■■■ 松尾大社

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松尾山の麓に鎮座する旧官幣大社で、大山咋神と市杵島姫命の二座を祀る本市に於ける最古の神社の一である。

大山咋神は葛野地方を開拓した人々の祖神と仰がれ、乙訓郡では火雷神とあがめられ、近江国では比叡神と称えられ、その苗裔神はすこぶる多い。
とくに賀茂別雷神(上賀茂神社祭神)の父神として、賀茂神社とは親縁関係にある。

市杵島姫命は宗像三神の一として、古来海上交通守護の神と仰がれ、安芸の厳島神社の祭神であるが、ここでは桂川の渡し場の守護神として祀られたものであろう。
もっとも市杵島姫命は嵐山櫟谷神社にも奉祀されているので、松尾社二座のうちの一座とは、賀茂別雷神でああろうともいわれる。

もとの鎮座地は。背後の松尾分土山大杉谷(日崎ノ峠)にあって、磐座ともいうべき巨大な岩石がある。
従って当社ははじめ山を神体としていたものとみられ、それが文武天皇の大宝元年(701)秦忌寸都里が山麓に社殿を造営し、その女の知満留女を斎女として奉仕させたのが神社の起こりである。
それより世々秦氏の奉仕するところとなったが、これはその頃、大山咋神の苗裔がすでに衰微してしまっていたからであろう。

桓武天皇は長岡遷都にあたって勅旨を派遣され、また平安遷都以後は王城鎮護の神として「賀茂の厳神」、「松尾の猛霊」と東西並び称せられた。
延喜の制には名神大社に列せられ、平安中期の二十二社の制には第四に班せられ、中世を通じて上七社の一に数えられる有数の大社となった。
一条天皇の御世、はじめて当社へ行幸された。
それより歴代の行幸・行啓すこぶる多く、中世以降は造酒の神として醸造家の崇敬を得た。
その氏子区域は本市の三分の一におよぶ広範囲を占め、今なお上下の崇敬を得ている。
昭和二十五年(1950)松尾神社を松尾大社と改めた。

【本殿】 (重文・室町)

普通の流造りとちがった切妻造りに似た建築で、世に「松尾造り」といわれる。
室町末期の天文十一年(1542)の建造で、正面向拝の斗組・蟇股・手挾などに優美な彫刻意匠がみられる。

なお宝物の男神坐像二体、女神坐像一体(ともに重文・平安)は、わが国神像彫刻の遺品中、最古のものといわれる。
他に神祇関係の古文書約千五百点を蔵する。

【亀の水】

本殿の東北隅にあって、大杉谷の崕下から湧出する清泉をいう。
この水を醸造のときに加えれば、酒は腐敗しないといわれ、古来醸造家が汲んで持ちかえるならわしがあり、醸造神としての当社の信仰は、この井泉によるものである。

因みに亀の井とは、松尾神の神使が亀であることから名付けられたものであろう。
しかし、亀の井は「神の井」にも通じるので、この水が松尾神社発祥の根源ともみられる。

【庭園】

「松風苑」といい、三庭からなっている。
一は松尾山中の神蹟に因んで「磐座の庭」といい、笹原の斜面に男女二神を表現した巨岩二個と、それを取りまく岩を以って随従する諸神の姿としている。
二は当社がもっとも栄えた平安時代をしのんで「曲水の庭」といい、青石を点在した丘麓に御手洗川の清水が七曲りして流れているさまは、曲水の宴をしのばせる。
三は池を中心とした廻遊式の庭園で、岩間から噴出する水がせせらぎの音を立てて池に注ぐところに多く島を点在させ、あたかも仙境に遊ぶ思いをさせる。

この三庭は上古・平安・鎌倉の各時代の庭園様式の特長をとらえて作庭されたもので、昭和五十年(1975)重森三玲・完途父子の作になる。

[松尾祭]

昔は四月下卯日を神幸祭とし、五月上酉日を還幸祭としたが、今は四月二十日以後の第一日曜日を神幸祭とし、それより二十一日目の日曜日を還幸祭としている。

神幸祭(出御祭)には松尾七社(大宮社・四大神社・衣手社・三宮社・宗像社・櫟谷社・月読社)の神輿(但し月読社は唐櫃)が拝殿廻しの後、順次社頭を出発し、松尾・桂の里を経て、桂大橋上流約三百メートルの桂川右岸から舟で渡り、次いで四基の神輿と唐櫃は西七条御旅所に、二基の神輿は川勝寺・郡の末社に至り、そこに駐輦する。

この祭がとくに有名なのは、六基の神輿が桂川を渡御するところにあり、これを見んものと河原は見物人で充満する。
この祭りを一に松尾葵祭と称するのは、神輿をはじめ供奉の人々がすべて葵と桂で飾るからである。
またこの祭りを俗に「うかうかとおい出」、「とっとっとお還り」ともいわれているのは、卯ノ日に神幸し、酉ノ日に還幸されるによるとつたえる。

[御田植祭]

七月第三日曜日の午前十時から行われる。
当日は古例により、下津林・松尾・嵐山の各地区より各々十歳前後の植女が奉仕し、稲苗移植の式が行われる。

植女は古代の服装をし、壮夫の肩に乗って拝殿を三周し、稲苗を散布する。
この苗を田畑に植えると虫害にかからぬという信仰があって、衆人は争ってこれを得ようとする。

[八朔祭]

風雨安穏・五穀豊穣を祈る祭礼で、本来は八月一日に行われるべきであるが、現在は九月第一日曜日に改められた。
当日は境内の広場にて奉納相撲や六斎念仏が行われる。
この相撲は、鎌倉時代から連綿としてつづけられてきた奉納神事の一とつたえる。



 
 

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