■■■ 仁和寺

大内山の麓、右京区御室大内にあり、大内山と号する真言宗御室派の大本山で、一に仁和寺門跡・御室御所ともいう。
当寺は仁和二年(886)光孝天皇が在位中、国家の安泰と仏法の興隆を願って建立に着工されたが、その半ばにして崩御された。
よって宇多天皇は父帝の遺志をついで工を進められ、同四年(888)に至って金堂が竣工した。
勅して号を大内山仁和寺と賜い、先帝の等身阿弥陀三尊を安置し、先帝の一周忌をあわせて盛大な落慶供養が行われた。
これが当寺の起こりである。
寺名は年号による。
宇多天皇は深く仏教を尊信され、在位十年にして退位し、当寺に於て出家落飾されたが、これより先、境内に円堂と室を建立された。
室とは高貴の方の住むにふさわしい設備を備えた僧坊を御室と敬称したもので、これがのちに付近一帯の地名となった。
法皇は御室にあること三十余年、承平元年(931)六十五歳で崩御され、仁和寺背後の大内山々中に埋葬された。
次いで寛空が別当となり、寛朝・済信とつづいたが、平安中期に三条天皇々子師親王(法号性信)が第二世となって入寺されてから後は、代々皇族出身の法親王が歴代の住職を継承することとなり、諸宗各本山の最上位を占め、門跡寺院として発展した。
また各法親王は入寺ごとに御室をあらたに設け、そこを住房とされたから、それに付随した堂舎僧房が多く営まれた。
さらに仁和寺の子院として円融天皇の円融寺、一条天皇の円教寺、後冷泉天皇の円乗寺、後三条天皇の円宗寺等、いわゆる「四円寺」が付近に建立され、また鳥羽天皇中宮待賢門院の法金剛院もやはり子院として、仁和寺の南、双ケ丘の東南麓に建立された。
かくて平安時代から鎌倉時代に亘り、皇室の尊崇と平安貴族の絶大な庇護を得、寺運は真言広沢流の中心寺院として大いに栄えた。
往時は寺域も広く、東は紙屋川辺より西は広沢池畔におよび、この地域にいとなまれた他の独立寺院も、のちには仁和寺門跡の兼帯するところとなり、その付属寺院は九十余宇を数えたと伝える。
しかるに平安末期の浄土教思想の浸透によって次第に影響をこうむり、加えて武家政権の確立による政治の実権が武家の手にわたると、武士の気風にかなった禅宗が迎えられ、鎌倉中期頃から南北朝時代にかけて建仁寺や東福寺、南禅寺、大徳寺などの禅宗寺院が建立されると、寺運は次第に衰退の色を深めて行った。
さらに室町時代には応仁の乱の勃発により、当寺が西軍の根拠地の一つとなったため、東軍の襲撃をうけ、金堂・御室・円堂院などの主要伽藍はもとより、数百の堂舎僧坊は兵火をあびてことごとく焼失した。
それ以後、百五十余年にわたるあいだ双ケ丘の西麓に堂舎を移し、わづかに法脈を維持したが、寛永年間(1624?48)第二十一世覚深法親王の要請によって徳川家光が援助し、また皇室からも慶長造営の諸建物を賜り、正保三年()1646にようやく旧地に再興された。
しかるに明治二十年(1887)火を発し、金堂・御影堂等をのぞいて多くの堂舎を焼失し、大正二年(1913)五月に至って再建されたのが、現在の仁和寺である。
伽藍は大内山を背景として南面し、緑樹青松のなかにみるからに豁達な気分がただようのは、さすが皇室寺院としての長い歴史を持ちつづけてきた賜物であろう。
大覚寺とともに洛西屈指の名刹として、その名に恥じないものがある。
因みに境内は「仁和寺御室御所址」として、現在史跡に指定されている。

【仁王門】(重文・江戸)

一に南大門という。
禅宗寺院の三門に似ているが、これは左右に山廊がなく、また上層の屋根が大きく、急勾配であるため、鎌倉時代以前の建物にみられるような安定感に欠けている。
しかし、平面的な拡がりと圧倒的な重量感は、みるものをして豪壮さを覚えしめる。
また柱上には上下階とも典型的な三手先斗キョウを組み、間斗束を組んで軒を支える等、純和様でつくられているのも特色で、王朝時代に創建された当寺の三門にふさわしい復古的な気風が漂っている。
正保元年(1644)徳川家光の寄進とつたえる。

【済信塚】

仁王門より中門に至る中央参道の右手にある。
済信は一条左大臣源雅信の子で、寛朝僧正のあとをついで仁和寺の別当となり、東寺の長者を兼ねた。
長元三年(1030)六月、七十七歳をもって入寂した。
『仁和寺御伝』によれば、仁和寺観音院灌頂堂の後方に葬ったと記されている。

【中門】(重文・江戸)

仁王門と相対し、南面する。
左右に二天王像を安置する。
寛永期に創建された和洋建築である。

【五重塔】(重文・江戸)

中門を入った右手の松林中に聳立する。
高さは三十三メートル。
東寺の五重塔と同じく、寛永期を代表する塔であるが、各層の逓減率が乏しく、古代・中世の塔のもつ安定感におよばない。
しかし、各層の木割や斗キョウ・尾タルキなど建築細部には均斉がよく保たれ、塔全体に破綻のない調和をみせている。
御室のシンボルとなっている。

【九所明神社】(重文・江戸)

仁和寺の鎮守社として五重塔の東北隅にあり、社殿三棟がならび建っている。
その向拝の蟇股は慶長期の華美を迎えて落ち着いている。
また、社前に並ぶ大きな織部型石灯籠三基のうち、二基は寛永二十一年(1644)の年号があり、織部型の石灯籠としてはもっとも古い。

【金堂】(国宝・桃山)

境内北部の中央にあって、南面する。
慶長造営の旧紫宸殿を賜って仏堂としたものといわれ、近世初期の宮殿建築の数少ない遺構である。
外観面では屋根が桧皮葺から瓦葺になったのが大きい変化であるが、正面に取りつけた蔀戸や一間の向拝は旧のままとし、王朝時代の面影をつたえている。
内部は内陣外陣に区画した典型的な密教系仏堂の平面とし、内陣の正面須弥壇上に阿弥陀三尊像(江戸)を本尊とし、左右に光孝天皇・徳川家光像を安置する。

【経蔵】(重文・江戸)

金堂の東にある。
仁王門と同じく寛永期の建造。
内部は鏡天井、床は瓦敷、中央にしつらえた廻転式の輪蔵には、多数の経巻を納める。

【御影堂】(重文・桃山)

一に祖師堂ともいい、金堂の西にある。
慶長造営の清涼殿の古材の一部を賜り、これを再用して仏堂としただけあって、住宅風の頗る簡素軽快に富んでいる。

【水掛不動】

御影堂の東側にある。
一個の岩石の上に石造り不動尊を安置し、その下から清泉が湧き出している。
一に「菅公腰掛石」といわれるのは、菅原道真が大宰府左遷があきらかになったとき、道真は急ぎ法皇に愁訴すべく、御室を訪ねたところ、法皇はあいにくながい勤行中であったため、あせる心を抱き、この岩に腰をかけて待っていたとつたえる。
のちにこのところより清水が湧き出し、堀ができたといわれ、今に至るも水の涸れることがない。

また不動石仏は京都市内で大洪水があったとき、一条堀川の戻橋の下に流れ着いたが、「仁和寺へ帰りたい」という夢告により、戻橋付近の人々がこの岩上に祀ったのだとつたえる。

因みに菅公に因んで学問の腰掛け祈願があり、香華の絶え間がない。

【観音堂】(重文・江戸)

御影堂の東にある。
内部は扉を閉めれば内陣外陣に区画された典型的な密教系仏堂となっていて、内部には本尊千手観音像と脇侍二十八部衆および風神・雷神像を安置する。

【本坊】

仁王門を入った左側にあり、正しくは旧御室御所御殿という。
勅使門以下宸殿・白書院・黒書院・霊明院・事務所等の建物があり、門跡寺院らしい厳しいたたずまいをみせている。
このうち宸殿は、紫宸殿の様式にならって入母屋造り。
内部は書院造りとし、上段の間。二之間・三之間が並び、谷文晁や原在中・森徹山・東洋など近世の画家の筆になる極彩色、華麗な襖絵によって飾られている。

【庭園】(江戸)

山畔を利用した豪華な滝組に池泉を配した池泉観賞式の庭園で、ゆるやかな曲線を描いた池汀の石組みや浮石に格調高い趣をみせている。
元禄三年(1690)の作庭といわれるが、大正年間(1912?26)に改造され、今は滝組の部分のみに江戸初期の好みが残っている。

黒書院は、旧安井門跡の宸殿を移して、改造された門跡の公式対面所で、堂本印象の筆になる襖絵がある。

霊明殿には、薬師如来と当山歴代の尊牌を安置。

勅使門とともにこれらの諸殿舎は、明治二十年(1887)に罹災後、大正初年の再建によるもので、時の京都府技手亀岡末吉等が、日本古建築の意匠を採り入れて設計し、王朝風に再現した近代の名建築とされている。

遼郭亭茶室(重文・江戸)
三畳半の茶室と広間・水屋等からなる草庵風と書院式を加味したしょうしゃな茶席で、壁は内外ともに長いスサを入れた錆壁としている。
天保末年頃、仁和寺門前の尾形光琳邸から移したといわれ、その露地庭は築山に小池をうがち、飛石と延段を配した風雅なな書院式茶庭としている。

飛濤亭茶室(重文・江戸)
光格天皇遺愛の席といわれ、四畳半の茶室と水屋・台所からなる、しゅしゃな草庵式本位の茶席。

【霊宝館】

館内には弘法大師が中国から持ちかえった蒔絵箱入「三十帖冊子」(国宝・平安)をはじめ、創建当初の本尊とつたえる阿弥陀三尊像(国宝・平安)や吉祥天立像(重文・平安)、増長天・多聞天立像(重文・平安)、愛染明王坐像(重文・鎌倉)、文殊菩薩坐像(重文・鎌倉)等、彫刻・絵画・書跡・工芸等、多彩にわたって多数収集、展示されている。
日本図(重文)は鎌倉期作の最古の日本国図とされる。

【御室八十八ケ所霊場】

仁和寺背後の成就山中に設けられた八十八ケ所の霊場をいい、山麓の第一番札所霊山寺から第八十八番札所の大窪寺まで、巡路に沿って小堂がたちならび、仁和寺の一点景となっている。
文政十年(1827)仁和寺第二十九世済仁法親王が四国に散在する弘法大師ゆかりの霊場八十八ケ所をまねて造らしめられたもので、巡拝距離は約三キロ、所要時間約二時間。
家族づれのハイキングによく、むかしから「御室の八十八ケ所巡り」と称して親しまれている。

なお山頂に近い第二十七番の傍らには、宇多源氏の始祖、左大臣源雅信の墓とつたえる巨岩がある。

【御室の桜】(名)

二百本におよぶ桜をいい、「里桜」を主とし、「車返し」や「有明」など白色系の桜が多い。
その高さは僅か三メートル足らず、「つつじ」のように、根元から枝が張って花が咲くので、一に「お多福桜」ともよばれる。
これは薄い土壌のために芽が根元から群生するからだといわれ、四月中旬を見頃とする。

因みに御室の桜が世に賞せられるに至った由来ははなはだ古く、寺伝では平安時代にはじまるといわれ、後堀河天皇の安貞三年(1229)二月には仁和寺より桜樹一株が閑院内裏の南殿(紫宸殿)前に移植されたという。
応仁の乱後、花見は一時中絶したが、正保年間(1644?8)仁和寺の再興にともなって復活され、寛文以降は毎年上皇をはじめ親王・諸宮家や貴顕の人々を観桜があった。
しかし、一般の花見客の増えるにしたがってとりやめられ、代わりに寺より宮中へ花枝を献上するだけとなったとつたえる。

 一方、元禄二年(1689)に刊行された『京羽二重織留』巻二によれば
 東山は陽気和暖にして、花開くこと早く、当山(仁和寺)は西方寒冷の地なり。
 この故に花の咲くことおそし。
 洛人、一春前後の遊観として、幔幕隙地なく、詩歌の詠、絲竹の曲、絶ゆる事なし云々。

と江戸時代の頃の花見の盛んなる様子をしるしている。
これがため享保二十年(1735)に花見は一旦禁止されるに至った。
しかし、二十余年を経て宝暦七年(1757)門前の住民の困窮を救われる法親王の思召しから、花時の御影供(旧暦三月三十一日)のあいだを限り、とくに中門内に於て茶店を出すことが許された。
しかし桜が散ると再び生活に追われるので、住民たちは泣いてこの花の散るのを惜しんだから、一に「泣き桜」と称したともいう。

 あたしゃお多福 御室の桜 花(鼻)は低ても 人が好く
 仁和寺や 足もとよりぞ 花の雲
 ねぶたさの 春の御室の 花よりぞ

■■■ 門跡寺院

皇子・皇女や貴族の子弟が出家して居住した寺院。
門跡は「一門の法跡」の意で、元来は祖師の法統を継ぐ僧および寺をさす。
平安前期、宇多天皇が出家して仁和寺に入り御門跡と呼ばれて以後、ことに親王の入寺に際して門跡号が付され、室町期頃には寺格をあらわす称号となる。
江戸初期、皇子・皇女の数が増えたため仏門に入る者も多くなり、門跡寺院が増加した。
親王の入寺するものを宮門跡と呼び、ほかに皇女の居住する尼門跡、実相院・三宝院・随心院など摂家子弟の居住する摂家門跡、清華家子弟の住持する清華家門跡があり、東西本願寺はじめ門跡に準ずる寺院を準門跡・脇門跡と呼ぶ。
宮門跡の場合、浄土宗の知恩院以外はすべて宮延伝統の天台・真言宗寺院で、特に天台宗の竹内(たけのうち)門跡(曼殊院)・粟田口門跡(青蓮院)・梶井門跡(三千院)などは有名。
尼門跡寺院は禅宗はじめ各宗にわたり、百々御所(宝鏡院)・竹御所(曇華院)などがある。
公方門跡もあり。
なお門跡の称号は明治4(1871)年、諸政一新とともに廃止、以後私称として使われる。



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