■■■ 京都故事
京の町・京の家 壱
京の味
京の女とことば
京のよそおい
京の年中行事
京の水と道

 
河原町の賑わい

賀茂川の川幅は、江戸時代以前には、現在よりも広く、水流は数条に分れ、北から南へ不規則にゆったりと流れ、ところどころに河原をなしていた。
なかでも四条河原は端唄「京の四季」にも「みそぎぞ夏はうち連れて、川原につどふ夕涼み」と唄われているように床をしつらえての納涼で有名だが、それの流行は江戸時代中期以降のことであり、鎌倉・室町時代には勧進田楽や勧進猿楽などの芸能がたびたび催され、上は貴族から下は賎民にいたるまで集う場所であった。
これらの芸能は糺河原や二条、三条の河原でもおこなわれたこともあるが、四条河原が有名になるのは川の流れの方角が四条以南で少し西へ変わり、川幅も広く、大きな河原が形成されていたので、多人数が集う場所としてもっとも適していたためである。

天下わけめの関が原合戦も終わり、徳川の天下はほぼさだまったものの、なお戦雲さりやらず、不穏な空気が流れており、人々は刹那的な享楽で心を癒していたころ、慶長八年(1603)に、出雲大社の巫女と称する阿国が”かぶき踊”という新しい芸能を携えてあらわれ、北野神社の社頭や四条、五条の河原で興行した。
その舞台では、切髪に鉢巻を締め、金襴の衣装に大小を落とし差しにし、胸にはクルス(十字架)をかけ、腰には瓢箪をぶらさげた異装で、茶屋の女と戯れる様を演じていた。
また茶屋の女と戯れるかわりに、切髪を乱した風呂あがりの姿を演じることもあった。
そして最後のフィナーレに当たる場面は、十六、七歳の美女が二十人から三十人ほども揃いの華麗な衣装で舞台せましと踊りまくった。

かぶき踊が当時の人々に好評を博すると、女猿楽や女曲舞をおこなっていた座も、それを模倣し、さらには、六条三筋町(現在の五条室町・新町・西洞院の三筋をいう)の遊女たちまでも一座を組織し、四条河原にくりだした。
このため舞台はあたかも遊郭の張見世(出店)のようになり、客をその宿へひいたので、遊郭とかわらなかった。
一方客席の方も熱気につつまれ、しばしば喧嘩口論もあり、なかには刃傷におよぶこともあった。
こうして、四条河原はかぶき踊のほかにも女浄瑠璃や見世物なども集まり、一大興行街となったのである。

慶長十六年、京の富豪角倉了以が高瀬川を開鑿したこともあって、四条河原をはじめとして、洛中に散在していた大小さまざまな芝居や見世物などを、天和年間(1681〜83)には河原の東岸一帯に移した。
これを機会に七つの櫓をあげることを公認したが、この目的はいうまでもなく、芝居に統制を加えることにあった。
その櫓を許された芝居の位置は四条通りの南側に三座、北側にニ座、大和大路四条下る西側にニ座であった。
さらに寛永六年には風紀上の問題をたてにして、女性による芸能を禁じた。
これによって女歌舞伎の陰になっていた前髪姿の美称年による若衆歌舞伎が表面に押し出されることになる。

この若衆は「おはぐろつける口もと、べにさせるつまさき、女とも見えて男なりけり」(『京童』)というあやしい魅力をたたえ、裏では売色をもっぱらとしており、舞台での芸が本職なのか、売色が本職なのかわからない状態だった。
しかもやっかいなことには、かれらが客とするのは男性でも女性でもよかった。
こうなるとその弊害は女歌舞伎以上のものになるので、幕府は承応元年(1652)には若衆の魅力の一つだった前髪を剃らせてしまった。

こうして野郎歌舞伎がはじまったが、売色はなかなか下火にならなかったらしく、明暦ニ年(1656)には、京・大坂の芝居はとりこわされてしまった。
しかし、歌舞伎にたいする民衆の支持は多大であった。
それに支えられて村山又兵衛は芝居の再興を請願しつづけ、寛文八年(1668)には村山座、翌九年には都半太夫、早雲長吉、亀谷粂之丞、絲搶権三郎、布袋屋梅之丞、蛭子屋儀左衛門の六座が許され、以前の賑わいをとりもどした。

再開された歌舞伎は「物真似狂言尽」を標榜していたが、その狂言の内容は、島原遊郭で傾城買いをする様を演じる島原狂言や衆道をテーマにしたものであった。
また観客の関心も狂言より役者の美貌にあった。
そこで、座元は興行上美貌の持ち主を探し、芸を教え、一人前の役者に育てる必要に迫られる。
それならば、座元自身が探し求めたかというとそうではない。
美少年を斡旋する人置とよばれる者がいて、諸国から十二、三歳の美少年を買い集め、座元や有名な女形に芸子として売り込んでいた。
座元や女形に買われた芸子が芸の見習をするのは当然のことながら、一方においては客の要求に応じて売色をもさせられた。
これを色子といい、のちにはかげまともよばれた。
これが寛延年間(1748〜50)にはより組織的になり、芝居町に隣接した東石垣、いわゆる宮川筋に”かげま茶屋”が軒を並べていたが、ここで芝居の色子として養成され、各芝居に若女形として売り込まれることになった。
だから当時の有名な女形の多くは宮川筋出身だった。

この間、芝居町は亨保区年(1724)、亨保十五年、寛保元年(1741)の三度のあいつぐ火災のため櫓数は減じ、四つになってしまった。
寛保元年の火災は藍沢屋某という家から出火したので藍沢焼けというが、これが原因で大和大路の芝居は復興しなかった。
宝暦・明和になると操りの衰退も一因となり、櫓は三つになり、四条南側の芝居、北側に東の芝居、西の芝居が鼎立することになった。
さらに文化・文政期には西の芝居が廃絶して、端唄「京の四季」に現れるように「櫓の差向ひ」となった。
明治になるとそれぞれ、南座、北座とよばれたが、明治二十六年には北座も廃止となり、南座のみ残ることとなった。

芝居の櫓数のみをおっていくと四条河原はしだいにさびれていったようにみえるが、繁華街としては拡大していくのである。
話しは前後するが、慶長十六年の高瀬川開鑿により、二条から四条にかけての東岸は店や倉が軒を並べ商業の中心地となった。
京に運び込まれた物資の中でも木材や薪炭をあつかう店が多かったので樵木町や材木町とよばれ、俗に木屋町ともよばれた。
この木屋町の裏、すなわち賀茂川に面した西石垣の三条、四条間には人家はなかったが、寛文十年(1670)に道路ができると、延宝八年(1680)には三条の方から水茶屋が建ちはじめた。
この当時はまだ四条まで軒を連ねていなかったので、先き斗り(さきばかり)と俗称した。
これが後の先斗町だといわれるが、なぜ”先”を”ぽん”と訓じるのかについてはポルトガル語の Ponto(先端)からきているという俗説も流布しているが、勿論定かではない。

また西石垣の四条、松原間にも水茶屋が建ち、夏ともなると、河原にはそれらの水茶屋が涼み床をしつらえた。
一方、祇園はまだ村で、紅灯街ではなかったが、四条より北の方角には十数軒の長屋があり、蛍茶屋とよんでいた。

この茶屋の構造は、取葺屋根に竹垂木で、間口は狭く、奥行きは一間半ほどのものだった。
軒には鉄色染の水引暖簾をかけ、門口には屋号をしるした四角な大行燈を据え、竈茶棚を置いていた。
客があると茶立女が煎茶を出し、煙草を吸いつけてもてなした。
この茶店にかぎって、昼は閉ざし、夜になると店を開き、客を招じるので、蛍茶屋とよばれた。
現在の一杯飲屋といった風情である。

宝暦・明和ごろは芝居の櫓数こそ、寛文・延宝期には及ばなかったが、四条河原を中心として芝居茶屋や水茶屋が軒をつらね、よりいっそう繁華な地となった。
たとえば、芝居茶屋についてみると、南側には南の芝居を中心として、賀茂川岸から東へ、枡半、石(いしわ・楕円形の中に丸のマーク)、はりまや、さかいや、扇市、かいや、中上、錦屋、北側には西の芝居から西へ、角(かどわ・上のマークと同じ)、升五、菱屋、東の芝居から東へ松屋、島原の計十三軒もあった。
また芝居茶屋のほかにも、賀茂川の東石垣、西石垣はもちろんのこと、河原にも水茶屋がならび、数十軒にもおよんだ。
さらに大和大路側には、小芝居や見世物小屋がならんでいた。

こうして、賀茂川の東岸は、芝居と芝居茶屋を中心にして、南は宮川町、東は祇園に接し、賀茂川の西側は三条から松原まで水茶屋が軒をつらね、一大歓楽街を形成する。
さらに高瀬川の東岸すなわち木屋町通りにも文化・文政ごろには水茶屋が出現して、ますます拡がることになる。

明治維新後の急速な近代化の波は、南北の櫓を中心とした芝居町にもおしよせた。
明治二十六年には北座が営業不振で廃座となり、南座のみ残り、翌年には四条通りの拡張がおこなわれ、北側を削り、五間幅となった。
さらに明治四十五年には十二間に拡大すると同時に賀茂川の河原も改修し、水流を一本にまとめたので、河原での納涼も廃れてしまった。
これにともない、芝居茶屋や水茶屋もしだいに転業していった。
たとえば、四条通りに面した芝居茶屋で転業したものをあげると、伊勢市の旅館、柳屋の菊水(洋食店)、志満屋の鮓屋、山城屋の文具店、江戸屋の鰻屋、矢倉の麺類屋といったぐあいである。
これは、芝居を核とした歓楽街から近代の歓楽街への変質であったが、茶屋町としての伝統は現在までひきついでいるらしく、喫茶店、バー、ナイトクラブなどが軒をならべ、あんどんやちょうちんにかわってネオンサインが客を招いている。


 
西陣


瓜の皮むいたところや蓮台野  芭蕉

いにしえ、京に”七野 ななの”とよばれる七つの野があった。
芭蕉の句にみえる蓮台野のほかに、紫野、大野、北野、柏野、内野、点野。
この七野につつまれたあたり一帯は”西陣”とよばれ、応仁・文明の乱後に復帰した織手たちの活躍いらい、いわゆる西陣機業の地として全国に名をひびかせてきた。
厳密にいうと一条より北、堀川より西のあたりが、西陣の中の西陣ということになる。

この名の起こりは、応仁・文明乱中、西陣の陣所が置かれたことにあった。
乱中、西陣といえば西軍の根拠とされた一小地域をさしたが、乱後数百年目には、それが一つの地名として定着し、時代を経るにつれて”西陣”の名に含まれる地域は次第に拡大し、今日にいたっている。
機業民家の増加がその要因である。

ところで、この西陣の歴史をすこしばかりたどっておこう。

応仁・文明の大乱がおこったとき、京都の大舎人の御手たち(朝廷の管轄)も多くは他国へ避難して行った。
和泉堺にのがれたものたちは、堺の浜辺に小屋を建てて、細々と織りつづけていたらしいが、史上まれな高潮にみまわれてすっかり流されてしまう悲劇もあった。
文明九年(1477)に大乱が終わったあと、諸国に逃れていた織手たちも故里に帰りはじめ、一つのグループは旧東陣跡の新在家(白雲村。御所の西辺)に、もう一つのグループは大宮の界隈(西陣布陣の地)に集住して機業を再開したという。
戦国時代の永正年間(1504〜20)、大舎人方と呼ばれた京の織手は綾織物の独占を保証されるとともに、錦、緞子、金襴、綾織、綸子、縮緬、紗、絽を製織するほどに発展。
織田信長が力を入れた皇居の落成のさい、京をあげての踊りが催されたことがあるが、このとき西陣二十一カ町も綺羅を競って参加し、意気と実力をしめしたという。

江戸時代、寛文五年(1665)には、絹織物の長さが二丈六尺と定められ、上下服制の織りを改め、紋綾の羽二重がはじめて生産されはじめたらしい。
こののち延宝年間(1673〜80)には”西陣織屋中””西陣組”などという織物業組合も出来ていた。
機業のめざましい発展にひきかえて、すぐれた織工の養成はなかなかむつかしかったものとみえ、”引き抜き合戦”が業者を悩ませたのもこのころであった。
亨保十五年(1730)、西陣は大きい不幸にみまわれる。
俗に”西陣焼”という大火で、百八町、三千余機が灰燼に帰したのだが、復興は容易でない上に、これ幸いとばかり諸国の織物が市場に進出、京都へももちろん他国産の織物が入りこんで幅を利かせた。

そのごも消長をくりかえしたものの、西陣は天保十二年(1841)、幕府による絹布使用禁止令の発令で徹底的な打撃をこうむって、廃業者続出、織屋仲間(組合)解散のうき目にあったが、一部は綿織物業に転業して、この危機を切りぬけた。
長らく絹織を誇りとした西陣の人々にとっては、まさに背にハラは代えられぬ英断であったといえるが、こうした決断力は、明治維新のさいにもういちど歴史の荒波によって試されることとなり、府知事長谷信篤・槇村正直らの指導、さらに佐倉、井上、吉田の三人の機業家のリヨン(フランス)留学 − ジャカード・バッタン機の伝来等々にもささえられて、西陣はようやく近代的な発展を基礎づけることができたのであった。

しかし無数の零細な機業店が低い軒をつらねる西陣を散策してみると、耳をつんざく織機の音のなかにきこえるものは、織り出される豪華な布地、帯地とはウラハラの、経営の苦しさであるようにも思われる。
不況の影響も、西陣には特に端的にひびいてきた。
古い句に、こんなのが見える。
 西陣にふえる空家や秋の風  浪月

西陣機業の盛衰のなかには、京の町人たち、市民たちの盛衰史が貫いて流れている。
室町筋の繊維問屋街のそれとともに、西陣の歴史は京都市民の歴史の骨格をなすばかりでなく、京都の未来像についても多くの教訓をふくんでいるのである。


 
千本


延暦十四年(795)正月の踏歌の節会で平安楽土を寿いだ平安京も、右京の底湿地帯から衰微しはじめ、十世紀も末になると、都の正門である羅生門さえ荒れるにまかせ、放置されていた。

その荒れ果てた羅生門の上層には死骸がうちすてられていたが、その死骸から毛髪を抜き取り、付髪として売りさばき、生活の糧をえる者もいたという。
そういう場所だから、いつしか、この門には鬼が住み人に仇をなすという噂が生まれた。
しかも、夜盗や強盗の横行ともあいまって、当時の都人はたんなる噂でなく、事実として受けとめた。

ちょうどこのころのことであるが、臼井貞雄、平李武、坂田公時とともに源頼光の四天王の一人に数えられる渡辺綱が極悪非道の悪漢として京中に名をはせた鬼同丸を退治した。
これは夜盗や強盗に悩む京中の人の脳裡に強く焼きついたらしく、後世にいい伝えられ、物語などの題材となった。
その一つに長唄「綱館」がある。
これは、前述の羅生門の鬼の噂と結びつけ、綱が羅生門に出没する鬼の片腕を切り取り、館へ持ち帰り、長櫃におさめ、番をしていると、鬼が綱の伯母に化身して訪れ、隙を見計らい、腕を取り戻して空中へ消えるという筋になっている。

さて、この羅生門を潜り抜けると大内裏の正門である朱雀門まで幅八十五メートルの朱雀大路が一直線に走っていた。
その朱雀大路が現在の千本通であるが、その千本通りは朱雀大路より北へ延長され、大内裏を二分するかっこうになり、今出川通りから上は少し西へ向きを変えて土居町まで通じている。
これより北は鷹峯の光悦町を通り、丹波へぬける道につらなっている。
しかし、朱雀大路がいつごろからこのようになったのか、またこれがいつごろから千本通りとよばれるようになったのかも詳らかではない。
さらになぜ千本通りと呼ばれるようになったのかもわからないが、それについてはつぎのような三つの俗説がある。
一つは千本の卒塔婆が立ったという説、二つには千本の桜が並木をなしていたという説、三つには桜ではなく松の木だったという説。

この状態がそれぞれいつごろかのことなのか不明だが、最初の卒塔婆の説は、応仁・文明の乱後のことではないだろうか。
千本通りは船岡山の西麓を通り、さらに蓮台野の横を抜けているからである。
ちなみに船岡山は応仁二年(1467)七月に合戦場となったところで、多くの死者が放置され、その供養のため卒塔婆がたてられたであろう。
または蓮台野に埋め、卒塔婆をたてたと考えることもできる。
それはともかく、千本の卒塔婆の話しはこのあたりが出所であろう。


 
おかめ
上京の五辻通七本松にある千本釈迦堂。
正式の寺名は大報恩寺。
大報恩寺は新義真言宗智山派、承久三年(1221)如琳上人の開基と伝えている。
このときできたのは仮堂で、二年ののち貞応二年に本堂(釈迦堂)が完成した。
いらい、嵯峨清涼寺釈迦堂と並んで、釈迦如来信仰の中心となって大いに栄た。
本堂釈迦如来立像と十大弟子立像は快慶作。
はじめは具舎、天台、真言三宗の弘通霊場として出発、近世に新義真言宗一本になった。
足利尊氏がこの寺で始めた涅槃講の行事は今日もつづけられている。

京都を焦土と化した応仁・文明の乱の時、このあたり一帯は山名宗全にひきいられた西軍の拠点の一角であった。
この戦乱によって大報恩寺は釈迦堂をのこす他は焼失してしまった。
鎌倉初期に建てられて、大乱とあいつぐ町々の火災の中を生きのこり、今なお西陣の密集地帯の真っ只中に立つこの堂を眺めると、やはり深い感慨を覚えずにはおれない。
これも応仁・文明の乱を生きぬいた八坂法観寺の五重塔を見上げるときの思いに似ている。
山名宗全が、この堂だけは何をおいても必死に守りぬけと全軍に下知しつづけた − そう町の人々は語り伝えていたものである。
七百年の歳月を、ともかくこの町なかで焼けずに残るということは、並大抵のことではなかった。
その歴史の蔭に名をのこす一人の女性、それが”おかめさん”なのである。
以下はその”伝説” −

おかめさんは大工の棟梁の妻であった。
亭主は相当な腕の大工であったらしく、釈迦堂の建築工事を任せられて、ずいぶんと意気込んで着手したのであったが、魔がさしたというものであろう。
大切な柱の裁断寸法を誤って、短く切ってしまったのだ。

遠国から慎重に選び尽くされてはるばると運ばれてきた高価な木材、それに何といってもめでたいお堂の健在である。
棟梁はすっかいしょげてしまう。
命をかけてもいいくらいの責任。
おかめさんの心痛も痛々しいほどであったらしい。
心ひそかにかの女は一計を案じた。
短く切ってしまった柱を全部据えて、その上に太い角材をのせ、更に短い柱を継ぎ足してゆけば、梁も棟木も無事支えられるというのだ。
たしかに例をみない形態にはなろうけれど、けっして悪くはない!
棟梁は欣喜雀躍、部下を激励して事をはこんだ。

棟梁は救われた。
だが棟梁がみごと完成したとき、おかめさんは、なぜか命を絶ってしまう。
夫救いたさの一念から、急場しのぎの一案を呈し、成功したものの、お堂の姿がやや異風になることを思いつめて、小さな胸を痛めていたのであろう。
(秘密を守るために自害したとの説もあり)
結果からすれば、なにも夫の歎きを叫ぶこともなかったのであるが・・・・・。

おかめさんの哀話は、永く語り伝えられてきた。
寺では彼女の面影を添えて、おかめ面やおかめだるまを、求める人に頒けてくれる。
文字通りの”お多福”だが、おかめさんがほんとうにそうだったのかは知るよしもない。

宝物館には是非とも入館してください。
内陣西側には”お多福”がたくさん奉納してあります。
陶器市やだいこん焚きなどの行事も有ります。
建築業界の参拝者が多いですよ
みごとな枝垂れ桜が植わっています。
本堂は現在修復中です −2000.09.17現在−

■■■ Link − お多福美人のこと ・ 工房 吉梅 お多福


 
月を伏見の草枕
木幡山路に行き暮れて
    月を伏見の草枕

室町時代にうたわれた小唄の一つで、『閑吟集』におさめられているが、現在の京都と奈良を結ぶ国道を通ったのでは、この小唄の意味はわからなくなる。
当時、洛中から奈良へ行くには、鴨川をわたって大和大路を下り、一の橋から法性寺を南下し、藤森神社付近の大亀谷に入り、山を越して木幡の関を通過し、六地蔵へ出たのである。
この通路にあたる伏見、深草の地域は、淀川の水運から、馬や牛馬を使用する陸運へのきりかえ地点で、物資の積みかえや物資の集散地として、桂や鳥羽とならんで京の外港をなしていた。
とはいっても伏見に人家が軒を連ねるようになるのは、秀吉が伏見桃山(現在の古城山)の地に文禄三年(1594)、伏見城を築き、深草の南半を含んで城下町を整えてからである。

城下町の中心と外郭には大名屋敷が配置され、この間に京や尾張の商工業者が移された。
さらに大和大路につづく法性寺を改修して、伏見街道とし、その沿道にも民家を移した。
この沿道に民家を移すにあたって、秀吉は道路南側の土地を間口三間、奥行十五間の短冊型にくぎり、無料で与えるとともに、家に面した道路の修理はその家に費用を負担させることにした。
この制度は江戸時代にも踏襲された結果、伏見街道に面した家は、京の町家と同じく、間口が狭く、奥行きの深い、いわゆる”うなぎの寝床”であった。

慶長五年(1600)七月、伏見城をめぐって豊臣方と徳川方の攻防戦が展開され、豊臣方の掌中に帰するが、それもつかのまで、九月の関ケ原合戦後は、徳川のものとなった。
この二ヶ月間に市街の損害や関ケ原の戦で敗退した豊臣方諸大名の屋敷が取り壊されたりして、都市の景観はかなり違ったものになってしまった。
戦後家康は松平忠明に伏見を支配させて、旧態にもどすよう努力したが、徳川の本拠地が関東にあるため、淀川水運に関係のある西国大名以外は、しだいに屋敷を引きあげてさびれていった。
この大名屋敷の跡は、毛利長門町などの町名となり、現在ではこれが伏見の町名の特徴の一つとなっている。

豊臣家の滅亡後は、松平忠明が大坂城主となった。
かれはこのとき大坂城三の丸を市街にすることを計画し、伏見京町の二十三ケ町を集団移住させた。
その結果、大坂に伏見の町名と同じ町名ができることになった。
こうして伏見は城下町としての機能をなくして、新しく交通都市として生まれ変わることになる。

河港としての機能は以前から存したが、それが整備され、大きな役割をはたすようになるのは、秀吉が伏見城の築城と城下町の形成にあたり、淀川(宇治川)の水路を改変してからである。
その後、高瀬川の開鑿により高瀬舟や過書舟の発着地としての位置も占めることになった。
また、六地蔵は、近江路への中継港となり、ここで荷揚げされた物資は牛車で大津へ運ばれていた。
これにともない、京や奈良・大坂・大津への宿場町としても発展していった。
伏見から大坂へ下るには、京橋や阿波橋から三十石舟に乗り込むことになる。
浪曲の主人公森の石松の「江戸っ子だってね。寿司食いねえ、酒飲みねえ」というセリフも、この三十石舟の船中風景だった。

町の発展にともない、遊郭が形成された。
それらをあげていくと、中書島、柳町、墨染、恵美須町、稲荷仲之町の五ケ所である。
中書島、柳町、の地は、脇坂晏治の屋敷跡であり、元禄七年(1694)、脇坂家の転封にともない、荒廃していたのを伏見の町人が元禄十二年願い出て開発し、翌年阿波橋西から遊女を移して遊郭としたものであり、赤線廃止まで続いていた。
恵美須町は俗に撞木町とよばれていたが、その成立年代は明かでない。
しかし、この遊郭は伏見のなかでももっとも有名であり、長唄「京鹿子娘道成寺」の毬唄にも「煩悩菩提の撞木町より」とうたわれている。

またここは「忠臣蔵」七段目一力茶屋の場のモデルになった場所である。
浅野家断絶ののち山科に閑居した大石は敵の目を欺くため、郭通いをつづけた。
山科閑居の地は現在の大石神社あたりと推定されるが、ここから大津街道を通り、橦木町の笹屋へ通っていた。
これはただ敵を欺く目的のみではなく、諸国の人々が行き交う伏見へ出て、種々の情報を集める目的があったのではなかろうか。

橦木町を示す石碑だけが残っている。


 
京の子供とお地蔵さま
小さな地蔵堂を舞台に、毎年八月二十三日と二十四日には子供たちのささやかなフェスティバルともいえる地蔵盆が行われる。
近頃、京都の郊外にも新興住宅地がつぎつぎと開かれているが、そこへ化野念仏寺の地蔵さまがもらわれていくらしい。

子供と地蔵の結び付きは、古く、深い。
寺町三条上る東側にある矢田地蔵の由来をといた『矢田地蔵縁起』ろいう絵巻には、賽の河原でひとりさびしく石を積んでいる子供を地蔵が救うという光景が描かれている。
現世と来世の分岐点にたって衆生を再度するという地蔵に、まず、子供たちの”救い主”の姿を見たのは、幼くして子供を失うことの多かったわが先祖たちの悲しい心であった。

空也上人の『地蔵和讃』の哀調にみちた詞章は、戻って読んで下さい。 「賽の河原」

子供にまつわる諸々の願い事を聞き届けてくれると、人々に信じられてきた地蔵さまが少なくない。
高山寺(西大路四条東北角)の本尊は、その名を”子授地蔵”と呼ばれ、子授安産の地蔵として知られる。
南北朝時代の暦応年間(1338〜41年)足利尊氏が、近江堅田のたんぼの中にあった地蔵の霊験を聞き及び、これを洛西、西院の東に安置し、のちに現在の地に移された。
この地蔵に残されている皮肉なエピソードを一つ。

足利将軍義政には嗣子がいなかったので、仏門に入っていた弟義視を還俗させ跡嗣に定めた。
おさまらないのは義政夫人富子。
どうにかして子宝に恵まれたいものと、足利家にゆかりの高山寺本尊”子宝地蔵”に詣で、鏡餅を供えて男子出産を祈念したところ、地蔵の霊験はたちまちにして現れ、かの女は立派な男子を得ることができた。
これが義尚だが、しかしこの義尚の誕生が将軍家の嗣子争いを招き、ひいては都を焦土と化した応仁・文明の大乱をみちびく原因となったのである。
もしこの地蔵尊に御利益なく、富子が懐妊しなかったら、かの大乱もおこらなかったかも知れないとなると地蔵の罪も軽くはない、ということになろうか。

丹波街道を西へ、老の坂のトンネルの石座の上に大福寺がある。
本尊地蔵尊は坐像ニ尺一寸、俗に”子安地蔵”と称されている。
むかし恵心僧都がこの堂を建てられたが、そのおりお詣りした産婦に建築材木の一片を与えたら、楽々と安産をしたというので、いまも松の木を削ってお守りに配っている。
陣痛の時、産婦にこの松の木片をくわえさせれば、お産が安らかだというのである。
この”子安地蔵”の縁起については長田久男さんの詩の一節を借用する。

 丹波老の坂 むかしの話し
 市森長者の お屋しきは
 悲しく深く とざされて
 姫ご難産 果てしなく
 南無や大慈悲 手を合わせ
 祈りむなしく ご成仏
 丹波老の坂 子安の地蔵
 市森長者の さくら姫
 み霊をのちの 世に残し
 生みの苦しみ なきように
 南無や大慈悲 安かれど
 こころ地蔵に こもるなり

安産を祈念する地蔵は多い。
極楽寺(富小路五条下る)の”安産地蔵”、醍醐善願寺の”腹帯地蔵”、浄徳寺の”世継地蔵”など、みなこの類の地蔵さまである。
蓮華寺(高野上川原)には”知恵受地蔵”、その数五百体。
この五百の地蔵の顔ににた子供に、知恵を下さるというのだ。
数が多いという点では、西福寺(東山松原)の”子育地蔵”は千躰を誇っている。
千人の子供を育てて下さるということらしい。
川端丸太町下るの”柳地蔵”も、子供の頭を良くしてくれる地蔵さまとして明治以来市民に親しまれている。
もっともこちらはお姿が異様で、目もなく鼻もなく耳もないのっぺらぼうの石ころが御本体。

嵐山薬師堂の境内には、子供の寝小便を治してくださるお地蔵さんがある。
むかしこの辺りに生まれた少年が、比叡山に登って修行を始めたのだが、この小僧さん、夜毎にお寝ショをする。
「小便垂れは、布団を背負わせて、塩を貰いにやると治る」という風習があって、ついにこの少年は布団をおわされて、門外追放の身となった。
「私は死んでお地蔵さんに生まれ変わりたい。世の中に私と同じように”寝小便”で困っている人を救うてやりましょう」

こう決意した少年の一念が凝り固まって、この地蔵尊となった。
子供の寝小便だけでなく、病気のためシモが不如意の人たちもたくさんお詣りするようになり、お礼にその人の年齢だけの階段をつけた”梯子”を奉納する慣わしが生まれた。
”梯子地蔵”と称するゆえんである。

(その他は、「ご利益」のページを利用して下さい)


ここは山城六地蔵
もともと六地蔵は、この世とあの世の境界に立って、われわれ衆生の現在、未来を救済してくれる菩薩さまであった。
それが日本で、村と村、国と国との境を守る仏としても、広く庶民の信仰を集めるにいたったのは、固有の「サイの神」信仰とうまく習合した故であろう。
村はずれならざる”都はずれ”に設けられた京都の六地蔵もまた、同様に、地蔵に道と境の守りを求める民間信仰に支えられていた。

平安のむかし、王城守護を祈願して、都へ通ずる六街道の口々に小野篁が刻んだ地蔵が、今日にいう京都六地蔵の起源だと伝えられている。
もちろんかかる伝説の常として、六地蔵縁起にはもっともらしい異説が多い。
小野篁が彫ったのは実は六つでワン・セットになるいわゆる六体地蔵で、それを平清盛が、あらためて六ヶ所に分置したという説も有力である。
そこへもってきて、篁が六体地蔵を最初に安置した場所にしても、木幡だとか、四ノ宮だとかいって、本家争いの絶え間がないと聞く。
「いや、元来は七カ所にあった」という主張も見える。
古くから、京都にかよう街道の入り口は”七口”と総称して、少なくとも七つはあったのだから、こちらの方がいかにも筋は通りそうだが、”七地蔵”というのはあまり聞いたことがない。
しかもこの説では、元祖は西光法師となっている。

ともかく、京都をとりまく、木幡、上鳥羽、四ノ宮、深泥池、常盤、下桂の六ヶ所に、年を経て鎮座したもう地蔵さまを”六地蔵”と呼びならわしているのは確かである。
江戸時代にはこれらを巡拝する六地蔵巡りも、なかなか盛んであった。

六地蔵の根本道場を自称する木幡大善寺の地蔵は、地名にも京阪電車の駅名にもその名をとどめ、上鳥羽地蔵は、袈裟御前と遠藤武者盛遠の哀話にまつわる恋塚でら − 正しくは浄禅寺にある。
近江と京の国境、四ノ宮の河原は蝉丸法師はじめ諸国の琵琶法師が参集して琵琶を弾じた場所といい、地蔵は曇英禅師の創建にかかる十禅寺本堂に安置されている。
深泥池地蔵は鞍馬に寺町頭。
常盤はもと蓮台野の地蔵なりとの異伝をともなう。
下桂薬師堂境内の地蔵は”梯子地蔵”といって、子供の寝小便を治してくれるという。
六地蔵はいずれも豊富な伝説にかざられている。

このほか、六地蔵のメンバーから外れているものの、平安京の外郭に祀られた地蔵として、丹波街道老の坂の地蔵を忘れることができない。
今では大福寺の本尊で”子安地蔵”と称され、安産を願う母親たちの信仰を集めている。


 
京都七福神
京都はかつて、政治の中心であったが、また商業の町でもあった。
そこには商売の繁盛を願う人達に信仰された神社・仏閣が少なくなかった。

茶道の方で著名な室町末ごろの武野紹鴎(オウの字が少し違います)は、四条室町上がる夷堂の隣に庵を結び、”大黒庵” と名付けた。
四条室町といえば、祇園祭の鉾町の真ん中、西陣と並ぶ京都の商業の拠点である。
夷の社のほとりに大黒庵を営むあたり、茶人らしい風流の気概がうかがえるのだが、その背景に「恵びす大黒は並びの物なり」とする紹鴎の町衆らしい”福の神”信仰があるのは見逃せない。
”福の神”は、いわずとしれた商売繁盛の神である。
それは商業が盛んになるにつれて、京都の市中にひろがっていった。

狂言にも”福の神”であるとか、”毘沙門””夷毘沙門”など、京都の福神信仰に題材を取ったものがいくつか見うけられる。
武神であった鞍馬の多聞天こと毘沙門も、狂言の世界ではすでに”福の神”に姿を変え、四ノ宮のエビスと「いずれ劣らぬ福天」の徳をたたえられている。
また「洛中洛外図」などに見える風流の仮装にも、福神がしきりと現れる。
もちろん”神”とはいえ、ほとんど外来の仏なのだが、そこは民間信仰のことだから、うるさく詮索したところではじまらない。
ただ、江戸時代になると”七福神”として、エビス、大黒、布袋、毘沙門、弁天、寿老人、福禄寿の福神も、それ以前では得体の知れない神仏が混じっていて、面喰ってしまう。

京都には”京洛七福神”とか”京都七福神”とか称して、行楽をかねて各所の福の神を廻る巡拝コースがある。
代表的な京都の”福の神”をひと巡りしてみる

山科毘沙門堂門跡
かつて京都出雲路にあったので、旧地にちなんで寺号を出雲寺という。
秘仏の毘沙門像は、伝教大師の作といわれ、一寸八分のごく小さなもの。
桓武天皇が冠のうちに納めて離さなかった持念仏だと伝えられている。

長楽寺
布袋がまつられている。
東福寺の開山、聖一国師が京都の市民に、「笑いを忘れないように」とみずから布袋の笑っている像を作って、配ったという。
その原型が長楽寺の布袋だとされている。
聖一国師云々の伝承はともかく、なかなかの優品である。
布袋和尚はもともと中国の禅僧。
”一所不在”をモットーに各地を托鉢して歩いたが、和尚の徳のいたすところか実入りが多く、持参の袋はいつもズッシリ重かった。

天龍寺
境内の大黒は”東向き大黒天”の名で有名。
かつて後水尾天皇の信仰が厚く、不如意をかこつ御所の財政を守れと、「東向き」すなわち御所の方向に向きを定めたというエピソードが残っている。
大黒天は本来、仏法の守護神で、天部に属する仏だが、日本ではいつしか大国主命のイメージと混同されてしまった。

建仁寺
えびすは、建仁寺を開いた栄西が宋からの帰途、かれを海難から救ったエビスと伝えられ、建仁寺の鎮守にまつられてきた。
俗に”建仁寺エビス”として知られている。

妙童堂(出町)
人(?)はよさそうだが、いかにもブオトコ。
京都では商家の倉に弁天をまつる風習もある。

福神ではないが、大宮慮山寺上がるに「倦怠期を祈る」神 − 七野神社がある。
この祠のまわりには南天の木ばかり植えてあって、この社のお守りにももの南天の葉が一枚入っている。
災難を幸福に転ずるように、「難転」つまり「南天」だという。

このほか、寺町の革堂に寿老人、麩屋町の大福寺に福禄寿をまつる。
ちなみに、世に収支の帳簿を”大福帳”と呼んだのは、ふるく大福寺の秘印をその巻頭に捺したからだそうである。


 
都糞尿譚 − 都市衛生の話
衛生の問題を京の歴史のなかに求めてみよう。
まず、人口が目立って増えはじめた中世、とくに室町時代の京都が浮かびあがる。
私たちが、その時代に立ちもどって洛中の街路を散策したとする。
清掃のことを中心に考えると、まず第一に気付くのは、土埃にまみれた街路には、紙くずというものがいっこうに見当たらないことであろう。
紙は貴重品であった。
チリ紙漉きの職人も、堀川筋にはたしかにいたのだが、日常はなをかんだり、おしりをふいたりするのに紙を用いることのできたのは、上流階級、町人のなかでも富裕層にかぎられていたといっても、あながち過言ではないだろう。

はなは手ばなで済み、しりは藁くずでよろしい。
一度使用された紙、たとえば手紙とかメモとか、下書きとかの紙は、もう一度裏面を利用され、しかるのち”すき返し”といって特別に”反故紙”ばかりを集めて漉きなおす”反故座”(専門の職人組合)の手に買い取られてゆく。

京都の街路に紙屑が現れるのは江戸時代、それもだいぶのちのことだったろう。
そのころには当然、屑買いも増していた。

紙屑のないかわりに、街路は土、泥、石にまじって犬猫馬牛の糞、たまには人さまのそれがころがっていたことだろう。
糞尿は、町屋の共同便所から汲みだされ、菜園の肥料にされたことと思われる。
近郊農村での主要肥料として、町々からこれを集めたかそうかはさだかではない。
下水道としては、町屋の裏を流れる溝川も、塵芥処理施設ではあったらしい。
洛西に物集女という地域がある。
この地名も古いようだが、その起こりを、洛中の塵芥処理と結びつけて見る説もある。

尿の話になるが、江戸時代に入ると京の町屋に蓄積されたそれは、高瀬川を上下する高瀬舟で洛南農村地帯へ運ばれていた。
この権利をめぐる争いが享保七年(1722)ころ爆発、都鄙上下の話題をひっさらったことがある。

ことのおこりは、洛中の町屋から汲み取られる”小便”が、近年、新規に洛南伏見の下三栖村より南方に運ばれ、遠方の村々に配分されるようになって「京都の小便払底に成」り、元来その権利を有していた高瀬川筋十一カ村(東九条村、東塩小路村、柳原庄、東福寺村、稲荷村、深草村、竹田村、毛利次郎景勝村、芹川村、上三栖、下三栖)がこれに抗議したことにある。
文字通りの横流しである。
このため十一カ村は、「耕作成り難く」なっていた。
横流しを受けていたのは洛西桂川 − 淀川沿いの西岡中筋の村々であった。
問題は十一カ村より高瀬川水運の全権を掌握して巨利を積んでいた角倉与一に訴え出されたものの埒があかず、結局京都町奉行所の手に移ることとなる。
西岡中筋の村々にとって、洛中の”小便”は不可欠であったから、必死である。
片や十一カ村も死活の問題として押し返すわけだ。
尿の・・・・・というといかにもくさいが、肥料の権利争いといいかえればスッキリもするだろう。

この争点となった洛中の町々からの小便は、「十一カ村」の焼印の入った規定数のタゴに収められて、”高瀬川一之船入”およびそれ以南の積みおろし場で高瀬舟に積みこまれ、南下し、東塩小路村 − 伏見三栖村間の”揚ケ浜”五十九カ所で順次降ろされるのが習慣であった。
終点は下三栖村付近の”高瀬川尻”。
これより南になると規定範囲外で、桂川下流、淀川上流沿岸の農民にとってはノドから手が出る思いではあったが、手も足も出ない。
結局何らかの方法で三ヶ所の荷揚げ場を設け、その横流しを誘っていたのが露見し、十一ヵ村に糾弾されるハメになった。
訴えられた側の西岡中筋八ヵ村は、自分達のほうにも高瀬川通船の焼印(を押したタゴの使用権)を下されたいと申し出、問題はますます紛糾、十一ヵ村側から一年に二千荷(一荷は二桶)に限って譲歩すると申し出て、これが調停案になったのだが、八ヵ村側はこれを呑まず、ついに、翌享保八年八月ごろ、一年四千荷を通船させる(西岡八ヵ村分として認める)ことでようやく妥協が成立、双方で証文が取り交わされた。
八ヵ村は、このため一年に八貫文の”浜雑用銀”という代償を支払うのであった。
四千荷が八貫文だから一荷につき二文、したがってタゴ一桶分が一文というわけである。

この間の汲み取り・配分のシステムの内幕をみると、洛中から汲み取られる小便の運送・配分権は洛南十一ヵ村連帯で有し、東九条村が”惣代”としてこれを責任統轄、そのうえ京都周辺の百五十二ヵ村への小便配分状況を見守っていたらしい。
従来、下京四条辺に住んでくみとりにあたっていた”替子之者” −洛中の家々を廻った− も、十一ヵ村の専属となって焼印を押したタゴを配給されることとなり、反則した場合は現物没収ときまった。
だが、焼印のあるタゴで汲み取って廻り、そののち内緒で焼印のないタゴに入れ替えて横流しする者も後を絶たなかった。
また、配分を受けた各村のなかには、溜め込んだ小便を仲介の村々へ内密に転売するのも現れたようで、露見すると、以後の配給は停止されるのであった。
直取り、十一ヵ村承認のもとで、単独で汲み取りに出かける村々の百姓にたいする制約もおのずと強められた。
使用するタゴが壊れると、新しいのと取りかえて新規に焼印を受けなくてはならず、もちろん又貸しは厳禁された。

ともあれ、享保九年ごろには、この小便騒動もいちおう落着をみたらしい。

ところで、三十数年後の宝暦十年(1760)春、この小便配分ルート上には”屎問屋”および、”直売・仲買”が顔をみせる。
屎問屋の惣代は、紙屋九兵衛、一文字屋助左衛門の二人、直売・仲介の惣代は一文字屋太兵衛、山城屋市兵衛、山形屋庄介、ニ文字屋清兵衛、柊屋善兵衛、二文字屋兵七、大和屋伊兵衛の七名であった。
このころすでに問屋と直売の対立が激しかったらしく、問屋側から、仲介・直売を停止してほしいと公儀に訴え出たところ、示談で解決せよということになって、小便の直売は三分、残り七分が問屋扱いという比率が決まった。
あれこれ総合すると、洛中の小便の集積 − 販売については屎問屋がその権利を手に入れていたものとみえ、高瀬川筋十一ヵ村惣代の東九条村庄屋・年寄中にたいして、買い取った屎の配分方については各村々の農事に支障なきよう心がけると誓約していたのである。

それにつけても、京の町々と近郊の村々をしっかりと結ぶ太いベルトの一つが”小便”であったことは、京の歴史の陰にひっそりとおさまっているものの、ほんとうは予想以上に大切な意味をもっていたのではあるまいか。


 
都風呂談義
京の都に町風呂がめだってふえたのは、室町時代のこと。

ひとくちに風呂というが、いわゆる蒸しぶろが風呂で、温湯にいきなり入るのは湯といい、町風呂、町湯となる。
上京は一条室町の風呂、百万遍の風呂などが、古くからきこえていたらしい。
その風呂と湯にまつわる話題を二つ三つ。

町風呂・町湯へは庶民だけでなく、公家たちもかよった。
邸にはもちろんあるのだが、こうした新風俗に気を惹かれることもおおかったのであろう。
妻子、供の者を引き連れて入浴を楽しんだ。
ところが脱衣場で大切な衣服がまぎれては困る。
というわけで一枚の四角な布をいつも用意した。
これが風呂敷の起源。
もっとも俗説ではあるが。

町風呂・町湯には、いろんな階級の者が出入りする。
入浴はしたいわ、”下賤”の者と交わるのはいやだわで、京の公家たちは共謀してこれを借り切る。
称して止湯 とめゆ(留湯)。
かなりの代金であったあったはずだが、心身の穢れは下賤の者とのふれ合いからも生じると信じ込んでいた古臭いお公家連中の苦肉の策ではあった。
もちろん、気楽な貧乏公家などはいっこう意に介さなんだことであろう。

京の都を一面の焼け野原にしてしまった応仁・文明の乱。
そのさいちゅう、昼間は(しかたなく)安物の刀を振るってヤァヤァ!と切り合い、突き合っていた東西両軍の足軽たち。
日暮れて、戦さ休みとなれば町風呂・町湯で一汗流していた。
敵味方、バッタリ裸で出くわすこともさいさいだったらしい。
現実というものを見てとることに至って敏なかれらのことだから、一汗流すこの楽しみをフイにはしない。
「やぁやぁ」というしだい。

下京の町に、”かうかう風呂”つまり”孝行風呂”という名の風呂がはやっていた。
風呂の主人がおのれの親孝行を売り物にしたわけか。
親孝行の美徳を讃えてのことか。
どっちでもなかった。
「ふかうに及ばぬ」の意であった。
孝行とは「不孝に及ばぬこと」。
これに「拭こう(背を流す)」の意を掛けたものであったという。
サービスに限りありというわけだ。


 
都茶話
茶そのものの話ではなくて、茶をめぐる人間どもの話。

室町幕府の三代将軍義満の頃、京都下京の樋口の道場に滞在していた女がいた。
年ごろ三十ばかり。
この女、十五、六の年からこのかた、茶以外のものは何一つノドを通さなかったと、もっぱらの評判で、道場の前は、その姿を一目見ようと連日黒山の人だかりであったという。
まんざらのいかさまでもなかったらしい。
異常体質なのかもしれぬが、茶の効用、飲茶風習の普及ということ_併せて、いかにも捨てがたい話ではある。 (『教言卿記』)

桃山のころか。
夏のさかり、民家に婆さん連が寄って茶を楽しんでいた。
そこへ通りかかったのが行商のあきんど。
「まあまちょっとひと休みしてゆきなされ」
喜んだのは商人。
のどはカラカラ。
「ああ嬉しい。三服ちょうだい」
「いかほどなりとも飲みなされ」
商人いわく
「いや、三服は空値じゃ。じつは一服だけでよろしいのじゃ・・・・・」

一服でいいところを三服とふっかけたあたり、商人根性がつい顔をだしたというわけか。

オメデタイ金持ちがいた。
当世大流行の茶の湯をたしなみたいものと、ある人に必要な物を問うたら、茶壷のいいものを、とすすめられ、「伊勢から出た”藤四郎”銘の良い壺」を代金八貫文で入手。
これを秘蔵して「平家法華経伊勢物語」と名づけた。

さて、その意味は −
平家 − 家(箱)が平たい。
法華経 − 全八巻 = 八貫文
伊勢物 − 壺の出所が伊勢
語 − 箱が誂えでなく、ありあわせのものなので、壺を入れて持ち歩くたびに「カタリ、カタリ」と鳴る。

これを総合するに「平家法華経伊勢物語」。
まことに有難い壺ではあった。

もう一つ壺の話。
「古今万葉集」という名の壺を珍重してすましこんでいる人がいた。
理由を聞いてもなかなか「深き心の程ゆかし」きために吐露しない。
ようよう語るところでは、
古 − 古茶
今 − 新茶
万葉 − 無常別儀ぞそり(薄茶の上等を別儀ぞそりと言い、その第三位を無常というから、これもやはり”茶”に引っ掛けた言いまわしである)
集 − いずれの茶でも集めている故
というわけである。
「無上」は第一級の意であるが、言葉としては茶の湯用語。
『万葉集』がのちの歌集にくらべて特別な訓法、語彙に富むので、これを「別儀」に掛けたのである。
それにつけても、むつかしいことであった。

東国の奥から都に上った男が、とある古寺に立ち寄って院主に会い、世間話などに時を忘れるまま、院主は菓子を出し、小姓をよんでいわく。
「いかにも、お茶を、もみじにてたてよ」
はて?といぶかった客が
「どういう仔細か」
と問うたところ
「ただ、こうように(濃う能うに)といったまでのこと」
との返事。
なるほど面白い言の葉よ、と感心したこの男、故郷に帰り、わざと親友を招いて一席の茶会を催した。
小姓に言い含めて
「お茶をもみじにてたて申せ」
と命じる。
さすがに此度、花の都へ上洛してきただけのことはある、みやびやかなことよと同席の友達は感じ入り、ついでにそのわけを問えば、
「こく、よくたて申せということだ」
との返事。
関東では「よう」とはいわず「よく」という。
かくて、「濃う能う」と「紅葉」の縁はぶっつり切れた。
都ぶりも、他国へ移すには容易でなかったというお話。

以上四話は、桃山〜江戸初期の京都誓願寺の坊主安楽庵策伝の『醒酔笑』にみえている。


 
京の町・京の家 壱
京の味
京の女とことば
京のよそおい
京の年中行事
京の水と道

 
- back -