■■■ 地理編

碁盤目状高瀬川山紫水明うなぎの寝床インクライン京の七口天井川デレーケ堰堤木津巨椋池異人道谷中分水
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■ 京都の町が碁盤目状になっているのはなぜか

街路が碁盤目状(格子状)になっている都市の多くは、計画的に造営されたものである。
日本では、京都をはじめ、奈良、札幌がそうであり、外国ではニューヨークやシカゴ、北京などがある。

京都の町は、奈良の平城京につづいて平安京として、延暦十三年(794)に唐の長安をモデルにして造営された。
東西約四・五キロメートル、南北約五・二キロメートルの空間に、条坊制により、東西路を北から一条大路、二条大路、三条大路と九条大路まで、各大路の間に三本の小路を設けた。
南北路は朱雀大路(現在の千本通りにあたる)を中心に、西を右京として西京極大路まで四本の大路、東を左京として東京極大路まで四本の大路を通し、各大路の間にやはり三本の小路を設けた。

その後、京都の町は西の右京がさびれ、左京は鴨川を越えて発展していったが、たびたびの火災や兵火で姿を変え、特に応仁の乱(1467〜77)では、町の大半が焼け野原となった。

戦国時代が終わり、豊臣秀吉が天下を取ると、京都の町の再建にかかった。
これが天正十八年(1590)の京都の改造である。
この時、平安京の道路を生かしながら、旧東京極大路である寺町通りから高倉小路の間に、南北に新しい小路をつくった。
したがって、京都の町は基本的には平安京の街路を踏襲しているので、東西南北の碁盤目状になっている。

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■ 京都の町中を流れる高瀬川とはどのような川か

高瀬川とは、二条通から木屋町通りに沿って南下して伏見に至る人口の川で、角倉了以(1554〜1614)が、大坂の物資を伏見経由で京都に運ぶためにつくった運河である。

慶長十六年(1611)、角倉了以は幕府の許可を得て、鴨川の西を流れる小川を拡大、延長して、伏見で淀川と合流する運河の工事を行った。
川筋の土地は了以が自費で買収したといわれる。
三年余りの歳月と総工費七万五千両をかけて、慶長十九年(1614)に運河は完成した。
運河を上がり下りする舟は、浅い川用の平底の高瀬舟を用いたので、この運河は高瀬川と呼ばれるようになった。

高瀬川の完成により、大坂からの荷物が京都市中に運ばれ、沿岸の荷揚げの場として、内浜・米浜。富浜などができた。
江戸時代中ごろには、その沿岸には七百人からの船頭や船子たちが住み、材木や薪、炭などを扱う問屋や倉庫が軒を並べたという。
材木屋や薪炭の店が多いところから一帯を木屋町というようになった。
最盛期には、舟数は百六十艘にも達した。
船賃は一舟一回二貫五百文だったとのことである。
(内訳)幕府納入金 ・1貫文 舟の加工維持費 ・250文角倉家収入・1貫250文
この高瀬舟の就航は大正九年(1920)まで続いた。

幕末には、この川の近くに維新の志士達が住んだため、坂本竜馬の寓居跡をはじめ、佐久間象山・大村益次郎遭難之地など多くの史跡がある。
現在、二条木屋町に当時の高瀬舟を復元した舟があり、日本銀行京都支店の南には舟溜り跡も残っている。

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■ 京都の町を「山紫水明」というが、なぜか

京都の町は、四方を山が囲み、町中を流れる鴨川は水が澄み、大都市の中を流れる川としては、例外的によく澄んでいる。
特に夕日に映える東山を背景にした鴨川の風景は、古くから多くの人々に愛されて、和歌に詠みこまれ、「山紫水明」と表現されてきた。

この京都の美しい景色の「山紫水明」を有名にしたのは、儒学者の頼山陽(1780〜1832)である。
頼山陽は丸太町橋近くの鴨川のほとりに居を構え、自分の書斎から鴨川を隔てて東山を望む景色が美しいことから、この書斎を「山紫水明処」と名づけた。
この書斎は現在も鴨川のほとりに、藁葺き屋根もそのままに保存され、頼山陽の子孫が管理している。

頼山陽は、幕末の儒学者で、広島藩に仕えていたが、二十一歳の時に脱藩して閉居させられた。
三十二歳の時、京都に出て、文人、学者と交わり、名をひろめた。
その後、この「山紫水明処」で『日本外史』を著したが。この書が尊王攘夷運動に大きな影響を与え、木戸孝允や伊藤博文も、この書を読んで、感銘したといわれている。

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■ 京都の町家が「うなぎの寝床」といわれるのはなぜか

中二階の「むしこ窓」に、「卯建」をもち、表は赤いベニガラを塗った京格子とか、千本格子といわれる格子で象徴されるのが京都の町家(民家)である。
この町家は間口が狭く、平均で約五メートル、奥行きが十三メートルから三十メートルという細長いつくりになっている。
このように奥に細長い家のつくりから「うなぎの寝床」といわれてきた。

居との町家が、このようなつくりになったのは、京都は都として多くの人が集まるようになり、狭い空間に多くの人が生活する必要から生まれたものである。
人口の増加が住宅の量産化を必要とし、そのために住宅の規格化が行われた。
「京間」と呼ばれる畳の大きさの規格や「京角」と呼ばれる建築材の標準材から京瓦に至るまで、建材が規格化されたのである。

狭い間口の町家は、通り庭と呼ばれる通路が裏庭まで通じ、片側に部屋が並んでいる。
奥の座敷は寺の書院を模して床の間があり、庭に面して縁がある。
狭い敷地の中にわずかの広さの庭がある。
この庭を坪庭と呼び、庭石や燈籠を配している。
夏が蒸し暑い京都での涼しさを生み出す工夫である。
表の格子は、戸を開けていても家の中が見えないように細かい格子になっている。

このような町家は江戸時代に建築されたものが多い。
このような民家のつくりを中心に京都の文化が地方の都市に広がり、各地に小京都と呼ばれる町ができたのである。

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■ 地上を動く舟の「インクライン」とはどんなものか

インクライン(incline)とは、傾斜鉄道のことで、京都では琵琶湖疎水に設けられた。
琵琶湖疎水は、琵琶湖と京都を結ぶ運河として、京都府第三代知事北垣国道が計画し、大学卒業直後の田辺朔郎が設計し工事を担当した。

琵琶湖疎水は、大津の取水口から山科を通り、日ノ岡第三トンネルを経て蹴上に至るが、トンネルの出口付近は市内の地表面から三十メートル以上も高く、舟を通すには、この落差が大きな障害となった。
そこで、電力を利用して、山腹の斜面に敷設した軌道に乗せて舟を上下させようとインクラインが計画され、明治二十年(1887)五月に起工し、同二十二年(1889)四月に完成された。
このため、わが国初の水力発電を行う蹴上発電所が山麓に建設され、明治二十四年(1891)十一月の発電を待ってインクラインの運転が開始された。
トンネルを出てきた船は、インクラインの上部で鉄製の台車に乗せられ、十五分の一の勾配を持つ全長五百八十二メートルのレールの上をゆっくり下る。
下の船溜りで台車を降りた舟は、続けて運河を進むという仕組みである。

所要時間は上下とも十三分であった。
明治二十七年(1894)に、鴨川の夷川地点から東岸を南下して伏見に達する鴨川運河が開通すると、翌年二月に伏見撞木町にも全長二百三十六メートルのインクラインが設けられた。
その後、鉄道や道路の整備とともに舟運ルートとしての役割は減ったが、昭和初期まで運転された。
昭和五十年(1975)、蹴上インクラインの遺構は保存措置がとられ、台車を復元した状態で展示されている。

■ 京都市内には「丹波口」「鞍馬口」の地名があるのはなぜか

京都には「丹波口」のほかに「粟田口」「荒神口」「大宮口」など口の付く地名がある。
このような地名は、京都から地方への街道の出入り口のあった地点で、「京の七口」と総称されているが。七つしかなかったのではない。
「東寺口」「鳥羽口」「伏見口」「長坂口」「鞍馬口」など十ほどある。

このような口は室町時代にすでにあったようで、そこは関所で、出入りする通行人から関銭を徴収したとの記録がある。
しかし、これらの口が整備されたのは、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による京都の町の再編成とお土居の構築以後である。
京都の町をお土居と呼ばれる土の塀で囲い、街道の出入り口を設けた。
これが「粟田口」などである。

東海道の出入り口が「三条橋口」または「粟田口」であり、今出川通りから大原を経て若狭への若狭街道の出入り口が「大原口」である。
そのほか、北白川から坂本への白川街道が「荒神口」、または「今道の下口」、鞍馬や貴船を経て若狭へ行く鞍馬街道の出入り口が「鞍馬口」、北桑田郡の周山街道の出入り口が「長坂口」、または「清蔵口」、山陰街道の出入り口が「鳥羽口」、山崎から摂津への西国街道の出入り口が「東寺口」、伏見への竹田街道が「竹田口」、伏見から宇治への伏見街道が「五条橋口」、または「伏見口」というように、各街道ごとに口があって、それが地名として今に伝わっているものである。

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■ 京都南部に天井川がなぜ多いのか

天井川とは、堤防内に砂礫の堆積が進むことにより河床が周囲の平野面より高くなった河川のことである。
平常は水の少ない川になっているが、出水時には一変して濁流が渦巻く危険な川となる。
山城盆地の木津川両岸では、二十一もの天井川を見ることができる。
しかも旧巨椋池周辺や木津川下流域には見られず、盆地南部の木津付近から京田辺市付近までの河谷平野に限られている。
この地域の木津川右岸では中・古生層や花崗岩類からなる山地が急崖をつくり、左岸では大阪層群からなる丘陵が連なり、いずれも土砂の流出が多い。
木津川の両岸の狭い氾濫原には集落と耕地が広がっており、それらの間を各支流が、盆地中央部を流れる本流に人工的に最短距離でつながれている。
特に木津川両岸では大きな天井川が発達し、不動川、玉川、青谷川などが民家の屋根やJR線路の上を流れる様子を見ることができる。

天井川の成因として、河床の上昇を招くのに十分な土砂が供給されることと、河川の流路が長期にわたって固定されることが条件として考えられる。
木津川両岸では、近世以降の本流の河床上昇が原因となって、流入河川によって運搬される土砂が本流に搬出される前に河床に堆積したとみられている。
また、住民が天井川の河床に堆積した土砂を排出するにあたり、木津川本流の逆流を避けるため河床を深く掘り下げることをせず、さらに堤防のかさ上げを行ったことが大きな天井川の形成につながったとも考えられている。

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■ 山城地方にデレーケ堰堤があるが、デレーケとは ?

デレーケとは、ヨハネス・デレーケ(1842〜1913)のことで、わが国の「近代砂防の祖」と称されるオランダ人土木技師である。
明治政府は、当時、世界で最も優れた水防工事技術を持つとされいたオランダから技師団を招いた。
その一人のデレーケは、内務省土木寮(のちの土木局)に雇われ、明治六年(1873)までの三十年間に河川改修や港湾施設に力を尽くし、わが国の河川・港湾事業の近代化に一生を捧げた。
彼の関係した工事には、淀川、木曽川、常願寺川の治水、福井県三国港の改修、東京都神田地区の下水道設計など多数ある。

南山城の山林は、古くから都の建設のために材木の切り出しが多く行われていて山が荒れてきたうえに、風化すると、もろく崩れやすい花崗岩類の地質とあいまって、下流に多くの土砂が流出し被害を生み出してきた。
デレーケは、明治七年(1874)に木津川水源の視察を行い、翌年、特に山林荒廃のひどい山城町棚倉地区の不動川上流で砂防工事の試験施工を行った。

彼の工事は「デレーケ工法」と呼ばれ、はげ山、山脚・小渓、山麓より支流の三種の場所に対応して施工された。
その後も彼の指導のもとで不動川やその支流にある約二十基の石積み堰堤が築かれた。
これら不動川上流にみられる近代石積み工法による堰堤は、わが国最初の砂防ダムともいうべきもので、百年を経過した今もなお砂防に大きく貢献している。
現在、不動川上流の山中にはデレーケの業績を顕彰するため、日本近代砂防発祥の地として砂防歴史公園が造られ、デレーケの砂防記念碑が建てられている。

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■ 内陸の土地に木津という地名がなぜあるのか

木津川は古くは泉川と呼ばれ、宇治川、桂川、淀川と結ばれた水上交通路として歴史上重要な役割を果たしてきた。
相楽郡木津町は、この木津川が山城盆地の南端に流れ出る際に西から北へと流れを変える地点の南岸にあり、古代から中世にかけて奈良盆地に建設された都や大寺院に至る外港として栄え、泉津や泉木津と呼ばれた。

七世紀の藤原京建設の際には、琵琶湖南岸から切り出した用材を筏に組んで宇治川-巨椋池-木津川を経由し、木津で陸揚げして大和へ運んだという記録がみられる。
また、八世紀における奈良の大寺院建設の用材も、琵琶湖北岸から同様に木津まで運漕されたり、木津川上流部の山林からも東大寺などの用材が供給されたりして、中世まで木津には大寺院の材木の保管や調達を行う木屋所が設けられた。

さらに江戸時代にも、東大寺大仏殿再建の用材を、付近の村人の徴用により、木津川を溯上させて運搬したという記録も残されている。
江戸時代における木津は、淀船と呼ばれる小型の船で淀と結ばれ、淀を中継して大坂や尼崎までつながれていた。
木津は、上流の笠置、瓶原、加茂、下流の吐師、一口とともに、木津川筋を輸送される物資を扱う河港として栄えたのである。

しかし、近代になると、明治二十九年(1896)から始まった淀川改修工事による流路の移動と水位の低下が起こり、大正期以降の道路整備による陸上交通の発達が重なり、川を上下する帆掛け舟も姿を消して、木津川の舟運はその役割を終えた。

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■ かつて巨椋池という大きな池があった不思議

巨椋池は、唱和の初めまで山城盆地の中央部かつ最低部に位置した淡水湖である。
水面標高は十一・四メートル、平均水深は0・九メートルだが、周囲は十六キロメートル、面積は七百九十四ヘクタールに及び、現在の宇治市、久御山町、京都市伏見区に広がっていた。

巨椋池には宇治川・木津川・桂川が流入し、洪水時の遊水池としての役割を果たしてきた。
秀吉の築堤工事で分割された後も、下流の淀川の水量調節機能を持っていた。
また、池では漁業が営まれ、ハスの名所としても知られた。
しかし、明治四十三年(1910)竣工の淀川改修工事により、淀川本流と完全に分離されて遊水池機能は消滅した。
その結果、湖水の清浄化が妨げられ、農産物に被害が出るようになり、漁獲高も徐々に減少していった。
さらに昭和初期より、巨椋池にはマラリヤ病を伝染させる蚊が発生し、周辺各地に病気を流行させる原因となった。

いわば死滅湖となった巨椋池では、明治中期以降、農業振興などから干拓の要請が強まり、昭和八年(1933)に全面干拓が国営事業として開始され、同十六年に完成した。
干拓田は六百三十四・八ヘクタールに及び、沿岸の千六百六十ヘクタールの耕地も土地改良が施された。
新田のうち民有地の二百六十七ヘクタールは元の所有者に交付され、残りの国有地は漁業権解決の契約に基づき、旧漁民に優先的に払い下げられた。
昭和四十年(1965)以降、小倉地区を中心に宅地化が進行し、その後、工場の進出・道路や向島ニュータウンの建設などによって、広大な干拓田もめざましく変貌している。

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■ 亀岡市に「異人道」という道があるのはなぜか

旧山陰街道の王子から篠八幡宮の前を通って山本地区へ行く府道は、かつて「異人道」と呼ばれていた。
山本地区は保津川が亀岡盆地から保津峡へ入る入り口にあたる所にあり、ここの保津川の右岸を山本浜という。

『篠村村史』によると、明治二十八年頃、保津川遊船会社が設立されて、保津川下りがおおいににぎわったという。
特に、明治四十年に夏目漱石が『虞美人草』の中で、
 「傾いて矢の如く下る舟は、どどどと刻み足に船底に据ゑた尻に響く。壊はれるなと気が附いた時は、もう走る瀬を抜けだしてゐた」
と保津川下りのことを書いたことや、坪谷水哉が『山水行脚』で紹介したことによって、保津川下りを楽しむ外国人が多くなったという。

当時は京都から人力車に乗って老ノ坂を越え、篠村の王子から山本浜へとやって来た。
多くの外国人が通る道ということから、いつしか、「異人道」と呼ばれるようになったという。

ちなみに、日本の賓客として大正九年(1920)に訪れたルーマニアの皇太子一行、大正十一年のイギリス皇太子、昭和四年のイギリスのグロスター公一行などが、保津川下りを楽しんでいる。

■ 丹波高原の胡麻で谷中分水しているのはなぜか

谷中分水とは、谷の中に流域の境界があることで、河谷の一部に隆起などの地殻変動が起こった場合や、「河川争奪」という川が流域を奪い合う現象が生じた場合に形成される地形であり、丹波山地内には、そのような例はいくつか見られる。

丹波高原の胡麻付近では、西へ流れる由良川の支流の畑郷川と東へ流れる桂川の支流の胡麻川が、JR山陰線の胡麻駅の西の盆地状の平地の中の日吉町新町付近の標高二百六メートル地点で、太平洋側と日本海側とに谷中分水している。

どうして広い盆地状の胡麻で、由良川水系と桂川水系が分水したのだろうか。
最近の研究によると、昔の胡麻川は殿田から胡麻を経て西へ流れて、古由良川に合流して日本海へ流れていた。
一方、胡麻の南に、太平洋側に流れる桂川があって、北の方へ侵食が進み、流域を広めていって、古胡麻川の流域を争奪したと考えられる。
その結果、胡麻付近に「古胡麻湖」ともいうべき湖沼が生じた。
その後、古胡麻川の支流であった畑郷川に流出して、湖沼は消滅してしまい、現在のような平地の地形が形成されたと考えられている。

河川の争奪が発生した仕組みはまだ十分わかっていないが、亀岡盆地の北東部を走る亀岡断層や殿田断層の活動により、亀岡盆地が沈降し、丹波山地が隆起したために、桂川の浸食する力が大きくなって、今から約三十万年前ころに古胡麻川の上流部で河川争奪が起こったと考えられている。

■ 美山町のかやぶき山村集落とは何か

北桑田郡美山町は、丹波山地にあり、由良川の源流の里で、農林業を主産業とする山村である。
この町の全戸数のうち三割が江戸時代に建てられた民家である。
ここの民家は北山型民家といわれる茅葺の入母屋屋根で、千木状の棟飾りをもつ妻入りの形式で、板壁を用いた外壁などの特徴を持つ独特の家屋である。
この古い家屋は由良川流域の北、南、長谷などの地区に見られる。
そのうち特に多く残っている江和・下平屋などの地区は、平成五年、国より「伝統的建造物群保存地区」に指定された。
この指定地区の集落が「かやぶき山村集落」である。

樫原にある「石田家住宅」は、慶安三年(1650)に建築されたという棟札が残っていて、この辺りでは、最古の北山型民家であることから、国の重要文化財に指定されている。
また、下平屋にある「小林家住宅」は、母屋は文化十三年(1816)に建築された建物で、残っている土蔵と小屋はさらに古い文化三年(1806)の建築である。
小林家は付近の三十三カ村の庄屋を務めた家で、江戸時代後期の豪農の家屋として現存していることから、この家屋も国の重要文化財に指定されている。

美山町では、これらの家屋群を含む一帯を「かやぶき山村歴史の里」と名づけて、民族資料館や自然文化村などの施設をつくり、観光客向けのレストランや土産店を開き、宿泊施設をつくるなど、村おこし事業に力を入れている。

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■ 丹波山地の「貞任峠」は安倍貞任と関係あるの ?

貞任峠は日吉町の上世木の小茅と京北町の下宇津を結ぶ峠で、標高は約三百四十メートルである。
この峠には安倍貞任の首塚と伝える祠があり、地元では歯痛に霊験があるといわれている。
前九年の役(1051〜62)で、源頼義によって平定され、討たれた安倍貞任の首は京都に送られさらし首となった後、この峠に埋められた。
ところが貞任の怨霊が村人や往来の人に災いをなしたため、源頼義が九州の宇佐八幡より勧請して八幡宮を創建したと伝えている。

衣川の戦いで源義家が対戦している貞任に「衣のたてはほころびにけり」と歌を詠むと、貞任が「年を経し糸の乱れの苦しさに」と歌を返した伝承(『古今著聞集』)がある。
安倍貞任は文武両道をわきまえた東北豪族の武将であった。

民話では、切畑で貞任と宗任兄弟の処刑の時、陰陽師が「有頭郷にバラバラに斬って埋めよ」と占ったので、村人は貞任の首・胴体・手・足をバラバラに埋め、宗任を針のある柚の木で打ち据えた。
宗任は「有頭にはユズは育たぬ」と言って死んだ。
処刑の夜、バラバラに埋められた貞任の胴体や手足が一ヶ所に集まった。
今度は針のある柚の枝で包み、バラバラに埋め直した。
しかし、貞任は胴体首手足を一ヶ所に集め、怨霊になって現れた。
村人は恐れて騒ぎ、八幡太郎義家も驚いて八幡の分神を勧請したとか。
しかし、歴史的事実ではない。

安倍貞任の首は京都に運ばれ、西獄門に晒されたが、弟の宗任は京都へ護送後、伊予に配流され、太宰府に移された。
貞任・宗任の妹は藤原経清の妻となり、清衡を生む。
清衡の子・基衡は宗任の娘と結婚して秀衡を得る。
なぜ、こんな民話が生まれたのか不明だが、今も有頭郷には柚が育たぬし、貞任の足を埋めた人尾峠の地蔵は腰から下の病に、首を埋めた貞任峠の祠は首から上に効くという。

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■ 京都にも火山があるのか

福知山市の西、天田郡夜久野町の西端、JR山陰線の上夜久野駅の南には広い台地が広がっている。
これが夜久野ケ原という溶岩台地であり、この溶岩を噴出した火山が、夜久野ケ原の北側にある標高三百五十メートルの田倉山である。

この火山は、今から数十万年前も第四紀に溶岩を流出してできた火山で、宝山とも呼ばれている円錐形の火山で、噴出したスコリア(岩滓)が積み重なってできたスコリア丘であり、山頂部には火口のあとのくぼ地も残っている。
付近一帯に東西四キロメートル、南北一キロメートルにわたって広がる夜久野ケ原は、粘性が小さく流動性の大きい玄武岩質の溶岩が流出してできた溶岩台地である。

この溶岩の分布や堆積のようす、地形を調べてみると、数十万年前から少なくとも三回の噴出があり、流出時期の古い順に、小倉溶岩、衣摺溶岩、田倉山溶岩と命名されている。

これらの溶岩は、谷を埋め、牧川をせき止めたため、湖ができた。
やがて湖水は南の大油子という集落の辺りからあふれ出し、溶岩台地を侵食して、現在の牧川をつくったと考えられている。

大油子や水坂付近にみられる粘土や砂の地層は、この湖水時代に堆積したもので、かつてはこの付近では、この粘土を利用して瓦を焼いていた。

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■ 日本三景の一つ「天橋立」はどうしてできたのか

宮島(厳島)、松島とともに「日本三景」として知られる、古くからの景勝の地で、白砂青松の細長く延びた砂州の風景は天につづくかけ橋とも見えたことであろう。
その延長は約三・四キロメートルで阿蘇海を抱いている。

「天橋立」は沿岸流という海流が砂を運搬して、入り江の口に堆積してできたもので、このようなものを砂州という。
天橋立は丹後半島の花崗岩が侵食され、河川によって海岸に運ばれた砂が、沿岸流で阿蘇海の入り江に運搬され、野田川の流れや潮流のバランスによって堆積し、砂州として成長していったものであり、丹後の久美浜湾の小天橋や鳥取県の弓ヶ浜も同じ砂州である。
橋立はひとつづきの砂州ではなく、内湾と外海をつなぐ水路が二箇所あり、それぞれ廻旋橋と大天橋が架かっている。

室町時代の画家雪舟の描いた「天橋立絵図」を見ると、砂州は、途中までしかなく、現在の小天橋は描かれていない。
また、江戸時代には、宮津藩の藩主が橋立明神にお詣りに行くのに舟を使ったという記録があり、現在のような形になったのは二百年ぐらい前のことと考えられる。

天橋立を眺めるのによい場所としては、大内峠、栗田峠と対岸の傘松公園のほかに南岸の橋立ビューランドがある。
ここの玄妙遊園は、足利義満のために守護の一色満範が建てた客殿の跡で、義光が橋立を「宇宙の玄妙」とたたえたことから付いた名前である。

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■ 大江町の「元伊勢」神社とは

京都府加佐郡大江町に「内宮」皇大神宮、「外宮」豊受大神、宮川(五十川)、天岩戸神社が存在する。
伊勢神道では雄略天皇二十一年、倭姫命に天照大神の神教があり、丹波(後)の与佐宮から豊受大神を三重県の伊勢に迎えたとする。
倭姫命の夢に天照大神が現れて言う。
「崇神天皇の時に四年間、吉(与)佐宮にいて大和に戻った。その折、豊受大神が降臨して天照の食事を司った。伊勢に戻った後、ぜひ豊受大神を呼び寄せたい」と。

この吉佐(与謝)宮については三つの説がある。
@ 与謝郡の籠神社説
 天橋立の成相山山裾にある籠神社は「丹後の一宮」として名高く、国宝の「海部氏系図」や古鏡二個などが伝えられる。
A 峰山町の藤社、天女羽衣伝説
 *伝承・説話編で書く予定*
B 大江町の元伊勢
 加佐郡も与謝といわれた。

『宮津府誌』などには、用明天皇の時に第三皇子麻呂子王(聖徳太子の弟)が内宮・外宮を勧請したとある。
「清園寺縁起」ではマロコ王は天照大神の伊勢内宮に参拝し、神剣を得て鬼退治ができたという。
伊勢神宮が本格的に皇室の祖先神として祀られるようになったのは壬申の乱で勝利した天武天皇の頃からで、持統・元明・元正と女帝の続く中で天照大神は最高神として性格づけられた。

大江町は「酒呑童子・鬼の里」として町おこし中。
大江山の鬼嶽稲荷から見下ろす雲海は素晴らしい。
雲に浮かぶ神秘な三角錐の日陰岳は入山禁止。
山頂に古代の天を祀る遺跡がある。
天岩戸神社は二瀬川(宮川)の深い渓谷の東壁にあり、対岸の日陰岳に向かう。
社務所から岩伝いに鎖で本殿に参拝する。
祭神は手力雄命。
川をふさぐ巨岩・神が天降った御座石がある。
内宮には正面本殿、両側に二社、境内の周囲に七十九社の祠が並び、黒木の鳥居・籠灯の古杉がある。
江戸時代には正月、「元伊勢」に参拝する客が多かった。
八朔の祭りには外宮から河守街道で毛槍の奴踊りや大名行列がある。

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■ 丹後半島・間人は聖徳太子の母の名に由来 ?

日本海に突き出した丹後半島に間人(たいざ)という所がある。
聖徳太子の母は「間人(はしひと)皇后」で、仏教を崇拝する蘇我氏とそれを排斥する物部氏との戦いが起こった際(用明天皇二年=578)、戦乱を遁れて、この地に避難したという。

用明天皇元年丙午(586)、穴穂部皇子が炊屋姫(のちの推古天皇)を犯そうとして姫の忠臣・三輪逆君を殺害した。
怒った蘇我馬子は穴穂部を殺そうとした。
穴穂部皇子は丹後竹野の間人に隠れた(『丹後旧事記』)。
この地は間人皇后の領地であった。(『竹野郡誌』)。
皇位継承を巡って粗暴な行為をした穴穂部皇子は間人皇后の同母兄で、皇后を頼ったのかもしれない。
蘇我氏と物部氏の宗教戦争の直前、穴穂部は殺害された。

蘇我馬子とともに十四歳の聖徳太子は「勝利を得れば四天王寺を建立せん」と祈願し、ぬりでの木を切って仏を守る四天王の像を彫り、戦いで物部守屋らを敗死させた。
この崇仏派の勝利により、日本に仏教が広まっていく。
立岩が竹野川河口近くの海岸にある。
周囲約一キロ、高さ約三十メートルもある大きな一枚岩で、粗粒玄武岩の柱状節理が縦筋に発達し、幾状も柱を立てたように見える。
マグマが地表に噴出せず地表近くで固まってできたものである。
この岩には鬼が閉じ込められたという伝説がある。

三匹の鬼が近隣の人々を苦しめたので、聖徳太子の弟・マロコ親王が鬼を退治に来て、竹野川河口に追いつめ、天から大きな岩を下ろして封じ込めた。
そして麻呂子親王は生母とこの地で「対座」したと地元の人々はいう。
また間人皇后の滞在した所を「御所の坪」といい、港の近くにある。
皇后が、この地を間もなく「退座」したので「間人」と書いて「タイザ」と読む。

<余談>
究極の松葉ガニとして名高い間人ガニ

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古代王国の玄関口】【間人】【丹後半島の旅】【丹後町役場公式ウェブサイト

■ 舞鶴湾の沖、冠島と沓島は神様の冠と沓 ?

若狭湾内で舞鶴湾の沖に、冠島と沓島という二つの島が約二・五キロメートル隔てて浮かぶ。
どちらも無人島で、大きな島が烏帽子に似て冠島、小さい島は低いので沓島という。
どちらも新第三紀の安山岩と凝灰角礫岩からなり、周りは断崖で囲まれているが、暖流の影響で、モチノキやヤブツバキなどの常緑広葉樹に覆われている。
沓島は上陸不可能であるが、冠島は南端に狭い低地があり、上陸できる。
ただし、天然記念物のオオミズナギドリの繁殖地として国の指定があり、特別の場合を除いて上陸は禁止されている。

冠島は東西四百十三メートル、南北一・三キロメートル、最高地点百六十九メートルと南北に長い島で、島内に老人嶋明神を祀る老人島神社がある。
この明神は周辺の漁民の信仰が篤く、毎年六月か七月に漁船を仕立てて、地域ごとに大漁祈願と航海の安全のお参りに行く。
その信仰圏は、西は丹後半島沿岸から東は福井県三方郡の常神半島沿岸にまで及んでいる。

老人嶋明神は海部直の祖・天火明神で、丹後一宮「籠神社」の主神であり、神はまず最初に冠島に降り立ってから籠神社に移ったという。
また凡海連の祖先・目子郎女神を祀っているので女性が冠島に参ってはならぬともいう。
老人嶋明神の守護神は十一面観音、その脇立浦島太郎・松次郎と三郎。
浦島太郎は冠島の弁財天と夫婦になった話もある。
舞鶴市鹿原に弁天を祀る寺があり、平城天皇の第三子高岳親王が開基という。
神様が天に昇った時、被っていた冠が冠島に、靴が沓島になったとか。
また、この周辺の巨大陸地が海中に陥没して冠島と沓島だけが残ったという伝承もある

■ 伊根の舟屋とはどんな建物なのか

「舟屋」とは、漁船を入れておく小屋のことであり、伊根町の海岸に沿った日出、平田、亀島の三地区にだけ見られる独特の風景である。
かつて、NHKの朝のテレビ小説「ええにょぼ」の舞台になって、全国的に知られるようになった。

伊根町は丹後半島の東端にあり、この三地区を中心とする漁業では、定置網によるブリ漁が有名である。
この三地区は山地が海岸に迫り、平地が乏しく、海岸に集落が密集していて、各家が所有する小型の漁船を格納する「舟屋」が海に向かって並ぶ風景は他の地方には類をみない珍しい建物である。

舟屋は間口四メートル、奥行き十メートルほどのもので、切妻造りの妻入りの二階建てである。
一階は舟を揚げる所で、床は海に向かって傾斜し、海水が半分くらい入るようになっている。
二階は元来は魚網や漁具の置き場であり、干し物の干し場があったが、現在は居間となり、民宿を経営している家では、泊り客の部屋となっている所が多い。
母屋は道を隔てた山側に建っている。

海岸沿いに、このような舟屋がつくられたのは、伊根湾が南に向かって開いていて、冬の季節風による荒波が打ち寄せないことと、湾の入り口に鷲岬の半島と青島・黒島という小島があって、天然の防波堤の役割を果たしているため、湾内は一年中。波が穏やかであることによっている。

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伊根の舟屋】【伊根の舟屋/京都府伊根町】【美しい伊根の舟屋群の景観】【伊根町商工会】【伊根町観光協会】【伊根の舟屋 -ビデオあり-】
冠島

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