■■■ 妙心寺

玉鳳院】【東林院】【東海庵】【大心院】【雑華院】【海福院】【蟠桃院】【大雄院】【桂春院】【長慶院】【隣華院】【天球院】【金牛院】【寿聖院
智勝院】【麟祥院】【大通院】【春光院】【大竜院】【大法院】【霊雲院】【聖沢院】【天授院】【退蔵院】【竜泉庵】【衡梅院】【春浦院】【その他

方五百メートルにおよぶ広大な寺域に多数の伽藍を擁する本市屈指の禅宗寺院で、正法山と号し、妙心寺派の大本山。

当寺は花園天皇がこの地にあった離宮(萩原殿)を禅寺に改めたのが起こりである。
その創建年月については諸説あるが、およそ南北朝時代の康応(1342)頃とみられる。
開山は大徳寺の大灯国師妙超のすすめにより、その高弟開山慧玄が招かれてより、上皇もまた傍らに玉鳳院を建てて塔所とし、間もなく崩御された。

開山の関山慧玄は無相大師といわれるごとく、形式的な読経や規式にこだわらず、堂宇の荘厳にも心をとどめず、ひたすら人材の養成のみにつとめたから、創立当初は規模も小さく、ために大徳寺の末寺として位置づけられた。
加えて応永六年(1399)大内義弘が足利義満に反旗をひるがえしたとき、義弘がときの住持拙堂宗朴(六世)と親しく、また妙心寺の檀越でもあったため、寺は義満によってその寺領を没収され、寺名もまた竜雲寺と改称し、一時は廃絶の憂き目にあった。
しかし、永亨四年(1432)以降、寺領の一部が返還されはじめ、さらに日峰宗瞬が七世住持となるにおよんで、細川持之・勝元の支援を得て、伽藍の復興もようやく軌道に乗るに至った。
応仁の乱によって焼失したが、細川勝元・政元父子の援助によってふたたび復興され、大徳寺の支配を脱して独立寺院となるに至った。

その頃、九世住持雪江宗深の高弟に景川・悟渓・特芳・東陽の四傑が現れ、それぞれ竜泉・東海・霊雲・聖沢のいわゆる本四庵を山内にかまえ、この本四庵を中心として開山禅の浸透につとめたから、五山禅の衰退をよそに、妙心寺禅は臨済禅の主流の地位を占めるに至った。

とくに戦国武将の帰依をうけ、多くの敷地の寄進を受けた。
なかでも永世六年(1509)美濃国加納の城主斉藤利国の室利定尼は、御室仁和寺真乗院の領地を買収し、永大供養にと妙心寺に寄進した。
これが妙心寺が現在の如き広大な境内地を占めるに至った因である。

江戸時代には将軍や諸侯の帰依する者も多く、塔頭子院九十余宇のうち、武将の建立するもの実に三十八宇におよんだ。
今日につたわる三門や諸宇堂もあいついで建立され、白隠禅師ら幾多の名僧の輩出によって、寺雲は隆昌におもむいた。
明治以降も臨済九派の随一としてさかえ、今なお末寺は全国に三千五百カ寺の多きを有している。

妙心寺の伽藍は南から北に向かって整然として建ちならび、その中央には南から勅使門・三門・仏殿・法堂・寝堂・玄関・大方丈・小方丈・庫裡を置き、東側には浴室・鐘楼・経蔵を配置した典型的な禅宗伽藍で、その東西および北方一帯には多くの塔頭子院がある。

これらの建物は主に江戸初期の建立に関わるものが多いが、なかには桃山時代に属するものもあって、多くの庭園とともに建築様式としてみるべきものを有する。

[勅使門] 重文・桃山
切り妻造り、桧皮葺の四脚門で、慶長十五年(1610)総門として建立された。
蟇股には桃山時代の特色をあらわす雄大な彫刻がある。
なお門前の石橋(桃山)は、同じく慶長十五年対馬守藤原国久が総門橋として造った旨をしるした銅製擬宝珠がはめ込まれている。

[三門] 重文・桃山
山門とも記す。
階下左右に山廊を付した唐様建築で、慶長四年(1599)の建造である。
上下の釣り合いもよく、上の軒の反りが強い。
内部には中央須弥檀上に宝冠をつけた観音菩薩像をはじめ十六羅漢像等を安置し、鏡天井や柱等には極彩色の雲竜や天人を描いている。

[仏殿] 重文・江戸
天承十二年(1584)に建立し、文政十三年(1830)に改造したとはいえ、全体によく均整のとれた唐様建築である。
内部は床瓦敷きとし、正面須弥檀上に拈華の釈迦如来坐像と阿難・迦葉両尊者の像を安置する。

[法堂] 重文・江戸
管長が法要儀式を行うところで、仏像はなく、須弥檀を設けるだけである。
仏殿より一層大きく、また一段と禅僧様(唐様)に徹した造りとなっている。
明暦三年(1657)の建造で、内部の鏡天井には狩野探幽筆になる雄渾な「八方にらみの竜」の画が描かれている。

[銅鐘] 宝・白鳳
もと境内の鐘楼にあったが、近年法堂内に移された。
この鐘は『徒然草』に「黄鐘調の鐘」として知られる名鐘で、その音色が雅楽十二律黄鐘調に合うところから名付けられた。
高さ一・五○メートル、口径八十六センチ、青銅製。
内部に「戊戌四月十三日 壬寅収糟屋評造米連広国鋳鐘」の銘文があり、わが国最古の鐘であることが知られる。
口径に比べて丈が高く、また鐘をつく撞座の位置の高いのは、平安以前の古格をあらわしたものであろう。

因みにこの鐘は、もと嵯峨浄金剛院または法金剛院の遺物とつたえるが明らかでない。
おそらく嵯峨にあった貴族の別業や持仏堂などが、のちに改めた寺院のものであろう。

[浴室] 重文・江戸
明智光秀の叔父、密宗和尚が光秀の追善菩提のため、天正十五年(1587)に建立したもので、俗に「明智風呂」と称する。
内部は蒸風呂と洗い場とから成っている。

[経堂] 重文・江戸
寛文十三年(1673)大阪の淀屋辰五郎の寄進とつたえ、和洋と唐様が融合した建築で、外部構造の簡素さに比べ、内部は鏡天井、床瓦敷には傳大士像・帝釈天・持国天等の八天が、片手をのばして輪蔵を押している姿の彫刻がある。

[寝堂] 重文・江戸
寝堂は居室の意で、住持が公式に接見するところである。
今は法堂で儀式のあるとき、準備が出来るまで住持が待ち合わす場所として用いられている。

[大方丈] 重文・江戸
寝堂と同じく承応二年(1653)の建立である。

内部は六室に分かれ、中央前面を室中、奥を仏間とし、中央壇上には本尊阿弥陀三尊像(鎌倉)を安置する。
表側三室の襖絵(七十六面)は狩野探幽筆、裏側三室(五十二面)は狩野洞雲(益信)の筆になる。
「四季山水」や「花鳥山水」、「獅子」や「竹虎」を主とした水墨山水図が描かれている。

[小方丈] 重文・室町
応仁の乱後に再建された山内唯一の遺構。

内部の間取りが大方丈に比して複雑であり、かつ室中・仏間を備えないのは、住持常住の場として使用されたからである。

またここは玉鳳院の故地とつたえ、花園法皇が離宮麒麟閣に開山大師を迎えられたのに因んで、一に麒麟殿といい、南縁西の板戸にはこれに因んで麒麟が描かれている。
室内の襖絵「山水花鳥図」(三十六面)とともに狩野尚信門下の片山尚景の筆と伝える。

[庭園] 史名・江戸
三方を土塀で囲まれた狭い割地に、三尊石の石組を中心に数個の庭石と少数の樹木を配した禅院式枯山水に書院式の露地風を加味している。
大方丈の前庭が苔に覆われた砂庭に老松を配しているにすぎないのに対し、小方丈の庭園は枯山水と苔庭とが巧みに融合した雅致ある庭園である。

[庫裡] 重文・江戸
雄大な建物で、承応二年(1653)の建造である。
正面左寄りに唐破風に桟唐戸を設け、仏堂風としているのは、内部に韋駄天を祀っているからである。
内部は土間・板間・役寮室・食堂の四区に分かれ、土間には六個の大竈が並び、煙を屋外に吸い上げるための巨大な「吸口」を設ける。
寺の台所としては市中寺院の庫裡中、もっとも代表的なものとされている。

[什宝]
各塔頭の有するもの以外に妙心寺所蔵の什宝として、頂相・肖像・絵画・書跡等に亘って多数有する。
なかでも頂相では絹本著色「虚空・大応・大灯三国師像」三幅(重文・鎌倉)、肖像では「鏡御影」といわれる絹本著色「花園天皇像」一幅(重文・室町)がその代表作である。
絵画では海北友松筆の「琴棋書画図」・「花卉図」・「三酸及寒山拾得図」等の六曲屏風五双(重文・桃山)や狩野山楽筆「竜虎図」六曲屏風一双および「厳子陵・虎渓三笑図」二曲屏風風一双(いずれも重文・桃山)があり、ともに個性豊かな桃山時代の障壁画の傑作として名高い。

また書院では「大灯国師墨蹟」一幅(国宝・鎌倉)をはじめ、「関山慧玄墨蹟」一幅(重文・南北朝)や、花園・後奈良両天皇の多数の宸翰(いずれも重文)があり、さながら日本中世以降の美術史の展開のあとを物語るかのように、多彩を極めている。
但し仏像・仏画の面に於ては優品の少ないのは、他の禅宗寺院と同じである。

以上、妙心寺本坊の主なる伽藍。
現在三十八院、境外に十院の塔頭を擁している。
いずれも古文化財としてみるべきものが多く、とりわけ庭園は大徳寺とともに禅宗庭園の双璧をなしている。

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玉鳳院

花園法皇が妙心寺創建の時、傍らに一院を設けて禅宮とされたところとつたえ、これに因んで一般には玉鳳禅宮と称する。

明暦二年(1656)仙宮を模して改建された瀟洒な方丈で、内部には花園法皇法体の像を安置し、狩野益信・安信筆とつたえる山水、人物、花鳥の各種画題をもった障壁画によって満されている。

また正門にあたる向唐門(江戸)は寛文年間(1661-73)淀屋辰五郎の寄進とつたえ、鐘楼(桃山)にかかる銅鐘(桃山)は、慶長十五年(1610)の鋳造になる。

[開山堂] 重文・室町
「微笑庵」と号し、妙心寺の開山関山慧玄(無相大師)の像を安置する。
前の礼堂と後の祠堂との相の間からなり、礼堂のみが古く、建築細部に亘ってきめこまかな唐様の意匠が用いられている。
もと東福寺の古殿を天文初年に移建したものと伝える。

[四脚門] 重文・室町
平唐門をいい、軽妙の中に雄健な鎌倉の様式を有している。
もと後小松天皇から皇居の南門を賜り、勅使門としたが、のちに現在の位置に移したとつたえ、開山堂とともに応仁の兵火を免れた当山最古の建物である。

[庭園] 史名・桃山
玉鳳院と開山堂をむすぶ渡り廊下をへだてて、南と北に分かれる。
面積は約百三十坪。

南側の庭は細長い空き地を一面に白砂敷きとし、幅広い直線を生かした切石の敷石道を幾何学的に組み合わせ、五葉松と黒松を配置し、砂紋を図案化して空間を巧みに整美した清楚な庭園としている。

北側の庭は石組と飛石を巧みに配置し、開山入寂の地とつたえる「風水泉」と称する井泉を中心とした格調高い枯山水の庭となっている。

また開山堂の東側は、長方形の丘陵上に集団式に景石を配した幽邃な庭(江戸)で、インドの仏蹟鶏足山に因んで「鶏足嶺」と称する。

当庭は創建当初のものではなく、明暦二年(1656)の堂宇再建にあたって改作されたところがあり、庭園として調和を少し欠いているところがあるが、しかし石組や飛石手法には見るべきところがある。

なお開山堂前には玉鳳院型と称する石燈籠(江戸)があり、井泉の傍の手水鉢は基礎に蓮華を刻んだ「なつめ」型としているのは珍しい。

なおまた開山堂の東北隅には、武田信玄・勝頼・信勝・信豊の石塔や織田信長・信忠の石塔があり、北側には豊臣秀吉の長子棄丸(鶴松)の廟(祥雲院影堂)がある。

[宝蔵] 江戸
蓮池の中央にある。
歴代天皇の宸翰や綸旨および妙心寺一切の什宝が所蔵される。

[涅槃堂] 
納骨堂をいい、妙心寺歴代祖師碑および檀信徒の位牌を祀る。
本尊は高さ一メートル、赤銅製の釈迦涅槃像で、日本三涅槃像の一つといわれる。

東林院

亨禄四年(1531)細川氏綱が建立した三友院を、のちに山名豊国が直指和尚を中興開山として再興し、名も東林院と改め、山名家の菩提寺としたもので、寺宝に細川高国画像や山名豊国遺愛の武具等を有し、境内墓地には山名豊国の墓がある。

方丈の前庭には沙羅双樹の古木がある。
毎年六月中旬頃には白い椿のような美しい花を咲かせることで有名となり、近時花を賞する人が多い。

東海庵

文明十六年(1484)斎藤越前守利国の室利定尼が、悟渓宗順(妙心寺十一世)を請じて建立した境内塔頭の一で、妙心寺四派本庵の一である。
悟渓は尾張国の人で、雪江門下の傑僧といわれ、教えを東海道に弘通し、東海派を樹立した。

[庭園] 史名・江戸
書院の西庭と南庭からなっている。
西庭は南北に細長い書院式平庭とし、十個ばかりの石組に刈り込みを配して池をあらわし、蓬莱・方丈・瀛州の三神仙島に似せている。

南庭は書院と方丈とのあいだにあって、極めて小さな地割の上に白砂を一面に敷き、それに龍安寺の石庭を思わせる七個の小石を配置しただけの清淡な枯山水の庭園としている。
ともに文化十一年(1814)東睦和尚の作とつたえる。

なお書院の襖絵「水墨山水画」二十四面は、狩野派の画家片山尚景の筆とつたえ、他に寺宝として狩野元信筆「瀛州八景図」四幅(重文・室町)および絹本著色「十六羅漢像」十六幅(重文・元)等を有する。

大心院

明応元年(1492)細川政元が景堂和尚を開山として創建し、のちに細川幽斎が中興したとつたえる。

庭園は方丈東側の客殿に南面してつくられた枯山水の平庭で、低い築山に三尊石の石組を力強く建て、これを中心に西方に大小の庭石を巧みに組み流し、築山裾の苔の地模様と白砂敷きの平面とが美しいコントラストをみせている。
「阿吽の庭」と称し、造園家中根金作氏の作庭である。

雑華院

天正十一年(1583)千利休七哲の一人、牧村利貞が一宙和尚を開山として創建した。

方丈の前庭は東西に細長い長方形の地割に一面に緑苔を敷き、その中に十数個の石と刈り込みを巧みに組み合わせ、あたかも青海原にうかぶ島嶼を彷彿せしめるものがあり、江戸初期の典型的な禅院式枯山水の庭園である。
『都林泉名勝図会』によれば、日蓮宗妙蓮寺の僧玉淵の作庭という。
書院には土方稲嶺・曽我霞蕭両画家による淡彩水墨画「柳鴛図」等、二十四面からなる障壁画がある。

なお寺宝の二条昭実夫人像(織田信長女)および大野治長夫人像は、龍安寺の細川昭元夫人像とともに三名幅とされ、のちの美人画即ち浮世絵発生の先駆をなすものといわれる。

海福院

元和二年(1616)福島正則が夬室和尚を開山として創建した福島家の菩提寺で、福島正則およびその一族の墓があり、正則に関する遺物古文書等を蔵する。
また庭園は籬島軒秋里の作庭といわれ、本堂の移建後、改作されてはいるが、江戸末期の書院式露路、蹲踞の形式をとどめている

押入中には、茶儀の一切を仕組んだ変った茶室がある。
これはむかし禅僧が歌舞音曲・遊芸・茶花をふかくいましめられたにも拘わらず、なお且つひそかに茶をたしなんだ名残といわれる。

蟠桃院

慶長六年(1601)前田玄以が一宙を開山として創建した塔頭の一で、境内墓地には前田玄以一族の墓があり、また仙台伊達家累代の祠堂がある。
『都林泉名勝図会』によれば、当院玄関はもと聚楽第より移したものといわれ、庭園も石組に刈り込みを配した枯山水の名庭として紹介しているが、今は荒廃している。

大雄院

慶長八年(1603)石河市正光忠が父光元・祖父光重追福のため、慧南和尚を開山として建立した石河家の菩提寺である。

石河家は光忠以来、尾張藩の目付家老職をつとめた。
その一族は妙心寺内に多くの菩提寺を建立し、また妙心寺再興にあたっては少なからぬ寄与するところがあった。

現在の方丈は亨保十二年(1727)光忠の百年の遠忌にあたって再建されたもので、内部五室には柴田是真の筆になる障壁画七十一面によって飾られている。
是真は江戸の蒔絵師として名高いが、また四条派の画法を修得し、その成果を二十歳代であらわした。
本図は画面の一隅に「柴令哉写」の署名があり、彼が若き頃、京都遊学中に描いたことが知られる。

また書院には法橋洞玉筆「赤壁図」四面、曽我霞蕭筆「山水人物図」二面、土岐済美筆「山水図」四面の障壁画があり、動物としては海北友松筆「人物図」、長沢芦雪筆「寒山拾得図」等を蔵する。

桂春院

寺伝によれば、慶長三年(1598)小田信忠の次男、津田秀則によって創建されたが、秀則の没後無住となったため、寛永九年(1632)美濃国の豪族石河壱岐守貞政は亡父光政の五十年忌を営むために再興し、桂甫和尚を請じて開山とした。
このとき寺名を桂春院と改めたという。

現在の方丈は寛永再興時の建造とみられ、内部は仏間と室中の間を設け、本尊薬師如来像を安置する。
方丈各室の障壁画はかなり損傷しているが、すべて狩野山雪の筆と推定され、山雪遺作としては見逃せない。
なかでも金地著色「松に三日月図」四面は、もと仏壇背後の壁に貼り付けたものを襖に改装したもので、やや迫力に欠けるところがあるが、静かな装飾的な美しさをみせた佳作である。
とくに月を金属板で型どり、貼り付けているのが珍しい。

[庭園] 史名・江戸
書院前の三つからなっている。

方丈南庭(真如ノ庭)はやや急な勾配の斜面に「つつじ」が大刈込で蔽い、その下に「つばき」や「もみじ」等を植え、庭石を七五三風に組んだ簡素な庭で、地勢の変化を巧みに利用している。

方丈東庭(思惟ノ庭)は左右の築山に十六羅漢を配置した美しい苔庭とし、飛石伝いに書院の前につづいている。

書院前庭(侘ノ庭)は書院より既白庵茶室に通じる幽邃な露地庭からなり、梅軒門と猿戸によって内露地と外露地とに分れている。

既白庵茶室は書院内東北隅にある。
二十襖によって仕切られ、目立たぬようになっている。
三畳台目、草案風の茶席で、寛永八年(1631)近江長浜城より書院とともに移建したとつたえ、茶人藤村庸軒はこの席を愛好し、常に用いたという。

なお寺宝に「無明慧性墨蹟」一幅(重文・甫宋)をはじめ、多くの高僧の墨蹟および茶道具の名器を多数に所蔵されている。

長慶院

慶長五年(1600)豊臣秀吉の室寧子の姉にあたる長慶院が、東漸和尚を開山として創建したとつたえ、境内には長慶院の墓があり、寺宝にその画像一幅を有する。

隣華院

慶長四年(1599)賤ケ嶽七本槍の一人、脇坂安治が南化和尚を開山として建立した脇坂家の菩提寺、境内墓地には脇坂安治以下一族の墓がある。

方丈の襖絵紙本墨画「山水図」二十面(重文・桃山)は無款ではあるが、長谷川等伯晩年の作といわれ、構図も筆致も雄大な気宇がみられる。
また室中を挟んで左右の四室には、狩野永岳の筆になる金地極彩色の障壁画が納められている。
他に豊臣棄丸坐像(重文・桃山)を蔵する。

天球院

寛永八年(1631)岡山藩池田光政が伯母の天球院のため、江山和尚を開山に請じて建立した池田家の菩提寺である。

[本堂] 重文・江戸
玄関を付した江戸時代の禅宗方丈建築をしめす貴重な遺構の一である。

また方丈内部の襖絵五十六面、杉戸十六枚等、合わせて百五十二面(重文・桃山-江戸)は、狩野山楽・山雪父子の筆とつたえ、表側の花鳥走獣を主とした金碧画に対し、奥側の部屋は山水人物画に区切られている。
保存状態もよく、山楽系の江戸初期の代表的な作例として、ひろく世に知られる。

金牛院

慶安三年(1650)環陵が創建した塔頭の一で、もと谷口村(右京区谷口)にあったが、明治十一年山内万獣院に合併されたとつたえる。
寺名に因んで、近年境内の一隅に印度古代建築様式の聖牛祠堂が建立され、すこぶる異彩をはなっている。
寺説によれば、牛は人間とのかかわりが深く、人を導く宇宙神の使者といい、祈願をすれば福運は招来し、万民至福の道をかなえるといわれる。

この祠堂は南印度産の石材を用い、古代印度グプタ式窟院をまねたもので、堂内には青銅製の牛像を安置する。

寿聖院

慶長四年(1599)石田三成が父正継の菩提寺として伯蒲和尚を請じて創建した山内塔頭の一である。
はじめは隣接の天祥院や天球院をも含む広い地域に亘って境内を占めていたが、関が原の合戦後、寺運は急速に衰微した。
三成の嫡子重家は大坂城より逃れて当院に入寺し、第三世を継いだといわれ、江戸時代には徳川氏の圧迫をうけ、境内も当初の四分の一となり、往時の書院を以て本堂にあてられている。

なお寺宝に伯蒲和尚賛「石田正継」一幅および石田三成の書状等を有し、境内墓地には石田正継・正澄(三成の弟)等、三成一族の墓がある。

智勝院

慶長二年(1597)臼杵城主稲葉貞通が単伝和尚を開山として創建した稲葉家の菩提寺で、境内墓地には稲葉貞通および一族の墓があり、その傍らには本能寺の変に際し、秀光を諌止して容れられず、合戦後、捕えられて処刑された斎藤利三の墓がある。

麟祥院

寛永十年(1633)徳川家光が乳母春日局追福のため、碧翁和尚を開山として建立した春日局一族の菩提寺である。

方丈の襖絵「雲竜図」は「山水図」、「花鳥図」とともにいずれも海北友雪の筆とつたえ、その雄渾な筆さばきは江戸初期の傑作に数えられる。

友雪は父友松の亡き後、巷間の絵屋に身をおく境涯となったが、春日局がかつて本能寺の変後、友松夫妻からうけた恩義に報いるため、友雪を将軍家光に引き合わせ、世に出させたという。
されば当院建立にあたって、友雪が彩管をふるったのはおのずから納得させられる。

なお春日局像(江戸)を安置する霊屋(桃山)は、もと後水尾天皇の女御御所の庭にあった亭を移したといい、内部の戸襖には狩野貞信筆とつたえる「山水人物図」が描かれている。

大通院

はじめ美濃土岐氏の家臣一柳直末が南化和尚を開山とし、天正十四年(1586)に建立されたが、のち山内一豊の男、湘南和尚が中興するにいたって山内家の菩提寺となった。
境内墓地には、山内一豊夫妻の廟(桃山)がある。
『都林泉名勝図会』には当院の庭園を「当山第一にして二に双ぶものなし」と賞賛しているが、今はない。

春光院

もと豊臣秀吉の家臣でのちに松江城主となった堀尾吉晴が、十八歳で戦病死した一子金助の菩提を弔うため、天正十八年(1590)碧渾和尚を開山として建立した堀尾家の菩提寺である。
本堂には吉晴夫妻と金助の像を安置し、境内墓地には堀尾家一族の墓がある。

方丈には五室にわたって金地著色「芦雁図」を中心とする八十七面におよぶ京狩野派の障壁画があり、狩野永岳の筆とつたえる。

[庭園] 江戸
方丈の南にあって、南庭を「さざれ石の庭」、西庭を「常盤の庭」といい、伊勢両宮の森をつくり、中央に三尊式の枯滝を配し、五十鈴川の流れをかたどっている。
もと鶴亀式の枯山水庭園であったが、荒廃におよんでのちに改修したとつたえる。

なお寺宝に有する耶蘇教銅鐘(重文・桃山)は、世に「南蛮寺鐘」として名高い。

大竜院

慶長十一年(1606)和泉国岸和田城主中村忠一が亡父一氏の菩提を弔うため、鉄山和尚を開山に請うて建立した塔頭の一である。
はじめ妙心寺北門を出たところにあったが、明治の中頃、太嶺院と合併し、現在の地に移った。

太嶺院は天正三年(1575)管領斯波義近が建立した衡陽院を密宗和尚によって再興された寺である。

[庭園] 江戸・昭和
太嶺院時代に作庭された妙心寺山内唯一の地泉廻遊式庭園で、方丈の背後にある。
正面中央に大きく築山を設け、東北隅に枯滝組をつくり、東西にのびた細長い池には土橋を架け、多くの立石を配して頗る変化に富んでいる。
古来藤村庸軒の作として、『都林泉名勝図会』にも紹介された名庭であったが、惜しくも明治維新後、久しく荒廃するがままとなっていた。
幸い昭和五十三年(1978)造園家重森完途氏の手により、同名勝図会の挿絵に沿うて見事に復興された。

閑山石
妙心寺の開山、閑山慧玄は天龍寺の夢想国師を歴訪の都度、嵯峨野の小川のほとりで脚をすすぎ、身を清めた。
それを知った天龍寺の衆徒は小川の傍らにこの石を置き、閑山の便に供したという。
一に洗脚閑山石ともいう。

なお境内墓地には明治三詩人の一人に数えられる勤皇家小野湖山の墓がある。

大法院

寛永五年(1628)松平忠明が母(徳川亀姫)の菩提を弔うため、染南和尚を開山として創建したとつたえる。

方丈の襖絵「山水図」四面は、渡辺了慶の筆といわれ、他に片山尚景筆と思われる「山水図」八面を有する。
なお境内墓地には、勤皇志士佐久間象山の墓がある。

霊雲院

大永六年(1526)薬師寺備後守国長の室、霊雲院清範尼が大休和尚に帰依して創建した妙心寺四派本庵の一である。
大休和尚は識徳一世に高く、後奈良天皇はふかく帰依され、しばしば当院に行幸された。

方丈につづく「御幸の間」と称する書院(重文・室町)は、内部は四つ目式に仕切って中央に帳台構を備える。
その左の一畳は、隅に違い棚を造り、上の欄間によって別室のようになっているのが珍しい。
これは明障子の前に机を持ち出し、書見をするようにしたためである。
これがのちの書院造では、ここに付書院が設けられるようになるが、ここの書院は簡素実用を旨とする初期書院造りを示すものとして、貴重な遺構とされている。
なお内部の障壁画は、寺伝では狩野元信筆といわれるが、様式的には片山尚景の筆の公算がが大きい。

[庭園] 史名・室町
書院と方丈との間の狭小なところに自然の風趣を生かしてつくられた枯山水の小庭である。
東部に蓬莱式の石組を配し、そこから西方へと水の流れるさまをあらわしているが、惜しくも西部の石組は早く荒廃した。
作者は相国寺の画僧で、西芳寺の住持をつとめた子建(号是庵)といわれる。

寺宝に有する紙本水墨淡彩「山水花鳥図」四十九幅(重文・室町)は、狩野元信晩年の筆とつたえる。
元信は大休和尚に帰依し、久しく当院に止住していたといわれ、当院が俗に「元信寺」とも呼ばれるゆえんである。

なお門内左手に哲学者西田幾太郎博士の墓があり、碑面に博士の号「寸志」の二字を刻む。

聖沢院

大永三年(1523)美濃の土岐氏が天蔭和尚を開山として建立した塔頭の一で、妙心寺四派本庵の一である。
寺宝に絹本著色「摩利支天像」一幅(重文・高麗)を有する。

天授院

現在は専門道場となっている。

但し今の方丈は寛永二年(1625)の建造であるが、桃山時代風の書院造になり、内部には同時代の狩野派系画家の筆に成る山水・人物・花鳥を主とした障壁画三十二面がある。

寺宝に藤原宣房筆の「法華譬喩品」一巻(重文・鎌倉)および絹本著色「授翁宗弼頂相」一幅(室町)等を有する。

退蔵院

越前の豪族波多野出雲守重通が無因和尚(妙心寺三世)を請じ、開山として建立したとつたえる。
もと千本松原にあったが、応永十一年(1404)妙心寺に移された塔頭で一で、天授院に次いで古い。

[方丈] 重文・桃山
前後唐破風造りの玄関を付した桃山時代の方丈建築で、内部には渡辺了慶筆の障壁画二十八面がある。

[庭園] 史名・室町
約八十坪の狭い地割に設けられた廻遊式に観賞式を加えた石組本位の枯山水の庭である。
背後の山畔に蓬莱石を中心とする巨石を水墨山水画的に組み、中島としての亀島や、そこに架けられた石橋にも、枯山水でありながら、池庭的に表現されている。
作庭者は古来狩野元信といわれ、『都林泉名勝図会』にも紹介されて早くから名園の一に数えられている。

余香苑 -昭和-
約八百坪に亘る長方形の地割に造られた陰陽の枯山水庭園である。
中央に三尊をあらわす石組を配し、上部より岩を噛む流れをつくり、下部に広い池を設ける。
護岸の石組も格調高く、室町・桃山両時代の作庭手法を自然に用いて優雅な庭園としている。

什宝として「瓢鯰図」一幅(国宝・室町)をはじめ「花園天皇宸翰御消息」一幅(重文・南北朝)および「後奈良天皇御消息」一幅(重文・一幅)等を有する。

竜泉庵

文明十三年(1481)細川政元が景川和尚を開山として建立した塔頭の一で、妙心寺四派本庵の一である。

寺宝の長谷川等伯筆の紙本墨画「猿猴図」二幅(重文・桃山)はひょうきんな猿を活写した等伯画中の代表作といわれる。
自伝によれば、本画はもと加賀国小松藩主前田利長の所有であったが、ある夜、利長が睡眠中、画中の猿が腕をのばしてその髪をつかもうとしたので、利長は猿の腕を斬ったという。
それより「腕切りの猿」と称するに至ったとつたえる。

衡梅院

文明十二年(1480)細川政元の下護によって建立された妙心寺第六世雪江宗深禅師の塔所である。
応仁の乱に罹災し、慶長四年(1499)に至って再建された。

[方丈] 重文・桃山
大阪夏の陣に豊臣方十勇士の一人に数えられた真野蔵人一綱の寄進とつたえる。

方丈内部の障壁画は大阪画壇の大岡春卜晩年の作品で、いずれも墨画を基調とした充実した作品をみせている。
なお境内は投老軒・錦嶺軒の両書院を有し、また庭園は楓樹を配した苔庭となっている。

春浦院

南総門を出て下立売通を東へ百メートル余、花園坤南町にある。
空山和尚が永井佐渡守尚主の下護により、寛永五年(1628)に建立した酔月庵を前身とする境外塔頭の一である。

方丈には江戸中期の特異な漢画家山口雪渓の筆になる障壁画四十三面があり、また寺宝の紙本著色「福富草紙」二巻(重文・室町)は、二人の男の放屁にまつわる珍話を題材とした絵巻物で、伊予守隆成の筆といわれ、室町時代絵画の代表作品とされている。

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その他 近辺

牛若丸首途乃井址

妙心寺南門より東へ二百五十メートル、下立売通北側(花園坤南町)とつたえ、同所民家の門前には「牛若丸首途乃井址」としるした石碑を建てて表示している。

日碑によれば、ここは金売り吉次の屋敷址といわれ、牛若丸が吉次にともなわれて奥州へ旅立つとき、この井水を汲んで別れを惜しんだという。
井戸は門内左隅にあったが、のちに水は涸れ、今は埋め立てて松の木を植えている。

『雍州府志』九巻には、ここは葛野郡木辻村と称し、むかしは官家木辻の領地であり、木辻の邸宅をあやまって吉次宅と称したものであろうとしるしている。
あるいはここが平安京木辻大路が南北に通じ、その道筋にあたるところから、地名の木辻に吉次を付会したものと思われる。
(吉次の屋敷は首途神社もそうだと聞いているのですが、、、。ま、金持ちの屋敷は一箇所とは限らないからね)

因みに木辻村は妙心寺の門前村として明治初年までつづいた。


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