■■■ 自然編 (完)

京都の誇る砥石は水と火のはからい?微化石がつくる石・チャートの謎伏見深草に象がいた謎枕状溶岩の謎六弁の花びら・桜石の不思議乃木神社、太古の砂岩の謎亜寒帯のフロラがなぜ洛北の池にあるのか深泥池は氷河期の生き残り?アメリカの湿地植物が深泥池にだけある謎世界一早く成長する竹の秘密は?箱石砂丘の中からカタツムリが?河川敷に野生化した桑(マグワ)の謎不思議な分布を示すキブネダイオウの謎洪水の急流に守られて遺存する植物とは?海上生活をする海鳥が木によじ登るわけは?鴨川のユリカモメはどこで寝るの?京に数万羽のツバメが大集合する謎大宮人が恐怖した鵺の正体とは?ゴイサギが五位の高位を授けられたわけミヤコドリとは京の都の鳥か鴨川千鳥とはどんな鳥か?

■ 京都の誇る砥石は水と火のはからい?

京都の合わせ砥石の歴史は古い。
建久元年(1190)、本間藤左衛門が、入洛した源頼朝から日本礪石師棟梁の免許を付与されたことにはじまる。
その後、足利尊氏の刀剣奉行を務めた本阿弥家も砥石の生産・流通に関わっていたらしい。
本阿弥光悦が合わせ砥石の産地、高雄梅ケ畑にほど近い鷹峰に、徳川家康から土地を拝領したことも、砥石との関わりをうかがわせる。

合わせ砥粒である石英のサイズは一ミクロンにも達しない。
しかも、砂粒が一粒でも含まれておれば、砥石としては失格である。
合わせ砥石は、極めて均質な粘板岩を原岩として、それから変化したものである。
新鮮な粘板岩は、ふつう灰色をしており、緻密で硬すぎ、砥石には向かない。
良質の合わせ砥石は黄褐色で水を含みやすい。
この性質は、長年月にわたる風化作用によって生み出される。
さらに、砥石が均質に分布するためには、粘板岩が、地下深くに貫入したマグマの熱によって、わずかながら灼かれていることが欠かせないようだ。
まさに水と火の微妙なはからいが、合わせ砥石をはぐくんだものといえよう。

微粒で均質な粘板岩は、砂粒をまったく含まず、しかも、層状チャート層の下位に横たわっていることが多い。
こうしたことから、もとは、陸地から遠く離れた大洋低に静かに降り積もった後、海洋底プレートに乗って、丹波に運ばれたものであろう。
不思議な石である。

右京区福王寺社には合わせ砥石の逸品が奉納されており、扁額として神楽殿に掛けられている。

■ 微化石がつくる石・チャートの謎

龍安寺石庭には大小十五の石が立てられている。
これらのうち八つがチャートである。
チャートは丹波山地では至極ありふれた岩石で、岩室が緻密で硬いために、しばしば、急崖をつくる。
保津川下りで名高い壁岩や書物岩、「君が代」発祥の基と伝えられる嵯峨野・千代の古道の「さざれ石」などがチャートの例である。
かつて「ふごおろしの火打ち石」として鞍馬詣での土産品として親しまれたのも、この石である。

チャート層は、厚さ三センチから七センチの堅固な珪質層と数ミクロンの粘土層が整然と交互に重なっていることが多く、層状チャートと呼ばれている。

層状チャートの珪質層は、大きさ0.1〜0.2ミリのおびただしい数のプランクトンの遺骸が深海底に降積もり、長い歳月を経て固まってできた。
プランクトンの種類は、原生動物の放散虫で、もとはガラス質シリカの殻をもっていたが、いまでは熱や圧力の動きによって微粒子状の石英の集合体に変化している。
チャートが硬いゆえんである。

丹波山地にひろがる層状チャートは、古生代石炭紀後期からペルム紀末(約三億年〜二億五千万年前)と中生代三畳紀からジェラ紀中期(二億四千万年〜一億七千万年前)の二つの時期に堆積したことが知られている。
ところが、チャート層を囲む泥岩や砂岩が堆積した地質年代は、いずれのチャート層の場合も新しく、しかもそれらの間には、明かな年代のギャップのあることが判明してきている。
こうしたことから、チャート層は、別の海域(おそらくはるか南方)で堆積し、その後、海洋底プレートの移動によって、泥や砂が堆積していた古海溝に運び込まれたものと推測されている。

■ 伏見深草に象がいた謎

1960年代には伏見区深草谷口町のあたりには、京都盆地の方にゆるく傾いた粘土層や砂礫層が崖を作っていた。
この崖の粘土層の土取り場から、小型の湯たんぽの形をした黒い物体が掘り出され、保存されていた。
たまたま生徒たちと化石採集に来ていた中学校の先生がこれを見せられ、おどろいて京都大学に持ち込み、鑑定の結果、東洋ゾウの臼歯の化石であることが判明した。
ゾウの歯が発見された地層は、約50万年前の湖に堆積した粘土層で、大阪層群と呼ばれている地層群に含まれるものであった。
その後、山科小栗栖ではゾウの前足の骨が、また西山山麓の大原野ではシカの前足の化石が同じ時代の地層から見つかっている。

大阪層群は、桃山、深草、向日町、長岡や枚方、千里山など、京都盆地や大阪平野周辺の丘陵に分布している地層群で、二百五十万年から三十万年前に堆積したことが知られている。
この時期は気候変動が激しく、氷河期と温暖な間氷期が繰り返しおとずれた。
氷河期には海面が下がり、陸地が広がって、湖や川に地層が堆積した。
いっぽう間氷期には海面が上昇し、古大阪湾は内陸部まで広がった。
深草の崖では、四層の海底にたまった粘土層が確認されており、もっとも北では、蹴上げ浄水場のあたりまで海が浸入していた時期があった。

五十万年前の深草に話しを戻す。
浅い湖が広がっており、水中にはシリブトビシが繁茂していた。
まわりの丘には、コナンキンハゼやタイワンブナが茂り、湖畔ではゾウが群れをつくり、草をはんでいたであろう。
地層に含まれるいろいろな化石から、こんな景観が復元されている。


 
■ 枕状溶岩の謎

底のない海はない。
層状チャートや砥石層が堆積した海底は、どんな岩石でできていたのだろうか。
結論から述べると、海底から噴出した玄武岩溶岩である。
洛北鞍馬や貴船には、チャートや砥石を載せて運んだとみられる岩盤が露出している。
よく見ると、枕や俵を積み重ねたような構造が認められることが多い。
枕状溶岩と呼んでいる。
貴船神社奥宮近くの鼓ケ岩や北桑田郡京北町芹生集落の貴船側入り口に、見事な枕状溶岩が露出している。
枕の大きさは、30〜50センチ、火山ガスの抜けた跡がしずく形に残っている。

温度1200度にも達する玄武岩溶岩が地中から海底に向けて流れ出すと、冷たい海水に触れて急に冷やされ、球状の薄いガラス質の殻ができる。
しかし、内部はまだ溶けたままである。
シュークリームをイメージしてほしい。
溶岩が流れ出すにつれて、枕が次々に重なっていくことになる。
こうした出来事がつづき、ついには枕状溶岩が形成される。
ときには海底からそびえ立つ海山にまで成長したこともあったようだ。
海山の頂は水深が浅く、石灰石の骨格や殻をもったサンゴや海百合、紡錘虫などが生息していた。
鞍馬山奥の院魔王殿の石灰石などは、その名残である。
因みに丹波山地の枕状溶岩の形成時期は、古生代石灰紀後期からペルム紀前期(三億三千万年〜二億六千万年前)の頃である。

海底での玄武岩溶岩の噴出活動が終わる頃から、温泉活動が始まった。
この温泉の泉質は、北米イエローストーン国立公園の多くの温泉のように、シリカ成分を大量に含んでいたようだ。
丹波山地の海底玄武岩層の上部には、ところどころに牛肉のロースをおもわせるような珪質岩石が発達しており、かつて「赤白珪石」の名前で、溶鉱炉の耐火煉瓦原料として採掘されていた。
京都市北区大森に鉱山跡が残っている。
加茂七石のひとつ「紅加茂」として愛好家に珍重されているのも、この石である。

■ 六弁の花びら・桜石の不思議

 清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢う人 みなうつくしき  与謝野晶子

桜花をうたった短歌となれば、枚挙にいとまがない。
桜花の花弁の数は、八重桜はおくとして、普通は五弁と相場は決まっている。
ところが、石の世界には、六弁の「さくら」がある。

亀岡市稗田野に桜天満宮というお宮がある。
縁起によれば、菅原道真が大宰府に左遷のおり、家臣の一人が形見にと拝領した桜の木(なぜ梅でなかったのかは不明)が植えられていたが、長い年月を経るうちに枯れてしまったという。
その約300年後、近くの寺に住む上人の夢枕に菅公が立って、枯れた桜樹の根本の岩石に、花の紋が残されていると告げた。
これが六弁の「桜石」の由来と伝えている。
大正十一年(1922)に国の天年記念物に指定されている。

桜石は、もと菫青石というマグネシウムや鉄を含む珪酸塩鉱物であったが、現在は細かい白雲母や緑泥石といった粘土鉱物に変化している。
そのために、新鮮なものでは、断面は薄緑色でシルクの光沢をもっている。
六角柱の外形を示し、大きなものでは直径が一センチ、長さ三センチに達する。
三つの結晶が、縦軸の周りに120度ごとに組み合わさっており、さらに六角柱の上下端から、六角錐が砂時計の形をして入り込んだような、複雑な構造をもっている。
そのため、横断面では六弁の花びらが互いに向きあっており、切り口によっては花心さえも備わっているようにみえる。

稗田野のあたりには、いまから約七千万年前の白亜紀後期に活動したマグマ起源の行者山花崗岩がひろがっている。
桜石は、一億五千万年以前に海底に堆積し、固結した粘板岩が、マグマの熱で灼かれてできたことを物語っている。

■ 乃木神社、太古の砂岩の謎

伏見区に乃木希典を祀る乃木神社がある。
門をくぐると、左手に「記念館」が建っている。
日露戦争のときに司令部となった民家を、満州(現在の中国の東北部)から移築したものである。
この建物の壁にはたくさんの赤茶色をした石が張られている。
目を近づけてじっくりと観察してみよう。
ルーペがあれば、なお良い。
透明感があり、円味を帯びた砂粒が、ギッシリと集まっている様子がわかる。
この砂岩は、石英質砂岩または正珪岩と呼ばれ、砂粒はほとんどすべて石英(水晶)である。
このような砂岩でできている地層は、日本列島のどこからもみつかっていない。
まさに、大陸を代表する岩石のひとつといえる。

六億年以上も前、先カンブリア時代には、現在の中国のあたりにはカタイシア大陸と名付けられた陸地が広がっていた。
この陸地は、見渡す限り赤茶けた岩や砂ばかりの砂漠で、一木一草も生えていなかった。
植物が陸上に進出しはじめるのは、約四億年前のシルル紀からデボン紀にかけてのことである。

陸地の基礎を作っていた岩石は、花崗岩や片麻岩などで、粗い石英や長石、黒雲母などからできていた。
昼間は灼熱の太陽光線にさらされ、夜には、ときには氷点下にまで下る気温変化のもとで、岩石はボロボロに砕けていった。
激しい雨は洪水となって土砂を押し流し、長石や雲母といった割れやすい鉱物は、細かい粘土となって流れていった。
あとには、石英を主にした砂が残されることになった。
砂漠では砂嵐もおこり、吹き飛ばされた砂粒はぶつかりあって角がとれ、円い石英砂となった。
こうしてできた砂が固まって、正珪岩は形成された。
壁の石の中には、浅い水底にたまったことをうかがわせるさざ波の跡(漣痕)を残しているものもある。

■ 亜寒帯のフロラがなぜ洛北の池にあるのか

左京区と北区との境に深泥池という10ヘクタールにも満たない小さな池がある。
この池は標高わずか70メートル余りなのに、池の中に浮島があって、その上に高層湿原の面影が残っているのみならず、本州の西高山や北方亜寒帯の湿原に生えている植物がたくさん生き残っている。
琵琶湖や近くの池にも見られない珍しい水生植物群落が多いので、昭和二年(1927)に国の天年記念物として指定された。
その後、京都大学を中心に総合学術調査が実施された。
その結果、ますます天然の古墳としての重要性が明かとなって、天年記念物としての指定の対象が水生植物群落から生物群集へ拡大変更された。
これは日本の天年記念物の中でも、他に例のないことである。
その根拠になったいくつかの例を示す。

ホロムイソウという植物は北半球の亜寒帯湿地に広く分布する多年草で、日本では本州中部以北の西高山帯に行かないと見られない植物である。
ホロムイソウという名は北海道幌向湿原で見つけられたので命名された。
単子葉類ホロムイソウ科に属する小形の植物で、ホロムイソウ属は世界にホロムイソウ唯一種だけが知られている。
昭和三十年(1955)頃までは特別天年記念物となっている尾瀬原が、世界での分布最南限地と考えられていた。
それが深泥池にも生育していることがわかり、世界での分布南限を大きく更新したのである。

アカヤバネゴケは欧亜大陸から北アメリカの周極地方に分布する小さな苔で、日本では中部地方以北の高山帯でしか見つかっていなかった。
それが総合調査時、浮島にも生育していることが確認された。
その他、ミツガシワの大群落、カキツバタ、ジュンサイ、ヒメコウホネなど、北方の寒冷地の湿原や沼地にある植物が、この池にはたくさん生き残っており、プランクトンや動物でも同じ傾向がみられる。

■ 深泥池は氷河期の生き残り?

深泥池には、なぜ寒冷地生物が生き残ったのか?
その理由として次のことが考えられる。

1)今よりずっと寒かった氷河時代に、日本は南北地形で乾燥地帯がないために、北極海周辺の寒い地方に発達した生物たちが南のほうまで分布移動してくることができた。
2)深泥池は少なくとも最終氷期(ウルム氷期以前)に湿地として存在していた。
地底には地下のチャートの岩盤に達するまでに湿地であったことを示す十数メートルに及ぶ堆積物が確認された。
3)池に流入する川も流出する川もなく、わずかの集水域と考えられる小山の斜面に降る雨と、浸み出す貧栄養酸性の地下水だけで、その水がまかなわれている。
4)腐植酸によって酸性になった水がバクテリアの繁殖を抑え、ミズゴケの繁殖はさらに酸性を強め、植物遺体は分解しないで泥炭化していく。
涌水は冷たくて比重が大きいので底に溜まる。
5)流入する川がないので、土砂が運ばれてくることもなく、水が撹拌されることもない。
6)池の約三分の一を占める浮島が、池の上に落とし蓋を置いたように、光や熱を下に通さないので、水の対流を抑え、水温の上昇を防ぐのにある程度役立っているのかもしれない。

とにかく、いろいろな条件の相乗効果によって、この池には特殊な環境が成立し、「天然の古墳」といわれるように、寒冷地の植物を数多く生存させているのである。

■ アメリカの湿地植物が深泥池にだけある謎

深泥池にナガバオモダカとアメリカミズユキノシタという二種類の湿地植物が生育し、現在、急速に繁茂して古来の水草に悪影響を及ぼすのではないかと京都市文化財保護課は対策に頭を悩ませている。
一般に帰化植物は京都近辺のみならず日本各地に繁殖していて深泥池にも姿を見せるというのが普通である。
ところが、この二種類は違っていて、日本では深泥池にしか見付からない。
さらに不思議なことには、アメリカ大陸ではあちこちの湿原に原生しているが、旧大陸ではアメリカミズユキノシタがバングラディシュに一時帰化したという記録があるだけということがわかった。
深泥池でも太平洋戦争以前には両種ともまったく記録されたことがない。
ナガバオモダカは戦後の調査で見付かり、初め栽培のジャイアントサジッタリアが野生化したと思われたが、総合調査でアメリカに原生する別の種であることが判明し、ナガバオモダカと新しい和名が付けられた。
この植物は水中に地下茎を横に伸ばし、細長い葉をつけ、水上に出てオモダカのような花をつける時とはまったく異なった姿で無性的に増殖する。
花をつけた株を調べたところ、雌株ばかりである。

アメリカミズユキノシタは、ナガバオモダカの正体が判明してからずっと後、1988年、アメリカの湿原に野生する植物であることがわかった。

なぜアメリカ産の植物が天年記念物の池に現れたのか。
終戦後、近くにある京都植物園が進駐軍の幹部の居住区として接収されていた。
将校たちは家族を呼び寄せて、ここで生活をしていた。
魚など水生植物の好きな家族が、これらの植物を水槽で育てていたのではないだろうか。
帰国の際、そのまま捨てて枯らしてしまうのは忍び難い、近くにこんな良い池があるのでそっと入れたら生き延びるのではないかと生物に優しい善意の結果ではなかったか。
両種ともにアクアリウムプランツとしてリストに上がっているということが、この説を指示し、不思議を解くカギになる。

■ 世界一早く成長する竹の秘密は?

竹の茎は地下にあって地中を横走する地下茎である。
地中に大きな岩や石のある所は地下茎が自由に伸びられないから、竹藪があるところは均質な砂泥が地下にあることを表している。
京都の西南部に竹が多いのは、大阪層群と呼ばれる堆積層が広く分布していて、竹の生育に適した立地条件があるからである。

地上に直立している竹の稈は、地下茎の節からでた枝に相当する。
稈の若い時は筍といって食用にされる。
筍は地上に現れると、わずか一ヶ月余りで十数メートルに伸び上がる。
このスピードは植物の中でも最も早く、モウソウチクでは一日うちに七十五・五センチも伸びたという記録がある。

普通の植物では茎や枝の先端部に成長点があって、そこで作られた若い細胞だけが伸長するが、竹の仲間は各節の上にそれがあって伸長する。
だから仮に五十節があるとすれば、普通の樹木の五十倍も伸びるわけである。
竹の稈は中空である。
これだけ早く伸びるためには、中まで組織でうめていたのでは追いつかないから、合理的に省エネが行われ、しかも強度を保つ構造ができている。

竹の稈が硬いのは、細胞膜にシリカが蓄積されているからだといわれている。
シリカは大変安定した物質であるから、これがイオン化して細胞に入るためには、酸性の土壌である必要がある。
だから竹藪がある所は必ず酸性土壌であるということもいえる。

■ 箱石砂丘の中からカタツムリが?

久美浜町小天橋から箱石付近の海岸には美しい海岸植物の群落が発達している。
特に箱石付近は「函石浜遺物包含地」として山陰海岸国立公園でも史跡に指定されているため、砂丘の自然発生が良く残っている。

平成2年ごろより、ここでも砂浜に四輪駆動車の不法乗り入れが頻発し、ハマゴウ、ハマグルマ、ハマヒルガオなど、砂中に地下茎を伸ばしている植物が被害を受けた。

砂上に植物群落が発達していると、海から吹きつける冬の季節風からも、砂丘面は植被に守られて砂が安定しているが、植物が枯れて砂丘面が露出すると、砂は風に吹き飛ばされて後方に移動する。
こうした四輪駆動車のわだちによる砂の移動から、偶然にも箱石付近の下からカタツムリの殻が現れた(平成6年)

このカタツムリは砂に埋もれていたため、保存状態も良く、ナミマイマイと同定された。

カタツムリは森林に棲む貝で海の貝ではない。
これが枯れ枝の一部とともに砂の下に埋まっていたことは、それほど遠くない昔、ここに森林があった証拠である。
近くに遺跡があることも、下に古砂丘があり、第四紀層がその下にあることからも昔この海岸近くまで人間の住める環境があったことがわかる。
現在の砂丘では人間は住めない。
歴史に残っている記録にも平安時代に飛砂が猛威を極め、葛野、鹿野、俵野、上野の集落は内陸部に移動したといわれているし、特に葛野の集落は元禄年間に現在地に移ったことがはっきりしている。

■ 河川敷に野生化した桑(マグワ)の謎

蚕の餌として中国産の桑が機織の技術とともに日本に伝えられたのは、おそらく奈良時代であろう。
秦氏ら韓国の渡来人によって、京都では奈良の都に近かった京田辺市周辺で大々的に栽培されていたと思われる。

クワは日本の山に野生しているヤマグワとは別種で、日本には野生がなく、イラン・小アジア・アルメニア辺りに野生し、中国にも野生があったのではないかと思われるが、栽培からの野生化かどうか明らかではない。
地中海地方でも紀元前から栽培されていたといわれる。
日本でも桑の栽培は全国的に広まり、昭和の初め頃には絹織物の輸出は最上位にまでなっている。
日本の山には野生しているクワが、栽培されていた桑と別種だとわかって、ヤマグワと名付けられたのは大正になってからである。
ヤマグワは雌しべに長い花柱があるが、大陸から日本に伝えられた桑には花柱がほとんどない。

この蚕の餌として大陸から伝えられた桑が、木津川の河川敷に野生状態で発見されたのは平成5年である。
その後、淀川・桂川・木津川の三川合流地点や、最近、福井県の九頭竜川にも野生化しているのが見つかった。
近年、桑の栽培はほとんど見られなくなったが、過去に栽培された改良品種があちこちに残っているので、各地で野生化したものが見つかる可能性は高い。
桑は落葉性の陽樹であるので、よく茂った森林の中では育たない。
種子が鳥などによって運ばれて、河川敷に野生化しているのは、洪水その他によって、河川敷には密林が発達していないからであろう。
ヤマグワは里山の雑木林に野生し、日本から中国南部、ヒマラヤ、東南アジアの山地に広く分布していることがわかってきた。
しかし、平野部には野生がなく生えている所は常に山地である。

■ 不思議な分布を示すキブネダイオウの謎

谷川の清流の中に床机を並べ、季節料理を味わうことで有名になった貴船川には、キブネダイオウという珍しい植物がある。
谷川の岸や岩の間などに生えるタデ科の多年草で、大きくなると、高さ1メートル内外になる。
初め、京都の貴船付近にだけ知られていたが、大原の奥や雲ケ畑の谷にもあることがわかった。
しかし、他には産地が見つからず、永い間、京都の洛北の谷間にだけ生育する固有種と考えられていた。

ところが、戦後、ネパールの山中からそれとよく似た植物がヒマラヤ探検隊によって日本にもたらされた。
それで、一時は鞍馬寺の坊さんが古く無意識の中に衣の端にでもネパール辺りから果実をつけてきたのが広まったのではないかと思われたこともあった。
この植物の果実は、三枚の花片が大きくハート形に広がって、その縁に鉤状に曲がった刺が並んでいて、よく衣服の端などにくっ付くからである。

その後、海外の標本もだんだん集まり、研究が進むと、ネパール産のものはキブネダイオウに比べると、どれもやや小形で、それと同じ姿のものが中国の奥地、インド、ジャワ、西アジアに広く分布していることがわかってきた。
そして、キブネダイオウと同じ形を示す個体が岡山県の一部にも野生していることがわかった。

現在では、日本産のキブネダイオウは、アジアの南部から東南アジアの山地にあるルメックス・ネパーレンセの変種として位置付けられ、京都の洛北と岡山県の一部の谷間に隔離して遺存していると解釈されている。

■ 洪水の急流に守られて遺存する植物とは?

サツキツツジは庭や公園などにも植えられ、誰にでもよく知られている。
略して「サツキ」と呼ばれることも多く、盆栽にも古くから用いられてきた。
多くの品種があるところから、クルメツツジやヒラドツツジのように園芸種と思っている人もあるが、サツキは川岸に野生する日本固有種である。
分布は関東地方西南部から近畿地方までと、九州南部および屋久島に限られ、その生育地は川岸に岩が迫って急流となり、増水すると、しばしば水没して激流に洗われる岩の割れ目である。
京都では保津峡や由良川の和知付近に野生がある。
日当たりの良い川岸の岩の割れ目にクモの糸のような細い根を張っているのでちょっとやそっとでは引き抜けない。
枝は長く伸びないので岩のくぼみに這いつくばるような姿を示し、葉は小型紡錘形で、洪水の時、急流の破壊力にも抵抗を少なくして耐えられるようになっているためであろう。
他の植物の多くは流水にしごかれて消失してしまっているのに、サツキは枝にゴミなどをからませて生き残っている。
水没しない岩の間や道端には、多くの植物が生えているが、その中にはめったにサツキは姿を見せないのは不思議である。

サツキの野生している水辺の岩上には、アオヤナギバナ、ユキヤナギ、ヤシャゼンマイなど、いずれも葉が細くなった植物が共存する。
雨の多い熱帯域の渓流沿いで、しばしば出水の時、水没する岸辺に、流水の抵抗を少なくして生き残る葉の細い特殊な植物が群落を作ることが注目され、それらはレオファイトなどの群落は、まさにその概念が適用できる北限であろう。
中国地方と四国にはサツキの野生は知られていないが、これらの地域にはサツキの野生する環境にキシツツジという別種が分布している。
ヤシャゼンマイは平鉢で山草を栽培するのに大変よいといわれるためか、保津峡では近年まったく見られなくなった。

■ 海上生活をする海鳥が木によじ登るわけは?

舞鶴湾の沖に冠島という無人島がある。
二月から十一月にかけて、島は二十万羽を越すオオミズナギドリの繁殖地となる。
この島は昭和四十一年に京都府の鳥に指定されたが、もっぱら海上生活をしているために、私たちの目に触れる機会はあまりない。

そのオオミズナギドリが地上から幹伝いに木に登るという変わった行動をする。
午前三時を過ぎる頃、島の鳥たちは自分たちが気に入っているそれぞれの木に向かって一斉に行進を始める。
到着すると、鉤状に曲がった、嘴の先を幹に掛け、翼をばたつかせながら、水掻きのついた爪で体を支えてよじ登っていく。
えそれはとてもぎこちない仕種で、懸命な努力にもかかわらず途中で力尽きるものや、後ろからきた元気のいいものに乗り越えられて落ちてしまうものなどで、凄まじい喧騒の場となってしまう。
横枝が張り出して、上空が開けた場所までやっと辿り着くと、今度は次々に躊躇することなく一気に飛び出していく。
つまり彼らは一日の行動の始まりを、まず木登りから開始し、海上に向かうのである。
だから、どれもやや傾いた太い木が選ばれている。

島はタブノキやツバキなどの常緑広葉樹に覆われていて、巣の近くには飛び立つのにふさわしい十分な空間が存在しない。
中には斜面に露出した岩を利用するものもあるが、木登り同様、岩登りもやはり大変な作業に見える。
また彼らの脚は潜水に都合のよいように体の後方に位置していて、素早い歩行や地上からの飛び立ちは得意ではない。
十分な浮力を得るためにはある程度の高さが必要である。

こうして彼らの離島は日の出前までに完了するわけであるが、それまでに首尾よく飛び立てなかったものは再び巣に戻り、終日こもってじっとしている。
なお、冠島は大正十三年にオオミズナギドリの繁殖地として国の天年記念物に指定されたのと併せ、地元の神域でもあることなどから上陸禁止となっている。

■ 鴨川のユリカモメはどこで寝るの?

十月下旬ともなれば、京都の桂川や鴨川にユリカモメが姿を見せ始める。
今ではすっかり冬の風物詩となっているが、もともとは市内の河川には生息していない鳥だった。

1970年代に入り、日本の各地からユリカモメの越冬報告例が報告されるようになり、昭和四十九年には鴨川にも姿を現すようになった。

平成十一年一月に日本野鳥の会京都支部が京都市とその周辺を調査した結果、約8300羽ほどを確認している。
近年、鴨川のユリカモメの数が減ってきたという声が聞こえるが、昭和六十二年に一回目の調査をして以来、それほど大きな変動はない。

1980年代になって、標識用の脚輪を付けて調べてみると、日本のユリカモメは遠くカムチャツカから飛来することが、野鳥研究家の須川恒さんたちの手によって明らかになった。
またカムチャツカでは繁殖地が増えているそうで、そのことと越冬地の拡大とが関係しているものと思われる。

八月中旬になると、羽数は多くないが、もう日本に渡って来ており、大きな河川の河口や干潟などで休んでいるの観察される。
そして徐々に数を増やしていき、やがて内陸部に向かって行動範囲を広げていく。
晩秋〜初冬にかけての早朝と夕刻に八幡市の三川合流地で見ていると、小群が京都と大阪湾を往復していることがわかる。

さて、本格的な冬になり、羽数も増した京都のユリカモメはどこで寝るのか?

昭和五十五年一月に調べた時は、琵琶湖競艇場の北の沖合いの湖上だったが、このねぐらはやがて北へ移動し、現在では琵琶湖大橋のさらに北方の北小松の辺りに移っている。

こうしてほとんどのユリカモメは日暮れになると東山を越えて、琵琶湖を目指すわけだが、厳冬期でもごく少数の群れは淀川に沿って大阪湾へ向かうのが観察されている。

■京に数万羽のツバメが大集合する謎

京都市伏見区の宇治川と国道一号線が交わる橋を宇治川大橋といい、そのすぐ上流左岸の河川敷には葦簾の材料となるアシ原が広がり、隣接する農耕地は、かつて小椋池と呼ばれていた沼地を干拓した跡である。
ツバメが集合するのは、このアシ原である。
ここが巣を離れたツバメたちの、国内でも有数の大規模な集団ねぐらとなる。

ツバメたちは、最初の雛が巣立つ六月中〜下旬から次第に数を増していき、二番子が巣立つ八月上〜中旬頃に最高潮となる。
日没とともに集まってくると、幾つかの集団を形成したり、上空一杯に広がったりして、暗くなるまで黒雲のようになって飛翔を続ける。
その数は二万羽とも三万羽ともいわれるが、とにかく京都市とその南部の街に生息するすべてのツバメが集合するのだから、相当な数であることだけは確かである。
そして翌朝はいまだ暗いうちから飛び立っていくのである。
九月に入ると数は急速に減るが、他所からきた渡りの途中の個体群などによって、主に十月中旬頃まで利用される。

竹薮や森の樹木を利用せずに、なぜアシ原で寝るのか不思議であるが、敵に襲われる機会の少ない場所であること、危険に際してもすぐに大空に飛び立てるだけの広く開けた空間が必要なこと、ねぐら近くに餌場があると有利なこと等々の条件に合っているからだといわれている。
野焼きした跡に育つ良質のアシもねぐらの条件かもしれない。

本州では主にアシ原が利用されているが、沖縄ではサトウキビ畑が、また越冬地の東南アジアでは、繁華街の電線で、同じようにして集団でねぐらをとることが知られている。

■ 大宮人が恐怖した鵺の正体とは?

なかなか正体がつかめず不可解な人のことをヌエ的人物というが、漢字で鵺と書き、その声は平安時代の古くから不吉の前兆として、とても恐れられてきた。

当時の『倭名類聚鈔』には夜行性の怪しげな鳥だとする記述があるものの、実体については不明であったらしく、ヌエの声を耳にしようものなら大騒ぎとなり、占いをしたり、呪文を唱えたりして忌み嫌ったという。

『平家物語』によると、時の帝の近衛天皇が、その鳴き声に夜な夜な怯えていたのを、源頼政が紫宸殿上に矢を放ち射とってみれば、「頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎」、また『源平盛衰記』では「頭は猿、背は虎、尾は狐、足は狸」などと表現されていて、これが江戸時代にいたるまで、まさに怪物そのものとして扱われてきた。

『和漢三才図会』では名前こそヌエであるが、やっと野鳥としての姿を現す。

さてその鳥の正体だが、ツグミ科のトラツグミという京都府では村里に近い林から深い森林にかけて周年生息する約30センチほどの鳥である。

いつも薄暗い林床で暮らしていて、ミミズや昆虫などを採餌する。
人目に触れることはめったになく、鳴き声だけが独り歩きして、人々の空想をかきたてていったのであろう。

主に春〜夏の繁殖期にかけての夜に鳴くのだが、雨や曇った時などにもしばしば耳にすることがある。
かなり遠くまで届く口笛のような声で「ヒー、ヒョー」と実に不気味で、しかも物悲しくて単調な響きを繰り返し発する。
十分な明かりと知識のなかった時代、漆黒の闇の中から、この声が聞こえてくると、気味の悪くなるのが理解できる。

■ ゴイサギが五位の高位を授けられたわけ

『平家物語』では、醍醐天皇が神泉苑へ行幸された時のこと、六位を召し池の汀にいるサギを指して「あの鷺を連れて参れ」と告げられたのを受けて「帝の命によりこれへ」というと、サギは神妙に従い、よって五位を授かったとの故事が語られている。

五位は宮中に昇殿できる資格の最下位ではあるが、高い官位であることに違いはない。
天皇の気まぐれであったとしても、鳥に位を授けるなど、あまりに調子がよすぎる話しなので、これには何か地位や名誉を揶揄する意図が隠れているのかもしれない。

ゴイサギの古名はイビ・伊微(『倭名類聚鈔』)、またはイヒ(『色葉字類抄』『類聚名義抄』)だったが、そんなわけで室町時代以降はクライノトリとかゴイサギと呼ばれるようになった。

ゴイサギは、またの名をヨガラス(夜鴉)ともいうが。、これはその生態からきた呼び名で、繁殖期以外は主に夜行性の行動をするところからきている。
昼間は池や川岸の茂みで休んでいるが、夕方から夜中にかけてカラスのような声で短く、「グアッ、グアッ」とか「ゴアッ、ゴアッ」などと聞こえる鳴き方で、鴨川や桂川の上空を飛んでいるのがしばしば観察される。
また若鳥は褐色の体に白の斑点を全身にちりばめたような模様からホシゴイ(星五位)とも呼ばれ、成鳥とはまるで異なる色合いである。
成鳥は頭部〜背中が濃緑色、胸〜腹が白色の美しい容姿である。
なおゴイサギはその容姿から古くは「せぐろごい」「なべかぶり」「なべせおい」などの異名があったが、「鍋」と「五位」では違いが大きすぎるのが滑稽である。

■ ミヤコドリとは京の都の鳥か

『万葉集』を始めとして『古今和歌集』や『枕草子』など多くの古典文学の中で都鳥と呼ばれる鳥が登場するが、実はミヤコドリと称される鳥には二種類あって、古来、混同されて使われてきた。
『伊勢物語』に出てくる有名な歌に「名にし負はばいざ言とはむ宮どりわが思ふ人は有やなしや」と詠まれたのは生態と状況から察して、現在のカモメ科のユリカモメであるとされており、一方、特に東国とことわりのない都鳥はミヤコドリ科のミヤコドリである可能性が高いとされている。

江戸時代前期の『大和本草』にある「今案ズルニ西土にて都鳥と称する鳥あり、背中は黒く脇腹白く、嘴と足と赤し、嘴長くけりの形に似て其形うるはし・・・・・」とあるのはシギやチドリの仲間に近いミヤコドリ科のミヤコドリという種の鳥を描写したものである。

「百合鴎」「入江鴎」が語源で、ユリカモメになったとされる「ユリカモメ」は、江戸時代中期の『観文禽譜』の中では、「形かもめより小、足赤く、嘴さき微赤」と書かれていてユリカモメの正しい観察記述となっている。
また、ここではミヤコドリについても次のように書かれている。
「みやこどり、うばちどり、脚長く、頭背黒色、腹及翅白く尾黒し、目及嘴丹紅、脚紫赤にして後指なし」

なぜ、こうした混同が生じたかについてはよくわかっていない。
また名前の由来についても両種と京の都を結ぶ決定的な根拠に乏しく、諸説あるものの、いずれも説得力に欠ける。

現在のように標準和名というものがなった時代には、異名や地方名がたくさんあって、しかも、そのことでさほど困ることもなく、きっとおおらかに種というものをとらえていたのであろう。
京に生息せず、むしろ江戸を代表する鳥であったユリカモメのほうは、現在、東京都の鳥に指定されている。

■ 鴨川千鳥とはどんな鳥か?

鴨川を代表する野鳥といえば、今ではユリカモメにその座を奪われてしまった感がある。
ひと昔前まではチドリ、すなわち鴨川千鳥が、その代表格である。

「鴨川をどり」が始まると、先斗町の御茶屋の軒に千鳥をデザインした提灯が掛かる。
また、「鴨の河原に千鳥が騒ぐ・・・・・」とか、「もやい枕に川千鳥・・・・・」などと懐かしい歌詞にも見られるように、千鳥は鴨川のいわばシンボルバードだったのである。
万葉の時代からチドリは「千鳥」「浜千鳥」「川千鳥」などと呼ばれて、親しまれてきたが、これらはチドリ科の千鳥を総称する俗称で、正しく種を指しているわけではない。
鴨川千鳥も同様で、鴨川で見るチドリ一般を指して。そう呼んだものである。

周年、イカルチドリ、コチドリ、シロチドリの三種類であるが、このうちシロチドリは主に河川の下流域や海岸の砂礫地などで営巣し、生活の場は広く開けた河川や浜辺の砂泥地などである。
考えられるのは、イカルチドリとコチドリだが、仮に両種が鴨川にいたとしてもおかしくはない。

生態についてもう少し詳しく述べると、コチドリは河川の中流域から下流の中州や造成地などの砂礫地で、一方、イカルチドリは中流域よりやや上の砂礫地で営巣する傾向がある。
しかしイカルチドリのほうが幾分粗い小石や砂利混じりの砂礫地や中州を好むことからすれば、人手の加わることの少なかった昔の鴨川の自然環境では、イカルチドリが鴨川千鳥ということになるだろう。
今でも鴨川の広い中州や寄州ができると、稀に繁殖行動が観察されたり、時には休息や採餌しているのが見られるが、羽数は多くない。

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