■■■ 魔界封じ 京都 ■■■
 

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古来、都を定めるには中国の古い占いの一種である”風水説”をもちいた。

北(玄武)に山地 洛北の峰々
東(青龍)に河川 鴨川
南(朱雀)に湖沼 巨椋池(干拓で現在はない)
西(白虎)に大道 山陰・九州へつながる道
がよいとされ、四神がすべて揃った場所をとくに、”四神相応”と呼んだ。(この図は、左京区岡崎の”みやこめっせ”入口東側に有ります)

京都が千年も都であり続けるには、理想的な立地条件だけではなかった。
桓武天皇のブレーンである僧侶、学者の存在を忘れてはいけない。
「魔界封じ」とは、「妖魔」「魔物」「魑魅魍魎」「鬼」「疫神」といった、異界のものの進入を食い止める呪術システムのことである。
このシステムは、霊的、呪術的に都をガードすることにより、悪疫、天災、戦乱が降りかかるのを防ぐ目的でもうけられた。

 東西南北の巨石

「磐座」とは、山の山頂に巨大な石を積み上げて造られたもので、古代人が祭祀をおこなう祭壇としてもうけたものである。
古い由緒をとどめる神社には、社の裏山に、磐座のあるところが多い。

松ヶ崎の岩上神社には社殿はなく、一個の巨大な自然石が神体として祀られている。
船岡山にもある。

桓武天皇は、それら京都周辺に散在する磐座のうち、東西南北四つの磐座を掘り起こし、巨石の下に「一切経」(大蔵経)を埋めさせたという。
天皇が築いた四岩倉は、

北岩倉 山住神社(旧岩座神社)
西岩倉 金蔵寺
東岩倉 東岩倉山
南岩倉 明王院不動寺(北向不動)

 大将軍神社

仏教のみならず、神道の力で、平安京を守ろうとした。
桓武天皇は京都の東西南北に、「素戔鳴尊」を降臨させた。
そして素戔鳴尊に「大将軍」という勇ましい名前を与えた。
この「大将軍」とは、中国の呪術のひとつ「陰陽道」でいうところの、星神を意味している。
つまり、日本古来の呪術「神道」の神と、大陸伝来の呪術「陰陽道」の神を合体させた強力無比な存在、それがすなわち”大将軍”である。
桓武天皇が都を守るために置いた”大将軍神社”は次ぎの四ヶ所といわれている。

大将軍神社 (東) 東山長光町
大将軍八神社 (西) 上京区一条御前西入る 大将軍八神社とは素戔鳴尊の息子の八神をあわせて祀っていることを示している
大将軍神社 (南) 伏見区深草鳥居崎町
大将軍神社 (北) 上京区西賀茂角社町

これらの”大将軍社”はいずれも「方除け」の神様として今でも信仰されている。

 一本のライン

桓武天皇が、平安京に遷都したのが延暦十三年。
南北三十八町、東西三十ニ町の南北にやや長い碁盤目状の都城は、唐の長安(現在の西安)を真似て造られた。

方位に注目すれば、もっとも危険なのは艮(北東)の方角、すなわち鬼門である。
天皇は鬼門を固めた。

まず、洛北の狸谷に「狸谷不動院」 → 出雲路に「幸神社」 → 上賀茂に「上賀茂神社」「下鴨神社」の社殿を造営し直した。
さらに延長して行くと、「比叡山延暦寺」につきあたる。比叡山は最澄が築いた平安京最大の鬼門を守護する霊場である。
「上御霊神社」もやはり鬼門のライン上にある。

これでも安心しない天皇は、裏鬼門すなわち坤(南西)にも手をつけた。
天皇の皇后乙牟漏の発願によって造営された「大原野神社」。
そして「城南宮」

こうなるとこだわらずにいられないのが人情。

巽(南東)を守るために
宝剣を埋め、その上に「剣神社」。

乾(北西)の方向は
平安遷都以前からあった「愛宕神社」を整備し、国家鎮護の意味を込めて”愛宕護山大権現”と名付けた。

現在はあとかたもないが、平安京の正門である「羅城門」の二階楼上に”兜跋毘沙門天像”を置いて魔物の進入を見張り、その両脇を「東寺」「西寺」という二大寺院で固めて南方の守りとした。
さらに、北の守りとして「貴船神社」「鞍馬寺」を造営する。
鞍馬寺にある兜跋毘沙門天像は、南を向いて左手をかざすという奇妙なポーズをとっているが、これははるか平安京を望み、魔物の進入を監視しているのである。
「東向観音寺」は内裏の方を向いて建ち、桓武天皇の勅願所でもあった。
洛西の「松尾大社」は”賀茂の厳神” ”松尾の猛霊”と東西並び称しておそれられた、京都でもっとも歴史が古いとされる産土神を、天皇は王城鎮護の神として祀った。
「将軍塚」も魔界封じのひとつである。
「将軍塚」、天下国家に事変があるときは、鳴動してそれを知らせるといわれる。

桓武天皇はなぜ、平安京を完璧に守らなければならなかったのか。
そこには、血塗られた政治の裏面史が隠されている。

 桓武帝の狙い

古今東西、どこの国の王家を見ても、皇位継承をめぐって凄惨な争いが繰り広げられてきた。

桓武天皇が、父光仁天皇の跡を継いで皇位についたときも、じつは一族内部で血みどろの争いがあった。
争った相手は自分の弟、他戸親王、母がちがうので、ただしくは異母弟にあたる。
母親の身分の差だけで、年下の弟に皇太子の座を譲らねばならなかった桓武の胸のうちには、鬱々たる思いがあった。

そんな桓武に声をかけたのが、朝廷内の重臣として力を持っていた藤原百川であった。
百川の提案に乗った桓武は望みどおりに皇太子になった。

この間の出来事は、『水鏡』などを読んで下さい。

桓武天皇がなぜ、そこまでして平安京を厳重に守らねばならなかったのか。
天皇の血ぬられた半生と、同族に対する罪の意識、怨霊への恐怖を考えるとき、はじめてその謎が解き明かされる。

桓武天皇が怨霊の恐怖から自らの身を守るため、呪的バリアをはりめぐらした”超霊場都市”。
それが平安京の正体である。

 最澄への秘密指令

桓武天皇は、万人にわかる形で”魔界封じ”を造ったが、それはあくまで表の封じに過ぎなかった。

宗教面からのバックアップは、比叡山延暦寺を開いた高僧、「伝教大師、最澄」
軍事面からのバックアップは、蝦夷征伐を成し遂げた武人、「蝦夷大将軍、坂上田村麻呂」
この二人の活躍なくして、桓武政権の安定はなかったと言っても過言ではない。

秘密指令 − 密勅である。

「比叡山四大魔所」

《 狩籠の丘 かりごめのおか 》 西塔に位置している。
ピラミッド型をした三つの尖り石で、高さはそれぞれ一メートル。
方位磁石を当ててみると、ひとつは真南。ひとつは真北、ひとつは真東にあり、一辺九メートルの正三角形を描いている。
おそらく、その三つの尖り石が形作る正三角形の中央に魑魅魍魎は封じ込められているにちがいない。

《 天梯権現祠 ていだいごんげんぼこら 》 東塔
亀堂と呼ばれる御堂の裏山にある。
天狗が住んでいるといわれる。
天狗は仏道修業をさまたげる魔物、密教僧の敵とされていた。

《 元三大師御廟 がんさんたいしみみょう 別名:降魔大師 》 横川の元三大師堂の裏手  三千院でも角大師(元三大師)に会えます 
比叡山の中興の祖、良源上人のことである。
元三大師の名は、良源が正月三日に薨去したことからつけられた俗称である。
墓所のまわりは、六メートル四方の玉垣で囲われていて、なかにキノコ型をした墓石が立てられている。
元三大師は死にのぞんで、自分の墓所は決して掃除をするなと遺言したとされる。

《 慈忍和尚廟 じにんかしょうびょう 》 飯室谷   比叡山では和尚(おしょう)ではなく、和尚(かしょう)と呼びます 
犯すべからざる魔所として叡山の僧侶たちに一種畏敬の念をもって眺められている。

 比叡山最北の地に墓を立てた高僧の狙い

最澄が山中の庵で孤独な修行を積んでいたとき峰の反対側の京都盆地では、国を挙げてのたいへんな事業がはじまろうとしていた。
平安京の造営である。
造営長官は藤原小黒麻呂。
小黒麻呂は、都の艮(東北)、すなわち鬼門の峰に都を守るべく、一大霊場を築くことを桓武天皇に進言する。
桓武天皇はその人選に頭を悩ませた。
というのも、政治的影響力を持つ奈良の大寺院が嫌いであった。
そのため、平安京に遷都したのちも、それらの大寺院を新しい都に移転させるつもりはなかった。
できるなら、今までにない新しい仏教を身につけた者に、新都の宗教的な守護を託したいという気持ちが桓武のなかにはあった。
桓武天皇は最澄と会見し、大抜擢した。
比叡山に一乗止観院(のちの延暦寺根本中堂)という道場を建ててやり、さらに唐の国へ官費で留学させ、密教の教学を学ばせた。

元三大師、別名”降魔大師”という。
降魔とは、「魔を降す」の意味がある。
元三大師は魔物と戦うとき、降魔の姿に変身した。
御廟は横川の鬼門にあたっている。
言ってみれば、平安京の鬼門中の鬼門である。
鬼に身を変えて山を守る高僧である。

慈忍は仏教徒としては破壊に等しい”魔道”にみずから身を落としてしまった。
比叡山の東塔に、「総持坊」という古い坊舎がある。
その玄関の軒を見上げると、一枚の板絵があり、奇怪な”一つ目小僧”が描かれている。
比叡山ではそれを、「一眼一足」と呼んでいる。
じつは、魔道に身を落した慈忍和尚の姿である。
慈忍は死して比叡山を守るため、一つ目の妖怪に姿を変え、夜な夜な比叡の山中を徘徊しているのだという。

玉体杉と呼ばれる神木がある。
”玉体”とは、すなわち”天皇”のことである。
千日回峰行者は「玉体杉」のところまで来ると、手にした提灯を道端に置き、かつて天皇のいた京都御所の方向に向って加持祈祷をする。

 征夷大将軍坂上田村麻呂

坂上田村麻呂で連想されるのは”古代最強の武人” ”陸奥の蝦夷を平らげた英雄”など、さまざまな称賛の言葉をもって武勇はたたえられるだろう。
武人が呪術封じに関わった理由は、「軍事」と「呪術」が、古代においては、つねに表裏一体の関係にあった。

田村麻呂が遠征した陸奥は、平安京の北東、すなわち鬼門である。
いまでも「東北地方」と呼ぶのはそのためである。

岩手県平泉の近くにある達谷窟は蝦夷最強の首長であった悪路王が最後まで立てこもったところだが、田村麻呂はそこに、「毘沙門堂」を築いている。
また、蝦夷と朝廷軍の激戦場となった胆沢城の近くには、「胆沢八幡宮」を創建した。
このほか、田村麻呂が建てたみちのくの寺社はたいへん多く、
斗蔵観音(宮城県角田市)
白山社(岩手県江刺市)
悪玉観音(宮城県仙台市)
松島五大堂(宮城県松島町)
矢作観音(岩手県睦前高田市)
猪川観音(岩手県大船渡市)
大森観音(岩手県江刺市)
など、三十ヶ所以上。

陸奥遠征に関する限り、武人としてより鎮魂師として大成功をおさめた。
田村麻呂が築いた最大の魔界封じは、津軽平野である。

蝦夷の聖地ともいうべき津軽平野に七つの神社を造った。
しかも、北斗七星の形に配列したと、『新撰陸奥国誌』にはある。
端から端まで、延々五十キロ。
配列された七つの神社は、いずれも現存している。
乳井神社(乳井毘沙門天)
鹿島神社(村市毘沙門天)
岩木山神社
熊野奥照神社(高岡熊野宮)
猿賀神社
浪岡八幡宮
大星神社(横内妙見堂)
以上七つの聖地に宝剣を埋め、さらにその上に神社を建てた。
桓武天皇が京の巽(南東)に宝剣を埋め、その上に「剣神社」を築いて呪術封じをしたのとよく似ている。
昭和十七年、熊野奥照神社の本殿を移築したさいに、漆の箱が出土し、中には幾重にも布で巻かれた一本の蕨手刀が入っていた。

北斗七星封じを裏付ける証拠品が鞍馬寺にある。
「七社図」である。

陸奥に壮大な呪術を完成させた田村麻呂は、出陣から半年後、都に凱旋した。
まもなく清水寺を造営している。

現東山区粟田口に別業を営み、そこで没した。
田村麻呂の墓は、宇治郡栗栖村に墓地を賜ったが、山科区西野山、或いは山科・椥辻橋の南西にあるとする説がある。
そこに埋められた遺骸は、甲冑に身をかため、太刀をはき、弓矢を持ち、平安京の鬼門の方向をにらんで仁王立ちしていると伝説はいう。

 魔物出現!

《 宴の松原 》
内裏

仁和三年(887)八月十七日、夜十時過ぎ
宮中の若い女房たちが三人連れ立って内裏を歩いていると、松林の奥から水もしたたるような美男が現れて、一人の女性を松原の中に引き入れ談笑した。
朋輩がなかなか戻ってこないので不審に思い、暗い松林の中に入ってみると・・・・・。
バラバラになった女の死体が転がっていた。
転がっていたのは血まみれの手と足のみで、そこには女の首も胴体も残されていなかった。

『今昔物語』 『古今著聞集』などにみえる「宴の松原の鬼」より

《 僧都殿 》 
二条大路南、東洞院大路東

たそがれどきになると、ひらひらと舞う赤い衣の話し。

のちに「二条内裏」と呼ばれて天皇の住いとなるが、なぜか原因不明の火事ばかりが起こる。

《 鬼殿 》
貴族・藤原朝成の屋敷

この男、けたはずれの大食漢で超肥満体。
しかも、性狷介、わがままでうぬぼれが強い。

あるとき、大納言の地位(今日の国務大臣クラス)を熱望した。
ときの朝廷の最高実力者、摂政藤原伊尹は、朝成の要請に対しすげなくこれを拒否。
朝成は憤りのあまり食事も喉を通らず、そのまま憤死した。
死ぬ間際、「伊尹の一族には、七代まで祟ってやる」と言い残して息絶えた。
藤原伊尹はまもなく頓死し、彼の一族も変死者が続出したという。

この「鬼殿」の跡には、戦国時代になって織田信長の息子信雄が屋敷を建て、それを加藤清正が受け継いだ。
さらに江戸時代、紀州徳川家の藩邸になった。

《 羅刹谷 》
泉涌寺と東福寺間の渓谷

”羅刹”とは人の肉を食う凶暴な悪鬼のこと。
比叡山の高僧、源信(恵心僧都)と美女の話し。

《 猫の曲がり 》
東寺の東南角

現在はないが、東寺を囲う白塀の東南角にかつて”白虎”の像が置かれていた。
その”白虎”が、猫のように見えたので、そう呼ぶようになったとか。
四神相応で考えると、”白虎”は違うような気もしますが、何か特別な理由でもあるのでしょうか。
花嫁を乗せた婚礼のハイヤーは、この「猫の曲がり」の前の九条大路を絶対に通らない。

《 羅城門 》
朱雀大路にある平安京の南の正門

その二階にの楼上には鬼が住むといわれた。

《 一条戻橋 》
一条堀川

渡辺綱がこの橋のたもとで鬼の腕を斬った話しは有名。
豊臣秀吉が千利休の木像をみせしめのためにさらしたのも、この橋のたもとである。
この橋も花嫁は絶対に通らない。
戦時中は、出征の兵士は渡って戦場に向かったという。

《 河原院 》
源融屋敷

彼の死霊がここに留まり、さまざまな災いをなした。

《 双ケ丘 》
右京区

”無傷”とよばれる正体不明の妖怪が住んでいた。

吉田兼好が庵をかまえ、『徒然草』を書いた。

《 深泥ケ池 》
地下鉄・北山駅を北へ

竜神が住むと恐れられたところ。

名前のとおり泥が深く堆積した底無し沼。

《 神楽岡 》
吉田山

昔は葬送の地で、この地を通ると十七、八くらいの美しい姫君があらわれ、男をたぶらかした。

《 毛朱一竹塚 》
清水寺の近く

平清盛が天皇を悩ます妖怪を狩り、塚を作って封じ込めたところ。
天皇が病気になると、この塚に勅使を派遣して病気平癒を願った。
塚には源三位頼政が退治した”鵺”も埋められている。

《 膏薬図子(辻子) 》
四条新町通西入郭巨山町の中ほどから南に下がり、綾小路に抜ける小路

京の朝廷に反旗をひるがえした平将門が首をさらされた場所。
後世、さまざまな祟りがつづいたので、「神田神宮」という小祠を建てて将門の霊をなぐさめた。
祠は今も、民家の軒先にある。

 安倍晴明と源頼光

鬼狩り師たちのなかでも、平安京最大にして最強の男、「大鬼王」安倍晴明。
晴明は天文博士、大膳太夫、播磨の守などを歴任した平安時代中期の陰陽師である。
陰陽師、それは大陸から伝来した最新の呪術である”陰陽道”を用い、人の運勢や吉凶、天変地異を占う呪術者のことで、その摩訶不思議な能力を駆使して、鬼狩りをおこなうようになっていった。
その優れた呪力を示すいくつかの逸話が残されている。
それらの中に、”式神”というものが登場する。
”式神”とは、鬼を捕まえてきて飼いならしたもので、陰陽師はこの”式神”を使ってさまざまな呪術をおこなった。
魔を制するには、魔をもってあたるのがもっとも効果的である。

晴明の屋敷はあったのは「一条戻橋」のたもとであった。
この橋は、鬼の出没する魔所として、平安京の危険地帯のひとつに数え上げられるところであった。
晴明は、その橋の下に鬼の化身である式神を隠しておき、必要なときに呼び出して、自由自在に操ったといわれている。

伝承では、母親は狐であったとか。

一条戻橋の対岸には源頼光という武将が住んでいた。
頼光はれっきとした清和源氏の血を引く武人で、父は鎮守府将軍源満仲、弟の頼信は平忠常の乱を平定したことで名高い。

ところが頼光は武将としてよりも、妖怪退治の専門家としての方が名が知れている。
もっとも有名なのは、大江山の酒天童子を退治した話しである。

丹波国大江山に住んでいた酒天童子は酒好きで、非常に好色であった。
夜な夜な都に出ては美女をかっさらい、大江山に連れ帰って自分の性の奴隷としていた。

勅命により、配下の四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)をひきいて大江山に乗り込んだ頼光は、捕らえられていた美女たちの強力で童子に酒を飲ませ、泥酔したところを襲い、みごとに首を打ち落とした。

土蜘蛛退治の武勇伝もある。
土蜘蛛とは、古代大和朝廷に制圧された先住民族のことで、頼光の時代にはすでに姿をけしていたが、その怨霊が巨大な蜘蛛の妖怪と化し、平安京の人々に祟りをなしていた。
頼光は、土蜘蛛の棲み家が洛北の古塚にあることを突き止めると、激闘のすえ、源家累代の名刀膝丸を振るってこれを一刀両断した。

土蜘蛛がひそんでいたとされる古塚が、二ヶ所ある。
千本鞍馬口西入る。(現在は、上品蓮台寺の墓所に移された)
一条七本松西入る。(明治十三年取り壊し)
北野天満宮の参道脇にある東向観音寺には「土蜘蛛灯籠」と呼ばれるものがある。

この他にも、『古今著門集』には話しが載っている。

 "日本の白楽天" 小野篁

昼間は朝廷の官吏として働きながら、夜になるとこっそりと冥界へ下がり、「閻魔庁第三の冥官」として閻魔大王に仕えたといわれている。

篁は小野岑守の長子として、延暦二十一年(802)に生まれた。
身長六尺ニ寸(188センチ)の篁は、乗馬、弓術、剣術など、武芸百般に秀でていた。

性格は不羈奔放。
漢詩の分野では”日本の白楽天”と呼ばれたほどの天才詩人。
法律にもくわしく、政界の不正を暴いて告発する弾正台の次官や、役人の不正をただす勘解由使(かげゆし)の長官をつとめ上げた。
『群書類従』にある「小野系図」に、篁は「閻魔第三の冥官」とある。

篁が冥界へ下りるときに使ったという井戸が、珍皇寺(東山松原通西入北側)の裏庭にある。
井戸の脇にある高野槙の枝につかまり、夜ごと井戸の底へ下り、冥界へ入っていった。
冥界への入口が珍皇寺にあった理由は、この地が平安時代の葬送地であった鳥辺野の入り口に位置しているからである。
珍皇寺を少し西へ行くと西福寺(六波羅蜜寺の北)がある。
この辻を、”六道の辻”と呼ぶのは、ここが”この世”と”あの世”を分つ境界であったことを示している。
珍皇寺の境内には、”篁堂”と呼ばれる御堂があり、その中には閻魔大王と篁の像が並んで安置されている。

入口があるなら、出口は何処か?
嵯峨野の福生寺。
しかし、とっくの昔に廃寺となり井戸も潰されている。

この寺の東には、古来”化野”と呼ばれた寂しい野原がひろがっていた。
『徒然草』のなかで
  化野の露消ゆるときなく、鳥辺山の煙り立ち去らで・・・・・
と書いた、鳥辺野とならぶ二大葬送地である。

東の珍皇寺が”死の六道”と呼ばれたのに対し、西の福生寺が”生の六道”と呼ばれた。

引接寺(いんじょうじ)には篁が作らせたという巨大な閻魔大王像と篁像が据えられている。
*閻魔大王像は、国立博物館と伏見の欣浄寺にもあります*
戦国時代に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスはその著『日本史』の中で、「身の毛もよだつようだった」と書き残している。
*千本寺之内通上る西側にあります。通称”千本閻魔堂”と呼び、小さなお寺です*

矢田寺(新京極三条上る)の住職満慶も篁と昵懇の間柄だった。
ある日、篁が上人のもとを訪れ、閻魔大王が菩薩戒を受けたいといっているので、自分と一緒に冥界へ旅してくれないかという。
「ほかならぬ、貴公の頼みだ。しかたあるまい」
と、満慶上人はこれを引き受け、篁とともに珍皇寺の井戸から冥界へと旅だった。
冥界に到着した満慶は、さっそく閻魔大王に菩薩戒を授ける。
のぞみをかなえられた閻魔大王はたいへん喜び、かれに一つの小箱を与えた。
現界へもどった満慶が箱を開けてみると、なかには白米が一杯つまっていて、食べた分だけ米が増え、いつまでも減ることがなかったという。
そのため、満慶は”満米上人(まんまいしょうにん)”と呼ばれるようになった。
この矢田寺の本尊は地蔵菩薩。
冥界を旅した時、地獄で見た地蔵菩薩の姿に感動し、彫り込んだものといわれる。
地蔵菩薩は閻魔大王の裁きを受けて地獄へ落とされた亡者たちを救ってくれるありがたい仏さまである。

篁も木幡山に生えていた一本の桜の大木から六体の地蔵を刻み、洛南大善寺(伏見区桃山町西町)に奉納した。
のちに平清盛がその六体の地蔵を京へ入る街道の要所要所においたのが、今でも京の人々に信仰されている”六地蔵”である。
*六地蔵巡りは「社寺一覧」のコーナーを参照して下さい*

篁は、”魔界”というものをいたずらに恐れてはいない。
むしろ、積極的にそれに近づき、溶け込んで、共栄共存をはかろうとしている。
この感覚は、当時としては、異常といっていい。
『本朝神社考』に語られているように、「不測」の人間として、世間から気味悪がられた。

しかし、この篁の考え方は、京都という町が成熟していく課程において、やがて欠くことのできない重要な意味をもってくる。

 地獄絵図

● 祇園祭の背後に秘められた意味

そもそも祇園祭は「祇園御霊会」と呼ばれ、疫病を起こすと考えられていた疫神、すなわち御霊の退散を祈願して、「祇園社」(八坂神社)の神輿をかつぎ出したのがはじまりだった。
神輿の前には六十六本の鉾(古代の武器)が立てられ、行列は「神泉苑」まで練り歩いて、そこで疫神退散のための御霊会をおこなった。
「神泉苑」はもともと、貴族の遊興の場として造られた禁苑だったが、そのころから宗教行事がおこなわれる霊場と化していたので、御霊会をもよおすには絶好の場所だったのである。

神輿をかつぎ出すことが、なぜ、疫病鎮めになるのか。

祇園社の祭神は素戔鳴尊。
別名、牛頭天王とも呼ばれた素戔鳴尊は、都に災いをもたらす疫神の親玉と考えられていた。
京の人々は、御霊会をおこなうことによって、素戔鳴尊の怒りを鎮め、疫神の跳梁を押さえようとしたのである。

今宮神社の”紫野御霊会”も同じ意味を持つ。
神社から南の「船岡山」で御霊会がもよおされた。
丘の上には古代祭祀の跡である磐座が残っている、霊的スポット。

今宮神社では、四月になると − やすらい花 −という祭りがおこなわれる。
これは、春の暖かさに誘われて活動しはじめる疫神をもてなし、すみやかにお引取りいただこうという趣旨の祭りである。

門前の”あぶり餅”を食べると、疫病に罹ることがないという。  北側の店の方が歴史は古く、現在23代目 
当時の人々は、疫病は荒ぶる疫神、すなわち御霊が暴れまわって、もたらされるものだと信じられていた。

御霊=怨霊である。
死してなお、この世に未練を残し、さまよっている霊魂のことである。
その霊魂が、人を病におとしいれ、洪水を引き起こし、干ばつを起こし、天変地異を起こすと考えられていた。

祇園社の祭神素戔鳴尊も、じつは、高天原から追放された”まつろわぬ神”なのである。
だからこそ、祟りをなした。

数ある御霊のなかでことに人々におそれられたのは、政争に敗れ、恨みを呑んで世を去った者たちの怨霊でであった。
下記、上下二つの御霊社には、その後政争の犠牲になった人々の御霊や、古くからの御霊があわせて祭神として祀られるようになった。
その祭神は

桓武天皇 − 上御霊神社
早良親王、他戸親王、井上内親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、菅原道真、吉備真備

平城天皇 − 下御霊神社
早良親王、伊予親王、藤原吉子、橘逸勢、文室宮田麻呂、菅原道真、藤原広嗣、吉備真備

移動のある人物もあるが、いずれの御霊社でもそれぞれ八人の怨霊を祀っているので、− 八所御霊 − と呼ばれ、恐れられた。
八所御霊のなかでも、罪なくして大宰府に左遷され、失意のうちに世を去った菅原道真は、ことに祟りがすさまじく、生前、道真のライバルだった藤原時平などは、怨霊の乗りうつった雷に打たれて死んだ。

道真の霊をなくさめるために造られたのが、北野天満宮。

 危険な方位に猿

文久三年五月二十日深夜、世にいう − 猿ケ辻の変 −
「猿ケ辻」とは、京都御所の東北隅の角のことをいう。
東北隅。
すなわち、鬼門である。

御所の東北隅の角がそこだけ直角に欠かれ、塀が内側にへこんでいる。
これは、鬼門除けのためである。
さらによく見ると、塀の屋根瓦の下に、頭に烏帽子をつけて御幣をかついだ不思議な猿の彫刻が見られる。
しかも、猿の彫刻には厳重に金網をかぶせてある。
網をかぶせることにより、猿の彫刻が夜中に動いて悪戯を止めさせるたものものといわれている。

そもそも猿ケ辻という名は、その奇妙な猿の彫刻に由来している。
百井塘雨の『笈埃随筆』によれば、御所の鬼門には、いつの時代からか猿の彫刻が置かれ、「猿ケ辻」と呼ばれるようになったが、それまでは「つくばいの辻」と呼ばれていたらしい。

「つくばいの辻」とは、夜中にこの場所を通ると、急に足元がふらふらし、地面に這いつくばってしまう怪奇現象が起きたことからついたものとされる。
怪奇現象は、そこが鬼の侵入口である魔所だから起きたものであろう。

さらに北東に鬼門の方角をたどって行くと、二つの場所に猿を見出す。

その一ケ所は「幸神社 さいのかみのやしろ」。
社殿の横に回り込み、覗いて見ると「猿ケ辻」の猿と瓜二つの猿の像がある。

もう一匹の猿は「赤山禅院」。
赤山禅院は、神道と仏教が合体した神仏習合の寺であるため、その本堂は神社のごとく本殿と呼ばれる。
本殿には、 − 皇城表鬼門 −と書かれた板札がかかり、この寺(神社)が京の鬼門を守るために造られたことがわかる。
猿の彫刻は、本殿の屋根の上に置かれている。
他の二匹は横を向いているのに、ここの猿は真正面を向いている。

赤山禅院は桓武天皇死後八十年以上も立ってから建立されたもであるから、天皇が魔界封じに作ったものではない。
現在の御所も室町時代のものである。
新たなる呪術装置がさまざまな人々の手によって付け加えられてきた。

その例を挙げれば(裏鬼門含む)、
吉田神社、崇道神社、鎮宅霊符神、松ヶ崎大黒天、玄武神社、北向山不動院、石清水八幡宮、光福寺、壬生寺など多数ある。

 五寸釘

貴船神社の奥ノ院。
「丑の刻参り」に使われる、五寸釘。
「丑の刻参り」とは、深夜、草木も眠る丑三つ刻に呪いの藁人形を釘で木に打ちつけ、憎い相手を呪い殺す儀式である。

呪いを心に秘める者は、白装束の胸に鏡をかけ、高下駄をはき、頭に五徳を逆さまにつけ、その五徳の足に三本のローソクを立てるという、異様ないで立ちで呪詛の儀式をおこなう。
七日のあいだ、毎晩釘を数本ずつ打ちつづけると、七日目の満願の日には、釘を打った相手の体に激痛が走り、苦悶にのたうちまわりながら死に至るという。

「丑の刻参り」には、決してその姿を人に見られてはならないという掟がある。

能の「鉄輪」は、「丑の刻参り」の話しがある。
この能に登場する女が住んでいたといわれるのが、堺町松原通下る鍛冶屋町の路地裏で、そこには現在、「鉄輪井戸」と呼ばれる井戸がある。
井戸にはしめ縄が張られ、その横に小さな祠が祀られている。
井戸の水には、鉄輪の女の怨念により、縁切りの魔力が秘められているので、たちどころに悪縁の相手と別れられる。

その他、五寸釘が打ちつけられたのは、清水寺の「地主神社」。
境内の”おかげ明神”という祠の裏にある杉の大木。

しかし、時代とともに魔界封じと上手につきあうことを考え出した。
ご利益としてである。
東福寺の魔王石もそうである。

菊野さんと呼ばれる、河原町二条上がるの法雲寺(菊野大明神)。
ここにある自然石を拝むと悪縁が切れる。
(石=深草少将が山科の小野小町のもとへ百夜通った際、往復に腰をかけて休んだと伝える石)
花嫁行列はこの「菊野さん」の前を、決して通らなかったという。

ご利益に関しては、【ご利益】を読んで下さい。

 闇の歴史を知ってしまった衝撃

大原から鞍馬に抜ける道がある。
その道から北に少し入った所に江文神社(”大原の雑魚寝”で有名)があり、その脇を一時間半ほどかけて山頂にのぼると「三壺大神」と彫られた石碑と半壊した五輪塔が残っている。
金毘羅山の九合目あたりに、琴平元宮がある。(私は行ったことがありません)
この社の下には、非業のうちに死んだ”崇徳院”の使っていた遺物が埋められている。
崇徳院は、保元の乱で有名であり、その関係書を読んで下さい。

配流地が讃岐ということは、京都の南西の方角。
すなわち、裏鬼門である。

承久の乱に関わった後鳥羽院は隠岐へ、順徳院は佐渡へ、土御門院は土佐へと配流されている。
京都から鬼門、裏鬼門の方角である。

崇徳院は大魔王となって世を呪うべく、裏鬼門(讃岐白峰・現香川県高松市)で舌を食いちぎり、したたり落ちる血で「大乗経」の奥に呪詛の誓文を書きつけて、これを瀬戸内の海に沈めた。

● 平清盛の作戦

保元の乱、それはまた、武士という新しい階級の台頭を告げる合戦でもあった。

このときの勝利者のひとりとなった平清盛は、つづいて起こった平治の乱で、ライバル源義朝を葬り去って武家全体の棟梁にのし上がった。
その平家一門が館を構えたのが「六波羅」。
平家の全盛時代、この六波羅には「泉殿」「池殿」「小松殿」など、平家一門の壮麗な屋敷百七十あまりが立ち並んでいた。

六波羅という土地の名前は、髑髏原という俗称から来ている。
平安京の葬送地鳥辺野の一画であったのである。
じっさい、野ざらしの人骨がごろごろしていたらしい。

平家の屋敷跡に建つ六波羅蜜寺。
仏像の数が多い。
「平清盛像」(重要文化財)、私堂のなかにあったものゆえ、じつは誰の像やら皆目分っていないのが真相らしい。

北へ五十メートルほど行くと、「西福寺」がある。
八月の精霊会のときには、「六道絵」や「十王図」などの地獄絵がつるされ、住職による地獄の絵解きがおこなわれる。

冥界通いの井戸がある珍皇寺は、最初の方に書きましたので。
この寺の道路向い(南東)に幽霊子育飴を売る茶舗がある。

愛宕念仏寺(嵯峨野に移転)の門前の弓矢町(西福寺の北西)には、かつて「犬神人 つるめそ」と呼ばれる祇園社(八坂神社)の神人たちが住んでいた。
犬神人と呼ばれるのは、「弦召せぇ」と叫びながら、弓の弦を売り歩いていたためで、かれらは祇園社の境内や祇園御霊会のさいの神幸路の清掃にあたり、また、延暦寺配下にある祇園社の武力の中心として活躍した。

愛宕念仏寺の客殿では、正月二日の夜になると、犬神人たちにより酒宴がおこなわれた。
酒宴ののち、かれらは杖で壁や床をたたき、法螺貝を吹き鳴らし、太鼓をたたいて大騒ぎしたので、”天狗の酒盛り”と呼ばれていた。

このように異様な土地に、しかも、洛外に平家は屋敷を構えたのか。

西福寺(六道の辻 − あの世とこの世を分ける辻 −)から珍皇寺の道は清水寺へ通じる表参道であった。
この道には参詣客めあての白拍子や遊び女たちも住んでいた。
さらに、六波羅の南を通る”苦州滅道”は、東に行けば東海道と交わり、西へ行けば山陰道と重なる幹線の一つである。
(注:この苦州滅道と現在の渋谷街道 − 最初の頃は、苦集滅路と呼び、後に汁谷街道と呼び、現在は渋谷(しぶたに)街道と呼んでいる道と同じなのでしょうか?−
渋谷街道の由来は「京都散歩」の中で書きます)

『平家物語』には、”禿童”という者を京洛に放ち、さまざまな情報の収集にあたらせたという記事がある。
秘密警察のような役割をしていたようである。
そして、禿童と犬神人は同一ではなかったか?
白拍子たちを女スパイとして、対岸の平安京を影から操縦していたのではないか?

平清盛は、みずからを魔界に置くことで政治に利用したのだろうか・・・・・。

● 信長と比叡山

戦国最大の風雲児織田信長も、魔界を利用したひとりであった。

信長という男は、神も仏も信じなかった。
神仏を崇めるかわりに、”盆山 ぼんざん”という盆石のような石を自分自身だと思って拝むようにと、お触れを出している。

信長は神や仏の上に立とうとしたのである。
安土城のハ見寺に、諸国から霊験あらたかだといわれる仏像を集め、みずからの分身である”盆山”を、それらの仏像よりも高い位置にすえた。
弁財天
魔多羅神
牛頭天王
いずれも”あらぶる神”、いわゆる”鬼神”ばかりである。
信長は”鬼神”を祀ることにより、大いなるマジカルパワーをみずからの野心に利用しようとしたのだ。
”鬼神”たちの呪力により、「魔王」と化した信長が、京の鬼門を守る比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのは、その象徴的な出来事かもしれない。

小瀬甫庵は「信長記」のなかで書いている。
「鬼神を敬い、社禝の神(国家の守り神)を祭り給わざるによって、ついに天神地祇の守りなく、早く亡び給う者か」

● 秀吉の誤算

魔界に関しては、古来からの伝統的な習慣にしたがった。
茶人、千利休に切腹を命じた秀吉は、大徳寺の金毛閣にあった利休の木像を引きずり下ろし、魔所として名高い「一条戻橋」のたもとにさらしている。
いわば、罪を受けた利休を、罰として鬼界へ追放したのである。

秀吉は晩年、伏見の桃山に伏見城を築いたが、そのとき邪魔になったのが桃山の地にあった桓武天皇の陵墓であった。
秀吉は比叡山出身の施薬院禅宗に命じ、延暦寺の天台座主とはかって桓武天皇の陵墓をひそかに近江坂本に移してしまった。
過去の帝王の墓を壊し、その上に自分の城を建てる。

桓武天皇の墓を壊した報いかどうか、秀吉もまた、死後、安穏に眠っていることは出来なかった。
徳川家康は、大坂夏の陣で豊臣家が亡びると、ただちに阿弥陀ケ峰にあった秀吉の墓を破壊させている。
山に通じるすべての道を壊し、今熊野にあった「新日吉神宮」を参道の中央へ移して、何人も墓参が出来ないように封鎖してしまった。

秀吉は、「死後も京都に睨みを効かせる」意味で阿弥陀ケ峰に墓を建てたのだが・・・・・。

今は、京都女子大学の奥から墓参できますが、石段が多くて・・・・・。

● 家康が交わした”悪魔の契約”

魔界のマジカルパワーを最大限に利用したのが徳川家康ではないだろうか。
家康は天下を取るために「外法」を修していたのではないか。

外法 − 禁断の呪術
深悪神カーリーの侍女、荼吉尼を本尊とする外法信仰は、仏教の伝来とともにわが国にもたらされた。
邪神荼吉尼の呪力は絶大で、この神を崇める者は、富、権力を思いのままに操ることができるとされた。
だが、それと引き換えに、死後、自分の肝を荼吉尼にささげる契約をしなければならない。
すなわち、極楽往生をのぞまないかわりに、現世での栄華を手に入れようという”悪魔の契約”が外法の正体である。

この外法をおこなうためには、髑髏本尊が必要とされた。
死人の頭を切り取ってきて、人の往来の激しい路傍に埋めておく。
すると、その髑髏は、六十日後にすさまじい呪力を発揮するようになる。

ただし、本尊とする髑髏の形には特殊な条件があった。
頭の形がひらき、目が両耳より下についていて、顎が小さくすぼんでいる。
いわゆる”才槌頭”である。
才槌頭は別名、”外法頭”とも呼ばれ、外法を祀ろうとする者たちにとってはまさに垂涎ののまとであった。

『経光卿記』(公家の日記)の文永四年(1267)、十一月ニ十四日の条に記されていますので、興味のある人は読まれるとよろし。

その他、平安末期の貴族藤原忠実は、外法を修して関白職についたといわれ、その子孫である九条家の邸内には荼吉尼を祀る「福大明神社」があった。
現在、福大明神の祠は、一条戻橋の近く、福大明神町の大木家の屋敷内に祀られているらしい。
平清盛、後醍醐天皇、細川政元などが知られる。

知恩院には、《濡髪祠》という荼吉尼を祀った祠がある。
この祠、知恩院の守護神とされており、そこに掛けられた幔幕には徳川家の葵の紋が入っている。
しかも、この祠の真正面には、なぜか家康の孫千姫の墓がある。
つまり、濡髪祠は、徳川家康が外法によって天下を取ったお礼に建てた祠ではないかと考えられる。
知恩院という寺の名じたいも、荼吉尼の「恩を知る」という意味ではあるまいか。

真如堂の塔頭に《法伝寺》がある。
本尊は荼吉尼を祀っている。

荼吉尼の使いは狐である。
そのため、江戸時代になると荼吉尼はお稲荷さんと混同されることが多くなる。
「伊勢屋、稲荷に犬の糞」
これは、江戸の町でよく見かけるものを表した言葉である。
家康は荼吉尼へのお礼として、稲荷社に形を変えて、恩を報いたのではないか。(江戸の徳川家の祈願所は王子稲荷)
 

▼ 余談

■ 明治四年に当時の新政府が陰陽師が属していた陰陽寮を廃止、それ以降は、陰陽師は存在しないはず。

■ 暦会館

ここは陰陽道の宗家「土御門家」(始祖・安倍晴明)の本拠地で、陰陽道に関する膨大な資料を収蔵。
この建物自体は1993年に作られたもので、正倉院風の作りです。
日本の天文暦学の祖安倍晴明の子孫が応仁の戦火を逃れ、この地に移り住んだことにちなんで建てられました。

名田庄荘園は大徳寺文書にもある様に、仁安3年(1153)11月の開発以来、争奪が絶えなかったという。
しかし、その中にあって特に上荘(現・下より納田終)一帯は京の公家、土御門(本姓安倍)家が管領する「泰山府君」の神領地として一千百有余年間にわたり
朝廷と幕府の庇護の下に土御門家により継承されてきた。

土御門家の領地としては、ここ名田庄の他に河内渋川、近江高島他、陰陽寮学生の衣食料としての勧学田施料として摂津山田、摂津資勝跡地、山城吉祥院、
向日町、但馬、播磨、紀伊鳴神、美濃等、変還はあったものの、実に全国に七十万石を領有したといわれる。

しかし、平安朝以降百十余年も本家一族が居住したのは名田庄のみであり、日本一社の「泰山府君社」を奉祀したのも京都の土御門邸内本殿と御分霊を奉さ齋した名田庄だけである。

【住  所】 福井県遠敷郡名田庄村納田終111-7
【電話番号】 0770-67-2876
【開館時間】 開館時間 午前9時〜午後4時
【休 館 日】 毎週水曜日
【入 館 料】 中学生以上200円・小学生100円

【収蔵資料】
土御門に関係する資料 約200点
暦に関する資料    約500点
祈祷と易に関する資料 約200点
      
【その他おもなもの】
土御門と名田庄に関する資料
中世の天文観測記録
泰山府君に関する資料
古暦や陰陽道に関する祭典資料

【常 設 展】
・土御門(安倍)家に関する資料展示
・暦に関する資料展示
【企 画 展】・暦、易、天文、歴史に関する資料の展示を随時開催

■ 陰陽師の魔力?石仏にまで

映画公開などであらためて脚光を浴びている平安時代の陰陽師、安倍晴明の名を刻んだ石仏が洛西竹林公園(京都市西京区)にあり、熱心なファンが訪れている。

織田信長によって旧二条城の石垣に転用された鎌倉時代後半から室町時代の石仏の一つ。光背(こうはい)の右下部分に、晴明の別名「清明」の字と五芒(ぼう)星の印が刻まれている。

石仏は浄土へ往生する人を迎える来迎の姿をしていて、「ともに命そのものを扱っている阿弥陀如来と陰陽師の姿を重ね合わせていたのでは」(原山充志・市考古資料館主任)という。
 


 
 
 


白峰神宮
祭神は崇徳院である。
明治元年九月、造営を命じたのは、ときの帝、明治天皇。
”大魔王”となっていた崇徳院の墓を讃岐から呼び寄せ、京都に祀った。

最後に、魔物を退散させる不動明王の陀羅尼を記しておく。
この呪文を唱えてひたすら祈れば、魔物は退散する。

「南莫三曼多、縛日羅赧、憾」
 ナウマリサンマンタ バサラタン カン
                                                                            



 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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