河原町の賑わい
賀茂川の川幅は、江戸時代以前には、現在よりも広く、水流は数条に分れ、北から南へ不規則にゆったりと流れ、ところどころに河原をなしていた。
なかでも四条河原は端唄「京の四季」にも「みそぎぞ夏はうち連れて、川原につどふ夕涼み」と唄われているように床をしつらえての納涼で有名だが、それの流行は江戸時代中期以降のことであり、鎌倉・室町時代には勧進田楽や勧進猿楽などの芸能がたびたび催され、上は貴族から下は賎民にいたるまで集う場所であった。
これらの芸能は糺河原や二条、三条の河原でもおこなわれたこともあるが、四条河原が有名になるのは川の流れの方角が四条以南で少し西へ変わり、川幅も広く、大きな河原が形成されていたので、多人数が集う場所としてもっとも適していたためである。
天下わけめの関が原合戦も終わり、徳川の天下はほぼさだまったものの、なお戦雲さりやらず、不穏な空気が流れており、人々は刹那的な享楽で心を癒していたころ、慶長八年(1603)に、出雲大社の巫女と称する阿国が”かぶき踊”という新しい芸能を携えてあらわれ、北野神社の社頭や四条、五条の河原で興行した。
その舞台では、切髪に鉢巻を締め、金襴の衣装に大小を落とし差しにし、胸にはクルス(十字架)をかけ、腰には瓢箪をぶらさげた異装で、茶屋の女と戯れる様を演じていた。
また茶屋の女と戯れるかわりに、切髪を乱した風呂あがりの姿を演じることもあった。
そして最後のフィナーレに当たる場面は、十六、七歳の美女が二十人から三十人ほども揃いの華麗な衣装で舞台せましと踊りまくった。
かぶき踊が当時の人々に好評を博すると、女猿楽や女曲舞をおこなっていた座も、それを模倣し、さらには、六条三筋町(現在の五条室町・新町・西洞院の三筋をいう)の遊女たちまでも一座を組織し、四条河原にくりだした。
このため舞台はあたかも遊郭の張見世(出店)のようになり、客をその宿へひいたので、遊郭とかわらなかった。
一方客席の方も熱気につつまれ、しばしば喧嘩口論もあり、なかには刃傷におよぶこともあった。
こうして、四条河原はかぶき踊のほかにも女浄瑠璃や見世物なども集まり、一大興行街となったのである。
慶長十六年、京の富豪角倉了以が高瀬川を開鑿したこともあって、四条河原をはじめとして、洛中に散在していた大小さまざまな芝居や見世物などを、天和年間(1681〜83)には河原の東岸一帯に移した。
これを機会に七つの櫓をあげることを公認したが、この目的はいうまでもなく、芝居に統制を加えることにあった。
その櫓を許された芝居の位置は四条通りの南側に三座、北側にニ座、大和大路四条下る西側にニ座であった。
さらに寛永六年には風紀上の問題をたてにして、女性による芸能を禁じた。
これによって女歌舞伎の陰になっていた前髪姿の美称年による若衆歌舞伎が表面に押し出されることになる。
この若衆は「おはぐろつける口もと、べにさせるつまさき、女とも見えて男なりけり」(『京童』)というあやしい魅力をたたえ、裏では売色をもっぱらとしており、舞台での芸が本職なのか、売色が本職なのかわからない状態だった。
しかもやっかいなことには、かれらが客とするのは男性でも女性でもよかった。
こうなるとその弊害は女歌舞伎以上のものになるので、幕府は承応元年(1652)には若衆の魅力の一つだった前髪を剃らせてしまった。
こうして野郎歌舞伎がはじまったが、売色はなかなか下火にならなかったらしく、明暦ニ年(1656)には、京・大坂の芝居はとりこわされてしまった。
しかし、歌舞伎にたいする民衆の支持は多大であった。
それに支えられて村山又兵衛は芝居の再興を請願しつづけ、寛文八年(1668)には村山座、翌九年には都半太夫、早雲長吉、亀谷粂之丞、絲搶権三郎、布袋屋梅之丞、蛭子屋儀左衛門の六座が許され、以前の賑わいをとりもどした。
再開された歌舞伎は「物真似狂言尽」を標榜していたが、その狂言の内容は、島原遊郭で傾城買いをする様を演じる島原狂言や衆道をテーマにしたものであった。
また観客の関心も狂言より役者の美貌にあった。
そこで、座元は興行上美貌の持ち主を探し、芸を教え、一人前の役者に育てる必要に迫られる。
それならば、座元自身が探し求めたかというとそうではない。
美少年を斡旋する人置とよばれる者がいて、諸国から十二、三歳の美少年を買い集め、座元や有名な女形に芸子として売り込んでいた。
座元や女形に買われた芸子が芸の見習をするのは当然のことながら、一方においては客の要求に応じて売色をもさせられた。
これを色子といい、のちにはかげまともよばれた。
これが寛延年間(1748〜50)にはより組織的になり、芝居町に隣接した東石垣、いわゆる宮川筋に”かげま茶屋”が軒を並べていたが、ここで芝居の色子として養成され、各芝居に若女形として売り込まれることになった。
だから当時の有名な女形の多くは宮川筋出身だった。
この間、芝居町は亨保区年(1724)、亨保十五年、寛保元年(1741)の三度のあいつぐ火災のため櫓数は減じ、四つになってしまった。
寛保元年の火災は藍沢屋某という家から出火したので藍沢焼けというが、これが原因で大和大路の芝居は復興しなかった。
宝暦・明和になると操りの衰退も一因となり、櫓は三つになり、四条南側の芝居、北側に東の芝居、西の芝居が鼎立することになった。
さらに文化・文政期には西の芝居が廃絶して、端唄「京の四季」に現れるように「櫓の差向ひ」となった。
明治になるとそれぞれ、南座、北座とよばれたが、明治二十六年には北座も廃止となり、南座のみ残ることとなった。
芝居の櫓数のみをおっていくと四条河原はしだいにさびれていったようにみえるが、繁華街としては拡大していくのである。
話しは前後するが、慶長十六年の高瀬川開鑿により、二条から四条にかけての東岸は店や倉が軒を並べ商業の中心地となった。
京に運び込まれた物資の中でも木材や薪炭をあつかう店が多かったので樵木町や材木町とよばれ、俗に木屋町ともよばれた。
この木屋町の裏、すなわち賀茂川に面した西石垣の三条、四条間には人家はなかったが、寛文十年(1670)に道路ができると、延宝八年(1680)には三条の方から水茶屋が建ちはじめた。
この当時はまだ四条まで軒を連ねていなかったので、先き斗り(さきばかり)と俗称した。
これが後の先斗町だといわれるが、なぜ”先”を”ぽん”と訓じるのかについてはポルトガル語の Ponto(先端)からきているという俗説も流布しているが、勿論定かではない。
また西石垣の四条、松原間にも水茶屋が建ち、夏ともなると、河原にはそれらの水茶屋が涼み床をしつらえた。
一方、祇園はまだ村で、紅灯街ではなかったが、四条より北の方角には十数軒の長屋があり、蛍茶屋とよんでいた。
この茶屋の構造は、取葺屋根に竹垂木で、間口は狭く、奥行きは一間半ほどのものだった。
軒には鉄色染の水引暖簾をかけ、門口には屋号をしるした四角な大行燈を据え、竈茶棚を置いていた。
客があると茶立女が煎茶を出し、煙草を吸いつけてもてなした。
この茶店にかぎって、昼は閉ざし、夜になると店を開き、客を招じるので、蛍茶屋とよばれた。
現在の一杯飲屋といった風情である。
宝暦・明和ごろは芝居の櫓数こそ、寛文・延宝期には及ばなかったが、四条河原を中心として芝居茶屋や水茶屋が軒をつらね、よりいっそう繁華な地となった。
たとえば、芝居茶屋についてみると、南側には南の芝居を中心として、賀茂川岸から東へ、枡半、石(いしわ・楕円形の中に丸のマーク)、はりまや、さかいや、扇市、かいや、中上、錦屋、北側には西の芝居から西へ、角(かどわ・上のマークと同じ)、升五、菱屋、東の芝居から東へ松屋、島原の計十三軒もあった。
また芝居茶屋のほかにも、賀茂川の東石垣、西石垣はもちろんのこと、河原にも水茶屋がならび、数十軒にもおよんだ。
さらに大和大路側には、小芝居や見世物小屋がならんでいた。
こうして、賀茂川の東岸は、芝居と芝居茶屋を中心にして、南は宮川町、東は祇園に接し、賀茂川の西側は三条から松原まで水茶屋が軒をつらね、一大歓楽街を形成する。
さらに高瀬川の東岸すなわち木屋町通りにも文化・文政ごろには水茶屋が出現して、ますます拡がることになる。
明治維新後の急速な近代化の波は、南北の櫓を中心とした芝居町にもおしよせた。
明治二十六年には北座が営業不振で廃座となり、南座のみ残り、翌年には四条通りの拡張がおこなわれ、北側を削り、五間幅となった。
さらに明治四十五年には十二間に拡大すると同時に賀茂川の河原も改修し、水流を一本にまとめたので、河原での納涼も廃れてしまった。
これにともない、芝居茶屋や水茶屋もしだいに転業していった。
たとえば、四条通りに面した芝居茶屋で転業したものをあげると、伊勢市の旅館、柳屋の菊水(洋食店)、志満屋の鮓屋、山城屋の文具店、江戸屋の鰻屋、矢倉の麺類屋といったぐあいである。
これは、芝居を核とした歓楽街から近代の歓楽街への変質であったが、茶屋町としての伝統は現在までひきついでいるらしく、喫茶店、バー、ナイトクラブなどが軒をならべ、あんどんやちょうちんにかわってネオンサインが客を招いている。