■■■ 文学・芸術 全27話 (完)

鬼と同衾した皇后って?誰なの二条后のサロンがあったの?在原業平との関係は?光源氏のモデル?源融ってどんな人?紫式部の本名・居所はわかるの?清少納言の晩年はどうしたのか?恋多き和泉式部の晩年はどうしたのか?藤原俊成・定家は冷泉家の神様? 百人一首の謎とは?鴨長明が『方丈記』を執筆した場所はどこなのか兼好法師がラブレターを代筆したってホント?なぜ世阿弥は七十二歳で佐渡島に流刑されたのか千利休が雪駄(雪踏)を創案したってホント?なぜ古田織部は切腹したのか?織部焼きの謎なぜ茶道に三千家があるの? 宗旦キツネって何?龍安寺の方丈石庭は江戸時代の作?出雲阿国の謎朱子学伝授・朝鮮人学者姜と藤原惺窩との出会いは?林羅山とハビアン東西南北上下論争ってどんなこと?光悦村って芸術村?松尾芭蕉の寝起きした落柿舎って?与謝蕪村は京都のどこに住んでたのか?円山応挙の幽霊画は客寄せだった?夏目漱石の句の「女」って誰?与謝野鉄幹・晶子の京都のデート・スポットはどこ?京における竹久夢二と彦乃の愛の巣は?自由律俳句の井泉水・放哉・山頭火はなぜ京に来た?法然院にある谷崎潤一郎の墓の謎地中から蘇った?尹東柱の詩

■ 鬼と同衾した皇后って? 誰なの

染殿后・藤原明子(829〜900)は文徳天皇の后で、清和天皇の生母である。
明子の父は太政大臣の藤原良房。
その邸宅「染殿」に住んだので染殿后と呼ばれた。
現在の京都御苑内の宗像神社の辺りである。

藤原良房は妹・順子を仁明の后、さらに妻・潔姫(嵯峨帝の娘)との間にできた明子を皇太子・文徳に娶わせた。
文徳帝(三十二歳)崩御後、良房は孫である九歳の清和を天皇に就かせ、天安元年(857)に人臣大臣となった。
文徳には清和よりも六歳年上の皇子・惟喬親王がいた。
その生母は紀名虎の娘・静子である。
しかし、惟喬親王を避け、即位した清和帝を良房は摂政し、明子はわが子・清和帝を補佐した。

その染殿后は「物の怪」に悩まされたので、多くの修験の僧が祈祷した。
金剛山(金峰山)の聖人が祈祷して染殿后に取り憑いていた老キツネを捕らえた。
ところが、聖人は御簾の中に見た染殿后の美しさに心を惹かれ、后の御帳の内に入って后に抱きついた。
侍医の当麻鴨継が聖人を取り押さえた。
その後、山寺へ送還された聖人は自ら断食し餓死して、八尺ほどの鬼に化した。
鬼は当麻父子を取り殺したという。

『故事談』では、后を悩乱させたのは「天狗」と化した紀僧正とし『宇治拾遺物語』では「物の怪」としている。
ある書では、清和上皇が、母皇太后・明子の五十賀で慶賀の言葉を述べた時、明子は鬼と夫婦のごとく娯しみ、盃をあげていたと伝えている。

『源平盛衰記』巻四七では、柿本紀僧正が「紺青の鬼」となったとし、浄瑠璃『十二段草紙』でも「青い鬼」となって現れる。
「高僧が鬼(天狗)となって明子をたぶらかせた」というスキャンダラスな伝承は、権力の中枢にある藤原良房や明子らによって地位や名誉を奪われた人間の妬みや怨嗟の声と考えられる。

■ 二条后のサロンがあったの?在原業平との関係は?

在原業平と二条后藤原高子のロマンスは『伊勢物語』に残る。
得に、女が入内したあとの喪失感を詠った「月やあらぬ」の段、恋の通い路の築地の崩れを封じられて嘆く段、女を連れて逃げ出したものの追っ手に奪い返されてる「鬼一口」の段など、いずれも相手は高子とされる。
そして彼女を失った痛手に堪えられず、業平は「東下り」をしたと読めるように配列されている。
それ以外にも、二九段は算賀の主催者たる高子に召された話、七六段は大原野神社に参拝した高子から禄をいただいて歌を詠む話を伝える。
「昔男」が業平一人の事蹟ではないのは自明であるが、後世編集された『業平集』は勅撰集のほか『伊勢物語』からも詞書をを重視して採録し、七六段の業平の歌は家集の巻頭に置かれる。

また、素性法師の家集にも『古今和歌集』と同様に二条后の春宮御息所時代に素性が詠んだ屏風歌が業平の「ちはやぶる」の歌と並べて採録されている。
同じ時代、業平が親しく仕えた惟喬親王は詞書から「歌合」の主宰をしたことが確認できるが、二条后の周辺については屏風歌か賀歌までしか見えない。
また、それらの多くが東宮女御の時代の活動であることを勘案すれば、清和天皇即位後は身分の高さゆえか、多くの男性歌人を集めて大規模な文芸活動をすることは控えたのであろうか。

業平は高子より十七歳の年長で、高子の入内時には三十代半ばであり、恋愛の相手とするには不自然である。
しかし、高子自身、『古今和歌集』の四番に歌が置かれ、東宮女御時代に彼女が詠ませた業平・素性・文屋康秀の歌も多く採られていることから、サロンといえるほどの規模ではないにしても、文芸活動の後援者であり、歌人業平・高子のロマンスが二人の死後、創りあげられていったのであろう。

■ 光源氏のモデル?源融ってどんな人?

源融(822〜95)は嵯峨天皇の皇子で、源氏の姓を受けて臣籍に下り、貞観十四年(872)、左大臣になった。
紫式部の『源氏物語』の主人公光源氏のモデルの一人に挙げられる。
風流で豪奢な生活は六条院(東六条院)、嵯峨棲霞観(清涼寺)、宇治の別荘(平等院)など。
鴨川べりの河原院・潮汲みの話で河原左大臣と呼ばれる。

源融の歌は「みちのくのしのぶもぢずり 誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに」(百人一首。意訳 奥州の信夫郡で産する摺り衣の乱れ模様のように私の恋心は乱れている。いったい誰のせいで乱れはじめたのか。みんなあなたのせいだよ)。

世阿弥の能『融』は東国の旅僧が六条河原院の老人に「何をしているのか」と尋ねた。
ここの主人・源融は陸奥・塩竈の景色を模し毎日、難波の浦から海水を運ばせて塩を焼かせるのだと物語る。
今は荒れ果てた跡地。
旅僧が寝ていると、貴人姿の融が現れ、昔、名月の下で舞ったと言い、やがて明け方に名残惜しげに消えていく。

『今昔物語集』巻二七河原院、融左大臣の霊を宇陀院(宇多天皇)が見給う話。
同巻、東人河原院に宿して妻を取られる話。
旅の女が妖鬼に殺された話。
主を亡くした荒れ果てた河原院は亡霊や妖怪が住む場所になる。

『源氏物語』では、十七歳の光源氏が八月十五日夜、廃院で人目をさけて夕顔と密会中、「物の怪」が夕顔の命を奪ってしまう。
光の胸で急死した十九歳の夕顔を秘密の内に埋葬した。
三十五歳の光源氏は夕顔の遺児・玉蔓(頭中将と夕顔の娘)を六条院に引き取り育てる。

源融は寛平七年(895)、七十四歳で没した。
彼は藤原良房の権謀術数やその養子基経の傲慢さを見聞した。
その反発か豪邸を造り藻塩を焼かせた。
彼の死因は仙薬のためとか。
河原院の幽霊となる融は、この世に執着心があり成仏できなかった。
藤原氏の妨害で皇位に就けなかった恨みか、大邸宅への耽美的な美の世界に執着したためか。
浄土にいけぬ男の怨霊が源融の話に籠もっている。

■ 紫式部の本名・居所はわかるの?

当時の女性の本名はわからない。
紫式部というのは女房名で、初めは藤式部と名乗っていたのが、『源氏物語』の作者として有名になるにつれ、主人公の「紫の上」にちなんで紫式部となったのである。
彼女が仕えた一条天皇の中宮は「彰子」、その母は「倫子」など、皇后や摂関家の女性の名前はわかっている。
また『紫式部日記』に見える女房(官女・非官女とを問わず)でも、名前の判明しているものが少なくなく、紫式部の娘で後冷泉天皇乳母として信任厚かった大弐三位は「賢子」の名が伝わっている。
しかし、これらが本名かどうかは不確かである。

かなり時代が下がるが、『続古事談』に藤原兼実が姫君(のちに皇后・宜秋門院)を後鳥羽上皇に入内させた折の逸話が残されている。
文治五年(1189)、藤原兼実は姫君を入内させるに先だって兼光中納言に名前を選定させ、いくつかの候補の中から「任子」を選ぼうとした。
すると、静賢法師が、中国の白氏の詩に詠われた狐の「任氏」と人間の男性との悲恋を連想させる名前で不吉だと異議を唱えたのである。
この静賢の説は退けられ、任子はときめいたと締めくくられるが、しかるべき女性が公の場で名乗るにあたっては相応しい名前が選ばれたのであり、公式の記録に残るのもこの撰名である(「玉葉」同年十一月十五日条は正式な次第を記録)。
紫式部の本名は角田文衛博士が『権記』寛弘二年十二月二十八日条と『御堂関白記』寛弘四年正月二十九日条を勘案されて掌侍「藤原香子」とする説を出されたが、先の女性の命名の事情を踏まえれば、これを「本名」とは言いきれない。
居場所についても家集・日記とも具体的な記載がなく、『河海抄』の伝承に祖父堤中納言藤原兼輔の邸宅位置(およびその伝領)を重ねられた角田文衛博士が上京区廬山寺内と推定されたのに現在は従っている。

■ 清少納言の晩年はどうしたのか?

小野小町や和泉式部の墓といわれるものは全国にあり、美人落魄伝説を代表する女性といえる。
小野小町のほかにもう一人『百人一首』で後姿に描かれるのが、清少納言である。
『枕草子』の本文からあまり容姿に自信がなかったことが窺え、実像ではないにしても後ろ姿しか見せていないのもむべなるかなといったところ。

この美女でもない清少納言の零落伝説は十二世紀末には巷間に定着していたようで、『古事談』は、年老いた清少納言宅を通りかかった若い殿上人の嘲笑に対して「駿馬の骨を買わないか」と声をかけた話や、強盗に踏み込まれた時には老醜のあまり男に間違われて殺されかけた話を伝え、『無名草子』には晩年は身よりもなくなって乳母の子に連れられて田舎に下向し、往時、宮中で活躍していた頃に目馴れた公達の直衣姿を懐かしんだ話しを伝える。
伝能因本と呼ばれる『枕草子』の一系統は奥書をもっており、そこに『無名草子』と同じ逸話を伝え、晩年過ごしたのは阿波の国だと具体的に示している。
しかし、これは、時代が降るにつれて彼女の流離先が西へ東へと広がっていく初発のものといえ、信頼できるものではない。
では実際にどうであったのかというと、資料は少ない。

清少納言と交流のあった藤原公任の家集によれば、清少納言は「月の輪に帰り住」
んだとあり、父の清原元輔の家のあった桂(清滝の月輪寺の近く)に住んでいたことがわずかに確認できる。
しかし、「月の輪」の地名は二ヵ所あり、東山の方が有名で、彼女が仕えた一条皇后藤原定子の墓所(現在、東山区今熊野・鳥辺野陵)の近くということもあり、晩年最愛の定子皇后の墓守として過ごしたというのも魅惑的で、現在「夜をこめて」の歌碑が泉涌寺の境内に建てられている。

■ 恋多き和泉式部の晩年はどうしたのか?

「あrざらむこの世の外の思ひ出に今ひとたびの逢ふこともがな」(『百人一首』五六)

私は死んでいく。
せめて死後の思い出としてもう一度あなたにお会いしたいと和泉式部が歌に詠む「逢いたい人」とは誰なのか。

勅撰和歌集に収録された彼女の若は二四七首。
出生地は岩手県から佐賀県まで各地にあるが、京都市北区大徳寺の真珠庵にも紫式部の産湯の井戸がある。
この地は彼女の夫・藤原保昌邸跡という。
父は越前守・大江雅致、母は越中守・平保衡の娘。
貞元元年(976)頃の誕生という。
二十歳頃、和泉守・橘道貞と結婚して小式部を産んだ。
十歳ほど年長の夫を捨てて彼女が恋愛した相手は冷泉帝の皇子・為尊親王であった。
式部の父が冷泉帝皇后に仕えた関係で幼少の頃より親しんでいた。
しかし、為尊は長保四年(1002)、二十六歳で他界した。
一年後、弟の敦道親王に求愛され、式部が彼の家に移り住んでいたために敦道の妻が家出した。
敦道も寛弘四年(1007)、二十七歳で死ぬ。
『和泉式部日記』には敦道への思いを一二〇余首記す。
貴船神社参道の歌碑に「ものおもえば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る」。
和泉式部の親密な男は藤原道綱・兼房・隆家・道命阿闍梨(道綱の子)など数多い。
和泉式部は藤原道長に召され、一条天皇の中宮・彰子(道長の娘)に仕えることになった。
そこで二十歳ほど年上の藤原保昌と結婚し、夫の任地・丹後に行った。
「大江山いくのの道は遠ければまだふみも見ず天の橋立」は小式部内侍の歌である。
万寿二年(1025)、その小式部も失う。
晩年の彼女は小式部の遺児を抱き上げて死んだ娘を嘆いた。
謡曲「東北」の舞台は法成寺の東北院だが、今は式部遺愛の「軒端の梅」が左京区浄土寺真如堂町にある。
彼女の晩年住んだ東北院の小堂が誠心院(中京区新京極通六角)にあり、尼姿の和泉式部木像が祀られている。
また京都府相楽郡木津町に和泉式部の墓という五輪石塔がある。

■ 藤原俊成・定家は冷泉家の神様? 百人一首の謎とは?

京都御苑の北にある冷泉家は藤原俊成(1114〜1204)と定家(1162〜1241)父子を神として崇める伝統的な「和歌の家」である。
定家は四十三歳の時に、父・俊成(九十一歳)を失う。
翌年、定家は『新古今和歌集』を撰した。

定家は十九歳から七十五歳まで書いた日記『名月記』に、源平争乱を「我ガ事ニアラズ」と記していたが、平安時代末期から鎌倉時代への激動期に生きた。
後鳥羽上皇の熊野行幸に従った定家は、六十歳のとき、上皇の勘気を受けて謹慎中、承久の変(1221)に遭遇した。
鎌倉軍に敗れた後鳥羽上皇は讃岐へ、明徳院は佐渡へ流罪となった。

七十四歳の定家は『名月記』嘉禎四年(1238)五月二十七日条に「古来ノ人ノ歌各一首、天智天皇自リ」と記して百人一首を選んだ。
これが『小倉百人一首』の原型といわれるが、戦後発見の「百人秀歌」は、反鎌倉幕府の後鳥羽院と順徳院の歌を除外している。
定家が百人一首を選んだ場所は
@京都嵯峨の厭離庵(宇都宮入道頼綱の中院別荘・嵯峨山荘跡)
A常寂光寺(時雨亭跡)
B二尊院(本堂奥の「時雨亭」跡疎石)などがある。

『小倉百人一首』は100首のうち恋の歌が四三もある。
定家が和歌の理想を「有心」妖艶な美意識に求めたからである。
二十歳の定家は式子内親王に水晶の念珠一二を奉った。
式子内親王の足のむくみを知って、三十九歳の定家は大炊殿に泊まり、看病して内裏の歌合いを欠席した。
内親王(四十八歳)の病死を知って、四十歳の定家は驚き悲嘆に暮れた。
能「定家」は式子内親王の墓にまとわりつく「定家かずら」が彼の煩悩・執着心を表す。
式子内親王の歌「玉の緒よたえねばたえねながらへば忍ぶることの弱りもぞする」は定家ではなく、法然への思慕だと解釈する説もある。

■ 鴨長明が『方丈記』を執筆した場所はどこなのか

「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」という書き出しで有名な鴨長明の『方丈記』は、京都市の東南、醍醐と宇治の間に位置する日野の草庵で書かれた。

鴨長明は下鴨神社の禰宜の家に生まれ、恵まれた環境の中で和歌と音楽の修練に励んだ。
しかし若くして父と死別、その後は失意の日々を過ごす。
四十代後半には後鳥羽院の和歌所寄人に抜擢されるなどの活躍もみられたが、院の計らいで得た禰宜となる機会を妨害されてしまう。
元久元年(1204)五十歳の春出家、洛北大原で隠遁生活に入る。
ここに隠者長明が誕生したのである。
長明が日野に移ったのは承久二年(1208)頃。
なぜ日野に移ったのかは明らかではないが、大原如蓮上人と呼ばれた禅寂が関わっていると思われる。
禅寂は法界寺(通称日野薬師)を創建した日野資業の子孫で、長明のよき理解者として、長明死没の時まで何かと頼られることの多かった人物である。
さて、日野での長明の暮らしぶりは、「峰によぢのぼりてはるかに故郷(京の都)の空を望み、木幡山・伏見の里・鳥羽・羽束師」を眺め、時には炭山・笠取山・岩間山・石山へ足を延ばす。
自然に囲まれての一人暮らし、気の向くままに修行をし、四季折々の景観にふれては歌を詠じ、自らのために楽の音を楽しんだ。
『方丈記』を読む限り、俗塵に心を奪われることなく、ただ一人、心ゆくまで閑居の気味を味わう姿がそこにある。

現在、法界寺から東へ約一キロの山中に「長明方丈石」という碑が建っている。
ここが庵の跡であるなら「閑居の気味」は疑わしい。
今は本堂と阿弥陀堂を残す法界寺も当時は多くの堂塔の立ち並ぶ広大な寺であり、法要などもしばしば行われた。
世事の雑音が長明の耳に入ってもおかしくない近さである。
『方丈記』末尾に「汝、姿は聖人にて、心は濁りに染めり」とあるが、どこか自嘲的なこの言葉は、長明の本音の表れなのか。

■ 好法師がラブレターを代筆したってホント?

『徒然草』の筆者・吉田兼好は高師直から頼まれて恋文を書いたという。
この話は『仮名手本忠臣蔵』の芝居にも援用されている。
ご存知、忠臣蔵は元禄の赤穂浪士が主君の仇討ちで吉良上野介を討ち果たす話だが、徳川幕府に配慮して、時代を室町幕府成立期『太平記』へ時代をずらして創作された。
だから大石内蔵助が「大星由良之助」に、吉良上野介が「高師直」に、浅野内匠頭が「塩谷判官」に、その妻・阿久里が「顔世御前」という風に置き換えられた。
鎌倉の高師直に対する復習計画を立て高師直の首をあげて亡き塩谷判官の墓に手向けることになる。

足利幕府の執事高師直は塩谷判官の妻が美貌と聞いて横恋慕し、その恋心を侍従に伝えさせたが、うまく行かず、「兼好といひける能書の遁世者」に恋文を依頼した。
その手紙を使者に届けさせたが、判官の妻は見向きもせず庭に捨ててしまった。
それを聞いて高師直は兼好を嫌い近づけなくなった。
話の心偽は不明だが、兼好が恋歌を代作したとされている。

『徒然草』が広く流布した江戸時代には戯作者の目に留まり、近松門左衛門が「兼好法師物見車」を脚色し、二世竹田出雲ほかが、「仮名手本忠臣蔵」に塩谷判官の妻顔世御前に横恋慕した高師直が「吉田の兼好を師範に頼み」と引用した。

兼好法師は弘安六年(1283)頃、神道の家に生まれ北面武士になったが遁世して仏門に入った。
高師直は?〜正平六・観応二年(1351)没で同時代人である。
『徒然草』は「何事も古き世のみぞ慕わしき」という平安文化への憧憬と「あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ちさらでのみ住みはつる習ならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ」という中世の仏教的無常観とが融合した随筆である。
江戸時代の歌舞伎が「恋に機転な兼好」として皇女や女房の二人から慕われて困る優美な男性と描いている。
それを知ったら、墓の下の兼好法師はどんな顔をするだろうか。
兼好法師の墓は京の双ケ岡東麓・長泉寺にある。

■ なぜ世阿弥は七十二歳で佐渡島に流刑されたのか

上京区大宮通今出川上ルに「観世水」の井戸がある。
そこは観阿弥・世阿弥父子が足利三代将軍義満から与えられた邸宅跡という。
十七歳の義満は今熊野神社で催された結崎清次(四十二歳・観阿弥)と元清(十二歳・世阿弥)の申(猿)能楽を見て気に入り彼らを寵愛した。
今熊野神社には世阿弥の書「能」と碑文がある。
五十六歳の二条良基(摂関家の長老)が十三歳の元清の美しい稚児ぶりを「春の曙に桜がこぼれ、此児の舞の手づかい足踏みは二月の柳の風よりも」と褒めた。
永和四年(1347)六月、祇園会山鉾見物に二十一歳の将軍は十六歳の藤若(世阿弥)を同席させた。
父・観阿弥が五十二歳で急死した時、二十二歳の世阿弥は父の能のもう見ることが出来ない嘆息した。
観阿弥の能は深草少将と小町の恋、義経と静御前など誰にも親しまれた人物を主人公にして平明に描いた。
義満は北山に金閣を含む豪邸を造営した。
為政者の寵愛を受けた世阿弥は醍醐三宝院でも能を演じ天下の名声を得たが、『風姿花伝』に稽古始めから五十余まで各年齢に適した芸道の指針と「花」心の工夫、修練の大切さを記述した。

ところが将軍の急死でパトロンをなくした世阿弥は次の将軍義持から疎んぜられた。
彼の理想の幽玄脳は義持の好む田楽ではなかった。
六十歳頃出家した世阿弥は長男元雅を三代観世大夫にしたが、六代将軍義教から排斥された。
七十歳の世阿弥は三十八歳の元雅が伊勢で客死して悲嘆に暮れる。
世阿弥の甥・音阿弥を寵愛した将軍義教は七十二歳の世阿弥を佐渡島へ追いやった。
老残の世阿弥は娘婿の金春禅竹から十貫文の銭を受領したと書状に書く。
七十四歳の世阿弥は小謡『金島書』で「聞くだに遠き佐渡の海に、老の波路の船の行末、万里の波濤・・・・・月は都の雲居ぞと思ひ慰むばかりこそ、老の目覚めの便りなれ、げにや罪なくて配所の月を見ることは」と順徳院を思い浮かべた。

世阿弥、享年八十一歳。
銘菓観世模様は流水渦巻きの乾菓子である。

■ 千利休が雪駄(雪踏)を創案したってホント?

『広辞苑』に雪駄は「竹皮草履の裏に牛皮を張りつけたもの。千利休の創意という」と書かれている。
天正十九年二月二十八日(1591年4月21日)、千利休は切腹し、彼の生首が一条戻り橋で晒され、しかも彼の木造が足元にその首を踏みしめていた。

茶の湯の開祖・わび茶の大成者である利休は大永二年(1522)、堺の海産物商に生まれた。
おそらく革製品も扱っていたのではないか。
幼名田中与四郎。
十代後半で茶道に親しみ、竹野紹鴎に学んだ。
四十九歳の時、織田信長に点前を見せた。
打開の商人は戦国武将に鉄砲や兵糧などの軍事物資を商売した。
利休は信長の茶頭になったが、本能寺の変で信長亡き後、六十一歳の利休は明智光秀に勝った四十七歳の秀吉を山崎の茶会で迎え、翌年、柴田勝家を滅ぼした秀吉に仕えた。
天正十三年(1585)、秀吉の禁中茶会および北野大茶会を主催した。
利休創意の草案風茶室は秀吉好みの黄金茶室と対峙した。
野上弥生子の『秀吉と利休』は芸術と権力の相克として描き、井上靖の『本覚坊遺文』は利休のわび茶が無我を求め太閤から死を賜ったとする。
三浦綾子の『千利休とその妻たち』では先妻が茶の湯に傾く夫を軽んじ、後妻が彼の心を理解し和敬清寂を求めて茶に精進する姿を描く。

利休切腹の理由は
1. 茶器鑑定による暴利貪り
2. 大徳寺山門の利休像の僭越
3. 秀吉が利休の娘を所望したが、拒否された
4. 朝鮮出兵に利休が反対した
5. 秀吉の華美と利休のわび茶の対立
6. 政権内部の権力抗争
7. キリスト教の許容と禁教
など古来いろいろな説がある。

利休のよき理解者・豊臣秀長(秀吉の実弟)が。その年正月二十二日、大和郡山で没し、利休は自己の立場を釈明してくれる後ろ盾をなくした。
利休は茶室、茶杓や花入れ。茶道具を次々と創意工夫したが、二月二十八日、京の葭屋町屋敷で切腹した。
享年、七十歳。

■ なぜ古田織部は切腹したのか?織部焼きの謎

京都市下京区西洞院正面下ルに茶道家元薮内家がある。
当家の「燕庵」は織部好みの茶室として知られているが、貴人の供の者が座る相伴席が設けられている、窓が多く明るい、露路の石の景色を尊重しているなど、「わび」を極めた利休の茶室とはおよそ対象的である。

古田織部は美濃に生まれ、信長・秀吉に仕えて武将としても天正十年(1582)頃には相当の力量を持ち、利休とも交流した。
利休を師として敬愛したことは、秀吉から蟄居を命じられて堺に下る利休を細川三斎とともに淀の泊で見送ったことや、利休の茶杓「泪」を位牌代わりに日夜拝したとの逸話からも知られよう。
利休亡き後、秀吉の茶頭を務めた織部は、武家の茶を進めよと命じられる。
「ヘウゲモノ」といわれる歪んだ沓形茶碗や、わざと打ち割ってから繕い直した茶碗を愛用する、自由闊達な文様を施した鉢や向付などの食器を用いる。
床飾りでは掛け物よりもむしろ茶花を重視するなど、利休の「静」の茶とはかけ離れた、型破りの「動」の茶碗を展開していったのである。
それは下克上の時代の美意識に支えられた「かぶきもの」の精神そのものであった。
やがて時代が徳川に移る頃には茶人としての名を不動のものとし、秀忠の指南役をも勤め、天下の宗匠と呼ばれた。

しかし、まもなく大坂夏の陣の際に大坂方と内通したとの罪で切腹を命じられる。
織部の精神は、中央集権的秩序を固めたい幕府にとって憂慮すべきものだったということか。
元和元年(1615)六月十一日自刃、享年七十三歳であった。
織部は、その師利休と同じく切腹という最期を遂げたのだが、ともに時代の推移の中で、新しい時代がそれを要求したのかもしれない。

現在、「織部焼」とか「織部灯籠」と伝えられるものがあるが、それらは直接、織部が関ったものではない。
しかし織部の精神、また織部の時代の好みを、「織部」という名で象徴させてきたことを心に留めておきたい。

■ なぜ茶道に三千家があるの? 宗旦キツネって何?

豊臣秀吉は利休を切腹させたことを悔い、文禄三年(1594)十月、会津(蒲生氏郷の庇護のもと)に隠棲していた利休の養子少庵を召し出して、京都の本法寺前(上京区寺ノ内小川上ル)に千家を再興させた。
その際、少庵と亀(利休の娘)の子、十七歳の宗旦が大徳寺三玄院(蔵主)から還俗した。
わずか二年後、少庵の隠退で十九歳の宗旦は父から不審庵の家督を譲り受け、春屋宗園から元叔の道号を与えられて、禅によるわび茶を目指した。
利休切腹の意味を汲んで「乞食・宗旦」といわれるくらい、宗旦は大名から仕官を断り、清貧に生きた。

宗旦には長子宗拙・次子宗守(武者小路千家の祖)、三男宗左(表千家)、末子宗室(裏千家)らの子供がいた。
父・少庵から継承した「不審庵」を三男宗左に譲り、その後、宗旦が建てた「今日庵」を末子宗室に継承させた。
今日庵は利休のわび茶の持つ極小空間を表す遺構として大切で、又隠四畳半は茶室の基本型とされる。

『喫茶余禄』の話。
相国寺境内に古狐が住んでいた。
夜寒、この狐は茶の湯の宗匠・宗旦に化けて近所の茶人の家に行っては茶を飲み菓子を食い荒らした。
さて、本当の宗旦が現れ、先客の宗旦は古狐だとわかったという。
相国寺塔頭・慈照院の茶室は宗旦によるものとか。
キツネの正体を見破られて古狐は風炉前窓から逃げ出したという。
相国寺は表・裏千家のある小川寺ノ内から東へ歩いて十数分間の距離。
慈照院には宗匠姿のキツネを描いた掛け軸があり、相国寺法堂の東南に「宗旦稲荷社」まである。
この近所には宗旦キツネが雲水の托鉢に加わったとか、囲碁をしたとの話もある。

なお、上京の三千家を「上流 うえりゅう」と称するのに対して、下京の薮内家を「下流 しもりゅう」という。
遠祖薮内宗把。
一世薮中斎剣仲(紹智)。
二世月心軒真翁紹智が西本願寺の茶匠の地位を得て、西洞院に住まい、聚楽第の燕庵を移した。

■ 龍安寺の方丈石庭は江戸時代の作?

室町幕府の管領・細川勝元が、この地に別業と一宇大雲山龍安寺を創建した。
だが、それは応仁・文明の乱で焼失した。
勝元の十三回忌に息子・政元が再建し、細川家の菩提寺とした。
特に方丈南面、樹木のない長方形の砂庭は「虎の子渡し」で有名で、一般に「相阿弥」の作といわれる。
相阿弥は足利義政に仕えた絵師・作庭者である。
三方を低い檜皮葺の土塀(屋根瓦葺きの油土塀から1978年復元)で囲まれた102坪(336.6平方メートル)には、15個の岩石が七・五・三に配置されている。

天正十五年(1588)二月二十四日、豊臣秀吉が龍安寺を訪ねた記録に、方丈前庭の糸桜を見て「時ならぬ桜の枝にふる雪は花を遅しとさそひきぬらん」と詠んだ。
同席の蒲生氏郷・前田利家らも桜を詠んでおり、庭の石には関心を示していない。
当時の「龍安寺・定」に「庭の石うえ木以下取るべからず」の条があり、庭には石と植物があった。
現在、石庭西北隅に糸桜の古株が残る。
100年後、「東西暦覧記」(1681刊)では「石九ツアリ、是ヲ虎ノ子わたしと伝ヘル。・・・・・勝元自畳入レシモノト伝ヘリ」。
『雍州府志』(1682年刊)では「秀吉公、在聚楽城時、屡来臨於方丈眺水石一日被詠和歌・・・・・」。
「桜」が「水石」に変わる。

金地院崇伝が元和五年(1619)、天下僧録司(禅宗寺院統括最高職)について檀徒・塔頭制度を改革した。
「龍安寺敷地山之図」は寺伝・相阿弥筆とするが、明らかに江戸狩野派の作で、兵火以前の寺観を書写した。
鎌倉期『作庭記』の枯山水は片山の岸・野筋など山畔や築山斜面に石を組むという。
元和の新寺院諸式以降の枯山水は(方丈南面での儀式廃止後)平地白砂と配石の庭である。
龍谷大学の宮元健次氏は江戸時代初期、遠近法・黄金比・借景の高度な技法を用い、厳しい禅寺で斬新な作庭の可能性は小堀遠州であり、江月・春屋・崇伝と交友した禅宗信者の遠州が、龍安寺方丈石庭を作った、とみる。

■ 出雲の阿国の謎

四条大橋の東北に出雲阿国像が建っている。
「都に来たりてその踊りを披露し都人を酔わせる」と碑文に記し、南座の西側にも歌舞伎発祥の地の石碑がある。
文献では天正九年(1581)、紫宸殿南庭での「ややこ踊り」、天正十年(1582、本能寺の変)、奈良の春日若宮拝殿で「ややこ踊り」に阿国が十一歳、八歳の加賀、慶長五年(1600 関ヶ原の合戦)、阿国は京でややこ踊りを演じた。
「ややこ=赤子」のごとく可愛い踊りを意味した。
慶長八年(1603、徳川家康が征夷大将軍就任・二条城築城の年)、出雲大社の巫女と名乗る出雲阿国一座が上京区の北野神社で歌舞伎踊りを披露した。
待ちかねた群集は異様な雰囲気だったと記録されている。

歌舞伎は「傾く かぶく」から出た言葉で、十七世紀イエズス会刊行『日葡辞典』にCabuqi fito常軌を逸した人とあり、異相・異装・異風の髪型をした者である。
出雲の阿国の出身は確実な史料がなく、生没も明らかでないが、江戸時代の『出雲阿国伝』では出雲国の鍛冶職人の娘で永禄の頃、出雲大社修理の勧進のため神楽舞をしつつ諸国を巡業した。
有吉佐和子の『出雲の阿国』は、この形を膨らませ創作している。
寄付集めの勧進よりも地方の遊芸者の「アルキ神子(歩き巫女)」と林屋辰三郎氏は考えた。

出雲の阿国は男装し派手な衣装に南蛮人のロザリオ(数珠)、黄金の太刀姿で名古屋山三郎(山三サンザ)と戯れる。
史実の名古屋山三は森忠政(蘭丸の弟)に仕え刃傷沙汰で斬殺された。
山三が大徳寺で参禅し、一時、風流者になったが、阿国と密会したかは不明である。
しかし阿国は「昔のかぶき人」山三を舞台で登場させたので伝承の世界では二人の恋は確固たるものになった。
慶長十二年(1607)、江戸城本丸と二の丸で阿国が歌舞伎を演じたが、寛永六年(1629)、幕府は風俗取締りで女歌舞伎を禁じた。

阿国の墓は
1. 京都市大徳寺高桐院に名古屋山三のの墓と並び
2. 出雲杵築

■ 朱子学伝授・朝鮮人学者姜と藤原惺窩との出会いは?

秀吉の二度の朝鮮侵略は両国の多くの人命を奪った。
連行された朝鮮人は数万人。
茶の湯流行で朝鮮陶工や朝鮮の印刷技術者が日本に連れてこられた。
捕虜には学者もいた。
カンハンは家族とともに強制連行された。
彼の著『看羊録』は生々しい記録である。
姜は李朝の有名な儒学者の家に生まれ、七歳で『孟子』七巻を暗記し詩文に長じて十六歳で郷試に、二十二歳で進士試験に合格、二十九歳で博士、李朝の工曹(産業省)、刑曹(法務省)に勤めた。
朝鮮侵略で、姜の従軍した城が陥落、義勇兵を集めて李舜臣軍に合流しようとして家族とともに日本兵に捕らわれた。
釜山・対馬・壱岐・下関を経て四国の大洲へ。
苛酷な強制連行で姜は甥と姪を病死させ、兄弟子女六人中、海で三人を失った。
約一年間の大洲生活で姜は秀吉の暴挙や慶長の大地震を「神罰」と非難し危うく斬首されかけたが、学僧のお陰で命拾いをした。

大洲捕虜1000名は藤堂藩の京・伏見屋敷に連行された。そこで藤原惺窩と出会う。
惺窩は相国寺の僧。
還俗し中国で儒学を学ぼうとした。
しかし、対戦の最中、船出したが、難破して帰京した。
播州生まれの惺窩は播州熊野藩主・赤松広道と親交があり、屋敷の隣、捕虜の学者姜を知ると、早速、教えを乞うた。
大名の広道三十七歳、惺窩三十八歳、姜三十二歳。
三人が『四書五経倭訓』の完成に一字一句誤りを正した。
角倉素庵(了以の子)の『行状』には、
「先生(惺窩)、姜と会い孔子を祭る儀式を問う。赤松の為に大成殿を張り聖碑を建て祭器を設く」

素庵は彼らを嵯峨に招き談義したと記す。
数万人の同胞の鼻耳塚に憤りつつ、姜は朱子学を日本の学者に伝授し、青書に銀銭を貰い朝鮮への帰国資金とした。
帰国の際、赤松は証明書を与え、惺窩は船頭一人を加えて水案内をさせた。
惺窩は徳川家康の前へ道服で現れ、治世に儒学の必要を説いた。
関ヶ原合戦で赤松が切腹したことを遺憾とし、自らは市原に隠棲した。
彼の弟子林羅山は四代にわたる徳川将軍に侍講した。

■ 林羅山とハビアン東西南北上下論争ってどんなこと?

慶長十一年(1601)、二十五歳の林羅山は京都南蛮寺にいたハビアンと出会った。
前年、二条城で徳川家康に謁し学識を認められ、300俵で召し抱えられた。
ハビアンは天草コレジオで日本語教師を務め、同学院出版『平家物語』の編者として序文を書き、巻末に「不干斎巴鼻庵」と記した。
慶長八年(1603)、ハビアンは、京都下京の教会で活躍し、1605年、『妙貞問答』を著した。
妙秀と幽貞の尼僧問答で仏法の空論・儒教・神道の教えを排斥してキリシタンの教理の優秀性を示した。

二十五歳の朱子学者・林羅山はキリシタンの四十二歳のハビアンに「大地とはいかなるものや? 儒学では方円と聞くが、いかん?」と林羅山が尋ねた。
「大地とは球形である」とハビアンは南蛮寺にある地球儀・地図を示した。
林羅山は「万物を見るに皆上下あり。地は下にある。これは天地の礼なり」と。
ハビアンは「あなたが天というのは、この地形の地球のここにたっての上である。しかし、球形の下側にいる人々には天は下である」と答えた。
「天が下とは? 解せぬ。天と地が上下反対とは解せぬ。上下がないというのは理を知らざるなり」と林羅山は激怒した。
ハビアンは地球儀を示して「地球儀には南北があるが東西はない。なぜなら東に東に進めば、地球を一周して西に来る」。
羅山は儒教的な方円形の大地を頭に描き、「南北あれば、なんぞ東西なからんや」と論争した。
方円形の地図・二次元で考える朱子学者・林羅山と三次元の球形・地球を知るハビアンとでは全く議論がかみ合わない。

慶長六年(1601)、五十六歳のハビアンは放棄し、『破提宇子』でデウス=キリシタン宗門の不合理を説いた。
一方、林羅山は家康・秀忠・家光・家綱の四代将軍に仕えて侍講し外交文書・諸法度の草案作りに関与した。
昌平坂学問所で羅山は上下定分の理を説いた。
天地上下の身分制度では、神の下の人間平等観や天地を逆転する球形地球観は危険な思想であった。

■ 光悦村って芸術村?

桃山時代から江戸時代の初期に生きた本阿弥光悦は刀剣の目利き・磨礪・浄拭を家業にしていた。
本阿弥光悦は代々、法華宗の熱心な信徒で、裕福な京都町人だったが、母の妙秀がなかなかの人物であった。

結婚して間もない妙秀は、人を斬り血刀を持った押し込み強盗に顔色ひとつ変えず対応して着物・編み笠と銭を与えて論した話。
息子二人、娘二人を育てたが、善いことをした時に褒めはしたが、決して人前で子を叱らずこっそり倉の中に導いて「あなたの不作法、卑しいことは母はすべて知っていますよ」と論し抱き寄せた。
娘が仲人口で実際は貧しい家に嫁いだ。
「身が貧しいことなど苦になりますまいに、富貴の人こそ有徳になるかどうか心もとないのです。夫婦の仲がよいのが一番」と夫光二に言った。
孫、ひ孫から物を貰うと、妙秀はすべて他人に与えた。
九十歳で彼女が死んだ時、特に何もなかったという。

そんな母の薫陶を受け、光悦は芸術的要素をつけ、近衛家・烏丸家の公家や富豪と付き合って古典的文学や美術の教養を学んだ。
絵師の俵屋宗達と協同制作した「光悦色紙」は関ヶ原の合戦以後の平和を愛する人々に歓迎された。
豪商の角倉素庵と『伊勢物語』『方丈記』『徒然草』などの優美な嵯峨本を刊行した。
また光悦を楽焼きも手がけ多くの茶碗類を作った。
元和元年(1615)、徳川家康から洛北鷹峯に大きな地所を貰い、五十八歳の光悦は一族や職人と移住して芸術村を作り上げた。
呉服屋の茶屋四郎次郎、光悦の甥・尾形宗伯(光琳の祖父)なども光悦村に居を構えたので、光悦村は文化人のサロンとなった。

光悦は母の妙秀の教えを守り質素な暮らしの中で文化的な創造に心を尽くし八十歳で没した。
子孫に「決して京を離れてはならず」と言い、江戸の武家に対して京都の町人としての誇りを守り通した。

 松尾芭蕉の寝起きした落柿舎って?

小倉山の麓、田圃が広がる小道に面して簡素な門構えの藁葺きの庵室が建っている。
「落柿舎」という門額を確かめて入ると、正面庵室の壁に、あたかも主の在宅を知らせるかのような蓑と笠。
玄関右手はこぢんまりとした炊事場、左手は四畳半の室で庭に面している。
在りし日にここに芭蕉翁が五月雨を眺めたのかと思うと、何やらゆかしい。
ここが俳人松雄芭蕉の門人・向井去来の別宅「落柿舎」である。

去来は貞亨元年(1684)、京坂を遊吟していた江戸の其角に親しんだことが機縁で芭蕉に出会う。
やがて蕉門十哲の中でも取り分け信望を得、俳論『去来抄』を著すなど芭蕉の俳諧を最もよく理解した一人となる。
去来が落柿舎を営んだのは貞亨元年頃といわれる(落柿舎という命名は元禄二年頃か)が、芭蕉はここに三度草鞋を脱いでいる。
元禄二年(1689)十二月、『奥の細道』の旅を終えて郷里上野に帰っていた芭蕉は、鉢叩き(空也上人の忌日十一月十三日から大晦日まで寺僧が念仏を唱え鉦を叩いて洛中洛外を巡る行事)を聞くために上京、落柿舎に泊まる。
この夜、奥州行脚で得た「不易流行」の理念が去来に語られたと考えられる。
元禄四年(1691)四月から五月にかけての二度目の滞在中には『嵯峨日記』が記され、門人たちとの交流の様子やその時々の心境が伝えられている。
当時は蕉風を挙げて『猿蓑』の編集を進めていた時期でもあった。
元禄七年(1694)閏五月には二十日余にわたって滞在、「軽み」の俳諧の普及に努めていた芭蕉は、押しかけてくる門人たちとの応接、たびたびの句会、と忙しく過ごした。
しかし、この年の十月、芭蕉五十歳の生涯の幕が閉じられたのである。

こうして見ると、芭蕉晩年の蕉風俳諧の確立期に、この落柿舎もひとつの舞台であったということだろうか。
去来没後七十年ほどして、落柿舎は現在の場所に再興され、今は財団法人落柿舎保存会によって永続保存が図られている。

■ 与謝蕪村は京都のどこに住んでたのか?

天明三年(1783)九月、与謝蕪村は宇治田原の奥田毛条に招かれて松茸狩りに出かけた。
礼状に「君見よや拾遺の茸の露五本」と書いた。
その年の晩年より持病の胸痛で蕪村は床につく。

蕪村は享保元年(1716)、大坂の毛馬の農家に生まれた。
父の急死で家財産をなくし、蕪村は好きな俳画の道を志し二十歳で江戸に赴いた。
比喩や俗調の俳諧に厭きて芭蕉の精神を求め、奥州を放浪して絵画を描いた。

三十六歳の蕪村は京に来て名所を見て歩く。
再び漂白の旅。
宮津の見性寺に三年過ごし、母の出身地与謝郡加悦に足を留めた。
「春の海終日のたりのたり哉」

与謝の海から谷口の姓を与謝に改めた。
四十歳の頃、漁師の娘トモ(二十歳くらい)と知り合う。
「夏河を越すうれしさよ手に草履」

四十三歳の蕪村はトモと結婚した。
二年後、妻は懐妊した。
結婚すると自由に漂白できず生活に追われた。
四十六歳の春、長女クノが生まれた。
赤貧洗うが如しの生活で屏風絵を描いた。

四国丸岡での襖絵注文で金を得た蕪村は下京区室町通綾小路下ルに住む。
娘クノは八歳。

六十歳の蕪村は十五歳の娘を嫁がせたが、クノは半年後、家風に合わぬと追い返された。

京都駅に近い宗徳寺に「粟島へはだしまいりや春の雨」の句碑がある。
蕪村は婦人病の粟島神にクノの病気平癒を祈願した。
仏光寺烏丸西入ルに転居した蕪村は臨終まで娘のことを考えた。
彼の辞世は「しら梅に明い夜ばかりとなりにけり」
幽明境の白梅に魂を移して十二月二十五日、蕪村は六十八歳で没した。
彼の墓は金福寺境内にある。

■ 円山応挙の幽霊画は客寄せだった?

四条通堺町東入ル南側に円山応挙の邸宅跡がある。

彼は京都画壇を形成した写生派の祖。
猪の絵を頼まれて応挙は八瀬蒔売りに「猪を見たらすぐ連絡を」と頼んだ。
一ヵ月後、知らせを受けて応挙は洛北八瀬に行き、竹薮で寝ている猪を写生した。
鞍馬の翁が応挙の家に来た折、応挙は「臥猪」の絵を見せた。
翁は「この猪は寝ているのではない。病気だ」と言った。
「なぜだ?」と応挙は驚いて聞くと、「猪は眠っていても毛は憤るように立っている。足には勢いがある」と翁は答えた。
そこで蒔売りに問い合わすと、「猪は翌日、竹林で死んでいた」との答えだった。
応挙は翁の慧眼に感嘆した。
滝沢馬琴は『著作堂一夕話』で「応挙が画に心をもちいしことかくの如し」と紹介した。
応挙の写生は単に皮相ではなく形象の描写を徹底し細心精励して「真の写生」を心掛けた。

彼は丹波国桑田郡穴太村(現在の亀岡市)の貧農の次男として生まれ、村の金剛寺小僧になったが、絵に没頭するので家に帰された。
その後、京都に丁稚奉公し十七歳で石田幽汀に入門した。
初めは漆器の蒔絵の下書きなどをした。
石田は狩野派の様式美より写実的だったが、応挙は天性の画才と努力で中国水墨画を模写し、二十代後半、西洋画の遠近法や陰影法を身につけて山水画に応用した。
いち早く「眼鏡絵」を描き、機械的な遠近法でない彼なりの工夫をした。

彼の逸話だが、京のある料理屋主人は「客が来ない」と嘆いた。
応挙は「二階の一番奥の部屋に絵を掛けよ」と一枚の絵を与えた。
その幽霊絵を見ると、「背筋がぞくっとして逃げ出した」「怖くて夜一人で歩けない」と都の評判になった。
応挙の描いた絵は色っぽい女の湯上り姿だが、鏡の中に髪が乱れて目尻が裂け、口から血を流し恨めしそうに覗いていた。
怖いもの見たさで料理屋に客が詰め掛け、一ヶ月で数百両の収入を得たとか。
「足のなき幽霊は円山応挙よりおこりし」という。

墓は悟真寺(太秦)。
「円誉無三一妙居士」

■ 夏目漱石の句の「女」って誰?

夏目漱石は京都をたびたび訪れた。
明治四十年(1907)、四十一歳の漱石は小説家と教師の二足のワラジに疲れ、朝日新聞社に入社した。
月俸二百円。
三月末、京都に旅し、『虞美人草』を起草した。
その冒頭は比叡登山から始まり京都の地名が多く出てくる。
主人公は京都のゆったりとした静けさを愛しつつ、天龍寺や夢想国師の高い精神性に敬意を表した。

漱石は『三四郎』『それから』『門』の小説三部作を執筆中、胃カタル発作に苦しんだ。
明治四十三年(1910)、四十四歳の漱石は修善寺温泉で療養中、大吐血した。
四十九歳の漱石は大正四年(1915)三月十九日の日記に「朝東京駅出発。好晴。八時発。岐阜辺りより雨。七時三十分京都着。雨・・・・・車にて木屋町着(注 旅館・北大嘉)。寒甚し。入湯」。
二十日、一力の大石忌(仏壇の四十七士人形)、祇園、建仁寺、清水子安塔を巡る。
二十一日、京阪電車で墨染めより竹薮梅花、大亀谷。
二十二日、宇治川と巨椋池、六地蔵、黄檗。
二十三日、「腹具合あしく」。
二十四日、伏見稲荷。四条京極を歩く。
二十五日、「胃痛む。お多佳さん来る。医者を呼んで見てもらへといふ」。
二十六日、「終日無言。平臥。不飲不食。午後医者来る」。

漱石日記に出てくる「お多佳」とは磯田多佳で、「大友」の女将である。
明治十二年(1879)、東京・新橋生まれ、尾崎紅葉らと知り合い、文芸趣味深く「文芸芸者」と言われた。
のちに京都に移った。
姉が一力楼の女将おさだ。
多佳は和歌・俳句・書が上手で、吉井勇や谷崎潤一郎とも交遊した。
高浜虚子の『続風流懴法』のお藤のモデル、谷崎も『磯田多佳のこと』を書いている。

  春の川を隔てて男女かな   漱石

水ぬるむ鴨川をはさんで祇園の多佳へ世話になりましたね、との挨拶句。
御池大橋の西詰めに句碑はある。
漱石はその一年八ヵ月後に死亡した。
享年数え五十歳。

■ 与謝野鉄幹・晶子の京都のデート・スポットはどこ?

京都には与謝野鉄幹(本名・寛)と昌子の歌碑があちこちにある。
永観堂の池の畔に「秋を三人椎の実投げし鯉やいづこ池の朝風手と手つめたさ」。
昌子は鉄幹と山川登美子と三人で粟田口の旅館に泊まった。
明治三十三年(1900)十一月五日。
鉄幹数え二十七歳、昌子二十二歳、登美子二十一歳。

堺・駿河屋の三女・昌子(鳳志よう)は菓子屋の番をしながら『源氏物語』や『枕草子』を読みふけった。
明治三十一年(1898)、昌子は新聞で鉄幹の歌を見て「此様に形式の修飾を構わないで無造作に素直に詠んでよいのなら私にも歌が詠める」と思い、鉄幹の新詩社に歌を送った。
意外にも鉄幹に誉められて昌子の歌が『明星』に六首載った。

昌子は大阪に来た鉄幹と八月に初めて会った。
与謝野鉄幹は京都市岡崎の願成寺の四男。
七歳の時、父の事業失敗で土地家財は競売された。
鉄幹は落合直文の書生になり『二六新報』の記者、跡見女学校の教師をし、「人を恋ふる歌」を発表した。

昌子は恋愛に身を焦がし、同年十一月、紅葉狩りに永観堂に来た。
山川登美子は福井県小浜の士族の娘で、鉄幹を師として敬愛していた。
「三人をば世にうらぶれしはらからとわれまで言ひぬ西の京の宿」
昌子は自分たちを「はらから同胞」と呼んだ。
登美子は気にそわぬ結婚のため京を去る。

翌年一月、鉄幹と昌子は粟田口の同じ宿に二泊三日を過ごした。
蹴上浄水場に「御目覚めは鐘は知恩院聖護院いでてみ給へ紫の水」「君さらば粟田の春のふた夜妻またの世まではわすれ居給へ」。
鉄幹の妻が実家に戻り、昌子は親を捨てて上京した。
明治三十五年(1902)、鉄幹の本籍地・京都修学院一乗寺薬師堂一三番地に昌子は入籍し十一月、長男を産んだ。
鞍馬寺に与謝野夫妻の書斎「冬柏亭」が寄贈された。
「めぐりつつ鞍馬の山のつづら折り転法輪を我が身もてする 鉄幹」
「うずざくら錦を着つつうれうれどなほ御仏をたのみてぞたつ 昌子」の歌碑が鞍馬山にある。

■ 京における竹久夢二と彦乃の愛の巣は?

「待てど暮らせど来ぬ人は宵待草のやるせなさ」

大正・昭和初期に愛唱された「宵待草」の歌詞は竹久夢二、あの夢見がちな哀愁の美人画家である。
夢二が京都に移転し愛人彦乃と同棲したのは大正六年(1917)、彼が数え三十四歳、彦乃二十三歳であった。
東山高台寺に近い二年坂に住んでいた。

竹久夢二は岡山県邑久郡本庄村の造り酒屋の子として生まれた。
実家が傾き、一家は北九州へ移住した。
十八歳で上京した彼は早稲田実業学校に入り新聞牛乳配達で苦学した。
荒畑寒村の自伝で「夢二は平民社の常連の一人。国許から送金が途絶えて閉口し流行の肉筆絵ハガキの製作を思い立ち、目白周辺の店に卸して集金した」。
彼の絵が当選してプロ画家を目指した。
明治四十年(1907)一月、夢二は絵のモデル「眼が殊に大きい」岸たまきと結婚した。
二年後、協議離婚するが、なかなか別れられず同棲生活をした。
夢二が京都に来るきっかけは明治四十二年(1909)、富士登山で偶然知り合った京都の堀内清と親しくなり、彼の座敷にしばしば滞在した。
大正三年(1914)、日本橋呉服町「港屋」夢二のデザインを売る店でたまきが店番をした。
そこへ夢二ファンの笠井彦乃が現れた。
彦乃は日本橋紙問屋の娘、女子美術学校の生徒で二十一歳。
三十二歳の夢二は「フレッシュな憧憬と愛恋を」彦乃に告白した。
たまきは彦乃のことで夢二から去った。

個展を京都府立図書館で開いた。
甘美で平和な日々。
大正七年(1918)、三十五歳の夢二は長崎十二景のスケッチ旅行に行き、別府で彦乃と落ち合った。
そこで彦乃が喀血した。
彦乃の父は娘を東京の病院へ入院させた。
同年、「宵待草」が全国的に流れた時、夢二は彦乃と離別した。
大正九年(1920)一月、彦乃二十五歳(二十三歳九ヶ月)で病死した。

■ 自由律俳句の井泉水・放哉・山頭火はなぜ京に来た?

東福寺の塔頭・天徳院に荻原井泉水の句碑がある。
「石のしたしさよしぐれけり」。
井泉水は大正十二年(1923)、関東大震災で妻子を失い、翌年、母を亡くして、四十歳で京都に来た。
句集『梵行品』に「僧籍に入らんとして許されず俗界に投ぜんとの心も無し」。
庭の石を唯一人の親友として朝な夕なに黙々と対話した。
彼は河東碧梧桐を載いて『層雲』を創刊し、ゲーテやシラーの二行詩に注目、新しい俳句の理論と実践を目指し、「俳句は象徴詩だ」と主張した。
天徳院の住職から西国三十三箇所巡りを勧められ、法衣と網代笠を貰った。
泉涌寺の塔頭。善能寺に「南無観世音藤はようらく空に散る」の井泉水の句碑がある。

尾崎放哉は仮寓中の井泉水を訪ねて来た。
一高から東大法科に学び、一高俳句会で井泉水と知り合い、『層雲』創刊に参加した。
生命保険に入社し本社・朝鮮・大坂支店に勤め、その後、支配人として朝鮮に渡ったが、酒に溺れ、満州を放浪して病身で失意のうちに帰国した。
関東大震災で人間無一物と悟り、京都の一灯園に来て托鉢生活に入った。
彼の句は「入れ物がないので両手に受ける」「咳をしてもひとり」「仏にひまをもらって洗濯する」。
井泉水は門弟の放哉と山頭火を比較して「放哉はよく座った人の境遇である。山頭火は歩く、どこまでも歩く。歩くことを以て懺悔する」と。

今熊野小学校の北裏、即成寺門前に「分け入っても分け入っても青い山」「鉄鉢の中へ霰」の山頭火の句碑がある。
種田山頭火は山口県防府市の大地主・酒造業の息子だった。
母の自殺や父の浪費で実家は傾き、早稲田大学の学費が途絶えて彼自身、神経衰弱になった。
三十二歳の時、井泉水に師事し、『層雲』に投句した。
上京して東京の役所で臨時雇いになるが、関東大震災で憲兵に捕まり、巣鴨刑務所に入れられた。
ようやく東京を離れ、京都に着くと、同行者が腸チフスで死亡した。
関東大震災で心の傷を負った三人は京都に着たが、山頭火は生前に放哉と出会わなかった。

■ 法然院にある谷崎潤一郎の墓の謎

法然院の門は数奇屋風の茅葺で紅葉の頃、特に美しい。
参道山手に著名な文人墓地がある。
生前、谷崎潤一郎は墓を造った。
「寂」と「空」の一対の石。
足首型の自然石に「寂」と彫らせて傍らに紅枝垂桜を植えた。
『細雪』に描かれる平安神宮の満開の紅枝垂桜。
明治十九年(1886)、東京生まれの谷崎は明治四十三年(1910)、二十五歳で第二次『新思潮』に参加し、「刺青」を発表、永井荷風の目にとまり、文壇にデビューした。
大正十二年(1923)、関東大震災で関西に移住し、「痴人の愛」など耽美的で悪魔主義の作品を書いた後、日本の伝統や古典に回帰し「蘆刈」「春琴抄」などの作品を発表した。
第二次世界大戦中には「細雪」を執筆。
戦後は「少将滋幹の母」「鍵」など美的感覚に富んだ芸術作品を書いた。
彼の引越し好きは有名で、「初めて所帯をもって約三十年間に二十八回動いている」と彼は随筆に書いたが、七十九歳で死亡するまでに四十回も転居した。
一番目の妻千代子夫人と離婚し夫人を佐藤春夫に譲り、雑誌記者古川丁未子と神戸で再婚後、高野山に移る。
大阪市の根津清太郎夫人松子と知り合って「私には高貴な女性がいなければ思うように創作できない」と手紙に書き、紆余曲折を経て松子と結婚した。

戦後間もなく京都住まいを決心し、東山の「貴志元」、銀閣寺周辺、寺町今出川と転居し、南禅寺のそば「潺湲亭 センカンテイ」に住んだ。
潺湲とは水が音を立てて流れるさまである。
下鴨泉川にも、のちの潺湲亭(石村亭)がある。
江戸時代の上田秋成は南禅寺境内の常林庵裏に鶉屋を設けて執筆したが、南禅寺のそば西福寺に棲み、寺の沓脱ぎ石に自分の号「無腸 (蟹)」という文字を彫らせて墓にした。
谷崎も同寺塔頭・真乗院離れで「細雪」を書き、秋成をまねて生前に墓を造り、「寂」と「空」の字を彫らせた。
美しい女性の足に踏まれて墓の下に眠りたいという老人のマゾヒズムを想像して墓を見ると「足首型」の自然石はなかなか興味深い。

■ 地中から蘇った?尹東柱の詩

同志社大学キャンパスの一角に御影石の詩碑が建っていて、ハングル文字と日本語で一編の詩が刻まれている。

序 詩    尹東柱

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱なきことを、
葉あいにそよぐ風にも
わたしは心痛んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものをいとおしまねば
そしてわたしに与えられた道を
歩みゆかねば。

今宵も星が風に吹き晒される。

           (伊吹郷訳)

韓国人であった彼は第二次世界大戦中、日本に留学し、立教大学、そして昭和十七年(1942)十二月から同志社大学に学んだ。
しかし、翌年七月独立運動の嫌疑で下鴨警察署に逮捕され、終戦まであと半年という1945年二月十七日、福岡刑務所で獄死した。
亡くなる間際、彼は母国語で何ごとかを大きく叫んで息絶えたという看守の証言が残っている。
二十七歳であった。

彼が生きた時代は日韓併合条約のもと、皇民化政策が強行されていた。
母国語である朝鮮語が禁止されていたが、あえてハングル文字で詩作を続け、その何編かを日本から秘かに韓国の友人に手紙とともに送った。
受け取った友人はこのままでは危険と考えて官憲の目を逃れるため詩を瓶に入れ、地中に埋めた。

そして、戦後、地中から目覚めた詩は多くの人に感動を与えた。
尹東柱は抵抗の詩人として名を馳せることになった。
彼が政治的にどのような考えをもっていたかは別として、人間として母国語を奪われることへの強い抵抗はあったに違いない。
だから、あえて禁止されていたハングル文字で詩を書き続けたのだ。
彼が逮捕された時、彼の書いたものはすべて押収され、行方不明のままだ。
私たちが今この詩を知ることができるのは、彼が韓国のともに手紙を送り、友人が瓶に入れて土の中に隠していたからこそ可能となったのだ。
同志社大学のキャンパスの詩碑に書かれたハングル文字はもちろん彼の筆跡である。
地中から蘇ったのである。

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