京都の戦後の主な文化財火災

1950年7月2日
鹿苑寺(金閣寺)の金閣(国宝)が放火で全焼
 1950年(昭和25年)7月2日午前三時ごろ、鹿苑寺は雨に包まれていた。
人々があわただしく走り回る物音で目覚めた当時十四歳の修行僧、江上泰山は、前日故郷の福井から父親に連れられ、戻った矢先だった。
外に出ると、国宝金閣が炎を上げて燃えていた。
消防車も十一台出動したが、山門が狭いため大型ポンプ車が境内に侵入できず、小型消防車が鏡湖池から水を吸い上げ放水するのがやっとだった。
火災報知器の故障が、発見を遅らせたという。

火は一時間近く燃え続け、建物は一、ニ層の骨格だけを残し全焼した。
また、国宝足利義満座像など仏像五体も焼いた。

鎮火後、庫裏玄関の広間で点呼をすると、大谷大学一年生、林養賢=当時(21)=がいなかった。
林の部屋には普段使っていた布団や蚊帳、机、本などが何もなく、これらのものはその後、焼け跡から見つかった。
林も同日午後七時ごろ、左大文字山山腹で昏睡状態のところを逮捕され、「マッチで放火後、自殺しようとカルモチン百錠を飲んだが、死に切れなかっ た」と語ったという。

西陣署の取調べに対し林は「美に対する嫉妬と自分の環境が悪いのに金閣という美しいところに遊びに来る有閑的な人に対する反感からやった」と自供した。

林の母親=志満子・当時(50)=は事情聴取を終え、帰郷途中の山陰線の保津橋を越えたあたりで列車から保津峡に身を投じた。
林も事件の六年後、刑期を終え入院した病院で肺結核のため死去した。

元京都新聞記者でフリーライターの高木好澄さんは
「美に対する嫉妬というのはマスコミの脚色。放火の本当の理由は別のところにある」と初めて胸のうちを明かす。

大谷大学予科の二年間、林と同級生だった。
当時は物も自由に買えない食料統制の時代。
貧富の差は学生の間で大きかった。
「同級生なのに裕福な寺の子弟には毎週、門徒さんが米、野菜、醤油、金銭を持ってくる。新しい制服や靴が何着もある。
なのに、われわれは仕送りもなく、ぼろぼろの生活でした」
事件の二ヶ月前のある日、林ら四、五人の学友と車座になって話した。
舞鶴市安岡町成生の西徳寺の出身で、母子家庭でもあった林の話は一番先鋭的だったという。
林はいつもの持論をぶった。
「こういう不平等な社会なのに、寺が大寺院や大教団をつくり、世の中の差別を助長しているのはけしからん。
人類は根本的にやりなおさなあかん。そのためには、大衆から遊離している大寺院は焼いてなくしてしまったほうがいいんだ」と。

1954年8月16日
京都御所内の小御所が打ち上げ花火で全焼

1962年7月25日
壬生寺本堂が放火で全焼し、重文像などが焼失
 1962(昭和37)年七月二十五日午前二時ごろ本堂から出火。
木造の本堂が全焼し、重要文化財の仏像五体も焼失した。
当時の京都新聞は「日照り続きで乾燥していたため、火の回りが早く約三十分で完全に焼け落ちた」と伝える。
出火原因は放火だった。
鉄筋建て本堂の落慶法要が営まれたのは火事から八年後だった。

1962年9月1日
妙心寺の鐘楼(重文)が放火で焼失

1966年5月27日
妙心寺の塔頭・霊雲院の重文のふすまなどが放火で焼失

1966年7月20日
大徳寺の方丈(国宝)が放火され、重文の障壁画が焼失

1975年8月5日
伏見区の与杼神社本殿(重文)が花火の火で焼失

1975年10月7日
清水寺の本堂(国宝)の柱や床の一部を放火で焼く

1976年1月6日
平安神宮拝殿など9棟が過激派ノの放火で全焼

1987年3月12日
建仁寺塔頭・両足院の書院と庫裏の一部を焼く

1990年11月22日
桂離宮に迫撃弾4発が撃ち込まれる。
中核派が反皇室ゲリラと犯行声明

1993年4月25日
皇室ゆかりの三千院・仁和寺・青蓮院と伏見区の田中神社で同時放火
仁和寺で国宝の金堂の一部を焼く 中核派が犯行声明を出す

2000年5月9日
寂光院本堂全焼。放火の疑いあり
寂光院 新本尊 2005年6月3日より一般公開

2005年6月19日
世界遺産・仁和寺の僧侶学校またボヤ、放火の疑いも
 19日午後0時30分ごろ、世界遺産に登録されている京都市右京区御室大内、真言宗御室派総本山・仁和寺境内の僧侶養成機関「仁和密教学院」(木造平屋)で火災報知機が作動、院内宿舎の居室(5平方メートル)押し入れにあった衣装ケース1個と中の衣類、その上にあった掛け布団の一部が焼けたが、学院生らが消し止めた。
同学院では18日未明にも別の空き部屋で畳やぞうきんなどが焼けるぼやが起きており、右京署は放火の疑いもあるとみて調べている。
同署によると、居室には修行僧が寝泊まりしていたが、出火当時は不在だったという。
 
 

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