■■■ 歴史編 45話

更新 2005.08.21
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深草遺跡出土の木製鍬で何が明らかになったか古代の「丹後王国」とは椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡の謎  | 天智天皇陵と壬申の乱の謎短命の長岡京の謎京都盆地を開発した秦氏とは|■安和の変と『蜻蛉日記』を結ぶ謎|■藤原道長の造営した華麗な法成寺とは恋塚寺・文覚上人(遠藤盛遠)と袈裟御前の悲劇とは祇王と仏御前の最期は牛若丸・義経ゆかりの地ってどんな所奈良大仏を炎上させた平重衡の最期は白河上皇から後鳥羽上皇までの鳥羽離宮って何足利義満は上皇になろうとしたってホント?足利将軍義教はなぜ能鑑賞中に殺されたのか日野富子は財テクと権力欲の強い女?|■山城国一揆はどうして起こったのか|■中世の女商人・大原女と桂女ってどんな女性本能寺の変を目撃した南蛮寺の神父ってホントにいたの?|■福知山・御霊神社の祭神は誰|■聚楽第の行幸さわぎってホント?|■秀吉の伏見城は大地震で壊れたの?再建した伏見城は石川五右衛門の釜ゆでってホント?|角倉了以・素庵が造った高瀬舟と角倉船って何|宮本武蔵、一乗寺下り松の決闘はなかった?|後水尾上皇が造営した修学院離宮とは|桂離宮になぜ七つのキリシタン灯籠があるのか|山科の大石蔵之助はなぜ伏見の撞木町で遊んだのか|京の捨て子の場所は六角堂だった|四条大橋は江戸時代、なぜ仮橋だった|祇園の花街化はいつ頃からか|島原の角屋。江戸時代の揚屋って何|坂本龍馬は恋人お龍に助けられて結婚した?|逃げの桂小五郎は芸者幾松に救われた?|皇女和宮はどうして公武合体の犠牲になったか|新選組の近藤勇が受けた銃傷は右肩か左肩か|鳥羽・伏見の戦いはどのように始まったのか|日本最初の小学校と学区はどのようにして誕生したのか京都御所の北になぜキリスト教の学校が出現したのかロシア皇太子は大津で負傷し、京都でどうしたか|日本のハリウッドって何?太秦の映画撮影所|日本で最初の大学生協とは?|全国水平社大会はなぜ京都で行われたか|『女工哀史』を書いた細井和喜蔵の故郷とは|京都は原爆投下の目標地だったってホント?|

■ 深草遺跡出土の木製鍬で何が明らかになったか

深草遺跡は、深草西浦町を中心に、稲荷山の西麓に広がる扇状地から堆積平野に位置する弥生時代中期から後期にかけての集落遺跡である。
昭和三十年(1955)の発掘調査以降、昭和四十五年(1970)から三年にわたる立会い調査や試掘によって、百八十メートルにもわたる馬蹄形の溝がめぐることが確認された。
住居跡や建物群などの集落の全容は未確認であるが、大量に出土した木製農耕具から大規模な稲作が行われていたと考える。
また、出土した土器には近江地方の特徴を示すものが多く、この遺跡、また周辺の地域が近江地方との交流を深めていたことを知ることができる。
深草遺跡によって京都盆地東部の解明が始まったといってよく、京都盆地西部に位置する森本遺跡や神足遺跡などと並ぶ京都盆地を代表する弥生集落遺跡である。

ところで深草遺跡から出土した木製農耕具は、平鍬、丸鍬、馬鍬などの種類に分類され、完成品のほか多くの未製品があった。
特に最初の調査で出土した「柄」が付いたまま廃棄されたクワの存在が、木製農耕具の研究史に一石を投じたのである。
これまで鍬本体のみが出土したり柄が付いていても非常に短いために、どのようにして鍬本体に柄が取り付けられてたのかが不明であった。
調査を指揮した一人、網干喜教氏は、深草遺跡出土の柄付き鍬から、柄の装着方法や鍬本体の構造上の疑問に一つの答えを導き出したのである。
また深草遺跡発掘以前に各地で出土した柄付き鍬のの例を挙げ、鍬と柄の装着時の角度について推測された。
そしてそれまでの柄と本体が鈍角に装着されていたという学説を覆したのである。
この後、木製農耕具の出土柄も増加し、研究も進展していいった。
その中で深草遺跡は、研究史における転換点として大きな足跡を残した遺跡として、今でも記憶されているのである。

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■ 古代の「丹後王国」とは

「古墳時代、大和以外にも強大な地域国家が存在した」。
そのような観点から大和王権に匹敵する丹後地方の勢力の存在を指摘したのが、門脇貞二氏の『丹後王国論』である。
かつての丹波国の中心地、丹後地方では、四〜五世紀にかけて二百メートル級の前方後円墳が数世代にわたって築かれた。
これらの前方後円墳は、日本海沿岸地域で上位を占める規模であるだけでなく大和の古墳に匹敵する規模でもあり、環日本海地域におけるユニークな存在として注目されている。
近年では弥栄町大田南5号噴出土の青龍三年鏡から、大陸との独自の交流ルートの存在の可能性も指摘されている。
さらに『古事記』『日本書紀』に見られる四道将軍伝承、大王の妃輩出などの伝承からも大和王権との深い関係が取り沙汰されるなど、あなどれない地域である。

近年は「原」丹後王国ともいうべき弥生時代の丹後も注目されている。
コバルトブルーのガラス釧や多数の鉄剣を副葬した岩滝町大風呂南1号墓や後期末最大級の方形墳丘墓である峰山町赤坂今井墳墓、素環頭鉄刀やガラス玉、儀仗を副葬した大宮町三坂神社の墳墓群、素環頭鉄刀をはじめ鉄製品とガラス玉の豊富な大宮町左坂墳墓群などから、この地域の首長一族の権力の大きさがうかがえる。
こうした墳墓に副葬された鉄器の多さや、弥栄町奈具遺跡で判明した大規模な玉類生産から、この地域の生産力や交易圏の規模を知ることができる。
日本海地域における在地勢力として、およそ一世紀後半以降の特異な存在をアピールするに十分である。
こうして育まれた権勢を基盤とし、古墳時代の丹後地域が地方権力として成長していくことは想像に難くない。
しかし現在、「原」丹後王国と「丹後王国」とを明確につなぐ絆はまだ明らかではない。
この絆の発見こそが真に丹波王国を雄弁に語るであろうが、それにはもう少し時間が必要である。

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■ 椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡の謎

昭和二十八年(1953)、京都府相楽郡山城町大字椿井で国鉄奈良線の工事中に作業員が古代鏡三十数枚を発見した。
全長約百八十メートル巨大な前方後円墳で、三世紀後半から四世紀の築造と考えられた。
明治二十七年(1894)に鉄道敷設で前方部と後円部が東西に分断されたが、拡幅工事で偶然、竪穴式石室や古墳鏡が発見された。

三角縁神獣鏡には古代中国の神仙思想・不老不死の理想郷が描かれており、主な登場人物は東海の神仙に住む東王父、崑崙山に住む西王母、琴の名手の伯牙、生命増益を司る黄帝、また龍・虎などの聖獣、日月星などの規模がある。
三角縁神獣鏡も中国産の舶来鏡か日本産のホウ(イ+方)製鏡か議論が分かれる。
鏡の景初三年(239)や正始元年(240)は中国三国志(魏・呉・蜀)の時代、魏(220〜65)の年号である。
魏志東夷倭人伝に、景初三年、邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝に使いを送り、「銅鏡百枚」を授かった記述があり、この三角縁神獣鏡が「卑弥呼の鏡」といわれて全国的に脚光を浴びた。

しかし、その後、各地で古代鏡の発掘が続き、1998年1月、奈良県天理市の黒塚古墳で33面の三角縁神獣鏡が発掘された結果、15府県の39の古墳出土の兄弟鏡(同笵鏡)であることが判明した。
黒塚古墳鏡発掘で、椿井大塚山古墳との類似性、兄弟鏡は9種10面が確認され、「四神四獣鏡」が椿井大塚山が20面、黒塚も24面と多い。
また、約500枚発見されている三角縁神獣鏡を中心に兄弟鏡の分布をみると、京都・奈良・兵庫が最多で、東は群馬県、西南は宮崎県に広がる。
古代鏡によって初期大和王権の勢力図を描きうる。
三角縁神獣鏡の銘文に「徐州」などの地名や魏の年代があるから、中国産かというと、製作地の中国で一面も実物が発見されておらず、「倭に与えるために特別に鋳造された」という説もある。

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■ 天智天皇陵と壬申の乱の謎

天智十年(671)十二月、近江大津京で天智天皇が四十五歳の生涯を終えた時、額田王は「かからむとかねて知りせば大御舟泊てし泊まりに標結はましを」(大意 こうなろうと前に知っていたら大君の舟が泊まった港にしめ縄を張れば良かったのに)と嘆いた。
中大兄皇子だった頃、大化の改新を実施し政治の刷新を図ったが、朝鮮半島の百済を救済しようと軍を出し、唐と新羅連合軍と対戦して敗北、宮都を飛鳥から近江に移した。
天智七年(668)五月、蒲生野の薬草狩で皇弟・大海人皇子と額田王は有名な相聞歌を交わした。
天智天皇の息・大友皇子が、大海人皇子と額田王との間にできた十市皇女を娶る祝宴の意味でもあった。
若い二人の結婚が天皇と皇弟の協力関係をより緊密化できればよかった。

ところが、翌年、天智帝の片腕・藤原の姓をもらった鎌足が五十六歳で死亡し、天智天皇は皇太子を皇弟から大友皇子にして皇位を継がそうとした。
病床の天智天皇は大海人皇子を呼んで皇位を譲ると持ちかけた。
大海人は身の危険を知り、すぐに出家して吉野に去った。
大友は天智の死後、二十三歳で大津宮で(弘文)天皇に即位し、天智天皇陵を造ると人民と武器を集めた。
天武(弘文)元年(672)、吉野に隠棲していた四十余歳の大海人は遂に挙兵した。
「天照大神はわが軍に見方せり」と戦勝祈願し、大海人の軍は十八歳の高市皇子を大津京から迎え、不破の関を抑え、琵琶湖の東岸を南下し、大和では大伴吹負が飛鳥を鎮圧した。
七月、瀬田で決戦があり、大海人軍は圧勝して大津京を制圧した。
二十四歳の大友皇子(弘文帝)の首は叔父の大海人(のちの天武天皇)の前に捧げられた。
額田王・十市皇女の母親は壬申の乱で、どこに避難したか。
『日本書紀』は書いていないが、大友と十市の子が葛野王といい、葛野(山背・現在の京都)にいたのか。
天智天皇の没後一年以内に壬申の乱が起こったのである。
現在の山科の天智天皇陵墓は文武天皇三年(699)に造営された。

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■ 短命の長岡京の謎

乙訓郡長岡村への遷都は延暦三年(784)六月工事開始、十一月に実施されて、翌年元日、長岡新宮大極殿で朝賀式が行われた。
七月、造営役夫延べ三十一万四千人を動員して突貫工事をした。
八月末、桓武天皇は皇女を伊勢の斎宮にするために長岡京を出発、奈良に行幸し、文武百官が大和と伊勢の境まで斎宮を見送った。
長岡京の留守は皇太子早良親王(帝の実弟)と中納言で造営使長官・藤原種継であった。
九月二十三日、四十九歳の種継が射殺された。
その急報で帝は翌日、長岡京に戻り、暗殺犯人を探索し逮捕した。
桓武天皇が暗殺された藤原種継を重用したのは種継が藤原百川の甥であり、かつて山部王といわれた桓武が皇太子になり得たのはすべて百川の策略のお陰だった。
だから桓武は百川の姪・乙牟漏を正妃とした。
長岡京への遷都は奈良の寺院勢力と縁を切るためであった。
死んだ独身の称徳天皇と道鏡の関係を否定し、桓武天皇は新しい場所に都を移して政治を刷新したかった。
水陸交通の要衝のこの地を選んだのは種継の母方・山背の秦氏の勢力基盤であり、また帝の生母高野新笠が百済渡来人系で大枝の土師氏とも関係が深かった。

暗殺犯人は大伴継人(家持の従弟)ら春宮派と断定、皇太子早良親王を逮捕して乙訓寺に幽閉した。
早良親王は無罪を主張し絶食抗議して淡路への船中で死んだ。
帝はわが息子安殿を皇太子に選んだ。
延暦十一年(792)、二度の大洪水で工事を止めねばならず、生母高野皇太后が没し正妃乙牟漏が三十一歳で急死した。
皇太子安殿の病気も重なり、「恨みを呑んで死んだ早良親王の祟り」との噂に帝はノイローゼ気味になった。
血で汚された長岡京から別の新しい都へ移りたいと考えるようになった。
和気清麻呂は葛野へ帝を狩に誘い、三方山に囲まれた盆地を候補地にあげた。
四神相応の地として延暦十三年(794)十月、遷都の儀が行われた。
長岡京は十年間の短い都だった。

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■ 京都盆地を開発した秦氏とは

京都盆地の弥生文化は白川流域にみられるように東海地方の特色を持ったものと、大阪湾の特色を持つものとの二系統の文化の接点になったといわれている。
その後、京都盆地では桂川流域で四世紀に入ると古墳が出現し、嵯峨野ではやや遅れて五世紀末に古墳が出現する。
嵯峨野の開発が進んだのは五世紀後半以降のことと考えられているが、その中心となったのが秦氏であった。
太秦の地名は秦氏とのつながりを示唆している。

秦氏は秦の始皇帝の後胤との伝承があるが、先祖である弓月の君が朝鮮半島から渡来したことや信仰する仏教が新羅系であることから、朝鮮半島を経由して日本列島に定住したことは間違いがないであろう。
秦氏は特定の技能で朝廷に奉仕した品部の首長と考えられているが、彼らの持つ土木技術が大堰川の感慨工事を可能として、この地の開発を一層推し進めたのであろう。
その彼らが土着の神を氏神として祀ったのが松尾大社である。
神社の背後には磐座と見られる巨石がある。

一方、太秦ほど秦氏との関係が知られていないのが京都盆地南東部の深草にある稲荷大社である。
初詣での参詣者が全国有数であることは有名だが、毎月一日にも商売繁盛を願う参詣者が多い。
現在では商売の神として祀られることの多い稲荷社ももともとは文字どおり農業神であり、また信仰の対象となったのも麓にある社殿ではなく、東山連峰の南端にあたる稲荷山であった。
現在の稲荷社は八世紀初頭に記録に登場するが、その神官が代々、秦氏に受け継がれていくのである。
京都盆地の北西部の嵯峨野一帯と南東部にある深草がともに渡来人系の秦氏によって開発が進んだことは興味深い。

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渡来人研究会】【古代史ファンクラブ通信

■ 安和の変と『蜻蛉日記』を結ぶ謎

藤原道長につながる藤原氏が政治的な実権を確立したのは最終的には安和の変においてであった。
康保四年(967)、治世をのちに「天暦の治」とyたわれた村上天皇が四十二歳で没すると、憲平親王が即位して冷泉天皇となり、皇太弟として守平親王が立てられた。
冷泉は幼少時より異常な行動が多く見られ、たとえば、いったん異常が起こると鞠を天井の梁にのせようとして一日中でも蹴り続けるといったことがあった。
こうした冷泉の異常をよいことに、藤原兼家ら冷泉の伯(叔)父らは恣意的な行動をとっていたようで、前記にあげた立太子にあたっても、順序としては為平親王(式部卿宮)をたてるはずのところが、為平の弟である守平親王(円融天皇)が立てられた。
それは為平が左大臣源高明の女を妃にしていたことから、将来、実権が高明に移ることを嫌ったためと考えられる。

以上のようなことを背景に安和の変は起こった。
背後には策諜家の兼家がいたと思われる。
高明は藤原氏への不満からか、政務を自宅で執っていた。
そうした隙を突かれたと思われるが、高明が為平親王を擁して謀叛を企てているとの密告があり、朝廷は承久・天慶の乱のような騒動になったといわれている。
姿を隠した高明も見つけ出されて大宰権帥として流されたのである。
高明の妻は兼家の父である師輔の女であった。
高明の妻に同情した『蜻蛉日記』の著者藤原道綱の母は長歌を贈って慰めたが、実は藤原道綱の母の夫は兼家その人であった。
『蜻蛉日記』には事件に驚く市中の様子も記されているが、事件の背後に夫・兼家がいたとは知らなかったに違いない。

■ 藤原道長の造営した華麗な法成寺とは

京都御所の東に鴨沂高校があり、その壁沿いに「法成寺址」の碑が建っている。
ここには藤原道長が最盛期に建立した四町四方の法成寺があった。
南大門を入ると中央に大きな池と中島があり、池の向こうにはコの字形に正面が金堂、東に薬師堂、西には阿弥陀堂、さらに金堂の奥には講堂があって両手に経堂と鐘楼、境内の東北には釈迦堂、西北には常行堂という配置であったらしい。

道長は父が摂政・関白の兼家m母が時姫で、その三男に生まれた。
本来なら三男の道長が藤原家の長者にはなれない。
ところが、兄の道隆が四十三歳で死亡し、弟・三十五歳の道兼が疱瘡に罹り、わずか「七日関白」で死亡した。
三十歳の道長が内覧宣旨を受け、右大臣、氏の長者になった。
長保元年(999)、十二歳の彰子を一条天皇に入内させた。
兄道隆の娘・定子が内宮として男子(敦康親王)を産んだ。
道長は彰子のために女房として紫式部や和泉式部などを選んだ。
1000年前後、紫式部は『源氏物語』を執筆していた。
彰子にやっと男子(敦康親王)が誕生し道長は天皇の外戚祖父となった。
紫式部は道長が夜忍んで来たと『紫式部日記』に書いた。

道長は一条天皇に二人の皇后を置いた。
彰子は第二・第三を産む。
道長は定子の産んだ第一皇子(敦康)を避けて四歳の敦成(彰子の子)を皇太子にし摂関家の地盤を固めた。
「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と道長は詠った。
従一位摂政太政大臣。
彼の子は五人が公卿、六人の娘が中宮・女官。
「一家立三后。未曾有」で実権を握った。
五十四歳で大病し現世と来世を結ぶ法成寺を造営し、極楽往生を願った。
寛仁四年(1020)阿弥陀堂、治安二年(1022)に金堂五大堂が完成して落慶法要が行われた。
一族が居並んで極楽の世界を現出した。
その後、娘息子を失い、六十二歳の道長は疫痢と背中の悪性腫瘍で血膿を流しながら阿弥陀堂に運ばれ、北枕に西向きに臥し、九体仏より五色の糸を手に握って臨終念仏を唱えて没した。

■ 恋塚寺・文覚上人(遠藤盛遠)と袈裟御前の悲劇とは

洛南の下鳥羽に恋塚寺がある。
映画「地獄変」は『平家物語』『源平盛衰記』に題材を採った話である。
袈裟御前は美人で渡辺渡の妻だった。
北面武士の遠藤盛遠は勧学院でも認められ、大学寮の文章得業生になると嘱望された十七歳の若者だった。
盛遠は袈裟御前を見て恋に落ちた。
ひた向きで一徹な盛遠は脇目もふらず執拗に彼女に迫った。

盛遠は袈裟の母。衣川の所に行くと刀を抜いて「袈裟と一緒になりたい」と脅迫した。
衣川は仮病の便りで袈裟を呼び寄せた。
駆け付けた袈裟に母はことの経緯を述べて小刀を差し出し、「武士の手にかかって死ぬよりはわが娘の手で死にたい」と涙を流した。
年老いた母の困惑した様子に、袈裟御前は苦しんだ末、盛遠と出会って言った。
「誠に浅からず思われるのなら、思い切ってわが夫を殺してください。互いに心がやすまりますから」と。
盛遠は喜んで夜討の準備をした。
袈裟は夫の渡と二人で別れの酒を酌み交わした。
夫を酔い潰し几帳の奥に休ませた。
袈裟は自分の髪を濡らして烏帽子を枕元に置いた。
「露深き浅茅が原に迷ふ身のいとど暗路に入るぞ悲しき」と辞世を書くと燭台の火を吹き消した。
盛遠は闇に潜んで袈裟の言葉を反芻した。
「夫は刀のつかい手ですから、そっと枕元に近づき、濡れた髪に触れたら一刀で首を切り落として下さい」と。
盛遠は濡れ髪に触れるや、「えいっ」と首を斬った。
袖に包んだ首を月明かりにかざすと、彼は「しまった」と叫んだ。
首は渡ではなく恋しい袈裟御前だった。

袈裟御前は古来、「貞女の鏡」といわれるが、芥川龍之介は『袈裟と盛遠』で醜いエゴの相克として描いた。
出家した盛遠(文覚)は荒行の後、高雄の神護寺復興のために勧進し、後白河院に寄付を強制して伊豆に流布され、源頼朝に平家打倒の挙兵を勧めた人物である。
利剣山恋塚寺には袈裟御前と夫の渡辺渡、誤って恋人の首を斬った遠藤盛遠(文覚上人)の三つの木像が安置されている。

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青邨記念館

■ 祇王と仏御前の最期は

『平家物語』では、五十一歳の平清盛が太政大臣に上り詰めた祝宴の席へ「当代美貌、歌舞の妙手」と評判の白拍子祇王・祇女が呼ばれた。
清盛は美しい祇王を寵愛して西八条の館に祇王はじめ母・刀自と妹をともに住まわせた。
月米100石・銀100貫の贅沢な暮らしだった。
それから三年後、祇王の前に美しい仏御前という白拍子が現れた。
すげなく追い返される彼女に、祇王は「私も同じ白拍子。清盛様に対面させてあげましょう」と言った。
移り気な清盛は十六歳の仏御前を見ると、祇王を館から追い出した。
「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれは秋にあはで果つべき」と祇王は襖に書き置いた。
二十一歳の祇王は母妹と一緒に髪を下ろして嵯峨野の奥に草庵を結び、念仏三昧の日々を過ごした。
それから間もなく仏御前が草庵を訪ねて来た。
「恩を仇で返すことに成り心苦しかった。襖の歌を読んで私も感じ入り命の有らん限り念仏を唱えたい」と仏御前は出家した。

祇王の墓は「性如禅尼・承安二年(1172)八月十五日寂」とある。
現在、明治に復元された祇王寺には、祇王・祇女・母刀自・仏御前と平清盛の木像が安置されている。
鎌倉時代の作で水晶眼だという。
滋賀県祇王寺も有名で、祇王は保元の乱で父・橘時長を亡くして白拍子になり、清盛の寵愛を得て故郷に用水路を造った。
今も祇王井川として田に水を供給している。
なお、世阿弥の「仏原」では仏御前が里の女に姿を変えて旅僧に回向を頼む。
加賀出身の仏御前はすでに腹に清盛の子を宿しており、尼寺では産めないので加賀国に帰った。
しかし、山中で死産したともいわれ、加賀・小松に戻った仏御前は村の男から「清盛の白拍子」とちやほやされた。
嫉妬に狂った村の女たちは仏御前を山へ呼び出して嬲り殺したという悲話も伝承されている。

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■ 牛若丸・義経ゆかりの地ってどんな所

京の牛若丸伝承は各地に点在する。
まず牛若丸誕生地として北区紫竹牛若町、父・源義朝の別業地で母の常盤が牛若丸誕生の際、使用した産湯の井戸と彼の胞衣塚も傍らにある。
彼が誕生した年、平治の乱で三十八歳の義朝は敗北して、翌年正月、殺された。
常盤は三人の幼い遺児を連れて清水寺へ参詣後、都から逃れようとして捕まった。
乳飲み子の牛若丸は母の再婚先・大蔵卿藤原長成のもとで養われたが、七歳で鞍馬山に送られた。
鞍馬山には牛若丸が稽古した天狗杉、持念仏、背比べ石、兵法石、硯石、義経息つぎ水、義経堂まで揃い、毎年九月十五日には義経祭行われる。
天狗の話は『吾妻鏡』『源平盛衰記』『義経記』には出てこず、江戸時代以降に付加された。
『義経記』では毎夜、武芸に励んだ十六歳の牛若丸は京と奥州を往来する金売り吉次に誘われて鞍馬を下山した。
蹴上の地名は、民話では牛若丸が金売り吉次とともにここに来た時、平家の侍が水溜りの水を牛若丸へ蹴り上げた。
怒った牛若丸は九人の平家侍を斬り殺した。
しかし、無益な殺生を悔いた牛若丸は九体の石仏を安置したとか。
今も石仏が残る。
奥州平泉で藤原秀衡に出会った義経は京に戻る。

弁慶との出会いは有名な五条大橋だが、中世の昔話では、二人の出会いは五条天神(松原通西洞院)や清水寺であった。
謡曲や長唄で「橋弁慶」が有名になり、五条大橋に定着した。
ただ橋弁慶では「千人斬り」の牛若丸の話が今は「太刀千本」を集める弁慶の話に変形している。

義経には謎が多い。
『吾妻鏡』に治承四年(1180)、兄頼朝の挙兵に義経が奥州から馳せ参じて黄瀬川兄弟対面の頃、『玉葉』では近江源氏山本義経が琵琶湖で活躍した。
つまり、二人の義経がいた。
平家を壇ノ浦で滅亡させた後、義経は「堀川六条の屋形」で頼朝の刺客の急襲を受けた。
義経の愛人・静御前は長刀で応戦した。
雪の吉野で義経と悲恋の別れをした静御前。
彼女の生誕地は網野町磯にある。

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■ 奈良大仏を炎上させた平重衡の最期は

平重衡(清盛の子)は源平の争乱期、奈良・興福寺の僧兵らと戦い、彼らが東大寺大仏殿に逃げ込んだので、大仏殿に放火し焼き尽くした。
四年後(文治元、寿永三=1184)、敗北した平家の捕虜の中に、重衡がいた。
彼は鎌倉に護送される前に「ぜひ黒谷の法然上人に会いたい」と頼んだ。
法然は五十二歳。
重衡は二十九歳。
二人は八条堀川の御堂で出会った。
重衡は「南都の堂塔伽藍を焼き尽し、私は少しも善を積んでおりません。間違いなく地獄に落ちて火・血刀の苦しみを受けます。どうか上人のご慈悲で悪人の私でも助かる方法を教えてください」と懇願した。
法然は「ただ南無阿弥陀仏とお唱え下さい。罪が深いからといって卑下することはありません。十悪五逆も回心すれば往生を遂げます」と答えた。

その後、重衡は鎌倉の源頼朝から南都衆僧の手に引き渡されることになった。
重衡の北の方・大納言佐殿は洛東・日野の姉の家に身を寄せていた。
文治元年(1185)六月、重衡は大津から醍醐を経て奈良に送られる途中、北ノ方が日野街道で夫・重衡を別れを惜しんだ。
『源平盛衰記』には、
「小野里をすぎて重衡泣々宣いけるは、年来相具したりし者、日野という所に在りと聞く。彼人を今一度見もし。・・・・・武士共もさすが岩木ならねば涙を流しつつゆるしてければ・・・・・」

山科の日野街道には二人の別離伝承が多い。
二人の出会いの川は「あいば(会場)川」といい、琴弾山は北ノ方が夫への別れの情を琴の音に託したところという。
同年六月二十三日、重衡は「仏敵法敵」逆臣として木津川畔において奈良僧兵の手で処刑された。
重衡は死の直前、念仏を唱え、往生を信じて平静に首を斬られたという。
重衡の首を洗った「平重衡の血洗いの池」、また「重衡の十三重の石塔」はJR木津駅に近い安福寺にある。
平重衡の遺骸は北ノ方に引き取られた。
京・法界寺より北四百メートル余には「従三位平重衡卿墓」が建っている。

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■ 白河上皇から後鳥羽上皇までの鳥羽離宮って何

「鳥羽離宮跡」碑は名神高速・京都南ICの南、鳥羽離宮公園に建つ。
白河天皇は大規模な「鳥羽離宮」を建設した。
応徳三年(1086)、「五畿七道六十州、皆共に課役し、池を彫り山を築く。池南北八町、東西六町、蒼海に島を作る」(『扶桑略期』)。
鳥羽南殿御所、北殿、馬場殿、東に泉殿御所。
白河天皇は北面の武士を設置し院政を実行した。
法皇の意に従わぬものは「双六の賽子、鴨川の水、山法師」と嘆いた。
康和四年(1102)三月、法皇は五十賀で南殿の北に築山「秋の山」を眺めた。
現在、「秋の山」は東西四十メートル、南北三十メートル、高さ四メートルの小岡である。
「池水に汀の桜散り敷きて波の花こそ盛りなりけり」(『千載集』七八)
治承三年(1179)平清盛は後白河法皇を鳥羽離宮に幽閉した。(『平家物語』巻三)
さて、寿永二年(1183)、安徳天皇の都落ち後に即位した後鳥羽院は、十五年間在位後、十九歳で譲位して院政を執り、土御門・順徳・仲恭天皇の代まで政治的実権を保持した。
朝廷の政治権力の回復を志し、「西面武士」を設置した。
文武両道に優れた後鳥羽院は自ら舟の櫂を操って強盗を捕縛し、蹴鞠に長じ、琵琶も奥義を伝授され、和歌にも熱心だった。
藤原定家らを召して『新古今和歌集』の撰集を命じた。
熊野・水無瀬・宇治・交野など南方へ行幸が多く、後鳥羽院は鳥羽離宮に来住し、歌会・舞・管弦の宴、競馬を行った。
後鳥羽院は鎌倉幕府に敵対し朝夕武芸を、昼夜兵員を整えた。
承久三年(1221)五月、城南宮に流鏑馬に名をかり畿内の武士を招集した。
しかし、鎌倉幕府軍の機敏な行動と大軍の前に朝廷軍は完敗した。
承久の乱で、幕府軍は圧倒的に勝利し、反幕府軍の御家人・非御家人を処断した。
後鳥羽院は隠岐島へ流刑、十八年間幽閉中に没した。

近鉄竹田駅付近に鳥羽天皇陵・近衛天皇南陵、安楽寿院(鳥羽離宮東殿の一部)がある。

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■ 足利義満は上皇になろうとしたってホント?

南北朝の動乱期に十二歳で将軍になった足利義満は「容貌端厳にして慈あり威あり。あたかも鳳凰児」と獅子の威厳と公家風の教養を身につけた人物だった。
五歳年少の藤若(世阿弥)を稚児として寵愛し、祇園祭山鉾巡行を同席で見物させた。
明徳三年(1392)、南朝側にあった皇位の象徴・神器が北朝の後小松天皇に渡されて南北朝統一が達成された。
三十四歳の将軍義満は同年十一月、左大臣となった。
その二年後将軍職を息子の義持に譲り、太政大臣に任ぜられた。
三十八歳で出家した義満は実権を握り、恣意的な専制政治を行った。

相国寺に建てた巨大な五重塔は、東寺の五重塔(五十六メートル)よりも高く、七十メートルあった。
応永六年(1399)九月、大塔の落慶法要には五山をはじめ東大寺・興福寺・園城寺など1000人の僧が参集した。
義満は北山邸から親王・関白を従えて牛車に乗り、相国寺に向かった。
公武双方を掌握した自信が漲っていた。
北山には大邸宅を造営し始めた。
その費用百万元という。
義満は明国と勘合貿易をして明皇帝からの国書に「日本国王源道義(義満の法号)」とあったものの、明の属国の国王に甘んじ、貿易の利益を得て「日本国王臣源表す」と返事した。

応永十五年(1408)、五十一歳の義満は北山第に三十二歳の後小松天皇の行幸を乞い、それは二十日間に及んだ。
北山第は金箔の舎利殿(金閣寺)、護摩堂、宸殿、天鏡閣など綺羅星のごとく輝いて立ち並んでいた。
北山第で足利義満は桐竹紋の法服で後小松天皇と対座した。
まるで上皇のように振る舞い、得意の絶頂だった。
義満は後妻の日野康子を後小松天皇の准母とした。
夫人が准母ならば、夫の義満は上皇になる。
さらに義満は寵愛する次男・義嗣を最上位の上座に座らせて「若宮」と呼ばせ、次期天皇の位に就けようとした。
朝廷でも義満に上皇の尊号を贈る動きがあったが、義満は五十一歳で急死した。
相国寺の過去帳に義満の法号は「鹿苑院太上天皇」とある。

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■ 足利将軍義教はなぜ能鑑賞中に殺されたのか

嘉吉元年(1441)、足利六代将軍義教は家臣赤松の屋敷に招待され、そこで斬殺された。
永亨二年(1430)義教の直衣始めの時、東坊城益長がふっと笑い声をもらした。
別に悪意があったわけではない。
ところが義教は益長の所領を二ヵ所没収して蟄居謹慎を命じた。
義教に子供が産まれた時、多くの公家や武士・僧侶がお祝いに架け付けた。
そのあと、将軍の正室の実兄・裏松中納言日野義資にもお祝いに行ったところ、「蟄居中の日野家を祝うとは何ごとか」と義教は激怒し出向いた連中を死罪・島流し、所領没収にし、数十人が被害を受けた。

義教は三代将軍義満の子で僧侶だった。
義満は同じ息子の義嗣を溺愛した。
義嗣の兄・義持は父から冷遇されていた。
しかし、父の死で四代将軍になった義持は、冷遇のお返しに弟・義嗣を謀反の罪で殺害した。
ところで、五代将軍義量が十九歳で早世し、義持は跡継ぎを決めずに死んだ。
そこで醍醐寺三宝院の満済が義満の子四人を八幡宮に集め、くじ引きで六代将軍を選ぶことにした。
くじ引きの結果、青蓮院の義円が選ばれ、還俗して義教と名乗った。
最初は前例を尊重していたが。やがて南朝の大覚寺統を絶滅せよとか、天台座主が将軍の意にそわぬからと比叡山を焼いたりした。
その後、京都西洞院二条の赤松邸に招かれた義教は、赤松満祐から戦勝を褒められて祝杯を重ねたが、能「鵜の羽」が演じられてる最中、赤松の家臣が馬屋の絆を切った。
十数頭の馬が宴会で暴れ、甲冑を着た赤松の兵が座敷になだれ込んで将軍義教の首を斬り落とした。
満祐が将軍を暗殺した理由は、赤松一族の貞村を将軍が偏愛し、満祐の弟の所領を没収して貞村に分与したことや背が低く醜い満祐を「三尺入道」と呼んで将軍は犬や猿をけしかけたことのほか、味方を平気で殺す将軍のやり方に疑心暗鬼になったことなどである。
赤松は領国播磨に戻り、幕府軍に攻められて自害した。
征伐し赤松の所領を得たのは山名持豊(宗全)である。

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■ 日野富子は財テクと権力欲の強い女?

日野富子は足利八代将軍善政の正妻である。
彼女の木造は上京区の宝鏡寺にある。
富子は永亨十二年(1440)、日野の分家、裏松茂政の娘として生まれ、十六歳の時に二十一歳の足利義政に嫁いだ。
二十歳の富子が産んだ第一子は間もなく死んだ。
義政の愛妾・今参局の呪詛だといって、富子は今参局を琵琶湖の沖ノ島へ追放した。
三年後に姑の重子が他界すると、富子は権力の座を得た。

三十歳の義政が富子に跡継ぎの男子が産まれないので、出家していた実弟の義尋を浄土寺門跡から呼び戻して義視と名乗らせた。
ところが、皮肉にも富子は翌年、義尚を産んだ。
義政は次期将軍を実弟の義視か、わが子の義尚にするかで思い悩んだ。
富子はわが子義尚を当然、将軍にしたいと思い、義尚の後見を山名宗全に依頼した。
一方、義視を呼び戻した人物が細川勝元である。
山名宗全と細川勝元とは舅と婿の関係だが、不仲だった。
畠山家の内紛も絡んで遂に一触即発の危機がきた。

応仁の乱は応仁元年(1467)、上御霊神社の前で勃発した(碑がある)。
西陣の山名宗全。
「西陣」の地名はそれに由来する。
山名宗全邸跡は堀川五辻西入ル山名町。
東軍の細川勝元は相国寺に立て籠もった。
政争に興味のない足利義政は風流の世界に逃れて酒宴に明け暮れていた。
日野富子は都に出入りする七口に関所を設けて通行税を取り、東西の武将に金を貸した。
応仁・文明の乱の中で山名宗全が七十歳で死亡、細川勝元は四十四歳で相次いで死んだ。
九歳の義尚が第九代将軍になった。

文明九年(1477)、東軍の勝利で終わるが、京の数多くの寺社や屋敷はほとんど焼失した。
二十五歳の義尚は近江出陣中に死亡した。
将軍に返り咲いた義政も五十五歳で他界。
次の将軍の義稙(義視の子)を、富子は細川政元(勝元の子)と謀り、辞めさせ、十一代将軍に養子の義澄を立てた。
明応五年(1496)、強欲な富子は五十六歳の波乱の生涯を終えた。

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■ 山城国一揆はどうして起こったのか

文明十七年(1485)から明応三年(1494)までの八年間、南山城の国人と農民は結束して守護を排除した。
なぜそれが可能だったのか。
応仁の乱で京都は焼け野原となり、近郊も戦乱に巻き込まれた。
乱の原因が畠山氏の家督紛争(政長と義就の争い)だったが、乱の終了後も山城・大和・河内で戦いは散発的に続いた。
文明十七年(1485)の夏から秋、畠山の両派が南山城で対峙し、そこが主戦場となった。
そこで十二月一日、山城の国人(土豪・地侍・在地有力者)が集会を開き、上は六十歳から下は十五、六歳まで集まった。
農民も集まり、畠山政長と義就両派に対して軍兵の撤退を要求した。
両軍は十二月十七日、撤兵した。

惣国という国一揆は、国人の中から月行事を決めて輪番で国内行政や治安維持にあたる。
半済(年貢の半分が軍費、半分が領主納入)により財源を確保した。
文明十八年(1486)二月十三日、宇治の平等院で山城国人が会合し、国中掟法の制定を検討した。
「一国中面々掟法」には
@ 今後、両畠山の者は国中に入れない。
A 大和以下の他国の輩を代官にしない。
B 本所領(荘園)は旧来のごとく直務とする。つまり、中間搾取を排除し年貢を軽減する。
C 新関などはいっさいたてない。新設の関所を撤廃するなどの内容を要求した。

惣国の主導権を持つ国人は、しばしば会合を聞き、宇治川以南の南山城を「国・惣国」と称して支配し、殺害者の検断、半済の実施など、守護の果たすべき役割を独自で自治的に運営した。

この国一揆は国衆として独自の勢力を伸ばした在官クラスの土豪層が「惣郷」と手を結び、在地支配権を奪い取った点に特異性がある。
農民闘争が史上最高に高揚した事例である。
明応二年(1493)、細川政元が十代将軍義稙を追放、義澄を将軍にし、管領畠山政長を滅ぼした。
山城の国人と結ぶ伊勢貞陸が守護となり、国人らが迎え入れたので山城の国一揆は終わった。

■ 中世の女商人・大原女と桂女ってどんな女性

『日本霊異記』には花を売る女や銭を貸して大儲けする女、米酒を貸す時と受け取る時で枡の大小を使い分けて多くの利息を得る悪賢い女が出てくる。

女性の商人は結構活躍していた。
平安後期には炭を売る大原女が文献に現れる。
大原とは左京区(もとの愛宕郡)八瀬の北にあって寂光院・三千院の名刹のある場所である。
大原女は頭に手拭を被り、小さな蒲団を載せて、その上にハシゴやクラカケ、柴などを置き、バランスを取りながら、「ハシゴーやクラカケ、いりまへんか」と声を張り上げて京の市中を売り歩いた。

鎌倉時代には琵琶湖の魚を店棚に並べて売る女がいた。
また、桂女が鮎や川魚を売り歩いた。
桂は山城国葛野郡桂村(右京区桂・上桂町)である。
桂川は大堰川の下流で、桂川沿いに住む桂女は、独特な被り物をした一種の巫女であった。
一見して一般の女とは違う風俗姿である。
桂鮎は中古、桂の里から朝廷に捧げられた。
桂女の名主は女系相続をして明治まで続いた。
桂女は諸家の祝い事の祓いもしたし、貴人の婚礼の際に嫁のお供をした。

ルイス・フロイスが指摘したように、日本の女性は夫に金を貸し、自分の金や財産を所有して金融活動に従事していた。
土倉・文書・資産の管理にも女性が大きな役割を果たしていた。
だがら日野富子は例外的な女性ではなかった。

十五世紀後半の『七十一番歌合』には女性の機能集団がいろいろ描かれているし、女性の物売り、手工業に従事する姿を描いている。
また『洛中洛外図』には扇や呉服などを商う女性が店棚で働いていた。
しかし、江戸時代の身分制度が固まり、中期以降になると、女性は次第に裏に引き籠もるようになった。

なお、大原女や桂女は時代祭の中でも登場する。

■ 本能寺の変を目撃した南蛮寺の神父ってホントにいたの?

織田信長暗殺の旧本能寺は、中京区油小路通蛸薬師下ル旧本能寺小学校の辺りにあった。
東約百メートルと間近な南蛮寺(蛸薬師通室町西入ル)の神父はその実況を生々しく伝え、ルイス・フロイスが『日本史』にそれを引用した。

「1582年6月20日(邦暦6月2日)水曜日。・・・・・本能寺(法華宗大寺院)に到着するや、明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲した。事件は街の人々の意表をついた。数名のキリシタンは早朝ミサの支度をしていた司祭(カリオン)に、御殿の前で騒ぎがあるから重大な事件かもしれないと報じた。間もなく銃声が響き、火がわれらの修道院から望まれた。明智が信長の敵・反逆者となって包囲した。明智の軍勢は御殿の門警備守衛を殺した。御殿には宿泊の武士と茶坊主と女たちのみがいた。明智の兵は内部に入り、ちょうど手と顔を洗い終え、手ぬぐいで身体をふいている信長を見つけたので、背中に矢を放ったところ、信長はその矢を引き抜き、鎌の形をした長槍の武器(ナギナタ)を手にして出て来た。しばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自らの部屋に入り戸を閉じ、そこで切腹した。また、御殿に放火し生きながら焼死したという。大火事のため、彼の死は不明。その声だけで万人を戦慄させしめた人間が、毛髪や骨もなくすべて灰燼に帰した」と。

信長四十九歳。光秀五十五歳。秀吉は四十六歳である。
光秀の謀叛理由はいろいろある。
1. 信長への畏怖
2. 暴虐な信長への畏怖心
3. 戦国武将の光秀も天下を狙う機会を窺った
4. 秀吉との出世比べ

元亀二年(1571)、光秀が坂本城主、天正元年(1573)、秀吉が長浜城主、天正三年(1575)光秀の丹波攻め、天正五年(1577)、秀吉が中国攻めの大将になった。
一歩先行の光秀が、中国攻めでは秀吉の指揮下に置かれた。
しかも信長は光秀から丹波と近江を没収し、「出雲と石見を切り取れ」と命じたが、それは戦勝後の空手形であり、将来の不安のほうが大きかったのかもしれない。

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資料 本能寺の変】【徹底研究!本能寺の変】【年表で見る「本能寺の変?山崎の合戦」】【本能寺の変 事件の真相・・・

■ 福知山・御霊神社の祭神は誰

明智光秀は福知山では「主君殺しの逆臣」とはいわず、福知山の城下町の繁栄に尽くし、「善政を施した武将」として御霊神社に祀られている。
社宝には光秀直筆の書状や陣中制法がある。
御霊祭は丹波・丹後・但馬の三丹一といわれる。

天正七年(1579)、信長の命を受けた明智光秀は丹波攻略で、由良川左岸の小高い丘の横山城を落城させた。
光秀は近世城郭へ大改築して福知山城(福利山市内記)と改めた。
城の石垣は「穴太積み」といわれる。
穴太(大津市坂本)石職人が、信長の命で安土城石垣の造営に動員されて有名になった。
この工法は自然石を用い、不揃いな大きさの細長い石を奥のほうで組み合わせた後、隙間にやや小さな石をはめ込んで補強した。
この @ 天正期の「野面積み」は勾配を緩やかにした直線的な段状石垣である。
のちの A 慶長期の「打ち込みハギ」(勾配に反り返しを持つ石垣)
B 元和・寛永時代の「切り込みハギ」(端正な継ぎ目で整備補正し、急勾配の高い石垣を可能とした)と比較すると、「野面積み」は石垣の初期的段階といえる。

福知山城は四百年の風雪を経て「光秀の石垣」が老朽化し、崩壊の危機にあると報じられた。
不揃いな石積み、はめ込んだ石が所々で落ち、内側からの力がかかり、石が押し出されて、石にも亀裂が入っている。

江戸時代、この城は朽木氏が十三代、二百年にわたって支配した。
天守閣は昭和六十一年(1986)に復元され、資料館・産業間として開放されている。

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丹波福知山城】【福知山城 埋もれた古城】【福知山城の戦い】【福知山城(別名・竜ヶ城、横山城)】【】【】 

■ 聚楽第の行幸さわぎってホント?

聚楽第は豊臣秀吉が京都に造営した城郭風の邸宅で、天正十四年(1586)春に着工、翌年秋に完成した。
御所に対するように、平安大内裏跡の上、東は大宮通、西は浄福寺通、北は一条通、南は出水通に囲まれた壮大な平城である。
天正十三年(1585)、武官最初の最高官位「関白」に就いた秀吉は、織田家一族旧臣や徳川家康ら諸国大名を臣従させて跪かせた。
その勢いを天下に示すために天正十六年(1588)四月十四日〜十八日、後陽成天皇の行幸を仰いだ。
大村由己の『聚楽第行幸記』に
「四万三千歩の石のついがき山のごとし。楼門のかためは鉄の柱鉄の扉。瑤閣星を摘てたかく。瓊殿天にそびえたり。甍のかざり瓦の縫めには、玉虎風をうそびき。金龍雲を吟ず。儲の御所は桧皮葺也。御はしのまに御輿よせあり。庭上に舞台左右の楽屋をたてらる。後宮の局々に到まで百工心をくだき。丹青手をつくす。その美麗あげていふべからず」

行列は禁中から聚楽第まで続き、警護の将兵六千余人。
天盃天酌。
折台の蓬莱島に鶴亀。
御宴。
四度献上物。
夕暮れ管弦。
二日目、秀吉は京都地子銀五千五百三十両と地子米八百石を禁裏御所に献上、諸公家・諸門跡に八千石を贈った。
三日目の十六日、和歌会で秀吉が「よろつ代の君が御幸になれなれん緑木高き軒のたま松」と詠んだ。
四日目の十七日、舞楽(万歳楽・延喜楽・太平楽・狛鉾・陵王・納蘇利など)天覧。秀吉の母・天瑞院、正室・高台院らが進物。
十八日の還行。午刻、鳳輦。
翌十九日、雨風。
「空までも君が御幸をかけて思ひ雨降りすさふ庭の面かな」の行幸成就し、天が行幸の済むまで雨を降らさなかったと喜んだ。
フロイス『日本史』でも聚楽第の美麗を描く。
また三井家蔵の屏風に聚楽第天守閣も描かれている。
天正十九年(1591)、秀吉の甥・秀次の居所となった聚楽第は、文禄四年(1959)、秀次自害後。取り壊された。
桃山時代の「遺構」ともいわれるものには西本願寺の飛雲閣や大徳寺の唐門がある。

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聚楽第を歩く】【聚楽第】【豊臣秀吉と京都】【】【】【】【】【】

■ 秀吉の伏見城は大地震で壊れたの?再建した伏見城は

豊臣秀吉の築城した第一回目の伏見城は明国使節を迎える謁見場として天守閣を黄金の瓦で飾ったが、文禄五年・慶長元年(1596)閏七月十三日の大地震で崩壊し、天守閣倒壊で男女御番屋衆が数多く死んだ。
第二回目の城は秀吉が地震直後に造営した。
慶長三年(1598)八月十八日、秀吉は波乱万丈の生涯を、この伏見城で終わった。
享年六十三歳。

秀頼は父の遺言で大坂城へ移り、伏見城は徳川家康が預かった。
慶長五年(1600)九月、関ヶ原の戦いが起こる二ヶ月前の七月十九日、石田三成側の西軍が徳川軍の守る伏見城を守る家康の家臣・鳥居元忠らはわずか1800人。
本丸・西の丸・三の丸・松の丸・名護屋丸・治部少輔丸などを死守したが、激戦の末、八月一日、松の丸が円状、火は天守閣に燃え移った。
鳥居元忠らはほとんど戦死し、攻撃側も3000人死傷した。
秀吉の豪華絢爛な伏見城は灰燼に帰した。
戦死者の城床板が現在、「血天井」として京都の養源院・正伝寺・宇治の興聖寺などに残る。

関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は第三回目の伏見城を築城修復し、慶長八年(1603)、伏見城で征夷大将軍の位を受けた。
家康は、伏見城を公儀、築城した二条城を典儀の城とした。
慶長十九年(1614)、大坂冬の陣、翌年の夏の陣には伏見城から徳川家康が出陣し、豊臣氏滅亡の際に逃れた千姫を伏見城に迎えた。
家康は諸大名を伏見城に集めて「武家諸法度」を出し、二条城で「禁中並公家諸法度」を発した。
二代秀忠、三代家光の征夷大将軍の宣下も伏見城でなされた。
しかし、徳川幕府の擁立で、伏見城の存在意義がなくなり、寛永元年(1624)破却された。
その跡に数万本の桃が植えられ、十七世紀後半には「桃山」と呼ばれるようになった。

なお、日本各地に残る「伏見」「伏見櫓」は、この遺構を移したものが多い。
現在の四代目伏見桃山城は、1963年近鉄遊園地の開設で、天守閣は明治天皇御陵を遠慮してずっと北西に後退して建つ。

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伏見城】【各種計画および緑化イベント情報―伏見桃山城運動公園(仮称)の整備基本計画―】【伏見城の戦い】【】【】【】【】【】

■ 石川五右衛門の釜ゆでってホント?

歌舞伎『楼門五三桐』で石川五右衛門が南禅寺山門の楼閣から夕日の桜を見て、「絶景かな」という有名な場面はご存知の方も多い。
彼の処刑は文禄三年(1594)。
この山門は藤堂高虎が大坂の陣戦没者を弔うために寄進したので寛永五年(1628)建立。
神出鬼没の彼でも三十四年後に建つ山門には住めない。

石川五右衛門についてスペイン人アビラ・ヒロンは『日本王国記』で
「都に一団の盗賊が集まり目に余る害を与えた。・・・・・捕らえられ、拷問にかけられ、十五人の頭目は生きたまま油で煮られ、彼らの妻子、父母、兄弟、身内は五等親まで磔に処せられた」

ヒロンは文禄三年(1594)来日、日本に永住した貿易商。
イエズス会宣教師も同様に記録を残した。
『山科言経卿記』では「文禄三年八月二十三日、晴天、盗人スリ十人子一人等釜ニテ煮ラル」と。

石川五右衛門は実在の人物だが、彼の素性は不明で、出身地もいろいろある。
1. 浜松で大名・大野の家老
2. 河内三好の家臣で主家の黄金太刀を盗んだ
3. 『丹後旧事記』では伊久地(京都府与謝郡野田川町)説
4. 伊賀忍者
5. 近江滋賀里ともいう

石川五右衛門を捕らえたのは兵庫県出石の武将仙石権兵衛。
並木五幣の『金門五三桐』では五右衛門と秀吉を対決させる「桃山御殿」を創造し、「六十余州を盗んだ久吉(秀吉)こそ五右衛門よりも抜群まさりし盗賊」と看破した。
五右衛門を盗賊というなら、秀吉こそ日本国土を奪い、朝鮮に侵略した大泥棒だといわしめた。
この歌舞伎の上演は石川五右衛門が死んで百八十年後のことである。

井原西鶴が『本朝二十不孝』で五右衛門を滋賀里の富農の生まれとし、農業が嫌いで勢多橋で無用の武芸で人を悩ませ、盗賊なったと記し、近松門左衛門は『傾城吉岡染』で剣術師範の五右衛門が生活苦の師を救うために盗みを始めたと書いた。
刑死から百七十年、『石川五右衛門一代噺』では主家の娘を守る義賊へ変身した。

祇園閣に近い大雲院にある彼の墓は、賭け事にツキがよいとの俗信で墓石の端が削り取られる。

戒名 融仙院良岳寿感禅定門

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石川五右衛門】【釜ヶ淵】【石川五右衛門のテーマ*右のアイコン*】【石川五右衛門  伝】【石川五右衛門

■ 角倉了以・素庵が造った高瀬舟と角倉船って何

■ 宮本武蔵、一乗寺下り松の決闘はなかった?

一条下り松は吉川英治の小説『宮本武蔵』が吉岡一門と対決した決闘地で有名である。
しかし、現実は武蔵は、ここで対決していない。
『吉岡伝』では吉岡憲法と武蔵が試合をしたのは事実であるが、場所は京都所司代屋敷内で、板倉伊賀守が検分し、試合結果は「相打ち」だったという。
吉川英治の小説では、蓮台野で吉岡清十郎(四代・憲法)を破って廃人にした宮本武蔵が三十三間堂で、おの弟伝十郎を一撃で殺した。
幼い又七郎を名目人にした吉岡一門は洛北一乗寺下り松で宮本武蔵と対決した。
吉岡門弟は各所に飛び道具を持って隠れている。
武蔵は髪を逆立てた獅子のように松の幹に一跳びし源次郎少年を斬った。
そして七十人の門弟を相手に両手双刀で対決した。
と吉川英治は武蔵の活躍を勇壮に描写し、吉岡一門が武蔵に敗北して道場を閉じ、染物屋になったと、と。
『吉岡伝』には武蔵が殺傷した清十郎・伝十郎兄弟の名前はない。
吉岡憲法は旧足利将軍の兵法所の当主であるが、染物屋を専業にし、円鑑禅師に帰依して天寿を全うしている。
「憲法染め」は評判が高く、よく売れていた。
武蔵に敗れて染物屋になったのではない。

実は吉岡道場の閉鎖は宮本武蔵とは無関係である。
慶長十九年(1614)六月二十九日、朝廷内での猿楽興行に庶民も見物が許された。
その見物中に吉岡清十郎という若者が日頃、犬猿の仲だった警備の役人といさかいを起こし、数多くの役人を殺傷した挙句に斬殺された。
世にいう「禁裏騒擾事件」である。
吉岡清十郎は憲法を継承したわけではないけれども、吉岡一門が禁裏を血で汚したと責任を問われて、京都所司代から道場閉鎖を命じられた。
これは宮本武蔵とは関係ない。
わずか数年の道場閉鎖だったので元に復活した。

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■ 後水尾上皇が造営した修学院離宮とは

■ 桂離宮になぜ七つのキリシタン灯籠があるのか

桂離宮は八条宮智仁と智忠父子が江戸時代初期に造営した。
智仁は正親町天皇の皇系で後陽成天皇の弟に当たる。
天正十八年(1590)、八条宮を興した。
徳川家は、智仁が「秀吉の猶子」であったことを嫌った。
しかし、智仁は若く細川幽斎から古今伝授を受け、あらゆる芸能に優れ古典に精通していた。

五万六千平方メートルの広大な敷地は桂川から水を取り入れて池を造り、その周囲に書院・茶亭を点在させる回遊式庭園である。
桂離宮には簡略化された大胆な色使い(松琴亭の青と白の市松模様)、竹のスノコの月見台、襖引手の月字形、薄と芙蓉の花籠など優れたデザイン、桂棚といわれる複雑巧緻な造り、八窓席の茶室などさまざまな工夫が凝らされている。

智仁の妻は京極高知の娘・常子。
彼女の母は京極マリアである。
また、智忠の妻は前田利常の娘・富。
第二次工事は智忠の婚儀のためである。
新書院は後水尾上皇の行幸に新築した。
徳川秀忠の茶道指南・小堀遠州は、明正女帝の御所も普請し、西洋式の花壇を設け、狩野派の画家に御所と桂離宮の襖絵を描かせた。
正保三年(1646)、桂離宮の造営費は幕府が出した。

小堀遠州は棹に十字の膨らみを持つ灯籠を考案した。
寛永十一年(1634)、智仁の片腕・本郷織部がキリシタンとして処刑された。
七年後、桂離宮に七つのキリシタン灯籠が立てられた。
当時流行の「地蔵巡り」に事寄せて庭園の「織部灯籠」を巡る趣向を小堀遠州が工夫したものか。
八条宮は九十一年後に本郷織部の家を再興した。

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■ 山科の大石蔵之助はなぜ伏見の撞木町で遊んだのか

■ 京の捨て子の場所は六角堂だった

井原西鶴の浮世草子の代表作に『好色一代男』がある。
京都の豪商の子として生まれたと思われる主人公の世之介の性遍歴を描いた作品だが、彼が十五歳の折に、ある未亡人との間に生まれた嬰児の処置に困り、その子を「六角堂のそこに置きてぞかへる」と、さほど罪悪感を感じさせないで捨てるという下りがある。
「好色一代男」は天和二年(1682)刊行だから、十七世紀後半の捨て子の状況を知る手がかりと考えてよい。

なぜ世之介が嬰児を六角堂に捨てたのか。
それは下京の中心地にある六角堂が上京の革堂と並んで、町堂の役割を果たし、観音信仰が盛んになって中世以来、多くの人が集まる場所となっていた。
さらに六角堂は奉公人が職を求めて集まる場所で、乳を与える必要がなくなれば失職する不安定な乳母奉公人が新しい職を求めてたむろする所だった。
世之介はそうした人に拾われることに望みを託して生まれたわが子を捨てた。
『好色一代男』の捨て子の話は、捨てられる子供(江戸では捨て子と迷子の年齢境界は三歳であった)が多かったことを反映している。

ところで、『好色一代男』刊行の天和年間は徳川綱吉の治世初期にあたる。
綱吉は生類憐みの令で有名だが、それは犬を特に愛護した点だけで判断することは適切でなく、徳川政権の人民教化の一連の政策として理解したほうがよい。
幕府は貞享四年(1687)には捨て子の養育を命じ、元禄三年(1690)には捨て子の禁令を発した。
西鶴遺作の『西鶴織留』には捨て子を否認する風潮が反映しているように、『好色一代男』では罪悪感のなかった捨て子について、これ以後、急速に罪悪感が広がっていく。
それは幕府の政策が浸透していった反映であろう。
けれども六角堂辺りの捨て子がなくなったわけではなく、内密に捨てられた子が犬の餌になったりする場合も多かった。

『雨月物語』の上田秋成は四歳で実母に捨てられたが、養父母に慈しまれて、その才能を伸ばした例は稀有であった。

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■ 四条大橋は江戸時代、なぜ仮橋だった
■ 祇園の花街化はいつ頃からか
■ 島原の角屋。江戸時代の揚屋って何
■ 坂本龍馬は恋人お龍に助けられて結婚した?
■ 逃げの桂小五郎は芸者幾松に救われた?

■ 皇女和宮はどうして公武合体の犠牲になったか

和宮は弘化三年(1846)、仁孝帝の第八皇女として生まれ、孝明天皇の妹である。
安政元年(1854)、黒船来航。
皇女和宮の降嫁問題は安政五年(1858)、十三歳から始まる。
すでに有栖川熾仁と婚約が成立していた。

井伊大老の暗殺後、安藤信正が老中筆頭として公武合体策を要請した。
何度も断るが、再三の願いに、孝明天皇の近習・岩倉具視は降嫁の条件として、
1. 幕府は条約を破棄し
2. 攘夷(外国人排除)
3. 重要政務は事前奏聞させることを天皇に奏上した。
岩倉は公武合体よりも王政復古を考えた。
天皇は彼の意見を容れた。
和宮は髪を剃り、尼になるといって拒絶した。
しかし、天皇の再三の説得で「天下泰平のために身を捧げる」と江戸下向を決めた。
文久元年(1861)十月、東下りと決定し、岩清水八幡宮、賀茂両社、北野神社に参詣した。
十月二十日、町奉行が先頭を警護、行列に権大納言中山忠能(明治天皇の外祖父)・右近衛少将・岩倉具視らが後列を固めた。
総勢二万人の行列。
十六歳の和宮は、
「住みなれし都を出でて今日行く日いそぐもつらき東路の旅」

中山道に道中十二藩と沿道警護二十九藩。
二十五日間の旅の後、江戸に着いた。
翌年二月十一日、十七歳の同歳の家茂と婚儀を挙げた。
結婚生活は四年余り、十四代将軍家茂は三度も上洛し、長州征伐で大坂城で病死した。
二十一歳。
未亡人・和宮は静寛院宮となった。
凱旋に京の西陣織を土産に求めた品が遺骸とともに届いた。
「着るとても今は甲斐なき唐衣綾も錦も君在りてこそ」

慶応三年(1867)、大政奉還と王政復古。
翌年正月、鳥羽・伏見の戦いで十五代将軍慶喜(三十二歳)が敗れて江戸城に逃げ帰った。
朝敵となった徳川家を守るために「婚家に殉死する」と二十三歳の和宮は官軍の進撃中止を岩倉具視に申し込んだ。
江戸城無血開城。
十一月一日、和宮は上京した甥の明治天皇(十七歳)に対面した。
和宮は帰洛後、京の社寺を巡った。
在洛五年後、東京に移住。
明治十年(1877)、脚気治療のために箱根に出掛けて死んだ。
享年三十二歳。

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和宮所用 冬小袿表地唐織

■ 新選組の近藤勇が受けた銃傷は右肩か左肩か
■ 鳥羽・伏見の戦いはどのように始まったのか

■ 日本最初の小学校と学区はどのようにして誕生したのか

京都に小学校が出来たのは明治二年(1869)五月である。
前年正月三日、鳥羽・伏見の戦いが始まり、その七月に江戸が東京に、九月八日に年号が慶応から明治になった。
数え十六歳の明治天皇は東京に行幸した。
翌年に太政官も東京に移転して実質的に遷都した。
京都の町民は千年間の京都が「都」でなくなったことを悲しんだ。
明治元年十一月、京都府は市内各町組に小学校を建設すべき旨を申し出た。

明治二年一月に上京に三十三組、下京に三十二組が設置され、年末には六十四の小学校が設立した。
明治維新後、自分の住んでいる地域・番組に自分たちの資金で学校をつくろうとした。
京都には、祇園祭の山鉾町、賀茂神社の祭り、稲荷祭り、やすらい祭など多くの祭があり、地域的な学区の住民が自主的に独力で祭りを創造し継続してきた。
したがって、町組・番組・学区の結びつきが日常生活で行われ、他の番組・学区に負けずに早く学校を造ろうと競争意識をもった。
新しい町には教育による人材育成が大切だ、と学区内の有力者が資金提供、場所を確保して教師を集め、自分たちで小学校を開設した。

明治政府が学制・学区制を敷いたのは、明治五年(1872)である。
全国最初の小学校は明治二年五月、上京二十七番小学校で開校式を行った。
「京都小学校五十年誌」には、小学校開校は五月二十一日、柳池校、六月八日、豊園校、六月十一日、開智校、七月一日、修徳・日彰校と記す。
日本全国最初の小学校は京都に誕生した。
福沢諭吉は『京都学校記』で「一区に一所の小学校を設け、区内に貧富貴賤を問わず男女生まれて七、八歳より十三歳にいたる者は皆来って教えを受くるを許す」と驚きの目で京都の教育を注目している。

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京都市学校歴史博物館】【京都の私立中学高等学校の創立歴史表

■ 京都御所の北になぜキリスト教の学校が出現したのか

同志社の創始者・新島襄は、なぜ京都にキリスト教精神に基づく学校を建設したのか。
それは偶然の出会いから始まる。
明治八年(1875)の春、三十二歳の新島襄は失意の旅の途中、奈良・琵琶湖・比叡山を経て京都にやってきた。

彼は上州(群馬県)安中板倉藩の江戸屋敷で生まれた。
祐筆の父は四人の女子の後に生まれた男子に「七五三太 しめた」と名づけた。
ペリー来航・黒船騒ぎの中、十七歳の彼は幕府軍艦操練所に通い、数学・航海術に興味を持ち、快風丸に乗船した。
『ロビンソン・クルーソー』を読み、冒険心と未知への憧れから日本脱出を考えた。
元治元年(1864)、二十一歳の彼は箱館から国禁を犯して日本を脱出した。
密航は死罪の時代である。
幸い、米国船船長の行為で上海からインド洋・大西洋回りの船に乗り換え、翌年、ボストンに到着した。
船でジョーと呼ばれていたので襄と改名した。
米国滞在十年、アーモスト大学(クラークの母校)で理学士号を得、岩倉欧米視察の通訳もした。

明治初期はキリスト禁教令が続き、日本でキリスト教学校の設置は困難だった。
木戸孝允の紹介で大阪府知事に会い、大阪に学校をつくりたいと言うと、知事は乗り気だったが、キリスト教と聞いて絶対反対と断られた。
京都三条大橋の宿で新島襄は「天は自ら助くる者を助く」と自分を励ました。
幕府軍艦操練所の勝海舟が、京都でぜひ山本覚馬に会えと言ったのを思い出し、覚馬に会いに出掛けた。
十五歳の年長の山本覚馬は失明の老武士で、襄の話を熱心に聞くと、「私の土地にあなたの理想の学校を建てなさい」と言って京都御所と相国寺の間の六千五百坪の桑畑を提供した。

山本覚馬は会津藩士で京都の藩洋学所で自ら蘭学を教授していた。
鳥羽・伏見の戦いで捕らえられたが、薩摩藩獄舎で口述した新国家の指針を「管見」にまとめ、西郷隆盛に上申した。
覚馬は才知を認められ、京都府知事・槇村正直の顧問だった。
覚馬の妹八重は襄の妻になる。
徳富蘆花『黒い目茶色い目』に詳しく描かれる。

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■ ロシア皇太子は大津で負傷し、京都でどうしたか?

明治二十四年(1891)、ニコライ皇太子は四月長崎・鹿児島、五月九日、神戸入港。
列車で午後六時過ぎ、京都に到着。
大群衆が日露ギリシア国旗で出迎えた。
日本式の常盤ホテルに宿泊、夕食後、東山の大文字の点火を見、芸者の踊りを見に茶屋に出掛けて深夜に帰館した。
翌十日、目覚め遅く午前十時、京都御所・二条離宮(城)・東西両本願寺を訪問した。
御所では蹴鞠・弓術・賀茂競馬を見学した。
この夜も円山公園を散策し午前二時に帰館した。
大津事件の当日、五月十一日午前八時半、ニコライ一行は人力車で京都から大津に向かった。
三井寺で抹茶を飲み、疎水運河を見学、汽船で唐崎に。
県庁内のバザーで小物などを買い、ゲオルギオス(皇太子の従兄弟・ギリシア親王)が竹杖を買った。
その竹杖が一時間後、役立った。

歓迎の群衆の中、巡査が両手にサーベルを握って人力車のニコライを襲撃した。
ゲオルギオスが暗殺者を竹杖で一撃し、人力車夫や警察官が暗殺者を取り押さえた。
侍医が応急手当。
同行の有栖川宮は申し訳ないと跪き合掌した。
列車で京都に戻る。
侍医が皇太子の頭の傷口を縫いあわせた。
松方正義首相は電文に驚き、御前会議を開いて青木周外相と西郷従道内相が京都へ、翌十二日早朝、明治天皇は臨時列車で京都に向かった。
大日本帝国憲法施行の半年後、露国皇太子の極東巡遊はシベリア鉄道起工式臨席のためだが、日本の新聞は露国日本征服の下心「ああ恐ロシア」と書いた。
国内の宗教界は露国皇太子負傷病魔退散の祈願を実施、学校も休校、会社や見世物小屋も音曲停止した。
三十九歳の天皇は深謝した。
「天皇は元帥服を着用、心労のあまり顔がひどく醜く見えるほどやつれていた」とニコライは日記に綴る。
「午後四時、天皇と同じ馬車に乗って京都駅に向かった。さようなら、京都」

五月十八日、京都府庁前で二十六歳の女が露日両国宛遺書に贖罪し自害した。
烈婦畠山勇子自殺の日、ニコライは二十三歳の誕生日、神戸船上で天皇・皇后の贈り物を受けた。

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企画展 大津事件】【大津事件・津田三蔵の新資料発見】【大津事件と常盤ホテル】【勇子年表】【地球史探訪: 国難・大津事件
関西大学法学部

■ 日本のハリウッドって何?太秦の映画撮影所

■ 日本で最初の大学生協とは?

十九世紀中頃にイギリスで始まった生活協同組合は、日本では1980年に始まり、以来、120年余りたって、現在、全国の生活協同組合は組合員数が1700万人になっており、消費者運動としては大きな影響力を持つに至っている。
大学の生協も現在では200余りの大学で組織されている。

ところで、日本最初の大学生協は明治三十一年(1898)に安部磯雄によって設立された同志社学生消費組合といわれている。
創始者の安部磯雄は、キリスト教的社会主義の立場に立つ社会主義で、幸徳秋水らとともに、日本で始めての社会主義者で、幸徳秋水らとともに、日本で初めての社会主義政党である社会民主党の創設に関わったほか、早稲田大学野球部を創設して早慶戦のきっかけをつくるなどスポーツ界にも貢献した人物である。
彼は同志社を卒業後、欧米に留学し帰国後しばらくして同志社に迎えられた。
ただ同志社中学の教頭時代に宣教師と意見が対立して辞職し、三十二年に早稲田大学教授となった。

安部磯雄が消費組合について学ぶきっかけが何であったのかについては明確にはされていない。
けれども1890年代の日本資本主義の発達期に労働組合が次第に芽生え、明治三十年には労働組合期成会が結成されている。
労働組合も結成され始め、それとともに消費組合も設立され始めた。
少し後のことであるが、安部は幸徳らが設立した平民社の機関紙『平民新聞』第十四号に「消費組合の話」という記事が記載されている。
同志社学生消費組合は、こうした状況のもとに設立された。
安部が設立した同志社学生消費組合の運動は彼が早稲田に移るとともに短い幕を閉じたが、彼がまいた種は、のちに活発な活動を行う生協運動のきっかけとなったのである。

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