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旧府社で、古来方除けの神として朝野の崇敬があつい。

社伝によれば、当社は神功皇后が三韓征伐のとき、兵船上に立てられた御旗をのちに宮中に奉安し、皇后と八千戈神とともに奉斎したのが起こりとつたえ、桓武天皇はまた平安京遷都に際し、国常立尊を併記して王城の守護神とされたとつたえる。

しかし史上における初見は『延喜三年(925)八月、城南寺祭行幸』とある。『吏部王記』にみえる一文によって、平安中期ごろから城南寺の鎮守社として、神社よりもむしろ寺として知られていたものであろう。
とくに祭礼は「城南寺明神御霊会」ともよばれて祈雨の祈願が行われ、また競馬が盛大に行われたことで有名であった。

応徳三年(1086)鳥羽離宮が造営されると寺や神社はその城内となり、競馬は離宮の年中行事として引き継がれ、毎年五月に催された。
この競馬がいかに盛大なものであったかは、承久の変にあたって後鳥羽上皇が、城南寺の流鏑馬に託して、ひそかに鎌倉幕府打倒の兵をあつめられたことによっても想像される。

応仁の乱後、離宮は荒廃し、城南寺も転退したが、神社だけは残った。
中世以降は上鳥羽・下鳥羽・竹田三ケ村の産土神として崇敬され、明治三年(1870)城南離宮皇神と称したが、いつしか城南宮とよばれるに至った。
明治十年(1877)には式内真幡寸神社と認定されたが、昭和二十七年(1952)再び城南宮とあらため、真幡寸神社は芹川神社とともに境内末社として奉祀されている。

鎮守地は「城南の森」といわれるうっそうたる樹木の中にあって、境内中央の参道をへだてて北部には本殿以下多くの社殿が建ちならび、南部には社務所・参集殿・庭園および駐車場がある。

このうち本殿(昭和)は一見権現造りを思わせるような複雑な構造をしている。
平安・鎌倉の建築様式に統一された純和洋建築で、平安時代の日本建築を知る上での貴重な建物である。

また庭園楽水苑(昭和)は本殿背後と境内南の二ヶ所からなっている。
前者は「春の山」(築山)を中心に源氏物語ゆかりの草花を多数植え、王朝の絵巻の再現をはかろうとしたものであり、それにつづく「平安の庭」には築山を背景にして滝を設け、池中に中島を配して池泉廻遊式とした庭園で、園内を流れる遣水のほとりでは、毎年春秋二回、曲水の宴が行われる。

後者は「室町の庭」・「桃山の庭」とよばれ、室町・桃山両時代の庭園手法を巧みに採り入れ、池と枯山水を主とした豪放な庭園となっている。
またその東部には噴水を中心にした「現代の庭」とよばれる洋風庭園があって、各時代の庭園の粋をあつめている。

[城南祭] 毎年十月二十日

三基の神輿が氏子区域を巡幸する。
むかしは一に「血祭り」といい、日ごろの水争いがこの日に至って爆発し、氏子のあいだで喧嘩が行われたという。
また一に「餅祭り」ともいわれるのは、餅をつくって大いに客をもてなすからである。
『滑稽雑談』によれば、客に手杵を腰に七・八本も帯させ、腹のふくれるにしたがって一本ずつ抜かしたという。
これに因んで飽食することを俗に城南神祭とよんだ。



 
 

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