■■■ 京都人
 
都は不思議な街である。 
いつの時代も、京都人以外の人々が主人公。 
舞台の上では「よそさん」が活躍し、京都人は観客席で拍手をしたり笑ったり涙したり罵声を浴びせたり。 
京都を舞台にして歴史が刻まれている。 

面白い本を見つけたので書いておくことにする。 
私が「うんうん」と頷いた部分の文字を青色にした。 

尚、これを読んだことによって京都嫌いになっても私には関係の無いこと。 
折角の縁談が破談になっても関係の無いこと。 
どうせ読んでるのは、よそさんやしー。 
傘くんも、よそさんやしー。


 
【よそさん】

京都は、なぜか京都人以外によって語られることが多い。 
それらを聞いたり読んだりして「偉い先生がそんなふうにお書きになってはるんやから、きっとそうなんやろね」と微笑む。 
けれど、この曖昧な賛同の表現こそ、京都人が使う最上級の否定の表明なのである。 

では、なぜ京都人は京都を語らないのだろうか。 

京都人は知っている。 

外からくるものは、必ず悪いものである。 
外からくるものに、とりあえず逆らってはいけない。 
外からくるものは、この街の法則が判らなくて当然。 
外からくるものは、いつか外へ帰ってゆく。 
外からくるものも、いずれは京都人になる宿命がある。 
外からくるものの名。 それは、よそさん。 

京都人にとって京都には二種類の人間しか存在しない。 
「京都の法則」に従う者と、よそさんだ。 
「ホンマの京都のことをよそさんに話してもしゃあない」と京都人は思っているのである。 

京都人は喧嘩が嫌いだ。 
その相手がよそさんだとしたら勝てなくて当然だと考えているからだ。 
闘う前から諦めて「よそさんやし、しゃあない」と嘆息している。 

これがvs京都人だとこんどは絶対に負けを認めないイヤラシさがある。 
論理的に追いこまれたら例によって、「そう言わはるんやったら、そなんちゃう?」と曖昧な賛同で打ち切ってしまう。 
はっきり言うと、このセンテンスの翻訳は「馬鹿にゃ分んねえよ」なのだが、言葉の表面上の慇懃さゆえに反論もできない。 
それ以上突っ込もうものなら、つまり感情的になったら最後「ああ、怖い、怖い」と茶化される。 
とにかく感情を出した方の負けが京都の法則。 
みんな負けたくないから、まずそこまで行かない。 

そんな不文律を弁えない輩に苛立っても、やっぱり「よそさんやし、しゃあない」と目をつぶる。 
誤解されても相変わらず「そうどすか、よろしおしたなあ」と心のない感心をしてみせるだけ。 
この京都語にもけっこうな毒がある。 
京都人の「よろし」は「それで宜しい」ではなく「どうでも良ろしい」なのだ。 

京都の法則は、体感して覚えてゆくしか手段がない。 

*** 

京都には夜空に輝く星砂の如く不文律がある。 

嬉しいルール、腹が立つオキテ、悲しいサダメ、楽しいキマリ、すべては星のお告げのように目に見えず言語化もされず、現代の論理では割りきれない。 
明確や明瞭といった言葉からは程遠い超規的法則でがんじがらめの京都、そして京都人。 
哀愁も諦念も、どんな思いもアルカイックな笑顔に隠して京都人は暮らしてきた。 
そのほうが生きやすかったから、、、。 

京都人は外敵に対して剣を取った者の末路が身に染みている。 
京都人は土蜘蛛(注1 になりたくなかった。 
土蜘蛛にならずに済むための手段として京都人はよそさんの明文律に対する自分達の不文律を創りあげていった。 
これが京都の法則そのものである。 

つねに権力の座を浴する人間が求めるのは、利益であり結果である。 
京都人はアルカイックスマイルでなんでも「はいはい」と差し出し、そのかわり京都の法則に従って、利益では買えない格式とか形式、 
結果に至るまでの過程、歴史だけが醸し得る伝統、規則性のない制度、非論理的な因習等々といった何の役にも立たないメタフィジカルなものばかり大切に懐へしまう。 
ところが権力の座にいったんつくと彼らは、とたんに自分が持っていない格式、形式、過程、伝統、制度、因習=京風のスタイルが気になりはじめる。 
形而上ゆえに不文律ゆえに夜空の星を消せないように時の支配者にも奪いようがない。 
ジレンマが彼らを襲う。 

しかし彼らに何ができるだろう? 
利益や結果を見せびらかせて「どーだ、いいだろう!」と自慢しても京都人は今も昔も変わらず「そうどすか、よろしおしたな」と頷きながら、ちっとも羨ましがってはいない。 
腹が立っても罰しようもない。 
京都的なるものをゲットするには京都の法則に身を委ねるより道はないのだ。 
そして彼らもまた、やがて無意識に京都人化してゆく。 
ミイラとりをミイラにする京都の法則の罠だ。 

信長のホトトギス、秀吉のホトトギス、家康のホトトギス。 
この「鳴かぬホトトギス」とは京都人なのではないかと考える。 
害があるわけではないが表情無く澄まして小首を傾げるホトトギスは、鳴かない、感情を表さない、なんとなく癪に障る京都人のメタファーとしてぴったりである。 

現代でも「よそさん」の京都への態度、京都の法則に直面した時の態度はいずれにせよ、この三つに大別されるであろう。 
すなわち「無視」か「迎合」か「反撥」である。 

*** 

そんなわけで京都の法則は、おしなべて「よそさん対策」として育まれた。 
京都人が軋轢の歴史の中で人間としての尊厳、個人としての自我を護るためには京風のスタイルで生活を飾り、プライドで心を鎧ってゆくしか仕方がなかったのだともいえる。 

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以上が大筋です。 

洋泉社 「京都人だけが知っている」より

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