■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

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● らくがき寺

→ 巣伝寺を参照のこと (未だ書いていない)

● 落雁

打物の干菓子。
麦こがし・きな粉などを水飴や砂糖で練り、型にはめてつくる。
室町期、北陸を巡錫した本願寺五世の綽如時芸が、糯米の粉を固めて黒胡麻を散らした菓子を、雪の上に雁が下りた姿にみたてて命名し、御所へ献じたのに始まると伝える。

● 楽行舎

心学講舎の一。
文政十三年(1830)薩タ(土に垂)徳軒の子、誠斎が油小路通丸太町上るに解説。
徳軒は時習舎の都講をやめ、隠居所として楽行舎に移り住んだ。

● 落柿舎

嵯峨野にある向井去来の閑居跡。
去来はもと聖護院村に住んだが、元禄(1688〜1704)初年嵯峨に古家を求め、農民や町人も出入りできる俳諧道場とした。
当初は下嵯峨川端村の後方にあったという。
名称は、ある商人が家の周りの柿の木を立ち木のまま買い求めたが、一夜のうちに実が落ちたという話による。
元禄四年(1691)松尾芭蕉が訪ね十七日間滞在。
その間の随想が『嵯峨日記』。
去来の没後荒廃、明和七年(1770)俳人井上重厚が当地に復興し、二年後「柿主や木ずえはちかきあらし山」の句碑を建てた。
のち天龍寺の子院弘源寺の老僧の隠居所となったが、明治期に有志が再興、現在は落柿舎保存会が管理。
去来のほか芭蕉・高浜虚子・山鹿柏年などの句碑がある。

● 落書 らくしょ

社会や政治を風刺・批判した匿名の文書。
匿名の告発書をいうこともある。
前者の例としては「江談抄」に載る嵯峨天皇の時の「老善悪 さがなくばよかりなまし」の落書の説話、「建武年間記」に収録する二条河原の落書などが有名。
この系統の落書で、詩歌形式をとるものを落首という。
後者の告発書の落書は、中世、社寺の境内における犯罪人の摘発などに盛んに用いられ、その内容も盗犯・姦通の告発など多岐にわたる。
近世に入っても前者は前代までと同じく落書と呼ばれたが、下劣な内容のものが多くなり、風刺・批判の精神は鈍った。
また告発の落書も、張文・火札・火書となって生き続けたが、告発書というよりも放火などをもって威嚇する脅迫状に変質した。

● 洛中地子銭

中世・洛中に所領をもつ庄園領主がその屋敷地に賦課した税。
元亀四年(1573)に織田信長が、天正十九年(1591)豊臣秀吉が各々洛中地子銭を免除した。
秀吉は地子銭免除に際し洛中の庄園所領の替地を洛外にあてたので、中世的土地所有は洛中から一掃され、洛中は統一的に秀吉の支配するところとなった。
徳川家康ももの政策をうけ継ぎ、寛永十一年(1634)洛外町続き町の地子を免除した。

● 洛中神明社二十一社

天照大神を祭神とする神明神社のうち、特に近世において洛中で著名であった二十一社をいう。
江戸中期には、
一番 吉田本社後の宮
二番 寺町通下御霊の内
三番 寺町通今出川上る長福寺内
四番 塔の段ぎょうじくはんの内
五番 御霊のうち
六番 柳原川勝の辻子
七番 野東の鳥居二丁上る
八番 出水通千本東へ入る
九番 姉小路通新町西入る
十番 仏光寺通新町
十一番 寺町通四条辻
十二番 四条通建仁寺町角
十三番 三条通黒谷車道一町東
十四番 粟田口山上
十五番 祇園塔の下
十六番 霊山国阿上人ノ上
十七番 五条若宮八幡の内
十八番 稲荷の内奥の社へ行(く)道
十九番 麩屋町通五条上る
二十番 富小路通五条上る
二十一番 綾小路通東洞院東入るの各社

● 洛中洛外

平安京では左京を中国風に「洛陽」と称し、右京の衰退後、「京都」のほかに「京洛」「洛陽」とも別称したので、市中にあたる空間域を「洛中」、その近郊を「洛外」と呼ぶようになった。
その呼称は特に中世以後用いられたが、その地域概念は必ずしも一定しない。
十六世紀前半には、ほぼ一条以南、九条以北、鴨川以西、朱雀以東をもって洛中とし、その周辺を洛外とする。
洛外については、いっそう不分明であるが、東西北はそれぞれ三周の山際とする。
ただし東は四ノ宮河原(現山科区)の近江国境まで含まれる。
南は桂川と鴨川の合流点に近接する下鳥羽・横大路付近までとされる。
この比較的あいまいな洛中洛外の概念を明確にしたのは、天正十九年(1591)豊臣秀吉が築造したお土居である。
五里二十六町に及ぶ土塁は、中世には洛外とされた農村地域を囲い込む、広大なものであり、東と南ではあまり変化はないが、北・西は大きく突出し、拡大を特徴づける。
以後近世を通じて、これが原則的な概念となるが、近世中期以後には、鴨川東部が発展し、準洛中的扱いをうけた。

● 洛中洛外図

洛中洛外の名所・祭礼などを部分的に描くことは古くからあったが、六曲一双という大画面に京都全体を大観的に描くことは室町も末になってから始まった。
「実隆公記」永世三年(1506)十二月条に、越前の朝倉氏が土佐光信に注文して「京中」を描いた新図の屏風を新調したとあるのが最も古く、現存作品では大永五年(1536)頃の景観を示す旧町田家本(重要文化財)、天正二年(1574)織田信長が上杉謙信に贈った狩野永徳の上杉本(重要文化財)などが古く、元禄頃までひき続いて描かれた。
書記の屏風は洛中をほぼ一条あたりで区切り、右隻に下京、左隻に上京を描き、のちのものの多くは右隻に内裏と祇園社、左隻に二条城を描く。
旧町田家の登場人物は約千三百人だが、慶長末頃の旧舟木家本では二千五百人んも及び、京都の町の人々の生活への興味が中心をなす。
近世初頭の京都を知る上でも貴重な資料。

● 洛東遺芳館

江戸初期の豪商柏原家の旧宅。
昭和五十年屋敷を公開し、歴代当主(柏屋孫左衛門)がのこした家財道具・婚礼調度品・家業経営記録・日常生活用品などを展示。
同五十二年、敷地内に土倉風の展示館を設け、春秋二回公開。

問屋町通五条下がる西側。

● 楽美術館

楽焼窯元の楽家に伝来する陶芸品の展示施設。
油小路通中立売にある。
昭和五十二年公益財団法人として設立。
初代長次郎以来四百年にわたる歴代の楽陶工芸品を中心に、茶道工芸品・関係古文書などを収蔵。

● 楽焼

安土桃山期、帰化人阿米夜が創始したと伝える手捏ねによる低火度の陶器。
その子長次郎は聚楽第に出て赤黒釉の茶碗を製し、聚楽焼と呼ばれたのが名称の由来ともいう。
長次郎は豊臣秀吉から「楽」の金印を賜り楽を姓とし、子孫は代々楽吉左衛門を名乗り、茶陶家として現在に至る。
楽焼には赤楽・黒楽があり、赤楽は初期には聚楽土を使用したが、現在は近県産の粘土に京都産の黄土を化粧土として用いる。
黒楽は釉薬の原料として加茂川石を使用。
なおこの楽焼から転用して、七百五十〜八百度前後の低火度で焼成した軟質の陶器を一般に楽焼と称し、観光地で土産物として販売したり、学校用教材として製作する。

● 洛陽三十三所観音

西国三十三所観音霊場になぞらえて、室町期に洛中洛外三十三所観音が成立し、新三十三所と呼ばれた。
江戸期に定着し、六角堂・長金寺・下御霊・革堂・新長谷寺・吉田寺・長楽寺・七観音院・青龍寺・清水寺地蔵院・清水寺奥千手・清水寺本堂・清水寺朝倉堂・清水寺泰産寺(子安観音)・六波羅蜜寺・愛宕念仏寺・三十三間堂・善能寺・今熊野観音寺・泉涌寺・法性寺・常光寺・東寺・長円寺・妙寿院・松雲寺・観音寺・西蓮寺・長宝寺・地蔵院(椿寺)・朝日寺(観音寺)・天王寺・清和院の巡拝が盛んに行われた。

● 洛陽十景

京都の名勝・景観の代表的なものを選んで讃えたもの。
「京羽二重」によると
清水仏閣(清水寺)・知恩鐘色(知恩院の鐘)・鞍馬古樹(鞍馬寺)・稲廟紅葉(伏見稲荷大社)・東山秋月・天台晴雪(比叡山)・獅谷群鷲(法然院)・宕岩片雲(愛宕山)・山階夕照(山科)・鳥野古松(鳥辺山)の十箇所。
ほかに東山・清水・愛宕・醍醐など、名勝に八景・十景・十境・十二景が数えられた。

● 洛陽十二社霊験記

神社縁起。
応機庵主(松浦星洲)著。一巻。
文政十一年(1828)刊。
神泉苑龍王宮・北野大将軍・千本通閻魔堂・大宮森神社・上賀茂片岡社・美曾呂池地蔵・下賀茂河合社・同所柊宮・祇園薬師堂夜叉神・同末社美御前・清水大日堂・東寺八島社の十二ヵ所の神仏について、その本尊・祭神の縁起や由来・霊験・威徳を述べる。

● 洛陽天満宮二十五社

菅原道真を祭神とする天満宮(天神)のうち、特に近世において洛中で著名であった二十五社をいう。
江戸中期には
一番 菅大臣天神
二番 北菅大臣
三番 寿福院天神
四番 東寺天神
五番 吉祥院天神
六番 行衛天神
七番 綱敷天神
八番 一夜天神
九番 朝日天神
十番 天道天神
十一番 立願寺天神
十二番 祇園天神
十三番 下御霊天神
十四番 安禅寺天神
十五番 菅家天神
十六番 長福寺天神
十七番 上御霊天神
十八番 水火天満宮
十九番 清和院天神
二十番 御輿岡天神
二十一番 文子天神
二十二番 安楽寺天神
二十三番 経王堂天神
二十四番 観音寺天神
二十五番 北野天神 の各社。
時代によって組み合わせは異なり、錦天神・飛梅天神・書聖天神などを数えることもある。

● 洛陽名所集

地誌。
山本泰順。十二巻。万治元年(1658)刊。
別名、都物語。
洛中洛外の名所・社寺およそ三百ヶ所を巡覧、その由緒・縁起を記し、和歌を併記。
紙屋川の頁では「○此川は。北野の西平野の東也。むかしは。こゝにて紙をすきけるとなり。或は。神谷川ともかけり。世俗に かひ川と云ならはし侍りぬ。○鏡石 紙屋川のうへなる巨石也。紀貫之歌に。うば玉のわが黒髪やかはるらん鏡のかげにふれる白雪とよめるこれなり。○高橋 紙屋川の上にかくれる橋也。」(巻八)とある。

● 羅生門

芥川龍之介の短編歴史小説。
大正四年「帝国文学」に発表。
平安期の「今昔物語」巻二十九「羅生門上層に登りて死人を見し盗人の語」が典拠。
人間のエゴイズムが主題。
平安末期の荒廃した京都、生きるすべを失った下人が死人の捨て場となった羅生門に雨宿りをする。
門上には生きんがために死人の髪を抜くという罪な行為をする老婆がいる。
下人はその老婆の着物を剥ぎ、蹴倒して闇に消え去る。

● 羅城門

朱雀大路の南端にあった平安京の表玄関。
間口七間、奥行二間、重層。
天元三年(980)の暴風雨で倒壊、以後再建されなかった。
東寺にある兜跋毘沙門天像(国宝)はもと羅城門上に安置されたものと伝える。

● 洛下の三筆

能書家として知られた角倉素庵・本阿弥光悦・松花堂昭乗をさす。
横井時冬の「芸窓襍載」や東条琴台の「先哲叢談続編」にみえる。
しかし組合せは必ずしも一定せず、享保十八年(1733)刊の「本朝世事談綺」には「其頃京都三筆ト祢スハ 大山公(近衛信尹)、光悦、昭乗ナリ」とあり、信尹・光悦・昭乗のいわゆる寛永の三筆といった語が一般的に定着する以前の呼称とみられる。


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● 利休忌

千利休の忌日に行う法要と茶会。
利休の忌日は天正十九年(1591)二月二十八日であるが、現在表千家では三月二十七日、裏千家では三月二十八日に利休忌を営む。
忌日を一ヶ月繰り下げた原因を、二月が厳寒のため参会の便を考慮したものとか、天正十九年は閏正月があったためとかいうが確定しがたい。
江戸期には利休の100年忌・200年忌などに際し、二月二十七日を最後とする100会の追善茶事を催したが、明治以後、現在のようになった。
裏千家今日庵では利休堂の木像の前で大徳寺の僧の読経があり、茶室咄々斎で利休画像、遺品の三具足を飾り、献茶・七事式を行う。
墓もある利休ゆかりの大徳寺塔頭聚光院でも法要を営む。

● 利休堂

茶道の祖千利休を祀る堂。
一般には利休像を奉安した茶席も利休堂と呼び、岡山県の後楽園のものが知られる。
上京区小川通寺之内上ル本法寺前町の裏千家の利休を祀る祖堂は重要文化財。
静寂院と称す。
四世仙叟が利休100年忌にあたる元禄三年(1690)に建立。
天明の大火で焼失したが、十一世玄々斎が旧規に基づいて再興。
内部は三畳中板に上段が付き、上段左に板床、正面奥に利休木像を安置。
点前座には蛤棚を竹で吊り、祀堂・拝所・点茶所を配する。
又隠席から奥待合へ続く露地の南側に、樹齢三百年、千宗旦の手植えという宗旦いちょうの大樹がある。
奥待合から黒文字垣に沿って北行し、半蔀をくぐると利休堂の内露地となる。
躙口付近の飛石は草庵らしい簡素な趣をみせる。
ほかに同区表千家・武者小路千家のものも有名。

● 龍神信仰

龍神は仏法守護の八部衆の一。
雲雨を自在につかさどるといい、雨を祈る修法に勧請された。
祈雨では特に中京区の神泉苑が著名で、東寺の空海が西寺の守敏と降雨の霊験を競い、天竺の善女龍王を勧請して効が著しかったという伝説がある。
以来、神泉苑は祈雨修法の場となり、現在も放生池の中に善女龍王を祀る。
また伏見区醍醐山の守護神である清滝権現は青龍の信仰といわれ、醍醐寺の開山聖宝が勧請した清滝宮が上醍醐にあり、その分身を平安後期、承徳三年(1099)に下醍醐に勧請した。
ほかに左京区貴船神社も龍神信仰で知られ、同社奥宮には日本三大龍穴の一つ貴船龍穴がある。

● 流民集所

明治維新の混乱の中で新政府がとった困窮者救済策の一。
当初京都に中央政府が置かれたためもあって、京都府はいち早くこの施策を推進し、明治元年十一月、堀川通・千本通・塔ノ壇・六角通・六波羅の五ヵ所に設置したが、詳細は不明。

● 遼廓亭

仁和寺にある茶室。
重要文化財。
尾形光琳の好みと伝え、もと光琳の住居の何似宅にあったという。
主室は北と東の二方に縁をめぐらした四畳半。
これに次の間・控の間・勝手・茶室が付く。
茶室は如庵の写しで、有楽窓が連子窓にかわるなど、変化はみられるが、ほぼ忠実な写しとされる。
如庵に比べて総体に木割がやや細く、外観も瀟洒。
周辺に築山・池・枯流れや、自然石の橋などを取り入れ、露地も優雅な趣を呈す。

● 梁塵秘抄

歌謡集。
十二世紀後半に成立。
後白河院撰。
歌謡集十巻、口伝集十巻の二十巻であったが、現存するのは、歌謡集巻一(断簡)と巻二、口伝集巻一(断簡)と巻二。
現在歌謡五百六十余首。
歌謡集は今様と諸歌謡を収め、口伝集は音律の秘伝や芸暦などを記す。
今様は今様歌で、七五調を基調とする。

● 霊山歴史館

幕末・明治維新史の資料展示館。
昭和四十五年、財団法人霊山顕彰会が明治維新で活躍した志士の事績を伝えるために開館。
志士の遺墨や遺品類を展示。
館の東方霊山には、坂本龍馬をはじめとする勤皇の志士五百四十九名の墓がある。

● 了頓辻子

三条通室町西入。衣棚町の中ほどから南へ下がり、六角通へ抜ける小路。
六角通面の町が玉蔵町であるため、玉蔵辻子とも称した。
安土桃山期の茶人広野遼頓がここに邸宅(茶室)を構え、邸内の南北通り抜けを許したために成立した。

● 林家

饅頭商。
塩瀬家ともいう。
当主は代々饅頭屋九郎左衛門を名乗る。
初祖は、暦応四年(1341)建仁寺の僧龍山徳見が元から帰国する際、随従して来日した林浄因。
当初奈良に住む。
浄因は饅頭を創案した宋人林和靖の子孫といい、日本で初めてこを調製、その子が京都に出て饅頭商を始め、寛政(1789〜1801)頃の十九代浄空まで続いた。
烏丸三条下ルがその跡といい、饅頭屋町の名が残る。
初代以来、建仁寺塔頭両足院との関係深く、時に同家から住職を出し、墓も同院にある。
なお室町後期の宗二は文筆にすぐれ「源氏物語林逸抄」を著し、また天正(1573〜92)頃の宗味は茶人として知られ、帛紗物も商った。

● 鄰女晤言

随筆。
慈延(冢田大愚)著
享和二年(1802)刊。
二巻。
「万葉集」以後の歌集にみえる難解な語句を解明し、歌話を交える。
京都に住んだ歌人とその和歌、また、それに関連した話を多く記載する。

● 琳派

江戸期を通じて絵画から工芸に及んだ芸術様式の一。
尾形光琳の一字を付した琳派は、まず京都の寛永文化の中で形成された。
刀剣の鑑定などを業とする本阿弥光悦は、その家業で磨いた美感覚をもって書・陶芸・漆芸に豊かな天分を示した。
光悦の典拠としたものは「三十六人集」などにみる王朝の美であり、光悦の和歌巻に金銀泥下絵を描いた俵屋宗達の絵も、同時期の狩野派とは異質の大和絵を底流とする美をみせた。
元禄の尾形光琳は東福門院の御用をうける高級呉服商雁金屋に生まれ、曽祖父が光悦の姉という関係もあって早くから光悦・宗達を知り、新旧町人層の交替する元禄という社会で、両者の風を継ぎつつ瀟洒華麗な独自の世界を創造した。
光琳は工芸意匠にも深い関心を寄せ、小袖・蒔絵なども手がけた。
すでに光琳の生前に「光琳ひながた」という小袖意匠集が出版され、没後も各種の「光林(琳)雛形」が出た。
光琳の意匠は小袖に限らず享和二年(1802)刊「光琳画譜」が扇子・団扇・蒔絵・焼物にも応用できると述べるように各方面に用いられ、琳派は近世京都の意匠の重要な柱であった。
光琳の没後約一世紀、文化文政の江戸では酒井抱一が深く光琳に私淑、光琳の墓を修理し、100回忌には「光琳百図」を刊行した。
抱一の門人は江戸に集中し、これを江戸琳派と呼ぶ。

● 隣保館

同和地区住民の生活の向上・改善のために設置された市の地区施設。
京都市では昭和二年、下京区に開設されたのが最初。
前身は大正期に設置された託児所。
生活相談および生活改善指導を通して、地区住民の社会的・経済的・文化的な生活の向上をはかり、同和問題の解決に寄与しようとするもので、地区における行政全体の窓口でもある。


=る=

● 留守官

明治二年二月、明治天皇の東京下向(車駕東幸)により太政官を東京へ移したのにともない、京都に置かれた政府機関。
天皇不在中の事務を分掌。
留守官長に鷹司輔煕、次官に岩下方平を投票公選により任命。
七月の官制改革で長官一名、次官一名、判官、権判官、大主典、権大主典、少主典、権少主典、史生の官制となる。
三年十二月二十二日内務省に併合、翌年八月二十三日廃止。


=れ=

● 冷泉院

累代の後院(天皇の退位後の居所)
二条と大炊御門。
堀川と大宮の各路で囲まれた方四町の邸。
嵯峨天皇に始まり、初め冷然院と称した。
十世紀中期、三回目の造営の際、然は燃に通じ縁起が悪いという理由から冷泉院と改めた。
在位中からよく詩宴を催した嵯峨天皇は譲位後の十年余ここを御在所とし、その後、仁明・村上天皇らの皇居となり、冷泉天皇も譲位後しばらく居住。
諱号はこれによる。
十一世紀中期には後冷泉天皇の里内裏ともなったが、数年後には取り壊して一条院の造営にあてられ、姿を消した。

● 冷泉家

公家
藤原北家の御子左流から分かれた一流。
歌聖藤原定家の孫で為家の子為相を祖とする。
家名は冷泉高倉に邸があったのにちなむ。
現在地(今出川通烏丸東入玄武町)に居を構えたのは江戸初期。
今日の建物は寛政二年(1790)の再建で、現存唯一の公家屋敷。
昭和五十六年に重要文化財に指定。
為相の母が阿仏尼で、この母子と長兄為氏との間で財産をめぐる相続争いだ起こり、阿仏尼は訴訟のために鎌倉幕府に赴いた。
「十六夜日記」はその折の作品。
室町初期に上・下の二家に分かれたが、単に冷泉家といえば上をさした。歌道を家業とした関係上、歌集類が所蔵典籍の大半を占める。
昭和五十六年四月に財団法人冷泉家時雨亭文庫が設立された。

● 冷泉家時雨亭文庫

冷泉家の住宅および同家に伝来した典籍・古文書・ならびに冷泉流歌道とその関連行事を継承保存するため、昭和五十六年に設立。
名称は藤原定家の嵯峨山荘にちなむ。
当家は江戸初期に定められてからの敷地を守り、寛政二年に再建された住宅(重要文化財)は、主体部の構成に公家屋敷としての、ほぼ完全な様態をとどめる唯一の遺構。
また藤原長家・俊成・定家以来、歴代が家業として和歌の伝統をになってきた冷泉家には、俊成自筆の歌論書「古来風体抄」、定家自筆「古今和歌集」や「名月記」など、和歌に関するものを中心に、国宝・重要文化財を含む約二万点の典籍・古文書が伝わり、歌学の一大宝庫となっている。
また乞巧奠など、歌道関連諸行事は王朝以来の宮廷文化の伝統を今に伝える。

● 冷泉富小路殿

冷泉小路南・富小路東にあった西園寺実氏の邸。
二条富小路殿ともいう。
十三世紀中期から十四世紀前半にかけて里内裏として活用された。
最初は後深草天皇で建長元年(1249)のこと。
次代の亀山天皇も里内裏としたが、この両天皇は実氏の女結子を生母の後伏見・後伏見・花園・醍醐の各天皇の皇居となり、また仙洞(譲位後の居所)ともなった。

● 冷泉万里小路殿

冷泉小路北・万里小路西にあった四条隆衡の邸。
冷泉殿・万里小路殿・大炊御門殿とも呼ばれた。
承元三年(1209)土御門天皇の里内裏となり、以後、四条・後嵯峨・亀山・後宇多・後二条の各天皇が長短はあるが一時期皇居とし、十三世紀初めから十四世紀の初めにかけて最も脚光をあびた。
隆衡は父隆房から伝領し、子の隆親に伝えた。

● レーマン

1842〜1914(天保13〜大正3)ドイツ人教師。技師。
明治二年来日し、兄のカールの会社に協力、兄と親密だった山本覚馬の仲介で、翌年京都府が開いた欧学舎の教師となる。
授業の傍ら独和辞典を編集、同五年第一冊分を出版、日本最初の独和辞書となった。
同九年には和独辞書も刊行。
京都府の要人の相談役として新しい産業施設に協力、自ら製紙場(パピール・ファブリック)建築技師として工場監督をつとめた。
同十三年東京に移り、東京外国語学校のドイツ語教師をはじめ、東京帝国大学予備校(のち第一高等中学校)などの教師を歴任。
同二十三年以後はドイツ機会輸入商ラスペ商会で日独貿易に従事。
なお兄カールは商人で、幕末、長崎でレーマン・ハルトマン商会を開き各藩に兵器を売り込み、明治二年頃、大阪川口に移住し事業を続けた。
貿易商社だったが、お雇い外国人の紹介・供給源の役割も果たした。

● 檸檬

梶井基次郎の短編小説。
大正十四年、同人誌「青空」創刊号に発表。
処女作で代表作。
第三高等学校時代の病弱と不摂生の生活の中から、繊細で澄みきった精神の鼓動を描いた作品。
「えたいの知れない不吉な魂」が一個のレモンを買うことでまぎれ、それを持って丸善へ行くが、憂鬱が立ちこめ、取り出した本の山へレモンを置くと「カーン」と冴えかえる。
黄色い爆弾を仕掛けた「悪漢」の「私」は、そのまま京極へ下る。
レモンの店は、寺町二条の八百夘で、丸善もその頃は寺町三条西にあった。
主人公の足跡は当時の三高生の散歩のルートでもある。

● 蓮如上人子守歌

本願寺八世蓮如の作詞と伝える中世風の子守歌。
明治期まで歌われた。
歌詞は
 「優女優女 京の町の優女 売ったるものを見しょうめ 金襴緞子 綾や緋縮緬 どんどん縮緬 どん縮緬」
室町期、諸国から上洛した人々の京女と都への憧憬、京の都の繁栄ぶりを歌ったものという。
正月の寿詞万歳節の一節に類似の詞がある。


=ろ=

● 蝋色師

漆工職人の一。
京漆器の塗りの中でも高級品に施す蝋色仕上げの最終工程、蝋色磨きを専門とする。
塗師が塗漆した下地に上質の漆を塗り重ね、乾燥後、摺漆と鹿の角を焼いた角粉で磨きあげる。
最後の磨きは手のひらで行う。
塗漆は下地・上塗・蝋色仕上げの三工程に大別され、蝋色仕上げの多い京都では専業が成立。

● 蝋八会

禅宗寺院で十二月(蝋月)八日に修する法会。
成道会とも称す。
この日、釈迦が雪山で苦行の末、暁に明星を仰ぎ成道(悟りを開くこと)した故事に基く。
十二月一日から七日間外界とすべて交わりを絶ち、蝋八大接心という不眠不休の座禅修行を行う。
八日の暁、蝋八会法要を営み、味噌・酒粕で煮た蝋八粥(温臓粥・五味粥)を食す。
これは大悟した釈迦が、弟子のすすめた乳の味に気力を取り戻した故事によるという。

● 六阿弥陀巡り

真如堂・永観堂・清水寺・安祥院・安養寺・誓願寺・の阿弥陀如来参拝。
功徳日は、一月・四月・八月が十五日、二月・十月が八日、三月・七月が十四日、五月・九月が十八日、六月が十九日、十一月・十二月が二十四日、それに春秋の彼岸を加える。
功徳日の朝、真如堂で「京洛六阿弥陀巡拝の証」に蓮華の朱印をうけ、一団となって永観堂へ向かい、順次進み、結願所の誓願寺では御詠歌を奉納する。
その発想は木食応其といい、庶民信仰の高まりとともに江戸中期以降盛となる。

● 六斎念仏

鉦や太鼓を打って囃し、念仏を唱えながら踊る民俗芸能。
主に八月の盆前後に行う。
国の重要無形民族文化財。
平安中期空也が民衆教化のため始めたとされる踊念仏が、中世期以降芸能化したもので、もとは六斎日(毎月八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)に行った。
空也堂系と干菜寺系があり、干菜寺では寛元(1243〜47)頃、中興開山道空が春日通烏丸に常行院を建立して六斎念仏を興し、のち豊臣秀吉が六斎念仏総本寺の地位を確認したという。
今日、干菜寺系の六斎が本来の踊念仏の型を比較的純粋に保つのに対して、空也堂系はより芸能性が強い。
明治頃までは六斎を上演する組織として六斎組が市内各所にあったが、現在は六斎保存会がこれにあたり、吉祥院・梅津・郡・久世・小山郷・西院・西方寺・嵯峨野・六波羅蜜寺・桂・千本・中堂寺・壬生・上鳥羽・円覚寺などに保存組織がある。
南区吉祥院天満宮では八月二十五日夜、空也堂系の吉祥院六斎を行う。
神楽殿で浴衣姿の保存会員約二十名が、念仏系の「発願」「回向唄」や、「道成寺」「和藤内」など能狂言・歌舞伎に取材した曲目を演じる。
保存曲目は全十八曲。

● 六地蔵巡り

洛外六カ寺の地蔵尊巡り。
八月二十二日・二十三日の両日、伏見六地蔵の大善寺(奈良街道)、上鳥羽の浄禅寺(大坂街道)、桂の地蔵尊(山陰街道)、常盤の源光寺(周山街道)、出雲路の上善寺(鞍馬街道)、山科四ノ宮の徳林庵(東海道)に安置する六地蔵を巡拝し、家内安全・無病息災・商売繁盛・五穀豊穣などを祈願する。
地蔵は本来、冥界と現実界の境に立って衆生を救うという信仰があり、京の出入り口にあたる各街道口に祀られた。
「源平盛衰記」によると、保元年間(1156〜59)西光法師が七道の辻に六体の地蔵尊を安置し、廻地蔵と名付けたとあり、その後六ヵ寺となり、寛永(1624〜44)頃には十三ヵ寺、寛文年間(1661〜73)にほぼ現在の六ヵ寺となった。

● 六条河原

鴨川沿いの五条大橋以南、正面橋の間の河原。
中世より戦国期にかけては戦場や処刑場となり、「堀川夜討」の土佐坊昌俊や石田三成・小西行長らこの地で討たれた者は多く、慶長十四年(1609)には不受不施派の日経子弟が宗論の末、惨刑に処せられた。
また嵯峨天皇の皇子左大臣源融が邸宅六条河原院を設け、鴨川の水を引いて八町にわたる広大な池庭とした。
付近には塩竈神社や籬の森址など、河原院旧跡がのこる。

● 六条染物

室町初期の京都名産の染物。
「庭訓往来」にあげる。
六条は染色業の栄えた地とみられ、江戸前期の「毛吹草」にも同地の産として六条梅汁とある。
梅汁は紅染に用いる紅梅の樹皮を煎じた汁。

● 六条三筋町

近世初頭の公許の遊郭。
六条柳町の俗称。
慶長七年(1602)二条柳町より移転。
東は室町、西は新町、北は五条、南は六条を限って傾城屋を集住させ、上ノ町・中ノ町・下ノ町の三町よりなるため、三筋町とも称す。
当時惣中は、六条柳町以外での非公認の営業を取り締まるよう訴訟を起こすが、その結果、元和四年(1618)には遊女歌舞伎の興行者をも集住させることになり、六条西洞院に新たに太夫町が成立し、区域を拡大した。
当時から多くの名妓が続出し、豪商灰屋の佐野紹益の妻となった吉野太夫は、中ノ町林又一郎の抱え。
林のほか道喜や佐渡島など、四条河原の歌舞伎興行へ進出する者もあったが。幕府の風俗政策のため。寛永十七年(1640)に島原へ移転した。

● 六道の辻

「六道」とは松原通東大路西入の珍皇寺の通称で、六道の辻はこの寺の門前をいい、松原通の轆轤町と新シ町の間を南に走る道をさす。
謡曲「熊野」に、この道は「冥土に通うなるもの」とうたわれるが、これは小野篁が冥土との往復を果たしたという伝説に基く。
珍皇寺の鐘は、冥土にまで響き、亡霊をこの世へ呼ぶ迎え鐘(六道の迎え鐘)といわれ、特にお盆の精霊迎えには多くの参詣者がある。

● 六道詣り

盂蘭盆会の精霊迎え。
@珍皇寺では八月七日から十日。
珍皇寺付近は葬送地鳥辺野に近いため六道の辻といい、現世と霊界の分かれ道とされた。
小野篁がこの辻の井戸から冥界へ往復したという伝説があり、参詣者は水塔婆を納め、迎え鐘を撞き槇の葉を求めて精霊を迎える。
A引接寺(千本閻魔堂)では八月七日から十五日、上京区溝前町の大報恩寺(千本釈迦堂)では同月八日から十二日。
参詣者は迎え鐘を撞き、戒名を記した経木に槇の葉で水をかけ、精霊を迎える。

● 六波羅探題

鎌倉幕府が京都に設けた出先機関。
所在地は鴨川の東、五条(現松原通)から七条にかけての地。
かつての平氏六波羅第跡にあるため、この名がある。
当初は六波羅守護、六波羅南方(南殿)・北方(北殿)などと呼ばれた。
承久の乱(承久三、1221)で幕府軍を率いて上洛した北条泰時・時房がそのまま都にとどまり、乱後の処理にあたったのに始まる。
以後、この職は北条家一族から二名をもってあて、京都側(朝廷)の監視、反幕分子の抑圧と警察機構の行使、九州を除く西日本諸国の統括を重要な職掌とした。
職員は評定衆・引付衆・検断方のほか侍所・門注所など。
元弘三年(正慶二、1333)鎌倉幕府の滅亡で幕を閉じた。

● 轆轤師

@木工旋盤(轆轤)で漆器に用いる椀・盆などの木地を挽く職人。
挽物屋ともいう。
京漆器の木地として薄く挽くことを得意とし、棗など茶道具の生産も多い。

A陶磁器用の轆轤によってその成形を行う職人。
京焼の生産では分業化し、機能として独立。
轆轤には古くから手轆轤・蹴轆轤があるが、現在の京都では大正十四年に出現した電動による機械轆轤がほとんど。
機械轆轤には型を併用し一定の品を量産するハンドル轆轤と呼ぶものもある。

● 六角牢屋敷

京都町奉行所付属牢獄の通称。
正式には三条新地牢屋敷。
六角通大宮西入にあった。
牢獄は初め小川通御池上ル西側にあったが、宝永五年(1708)の大火で類焼。
1100坪の土地が当時の市街地の西端に与えられ、翌年移転した。
未決囚を収容する施設で、処刑場ではないが、元治元年(1864)の鉄砲焼けの時、七月二十日に平野国臣ら三十三名の志士が斬首に処せられたのは有名。

● ロドリゲス

十六、七世紀頃、多年在日したイエズス会司祭。
ポルトガルの出身で若くして来日。
1580年にイエズス会に入った。
日本語はもとより日本の諸事に精通し、豊臣秀吉や徳川家康の対外交渉の通訳をつとめ、また「日本大文典」「日本教会史」などの名著をのこした。
両書は当代研究の重要資料で、茶道などにも詳しい。
特に後者には都の文化や住民に関する記述が多い。
慶長十五年(1610)日本から追放され、晩年は中国で過ごした。

● ロレンソ

大永六?〜天正十九年(1526 ?〜92)日本人イエズス会修道士。
肥前杵島郡(?)白石に生まれ、半盲の琵琶法師として山口でザヴィエルに出会い、キリシタンに改宗、日本人最初の修道士となる。
栄禄年間(1558〜70)京都で布教事業にたずさわり、その後、高山右近父子、小西行長父子ら幾多の有力な人物をキリシタンに導いた。
また織田信長や豊臣秀吉とも親しく交わった。
天正十九年十二月二十日(1592年二月三日)九州で病死。
邦文献には「りゃう西」「了西」とある。


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