
ここは六道の分岐点ともいうべく、いわばこの世とあの世とをむすぶ交通ターミナルにあたる。
西福寺側をこの世、そのすぐ東側からがあの世といわれる。
かかる伝説が生まれたのは、ここが鳥辺野の葬場に至る道筋に当たることと、小野篁の地獄行きとが付会されたからであろう。
謡曲『熊野』にうたわれたごとく、その名は中世以来のものであることが知られる。

【幽霊飴】

珍皇寺門前の飴屋(お茶の販売店の看板の方がわかりやすい)にて製造販売する麦を原料とした切り餅をいい、自然なままの素朴な味であって、六原の名物の一に数えられる。

口碑によれば、むかし、いずこの人とも知れぬ痩せ衰えた女が赤ん坊を抱き、三文の飴を買いに来ることが数日続いた。
しかし、あくる朝になって銭函をあけてしらべてみると、三文の銭が不足し、代わりに三枚の木の葉が入っているのに店のものが不審を抱き、ある夜、女の後をひそかにつけて行くと、鳥部野墓地の中にてその姿を見失った。

そこで翌日、寺の住職を尋ねてそのことを物語ったところ、住職は近日、臨月の妊婦を葬った墓へ案内し、ねんごろに念仏回向をした。
ところがふと土中から赤ん坊の啼き声がするのを聞き、急いで墓を掘り起こしてみると、腐乱した母の死体のそばに赤ん坊が飴をしゃぶって生きているのが見つかった。
しかもその頭髪は真っ白であった。

住職は死してなお子を思う母の執念が、幽霊となって子を養ったものとふかく感動し、赤ん坊を引きとって養育した。
その子はのちに成長し、世に名僧とたたえられるに至った。
また飴も、子育の幽霊飴とよばれて世にもてはやされるに至ったという。

上は「赤子塚伝説」といい、六原の伝説だけではなく、全国各地にいくつもその例がみられ、しかもこの伝説は墓地に付随して発生するところにある。

 注)愛宕寺は時代によって三箇所に移ったことが知られる。
 注)赤子伝説については、柳田国男の「赤子塚の話」(第十二巻)に多くの例話が記載されている。

【西福寺】

六波羅蜜寺の北側、轆轤町にある。

寺伝によれば、慶長八年(1603)蓮性上人が創建し、その後、享保十二年(1727)関白二条綱平が亡父のために再興したと伝える。
桂光山敬院と号し、浄土宗鎮西派称名寺に属し、四十八願巡りの第三十一番札所である。

因みに八月八日からの盂蘭盆の精霊迎えには、堂内に「六道絵」や「九相観の図」を掲げて説教が行われる。

【愛宕念仏寺址】

松原警察署の東(弓矢町)とつたえ、一個の自然石碑が建っている。
大正十一年(1922)右京区奥嵯峨に移った。

【天狗の酒盛り】

むかし門前の弓矢町に住む祇園の犬神人 いぬじにん(弦召 つるめそ)達が、正月二日の夜、当寺の客殿で行った酒宴をいう。
転供 てんぐ の酒盛りともいわれるが、その騒がしさがあたかも天狗の酒盛りの如きであったから、この名が生まれた。
その首班たるものは倍木を以って舞い、宴が終わってのちに各堂に上り、牛王杖を以って門扉や床、壁等を叩き、法螺を吹き。太鼓を打ち、そのあいだに寺僧は牛王札を貼った。
これは悪鬼を撰うためであって、当日は一般の参詣者にも火伏の牛王札が授与されたと伝える。

【弓矢町】
現在の、松原警察署のあるところ。

この地は、祇園感神院(今の八坂神社)に隷属していた犬神人達の近世に於ける居住地で、かれらは弓矢を製作し、市中に「つる召せ」とよびながら行商をしたので、「つるめさん」ともよばれた。

その起こりは古く、延久二年(1070)後三条天皇の荘園整理にあたって、四条以南、五条以北の鴨川左岸の河原田を祇園社の管領に移された時、社恩として非人に宛てられたのが、犬神人がここに定着する端緒となった。
かれらは祇園社の神事祭礼に従事し、神幸路の清掃や警固などに当たるのを恒例とした。
はじめは祇園社氏子地域内だけであったが、のちにはひろく市中にまで勢力を伸ばし、死体の処分や墓地の管理をも行った。
いわば「私設清掃局」ともいうべきものである。
しかし祇園社の勢力衰退によってかかる特権も失われ、のちには非人町と化し、明治にはまったく消滅した。
この伝統の遺風は今なお受け継がれ、祇園祭の警固役には、当町から奉仕する習わしになっている。

【物吉村址】

上同所より西へ100メートル、松原通りの北側と伝える。

物吉村とは非田院に属した癪病患者を収容する施設をいい、一に「かったい村」ともよばれた。
西南に向かって入り口があり、溝を隔てて黒い板塀がその周囲を取り囲み、所々に覗き窓があって、患者が覗いたといわれる。

その経営維持費は、毎年正月や五節句に限り、市中や山城国一円に於ける勧進によって賄われた。

このとき彼等は二人宛一組となり、頭から黒い頭巾をかむり、眼だけ出し、背中に大きな籠を負い、手には長い竹箸をもち、与えられたものを巧みに箸ではさんで背中の籠に入れた。
かれらが四ツ辻に立って「ものよーし」と叫ぶと、町の人々はあわてて鳥目を包んで門口に立つが、もし用意しない家があると勝手に入り込み、玄関先にあるものは何であろうとつまみ取ったといい、それに対して文句はいえなかった。

物吉村は寛文八年(1668)頃に開設されたが、患者の中には無頼の徒が多く、町の人々の顰蹙をかった。
ために明治四年(1871)に廃止され、患者はその生国や縁故者のもとに送還し、土地は宮川町五丁目と弓矢町に編入された。

清円寺はこの物吉村を管理する浄土宗の寺で、洛陽阿弥陀廻りの第三十二番札所にあたる。
境内には鴨川の氾濫を避けた晴明社があり、寺の鎮守社とされた。
また社傍に見事な紅梅の老木があって、花のころは美観を呈したという。

 梅が香や乞食の家ものぞかれる
とは、俳人其角が在世した江戸初期頃の物吉村をうたったものである。

今はすべて繁華な商店街となり、往時の面影をとどめるものは何もない。

【晴明社址】

松原橋東北辺にあって、現在の松原通宮川筋東入る北側、宮川筋五丁目を旧地とつたえる。

平安時代の陰陽師安倍晴明が、鴨川氾濫のなきことを祈って法城寺と号する一宇の寺を建立した。
そのころは、水去って土となるという義で、水を防ぐのを主願とした。

晴明の死後、その遺骸は当寺に葬ったといわれ、廃寺後も墓のみがのこり、世に晴明塚と称したが、寛文年間(1661−73)宮川筋の新道開設に伴って塚は破却され
そのあとに小祠をたてて晴明社と称した。
江戸時代には付近の物吉村の清円寺が管理にあたったが、明治初年に廃絶した。
遺物は中京区裏寺町の長仙院に移された。
現在、長仙院に晴明像を安置するのはかかる由縁によるものである。
一説に三条大橋東入る上がる、超勝寺門前町の心光寺に移したと伝えるが、あきらかにしない。

因みに一条戻橋の畔に晴明神社があり、また大和大路一ノ橋(本町通十一丁目)に晴明屋敷、同三ノ橋(同十九丁目)に晴明塚があった如く、とかく橋畔には晴明に関する遺跡伝説が多い。
これは晴明を始祖と仰ぐ唱門師 しょうもんじ(下級陰陽師)が往来の多い街道筋の橋畔に家を構え、卜占や加持祈祷を行ったからによるものであろう。

【十禅師ノ森址】

むかし鴨川の松原橋を東へ渡った南側に一叢の森があり、その中に日吉山王七社権現の一である十禅師を祀った小祠があったので、十禅師ノ森とよばれた。
また、弁慶社ともよばれた。
この伝説の因って来る理由は、室町時代の頃につくられた御伽草子『橋弁慶』に負うところが多い。
詳しくは読んでください。

この神社は明治維新に際して廃社となり、森も伐り払われてしまった。

【寿延寺】

大黒町通松原下がる西側いあって、俗に「洗ひ地蔵」とよばれる浄行菩薩石像を祀った日蓮宗の寺。
ここは十禅師ノ森址とつたえ、庫裡の庭先には「五条十禅師宮旧蹟」としるした石碑があり、また、近年境内に十禅師社が復興された。

他に「物見の松」とよばれた大木があって、牛若丸がこの木に登って四辺の様子をうかがったといわれ、またこの付近の民家には「弁慶血洗いの井」と称する井戸もあったと伝えるが、今はすべて民家の密集するところとなって廃絶した。

【平氏六波羅邸址】

北は今の松原通より南は正面通まで、西は鴨川より東は東山山麓の小松谷におよぶ広大な地域に当たると伝え、六波羅蜜寺や大仏方広寺等はこの中に含まれる。

はじめ平正盛(清盛祖父)は死後の極楽往生を願って一宇の三昧堂を愛宕寺内に建立したのが平氏六波羅邸の起こりで、それは天永元年(1110)の頃であった。
この堂はのちに常光寺とよばれた。
これが機縁となって、正盛の子忠盛はその付近に邸宅を構え、さらに清盛に至って大いに拡張された。
長門本『平家物語』によれば
 六波羅とてののしりし所は、故刑部卿忠盛の代に出し吉所也。
 南六波羅が末、賀茂河一町を隔てて、元は方一町なりしを、此相国(清盛)の時造作あり。
 家数百七十余宇におよべり。
 是のみならず、北の鞍(車)馬路より始めて、東の大道を隔てて(辰巳角)小松殿迄二十余町におよぶ迄造作したり
 (中略)
 眷属の住所こまかにかぞふれば、五千二百余宇云々。
と記している。

文中の小松殿とは平重盛の居館をいい、現在の東山馬町から東の小松谷に当たる。
また清盛自身の居館については文中にはないが、泉殿と称した。
その位置は明らかにしないが、現在の豊国神社西辺とつたえる。

また池ノ大納言頼盛(清盛弟)のそれは池殿と称し、六波羅蜜寺の西南、池殿町がその旧地と伝える。
ここは高倉天皇の御座所ともなり、中宮建礼門院平徳子じゃここで皇子(安徳天皇)を降誕した。

清盛のいま一人の弟、門脇宰相教盛の館は、六波羅邸の惣門の脇にあったから、門脇の宰相といわれた。
池殿町より東、現在洛東中学校のある門脇町がその旧地とつたえ、同校門前にはその旨をしるした石碑が建っている。

その他、邸内には厳島神社を勧請した鎮守社や忠盛、清盛、重盛を葬った墓所があった。
この三墓は寿永二年(1183)の都落ちに際し、遺体を掘り出し、邸内の法領寺の仏前に列べ、火を放って寺とともに焼き、もとの墓所は整地したことが長門本『平家物語』にみえる。

平家一族の滅亡後、旧地は荒廃するに至ったが、建久元年(1190)源頼朝が上洛するに際し、池殿を修築して宿所とした。
さらに承久の乱後、北条政権がここに六波羅政庁を設けるに至ったため、平氏を偲ぶに足るものはなく、今は僅かに三盛町・門脇町・池殿町などの町名にとどめるにすぎない。

【六波羅政庁】

六波羅政庁とは、平氏六波羅邸の旧址に設けられた鎌倉幕府の出先機関をいい、南北二庁からなっていた。
単に六波羅とも、または六波羅守護とも称した。

六波羅政庁は、承久の変によって京都に攻め上がった北条時房・泰時が駐在し、もっぱら戦後処理にあたったのが起こりで、それより京都の警備と公家の監視にあたり、また近畿・西国における幕府の政務を管掌した。
その長を探題と称し、北条氏一族のなかの有力者を以って任じた。

北方庁は鴨川の松原橋を渡った北御門町の地といわれ、北門があったところから町名となったとつたえる。
また南方庁は平氏泉殿址にあって、今の方広寺や京都国立博物館に近い地にあったといわれる。

両庁は承久三年(1192)の開庁以来、幕府の推進機関として百四十余年のあいだ、この地にあったが、元弘三年(1333)五月、後醍醐天皇の討幕軍によって滅亡した。

【若宮八幡宮】

当社は天喜元年(1053)後冷泉天皇の勅願により、源頼義が六条醒ヶ井にあった邸内に勧請した鎮守社で、はじめ六条八幡とも佐女牛八幡とも称した。
爾来、源家をはじめ足利歴代将軍の崇敬あつく、殿舎も壮麗を極めたが、応仁の乱に荒廃した。

天正十一年(1583)豊臣秀吉によって東山区茶屋町に移転したが、方広寺大仏殿の建立に当たって翌十六年現在の地に三転した。

現在の社殿は江戸初期の承応三年(1654)の再建で、本殿には応神・仲哀両天皇と神功皇后、相殿に椎根津彦命(陶祖神)を奉祀する。
また本殿玉垣内にある八角形の石造水船(南北朝)は、足利義満の寄進とつたえ、側面に至徳三年(1386)の銘があり、白河楽翁の『集古十種』にも収蔵されて有名である。

【陶器祭】

毎年八月七日から十日まで行われる。
この祭は陶祖椎根津彦命を祀る祭礼で、氏子の陶磁器業者が中心となり、全国各地から業者が集まる。
その数は四百余軒ともいわれる。

余談
北側の店のほうがお勧めと聞いたことがありますが・・・・・。

以上、六原地域(六波羅)



 
 
 
 

- back -