■■■ 上賀茂神社

上賀茂は上賀茂神社のあるところとして知られる。
松ヶ崎の西、賀茂川の東畔にあって、北に神山を負い、南は下鴨にいたる肥沃な地を占めている。
もとは愛宕郡上賀茂村と称し、都市近郊の農村であったが、今は北区上賀茂町を冠称する住宅地。

賀茂とは、神武天皇が紀州熊野から大和に入られるとき、八咫烏として先導した賀茂建角身命を祖とする賀茂氏一族の居住地によるもので、この一族ははじめ大和の葛城山の峰から山城国岡田の賀茂に至り、それより北上して賀茂川をさかのぼって山城北部に定着し、この地方一帯を開拓した古代豪族である。
下鴨神社(下社)はこの建角身命とその女王依姫命を祀り、上賀茂神社(上社)は玉依姫命の子別雷命を祀った氏神社である。
この下上社を総称して賀茂神社といい、世々賀茂氏一族のものが祠官として奉仕してきたが、この一族中からは史上に有名な慶滋保胤をはじめ、賀茂能久・氏久・季鷹などを輩出した。
明神川のほとりには、土塀・門構えの社家の古い家々が建ちならび、吉田の社家街とともに他所にはみられぬ風景を呈している。

【上賀茂神社】

北区上賀茂本山町に鎮座する本市屈指の古社。
正しくは賀茂別雷神社といい、下賀茂にある賀茂御祖神社を下賀茂というのに対し、上賀茂神社と称する。

当社は別雷命を祭神とする賀茂氏の氏神であり、また賀茂郷の産土神で、その創祀はきわめて古い。
『釈日本紀』に引く「山城国風土記」逸文によれば、日向国曽の峰に天降った賀茂建角身命は、その後、久我国の北山基に来住し、丹波国神野の伊可古夜日女をめとり、玉依日子・玉依日売をもうけた。
ある日、娘の玉依日売が瀬見の小川(賀茂川)で遊んでいると、丹塗りの矢が流れてきたので、それを拾いとり。床の辺りにおいたところ、それに感じて孕み、期満ちて男子が生まれた。
その子が大きくなった頃、祖父の建角身命は神々を集めて七日七夜の饗宴を催し、その席上で汝の父と思う人にこの酒を飲ませよといったところ、子は天に杯をささげて昇天してしまった。
よってその子を別雷命と名付けた。
丹塗りの矢は乙訓郡にいます火雷命(注1)である云々と記されている。

別雷といい、火雷といい、雷神は農耕に必要な水を給与する神として古代農民から崇敬された。
この崇敬の心を神話化したのが上の「賀茂伝説」であるが、また松尾大社を奉祀する古代豪族の秦氏と山城北部に栄えた賀茂氏との結合を説いていることにも注意をしなければならない。

したがって当社の創建はすこぶる古く、欽明天皇の御代にはすでに今の葵祭の濫觴である賀茂祭が存したといわれ、奈良時代には取締りを必要とするほどに栄えていたようである。
それが平安遷都にあたって王城の守護神とあがめられ、伊勢神宮につぐ崇敬を得、嵯峨天皇の御代には、それまで賀茂氏の女が奉祀してきた忌子に代り、皇女が斎王として奉祀される等、国家の祭祀に与るに至った。
奉幣は歴代天皇ごとに行われ、ことに祈雨・止雨の奉幣は何回となくあった。
また行幸は桓武天皇以来、六十余度におよび、御幸は白河天皇をはじめとしてしばしば行われた。

また延喜の制には名神大社に列し、寛仁二年(1018)には神領として愛宕郡十二郷のうち、四郷を除いた八郷を上下両社に寄進される等、社運は隆盛をきわめた。
中世には山城国一ノ宮となり、明治初年には官幣大社に列し、全国の官国幣社の首位におかれた。
しかし、第二次大戦後はかかる社格は廃された。

鎮座地は賀茂川の東畔、背後に御生山(神山)を負い、前に楢の小川の流れるところにあって、六十六万四千平方メートル(注2)におよぶ広大な神域内には、幾多の桧皮葺の典雅な社殿が建ちならび、王朝時代さながらの景観を呈している。

社殿は二十年毎に造営されるならわしになっているが、今のは文久三年(1863)建造の本殿・権殿を除いて他は寛永五年(1628)の造営にかかわるものばかりで、おおむね四十二棟を数える。
このうち本殿は平安時代以来の古制を今によく伝え、権殿とともに国宝建造物となり、他の四十棟は重要文化財に指定されている。

流造りは平安初期にできた神社建築の一形式であり、山城国に流造りの社殿が多いのは、当社にならったものであろう。
 

[賀茂祭(葵祭)]

毎年五月十五日に行われる上賀茂・下鴨両社の例祭をいい、祭りに供奉する人々が、その冠帽に葵桂を飾りつけるところから葵祭と称する。
アオイはアフヒ(向日)の訛ったもので、陽を仰ぐことから名付けられたといわれ、別雷神を太陽神として崇敬したのに因んで、葵を用いたものであろう。

祭りのはじめは欽明天皇の御代といわれるが、あきらかにしない。
賀茂氏やこの地の住民の単なる祭礼として行われていたのが、弘仁二年(819)官祭となり、以後は国家的な朝廷の行事として取り扱われるに至った。
この祭りがもっとも盛大に行われたのは藤原時代で、その優雅典麗な行列は当時の人々の耳目をおどろかせ、この行列を見んものと沿道にはいたるところに桟敷をかまえ、物見車や見物人で雑踏をきわめた。
『源氏物語』にある源氏の妃葵の上と六条の御息所の車争いは、この祭見物によい場所を先取りしようとして起こった争いである。

爾来、日本三勅祭(賀茂・石清水・春日)の第一として鎌倉時代にまでおよんだが、応仁の乱以来中絶してしまった。
元禄七年(1694)に再興され、明治維新までつづいた。
その後また中絶し、明治十七年(1884)岩倉具視等の尽力で官祭として再興された。
今は葵祭行列協賛会によって行われている。

行列は近衛使代を中心にして京都御所を出、市中を練行して下鴨神社に参向し、社頭の儀を行う。
午後は賀茂堤を北上して上賀茂神社に参着し、同じく祭儀が厳修される。
折しも薫風香る五月晴れの下を、平安時代の風俗そのままの行装した人々がうねり行くさまは、さながら一幅の絵巻物を見る如き感を覚える。

葵祭りの歴史 -「祭りと行事」より- ブラウザの戻るを利用のこと

今から約1.400年前、欽明天皇の世に、天候不順が続き風水害と凶作に見舞われた。
天皇が卜部伊吉若日子に占わせたところ、賀茂皇大神の祟りであるという。
そこで神託の通り馬に鈴をつけ、皇子を勅使として賀茂両社に詣らせ祭祀を行なったところ、風雨はやみ、五穀豊穣になった。
これが祭りの起源とされている。
平安時代になって、朝廷は王城鎮護の神として賀茂神社を崇め、大同元年に官祭としての賀茂祭がはじめられた。
嵯峨天皇の時より、伊勢神宮と同じように皇女を斎王に任命することが始まり、さらに白河天皇の時から行幸の儀が慣例化した。
その後、石清水八幡宮、春日大社、の祭りとともに日本三大勅祭とされ、鎌倉時代まで続き、応仁の乱で一時途絶えた。
江戸時代になって、将軍綱吉によって元禄7年に再興された。
東京遷都とともに再び廃れたが、明治17年、岩倉具視によって官祭として復活、祭日も5月15日に改め、今日に至っている。
この賀茂祭を葵祭りと呼ぶのは、祭りの当日、内裏神殿の御簾をはじめ、御所車、勅旨、供奉者の衣冠、牛車にいたるまで、すべて葵の葉で飾るところからこの名になったと伝える。
この祭りの特徴は、氏子や町衆の参加しない国家的な行事として行われて来たことで、我が国の祭りの中でも、唯一王朝風俗の優雅な伝統を保ち続けている。

☆ 行列コースとその通過時間 ☆

京都御所出発(午前10時30分)堺町御門 → 丸太町通 → 河原町通 → 下鴨神社到着(11時40分)
社頭の儀・出発(14時10分) → 下鴨本通 → 洛北高校前(14時30分) → 北大路通 → 北大路橋(14時45分) → 賀茂川提 → 
上賀茂神社到着(15時30分)

[賀茂競馬]

五月五日午後三時より行われる。
堀川天皇の寛治七年(1093)宮中で菖蒲の組み合わせに勝った殿上人や女房達が、その報宴に競馬を奉納したのが起こりとつたえる。
当日は午前中、馬場に設けられた頓宮で乗尻(騎手)一同の菖蒲の組み合わせ式が行われる。
乗尻は左右に分かれ、左方は打毬、右方は狛鉾の楽服を着け、乗馬にて社頭に参入し、勧盃、日形乗、月形乗、祓を終わって本殿前庭に参進し、奉幣の儀を行う。
次いで馬場に於いて駆けくらべをする。

[烏相撲]

九月九日午前中に行われる。
この日は重陽の節句にあたり、国家安泰の祈願祭が行われ、その後、境内細殿の前庭に出て氏子少年たちによって相撲の奉納がある。
それに先立って烏に扮した二人の刀祢が弓矢を持って東西から進み出て、盛り砂の前に弓矢をそなえ、扇で三度あおぎながら、「カアカアカア」「コウコウコウ」と烏の鳴き声で受け答えをする。
奇妙でユーモラスな行事というべく、これも八咫烏といわれた賀茂建角身命に因むものであろう。

片岡山

上賀茂神社本殿の東南にある低い山をいう。
片山ともいい、古くは賀茂山・二葉山・日蔭山ともいわれた。
『枕草子』201段には「岡は船岡、片岡」と記され、歌枕としても有名な山である。

[片山御子神社]

一に片岡社とも称し、片岡山を神体山とみてその西麓祀られている神賀茂神社の境内摂社の一である。
延喜の制には大社に列せられ、本社と同じく四度の官幣ならびに相嘗祭にあずかった。
祭神は地主の神といわれ、本社の恒例祭には先ず当社に於いて祭祀を行うのを例とされた。
現在は玉依比売命を祭神としている。

[須波神社]

上同所の南に鎮座する。
祭神は阿須波神外四柱とし、本殿の前庭を守護する神という。
中世廃絶していたのを、この地に再興されたもので、現在式内の須波神社に比定されている。

[賀茂山口神社]

片岡山の南麓に鎮座する。
一に沢田社ともいい、須波神社とともに上賀茂神社の境内摂社の一である。
御歳神を祭神とし、本社の御田をはじめ神領地の田畑の守護神として崇敬され、六月十日の御田植祭には、当社に於いても祭典を奉仕するならわしになっている。

[岩本社・橋本社]

ともに御手洗川に沿うて南北に鎮座する境内末社の一である。
両社は古来和歌の守護神とあがめられ、『徒然草』67段にも祭神は在原業平・藤原実方とするという説があったが、これは両人が和歌の上達を祈り、歌詠みとして名声を得たことが後に誤伝されたものといわれる。
現在の祭神は岩本社は衣通姫、橋本社は住吉三神(表筒男・中筒男・底筒男)となっている。

[楢の小川]

片岡山の西麓を流れる小川をいう。
本殿の東側から流れ出る御物忌川と西側から流れる御手洗川とが、橋殿の北で合流して楢の小川といい、末は明神川となる。
川の名前はこの流域に鎮座する奈良神社による。
かの小倉百人一首に選ばれた藤原家隆の歌の
 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける (壬二集、十)
とは、六月三十日の夜に行われる当社の夏越の祓の光景を歌ったもので、今なお朗詠や管弦のもとに優美厳かに行われ、しばし王朝時代にある思いをさせられる。

神山

上賀茂神社の西北約二キロにある高さ三百一メートルの円錐形をした一孤峰をいう。
山頂には磐境・磐座ともいうべき多数の糜爛珪石の露出した岩石によって囲ギョウ(糸に尭)されている。
そのもっとも大きなものを降臨石といい、別雷神の降臨地という。
社殿のなかった頃は、この山を御神体として崇拝していたのを、のちに山麓に社殿を営んだのが上賀茂神社である。
されば同社本殿はこの山を遥拝する位置に建てられているといわれる所以である。

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注1)
もと乙訓郡乙訓村にあった乙訓坐火雷神社の祭神大山咋命。
同社は現在向日市の向神社に合併。
また同神社は秦氏が奉祀した松尾大社と祭神を同じくする。

注2)
このうち平坦部は十四万八千平方メートル、山林部は五十一万六千平方メートル。



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