■ 京都昔ばなし 16話 -完-

近衛御門のがま | そば喰い像 | 牛若と弁慶 | 舞茸の話 | 桂川の餅屋の娘 
寛算石|お水を集めるお人形|梅津の長者 | ぬえを退治した源三位|蛸薬師 | 熊ん蜂の山賊退治 | 飴買い幽霊 | 鬼笛の話 | 戻橋の鬼女 | 狐の少女 | 一休さんのとんち

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近衛御門のがま

今から千年ほどさかのぼった昔のことです。

京の都の近衛御門の前に、黄昏時になるときまってうずくまっている、変わりもののがまがいました。
あたりが闇につつまれる前の、うす暗がりの中のことですので、御門を通る人は身分の別なく、皆、一度はがまにつまづいてひっくりかえってしまうのでした。
がまの方は、いたって元気なもので、人が自分にひっかかって倒れたとわかると、いつのまにかその大きな体をどこかにくらましてしまうのです。
このがまにつまづいた者は、もう二度と繰り返さないぞと、大見栄をきるのですが、どういうわけか、いとも簡単に、二度、三度の誤りを犯してしまうのです。
とにもかくにも、人騒がせな不思議ながまでしたので、人々はおもしろおかしく噂をしました。

ある時、この噂を耳にした、鼻っぱしらの強い一人の学生が、「あほなやつらがいるものだな。一度目は大目に見るとしても、何度もひっかかる者にいたっては、そのがまにも劣るというものだ。ここは一番、この私が出かけていって、がまのやつをぎゃふんといわせてやるとしよう。」などと、気楽なことを考えながら、夕方、近衛御門へとやってきました。

近衛御門の前には、すでにがまがへたりとすわりこんでいます。
学生ががまを見るなり、「いたぞ、いたぞ、ほおれ、この私はへっちゃらよ」と言いながら、ピヨーンとひとっとびがまの体の上を飛び越えました。
ところがそのひょうしに、頭から冠がはずれてコロリと下に落ち、学生の沓にピタッとくっつきます。
「しつこいがまめ」自分の冠をがまと勘違いしてしまった学生は、これでもかこれでもかと、冠を執拗に踏んづけようとするのですが、どっこい敵は堅くて堅くて・・・。
いよいよ怒った学生は飛び上がった勢いで、なんとしてもそのがまならぬ冠をぺしゃんこにしてしまおうと奮闘しているところへ、内裏から、たいまつを先頭にして、殿上人たちがやってきました。
学生は我にかえり、道にひれ伏して、えらいお方が通り過ぎてしまわれるのをじっと待っています。
ところが、たいまつを持った男が、火に照らし出された学生の異様な姿に、なみなみならぬ関心をもってしまったのです。
「やっ、こんなところにおかしな男がいるぞ!」そう一声叫ぶと、他の人々が、我も我もとのぞきこみます。
なにしろ、みんなの前にへっつくばっているのは、冠もかぶらず、うす汚れた袍を着た男だったのですから。

「おまえはこんな所で、いったい何をしているのですか?」皆が口々にそう尋ねます。
「はい、私は起伝学生の藤原というものですが。今日は、皆様に大変御迷惑をおかけしておりますがまのやつを、ぜひ退治してやろうと思いたち、その追捕吏としてやってきたのです。」
学生が言い終わるなり、皆は、「追捕吏だと?」「おもしろいじゃないか。」「いや、ただの気ちがいさ。」等々、やんやと囃したてます。
そして、宮殿の中に声をかけ、他の召使たちを呼び集め、むりやり学生を引っぱり出しましたので、学生の方も、たまったものではありません。
「私は起伝学生の藤・・・」と頭へ手をやった学生は、初めて冠が頭上にないことに気が付きました。
そしてこれは、目の前で騒ぎたてている召使どもの仕業にちがいないと思いこみ、「冠を返せ!」と大声でわめきちらしました。
が、一向に手ごたえはなく、むしろ召使たちは、「これはおもしろい男だ」と大喜び。
そこで、怒り骨頂に達した学生は、皆の中へ勢いよく飛びかかっていきました。
ところが、近衛御門を出たところで、学生は何かにつまづいて、「バタン」とひっくり返ってしまいました。
顔をこっぴどく打ち、血が出たのに気がつくと、それこそががまのせいだとは夢にも思わず、「大変なことになった!」と、召使どもの笑いさざめく中を大急ぎで帰っていきました。
しかし、こうも悪いことがおこると、学生でなくとも心は大そう乱れるものです。
学生は、いつのまにか変える方角を見失い、道に迷ってしまいました。
それも夜更けのことですから、誰とて出会う者もなく、学生は泣く泣く野宿をするはめになりました。
朝、明るい日の中で自分の姿を見た学生はギョッとしました。
冠はとうに失い、身体中どろどろに汚れ、おまけに顔からは血がポタリポタリ落ちています。
ほうほうのていでやっと家にたどり着いた学生は、みなの嘲笑の中、自らの愚かぶりを得意顔で吹聴してまわったということです。
なんともはや、あきれたおはなしもあったものです。

そば喰い像

親鸞がまだ範宴という名前で修行をしていたときの話です。

その頃、範宴さんは、他の若いお坊さんたちといっしょに、比叡山にこもって修行をつんでいましたが、どうしても仏心を会得することができず、ひとり心を痛めていました。
そして悩みぬいたある日、都にある六角堂というところへ百日参籠することを思いつきました。
その晩から範宴さんは、皆が寝静まった後誰にも知られないようにこっそりと山を下り、明け方、皆がまだ目を覚まさないうちに宿坊に帰ってくるという、つらい修行を自分の身に課することになったのです。
はじめは何事もなく無事に過ぎていきましたが、いつしか仲間のお坊さんたちの間で、範宴さんの朝帰りの噂がささやかれるようになりました。
そしてその悪い噂は、範宴さんたちに説法する偉いお坊さんたちの耳に入ることになりました。
偉いお坊さんは事の真相を確かめるために一計を案じました。
ある晩、突然に皆をお堂に集合させると、一同をゆっくりと見まわし、順番にひとりひとりの名前を呼び始めたのです。
範宴さんの番がまわってきた時、仲間のお坊さんたちは、息をのみ、事の成り行きを見まもっています。
「範宴っ」お坊さんのどっしりと重い声がお堂の中に響きます、と、どうしたことでしょう。
「はい・・・」と確かに声がするのです。
偉いお坊さんは、その声を聞くなり胸をなでおろしました。
仲間のお坊さんたちの気持ちも同じでした。
噂がただの噂であったことにすっかり安心した皆は、その後夜食のおそばを食べ、それぞれの宿坊に帰っていきました。

ところが翌朝、早起きをした一人のお坊さんが、庭でばったり朝帰りの範宴さんと出会ってしまったのです。
一瞬そのお坊さんは自分の目を疑いました。
このことはすぐに皆の耳に伝わり、仲間のお坊さんたちの手で昨夜の返事の主の探索が始められました。
そして見つけられたのは範宴さんの彫った彼そっくりのお像でした。
口元にわずかに青ねぎがついていたのです。
この見がわり像は、そば喰い像と呼ばれるようになったということです。

牛若と弁慶

京の北にある鞍馬山のお寺に、心がまえや行いの大そうすぐれた子供がありました。
その子は名を牛若といい、七歳の時、母常盤と別れ、この鞍馬寺の和尚、東光坊にあずけられたのです。

この寺に来るまでの牛若は、今若、乙若という二人の兄と一緒に母に連れられ住居の定まらない、根なし草のような生活を強いられてきました。
それなりの深い事情があったのですが、幼い子供たちにそれを理解しろというのは無理なことでした。
ただ牛若は、幼な心に、母の寂しそうな姿だけを、鮮明にとらえていました。

鞍馬寺に入ってからの牛若は、和尚さまの言いつけをよく聞いて、大変まじめに勉強しましたので、和尚さまは牛若のことをとても自慢にしていました。
そんな牛若のただひとつの楽しみは、夜お寺を抜け出して、ひとり静かに笛を吹くことでした。
父の名は知りませんでしたが、父が好きだったという横笛を、とても大切にしていたのです。

ある夜のこと、いつものようにお寺をこっそりと抜け出した牛若が、笛を吹いておりますと、ひらり目の前に、恐ろしい顔をした天狗があらわれました。
そして、牛若の中の、りりしい姿を見てとると、「それでこそあのお方の御子そ、見事な武者に成長なされよ。」といことばを残し、たちまちのうちに姿を消してしまいました。

そして、牛若が、天狗の言った「あのお方の御子」が誰のことを言っているのかふしぎに思っていた矢先、ひとりのお坊さんがあらわれ、「牛若さま、あなたのお父上は、今は亡き源氏の御大将、源義朝さまでございます。」と告げました。
それから、今までのことを全て話してくれましたので、牛若にも少しづつ事の次第がわかってきました。
そのお坊さんは最後に牛若に、「明日からは貴船神社へお参り下さい。」と言い残し、人目を避けるように去っていってしまいました。

翌日牛若は、見知らぬお坊さんが言ったように、貴船神社にお参りに行き、源氏の生き残りである我が身をまもってくれるようにお祈りしました。
その帰り道のことです。
山中では牛若は、からす天狗の一団に襲われ、必死でうちむかいましたが、残念ながら、一人の天狗も倒すことができませんでした。
それからは、毎夜牛若は天狗退治に出かけ、みるみるうちに剣術の腕が上達していきました。

何年か過ぎ、あの牛若は、十九歳の武芸にすぐれた若者に成長しました。
そして、名も九郎義経と改め、時折鞍馬を抜け出しては、都の五条にある天神さまへ、りっぱな侍になれますようにと、お祈りに出かけるようになりました。

その頃都では、とても腕っぷしの強い武蔵坊弁慶という荒法師が、うろつきまわり武士と見るとかたっぱしから戦いを挑み、相手の刀を奪い取っていました。
そしてその数は、九百九十九振りにもなっていました。
そして千振りめの刀を手に入れるべく天神さまに願をかけ、五条の橋のたもとで、理想的な相手を待っていました。
すると夜明けに、とても美しい笛の音が聞こえてきましたので、その音の方を見ると、白い着物の若者が、見事な黄金作りの刀を腰に差して、こちらに向かって歩いてきます。
弁慶は、その腰のものにすっかり心を奪われてしまいました。
そして、千振りめの刀としてそれを手に入れるために、若者の前に仁王立ちになると、「やい、ここを通してほしくば、その刀をおいてゆけ!」と大声をはりあげました。
義経は、「とれるものならとってみよ。」と笑い、大なぎなたをふりまわして切りかかる弁慶を、右にひらり、左にひらりとかわします。
そしてとうとう弁慶をうちまかし、何事もなかったように笛を吹きながら立ち去って行きました。
負けを知らなかった弁慶は、じだんだふんでくやしがり、何が何でもあの刀をと、翌日も五条の橋の上で若者を待っていましたがその時にも、義経に軽くかわされ、取り押さえられた弁慶は、今度こそ観念し、二度と悪事をはたらかないことを誓い、義経の第一の家来となりました。

そしてこの時から、弁慶は、父の無念を晴らしたいと願う義経の大きな力となり、最後の最後まで、義経を守り通す忠実な家来となったのです。

舞茸の話

むかし、京の都のきこりさんたちが大勢で、北山に出かけたときのふしぎな話です。

お天気もよくつい浮かれたためか、いつの間にか道に迷って山の奥深く入り込んでしまったきこりさんたちが、お腹はすくやら心細いやらで途方にくれていますと、突然林の奥のほうから、がやがやと騒々しい人声が聞こえてきました。
ふしぎに思いながらも、人に会えるうれしさに、声のする方を一心に見まもり心待ちしていたきこりさんたちの前にあらわれたのは、四・五人の尼さんたちでした。
それだけならどうということもなかったのですが、奇妙なことにその尼さんたちは、目を大きく見開き、手ぶり足ぶりもおもしろおかしく踊りながらやってくるのです。
急にきこりさんたちは恐ろしくなってきました。
その様子を見る限りではとても人間の、しかも尼さんには思えないのです。
まるで鬼か魔物がついているような気さえしてきて、あわてて、木の上や草の陰に隠れました。
それでも尼さんたちは、きこりさんたちの居場所を知っているように、どんどんどんどん近づいてきます。

ひとりのきこりさんが勇気をふりしぼって尋ねました。
「もし、そこの尼さま。こんな山中をどうしてそのように踊りまわっておられるのですか?」
大声で笑いながら踊り狂っている中で、ひとりの尼さんがやはり舞い踊りながら答えました。
「ふしぎに思われるのは当然です。私たちにもどうしてよいのかわからないのですから・・・・・。実は私たちは山の寺に住む尼なのですが、御仏にお備えする花を摘んでこようと、本当に軽い気持ちで出かけてきたのです。でもどうしたことか道に迷ってしまい、気がついたらもう日もとっぷりと暮れかけていました。お腹はすくし、帰る道はわからないしで、ほとほと困り果てた末に、どうせこのまま死ぬのならせめてお腹だけでも満たそうと、そばに生えていた茸をひと口づつ食べたのです。でもそのおいしいことといったらこの世のものとも思えないほどでしたので、とうとうまわりにあった茸という茸をみんな食べつくしてしまいました。天罰とでもいうのでしょうか。そのふぢぎな茸を食べ終わったとたん、私たちの手足は、ほれこの通り、自分勝手に踊り出し、止めることができなくなったのです。」
尼さんたちは相変わらずとても楽しそうに踊っています。
きこりさんたちはあきれはてたりかわいそうに思ったりしてしばらく見ていましたが、やはり空腹には勝てず、思いきって残りの茸を分けてくれるように尼さんたちに頼みました。
尼さんたちは最初は熱心に止めましたが、きこりさんたちが聞き入れないので、仕方なく茸を分けてあげました。
よほどお腹がすいていたのでしょう。
きこりさんたちはもらった茸を一気に全部食べてしまいました。
なるほどその茸は、聞きしにまさるおいしさで、きこりさんたちはみな、うっとりといい気持ちになってきました。
そのとたん、手がピョコリン、足がピョコタン、勝手に動き始めました。
そしてあれよあれよと思うまに尼さんたちの仲間入りをしてしまいました。
尼さんたちときこりさんたちの奇妙な一団が踊りながら、林から林へとわたり歩いていきます。
そして日が西に傾いた頃、皆の手足は踊りをやめ、もとの状態にもどりました。
やっと茸の魔力が消えたようです。
その瞬間、尼さんやきこりさんたちは自分たちの手足を確かめ、皆で喜びあったということです。
それから京では、この茸を舞茸と呼び、どんなに空腹でも食べないようにと言い伝えられました。

桂川の餅屋の娘

京の町外れに住むある夫婦に、待望の赤ちゃんが授かりました。
あきらめかけていたときでしたので、二人は大そう喜びました。
さて、お腹の子がそろそろ産まれそうな気配になってくると、男は心配で心配でいてもたってもいられなくなり、丹波の老ノ坂にある子安地蔵に、安産をお願いしに出かけてきました。
丁度その時、折り悪く別のお地蔵さんがやってきて、「子安地蔵さま、私の知り合いに難産でひどく苦しんでいる母親がいます。どうか一刻も早くあの苦しみから救ってやってください。」と頼みましたので、子安地蔵は「はてさて困ったものよ。我が身は一つ、同時に二人のお願いを聞いてやることもできず、どうしたものかな。」
としばらくの間考え込んでおりましたが、「やはり苦しんでいる者を先に助けねばならんでな。先の方、申し訳ないが、ここで待っていて下され。」と言っておいて、後から来た地蔵さんといっしょに出かけてしまいました。
男は家に残してきた妻のことが気がかりでなりませんでしたが、ここまで来た以上手ぶらで帰るわけにはいきません。
そして、やっとのことで帰ってきた子安地蔵をせきたてるように家へと向かいました。
その道中、子安地蔵は大そうなすまなそうな声で、「お前の妻はな、実は難産の末に子を死産するという運命にあったのじゃ。しかし、多少でも関わりあったが何かの縁、今回は何とか赤児の命も助けてやろう。だがな、その代わり、その子は十八になった年に桂川の主に命を捧げることになるだろう。それだけはわしの力ではどうにもならないのだよ。」と言いました。
男は混乱した思いの中で、それでも今はただ、妻と子の安産を祈らずにはいられませんでした。
急いで家に帰ると、まっ先に妻の寝ている部屋に行き、妻が子安地蔵の約束通り元気な男の子を産んでいるのを確かめると、ほっと胸をなでおろしました。

男の子は二人の愛を一身に受けて、やさしい心根のまますくすくと育っていきました。
あまりに元気なその子の様子に、父も母も、子安地蔵の言ったことが誤りであるような気さえしてきました。
そんな折、男は偶然にもお役所から、桂川のせぶりの役を仰せつかったのです。
再び男は不安にさいなまされ始めました。
こうなったら桂川の水に異変がないことを祈るばかりです。

とうとう男の子は十八の年を迎えました。
不思議なことにその日から大雨が降り続き、桂川の水があふれんばかりに水かさを増してきました。
父親は動転しながらも覚悟を決め、立派に役目を果たそうと桂川に出かけた時、息子が声をかけました。
「お父さん、今日はお願いがあるのです。私ももう十八です。りっぱにお父さんの代わりがつとまる年ではないですか。どうか、桂川のことは私に任せて、家にいてください。」
そういうなり、父親の止める声を振り切って笠一つもち雨の中を飛び出して行きました。
父親はこれも全て運命だと悟り、妻に息子の最後がきたことを告げました。
そして、息子の亡がらを持ち帰るため、後を追って桂川へと向かいました。

先に出た息子の方は、桂川まで走り通しでしたので、とてもお腹がすいていました。
そこでまず腹ごしらえをしようと、川のそばにある餅屋に入り、名物の餅をたらふく食べました。
さて、代金を払おうとして金額を問うと、餅屋の娘は「百貫です。」と言います。
あまりの金額にびっくりしながら、あいにく持ちあわせのない息子は、娘に編み笠を渡し、「悪いがこれを代金の代わりにとってくれ。そして、もしも私が死んだら、この命、編み笠一枚のものだと思ってほしい。」と頼みますと、娘は「私も一緒に連れていってください。」と申し出ました。
息子が命を失うことにもなりかねないと説得をしますと娘は意を決したような真剣なまなざしで話し始めました。
「実は私は桂川の主なのです。今日はあなたのお命をいただくはずだったのですが、あなたのやさしさに心をうたれました。あなたを六十一の年まで生かしてさしあげましょう。」
そう言って娘は桂川に姿を消しました。
後から来た父親が息子の無事な姿を見て喜んだのは言うまでもありません。
その後桂川にはもとの静かな流れがもどり、息子も六十一の年まで、病気一つせず、生きのびたということです。

寛算石

藤原氏が菅原道真を滅ぼした後、都では、藤原時平が栄華を極めていました。

その年の夏は、いつもと比べものにならないくらい暑さでしたが、その中でもきわだって暑いある日、先ほどまで晴れわたっていた空が一瞬のうちにかきくもり、薄暗い中を激しい大稲妻が暴れだしました。
そしてその大稲妻を追いかけるように、ものすごい音をさせて雷が鳴り響きます。
下々の者はもとより、宮中の身分の高い公卿たちでさえ、恐ろしさに身を縮みあがらせながら、上を下への大騒ぎ。
運の悪いことに雷の方も皆の流れにピタリとあわせたかのようについてまわるのですから、たまったものではありません。
女子供は泣き叫び、男どもは我先に逃げまわります。

皆のうろたえぶりを見ていた藤原時平は、内心の恐怖心をぐっと押え、「間もなく雷もおさまろうほどに、皆の者、静まりなさい」と申し伝えましたが、雷は一向に衰えを見せず、あろうことか、西の空からも別の雷が登場するにいたっては、さすがの時平もがまんできなくなり、「誰か助けてくれ!」と悲鳴をあげて、文机の下にもぐりこんで、ワナワナと震えておりました。

するとどうでしょう、
そんな時平の様子を待っていたとばかりに、雷は鳴り止み、石と化して東寺の方向に落ちていきました。
それを見ていた人々は、「これは道真の祟りに違いない。恨みが深すぎて浄仏できず、雷となって天罰を下しにやってきたのだ」とささやきあいました。
二つめの雷は道真の助っ人に現れた寛算和尚の様でした。
それからまもなく時平はなくなり、それ以後その石のことを寛算石と呼び、今でもその石に触れると良くないことが起こると言い伝えられているのです。

●歯神之社(寛算石または寛山石)

所在地:京都市南区油小路通東寺道下ル2筋目西入ル南側西九条蔵王町  近鉄京都線東寺下車

所属:

種別:自然石

計測:高さ30cm 長経160cm 短経100cm

由来など:歯痛平癒を祈る信仰があり、神前に供えた竹箸で食事をすると不思議になおるといわれ、お礼に竹箸を供える。
6月26日寛算の日。 

お水を集めるお人形

むかしむかし、高陽親王という皇子さまが、京極寺というお寺を建立されたころのはなしです。

親王さまはとても手先の器用な方で、工夫を凝らしたおもちゃや道具をお作りになっては皆を驚かせたり、役に立つものは分け与えたりされましたので、皆からとても愛されておいででした。

ある年のことです。
その年は待てど暮らせど一向に雨の降る気配もなく、幾日もひどいかんかん照りが続いていました。
親王さまはとてもやさしいお方でしたので、大そうお心を痛められ、噂を人づてに聞くだけではおさまらず、とうとう、御自ら、視察にお出かけになりました。

なるほどあたりの様子は、想像以上にひどいものでした。
田んぼの水は枯れはて、ひび割れをおこした地面から、ひょろりと不安定にのびた苗が哀れです。
一通り、ご覧になった親王さまが、御所にお帰りになられた頃には、お心に浮かぶものがあるらしく、自分のお部屋にひきこもられたまま、数日の間、ほとんどその姿をお見せになりませんでした。
やっと親王さまがお部屋から出てこられた時、その胸には、子供の人形らしきものが抱かれていました。
親王さまは、さっそくそのお人形を、京極寺の田んぼの真ん中に設置しました。
お人形は両手に大きなお椀をもち、それに水を入れると顔にその水をかけるしかけが施されていました。
その仕かけ人形の話が人づてに都中に広まり、見物人が押し寄せてきました。
そして、皆が人形の仕かけを見るためにお椀の中に水を入れましたので、あたりは再び水を得てよみ返ったということです。

梅津の長者

むかしむかしのことですが、山城の国の梅津というところに、貧しい暮らしをしている夫婦がおりました。
でも二人ともひどい貧乏暮らしをしている割には、いつも明るくて人には親切な正直者でしたので、それなりに幸せな日々を送っていました。
ただ、それでも、今の苦しい生活から抜け出たいと願い、毎日えびすさまにお祈りをしていました。
自分の欲からではなく、夫は妻に、妻は夫に、おいしいものを食べさせ、あたたかい着物を着せてやりたいと願ったからでした。

ある時、男がせりを摘みに野原に出かけておりますと、尼さんが通りかかり、困り果てた様子で京への道を尋ねてきました。
男はしばらく間、丁寧に道の説明をしていましたが、ややこしくなってきましたので、えいっとばかりに分かりやすい所までの道案内を買って出たのでした。
そして目的地まで行くと、再び丁寧にそれからの道を教えましたので、尼さんもようやく理解ができたようでした。
大そう喜んだ尼さんは、「おかげさまで助かりました。これはわずかですが私のお礼の気持ちです。どうぞお餅でも買って食べてください」と言うと、一文銭を渡しました。
男は一文銭を握りしめると、尼さんに別れを言い、一目散に家へと向かいました。
そして帰り着くとすぐおかみさんに尼さんとの一部始終を話し、さっそく餅を買ってくるように言いました。
おかみさんもとても喜び、「なんていい日だろうね。せりもたんと手に入ったし、お正月でもないのにお餅まで食べられるんだからね」そうつぶやくと、急いで餅を買いに走りました。
一文銭で餅は丁度二個買うことができました。
つきたての柔らかくて白いお餅を大事そうに抱えながらの帰り道、おかみさんは一人の身なりの粗末なお爺さんに声をかけられました。
「そこのお人、どうぞ助けると思って、この哀れな年寄りにその餅を一つ恵んでは下さらんか」
今にも倒れそうなお爺さんの様子を気の毒に思ったおかみさんは、「さあ、おあがりください」と、餅を一つお爺さんの手の中にそっと握らせました。
これでお餅は一つきりになってしまいましたが、おかみさんの心の中は、前よりももっと福々としていました。
家に帰って、夫にそのことを話しますと、「それはいいことをした」ととても喜び、残りの餅を二つに割って、一つはおかみさんに、そしてもう一つは自分のものとして、とてもおいしそうに食べました。

その夜のことです。
二人はとても幸せな心持で床につき、夢の中でいつものようにえびすさまにお金もちになれますようにといのっていました。
すると、突然えびすさまが姿をあらわし、とても優しいお声でこうおっしゃるのでした。
「今日はおまえたち大そういいことをしたな。道端で餅を恵んでもらったのは、実はこの家に住みついている貧乏神じゃったのじゃ。その貧乏神がわしのところに来て涙ながらに言うことには何でもおまえたちの優しい心根に心をうたれたから、この家を出て行きたいというのじゃよ。そのかわりに福の神を呼び寄せて欲しいと頼まれてな。さっそく福の神を呼んで、皆でこの家をもりたてることにしたのじゃ」
えびすさまのことばが終わったとたん、大黒様や福禄寿・寿老人や布袋さまが次々に現れ出て、口々に「さあ祝いの酒盛りだ。乾杯をしよう」と言いあっています。
そしてお酒がまわり始めた頃、えびすさまと布袋さまが相撲をとることになりました。
すったもんだの末に、二人は組みあったまま夫婦の寝ている布団の上に転げました。
びっくりしたのは男とおかみさんです。
そのひょうしに目を覚ました二人は夢の話をし、同じ夢だったことにもう一度驚きました。
その後この夫婦は梅津一の大金持ちになり梅津の長者と呼ばれました。

ぬえを退治した源三位

高倉天皇の御夜のことでした。

毎晩夜中になると、きまって魔力を感じさせるいやな空気が漂い始め、どこからともなくまっ黒い雲があらわれては、御所の屋根をすっぽりとつつんでしまうのです。
するとかならず天皇の閨の真上あたりをおおう黒雲の間から、この世のものとも思えない、背筋がゾクッゾクッと寒くなるような、気味の悪い声が聞こえ、その声を耳にされるたび、天皇はひどくお苦しみになられるのでした。

ある時、護衛の者たちが、寝ずの番をして見張っておりますと、黒雲の切れ間に、キラリと光る二つの鋭い目が見えてきました。
そして、大きな身体が、ぼんやりと浮かびあがります。
このことはただちに護衛隊長の口から、様々な分野の学者に伝えられました。
ところが宮中では、毎日のように対策が議論されるのに、結局はどうしていいかわからないあやふやなままで、貴重な時間だけが流れていくばかりでした。

ある日、天皇の容態を診察し終わったばかりの医者が、思いあまって護衛隊長に申し出ました。
「このままでは天皇さまは、本物の病気になられます。一刻も早く化け物を退治しなければ、今に大変なことがおこりますよ」
実は護衛隊長の方でも、宮中の悠長なやり方にしびれをきらしていましたので、医者の申し出を重大なこととして、宮中の全ての人に知らせました。
これが功を奏したのか、急に宮中が騒々しくなり、庭への集合が命ぜられました。
皆が集まったのを確認してから、宮中で最も博識のある学者が中央に進み、今や非常事態にあることを、重々しく伝えました。
そして、そのことばを待っていたかのように、ひとりの武士が前に進み出て、「私にその化け物退治をお命じ下さい」と、自ら申し出ました。
その武士は、名を源頼政といい、大江山の鬼退治をしたことで名高い源頼光を祖先にもつ、大変武勇のすぐれた源氏の血筋の者でした。
頼政は、これまでにも数え切れないほどの手柄をたて、その名を知らしめておりましたので、一番勇敢で、武芸のすぐれた者として、改めて、宮中の最高府から、化け物退治を命じられることになりました。

さて、その夜から頼政は、信頼できる二人の家来を従えて、御所のお庭で見張りをすることになりました。
頼政はこの時のために用意していた、「雷上動」という強弓と、黒わしの羽根でできた「水破」、水鳥の羽でできた「兵破」の二本のかぶら矢、それに「骨食」という短刀を二人の家来に持たせました。
これらの武器は、どんな化け物でもその身にあたるやいなや、一瞬のうちに退治する力をもっていたのです。

何やらいかにも物の気の出そうな、湿っぽい夜でした。
どんな小さいものでも見過ごしてはならじと、両の目をカッと見開き、油断なくあたりを見まわっていますと家来の一人が、天皇のお苦しみが始まったとの医者からの伝言を知らせにきました。
「とうとうあらわれるのか。今こそこの頼政が、化け物の命見事しとめて見せようぞ!」
頼政がそういうのを待っていたかのように、御所の真上あたりに黒雲がたちこめはじめました。
頼政は位置を見定めると、一の矢の水破をすばやくとり、くせ者めがけて力いっぱい弓を引きました。
と、「ギャアー」というものすごい悲鳴が聞こえてきましたので、この時とばかり、二の矢の兵破を弓につがえ、力いっぱい、化け物めがけて放ちました。
黒雲が散り散りになり、何やら大きなかたまりが、天からすごい勢いで降ってきます。
そして、「ドッスーン」と地上に落ちました。
「源頼政、くせ者をたった今しとめたりい!」
頼政と二人の家来は、その化け物をとりおさえ、骨食の短刀でとどめをさしました。

御所は頼政の手柄をたたえる者であふれました。
そして、お庭にかがり火がたかれ例の化け物が引き出されました。
見るとその姿は、顔が猿、胴が猩猩(ヒヒのこと)尾っぽが蛇で手足が虎という、なんとも気味の悪いものでした。
こんな恐ろしい化け物を見た者はなく、泣き声が似ているということから、「鵺(とらつぐみ)」と名付けられることになりました。

この日を境に天皇のご病気は快方に向かい、たちまちのうちにもとの元気なお姿になられました。
天皇は大そうお喜びになり、頼政にほうびとして、獅子王という名刀とりっぱな衣を遣わせました。
そしてその後も、頼政の位をあげ、ついには「三位」という位を授けたということです。

● 鵺
鵺の鳴く夜は・・】【鵺塚】【NUEとは何ぞや?】【鵺(ぬえ)】【能「鵺」歴史の闇を照らすもの】【京都大学能と狂言の会

蛸薬師

むかし、とても親思いの、ひとりのお坊さんがおりました。
そのお坊さんの名前は善光さんといい、京の町にある小さなお寺で、年老いた母親と二人っきり、細々と暮らしていましたが、その母子の仲の良さといったら町中で評判になるほどでした。

でも、そんな小さな幸福さえ、時にはあっけなく壊れてしまうものなのです。
というのも、善光さんの母親が突然に思い病気にかかり、必死の看病にもかかわらず、日々病状が悪化していくばかりだったのですから。
医者も手のほどこしようがなく、とうとう善光さんの母親は、すべてのものから見放されてしまいました。
善光さんの悲しみようは、まわりの人の想像を絶するほどのものでした。
それでも、善光さんは、哀れな母親のためにできることを一心に考え、この世の名残に、母親の食べたいものを何でも食べさせてやりたいと思いたちました。
そして、母親の具合のいいときを見計らって尋ねますと、母親は、消え入りそうな声で、すまなそうに「蛸が食べたい」と申します。
そういえばお寺では、肉とか魚といった生き物は口にできないことになっていたのです。
それでも善光さんは、ためらうことなく母親に食べさせる蛸を求めに出かけました。
もしも罪に問われることがあれば、喜んでこの身を捧げようと心ひそかに決心していたからです。
やっとの思いで蛸を求め、寺の門前まで帰り着いたとき、善光さんは運悪く心持の良くない人に出会ってしまいましたが「しまった!」と思った瞬間、手にあった蛸は教本に姿を変え、無事母親のもとまで運ぶことができたのです。
母親は元の元気な姿にもどり、善光さんはこれも全て薬師如来様のおかげとますます信心に励み、寺の名も蛸薬師と呼ぶことにしました。

熊ん蜂の山賊退治

昔、京の町に、馬や牛車に荷物を積んで、町から町、村から村へと渡り歩いて商いをする、大金持ちの旅商人がおりました。
大そうたくさんの蔵を持ち、どの蔵にも商品がギッシリとつまっていました。
いなかでは、都のものというだけで、たいていのものはよく売れましたが、都の水で造ったお酒は、その中でも格別評判の良い商品でしたので、酒蔵の数は増える一方でした。

ある日、久方ぶりに商人が酒蔵をのぞきますと、白壁に熊ん蜂が巣を作っているではありませんか。
もっと驚いたことには、酒樽からこぼれ落ちた酒のまわりに、黒く群がってさもおいしそうに酒を飲んでいるのです。
信じ難い光景でしたが、そこはそれ、きっぷのいい旅商人こと、「珍しい蜂もいるものだな。今だかって、酒を飲む蜂の話など聞いたことがないぞ。よしよし、存分に飲むがいい」そう言って、地方へ商いに出かけました。

いつものように、商人が、大変な荷物とお伴の者たちを連れて、今にも峠を越えようとした時のことです。
山賊の一味がいきなり襲いかかってきました。
びっくり仰天した雇い人たちは、散り散りに逃げてゆき、商人も、すばやく岩陰に身を隠しました。
おかげで賊は、戦うことなく、易々と品物を手に入れることができました。
「しめしめ、これはうまそうな臭いがしてきやがる。酒樽とは豪気な宝物よ。それみんな、しっかり運ぶんだぞ」首領のことばに、皆はいっせいに勝どきをあげると、牛や牛車ごと、ごっそり盗んでいきました。

旅商人は、歯ぎしりをしながら、自分の荷物が運び去られるのを見送っていましたが、相手が武器をもった山賊ではどうすることもできず。
「この身が無事だっただけでも良しとしなければな」
と自分に言い聞かせながら、立ち上がろうとして、ひょいと袖のあたりに目を向けますと、熊ん蜂がとまっているのに気が付きました。
「なあ熊ん蜂よ、おまえたちにもし恩義を感じる心があるなら、日頃酒をごちそうになっているお礼に、あの山賊たちをやっつけてきてくれないものかなあ」
ほとんど一人言のようにグチをこぼすと、今度こそ気を取り直して、逃げた者たちを呼び集めました。
不幸中の幸いとでも言うべきか、傷を負った者もおりませんでしたので、それだけでも気分が晴れました。

旅商人たちが峠を下ろうとしていると、何やらまっ黒いかたまりが、都の方から飛んでくるのが見えました。
何だろうと目を凝らして見つめていますと、どうやら蜂の一群であるらしいことがわかりました。
旅商人はほっとしました。
もしかしたら、先ほど話しかけた蜂が、仲間の蜂を呼び寄せたのかもしれません。
熊ん蜂の群れは、商人たちのところまで来ると、まるで後をついて来いと言ってるように、しばらく同じ所をぐるぐる回り、それから、山賊の寝ぐら目がけて、まっしぐらに飛んでいきました。
「みんな、あの熊ん蜂の後を追うんだ。決して見失うではないぞ。必ずあの蜂たちが、大事な商品を取りもどしてくれるはずだ」
商人はそう叫ぶと、みなの先頭をきって走り出しました。

空飛ぶ黒い固まりは、なおもぐんぐん山を登っていきます。
追いかける人間たちは惨憺たる有様です。
蜂のように空を飛んで行くわけにはいかず、道のあるなしにかかわらず進んでいくのですから、身体中、切り傷やすり傷だらけになってしまいました。

やっと先を行く蜂の動きが止まりました。
しばらくすると、商人たちも山賊の隠れ家にたどり着くことができました。
でもその時には、勝負はついているらしく、あちらこちらで、はれあがった手足をかかえて泣き叫んでいる山賊たちの姿が、たくさん見られました。
そして中には、蜂の毒が全身をまわり、けいれんの果てに息絶える者もおりました。
「よくやってくれた。これからも蔵の酒をたらふく飲んでくれ」
商人は熊ん蜂のおかげで、奪われた商品だけでなく山賊の宝も手に入れたという事です。

飴買い幽霊

昔、鳥辺野という所で、悪い病気がはやり、いつもよりたくさんの人が死んだということです。
その人たちの眠っている墓地のそばには、水飴を売る小さなお店がありましたが、墓地のそばということが災いしてか、普段はほとんど客の姿はなく、時折、お墓参りに来る家族連れが、子供にせがまれて寄るくらいでした。

ある夜のことです。
とんとんとん・・・・・誰かが飴屋の戸をかすかにたたきます。眠っていた飴屋の主人が目を覚まし、「こんな夜更けに何の御用ですか?」と、いくらかムッとしながら尋ねますと、「飴を売っていただきたいのです・・・・・」
ふうーと尻すぼみになりそうな、弱々しい声が聞こえてきます。
仕方なく主人が戸を開くと、青白く生気のない顔をした、髪の長い女の人が、白い着物をきて、すーっと立っていました。
飴屋の主人は、内心気味悪く思いましたが、お客さまに失礼があってはいけないと、いつものように愛想よく立ち振るまい、水飴を売ってあげました。
その夜を始めとして、女の人は毎晩飴を買いに来るようになりました。
そしてなんとなく日増しに弱くなっていくような女の人の様子が、妙に気になりはじめた飴屋の主人は、四日目の夜、帰っていく女の人の後をそっとつけてゆきました。
すると女の人は、ほとんど足音のしない歩き方で墓地の中に入り、まだ新しいお墓の前で姿を消しました。
恐ろしくなった飴屋の主人が帰りかけると、そのお墓の中から赤ん坊の泣き声がします。
驚いた主人はすぐさま和尚さまを呼び、お墓を掘り返しますと、若い女の人が死んでから赤ん坊を産み、水飴で育てていたことがわかりました。
それから、この話を聞いた人は、母親の愛の強さに改めて感じ入ったということです。

鬼笛の話

京の都に笛の名人と呼ばれる、博雅の三位という人がおりました。

月のとても綺麗な夜のこと。
博雅が散歩に出かけ、朱雀門のあたりで笛を吹いていますと、近くでとても美しい笛の音がいたします。
誰だろうとおもいつつ、そのあまりのすばらしさについ聞きほれてしまい、その夜の笛の主をつきとめることができませんでした。

一ヶ月たった満月の夜、博雅は再び朱雀門のそばまでやってきました。
すると思ったとおりあの美しい笛の音が流れてきます。
曲が終わるのを待って、博雅は、笛の主に声をかけました。
「私は博雅というものですが、先日あなた様の笛の音を耳にして以来すっかりそのとりこになってしまいました。ぜひお名前をお聞かせ下さいませ」
ところが笛の主は、自分は名のあるものではないのでと、固く辞退をし、「もしよろしければ、お互いの笛を交換して一度吹いてみませんか」と、自分の笛を差し出しました。
博雅は喜んで応じ、どきどきしながら、あの名笛を手に取りました。
そして、おそるおそる口をつけ、吹き始めますと、何と博雅が吹いても変わらぬ美しい音が流れてゆきます。
すっかり夢見心地で吹いているうちに、時は流れ、博雅がはたと我にかえった時には、すでに笛の主は姿を消してしまった後でした。

博雅は、何とか名笛をお返しすべく、満月の夜がくる度、その人の姿を求めて探しまわりました。
が、見つけることができず時間だけが虚しく過ぎていきました。
博雅は大そう申し訳なく思い、意を決して、その名笛を大切に保存できる場所にしまいこむことにしました。

博雅がこの世を去って後、そのふしぎな笛の噂を耳にされた時の天子様が、ぜひ伝説の笛を浄蔵という笛の達人に吹かせてみたいとお望みになりました。
それで、かつてと同じ条件のもとで、かの笛は再びよみ返ることになったのです。
浄蔵が吹き始めますと、どこからか、「久方ぶりの鬼笛じゃ。して吹いているのは何という鬼か?」
という声がしましたので、驚いて天子様に告げますと天子様は大層感じ入られ、その笛に「鬼笛葉二」と名を付けて、大切にご秘蔵になられたということです。

戻橋の鬼女

むかし、源頼光の家来で、渡辺綱という人がおりました。

綱はたいそう勇猛果敢な武者でしたので、主人の頼光から、とても大事にされていました。

ある時、綱は主人の言いつけで、ただひとり京のはずれまで出かけることになりました。
その帰り道のことです。
一条戻橋にさしかかった時、橋のたもとに立たずんでいる女の人に気づきました。
見ると、とてもこの世の人とは思えないほど、美しい姿をしています。
「どうされたのですか。こんなところにたったひとりで・・・・・」
綱が尋ねますと、その女の人は「私はさるお方のお使いでこのあたりまでやってまいりましたが、帰る方角を見失い、途方にくれておりました。あなた様にお願いするのはいささか気がひけますが、どうぞ都まで私をお連れ下さいませ」
と、美しくはかなげな様子で頼みましたので、綱は快くひきうけ、自分の馬の後ろに乗せてあげました。
そして橋の中ほどまできた時、なにげなく水にうつった影を見た綱は、一瞬、ギョッとしました。
自分の後ろにうつっているのは、あの美女ではなく、恐ろしい鬼なのでしたから。
綱が気づくのと同時に鬼もその姿をあらわし、綱の体をむんずとつかむと、ふわりと空へ舞い上がり、そして愛宕山の方へと向かいます。
綱は、空の上での戦は初めてでしたが、ひるまずたちむかってゆき、とうとう鬼の片腕を切り落としました。
そしてやっとのことで、北野天満宮の屋根におりることができました。

無事に地上にもどれたのも天神様のおかげと感謝した綱は、とても立派な灯籠を納め、それから後も信心に励んだということです。

狐の少女

昔から狐が人間を騙す話はたくさんありますが、そのほとんどが、深刻というよりもむしろ笑い話でもいいような類のものでした。
そしてこれから紹介するのも、悪い狐というよりは、寂しがりやで、人間に遊んでもらいたいと思っているような、憎めない狐の話です。

仁和寺の東にある高陽川のほとりに、きまって夕暮れ時になると、かわいらしい少女に化けた狐が現れ出ては、馬で京に向かう人に声をかけるという噂がありました。
「どうぞ私をおつれ下さいませ」
そう言って馬に乗せてもらうと、ほんのすぐ先でこっそりおりて、親切な心優しい人を騙したり、びっくりさせるのが楽しくしかたがなかったというのです。

ある時、ひとりの若者が、馬でその場所を通りかかりました。
そこへいつものように少女狐が現れて、頼りなさそうに若者に、「そこのお馬の人、私をあなた様の後ろへ乗せてはいただけませんでしょうか?」と声をかけました。
若者は快くひきうけると、その少女を自分の馬に乗せてあげました。
ところがなんとそのすぐあとで、すでに用意していたらしいひもを取り出すと、その少女を鞍にしばりつけてしまったのです。
実は、若者は、その少女が狐だということを、仲間から聞いて知っていたのです。
そして、いつかそのいたずら狐をギュッというめにあわせたいものだと、みんなで相談してそのチャンスをねらっていたのでした。

さて、その若者と少女狐が京にもどってきた頃には、日もとっぷりと暮れてきました。
西の大宮大路あたりまで来た時、たくさんのたいまつを灯した行列に出会い、やんごとなき方の一行であろうと、横道にそれまわり道をして、仲間たちの待つ土御門へと急ぎました。

仲間たちは、ぐるりと輪になりたき火を囲んでいました。
若者はここに着くまで緊張しづめでしたので、みんなの顔を見て急に安心したのか、狐をしばっている紐を解いて放してやりました。
しかし、そのとたん、狐も仲間のみんなも、すーと消えてしまったのです。

若者もまた、最後のところで、狐に騙されてしまったのでした。

地団太を踏んで悔しがった若者は、数日後、同じ場所へ出かけていき、狐を再びとりおさえてきました。
そして、今度こそは気のゆるまぬように細心の注意を払って、仲間の所へつれていき、みんなでさんざんこらしめてから放してやりました。

それからしばらくたって、若者はその狐のことが妙に気にかかり、例の高陽川のほとりまで、様子を見に行きました。
すると、やっぱりいつものように、あの少女狐が現れました。
でも、着物は薄汚れ、顔色も良くありません。

そして、若者がやさしいことばをなげかけても、「どんなに乗せてもらいたくても、またこの前のように、こらしめられるのはこわいから・・・・・」と言って、悲しそうな目で若者を見ると、しょんぼりと肩を落として去っていき、再び現れて人を騙すことはなかったそうです。

一休さんのとんち

むかしむかし、とんちで有名な一休和尚が、周建という名で、安国寺にいたときの話です。

その後安国寺では、住寺と紅屋仁平さんの碁石遊びが、毎晩のように夜遅くまで続き、小僧さんたちは、どんなに眠くても、眠ることができないでいました。
たまりかねた小僧さんたちは、周建に、仁平さんを追い払う方法を考えてくれるように頼みました。
周建さんは、「そんなことならおちゃのこさいさい。明日こそは仁平さんをこらしめ、思いしてもらわないとね」
そう言いながら、一枚の紙を広げると、そこに大きな字で
 けものの皮を着ているものは、ここから中へ入るべからず −。
と書いて玄関のよく目立つところにペタンと貼り付けたのです。
どうして、周建がこんな文句を書いたかというと、春になっても相変わらず仁平さんが、毛皮のチャンチャンコを着ているからでした。
仁平さんがいつも姿をあらわす時間がきました。
みんなが様子をうかがっていますと、案の上、毛皮のチャンチャンコを着た仁平さんがやってきて、玄関の貼り紙を読んでいました。
読み終わると、すました顔をして玄関から入ってきました。
周建があわてて、「貼り紙にはちゃんと、毛皮を着ている者は入るべからずとかいてあったでしょ」と仁平さんに声をかけると、仁平さん曰く、「ちゃんと読んだよ。でもおかしいじゃないか。この寺には、けものの皮をきた大だこがあるだろう。もし貼り紙のとおりなら、まっ先に大だこを放り出してもらいたいな」
周建をやっつけることができると思うと仁平さんはとてもいい気持ちでした。
でも周建は、「でも仁平さん、あの大だこは毛皮を着ている罰で、毎日皆からたたかれているのですよ。仁平さんがそうしてほしいというのなら、それでもいいんですがね」と言うなり、みんなで仁平さんをたたき始めたからたまりません。
毛皮を脱ぎながら「許してくれ!」と叫び、それからは、早々に帰っていくようになったということです。

ある夜のこと、庄屋さんから夕食の招待を受けた安国寺の周建さんが、庄屋さんの家の前にかかっている橋の前までやって来た時、橋の前に立て札が立ててあるのが目に入りました。
それには、下手くそな文字で、「この橋渡るべからず」と書いてあります。
周建さんはくすっと笑い、堂々と橋を渡って、庄屋さんの家にきました。
すると、中から庄屋さんが出てきて、「一休さん、困るな、立て札には、ちゃんと『この橋渡るべからず』と書いてあったでしょうに」庄屋さんの得意顔は、まいったかと言わんばかりです。
ところが周建さんはとたんに言ったのでした。
「ええ、見てその通りにしましたよ。立て札には『この橋渡るべからず』と書いてありましたから、私は、橋のハシを通らずに、橋の真ん中を渡ってきました」
これで又庄屋さんは周建さんに一本とられてしまいました。

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