■■■ 歴史散歩
 東西路

 一条通

平安京の一条通りにあたる。
東は烏丸通りから西は京都学園高の東二筋目に至る。
全長約 3.2キロ

平安京造営時に開かれた一条大路。
中世には「一条の辻」といわれ、江戸中期まで、こう呼ばれた。

道幅は十丈から十二丈(約30メートル〜36メートル)という記録がある。
平安京造営時は北限の東西大路で、実質的にも形式的にも都城の北を守護する大路だったが、平安末期には、大路の北が貴族たちの邸宅に開かれて、一条大路も、北限の大路としての性格を変えていく。

南北朝以後は、大路の東端の東洞院土御門殿が御所となり、やがて周辺に公家邸宅が集合する。
『京都坊目誌』にも「始め京極に通ぜしが、土御門皇居造営に際し、烏丸以東は皇居地に入り閉塞す」とある。

室町期に二条通を境に上京と下京にわかれるようになると、一条通室町周辺は「札の辻」と呼ばれ、高札や町触れが掲げられるようになる。

里程の起点が三条大橋となる江戸中期まで、この一条通室町周辺が道路の起点となったほどであった。
貞享三年(1686)と元禄四年(1691)版の「都大絵図」には「一条札の辻より方々への道之程」と記されている。

御所の周辺とあって御所の西側には、烏丸通の北は一条通りから南は中立売通あたりまでに「禁裏六丁町」が形成される。
成立時期は不明だが、天文三年(1534)頃の記録(『言継卿記』)にすでにみえている。
禁裏への労力奉仕や掃除、警護ばかりでなく、医師など御用をつかさどった人々が住んでいた町組みである。
このあたりの町名も「広橋殿町」「西日野殿町」「一条殿町」と、高雅な名を残している。

一条通りといえば、やはり「一条戻橋」である。
堀川に架かった橋で「戻橋」の名がついたのは、意外と古く延喜年間(901〜923)といわれる。

醍醐天皇の文章博士として学識が知られた三善清行は、その才能を惜しまれながら延喜十八年(918)に亡くなった。
葬儀が行われ、棺が一条大路の堀川に架かった橋に差しかかったとき、馬を飛ばして紀州熊野から駆けつけたのが、子の浄蔵だった。
ようやく野辺の送りに間に合ったのだった。

浄蔵の熱心な祈りが父に通じたのか、あたりは闇に襲われ、光が輝いたかとみると、棺の中の清行と、駆けつけた浄蔵が話しているのを人々は見た。
誰いうとなく堀川のこの一条橋を、「戻橋」といったという。

この故事にあやかってか、先の戦争では、出征兵士を戻橋で送る風景が多く見られたという。
「かならす戦地から戻れるように・・・・・」という留守家族の真剣な願いからだった。

源頼光四天王の一人、渡辺綱の鬼女退治、河竹黙阿弥作の『戻橋恋角文字』も、戻橋が舞台である。

一条大路が、華やかなハレ(晴)の通りとなったのは、賀茂祭(葵祭)の当日だった。

賀茂祭の起源は六、七世紀にさかのぼるが、平安京の宮廷の祭儀となるのは、弘仁年間(810〜824)のことである。

華やかな祭は『源氏物語』や『和泉式部日記』『今昔物語』などにも描かれる。

『源氏物語』では「葵」の巻に、祭り当日、行列に参加した光源氏をめぐって、この一条大路で、正妻の葵上と愛人の六条御息所が見物場所を車で争うシーンがある。
この車の争いは、六条御息所が生霊となって葵に取り憑くという凄惨なドラマに展開していく。
能の「葵上」は、この『源氏物語』の「葵」の巻にモチーフを得ている。

祭の行列は内裏から歩行して一条大路を通り、下鴨神社に入ったので、一条大路には見物衆が集まった。

もっとも清華をきわめたのは、摂関政治の盛んな時期であった。
摂政藤原道長は一条通りに桟敷を設けて宴を繰り広げた。
桟敷や見物席は、一条大宮の辻のほかに一条新町、一条烏丸、一条東洞院の辻々に固定化していたようである。

メモ 東から

虎屋黒川(明治維新の車駕東行には、天皇に随行した)・富岡鉄斎旧邸(室町下ル東側)・黒田如水邸址(猪熊通西、南側)・名和長年戦没地(大宮通下ル東側)・大将軍八神社(天神通西、北側。桓武天皇が平安京造営にあたって大和春日から勧請し、王城鎮護の願いを込めて都城の四方に祀った社と伝えるが確証はない)・椿寺(西大路通一筋下ル東入ル・五色の八重散椿で名高い。天野屋利兵衛・夜半亭巴人の墓がある)

 二条通

平安京の二条大路にあたる。
東は白川通りから西は堀川通りに至る。
全長約 3.5キロ

今でこそ二条通は幅六メートルほどのせせこましい道路だが、平安京の二条大路は最大東西路線で道幅は五十一メートル、南北の朱雀大路の八十五メートルに次ぐメーンストリートであった。
平安京大内裏の南限にあたる通りで、禁裏と世間とを巨大な空間で隔離する意味もあったようだ。

二条大路の左京に沿って穀倉院、木工寮、雅楽寮など内裏御用の官庁街や冷泉院、二条院、東三条院、二条殿など貴族の邸宅が並んでいた。
院や殿は平成の現在、京都市が戦後に建てた駒札とか石碑以外に当時を思わせるものは、まったくといっていいほどない。

白川通の岡崎橋から始まる。
東山山麓の別天地だけに明治以来、一代で財を成した人が消長を繰り返してきた。
公共の寮になっているところも、かつては風雲児が傲然と居を構えた跡といえる。

京都市動物園の北側で、この一帯は岡崎法勝寺町という。
法勝寺は、いわゆる平安後期の六勝寺の筆頭。
白河天皇が創建した寺で、天台座主慈円の『愚管抄』に「国民の氏寺」と感嘆されたほど。
近入りの毘盧遮那仏の金堂、九体阿弥陀堂、高さがなんと八十二メートルもある八角九重の塔(現存最古の東寺五重塔は五十四・八四メートル)は京都のどこからでも見える壮麗奇抜なものだった。
承元二年(1208)の落雷や相次ぐ戦乱で、今は小さな礎石が一つ残るだけだ。
国立近代美術館のあるあたりには、堀川天皇の尊勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、同中宮・待賢門院璋子の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺、近衛天皇の延勝寺など「勝」の字がつく六勝寺がひしめいていた。
今は地名に残るだけだ。

二条通りの公共施設にはよく似た経緯がある。
京都市動物園は明治三十六年、大正天皇の御成婚を祝して建てられ、昭和二十一年、駐留軍に接収。
京都市美術館は昭和八年、昭和御大典祝賀事業で建てられ、これも米軍に接収された。
岡崎グラウンドも昭和御大典事業であったが、戦後、米軍のジープで埋め尽くされた。
勧業館、岡崎公会堂もやはり米軍に接収された。

平安神宮は平成六年で創建百年。
岡崎はそれまで田園地帯で、岡崎の歴史はせいぜい百年余りしかない。
平安の六勝寺が痕跡も残さず歴史から消滅した跡地だけに感慨深い。

河原町二条南の日銀京都支店を越えると急に狭くなり、寺町通に出る。
南東角の果物店八百卯は、夭折の作家梶井基次郎の傑作短編『檸檬』の舞台。

今はまったく跡形もないが、二条柳馬場東あたりに豊臣秀吉公認の二条柳町という遊郭があった。
応仁の乱でこのあたりは荒廃しきっていたのを遊郭開発で町おこしをはかった。
これはのち二条城造営で六条柳町に移転、さらに島原に再移転した。

二条両替町東入ル北側には「薬祖神祠」があり、大国主命、神農、ヒポクラテスという日中とギリシャの薬に縁の深い神を祀る。
享保七年(1722)二条組薬種仲間が幕府に公認された。
享保九年の京都町奉行所のお触れによると二条烏丸東の伊勢屋市右衛門、烏丸西の木瓜屋章治の二軒が和薬種問屋に指定され、この二軒以外から仕入れた場合には厳罰に処せられた。

二条通りは二条城に突きあたるが城下町ではない。
城そのものが戦時を予想したものではなく、家康のゲストハウス。
朝廷の御所に対する幕府の権威・二条城だ。
寛永三年(1626)九月六日、後水尾天皇の二条城行幸に際して幕府の総力をあげた歓迎ぶりは「今が弥勒の世なるべし」といわれたほど。
御所から二条城までわずか二・四キロに四千五百人が警護、莫大な金銀財宝攻めの歓待に後水尾天皇は二条城に四泊もした。

二条通は『毛吹草』『京羽二重』などを読むと職人尽くしの町である。

メモ 東から

真々庵(白川二条下ル・染谷寛治旧邸)・洛翠荘(白川二条下ル・藤田伝三郎旧邸)・織宝苑(岡崎橋突き当り・岩崎小弥太郎旧邸)・恰園(岡崎橋白川を北へ、一筋目を東へ・細川家別邸)・法勝寺址(動物園北東角、二条通北側付近)・法勝寺九重塔址(法勝寺南向かい付近)・最勝寺址(二条通岡崎道西北角付近)・円勝寺址(二条通岡崎道南西角付近)・尊勝寺址(二条通神宮道北西角付近)・成勝寺址(京都会館東端二条通南側付近)・延勝寺址(二条橋東詰め南側付近)・二条柳町(遊郭)址(二条麩屋町西入ル南側)・京都ハリスト正教会(柳馬場通二条上ル東側)・若林強斎望楠軒址(堺町通二条下ル東側)・雨森敬太郎薬房(車屋町二条下ル東側)・三井越後屋京都本店記念庭園(室町通二条西北角)・東三条殿址(釜座通二条下ル西側)・閑院址藤原冬嗣別邸(小川通二条下ル西側)・松永昌三講習堂址(東堀川通ANAホテル)

 三条通

平安京の三条通にあたる。
東は川端通りから西は西土居通東入ルに至る。
全長約 3.6キロ。
西へ嵐山渡月橋付近までも三条通といわれる。

昭和六十年に京都市から「歴史的界隈景観地区」に指定されたのも、変化に富んだ景観美を町づくりに生かしていこうという試みからである。

三条通は、平安京の東西の主軸をなした三条大橋。
王朝時代には、東三条殿、朱雀院といった貴族の邸宅がずらりと並んだ。
天正十八年(1590)に豊臣秀吉が三条大橋を架橋して東海道の起点(終点)となるや、三条大橋は表玄関となり、西詰めはさながら宿場町の様相を呈した。
『京雀』(寛文年間)に、こんな記述がみえる。
「大橋小橋のあい、此町旅人の宿かすとにや。古より旅人に宿かせども、二夜とは供せざる定めなり。北行には布をさらす家もあり、又柳かうやくあり」

明治十六年に刊行された商家尽くしの『都の魁』にも、銅版画でずらり並んだ旅館が描かれている。

京に入る他国の人々は、この三条通を伝って洛中に誘い込まれた。

橋の西詰めには、昔の宿場町の面影を残して旅館が並んだ。
維新前夜の騒乱の舞台となった池田屋をはじめ、釘抜屋、萬屋、近江屋、目貫屋・・・・・。
今は近江屋と加茂川新館がわずかに残るだけ。

京土産は、十辺舎一九の『東海道中膝栗毛』にも同じ屋号で登場する木彫り人形店をはじめ、近松門左衛門作『浦島年代記』に「高麗も唐土も及ばじ」とみえる京名産随一の「三條本家みすや針」が河原町西の商店街の中に、装いを新たに並ぶ。
明治七年には、京都郵便電信局(現 中京郵便局)が高倉通の角に建ち、三十年代には焼失したため再建された京都郵便局と日本銀行京都支店(現 京都文化博物館・重要文化財)が、烏丸通にはまた、第一勧業銀行京都支店(現 みずほ銀行)といった時代の先端をいく煉瓦建築が建てられる。

大正三年には柳馬場通角に旧日本生命京都支店も建設される。
旧日本銀行京都支店、第一勧業銀行は、東京帝国大学工科大学長で、日本建築学会会長を務めた辰野金吾の設計になる。
京都郵便局の設計は、三橋四郎と吉井茂則になる。

元治元年(1864)の創業という足袋の老舗「分銅屋」など、近世の伝統的な土蔵造りの表構えに軒暖簾や見世の表情を残した店舗とともに、いまも三条通を代表する景観をつくっている。

この三条通も、烏丸通から西洞院通間は、「中京衆」と呼ばれた京商人の町の懐である。
室町交差点は三条町と呼ばれ、京呉服を商う商家が並ぶ。
三条町の四つ角は「五色ケ辻」の名もある。
「千切屋百軒、誉田屋九十九軒」と呼ばれて、その分家、別家の数を誇った千切屋の店々の壁が五色に塗り分けられていたのが由来だ。

メモ 東から

釜座大西家(三条通釜座南側)・染織の館(三条通御前東入ル南側)

 四条通

平安京の四条大路にあたる。
東は東大路通りから西は長福寺の西に至る。
全長約 7キロ。
西へ松尾橋の西までも四条通といわれる。

四条通は東大路通の祇園八坂神社の楼門から始まる。
楼門の石段にちなんで京都の人は「石段下」と呼ぶ。
ここからほぼまっすぐに西進し、右京区梅津中村町の臨済宗南禅寺派長福寺の西で終わる。
この路線は市道嵐山祇園線だが、一般の京都市民は、四条通は八坂さんに始まって松尾さんの鳥居で終わると感じている。
八坂さんは東山をバックにし、松雄さんは西山を背にする。
松尾大社の大鳥居は戦前に倒壊したままだったが、平成六年の平安遷都千二百年を記念して五十年ぶりに再建される。
高さ十四メートル、京都では平安神宮に次ぐ大鳥居。
八坂と松尾が朱で結ばれるのだ。

四条通にはいくつもの顔がある。
祇園祭りの通り、花街、芝居興行、納涼の鴨川、百貨店と老舗、金融と証券、京都画壇四条派の歴史、大学から重工業地域までさまざまだ。

四条花見小路南角に有名なお茶屋「一力」がある。
四条通に入り口があったが、大正四年、市電開通で花見小路側に変わった。
四条通には竹矢来と赤い土壁、一見のお客には無縁の老舗だ。
曲亭馬琴の『羇旅漫録』(1802)には祇園の大楼として一力、井筒、扇九などをあげ、忠臣蔵七段目の道具立てのごとし、と形容している。

一力は万亭とか万春楼とも呼ばれ、「万」の字を一と力に分けて一力と読む。
大石内蔵助の故事に確証はないが、四十七士の木像、大石愛用の「初音三味線」があり、毎年三月二十日に大石忌がある。
大石が無念の切腹で果てたのは1703年。

鴨川の四条大橋の東南に歌舞伎の「南座」がある。
鴨河原は夕涼みや四条芝居、のぞきからくり、曲芸、掘っ建ての茶屋などがあり、江戸時代から歓楽の場。
出雲阿国と江州浪人名古屋山三郎が組んで男女立会いの狂言を興行したのが歌舞伎の元祖だ。
今から三百数十年前の話だ。
『太平記』によると貞和五年(1349)六月十一日の四条通河原の勧進田楽に四千人が集まり、桟敷が崩れて死者数百人を出したという。

四条大橋北東詰に阿国の像が建てられ平成六年二月、除幕された。
山崎正義京都教育大学名誉教授の作品で、高さ二メートル。
三条大橋の高山彦九郎、五条大橋の弁慶牛若丸とならび、京都三名橋に像が揃った。

南座は日本最古の劇場。
元和年間(1615〜24)四条河原に七か所の櫓が公認され、常設の芝居小屋ができた。
火災、洪水などで数が減り、幕末には南座と北座のみとなったが、明治二十六年、北座も廃止され、南座のみとなった。
年末の顔見世興行は有名で、役者の名前を掲げた勘亭流のまねき看板は師走の風物詩だ。

南座の東に目疾地蔵(浄土宗仲源寺)がある。
安貞二年(1228)の鴨川洪水のときに雨止み祈願が行われ、後堀河天皇の勅願寺となったという。
雨止みが「めやみ(目疾)」となり、眼病に霊験があると信じられている。
重要文化財の千手観音がありる。

四条大橋は三条、五条大橋と並んで有名。
八坂神社の「社家記録」によると、永治二年(1142)に架橋され、祇園八代への参詣道のため「祇園橋」と呼ばれた。
三条、五条の橋が地元による建造の町橋なのに対して、四条大橋は江戸幕府直営の公儀橋であった。
現在の橋は昭和四十年、公募による設計で高欄が新設された。

寺町通東南角に八坂神社の御旅所がある。
官(冠)者殿社は俗に土佐房昌俊の霊を祀るといわれる。
土佐房は、源頼朝の密命を受けて平家を滅ぼし、御白河天皇から検非違使に任じられ有頂天の源義経(頼朝の実弟)暗殺を図った。
義経が堀川の六条の館にたった三人でいるところを八十騎で襲ったが失敗、三条河原で首を刎ねられた。
土佐房は義経に「京都見物に来ただけ」と嘘をついていた。
官者は間者(スパイ)に通じ、京都ではあくどい商売をしても、ここにお参りすると許されると信じられている。
誓文払いの神様だ。

メモ 東から

円山応挙宅址(四条堺町南側付近)・呉春(松村月渓)宅址(四条東洞院上ル東側)

 五条通

平安京の六条坊門小路にあたる。
東は五条坂から西は西大橋東詰めに至る。
全長約 6.1キロ

豊臣秀吉は伏見城に続き伏見街道の東山に方広寺大仏殿の造営にかかった。
平安京の六条坊門小路(現五条通)の鴨川に橋が架かっていなかった。
このため、五条(現松原通)の大橋を移建した。
大仏橋とか五条橋と呼ばれ、六条坊門小路はやがて五条通と呼ばれるようになる。

五条通は京都最大の東西路線で幅五十メートルもある。
昭和十九年から空襲による延焼防止と軍事目的のため、五条坂から堀川まで千二百軒が強制疎開され、現在の大動脈につながった。
烏丸以東が国道一号と八号、烏丸〜堀川間は一号と九号、堀川以西は九号と重なる。

五条通は清水寺門前の五条坂に始まる。
東大路のところが西大谷(大谷本廟)。
西本願寺の廟所で親鸞聖人の遺骨を安置する。
門前の皎月池には安政三年(1856)建造の円通橋(眼鏡橋)が架かる。

五条坂の南の日蓮宗実報寺には人形浄瑠璃「近頃河原逢引」にもとりあげられた「お俊・伝兵衛」の墓がある。
近くの本寿寺には二条城の普請奉行菊池九郎と祇園の茶汲み女お染の比翼塚がある。
歌舞伎「鳥辺山心中」で知られ、境内には四世中村歌右衛門、同実川延三郎ら歌舞伎俳優の墓が多い。
五条坂の北には安祥院の地蔵堂があり、「日限地蔵」として有名。
日を限って祈願すれば望みがかなうといわれる。
境内には安政の大獄で逮捕され、獄中で病死した梅田雲浜の墓がある。
東山五条上ルを遊行前町と呼ぶのは、ここに時宗歓喜光寺があったため。
時宗は一遍上人が開祖で、一遍は全国を遊行して念仏を広めたため遊行上人と呼ばれ、時宗を遊行宗ともいう。

五条橋東六丁目にあった浄土宗の尼寺袋中庵は昭和四十九年、左京区八背に移転した。
開基の袋中は天正年間(1573〜92)、琉球に渡り念仏を広めたことで有名で、自筆の「琉球神道記」は重要文化財。

五条東大路西入ル北側の若宮八幡宮は八月の陶器祭で有名。
陶祖椎根津彦命を祀る。
若宮八幡宮は後冷泉天皇の勅願により源頼義が創建、頼朝とも縁が深い。
境内の石造り水船は花崗岩をくりぬいたもので足利義満の寄進といわれ、至徳三年(1386)の銘がある。
現在、参詣者の手水鉢に使われているのは江戸時代に模造したもの。

五条大橋西詰めに牛若丸と弁慶の像がある。
建てられたのは昭和三十六年と新しい。
噴水は天気の日には虹がかかる仕掛けになっている。

牛若丸、弁慶の伝説は五条橋の上の対決だが、その五条橋は現在の松原橋にあたる。
だから秀吉以前の文学作品に出てくる五条橋はすべて現在の松原橋となる。

明治十一年、五条大橋の青銅の擬宝珠を取り払ったが、明治天皇がここを通られたとき「あの擬宝珠は?」とお尋ねになり、旧態に戻したという。
現在の五条大橋は昭和三十四年に改修したもので、長さ六十七メートル。

五条河原町は江戸初期、宮川町の色子宿に近く、若衆踊りの興行が行われた。
「都名所図会」には江州浪人名古屋山三郎と出雲阿国という風流女が五条河原橋の南で男女立会いの狂言を興行したとあり、『京雀』にも大橋の川端で人形操り芝居があり、太閤秀吉が五条大橋建設で繰り芝居を四条河原に移したとある。

五条大橋西詰の植え込みに「扇塚」がある。
ここは扇製造業者の多かったところ。
塚は美学者の故井島勉京都大学名誉教授のデザイン。
五条河原町東を御影堂町と呼ぶのは、京扇の先駆けとなった新善光寺があって御影堂と呼ばれたことによる。
平敦盛の側室であった蓮華院がこの寺に入り、老後の生活のため作った扇を皇室に献上したところ喜ばれ、「御影堂扇」と呼ばれた。
『京雀跡追』に「扇屋名物、五条寺町西入ルみえいどうのうち」とあり、境内には扇業者が多かった。
この寺は先の大戦の五条通強制疎開で滋賀県に移転、町名に御影堂町が残った。
御影堂は時宗の寺で坊舎に阿弥号をつけたことから、扇子業者で「○○阿弥」とつくのは御影堂扇の流れをくむ業者といえる。

メモ 東から

河井寛治郎記念館(五条通東山を一筋西へ南へ下がる東側)・河原院址(河原町五条下ル東側付近といわれるが、もう少し北東位置の説もある)・六条院址(堺町六条下ル西側付近)・慶滋保胤池亭址(五条室町西側付近)・六条柳町遊郭址(楊梅通新町東入ル南側付近)・山本亡羊読書室址(五条堀川上ル東側付近)・

 六条通

平安京の六条大路にあたる。
東は河原町通りから西は堀川通りに至る。
全長約 1.1キロ

西本願寺前を起点に東に延び、東本願寺の北の境をかすめて河原町通りまで延びた六条通。

江戸時代は「魚棚通」と呼ばれた。
貞享二年(1685)刊行の『京羽二重』に「此とをりうおや町あり」とあり、また宝暦十二年(1762)刊行の『京町鑑』には、「此通魚や多し故に是を下魚棚といふ」ともある。
文明年間(1469〜87)に荒廃し、天正年間(1573〜92)に再開されたと『京都坊目誌』は伝えている。

通り名は、西本願寺前にあった魚棚町に由来するのであろう。
ただ、魚棚町は、先の戦争での堀川通の強制疎開で削られ。現在は堀川通上に位置し、町とともに町名も消滅した。

一条 戻橋
二条 生薬屋
三条 みすや針
四条 芝居
五条 橋弁慶
六条 本願寺

京都の大路のシンボルを読み込んだ、こんな数え唄があるように六条通は、両本願寺を結ぶ通りだけに、その支配下に置かれた寺内町の中軸をなし、今もゆかりが多い。

本願寺が大坂天満から六条通堀川(現 西本願寺の地)に移転したのは、天正十九年(1591)。
移転には、ゆかりの職人たちもともに移り住んだ。
寺内町である。

『紫雲殿由縁記』によれば、寺内町は「天満より御供して直ちに京七条境内に住する輩多し、番匠、絵図師、仏具師、紀州巳来随附して今境内に家敷を給ふ」とある。

北は六条通、南は下魚棚通、東は新町通、西は大宮通を占め、町数六十一か町、人口一万人前後を数えたという。

慶長七年(1602)には、本願寺は十二世教如が徳川家康から烏丸六条に寺地を寄進されて東本願寺を分立させ、本願寺と同様に門前に寺内町を形成する。
東西の両本願寺にちなんで西本願寺の寺内町は「西寺内町」、東本願寺の寺内町は「東寺内町」の名で呼ばれた。

西寺内町は、北は六条通、南は下魚棚通、東は新町通東、西は大宮通西を占めた。
東寺内町は、北は六条通、南は七条通、東は土手町通東、西は新町通北を町内とした。

仏具商が並ぶ西本願寺前から六条通を東へ行くと、油小路通の東に西本願寺学林町がある。

南北の通りの天使突抜通(東中筋通)を挟む町で、その名が示すように町には西本願寺末寺の僧侶の教育機関「学林」があった。
寛永十六年(1639)、良如宗主が学寮として本山境内に開設して講義を始めた。
その後、興正寺の南などに移転したが、承応年間(1652〜55)、西本願寺と興正寺との間の法論をめぐる内紛(承応の鬩牆)のあおりを受けて、学林も閉鎖された。

その後、元禄八年(1659)に学林町い再興された。
間口五間奥行き六間の講堂に、地方から上京した僧侶のための寄宿舎も十八軒を数えた。
夏季集中方式の講義を設けた。
龍谷大学は、学林の歴史的系譜を引いている。

学林町の隣が若宮町。
南北に通る若宮通を挟んだ寺内町で、若宮通下ルに若宮八幡がある。
天喜五年(1057)後冷泉天皇の勅令で源頼義が創建した社で、源頼朝が源氏の氏神として崇敬した。

室町時代にも歴代将軍の社参が続き、応仁・文明の乱で焼失。
慶長十年に東山区五条大橋東(現 若宮八幡宮)に移されるが、町の人々が私的に社を守って現在に至っている。

新町通から東は東寺内町にあたり、大谷婦人会館の北側に西魚屋町、東魚屋町が並ぶ。
江戸期は、「魚鳥菜果を売買し一の市場」だったと伝えるが、その面影はない。

中世には、伊勢神宮の祭主、大中臣輔親の六条院があった。
六条の南、室町の東の方一町四方の邸内に天橋立を模した池をつくり、寝殿に月光をさし入れるために庇をはずして風流を楽しんだ。

『山城名勝志』によると、六条院の池は、東本願寺が創建されたあとも残っていたという。

縫針のことを「池の川針」と称するのは、この六条院のほとりで売られた針を由緒とした名称である。

国名をつけた旅館があるのは、東本願寺の詰所。
詰所は、全国の府県から本山団参の宿舎で、東本願寺門前には多くの詰所が並んでいる。

烏丸通の東は、仏具屋町が占めて、いかにも東本願寺の寺内町の由緒を伝えている。

メモ

源氏堀川邸址(堀川六条上る東側)

 七条通

平安京の七条大路にあたる。
東は東大路から西は八条通桂橋東詰に至る。
全長約 509キロ

朱雀大路を挟んで官営の東市、西市が七条大路に面して門を開いた。
東市は現在の西本願寺あたり、西市は中央卸売市場付近
東西市場の守護神として左大臣藤原冬嗣が延暦十四年(795)、筑前の宗像三神を勧請して市比売神社を創建した。
天正十九年(1591)に移転、現在は七条通にほど近い六条通河原町西入ル北側の時宗金光寺の境内にあり、中央市場の守り神となっているのは、歴史の因縁だ。

七条通が西に開けたのは昭和二年の中央卸売市場の開業、昭和九年の大宮〜西大路間の鉄道開通による。
それまでは「花畑町」の町名のとおり、畑と農家があるだけだった。

メモ 東から

七条仏所址(七条高倉南側)

 八条通

平安京の八条通りにあたる。
東は須原通の東から西は西高瀬川の東に至る。
途中、JR線で中断。
全長約 2.7キロ
西へ桂大橋東詰までも八条通りといわれる。

八条通りは、悲運の通りであった。

平安京の八条大路としての八条通は、中世には華やかな歴史を花咲かせた。
西大路通八条には「平家にあらずんば人にあらず」と、その権勢を誇った平清盛の西八条邸があった。

邸宅は、北は木津屋橋通、南は八条通、東は大宮通、西は坊城通に囲まれた六町に及び、東山の六波羅邸に匹敵するほど。
堀川通りと猪熊通の間には、同じ平家の平重盛邸、万里小路通と高倉通に平宗盛、頼盛の邸宅があった。
後白河天皇の第二皇子以仁王が平家に反旗を翻して起こった治承の乱の舞台となった八条院御所も、八条通りに面して北は梅小路通、東は東洞院通、西は烏丸通に位置した。
八条通りは、さしずめ平家盛衰の歴史を刻んだ大路でもあったわけだ。

こうした八条大路も、豊臣秀吉の都市改造によって塩小路通〜八条通間(JR京都駅構内)に築造されたお土居で、洛外の道路となり、以降は田畑の広がる通になってしまう。

明治九年、京都〜神戸間に鉄道が敷設されてできた七条停車場、さらに大正三年の御大典に移築された現在のJR京都駅も、北口を京都の玄関口に開く。
東海道新幹線が開通して開設された八条口だが、ややもすれば乗降客の足は北口に集められてきたことは否定できない。

壬生川通の西に、清和源氏の祖で知られる源経基ゆかりの六孫王神社がある。

 九条通

平安京の九条大路にあたる。
東は東大路から西は葛野大路に至る。
全長約 4.1キロ

九条通りのシンボルは、東寺である。
歴史的には、もう一つ羅城門をぬきにはできないだろう。

東寺は正しくは真言宗総本山教王護国寺と称し、平安京造営に際して、北の大極殿へ一直線の朱雀大路を跨いだ羅城門の両翼に建てられた東西二大官寺の一つ。
羅城門の東に位置したから東寺で、左寺、左大寺とも呼ばれた。

九条通りに面して建つ八脚門の南大門を正門に、境内には、今もずらりと堂塔が並んで、ありし日の姿を伝えて威容を誇る。

平安京を睥睨した五十五メートルの五重塔は、正保元年(1644)、豊臣家光が古制に則って再建した塔であり、金堂は慶長十一年(1606)、豊臣秀頼の再建で、入母屋造り、本瓦葺きで奈良大仏殿に倣ったという。
大師堂は、堂内に弘法大師坐像とその念持仏と伝える不動明王坐像などを安置し、それぞれ国宝指定の建造物である。

内部中央壇上に大日如来を中心に五仏をはじめ国宝の五大菩薩坐像などを安置した講堂は、また重要文化財で、収蔵される多くの寺宝も、『東寺百合文書』など国宝、重要文化財に指定されている。

弘仁十四年(823)に弘法大師空海に下賜されて以来、真言密教の寺として一般の信仰を集め、毎月二十一日は、宗祖弘法大師の供養法会が営まれ、広い境内ばかりでなく、寺を取り巻いて植木や古物の露店商による露店市が開かれ、「弘法さん」で親しまれている。
洛陽三十三所観音の第二十三番札所として日ごろのお参りもたえない。

西寺は、天長七年(830)に講堂を完成したものの、五重塔の建築が遅れ、正暦元年(990)二月の大火事で焼失、わずかに残った堂宇も天福元年(1233)に焼けて、のち再建はならなかった。
現在、その跡はとどめない。

平安京の正門として、北の大極殿の朱雀門と相対したのが、羅城門。
間口七間、奥行き二間でで二重の楼閣があり、屋根の両端に金色の鴟尾をあげた堂々たる姿で、平安京の南正門の威厳をあらわすのには十分であった。

楼閣には、西戎の侵略を避けたという唐の故事に倣って「兜跋毘沙門天像」を安置した。
この兜跋毘沙門天像は、東寺に現存している。

弘仁七年(816)に大風ではじめて倒壊。
さらに天元三年(980)の大暴風にも倒れた。
以後、再建は思うに任せず、摂関時代の最盛期には、すでに礎石を残すだけとなった。
その荒廃ぶりは、『今昔物語』巻二十九第十八の「羅城門の上の層に登りて死人を見たる盗人の語」などの記述にもある。
芥川龍之介の『羅城門』は、この『今昔物語』の羅城門にモチーフを得た短編小説である。
頼光四天王の一人、渡辺綱の鬼退治のエピソードはよく知られるところである。

現在、千本通上ル東側の公園に「羅城門址」の碑が建てられている。

九条大路は、この東寺と羅城門に面して、二つのシンボルと同様に平安京守護の役割をもった大路であった。

平安京造営時の大路小路のなかでも最南端に位置して、南極大路とも呼ばれた。

平安京は、中国唐の都長安を模範として築かれた都城。
中国の都城には、外敵を防ぐ目的から、まわりをぐるりと土塁を羅ねた羅城が築かれたけれど、平安京にはこうした羅城はみられない。

ただ、九条大路に沿って、その外側に高さ二メートル弱の土塁を盛り、両側に二メートルあまりの犬走りと、幅三メートルばかりの溝が築かれていた。

この土塁や溝も外敵の侵入を防ぐという機能ではなく、都城の威厳を示す装置であったようだ。

やがて平安京は、湿潤な環境を嫌っていちはやくその中心軸を左京に移すにつれて、九条大路も国家鎮護の意味を失い、さらに豊臣秀吉のお土居の造築で洛外となるにつれて田園化し、豊富な蔬菜類を産するようになる。
九条葱、九条芹はその代表であった。

大まかに西洞院通あたりを境界に、九条通の西を西九条、東を東九条と大きく分けて呼称される。

メモ 東から

釜ケ淵(鴨川九条通付近東側)

 十条通

東は本町通から西は西大路通に至る。
全長約 3.2キロ

十条通りは平安京とはまったく関係がない。
平安京は一条から九条まで。
『京都坊目誌』によると、この十条通は明治三十五年五月の開通で、「紀伊郡東九条村より(中略)同郡上鳥羽村まで東西に新道開き(道幅三間)十条通と命名す」とその開通事情を記している。
明治四十二年測量の地形図を見ると、現在の京阪電鉄鳥羽街道駅付近から西へ一直線に鳥羽作り道(鳥羽街道)まで十条通りが延びているのがわかる。
ちなみに京阪電鉄の駅名は、十条通りが鳥羽作り道経由で上鳥羽村に通じる道であることから命名されたのであろう。
今も十条通りは鳥羽通と通称されている。

千本十条のバス停まで来ると、昔の道を思わせる遺物に出くわす。
そこは先述した鳥羽作り道との交差点で、今は広くなってしまった十条通の道の両側に常夜灯が建っているのだ。
明治四十二年の地図を見ると、当時の十条通はこの地点から極端に道が狭くなり、ゆるやかなカーブを描きながら吉祥院天満宮まで延びている。
ここは古くからの参道なのである。
常夜灯は明治三十五年、十条通が開通する二年前の建立であり、北側の常夜灯の側には、これも古い道標が建っている。
正徳六年(1716)正月五日と碑面にあるから、京都でも屈指の古い道標といえそうだ。
碑面の上部には天満宮の社紋である梅鉢紋が刻まれている。
その下に何か文字があるのだが摩滅してしまって、すべての文字が判読できない。
精華女子高等学校地歴クラブ編の『京都の道標』を繙くと、「これよりにしきっしゃういん天満宮へのみち 行程四町」と記録されている。

メモ 東から

菅公硯の水(十条新千本通東入ル北側)

 松原通

平安京の五条通にあたる。
東は清水寺門前町から西は佐井通西入ルに至る。
全長約5.2キロ

現在の松原通は、その昔は五条通だった。
五条通から松原通に変わったのは、豊臣秀吉が東山大仏殿を造営したとき、六条坊門小路(現五条通)の鴨川に橋がなかったため、参詣人のため、五条大橋を六条坊門に移してしまった。
天正十八年(1590)のことだ。
当初は大仏橋と呼ばれたが、正保二年(1645)石橋に改修して旧名の五条橋としたため、六条坊門小路が五条通と呼ばれた。
以来、本家の五条通の名前は橋とともに失われ松原通となった。
近世まで五条松原通と呼ばれたから、ますますやあyこしい。
明治四十四年の小学唱歌「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が・・・・・」のはやった頃は現在の五条と思われていたので、歴史上有名な故事の栄誉はついに松原から五条に移ってしまった。

本家の五条通は橋を失ったため寂れるいっぽうで、平成の現在も五条通が京都の東西幹線なのに対して、松原通はくすんで狭い道路だ。
今でも道幅六メートル前後、烏丸通以東は東行きの一方通行だ。

また江戸時代から祇園祭の山鉾は四条通から寺町通を南下し、松原通を西に進んだが、昭和三十一年、道路が狭く御池通りにコース変更となったのも痛い。
松原中之町は、祇園祭の長刀鉾到着すると神酒や薄茶をふるまう習わしだった。

松原通は清水観音の参詣道として栄え、通りの東突き当たりが清水寺だ。

松原通の名前は『京都坊目誌』によると、「応仁の乱後、街路凋落し人家希少なり。独り玉津島神社の並木の松樹のみ、繁栄す。当時、世人の口称を以って松原と呼びしに起こる」とある。
この松並木は、松原通烏丸西入ルの新玉津島神社のあたり。
同社は鎌倉時代の代表的歌人藤原俊成にゆかりがあり、応仁の乱で焼失したとき、歌道の冷泉家が再建、参道に松を植えた。
国学者北村季吟がここの神官を務め、松尾芭蕉が季吟の弟子となって俳諧の道をきわめた。
烏丸松原あたりには、「玉津島町」「俊成町」という美しい名前が今に残っている。

松原通の東大路から西に入ると六道珍皇寺がある。
このお寺は毎年八月七日から十日まで身動きの出来ないほどの人の波だ。
お盆のお精霊さん迎えの行事で、今は亡き人が年に一回、この地に迎えられる。
ここは六道の辻あたり。(もう少し西側に「六道の辻」の石柱がある)
この世とあの世の交差点だ。
鳥辺野の葬送の地の入口であった。

お盆になると何十万という人が訪れ、迎え鐘を引き鳴らし、高野槙の枝を水に浸し、亡き人の法名を書いた水塔婆を供える。
槙の枝は、平安初期の学者小野篁がこの槙の枝を使ってあの世とこの世を往復したとの伝説による。
この期間多くの屋台が並び、年に一度だけ京都の顔になる。

六道珍皇寺の手前には、有名な「幽霊子育て飴」を売るお店がある。
お盆でなくても売っている(南側のお茶屋さん。麦芽糖の素朴な飴で、一袋、五百円前後だったと思います。)
「六道の辻」の石柱の南西角にある西福寺では六道の地獄絵を展示解説される。
西福寺の南隣には有名な六波羅蜜寺。
空也上人の開基で、口から六体の阿弥陀如来がこぼれ出る念仏姿の空也上人像(重要文化財)は教科書でおなじみ。
このあたりは平家全盛の頃、一門の邸宅が百七十もひしめいていた。
鎌倉幕府の時には六波羅探題が置かれた。
池殿町、弓矢町はそれらの名残だろう。
轆轤町(ろくろちょう)はかつて髑髏町(どくろちょう)と呼ばれたのを、江戸時代になって京都所司代板倉重宗が変更させた。
葬送の地らしい名前だ。

烏丸の手前に因幡薬師で知られる平等寺がある。
平安時代の創建で歴代天皇の厄年には勅旨が代って参詣した。
収蔵庫の薬師如来は嵯峨清涼寺の国宝釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三大如来の一つだ。
因幡薬師の東、間之町上ルに小さな花咲稲荷社がある。
江戸時代の徘徊師松永貞徳が自宅に祀った社で、貞徳が「花咲亭逍遥軒」と号したことにちなむ。

西洞院通西の五条天神は『宇治拾遺物語』や『徒然草』にも出る古社だ。
素朴な宝船の絵が有名で日本最古といわれ、節分に授与される。
疫病から守る神様だが、室町時代には疫病そのもののように考えられ、後崇光院の日記『看聞御記』の応永二十八年(1421)四月二十八日の条に、五条天神に流罪の宣下が下されたと出ている。
かつては一町四方もあった社で、牛若丸、弁慶の勝負は五条天神の森であったといわれる。
弁慶が主従の誓いをたてたのは松原橋の東、十禅師の森であったともいわれる。
五条天神の手前、新町通松原下ルの松原道祖神社はごく小さな社殿だが『宇治拾遺物語』に出てくる古社。

新町通松原あたりを十念の辻と呼び、その昔、罪人は十二月二十日、ここで僧侶の念仏を聞いて刑場に消えたという。

メモ (東から)

鉄輪井戸(堺町通松原下ル西側)・藤原俊成五条邸址(烏丸松原下ル西側)・三善清行邸址(醒ヶ井通松原下ル)

 今出川通

東は銀閣寺門前から西は京福等持院一号踏み切りの北に至る。
全長約7キロ

「学生の町」といわれる京都。
そんな言葉をもっとも実感させられるのが、今出川通りであろう。
京都大学、同志社大学、京都府立医科大学など。

今出川通は中世の北小路に該当する。
応仁の乱以前には、東洞院大路から東へ京極大路まで今出川と称する川が流れていたそうだ。
通り名は、その川に由来する。
『山州名跡志』によれば、北小路は「今出川通 在一条北二町、此街従堀河東、称今出河」とある。

古くから北小路通の呼称とともに今出川通の名でも呼ばれていたことが推測できる。
ただ通りの呼称は、鴨川以東、新町西あたりまでをいったようである。

平安京の旧大内裏よりも北に位置した通りは、里内裏の土御門御所(現京都御所)、臨済宗総本山相国寺、室町幕府の正庁「花の御所」にも近く、公家屋敷が建って政治的、文化的な土壌があったといえなくもない。
同志社大学のキャンパスに埋まるように、『名月記』の藤原定家ゆかりの冷泉家が、今も代を重ねて住まわれている。
「時雨亭文庫」と名付けられ、貴重な文献が保存されている。

府立医科大学の向かいに、今は衣笠に移転した立命館大学があって、一帯はさしずめ京都の「カルチェラタン」(パリの学生街)さながらの様相であった。

同志社は、元治元年(1864)に国禁を犯してアメリカに渡航し、キリスト教学を学んで帰国した新島襄が、明治八年に相国寺の門前近くで英語学校として開校。
やがて、京都府顧問で、府会議長を務めた山本覚馬から現在地の今出川通烏丸にあった旧薩摩藩邸を譲り受け、現在の同志社大学の基礎をなした。

京都大学は明治二十五年、自由党議院の長谷川泰らが、東京に対する西の学問の中心地として京都大学設置の建議をなして、議会を通過、明治三十年に創設をみている。
明治二年創設の大坂舎密局に始まる歴史をもつ第三高等学校は、明治二十四年に京都大学に包括されている。
第三高等学校が明治十九年に開校されたとき、学内の見学に三、四万人の市民が集まったとか。
いかに高等教育の場として第三高等学校の開校に市民の関心が高かったかを伝えるエピソードである。

昭和四十四年だった。
この学生通りが紛争の嵐に吹かれた。
日米安保条約の改定と大学の運営をめぐって学生たちの反対のデモが繰り返された。

通りを西にたどると北野天満宮がある。
北野天満宮は、いうまでもなく学問の神様の菅原道真を祀る神社。
学業成就、受験の合格祈願は本殿はもとより、境内の牛社が霊験あらたかとあって、シーズンにはお参りする姿が多く見られる。
命日の二十五日は、神社境内から周辺を取り巻いて市が立つ。
年末の二十五日は終い天神、新年の二十五日は初天神と呼ばれて、とりわけの賑わいである。

東門前には、京都の六花街の一つ、上七軒がある。
室町時代、北野天満宮の社殿の修造があって、その余った用材で七軒の水茶屋が建ったのが名の起こり。
水茶屋は門前の賑わいとともに華を競った。
豊臣秀吉が、境内で大茶会を開いたおり、この水茶屋に休み、出された「みたらし団子」が気に入り、京都一円の株を許した。
シンボルマークのつなぎ団子はこの故事に由来する。
元禄期(1688〜1704)に上七軒どころか数十軒を数えた。
京の公許の廓は、島原だけだったが、上七軒は、その由来、格式から別格に扱われた。

メモ (東から)

白沙村荘-橋本関雪記念館-(今出川鹿ケ谷通西、南側)・大日石仏(志賀街道西、北側)・北白川石仏二体(月輪陵墓向かい、南側付近)・
思文閣美術館(今出川通鞠小路西へ、南側)・清風荘庭園(思文閣美術館西向かい、北側)・桂宮址(京都御苑内、同志社女子高向かい側付近)・
冷泉家(今出川通烏丸東入ル北側)・室町幕府址(今出川通室町上る東側付近)・飛鳥井邸址(現・白峯神社で今出川通堀川東入ル北側)・
西陣織会館(今出川通堀川西南角)・京都市考古資料館(今出川通黒門西角北側)・観世屋敷址(今出川通大宮上ル西側)・首途八幡宮(今出川通智恵光院上ル西側)

 元誓願寺通

東は新町通から七本松通りに至る。
全長約1.5キロ

織物の町で知られる西陣の内懐を通る東西の通りである。
豊臣秀吉による京都改造によって生まれた。
天下統一を果たした秀吉が、京都支配の政策として京都改造に着手したのは、天正十八年(1590)。
禁裏の修復、洛中を取り囲むお土居の築造に取りかかり、並行して町割りの立案と実施にあたった。
人口と交通の増加を見込んだ先見的な改造だった。

元誓願寺通は、中世の今小路にあたり、堀川東にあった誓願寺の西から北野天満宮の近くまでをいった。
ただ、秀吉の都市改造で洛中の多くの寺が寺町通に移転させられ、誓願寺も例にもれず、現在の新京極通六角に移って、通りも今小路から元誓願寺通に変わった。
七本松通以西には、旧通り名の今小路通の名が残っている。

西陣の中心だけに、機業店が多い。
いずれも同じような間口と構えで、駒寄せに糸屋格子と呼ばれる紅殻格子の仕舞屋風の家の多いのが特徴だ。
織りの町となるのは一説に元禄期ともいわれている。
辻ごとに、小さな祠がある。
八月の地蔵盆には、路上に床机、敷物を広げて町内ごとに賑わう。

メモ (東から)

狩野元信邸址(元誓願寺通新町西入ル南側)・晴明神社(元誓願寺通葭屋町下ル西側)

 笹屋町通

元誓願寺通の一筋南。
東は大宮通から西は七本松通に至る。
全長約900メートル

機業店の多い通りである。
ほとんどはかつてお召しの織り屋で、西陣でも有数の織り元が並んだ。

笹屋町の名は、町の一帯に笹藪があったからという伝聞がある。
もっとも笹は、篠竹で、織物にはかかせない縦糸の筬の材料。
この篠竹を売った店もあったとも。

笹屋町が西陣ばかりでなく京都で広く知られたのは、造り物の通りとしてであった。
笹屋町の中心部、浄福寺通から千本通の間の二丁目と三丁目に、毎年八月二十一日から二十三日までの三日間の地藏盆に、お地蔵さんの供養をかねて、町に帯や生糸でつくった細工人形が飾られた。
最盛期は一丁目からも出た。

主題は「忠臣蔵」「牛若丸と弁慶」「浦島太郎」といった歴史物語にかぎらず、手塚治虫の漫画「鉄腕アトム」なども登場した。
この造り物も昭和四十三年を最後に中断されているが、復活の声が起こっている。

 武者小路通

東は烏丸通から西は小川通に至る。
全長約500メートル

織物の町西陣の中心部の東西の通りで、元誓願寺通の南に並行する短い通りである。

『拾芥抄』には「一条北有小路、武者小路」とある。
応仁の乱以前にもみられる小路だが、一時は寂れ、豊臣秀吉の都市改造で再開発された。
『京都坊目誌』には別名として「無車小路」をあげている。

町家がぎっしりと建て込んだ小川通東入ルに、茶の湯の三千家の一つ、武者小路家の官休庵がある。

武者小路家の代表的な茶室で、千宗旦の次男の初世の一翁が四国高松藩を辞し、寛文七年(1667)に建てたと伝える。
茶室名は、仕官を休むの意である。
現在の茶室は、明治十四年に八世一指斎が再建、大正十五年に九世愈好斎が改築したものである。

東隣に柊の垣根を前にした千家十職の塗師、中村宗哲の住まいがある。

中村宗哲は、元伯宗旦の頃から一閑張ちの飛来家や茶器の楽家らとともに千家に入り、棗、茶杓、香合、水指、懐石家具、棚など多様な道具を手がける。
代々、豊田八郎兵衛の名で、明治維新まで御所の塗物も受け持ってきた。

現当主は、先代の十一代宗哲の長女で中村博子さん。
昭和六十一年に十二代を継承した。
女性では千家十職ではじめての塗師である。

茶の湯の席で、漆器は茶を掬ったり、水を入れたりする道具として欠かせない。
木という素材を漆で加工することで、席がいっそう美化される。

十職としての宗哲は、利休以来の、そんな茶の湯の演出を代々にわたって意匠を凝らし、受け持ってきた相伝の技術の家でもある。

 中立売通

平安京の正親町小路にあたる。
東は烏丸通から西は七本松通に至る。
全長約1.8キロ

烏丸通中立売に京都御所の石垣に囲まれた中立売御門がある。
ここが京都御所の御清所に入る門。
公家、宮門跡、儒者、御用絵師、出入の御用達商人はこの中立売御門から入った。
天皇の御所入りは、現在では入口の広い丸太町通堺町からになっている。

中立売通は、平安京の正親町小路に相当する。
『京都坊目誌』には「東は烏丸通に起こり、西は千本西入ルに至る。明治二十六年、西北に斜めに七本松に新道を開く。天正以来、烏丸以東は皇宮地たるを以って閉塞す。大宮以西は荒廃、年久し。のち聚楽第地となり元和元年再開す」とある。
近世前期までは西は千本通りまでだった。

中立売通の名前は天正年間(1573〜92)、呉服の立ち売り、つまり店を構えない路上の商売が行われたことに由来する。

中立売通は御所に近接するが、道幅は6.3〜7.9メートルにすぎない。
京都市では平成三年三月、烏丸〜堀川間の678メートルをコミュニティ道路とした。
コミュニティ道路はヨーロッパが発祥の歩車共存道路(ボンネルフ道路)を採り入れたもので、京都市街地では第一号となった。

中立売通は堀川以西は西陣の町。
帯、染め屋が多い。
千本中立売の界隈は地元では千中と呼び、西陣京極の飲食、歓楽街。
だが、映画館は相次いで廃業し、そのあとに大型パチンコ店が開業した。
狭い道路に肩を寄せ合うように並んだ縄暖簾は押されがち。

DX東寺、DX伏見と並んで京都三大ストリップ劇場だった千中ミュージックが火災に遭い、再開されないのも寂しい。

メモ (東から)

京都府議会公舎-富岡鉄斎旧邸-(室町通中立売上ル東側)・皆川淇園弘道館址(中立売通室町西入ル南側付近)・楽美術館(油小路中立売上る西側)・名和長年戦没地(大宮中立売通上ル東側)・聚楽第址(中立売通浄福寺南側付近)・

 上長者町通

平安京の土御門大路にあたる。
東は烏丸通から西は千本通の一筋西に至る。
全長約1.6キロ

KBS京都放送会館の北側の通り。
千本通りを越えて旧遊郭の五番町まで。
五番町は水上勉の小説『五番町夕霧楼』で知られ、犯人誤認逮捕事件で有名な五番町事件があったところだ。

『京都坊目誌』には「応仁の乱後荒廃に属し再開するに及び新在家と称す。天正中此街に東に貨幣の兌舗及び諸家の金穀を用達する者住す。当時、富有(裕)の聞へあり。人呼んで長者という。街名之に起る。中下長者町之に同じ」と町名の起こりを書く。
兌舗とは両替商人、今の銀行にあたる。
文禄四年(1595)、秀吉が聚楽第を壊してから、道は千本通まで開通した。
『京羽二重』には、「此筋、諸職商家入組也」とある。

だが長者町通の面影は探そうとしてもない。
わずかに烏丸通の北角に構えの立派な下村家があるぐらい。

五番町は平安京内裏の大蔵省にあたる。
秀吉が聚楽第造営にあたり、下級武士を住まわせたところで一番町から七番町まである。
旧遊郭で昭和三十三年、売春防止法施行前には九十三軒、二百二十人の女性が苦界に生きていた。
平成の今も当時のままの家がわずかに残る。

メモ (東から)

安倍晴明屋敷址(上長者町通新町西入ル)・
 

 中長者町通

両者(上長者通・下長者通)の中間に中長者町通があり、室町通りから油小路に至る。
全長約400メートル

室町通あたりは、明治時代、新島襄が開いた同志社病院があり、のちに院長を務めた佐伯理一郎(1862〜1953)が京都産院を開設した。
現在の佐伯産婦人科だ。
同志社病院は明治二十年から五年間に外来患者が二万人といわれ、私立病院の草分けだった。

 下長者町通

平安京の鷹司小路にあたる。
東は烏丸通から西は御前通に至る。
途中、千本通りの一筋西〜六軒町通間で中断。
全長約2キロ。

護王神社北側の通り。
千本通りを越えて六番町に達する。

『京雀』に「昔、この町筋の北の方一町、万里小路通の東に鷹司殿ありし故に名とす」とある。
烏丸通下長者と下長者西洞院通に鷹司町があり、前者は水戸藩京屋敷、後者は陸奥仙台藩伊達氏の京屋敷があったところ。
前者は京都私学会館、後者は京都農林水産総合庁舎となっている。

千本西入ルには、スッポン料理の日本一「大一」がある。
創業は元禄年間(1688〜1704)、三百年の老舗だ。
志賀直哉が『暗夜行路』で「すっぽん屋は電車通りから淋しい横丁へはいり、片側にある寺の土塀の尽きた、突き当たりにあった」と書いた。
片側の寺とは妙徳寺だ。

メモ (東から)

里村紹巴宅址(下長者通東堀川南角付近)・萬亀楼-京料理-(猪熊通下長者下ル西側)・

 出水通

平安京の近衛大路にあたる。
東は烏丸通から西は七本松通に至る。
途中、京都府庁で中断。
全長約1.6キロ

近衛の名が残るのは、鴨東以東の京都大学医学部を含む一部だけである。
御所が現在地に落ち着いてからは、通りは御苑に分断されてしまった。
寺町以東は、荒神口と称する。
烏丸以西は、七本松通まで出水通が伸びる。

『京都坊目誌』によれば、出水の名は「此街烏丸の西に湧泉あり。ときに溢れて道路に浸水すと。烏丸川の埋没と共に涌泉止む。爾来、街名と為す」とある。

「御所から烏丸上長者町、烏丸出水、出水衣棚、椹木町衣棚、椹木町堀川、二条城へと流れた川があって、名の由来と聞いている。はじめは出水をイズミと呼んでいた。家を改築するときに床を高くした」という古老の記憶がまだ生きている。

西洞院通から油小路通は平安期の獄舎跡。
東西は西洞院通から油小路、南北は出水通から下立売通の敷地で、左京に位置していたので、左獄とも呼ばれた。
天正十三年(1585)豊臣秀吉の命によって小川通御池上ルに、その後、宝永六年(1709)、前年三月の大火で焼失したために六角通因幡町に移された。
これが六角獄舎である。

堀川以西は道幅がぐっと狭くなる。
三メートル足らずの路地のような道である。

メモ (東から)

茶屋四郎次郎屋敷跡(小川通出水上ル東側)・左獄址(小川通出水下ル西側)・飛来一閑-漆器-(出水通油小路西入ル南側)・伊藤仁斎古義堂址(東堀川通出水下ル)・山崎闇斎邸址(葭屋町通出水下ル東側)・聚楽第堀址(出水通一筋下ル裏門西入ル南側)

 下立売通

平安京の勘解曲小路にあたる。
東は烏丸通から西は花園木辻南町で丸太町通に合流する。
全長約3.3キロ

起点は烏丸通西門の日本聖公会聖アグネス教会の赤レンガのチャペル。
平安女学院の礼拝堂であり、明治三十一年、アメリカ人ガードナーが設計した。
この南隣が菅原道真が生まれた菅原院の邸宅跡といわれ、、菅原天満宮がある。
教会の向かいが京都地裁所長公舎。
立売は呉服の裁ち売り(立ち売り)にちなむという説もある。
宝永五年(1708)以前は烏丸以東に延びていたが、公家屋敷の拡大で消滅した。

下立売通御前西入ルにある浄土宗西山禅林寺派の竹林寺には、六角獄舎に捕われていた平野国臣、古高俊太郎ら勤皇の志士の墓がある。
明治期、西大路太子道で名前を朱書した瓦、人骨が出土し、同十年、竹林寺に移葬された。
近くに臨済宗妙心寺派の法輪寺、通称だるま寺があり、八千体の起き上がり達磨が収集され、境内のキネマ殿は映画関係者を祀る。

下立売通の烏丸〜堀川間には京電の路面電車が走っていたが、大正十五年に廃止された。

メモ (東から)

京都守護職屋敷址(新町通下立売北側)

 椹木町通

平安京の中御門大路にあたる。
東は烏丸通から西は千本通に至る。
全長約1.5キロ

あまり目立たない通りだ。
西洞院通を挟んで北に麩嘉、南に柿伝がある。
麩嘉は創業百六十年以上になる。
京都御所の御清所門の通行鑑札が残る禁裏御用の老舗だ。
京都市が井戸水の使用制限を打ち出したのに対し、昭和五十六年五月二十六日、京都新聞に全ページの意見広告「京の水」を出し、いかに京都の料理とよい水が切っても切れない関係にあるかを訴え、京都の水を考え直す運動が燃えあがった。

柿伝は享保五年(1720)創業の茶懐石の老舗。
茶道表千家のお出入で、お茶事があると現場に料理を持ち込んで茶席にもっともふさわしい料理を演出する。

椹木町通の名前の由来は『京町鑑』によると、通りの中ほどにサワラの木材店が多かったことによる。
サワラはヒノキ科の木で桶、障子、襖の組子に利用され耐水性がある。

『京都坊目誌』によると、東は烏丸、西は日暮通に至る。
文明年間(1469〜87)に荒廃し、天正年間(1573〜92)に再開。
はじめは寺町通まであったが、宝永五年(1708)、椹木町通の烏丸〜寺町間を公家用地として御所を拡大したため烏丸以東は消滅した。
この代替地が新烏丸通御霊図子下ルの東椹木町といわれる。

椹木町通が別名、上魚棚(店)通と呼ばれるのは、生魚問屋が多かったため。
椹木町の上ノ店、錦ノ店、六条の下ノ店があった。
椹木町通小川に東魚屋町の名前が残る。
享保年間(1716〜36)には上ノ店に十二軒の魚問屋があった。
昭和二年、京都中央卸売市場が開場されたため、魚問屋街の歴史を閉じた。
『京都坊目誌』には「天正文禄の間、聚楽第旺盛にして其付近、殷賑を極む。其当時、堀川、大宮に魚鳥、采蔬、果物等の市場あり。宝永五年大火後、西洞院通堀川間に移」したとある。
現在これを偲ぶ何物も残っていない。
寺町通丸太町下ルの下御霊神社楼門左右の大きな石灯籠に、寄進者として上魚ノ店の名が刻まれている。

メモ (東から)

日本盲唖学校発祥地(椹木町通猪熊北東角付近)・大極殿址(千本通椹木西側)

 丸太町通

平安京の春日大路にあたる。
東は鹿ケ谷通から西は嵯峨釈迦堂大門町に至る。
全長約8.5キロ

春日通とも呼ばれた。
土手町通以東は洛外で、鴨川の東は聖護院領だった。
東大路北西角の熊野神社以東は通りがなく、岡崎は田圃だった。
『京羽二重』にも、丸太町通の「東は寺町通より、西へひぐらし(日暮)通まで」とある。

ようやく道が東に開かれたのは、明治二十六年だった。
熊野神社境内を貫いて新道が通った。

丸太町通の名は、堀川通交差点の左側に残る同業者町丸太町に由来する。
上杉家本や町田家本「洛中洛外図」には、堀川や小川周辺には、筏や丸太を荷揚げする姿が描かれている。
『京雀』には「此筋の西ほり川に丸太のざいもくやおほくあるゆへに、世には丸太町通といふ」とある。

いっぽう、鴨川に架かる丸太町橋の架けかえで、周辺の人々が丸太を寄進したので、丸太町の名がついたとの伝承もある。

丸太町通が脚光を浴びるようになったのは、維新前夜。
蛤御門の変の引き金となる八月十八日の政変だった。

幕府の中枢でもあった二条城と日暮通西の所司代屋敷などの官庁街と御所をつないだ丸太町通。
文久二年(1862)、会津藩松平容保が京都守護職として入洛し、丸太町通の東の黒谷(金戒光明寺)に本陣を構えた。
文久三年八月十八日には丸太町通に面した堺町御門周辺で、会津を中心とした公武合体派と長州藩を中心とした尊皇攘夷との間で一触即発の危機をはらんだ。

やがて明治に改元。
二条城には太政官代が置かれ、町奉行は京都府に。
丸太町通りは、中央官庁街に導く通りとなる。

烏丸通から寺町通までは京都御苑に接する。
南北朝時代までは並行する北通りの中御門通(椹木町通)までだったが、のち御所の領域が広がり、九条家、閑院宮家、鷹司家の新邸が丸太町通に接するまでになった。
丸太町通に面して堺町通〜東洞院通間にはかつて御所御用達だった畳、神祇装束店が今も並ぶ。

鴨川に架かる丸太町橋の西詰めに旧京都中央電話局新上分局の日本電信電話会社技術資料館があった。
設計は、当時気鋭の吉田哲郎。
東京帝国大学建築学科を卒業して逓信省に入り、はじめて手がけた建築が京都七条郵便局であり、二番目の作品が、新上分局であった。
ウィーンで起こったセッションと呼ばれる新様式の影響を受けた建築で、建築史学の上からも貴重とされる。
今はシーフードのレストランになっている。

メモ (東から)

有芳園、住友史料館、泉屋博古館(鹿ケ谷通丸太町交差点)・山紫水明処(丸太町橋西詰め上ル)・新島襄旧邸(寺町丸太町通上ル東側)・京都市歴史資料館(寺町丸太町通上ル東側)・竹内栖鳳記念館(新丸太町通有栖川を西へ南側 *現在閉館中*)

 竹屋町通

平安京の大炊御門大路にあたる。
東は桜馬場通から西は千本通に至る。
途中、川端通〜木屋町通間で中断。
全長約3.1キロ

二条城の北濠に沿う通り。
寺町〜大宮通間が平安京の大炊御門大路にあたる。
大内裏の郁芳門に通じていたため、古くは郁芳門大路とも呼ばれた。

応仁の乱で荒廃したが、江戸時代には古道具、刃物、竹屋、宮大工、魚屋などが多かった。
御所や二条城の御用であろう。
竹屋町の名前は竹屋さんが多かったからといわれる。

江戸時代は職人の町で御所南一帯の町名をみると絹屋町、魚屋町、昆布屋町、笹屋町、鍵屋町などがみえる。

大正二年、進々堂のパンを売り出した初代続木斉氏が広告に歌をつくった。
「行人まれに静かな通り家の向い板塀にて平和を破る何もなし この横町の光栄はブールヴァールやアヴニューを超えてトメ来る人の胸にあり この路は美わしとせずこの路また広からず この道は地球を巡りこの道は久遠に続く・・・・・」と。

メモ (東から)
木戸孝允旧宅(土手町通竹屋町北東付近)・

 夷川通

平安京の冷泉小路にあたる。
東は鴨川の西から西は堀川通りに至る。
全長約1.8キロ

京都家具の専門店街として全国に知られる。

夷川通は烏丸〜寺町間に九本の狭い南北路が走る。
地元では、寺町〜御幸町間を一丁目、柳馬場〜堺町間は五丁目などと、十丁目まで独特に表現する。
地図には出てこない。

夷川商店街は家具ばかりではない。
「亀権」は、琴や三味線を修理する全国的にも珍しい店だ。

夷川通の由来は、『京町鑑』によると、「住古、西洞院中御門に北山の下流あらはれ、又此辺に蛭子社有しゆへ恵比須川と号し、其後次第に家建ちつゞきしゆへに通の名とす」とある。
地元の古老によると、恵比須さんが流れついたための名前で、左京区の若王子神社の恵比須神社がそれだという。

慶長七年(1602)の二条城築城で、通りは堀川以東となった。
平安京の冷泉小路の名前は消滅したが、鴨川を超えた琵琶湖疎水の南沿いにこく短い冷泉通がある。
この通りができたのは、琵琶湖疎水開通に伴うもので明治の通り。
たまたま夷川通の延長線にあたり、旧名を復活させた。

夷川ダムは疎水竣工式が行われたところ。
明治二十三年四月九日、天皇、皇后を迎えた式典に京都人は熱狂した。
祇園祭の山鉾が総動員され、疎水には数十隻の飾り舟。
夜は大文字が灯され花火大会もあった。

メモ (東から)

舎密局址(フジタホテル北側)・富小路殿址(夷川富小路下ル西側公園内)・亀権(車屋町夷川北東角)・東三条殿址(釜座通夷川上ル西側)・閑院址-藤原冬嗣別邸-(油小路夷川上ル東側付近)

 押小路通

平安京の押小路にあたる。
東は木屋町通から西は千本通に至る。
全長約 2.6キロ

京都市役所の一本北側の通り。
烏丸押小路西北角は現在平安建都1200年記念事業の事務局に利用されている。
かつては小野財閥の宅地だった。

このあたりは西押小路町。
「京雀跡追」に「このあたり、みな家具、折敷、ぬり物師多し」とある。
祇園祭のときは山伏山のため一種の協賛金として四斗七升の地ノ口米を出した。

押小路については、江戸時代の『毛吹草』などに針口、砥の粉、緑青、銅、古道具、畳、へっついなどの諸職人をあげている。
和装の室町問屋街に近く、金座、銀座のあった両替町通はすぐ西にある。

現在も押小路通には御所人形、竹細工、金工、扇子などの店が散在する。

東西三キロ足らずの短い小路で『京都坊目誌』に「東は寺町に起こり西は堀川に至る。延暦中開通する所にして文明以来荒廃。天正中、再開せしが、烏丸以西は通ぜず。宝永五年三月大火後、油小路までを開く。当時、新道と称す。油小路堀川間は明治八年十一月通ず」とある。
古くて新しい町だ。
平安京大内裏に近く、西洞院の東三条殿や堀川、東洞院などに武家の邸宅があった。
今は石碑が建っている程度だ。

柳馬場通近くに明治四十一年、大江竹雪が開いた大江能楽堂がある。
畳敷きの升席に風格がある。
定員350人。

押小路出身の二人の兄弟がいる。
生花商華道家元の西川源兵衛の長男西川一草亭は大正、昭和に活躍した有名な文人。
その弟津田青風は関西美術院で洋画を学び、安井曾太郎と渡仏した洋画壇の巨匠だ。

メモ (東から)

島津創業記念資料館(木屋町押小路上ル西側)・一之船入址(木屋町押小路下ル西側)・大江能楽堂(押小路富小路西入ル南側)・東三条殿址(釜座押小路上ル東側)・神泉苑(押小路大宮西入ル南側)・大学寮址(美福門通押小路北西角)

 御池通

平安京の三条坊門小路にあたる。
東は川端通りから西は天神川通(葛野中通)りに至る。
全長約4.9キロ

京都の新しい”はれ”の道路である。

御池通りの呼称については、諸説ある。

宝暦十二年(1762)の『京町鑑』には「此の号は神泉苑の前通ゆへ斯くよぶ」と。
『京雀』には「此筋室町に御池町あり。むかし鴨居殿とて御所あり」とあり、また『京都坊目誌』には、「此街烏丸に藤原良美の別邸あり。此邸内の池水を竜躍と号す。極めて清涼なり。斯水三条坊門に注ぐ、之より御池と号す」とある。

神泉苑は、御池通大宮西入ル北側にある平安京大内裏の禁苑跡。
平安京遷都以前の太古から豊な湧水池であり、そのまま池泉として、名が付けられた。

自然の景観を生かし、中国の例にならって苑内には乾臨閣や左右の楼閣、釣殿を設け、延暦十九年(800)に桓武天皇がはじめて行幸して以来、歴代天皇の行幸が相次いだ。
斉衡三年(856)に、僧常暁がこの池で雨乞いの修法を行って霊場ともなった。
『太平記』は、東寺の空海と西寺の守敏が法力で争った雨乞いのエピソードを記している。

慶長七年(1602)、徳川家康の二条城築城で、苑地の大半が失われたが、慶長十二年(1607)に筑紫の僧快雅が幕府に陳情して再興、東寺に属する寺となった。
かつて竜頭鷁首の船を浮かべた苑池も縮小されて、往時を偲ぶべくもないけれど、放生池として残り、池には朱色の橋が架かって、中央の小島に恵方社と善女竜王を祀った小祠がある。

京都の人々は、神泉苑を「ひぜん」さんと訛って呼び親しんでいる。
一説に、町に皮膚病の皮癬が流行したとき、人々は神泉苑でご祈祷を受けて治癒したという故事がある。
現在、国の史跡に指定されている。

神泉苑を原点とした御池通も、かつては狭い道路で、現況のような京都の幹線道路となったのは、戦後だった。
先の第二次世界大戦末期の昭和二十年三月、空襲からの類焼防止策として、道路の東の鴨川西岸から西の堀川通まで南側の民家を強制疎開。
その疎開跡が戦後、拡張されて五十メートル道路となったのだった。
この御池通りについで堀川通(東海道本線〜鞍馬口通間)、五条通(東大路通〜山陰本線踏切間)でも強制疎開が着手された。

終戦後は、市役所が進駐軍に接収されて庁舎前の広い御池通りは、そのテニスコートになったり、周辺民家が芋や茄子を植えて野菜畑になったりした。

河原町通りの東北角の京都ホテルオークラは、明治二十一年、長州屋敷跡に初の洋式ホテルとして開業した常盤ホテルを前身とする。
平成六年七月に新装なる。

京都市が都市の活性化を目的に策定した「総合設計制度」の第一号の計画である。
制度は、これまで規制してきた建造物の高さを土地の一部を公共地として開放することを条件にして、とくに六十メートルにまで緩和するという特例措置である。
京都ホテルオークラの、この改築計画が発表されるや、真っ向から反対したのが、清水寺、金閣寺、銀閣寺の観光寺院御三家などで組織した京都仏教会だった。

西隣には、京都市役所が建つ。

明治二十二年の市制施行当時、京都府知事が市長を兼ねていたこともあって、事務は府庁で執られたが、明治三十一年に、現在地にあった京都市議事堂にはじめて市役所が設置されたのだった。
議事堂は明治二年にあたりの寺院境内を開いて建設された。

現在の庁舎は、昭和二年の建造。
設計は京都大学建築学科を出たばかりの新進建築家中野進一。
京都大学教授で中野の恩師の武田五一が指導にあたった。
二年がかりで、鉄筋コンクリート造り、四階建て(地下一階)。
高さは中央に建った塔屋のてっぺんまでが三十三メートル。
京都らしい寺院建築をモチーフにした重厚な装飾の新庁舎は、当時の市民の期待を集めた。

柳馬場通の北東角には明治二年、全国に先駆けて開校した上京第二十七番小学校を前身とした歴史をもつ柳池中学校がある。
向には、強制疎開でその境内を削られたが、わずかに本殿を残した御所八幡宮がある。

御所八幡宮は、社伝によれば、弘安元年(1278)、後宇多天皇がここを内裏としたとき、岩清水八幡宮を勧請したのが起こり。
安産・幼児の守護神とされる。
「むし八幡」の名で、母子の信仰を集めている。

メモ (東から)

二条陣屋(大宮御池下ル西側)・

 姉小路通

平安京の姉小路にあたる。
東は木屋町通りから西は佐井通りに至る。
途中、JR山陰本線で中断。
全長約3.5キロ

三条通の一つ北側を走る姉小路通は、平安時代に成立した通りである。
通りなの由来はわからない。
現在「あねやこうじ」と呼ばれているが、江戸時代までは「あねがこうじ」または「あねのこうじ」と発音した。
どういうわけか、「あねやこうじ」は「あやのこうじ」とよく間違えられるため、わざわざ「あねこうじ」と呼ぶ人もいる。

平安時代、姉小路に沿っては、左京に東三条内裏・西三条内裏・高松殿があり、中心部の朱雀大路近辺では、弘文院・勧学院・奨学院などの学寮があり、また左右の京職(京城を支配する官庁)があって、小路といえども、聞こえの高かった通りであった。
中世に入っても、この通りには、貴族や武家邸宅・寺院があって、品格のある通りとして知られていた。

しかし、応仁・文明の大乱後は、この通りは見る影もなく荒廃してしまった。
戦国期、十六世紀にはやや回復をみせるが、それでもこの通りの北辺は一面田圃と化していた。
それがようやく東西に通じ始めたのは、天正十八年(1590)の都市改造以後のことである。

江戸時代に入ると、町人の移住による町の開発が進み、市街地を形成し始めた。
とくに慶長期から寛永期(1596〜1644)にかけて著しく、この通りには、香具所・白粉所・針屋・縄屋・車屋・釘屋・樽屋の同業町が次々と誕生していた。
豪商も多く、著名な金座頭取後藤庄三郎や両替商・輸入絹屋が軒を並べる通りへと、変身していた。

メモ (東から)

本能寺(寺町姉小路上ル東側)・京都文化博物館(高倉通姉小路下ル西側)・橘逸勢邸址(堀川姉小路上ル東側)

 六角通

平安京の六角小路にあたる。
東は西木屋町通から西は佐井西通の一筋西に至る。
途中、JR山陰線などにより中断。
全長約3.3キロ

六角堂の門前からの命名である。
六角堂の創建に、聖徳太子の伝承がある。

四天王寺建立の用材を求めて、この地を訪ねた聖徳太子が如意輪観音の夢告を受けて一宇の御堂を建てたのが起こりと伝える。

通りにまつわる後日譚がある。
平安京が造営されたときだった。
東西の小路がどうしてもこの御堂に突きあたる。
勅使の願いに、紫雲がたなびいて御堂はゴトリと北に動いたというのだ。

六角堂の東門を入った真正面の地擦りの柳の足元に、柵に囲まれた疎石のような石が一つ。
直径四十センチ。
「へそ石」の名がある。
京都の中心にあるというので「要石」とも。

六角堂は、なによりも立花の華道家元「池坊」の本拠で知られる。
代々住職が家元を務める。
七月十七日の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式は、今でこそ市役所の議場で行われるが、近世初期には、六角堂で始まった。

京都を代表する老舗が軒を並べるのも、六角通りである。

扇の宮脇賣扇庵、人形の丸平大木人形店、文房四宝の金翆堂・・・・・。
賣扇庵は創業文政六年(1823)、文人富岡鉄斎との交友が深く、屋号は鉄斎による。
「美也古扇」の透かし入り扇が人気を呼んだ。
丸平大木人形店の創業は安永年間(1772〜81)、四条通堺町で開業した。
丸屋平蔵の名で知られる老舗だ。
金翆堂の創業は明治三十三年、雲平筆は書家の谷如意山人、近代日本画壇の巨匠竹内栖鳳にも愛された。

メモ (東から)

京都府古書籍商業協同組合(東洞院六角上ル東側)・日本近代医学発祥之地(六角通大宮を一筋西へ南側)・六角獄舎址(六角大宮通を一筋西付近)

 蛸薬師通

平安京の四条坊門小路にあたる。
東は河原町通りから西は佐井西通西入ルに至る。
途中、壬生の京都市交通局の北と日本写真印刷で中断。
全長約3.5キロ

平安京造営時の四条坊門小路が蛸薬師通に変わったのは、一説に天正十九年(1591)という。
豊臣秀吉の都市改造に際して、中京区室町二条下ルにあった天台宗の永福寺が妙心寺に合併され、現在地に移転されるにちなむ。
蛸薬師は石造薬師如来の俗称で、永福寺の本尊である。

『京雀』には「寺町の行あたりに蛸薬師の堂あるゆへに世にたこやくし通といふ」とあって、通り名の由来を説明している。

後深草天皇の時代だった。
永福寺に善光という僧がいた。
病床に伏した母が蛸を食べたいというので、密かに蛸を求めて帰ったが、手荷物を怪しんだ人々が中を見せろと迫る。
仏門の身である善光は、恥を忍んで本尊薬師如来に祈って蓋を開けると中身は、なんと八巻の大乗経典に変わっていた。
以来、薬師如来は、蛸薬師さんと呼ばれるようになった。
ほかに沢薬師の転訛説もある。

室町西北には、かつて南蛮寺があって南蛮人が往来した。
永六年間(1558〜70)、織田信長が伴天連(バテレン)ウルカンに方四町の地を与えて一寺を建立、永禄寺と称したのが起こり。

「洛中洛外名所扇面屏風」の「南蛮堂図」によれば、寺は三層で、一階は教会堂、二階は住院で、三階に聖母マリア像を安置した。

堀川通りに至る手前に、浄土教の先駆者空也上人ゆかりの空也堂がある。
正しくは、紫雲山極楽院光勝寺。
毎年十一月十三日の空也忌(現在は第二日曜日)には踊躍念仏が行われる。

メモ (東から)

石田梅岩邸址(柳馬場通蛸薬師上ル西側)・南蛮寺址(蛸薬師通室町西入ル西側)・日本能寺址(蛸薬師通小川東入ル南側)・朱雀院址(日本写真印刷北側付近)

 錦小路通

平安京の錦小路にあたる。
東は新京極から西は壬生川通に至る。
全長約1.9キロ

京都きっての食品市場が、この錦小路である。

錦小路通は、平安京が建都されたときにできた小路で、建設当初、道幅は十二メートルもあった。
その後、時代を経るにしたがって細くなってしまったが、室町中期、十五世紀の中頃から後半にかけての大内乱「応仁・文明の大乱」のなかで荒廃してしまった。
それが再開されたのは、秀吉時代の天正年間、十六世紀末頃になってからである。

錦小路通は平安京以来、そういう名前であったわけではない。
平安京にはやたら○○大路、○○小路という、大路・小路名が付されているが、これは一種のニックネーム。
最初から付されたものもあれば、途中で変更したものもある。
錦小路は後者の部類で、最初は「具足小路」と呼ばれたらしい。
それがいつのまにか訛って「屎小路」とも呼ばれた。
これにはちょっと面白いエピソードが『宇治捨遺物語』に載せられている。

話はこうだ。
十世紀の中頃「清徳聖」と呼ばれる仙人がおり、この仙人に藤原右大臣が米十石を施行したところ、たちまちのうちに食べてしまった。
仙人には人間には見えない数万の餓鬼・畜生がついていたので、この連中もついでに施行にあずかったわけであるが、さてこの「清徳聖」すっかり満腹すると、小路を歩いた。
小路では歩きながら「黒きえど」(うんこ)を長々とやりだしたのである。
もちろん、餓鬼・畜生もやったのでもう満杯、こうして小路名を「くその小路」と称したという。

まことに汚い話で恐縮だが、このあと、小路名を聞いた天皇は「あまりきたなきなり」と仰せられて、綾小路があるから「綾錦」からとって錦小路にせよ、と命令を下されたという話も載せている。
実際の資料では、天喜二年(1054)に後冷泉天皇が宣旨によって「具足小路」を錦小路に改名したとあるが、「屎小路」」の名も見受けられるから、おそらく両用されていたのであろう。

ともかく、平安末期以降は錦小路が定着し、江戸期に入って錦小路通は、多くの人々が集まる通りとなっていた。
まず魚市・魚棚がつくられているが、現在でも東魚屋・中魚屋・西魚屋などの町名がついた町々がこの通り沿いにある。
ついで青物市もつくられている。
近郊の農民たちがつくる京野菜の品々をここで立売りし始めたのである。

途中で町奉行所の手が入って、揉めたこともあったが、ついに公認の市場として機能し、ここから錦小路の本格的な食品市場が形成されることになった。

メモ (東から)

無し

 綾小路通

平安京の綾小路にあたる。
東は寺町通から西は天神川の西に至る。
途中、西院日照町の四条中学で中断。
全長約4.6キロ

平安京以来の歴史をもつ、立派な小路であり、代々富裕な商人たちが、この通りに沿って居を構えてきた通りである。

新町通を西へ行くと南側に杉本邸(指定文化財)がある。
江戸中期以降の京豪商の一人であった奈良屋の本店跡である。
明治初年の建築と聞く。

綾小路通、平安時代の中頃までには、この小路名は成立していた。
小路名の由来は不詳であるが、その後、通り名の変更はなかった。
しかし、この小路名が存在することによって、別の小路の名が変えられたことがある。
錦小路である。

ともかくも、平安時代からこの小路は美名として知られていたのである。
中世に入るとこの通りには、寺院が建ち始める。
もともと平安期には朱雀大路あたりに壬生地蔵堂があったが、中世にはさらに庶民信仰に根差した、矢田寺・妙満寺・善長寺が登場していた。
しかし、天正十八年(1590)の京都改造で、こうした寺々も、寺町通へと移されていった。

天正期の大改造は、寺の移転ばかりでなく、高倉通以東、油小路以西でとくに荒廃をみせていたこの通りを回復させた。
意識的な町人の移住がはかられたからである。
江戸期になると、木綿・足袋を扱う商人が軒を連ねたといい、さらには、永井藩・島津藩・松平藩・朽木藩・安部藩といった諸藩が幕末期までに、この通りに沿って京屋敷をつくり、町のなかに溶け込んでいた。

メモ (東から)

本居宣長修学地(綾小路通室町西へ南側)・八木家/壬生寺(綾小路坊城通下ル西側)・

 仏光寺通

平安京の五条坊門小路にあたる。
東は鴨川の西から西は佐井西通に至る。
全長約3.8キロ

真宗十派の一つ仏光寺がこの地に移転して以来、仏光寺の名前となった。

仏光寺は親鸞聖人が配所の越後から許されて京都に戻った建暦二年(1212)頃、山科東野に興正寺を建てたのが起こり。
元応二年(1320)に東山渋谷に移転した。
あるとき、泥棒が本尊の阿弥陀如来像を奪ったが、途中の二条河原に置き去りにして逃げた。
このとき、後醍醐天皇の部屋に怪しい光が差し込み、その光の行く先をたどると本尊があったという。
このことで仏光寺と改名した。

天正十四年(1586)、秀吉の大仏殿方広寺造営にあたり、現在地の高倉通仏光寺下ルに移転した。
本山仏光寺の周囲は大行寺、光薗寺、教音院など九寺院が取り囲んでいる。

仏光寺通は鴨川の西に始まり、すぐ河原町通りをやや北上して寺町通仏光寺から東西一直線に進む。
仏光寺の北に豊園小学校があった。
都心部の学校統廃合で洛央小学校として平成六年九月に開校。

「花の都の真ん中に その名もしるき豊園は そのかみ豊臣秀吉公 別やの跡とぞきこえたる」は戦前の校歌の一節。
秀吉は大仏殿の代替地として今の仏光寺の土地を贈ったが、秀吉の別荘もここにあったと信じられている。
「豊園」の名前は「豊臣秀吉の花園」に由来するという。
校庭には秀吉が茶の湯に使った井戸があった。
ここは江戸時代、盲人に検校、別当、座頭などの位階を授ける「当道職屋敷」があり、杉山検校の庵があった。
明治になっても全国から集まる盲人のための宿があった。

仏光寺通の烏丸を西に行ったところに、釘隠町がある。
『雍州府志』によると近世、角倉、十四屋倉、醍醐倉の三町人があり、十四屋倉がこの町に住んだ。
長押には釘を裸で打たず、鳥獣草木の模様入りの釘隠しを使った。
当時、町屋で釘隠しを使うのは珍しく見物人が訪れ釘隠町となった。
その隣が糸屋町。
『京都坊目志』によると、この町に山林九郎右衛門というルソン貿易の糸商人がいたための名前だ。

仏光寺通りは四条に近い為通りを挟んで船鉾町、岩戸山町、木賊山町、太子山町など祇園祭の山鉾にちなむ町が多い。
西洞院仏光寺下ル東に菅大臣神社がある、
菅原道真の生地で菅家学問所の旧地といわれる。
道真が大宰府でなくなってまもなくの創建だ。

仏光寺通りは堀川通り、大宮通を越えて壬生界隈を抜け、さらに千本通りを過ぎる。
壬生京極は雑多な商店街。

メモ 東から
壬生遊郭址(仏光寺通千本東北角)・

 高辻通

平安京の高辻小路にあたる。
東は鴨川の西から西は梅津に至る。
全長約5.8キロ

万寿寺通が細々と西進しているのくらべ、高辻通りは比較的広い感じがする。
これは太平洋戦争の末期に、軍による強制疎開で老舗も民家も綱で引き倒されたせいだ。
大宮通以西は昭和の建設だ。

高辻の名前は醒ケ井あたりが洛中でいちばん高いためだといわれる。
『室町殿日記』には「永禄年中、霖雨(長雨)降りつづき下京高倉より東は一面の河原にて家もこれなく、五条(現在の松原)より下は田野川原なり」と高辻通が水害を免れたことを示唆している。
江戸中期の『京町鑑』には、「高辻通、俗に藪の下と云う。此通の号の事詳ならず。また此通藪の下といふは中古、柳馬場より東洞院まで藪ありしゆへ其間ばかりを町の北名に藪の下と呼びたりしを、いつの頃よりか東西に通じて通り名とせり。此通東は寺町より、西は千本へ出る畠道也」とある。

高辻通の寺町〜烏丸間は昭和の初期まで箪笥、鏡台など家具、調度、漆器の家具屋街であったが、進取の気性に富む中京区の家具街夷川に客を奪われ、四条通の百貨店に近いこともマイナスに働いた。
そこへ強制疎開でついに立ち直れなかった。

高辻通りに面する各町と祇園祭の関係をみると、祭りの執行には直接参加せず、地ノ口米を寄付する寄町が多い。
烏丸西入ル下ルの小島町(月鉾、地ノ米一石一斗)、高辻町(函谷鉾、四斗五升)、猪熊西入ルの十文字町(太子山、二斗)、高辻猪熊町(太子山、二斗五升)、高辻大宮町(太子山、一石)など。
烏丸通高辻上ルの大政所町は祇園社(八坂神社)の御旅所があったところ。
天正十九年(1591)に秀吉の命で四条通寺町東に移された。
「誓文払い」の神として商売上の嘘を許してくれると信じられ、花街や商店主のお参りが多い。

堺町通高辻下ルの夕顔町は秀吉の洛中都市改造で開かれた町で『源氏物語』の薄幸の女性夕顔が住んでいたとされる町。

江戸初期の『京雀』には「すしや町」と改名されたことについて「このような古跡は求めてもないくらいなのに、なぜ夕顔の名前を変えたのか」と嘆いている。

高辻通室町西の繁昌町は町内の繁昌神社に由来する。

高辻通猪熊西に「古代友禅苑」がある。
昭和五十一年開館の私設美術館で、友禅関係のコレクションと手描き友禅の実演もある。

高辻通りは、堀川以西には友禅工場が多く、壬生の民家密集地、西院、梅津の工場街を経て梅津上野橋の北で終わる。

メモ 東から
夕顔塚(高辻通高倉東南)・道元禅師示寂地(高辻西洞院北西)・

 万寿寺通

平安京の樋口小路にあたる。
東は寺町通から西は佐井西通西入ルに至る。
途中、JR山陰本線などで中断。
全長約2.7キロ。
延長線上を西に葛野西通までも万寿寺通といわれる。

万寿寺通は、松原通と五条通の間を東西に走る細い道。
起点は寺町通と河原町通が合流するところで、この東、高瀬川に架かる橋も地元では万寿寺橋という。
鴨川以東は柿町通、六波羅裏門通にあたる。

平安京の樋口小路で、万寿寺通の名前は、至徳三年(1386)禅宗京都五山の五位に加えられた万寿寺が東洞院にあったことによる。
この万寿寺は現在、東山区本町十五丁目、臨済宗大本山東福寺の別格扱いの塔頭になっており、万寿寺通にはその面影すら残っていない。

万寿寺通の寺町〜烏丸間は仏具の町。
通りの入口に慶応元年(1865)創業の西村萬仏堂、松宮仏具店、間遠仏具店、松尾漆行所、松野店、京仏壇の加茂定などのほか、法衣、掛軸、美術箔、京扇子、水引など仏事、慶事の店が並ぶ。
昭和十年代には仏具店だけで三十軒もあったが今は十軒弱。

烏丸〜堀川間は一転して和装業者が目立つ。
室町の卸、加工業者だ。
万寿寺通は堀川通りに出て中断する。
すこし北にあがり、府警五条署も南の東西路も地元では万寿寺通と呼ぶが、すぐ突き当たり、五条通に南下する。
入口に巨大な「南妙法蓮華経」の石碑がある。
かつてここに日蓮宗大本山本圀寺があった。
このあたりには日蓮宗の寺や親鸞聖人が妻帯して住んだ大泉寺がある。
九条兼実が愛した月見の庭にちなんで月見町の名が残る。
万寿寺通は下松屋町通から再スタートするが、道幅はさらに狭くなる。

万寿寺通は堀川通、さらに千本通やJR山陰本線、京都市立病院などで寸断され、西進するにつれて道が細くなる。

メモ 東から
旧万寿寺跡(万寿寺通東洞院南東)・

 楊梅通 -ようばいどおり-

平安京の楊梅小路にあたる。
東は東洞院から西は堀川通りに至る。
全長約800メートル。

楊梅通は京都の東西幹線五条通の一筋南で、東洞院から、ものの十分も歩けば堀川通りの終点に達する。
繊維関係の個人商店や民家、ガレージなどが並び、さして由緒のある建物もない。
ごく地味な庶民の通りだ。
平安京の楊梅(やまもも)小路にあたる。
このあたりにヤマモモの木があったのだろう。

藤原定家の日記『明月記』の建仁三年(1203)十二月五日の条に「夜半ばかり南に火事があり楊梅南、室町西一町焼ける」とあるのが文献の早い例とされる。
平安時代は貴族の邸宅が並び、源融の河原院が楊梅通にまで達していた。
万里小路西に六条院、室町西に『池亭記』や『日本往生極楽記』で知られる慶滋保胤の邸宅があった。
現在の楊梅通新町東入ル上柳町と西隣の蛭子町の一部にあたる。慶滋保胤は上京は地価が高くて買えないので六条の北の荒地を求め、池を開き阿弥陀堂を建立して念仏三昧の生活を送った。

『京都坊目誌』には楊梅通について「文明以来、全く荒涼に属す。天正中、再開する所なり。天使突抜以東を雪駄屋町とも称す」とあり、『京羽二重』には高倉通から西へ佐女牛さめうし(醒ケ井さめがい)まで雪駄を売る店が多かったと書いている。
現在の楊梅通は天使突抜通で南に折れている。

楊梅通に面する横諏訪町は諏訪神社にちなみ、中金仏町は近くにあった延寿寺(現在は下京区富小路通五条下ル)の通称が金仏寺で、本尊が金仏であったことによると『京町鑑』は伝える。

今の市立尚徳中学校のある上柳町一帯は江戸時代、六条三筋町といわれた幕府公認の遊郭があったところ。
当初は秀吉の許可で二条柳町にあったが、二条城造営で六条柳町に移った。
京都所司代板倉勝重が慶長七年(1602)に荒涼とした六条の地に移転させた。
「洛中洛外図屏風」に遊郭の賑わいぶりが描かれている。
六条の七人衆、六条の四天王などと呼ばれる有名な遊女がいた。
史上有名なのは遊女屋林家の太夫吉野(七人衆の筆頭)。
京都の豪商灰屋(佐野)紹益が惚れ込んで、関白左大臣にまでなった近衛信尋と競って身請けした。

北区常照寺の山門は吉野太夫の寄進で「吉野の赤門」と呼ばれる。
四月第三日曜日には「吉野太夫花供養」の太夫道中がある。

この遊郭は慶長十七年、突然、島原に強制移転させられ、その慌ただしさが「島原の乱」のようだといわれた。
六条柳町は島原の前身なのだ。

上柳町の尚徳中学校は『論語』の「子曰く、君子なるかな、かくのごとき人。徳を尚ぶかな、かくのごとき人」による。
かつての公認遊郭を偲ぶものは、まったくない。

メモ 東から

 花屋町通

平安京の左女牛小路にあたる。
東は富小路から西は天神川に至る。
途中、JR山陰本線・京都市中央卸売市場で中断。
全長約4キロ。
旧花屋町通は新町通から堀川通りに至る。
全長約300メートル。

真宗本願寺派(西本願寺)の門前では、一筋南を並行して走る正面通と並んで花屋町通と旧花屋町通の二つに分かれる。
両通りとも仏具屋町といってよい。

通りの表看板ともいえるのが、堀川通りにどかんと一つ建った西本願寺の「振袖門」である。
かつて南に七条門、北には天狗門の総門が並んだけれども、今は、この「振袖門」だけが残る。

通りには両側に数珠屋さんから法衣屋さんに仏壇屋さんが、そして仏教書出版などの老舗がずらりと並ぶ。

花屋町通は、西へ阪急電鉄京都線の西京極駅まで伸びているが、新町通から堀川通間では、もともとの本通りは旧花屋町通になる。
新花屋町通は昭和初年までは佐女牛通や万年寺通などが少しずつずれて通っていて、のち戦時中の疎開で拡張されて一本の通になったそうだ。

寛永十四年(1637)の「洛中図会」にはすでに「花屋町筋一丁目」とあり、『京都坊目誌』によれば、通の名の由来は「花を売る店が多かった」からだという。

「振袖門」を隔てて西本願寺へ架け橋のようにつなっがた花屋町通。
昔も今もこの真宗本願寺派の教団と深いつながりで結ばれている。

かつて春秋のお彼岸は、西本願寺の中央幼稚園に残る太鼓堂のドンで明けた。
午前六時。
勤行に打たれるご晨朝の太鼓を合図に、居並ぶ仏具の店々は、もう団体参拝客で埋まったそうだ。
信仰厚い門徒衆が自家の仏具だけでなく、国許への土産を買うのである。
今は、飛雲閣の鐘が合図である。

旧花屋町通を歩いての楽しみは、各仏具屋さんなどの木製の彫刻看板の多彩さである。
欅の一枚板で軒にあげた重厚な構えは、それぞれの店の格調であり、町通りの長い歴史を伝えている。
看板の筆者も、本能寺、天龍寺の官長・貫首に、明治の名筆家たちである。

メモ 東から

京都友禅文化会館(花屋町通西小路二筋西入ル北側)・

 正面通

平安京の七条坊門小路にあたる。
東は大和大路通りから西は千本通りの東に至る。
途中、渉成園(枳穀邸)と東西両本願寺で中断。
全長約1.6キロ。

今では何の正面かわかりにくいが、これは東山の方広寺大仏殿に対して正面という意味。

平安京の七条坊門小路に相当する。
だが、肝心の方広寺大仏殿は昭和四十八年三月二十八日夜の火災で焼失した。
今に残るのは豊臣秀吉滅亡の原因となった「国家安康 君臣豊楽」の大梵鐘のみ。
「国家安康」と家康を分断したと因縁をつけた空前の陰謀事件だ。

奈良大仏殿の三倍といわれた大仏殿が完成したのは文禄四年(1595)、絶頂期の秀吉の造営。
だが翌文禄五年七月十二日の大震災で倒壊するなど四回も倒壊、焼失を繰り返し、その都度再建されたが昭和の火災以後、まったく再建の話はない。

正面通は大和大路通の豊国神社、方広寺大仏殿の前から始まり、鴨川の正面橋を渡る。
河原町通りで東本願寺の名勝渉成園(枳穀邸)で行き止まり。
渉成園の入口から再び正面通が始まり、今度は東本願寺でまた行き止まり。
大宮通から出直して千本通りの一筋東で児童公園に行きあたる。

枳穀邸と東本願寺の間は中珠数屋町通とも呼び、北が上珠数屋町通、南が下珠数屋町通のいわゆる「東本願寺前三筋」だ。
東本願寺から西本願寺に至る正面通を土地の人は御前通と呼び、本山西本願寺の前に誇りを感じて「御前」と敬語を使った。

正面通には秀吉の朝鮮出兵の際、戦功のしるしとして持ち帰った耳や鼻を供養した耳塚があり、ほかに鞘町通正面には御料理「道楽」、東本願寺の明治再建のとき地方の人を泊めた詰所(旅館)や、仏具、法衣、仏教図書出版、お香の店など江戸時代から続く老舗が多い。

メモ 東から

亭子院址(天使突抜通正面下ル西側)・

 北小路通

平安京の北小路にあたる。
東は新町通から西は佐井西通西入ルに至る。
途中、京都市中央卸売市場などで中断。
全長約2.4キロ
東の延長線上に下珠数屋町通がある。
全長約400メートル

北小路通は目立たない。
七条通より一筋北の細い道。
東本願寺の裏の新町通から始まり、堀川通からは西本願寺と興正寺、龍谷大学大宮学舎の間を抜ける。
西本願寺の鱗壁が延々と続く道だ。
北小路通に面する桃山時代の絢爛豪華な国宝・唐門は、見飽きないため「日暮門」と呼ばれる。
通を隔てた龍谷大学本館は明治の洋館造りで重要文化財だ。

大宮通に出て平安高校に突きあたり、さらに京都市中央卸売市場で分断される。
西七条一帯を横断して西高瀬川から佐井西通西入ルで終わる。

江戸時代、北は六条通、南は下魚棚通、東は新町通、西は大宮通までの西本願寺寺内と呼び、一般には西寺内といった。
本願寺(西)が大坂から現在地に移転したとき、出入の業者、寺侍、一般町民も大坂から移転してきた。
堀川通りの北小路東の北小路町は旅館街である客室十二町の一つで、西本願寺の太鼓番屋(時報や非常警報の番屋)に出る道のため、「太鼓の前町」と呼ばれた。

『京雀』に「この町の西の辻はさめが井通のすえにて御本寺の南のかた太鼓の番やの下に出るなり。そのもとに堀川の流れに渡せし橋あり。その南のかたは興正寺跡なり」とある。

正徳五年(1715)の記録によると寺内町の人口は九千九百九十三、千二百件。
寛永年間(1624〜44)には仏具二十三、抹香三、帯十四、豆腐五、蝋燭二、畳四など九十四の職種があった。
鍛冶屋町、米屋町、竹屋町、仏具屋町などの町名はその名残だ。

門前には明応元年(1492)創業のお菓子の老舗亀屋陸奥や文禄三年(1594)創業の負野薫玉堂などがある。
寺内町には借家人を除いて西本願寺の門徒でなければ住めず、本山に地子銭という土地代を納めたほか、労役も提供する従属関係にあった。
現在でも本山誤用達の四十八軒が「開明社」を組織し、報恩講の接待奉仕を行っている。

北小路通の東の延長線上、土手町通から烏丸通間、七条通と正面通の間に下珠数屋町通がある。
『京都坊目誌』には、北小路通は「烏丸以東にて下枳殻馬場に当たる」とあり、下枳殻馬場の項目では「下珠数屋町通とも称す」と出ている。
東本願寺の門前町で仏壇、法衣、旅館、地方門徒の簡易宿泊所の「詰所」がある。
門前の橘町は『京雀跡追』に「じゅずや、東本願寺門前町」とあり、現在も仏具店が多い。

メモ 東から

枳殻邸(北小路通河原町北西角)・適翠園(北小路通堀川北西角)・唐門(北小路通猪熊)・

 塩小路通

平安京の八条坊門小路にあたる。
東は東大路通から西は大宮通に至る。
全長約2.2キロ。
西の延長線上に西塩小路通がある。
全長約1キロ。

平安京の塩小路は現在の木津屋橋(生酢屋橋)通に相当する。
江戸初期の『京雀』には「この筋も東は田畠にて町家なし。大宮以西も町家なし」と荒廃ぶりを伝える。
塩小路通の名前は平安時代、左大臣源融(822〜895)の河原院に、難波(大阪)から船で海水を運ばせ塩を焼いたことによるとされるが確証はない。
毎月、一升瓶にして二千本も運ばせたというから、贅沢なものだ。

塩小路通は国鉄の歴史とともに発展した。
明治九年、鉄道が開通、初代京都駅は塩小路通に接するように建てられた。
七条停車場で、明治生まれの人は「ヒッチョステンション」と呼んだ。
それまでは付近はクワイ、ネギ、水稲の農家が点在していた。
大正の御大典で現在地に京都駅としてスタートした。

京都駅前のプラッツ近鉄は、旧丸物百貨店でその前身は大正初期、駅前にあった京都物産館。

塩小路通は旧梅小路機関区で分断され、七本松通から西塩小路通と名前を変えて商工業者の町を抜け、西高瀬川の向橋で尽きる。

メモ 東から
後白河天皇陵(塩小路通東山北西角)・


■■ その他の主な通り

 今小路通
 中筋通
 横明神通
 広小路通
 荒神口通
 上切通し
 下切通し
 郁芳通
 郁芳南通
 郁芳下通
 矢掛通
 土居ノ内北通
 土居ノ内南通
 高辻北通
 高辻南北通
 万寿寺南通
 中堂寺通
 中堂寺南通
 下坂通
 鍵屋町通
 的場通
 上ノ口通
 上珠数屋町通
 下魚棚通
 木津屋橋通
 梅小路通
 針小路通
 東寺通


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