■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

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● 也阿弥ホテル

明治期、東山の円山公園内にあったホテル。
京都でホテルを称した最初。
明治十二年、長崎県人井上万吉が安養寺塔頭の也阿弥ほかを買収、洋風に改造して開業。
客室四十。
各部屋ごとのドアはなくカーテンで仕切った。
照明はランプ、食事は全て洋食で、同十六年の宿料は三円五十銭、食事上等が朝食七十五銭、昼・夕食が一円であった。
ピエール・ロチやフェロノサ夫妻も利用したが、同三十九年焼失。

● 役者評判記

歌舞伎役者の歌舞伎役者の技芸を評判した書。
江戸初期から明治中頃に至る。
明暦二年(1656)刊の「役者の噂」が最初であるが現存しない。
初期のものでは「野良虫」(万治三年刊か)、「剥野老」(寛文二年刊)などがある。
元禄十二年(1699)に「役者口三味線」を八文字屋八左衛門が刊行して以後、この書が評判記の基本形となり、八文字屋は幕末まで評判記の出版者として続く。
この形態では、内容は役者名簿、開口(序)の文章、役者の評判の三部からなり、形式は横本で、京・大阪・江戸の各部一冊ずつ、計三冊に分かれ、毎年二回、一月と三月に刊行された。

● 薬種切手

江戸期の薬種商取引に使用した手形(切手)。
詳細は不明だが、京都と紀州の薬種取引で、買手側の京都の薬種商の発行した切手に「和州産物薬種売買手形」あるいは「御薬種切手」と書かれ、時代は幕末期、銀壱匁の切手が主である。

● 厄除け

盗難・災除・病気平癒を願う厄除けの神は京都の社寺には多くみられ、中でも有名なものは、左京区 熊野神社の牛王宝印、右京区 車折神社の神石、上京区 晴明神社の晴明桔梗印、同区 上御霊神社の唐板(煎餅)、東山区 八坂神社および上京区 北野天満宮摂社の火之御子社のおけら火、右京区 広隆寺の牛祭の面など。
大文字送り火の燃えかすも厄除けになるという。
そのほか、上京区 水火天満宮は水難火難除け、北野天満宮は雷除け、上京区 大将軍八神社は方位除け、左京区 熊野神社は盗難除け、中京区 大龍寺は便所守護、下京区 正行院の輪型地蔵は交通安全に霊験があるという。
また病気でも精神病は左京区 大雲寺、頭痛は東山区 三十三間堂、肩こりは伏見区 伏見稲荷大社、耳の病は中京区 妙心寺、目の病は東山区 目疾地蔵、歯痛は上京区 歯形地蔵、皮膚病は中京区善長寺(くさがみさん)、ガンは綴喜郡猿丸神社など各種の厄除け信仰がある。
厄除けの厄を除くためには市内各神社のほか八幡市 岩清水八幡宮、大津市 石山安養寺(立木観音)が多くの参詣者を集める。

● 弥栄会館

花見小路通四条下がるにある会館。
昭和十二年祇園町甲部組合が女紅場技芸練習場として建てたが、映画館・ダンスホールに使用。
第二次大戦中は徴用された舞妓・芸妓の工場となる。
戦後、進駐軍将校用のダンスホールのほか映画館にも使用され、接収解除後は外国人観光客のためのギオンコーナーが開設された。

● 八坂古墳

高台寺の裏山にある古墳時代中期の方墳。
墳丘の一辺約四十メートル、墳丘高は三メートルを測る。
二段築成され、埴輪列が認められる。
内部主体は不明。
方墳は京都盆地では例が少なく、中期のものとしてはこれが唯一。
この古墳と系譜的につながる首長墓が他に存在したとみられるが、東山山麓から平野部にかけては早くから開発が進んだため、将軍塚古墳群中の一基を除いて確認できない。
当古墳周辺一帯を支配した古代豪族八坂造(八坂氏)との関連が注目される。

● 八坂氏

高句麗人を始祖とする渡来系氏族。
愛宕郡八坂郷に居住したので地名をとって氏族名にしたという。
しかし八坂氏の名は古代文献にあまりみられず、それほど勢力はなかったらしい。
八坂の塔で知られる法観寺は、境内地から飛鳥時代の瓦を出土しており、八坂造が創建に関わったと考えられる。

● 八坂焼

東山八坂の陶工清兵衛が製した陶器。
古清水の一という。
鳳林承章の「隔冥記」に、八坂の双林寺の近くにあったとみえる。
寛永二十一年(1644)の条には色釉を用いた上絵用の窯の存在を示す記事があり、京焼の技術上の発達を示すものとして注目される。

● 夜叉講

一年の初めに、人を害する夜叉神を祀る講。
長岡京市今里では、上座・下座の二座があり、二月辰の日(現在は十一日)に蛇型の縄を弓で射かけ、タラの木の削掛に牛王宝印を巻きつけて乙訓寺に供え祈祷する。
削掛は各家に配られ、水口祭の際、水口に立て豊作を祈る。
南区久世では東座・西座の二座が蔵王堂で講を営んだ。
向日市鶏冠井では烏帽子着をすますと夜叉講に入るしきたりとなっていた。

● やすらい祭

今宮神社摂社疫神社の祭礼。
四月第二日曜に行う。
社伝によると、平安後期、桜の散り始める陰暦三月の頃疫病が流行したので、花の霊を鎮め無病息災を祈願したのが起こりという。
上・下賀茂と上野の氏子が鬼に扮して氏子地蔵を疫祓いしながら練り歩き、社前でやすらい踊りを奉納する。
行列の中心は小鬼・赤鬼・黒鬼に扮した少年二名と大人四名で、それぞれ白小袖に緋縮緬の内掛けをまとい、赤や黒の赤熊をつけて、小鬼は羯鼓を、鬼は太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊る。
桜や椿などで飾った風流傘も加わり、この下に入ると一年間疫病にかからぬといわれ、疫神社到着後、この傘に宿った疫神を神威で降伏させる。
京都三大奇祭の一で、春祭りのさきがけ。
現在、やすらい保存会は、今宮のほかに雲林院の玄武神社、西賀茂の川上神社、上賀茂の上賀茂神社に存続。

● 八瀬かま風呂

左京区八瀬の八瀬川畔にあった蒸風呂。
土饅頭の空洞で青松葉を焚き、内部が十分熱せられた頃に火を引き、水をまき、塩水を含ませた筵を敷いて、その上に横になって温まる。
中世以来よく湯治に利用、公家の日記にも散見する。
壬申の乱(672)で背に矢傷を負った大海人皇子(天武天皇)がこのかま風呂で治療したという。
正徳五年(1715)には十六軒あったが、安永九年(1780)の「都名所図会」では七、八軒となる。
現在、一基を復元保存。

● 八瀬ことば

左京区八瀬で使用する洛北ことば。
古来、朝廷に奉仕した、八瀬童子のことばに基く。
町内では敬語を使用することが少ない。
二人称に、オレ・オンミ(身分の高い人)、一人称にゲラ、また、アガナ(あんな)・コガナ(こんな)などを使用。

● 八瀬童子

洛北八瀬(現左京区)の村人の称。
古来、禁裏参内の特権を有し、天皇の行幸・還行などの際に輿をかつぐ駕輿丁をつとめた。
南北朝期、後醍醐天皇の比叡山潜幸に八瀬の十三件が弓矢を持って従い、その功により年貢諸役を免除されたのに始まるという。
以来、朝廷との関係深く、近代に入っても天皇の即位大礼には賢所の御羽車、大喪礼には葱華輦をかつぐこととされる。
現在、約百五十件で八瀬童子会を結成、葵祭りに参列する。
十月十日に行う八瀬赦免地踊りは八瀬童子の行事。

● 八ツ橋

粳米粉でつくった焼菓子。
粳米粉に砂糖・肉桂粉を入れて薄く延ばしたものを短冊形に切り、反りをつけて焼いた京名物。
享保(1716〜36)頃、箏曲八橋流の祖八橋検校の墓がある黒谷で琴形の煎餅を売ったのが最初とも、医師羽田玄喜の二児が川に溺れたのを悲しんだ妻が尼になり、仏の御告げで八枚の板を杭でとめて橋を作った伝説、黒谷の茶店の主人が夢で八橋検校から製法を習った話にちなむともいう。
焼く前の生八ツ橋で粒餡を包んだ菓子もうまれた。

● 八橋忌

鹿ケ谷の法然院境内で行う箏曲家八橋検校の御忌法要。
六月十二日。
京菓子八ツ橋の製造業者が主催。
検校作曲の「六段の調べ」など琴の演奏や茶会を催す。
俗伝によると、黒谷金戒光明寺に葬る検校を慕う参拝者に、参道の茶店が琴の形をした菓子を出したのが八ツ橋の始まりという。

● 宿

京都では中世から宿が発達し、江戸期には質量とも向上、江戸中期の「京都御役所向大概覚書」によれば、上嵯峨に百七十五軒、平野社・北野社門前に十数軒、祇園・高台寺付近に十軒など、合計二百五十軒余の旅籠屋があった。
江戸後期の宿屋の情景は「東海道中膝栗毛」などにみえるが、当時、一般の宿屋のほかに公家・大名の泊まる本陣・脇本陣、各宗本山参詣者のための詰所(宿坊)、商人宿、旅人が焚木銭を払って自炊する木賃宿、牛方・馬方が利用する牛馬宿などがあった。
明治期に入ると府下の旅館(旅籠・寄留)は同五年に四百三十二軒となり、京都市内では同十七年に旅籠屋九百九十二軒、同四十三年には旅籠が六百六十二軒、木賃宿は三百十二軒あった。
昭和十五年には旅人宿九百四十八軒、木賃宿七十五軒。
戦後の旅行ブームで大量の観光客が入洛するようになったが、三千八百万人の入洛客を数えた昭和五十五年の市内の旅館数は千七十四軒。

● 柳酒屋

室町期を通じて全国的に名をはせた京都の大酒造業者兼高利貸業者。
姓は中興氏。
柳は柳樽に由来。
応永三十二、三年(1425、6)当時、京都で営業を公認された酒屋の名簿に「四郎衛門、五条坊門西洞院南西頬 定吉」と所見。
以後幕府が同業者全体に賦課する酒屋土倉役の、十分の一以上を負担する富商に成長。
その酒は美酒として聞こえ、狂言の「松の酒屋や梅壺の、柳の酒こそすぐれたれ」など、文芸・歌謡にもうたわれた。
「柳の酒」の名を盗用する業者も増えたので、中興は特に「大柳酒屋」を称し、樽に六星紋を付けて盗用を禁じた。

● 柳の水

名水の一。
西洞院通三条下ル柳水町と釜座町西側とにあった。
千利休が茶の湯に用い、側に柳樹を植え、水に直接に陽が射すのを避けたと伝える。
西洞院通高辻上ル本柳水町にも同名の井戸があった。
嵯峨、厭離庵庭園の硯の水も柳の水と称せられる。
松花堂昭乗が江戸で将軍に執筆を求められ、柳の水を希望し、これをわざわざ取り寄せたという伝えがある。

● 柳原銀行

明治三十二年六月、紀伊郡柳原町に合資会社として設立された銀行。
代表は明石民蔵。
資本金二万三千円。
大正二年八月株式会社となり頭取に明石民蔵、専務に前田治之助が就任。
同町の金融機関として産業および教育事業などに融資を行った。

● 柳原書店

出版・取次業。
西京区川島北裏町にある。
正徳二年(1711)柳原喜兵衛が大坂心斎橋で創業した書肆河内屋に始まる。
「都林泉名所図会」「摂津国大絵図」「山城国風土記」などを出版。
幕末から明治初期にかけて、史書として不朽の名著といわれた頼山陽の「日本外史」全二十二巻を刊行。
のち現称に改め、書籍取次ぎにも従事。

● 屋根葺地蔵

壬生賀陽御所町にある臨済宗永源寺派、鳳翔山新徳寺の俗称。
屋根葺地蔵はもと星光寺の本尊で、寛喜二年(1230)平資親が東山の草むらから得た霊像と伝え、洛陽六地蔵巡りの一にも数えられた。
俗称の由来は鎌倉中期、当地蔵を信仰していた貧しい老女がいて、大風で家が壊れた時、数人の若い法師がやってきて屋根を修理したという話にちなむ。

● 薮内家

茶道家元。
西洞院通正面下ル。
薮内宗把を遠祖とし、剣仲紹智(1536〜1627)を流祖とする。
現在は(昭和五十九年十一月十二日)十三世青々斎竹中紹智(1936〜)が家元を継承。
二世真翁紹智(1577〜1655)は西本願寺の保護をうけ、寺領の一部を拝領、古田織部の営んだ茶室燕庵などを移築し基礎を確立。
真翁以来、南部薮内紹拙派・阿波薮内紹春派・鍋島薮内了智派などが分出。
邸内には中心的な茶室としての燕庵のほか、西本願寺から拝領した絹照堂や須弥蔵、流祖像を祀る源霊閣などがある。

● 山崎合戦

天正十年(1582)六月十三日、本能寺の変後、乙訓郡大山崎村で行った豊臣秀吉と明智光秀との合戦。
敗れた光秀は近江国坂本への敗走途中、山科へぬける小栗栖で農民に殺された。
この一戦で秀吉は天下統一に向けて大きな足がかりをつかんだ。

● 山崎橋

現在の乙訓郡大山崎町・八幡市間の淀川に、かつて架けられていた橋。
「行基年譜」によれば、神亀二年(725)に架橋工事を始めたという。
八世紀末から九世紀には何度も架設・流出を繰り返し、造山崎橋使・橋守(「類聚三代格」)が存在した。
十世紀には橋はなく船橋(「日本紀略」)となり、天正二十年(1592)豊臣秀吉が再架橋したが、まもなく廃された。

● 山科古窯址群

山科区御廟野・日ノ岡・西野山にかけて分布する七世紀初頭前後の須恵器窯跡群。
山科盆地西北部の花山・六条山の東麓に位置。
もとはかなりの基数の古窯址群と推定されるが、現存する窯跡は五基あまり。
「日本書紀」や「家伝」とい藤原鎌足の邸地「山科の陶原」はこの古窯址群にちなんだものとみられる。

● 山科七郷

現山科区一帯に展開した郷の総称。
古くは山科郷とも呼ぶ。
各郷は本郷と組郷からなる。
各郷には室町初期から自治組織があり、さらに各郷代表者による野寄合を定期的に開催、七郷全体が一つのまとまりをみせた。
これは七郷全体が皇室を本家としたことと深いかかわりがある。
応仁の乱後、内裏の警備、関所の設置、土一揆への参加など、活発な働きを示した。

● 山科隊

幕末期、宇治郡山科郷の郷士十数名が結成した官軍側の諸隊。
御所とのつながりが深い山科郷では慶応三年(1867)暮れから非常態勢をとり、「御守衛士」の二隊。
合計四百四十余名の結成を新政府から認可された。
鳥羽・伏見の戦いの開始とともに山科から十数名の郷士が出征、東山道先鋒総督に属した。
この隊は東北戦争には参加せず、明治元年六月に帰郷した。

● 山城

天然の要害である山頂や山腹に築かれた古代・中世的な城郭様式。
平常時は山麓の根小屋や邸宅に住み、戦闘時に山城へ籠もった。
のち大名領国の形成と戦法の変化にともない、平山城や平城へと移行。
周囲三方を山に囲まれた京都でも戦国期には将軍や管領らが山城を築き、足利義輝父子の如意ケ岳中尾城や細川高国の勝軍地蔵山城(北白川域)、上豪山本氏の小倉山城、日蓮宗徒の松ヶ崎城、香西元長の嵐山城などがあった。

● 山城国一揆

文明十七年(1485)南山城の国人・地侍が中核となって組織した一揆。
文明十四年ごろより、同地域を戦場としていた畠山政長と畠山義就の争いに抗議、両軍の山城撤退、寺社本所領の還付、新関の停止を三大要求項目として結成。
同年十一月の寄合には久世・綴喜・相楽三郡の、上は六十歳から下は十五、六歳に至る国人・地侍が参加したと、「大乗院寺社雑事記」は伝える。
翌十八年二月には、宇治平等院に集会して掟を定め、三十六人集といわれた国人・地侍の合議の下、月番の月行事を定めて、南山城を統治した。
国一揆の南山城支配は、明応二年(1493)九月、大和の国人古市澄胤が山城国の守護代として相楽・綴喜の二郡に入るまで続いた。

● 山城国守護職

室町期に設置された幕府官職。
山城国守護は鎌倉期は京都守護・六波羅探題の兼務であったが、室町期に入ると山城国が将軍御料国となり、当初守護は置かず、文和二年(1385)山名氏清の任命で侍所兼帯はくずれたが、以後も畠山氏・京極氏・伊勢氏など幕府直臣が任命された。
経済的収入もさることながら、幕府直轄軍事力の拡大の基盤として山城国を掌握しようとしたためとみられる。
洛中は侍所・政所によって支配をかため、洛外は守護職の直臣団が直接支配を実施し、幕府直轄軍事力として整備したのは応仁の乱(1467〜77)直前のこと。
西岡・中脈・横大路被官衆といわれたこれら幕府直轄軍は応仁・文明の大乱で大きな力を発揮した。
天正四年(1576)摂津で戦死した原田直政が戦後の守護となった。

● 山城国風土記

和銅六年(713)の官命に基いて撰進された山城国の地誌。
逸文がのこる。
その多くは、賀茂社・三井社・木幡社・水渡社・南郡社・可勢社・伊勢田社・荒海社など神社の説明。
また賀茂競馬の起源も述べられる。
疑問はあるが、稲荷社の縁起もみられる。

● 山城の古道

古代道のうち、平安京造営以前からあったとみられる道は、平安京以後の道路体系の中に埋もれて捉えにくいが、

@ 北白川と周山街道および嵯峨を結ぶ道
A 三条大路付近を東西走し、粟田口・山科と太秦・嵯峨を結ぶ道
B 七条大路付近を東西走し、東の渋谷越と西の桂・堅原・老坂を結ぶ道
C 山崎から物集女を経て松尾・嵯峨へ北上する道
D 宇治方面から北上して鴨川東に出る道
 などが想定できる。
宇治から北上する道には六地蔵付近で分かれて山科盆地を東北進し近江へ抜ける道、すなわち古北陸道もあり、一方、古山陰道としては、山崎から北上して老坂を指す自然発生的な道のほかに、現在の田辺町から淀の西を経て西京区塚原へ直進し、老坂峠へのぼる計画直線道があったと考えられる。
また横大路集落を東西に貫き、桃山丘陵の南端をかすめる東西路も重要であった可能性が高い。
鳥羽作り道の起源も古く、平安京計画の際に基準線になったとする見方もあるが、作り道は平安京に先行する条理プランと合わない。

● 山城名勝志

地誌。
大島武好編。
二十一巻。
正徳元年(1711)刊。
山城国の名所旧跡二千七百余の項目を、旧記・実録の文を引用し、宮城部・洛陽部以下、郡部別に記す。
引用書は七百十三部。
付図は、山城国総図・東西両京之図・大内之図・八省院図・豊楽院図、および乙訓・葛野・愛宕・紀伊・宇治・久世・綴喜・相楽の各郡図。

● 山城名所寺社物語

地誌。
著者不明。
六巻。
享保年間(1716〜36)に刊行。
別称、内裏雛、京の花、山城名所内裏雛寺社物語。
山城の著名な社寺百十の縁起・名所旧跡を記す。
挿絵は川島信清風。
見開きまたは片面の挿絵が各巻四〜七点あり、いずれも単なる寺社名所の写生画ではなく、それぞれにちなむ故事・伝説を描き、画中人物に詞書がある。

● 山城名跡巡行志

地誌。
釈浄恵著。
六巻。
宝暦四年(1754)跋。
「第一」に「隣国通路」「八郡石数」を記し、ついで内裏および洛中の寺社・名所。古跡を上京の北辺から一条。二条と南下して九条まで記す。
ついで西ノ京の東から西へと、巡行に便利なように編集。
「第二」からは郡部別に「故郷名・神社・仏閣・名所・名跡」を記す。

● 倭絵

日本の山水・風俗・物語などを温雅でうるおいある画風で描いた絵。
唐絵に対する語。
平安期の国風文化の隆盛とともない成立。
和歌に題材を得、四季絵・月次絵・名所絵・物語絵として障壁・屏風・衝立などに描かれ、絵巻や冊子絵の分野にも広がった。
倭絵発生の萌芽を示すものとして文徳天皇(在位850〜58年)の頃、清涼殿の女房詰所にあった屏風が知られ、これはのち倭絵の画題となる「たきのおちたるところ」が描かれていたという。
また藤原行成の「権記」長保元年(999)には飛鳥部常則筆の倭絵四尺屏風について記す。
初期の代表作は平等院鳳凰堂扉絵(国宝)の¥・源氏物語絵巻(国宝)。
なお、宋元水墨画など中国の画風に対し、伝統的な日本の画風を大和絵と呼ぶのは中世末期以降。

● 大和物語

平安中期の歌物語。
作者不詳。
天暦期(947〜57)頃の成立。
百七十余段からなり、貴族社会における和歌の諸相や物語、説話的な歌話を集める。
「伊勢物語」の系統をひき、説話文学への契機となった。
京都を舞台とした話も多く、平中(平貞文)が市で懸想する話(百三段)、浄蔵大徳が鞍馬にこもる話(百五段)、宇多天皇が御室に菊の花を植えた話(付載説話)などがある。

● 山ノ内遺跡

右京区山ノ内山ノ下町、山ノ内小学校地内にある弥生遺跡。
昭和五十二年より三次にわたって発掘調査が行われ、構内より中期・後期の弥生土器を大量に出土、ほかに石鏃・石包丁などを発見した。
従来、平安京内の弥生遺跡はほとんど知られなかったが、当遺跡は自然の高みを利用した京内の弥生時代集落として、京都盆地の集落分布に新たな資料を加えた。
なお古墳時代の土器も発見された。

● 山の神祭

北山杉の里、北区中川で行う山の神への祈願祭。
一月九日。
各林業家ごとに山頂近くの大木を山の神として、木の根元に鏡餅・干柿・みかんなどを供え、灯明をともし、御神酒をを献じて北山杉の順調な育成を祈る。
これを山の口(明け)といい、この日よりも早く山に入ると山の神の崇りがあるといわれた。
昔は村落全体の山の神祠があり、一月の「九日、山之口、山の神祭。右何れも朝五ツ時、庄屋へ寄る」(「年中行事記」)ものであったが、近年は共同の山の神祭はしない。

● 山端地蔵

左京区山端森本町にある浄土宗西山禅林寺派、無量山帰命院の俗称。
当寺に祀る地蔵尊は山端地蔵と通称、疫病平癒に効能があると信仰を集める。
もと雲母坂にあり、西光法師が京の七口に安置した地蔵の一つという。

● 山吹瀬

宇治川の瀬。
現存最古の万葉集注釈書「秘府本万葉集抄」が「ヤマフキノセトハ宇治川ニ有名所也」としたのをはじめとして宇治の地名とされていたが、最近では「万葉集」の「宇治河作歌」による歌枕とされ、平等院正面の宇治川の急流をあらわすと考えられる。

● 八幡牛蒡

江戸期、京都南郊の八幡で生産した大形の牛蒡。
「本朝食鑑」は大型で良品質を賞し、「農業全書」はそれを土性のよいことに帰した。
付近の放生川から掘り上げた肥沃な土の中でつくったので豊大となった。
八幡の放生会の際、八幡牛蒡と鮒とを合わせて昆布で巻き、饗応したのが八幡巻きの始まり。

● 八幡十二境

八幡市岩清水八幡宮のある男山(八幡山)より眺めた十二の景趣。
徳山の霊社(八幡宮)、洛城の瑞霞、石水の清涼、醍醐の霽月、天台の積雪、淀橋の斜照、狐川の征帆、伏沢(伏見の水沢)の落雁、難波の滄浪、山崎の暁鐘、嵯峨の暮烟、朝山の青嵐をいう。

● 八幡五井

八幡市男山の五ヵ所の名水。
岩清水八幡宮では山井・閼伽井・岩清水・藤井・筒井と伝えるが、組み合わせは必ずしも一定せず、「名所都鳥」は岩清水・阿加井・藤井・筒井・独鈷水、また「都名所図会」は岩清水・赤井・藤井・筒井・福井とする。

@ 石(岩)清水
岩清水八幡宮本殿の東門より下がった山腹の岩窟にある。

A 閼伽(赤)井
八幡宮参道大坂口下馬碑前にある相槌神社の山の下。

B 独鈷水
八幡禊水ともいう。
岩清水八幡宮付近から志水にかけての路傍。

C 筒井
岩清水八幡宮鳥居の傍らにあり、覆屋がある。

D 藤井
岩清水八幡宮境内、高良社の左手前に四角形の石框がある。

E 山の井
八幡山の東

● 八幡の竹

八幡市男山付近のマダケ(真竹)。
明治十四年、米国人トーマス・エジソンがこの付近の竹を用い、竹のヒゴを炭素フィラメントとして白熱電灯をつくるのに成功した。

● 屋渡り粥

中世末・近世の京都で家買得の際、分一出銀とは別に買手が町に出した振舞料。
屋渡り金ともいうほか呼称はさまざまで、天正十三年(1585)の冷泉町定に「みしられ五十疋」とあるのもこれにあたる。
出金高の算定には、家買金を基準とするものや、買得家屋の軒役を基準とする方法などがあった。
寛文十年(1670)に禁止されるが効果なく、以後も再三禁止の触が出た。


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● 遊郭

京都には中世以来多くの遊里が散在したが、豊臣秀吉の統一政権が樹立されると、天正十七年(1589)遊里が公認され、二条柳町が誕生した。
その範囲は、東は寺町通、西は柳馬場通、北は夷川通、南は押小路通の方二町に相当する。
京都の中心部にあたる地域だが、ここは上京・下京の境界で、当時がまだ町化が進行していない空閑地であったために遊郭地が設定されたとみられる。
その後、二条柳町は公認の特権をもって発展するが、周辺の町化進行とともに、慶長七年(1602)、徳川政権から六条への移転を命ぜられた。
東西両本願寺寺内町に接する地域で、六条柳町あるいは三筋町と称された。
範囲は「京都府下遊郭由緒」によると「東は室町、西は西洞院、北は五条、南は魚棚(六条)」であるが、これは移転当初からの区画ではなく、元和四年(1618)以降の拡大を含む。
以後、この遊郭は全国的な名声をもったが、寛永十七年(1640)再び洛外の丹波口に近い朱雀野への移転を命ぜられた。
敷地は東西九十九軒、南北百二十三軒で、惣堀などを含めると一万三千四百坪余りに及ぶ。
正式には西新屋敷と称されたが、かなり早くから、島原一揆にちなんで島原と呼ばれた。
この島原遊郭は、江戸期を通して特権を付与され、その後、京内外に簇生し、散在した遊里を統制することになる。
島原以外の遊郭は、島原からの出稼地として位置付けられるが、慶長期から幕末期にかけてその数は多数にのぼる。
江戸初期にはすでに祇園・清水・下河原・北野上七軒に色茶屋(茶立女)があったが、寛文十年(1670)以後は、主なものをあげてみても、祇園外六町・先斗町・白梅図子・七条新地・内野新地・祇園内六町・二条新地・新三本木・五条橋下などが誕生している。
この遊郭新地のうち四ヵ所は江戸後期に公許されるが、いずれも島原の配下にあって、群少の遊里を支配する形態をとる。
これらの遊郭は、明治期に入ってかなり消滅したが、現在も花街として歴史を誇っているものもある。

● 夕刊京都

昭和二十一年五月・住谷悦治・和田洋一・能勢克男・岡田正三ら学者グループと地元実業家が創刊した夕刊紙。
初期には京都の文化人が論説などに参加。
同五十七年九月廃刊。
当時一万六千部を発行。
「京都年鑑」なども出版した。

● 由行舎

心学講舎の一。
嘉永四年(1851)に粟田領(現在の東山区青蓮院付近か)に創立。

● 遊女女紅場

遊里の芸娼妓を対象とした女子教育機関。
明治六年二月下京十六区(島原)、三月下京十五区(祇園)、上京六区(上七軒)、四月下京二十区(宮川町)、六月下京六区(先斗町)と次々と開業した婦女職工引立会社が、同七年四月女紅場と改称、これらを総称して遊所女紅場と呼んだ。
京都府の勧業政策の一環として芸娼妓に製茶・養蚕・裁縫・刺繍などと一般教養科目を教え、遊里を出て仕事につける技術をもたせることを目的とした。
京都府から浮業納税金の一部を下付され、各区小学校会社と連携して基立金を設け、加入金や製作品売却利益金を経営費にあてた。
同十四年「女紅場法則」を充実させ、各女紅場とも製茶や養蚕を廃し、女札や修身を加えた。
現在、芸妓の養成および技芸・教養を習得する場として女紅場・歌舞練場の名でのこる。

● 有心堂

江戸末期、御幸町通姉小路上ルに開設された種痘所。
嘉永二年(1849)十月、楢林栄建・江馬権之助・小石中蔵らが長崎から痘苗を得、鳩居堂四代目主人熊谷直恭の協力により設置。
直恭は牛痘接種の啓蒙普及につとめ、有心堂社中の医師十六名が実施に尽力した。
日野鼎哉の除痘館が二ヶ月間で閉鎖したのに対し、有心堂は明治まで存続し、同二年京都府に移管されて種痘所と改称。
社中医師五名は御用医として種痘掛を命じられた。

● 融通念仏

良忍が比叡山常行堂の不断念仏をもとに、衆人に合唱される美しい曲調の念仏を作曲し、民間に広めたとされる念仏行。
良忍以後は念仏聖たちによって各地に伝わった。
鎌倉末期には大念仏と呼ばれ、法金剛院・清涼寺で活躍した円覚や大阪平野大念仏寺の法明が大成。
しかし豊な芸術性の故に俗化・芸能化し、各地に念仏系の民俗芸能を生んだ。
特に六斎念仏に色濃く残存し、芸能化の著しい空也堂系六斎念仏の中にも融通念仏和讃が伝わる。

● 友禅図案会

明治二十五年京都で結成されたわが国最古の友禅図案家の団体。
友禅業界に図案の重要性を認識させた。
当初、河合惣之助ら十名で発足。
事務所は仏光寺通烏丸西入の河合宅。
展覧会を開いて作品を染色業者に販売。
明治三十九年友禅協会と改称。
同末年頃に同種団体が多数生まれ、活動が低下、昭和初期に自然消滅。

● 友禅染

京染の一。
防染糊を用いて染め出す多彩で華麗な絵模様が特色。
京友禅として伝産法に指定。
元禄期(1688〜1704)京都の扇絵師宮崎友禅が創始したと伝えるが、この染法と意匠はすでに江戸期からあり、友禅が活用したため、友禅染の名称が生じたとみられる。
古くは、友仙・友染・幽染とも書いた。
貞享四年(1678)刊の小袖見本帳「源氏ひながた」にその名が初出。
翌年刊行の「都今様友禅ひいながた」など多くの雛型本によって元禄期に流行。
創始期には花の丸、扇地紙などの文様が多いが、やがて自由な展開をみせ、小袖文様の中心として発展。
友禅は晩年加賀に住んだとされるが、加賀友禅の染法との関係は不明。
江戸後期、絹布禁止の令が出た時は奉書紬などにその技術を転用。
文政十年(1827)業者の数は十数軒だったが、明治四年には百二十一軒、職工三百六十三名となる。
明治初年に化学染料が輸入され、十五、六年頃に広瀬治助が染料を混ぜた写し糊を用いる型友禅染の技法を考案して大衆化の道を開き、需要も拡大、明治二十六年には二百六十軒の業者を数える。
図案の研究も盛んに行われ、二十五年友禅図案会が結成された。
またビロード友禅・墨流し・吹染など技法上の改良も試みられ、明治末期には機械捺染を開始。
その後、第二次大戦中の経済統制で企業整備が行われ、一時衰えたが、戦後は技術・設備の進歩などで復興し現在に至る。
友禅業は一般に手描友禅・型友禅・広巾友禅(機械捺染)に分類でき、その生産工程は複雑に分業化する。
手描友禅では、まず湯熨斗屋が蒸気で縮緬の巾出しを行い、着物・羽織に仮仕立てをする仮絵羽を施した上に、図案屋の描いた図案によって下絵屋が青花で下絵を描く。
次に糊置屋が置いた糸目によって挿友禅屋が色を挿して伏せ糊を置き、引染屋が地染し、蒸し屋が蒸気で色を定着させ、水元屋が糊を洗い流し、再び湯熨斗屋の手に渡って仕上げられる。
これに繍(京繍)や印金・摺箔を施したり、浸抜屋が補正を行うこともある。
これらの業者を悉皆屋が統括・指導する。

● 有職織物

儀式・階位・装束などの規定・習慣によりつくられる織物。
平安末期から近世の公家装束に伝承、元和六年(1620)徳川秀忠の女和子が後水尾天皇の中宮として入内した際、復興研究が進み、江戸期に近世有職としての形式が完成。
位階に相当した着装・素材・色などに定めがあり、各家特定の有職文をもち、代々伝わる。
小葵文・唐草文・襷文・立涌文・亀甲文・七宝文・石畳文・雲鶴文など、文の散り方や色目に和風様式の淡白で洗練された格調の高さをもつ。
現在では、割付文様の織物や宗教用金襴なども有職織物という。

● 有職菓子

有職故実にちなんだ菓子。
古くから宮廷の儀式や行事の際の調度の一部として菓子が用いられ、時代によって変遷した。
近世の京都の上菓子司には、宮中・宮家・公卿などの御用菓子司が多く、これらが雲鶴・立涌・幸菱・小葵などの有職文様を利用研究し。主に白木の容器を用いて有職式の菓子盛を多く製作したため有職菓子の名称が生まれた。

● 遊陶園

明治三十六年四月、優秀陶磁器の製作と図案の研究を目的として結成された団体。
中沢岩太を園長として浅井忠・神坂雪佳・藤江永孝らの図案家・技術者と、陶工の清水六兵衛宮・宮永東山・伊東陶山・錦光山宗兵衛らを会員とする。
月一回の研究会を開き、同四十五年からは東京の農商務省陳列所で、同棟の主旨で発足した京漆園・道楽園・時習園と共同展覧会を開催し好評を得た。
大正年間を通じて活動を続け、京都陶芸会の図案の近代化に寄与したが昭和初年に活動を停止。

● 幽蘭社

龍草廬の詩社。
安永・天明期(1772〜89)の京都の代表的結社。
その作は「金蘭詩集」「麓沢詩集」に載る。

● 遊行土

東山五条付近で産出した土。
名称は遊行宗(時宗)の法国寺があったことにちなむ。
淡紅色で、遊行錆土として壁紙に利用したが、江戸初期以前から陶器の原料としても使用。
花崗岩が風化したものと考えられる。
現在では地上権が設定されて採掘不能。

● 夢の浮橋

泉涌寺五葉ノ辻町北端付近にある橋。
泉涌寺道が一ノ橋川を渡る地点に架けられた大路橋もしくは落橋と記される橋の別名という。
落橋は古くは元禄十年(1679)に架け直した記録がある(「京都御役所向大概覚書」)。
全長七・二メートル。


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● 影向石 ようごうせき

祭石の一。
神仏が姿をあらわしたと伝える石。
有名なものを掲げる。

@ 東山区上馬町、三島神社の拝殿右手にある。
遥向石と呼ぶ。
牛若丸(源義経)が平氏追討祈願のため同社に参籠したとき、白衣の翁が影向し、奥州へ下るよう告げたという。
また、木花咲耶姫が影向したとも伝え、安産石・誕生石として安産祈願の信仰を集める。

A 西京区松尾神ケ谷町、西芳寺の庭内にあり、松尾明神降臨の地という。
一説に夢想疎石の説法を松尾明神が岩上に坐して聞いたという。

B 北区上賀茂本山、上賀茂神社にあるというが所在不明。
石の上に葵が一夜にして生え、双葉に神が影向したと伝える。

C 山科区日ノ岡夷谷町、日向大神宮にあり、蹴上大神宮影向岩という。

D 右京区梅津フケノ町、梅宮大社にあり、熊野影向石という。

● 影向松

神仏が来現したと伝える松。
上京区北野天満宮の影向松は一の鳥居近くにある。
一夜に千本の松が生じた時、神が影向したとも、祭神菅原道真が初雪の日に影向して歌を詠んだともいい、初雪の日には祭事を行う。
また上京区堀川通上御霊前上ルの水火天満宮にも菅公影向の松があり、西京区大原野石作町の金蔵寺には向日明神影向松がある。

● 雍州府志

地誌。
黒川道祐著。
十巻。
貞享三年(1686)刊。
山城一国の地理・沿革・寺社・土産・古跡・陵墓を漢文体で記述。
雍州は山城国の唐名で、漢〜唐の都長安のある雍州に擬したもの。
土産門を設けて商業・生産・さらに当時の生活まで記述する。

● 養性舎

心学講舎の一。
寛政(1789〜1801)初年上京出町に開設。
文政(1818〜30)末頃には衰退して廃絶した。

● 洋扇

明治以降、輸出用に作られた京扇子。
本来の扇は骨の数が十数本であるが、十六世紀に中国扇がスペインに渡り、以後欧州では骨は数十本とされたので、輸出にはこの形式を用いた。
大正期以降輸出の不振から国内にもこの形が出まわり、現在夏扇はほとんどがこの形式。

● 陽明文庫

右京区宇多野上ノ谷町の近衛家の別荘虎山荘の敷地内にある宝物庫(財団法人)。
昭和十三年、当時首相であった近衛家二十九代文麿が設立。
同家伝来の記録・文書・書籍・古筆など約二十万点(うち国宝八点、重要文化財五十点)を収蔵。
「陽明」の名は、近衛家の祖が伝領した近衛殿が御所の陽明門の東にあり、陽明殿とも呼んだことによる。
主な宝物は「御堂関白記」「熊野懐紙」「源氏物語」奈良期から平安期にかけての古筆の断片を集めた「大手鑑」など。
能筆家を輩出させた家柄だけに、特に書蹟関係は貴重な史料が多い。

● 横大路被官衆

洛南伏見の横大路一帯を地盤とする土豪。
室町幕府将軍直轄軍であるため被官衆と呼ばれた。
平時は有力農民として郷村の指導的役割を果たし、戦時には将軍直轄軍事力の中核となって活躍した。
応仁の乱(1467〜77)には西岡・中脈の被官衆とともに東軍(細川方)の一翼を担った。
西軍(山名方)が東軍に決定的打撃を与えられなかったのは、西岡・横大路一帯のこれら被官衆のちからによるところが大きい。

● 横田商会

明治期の映画興行会社。
下京区仏光寺麩屋町に所在。
初めは貿易商。
社主横田永之助は稲畑勝太郎の興行を手伝っていたが、明治三十三年パリ万国博覧会に派遣されたのを機にパテー社からフィルム購入を契約、新しい映写機を持ち帰って上映し自ら映写技師・説明者をつとめた。
同三十七年日露戦争が起こり、戦争映画が関心を集めて発展、同四十年には常設館として大阪に千日前電気館を開館。
のち京都には新京極電気館を設けた。
当時、開場時間は午後二時から十一時、入場料は大人十銭、小人五銭。
四十一年に映画制作を開始し、千本座のマキノ省三を起用、時代劇映画で成功した。
同四十五年、日本活動写真株式会社(日活)発足の際、有力な組織単位となり、京都での映画産業発展の基礎となった。

● 吉岡新一コレクション

中京区に住む歯科医吉岡新一が第二次世界大戦後収集した古銃コレクション。
収集範囲は東西両洋にわたるが、中心は二本の火縄銃と大砲。
登録点数二百余に及ぶ。
中国式原始手銃(1377年在銘)・朝鮮式原始手銃などを含み、個人蔵としては日本最大。
日本各地で展示され、国際的にも有名。

● 吉水

円山公園の東端の安養寺境内付近を指す古地名。
名称は弁天社の傍らの「吉水の井」に由来。
青蓮院宮歴代法親王灌頂の水はここより法親王自ら深更に汲み上げたという。
また三条小鍛冶宗近(別伝では粟田口藤四郎吉光
が弁財天社に祈願し、吉水を鍛刀の水として名刀をつくったという伝承もある。
社壇の下に鉄砧石がのこる。

● 四つ頭茶礼

建仁寺で四月二十日の開山忌に行う禅院茶礼。
四名の頭人(正客)に相伴客が八名づつつくところからこの名がある。
まず侍香の僧が献香し、ついで四名の供給が抹茶の入った天目茶碗と紋菓・コンニャク・昆布を盛った菓子盆を配る。
続いて別の僧が浄瓶を持って出て、客人が捧げ持つ天目に湯を注ぎ終わると右手の茶筅で点て、客はこれを喫する。
供給は四名の頭人の前では胡跪(左立膝の姿勢)し茶を点てるが、相伴の前では中腰のまま点ててゆく。
これは室町期に成立した「喫茶往来」の記述そのままの茶法であり、また「太平記」で佐々木道誉が行った「四主頭ノ座ニ列ヲナシテ並居」とも同様の茶法である。
現在では客は畳の上に正座するが、元来は曲彖に坐して行う「唐礼」という立札であったと考えられる。

● 四つ辻の四つ当り

伏見区中央部、大手筋通の南に位置する大阪町から上油掛町にかけての俗称。
伏見城下町の道路網は整然と区画されたが、東本願寺別院の伏見別院(蓮池御坊)付近のみ城下町特有の遠見遮断や袋小路が存在し複雑な町割りとなっている。
地名は、東西南北いずれかの道からきてもそこで突きあたりとなることに由来。

● 淀魚市

中世から近世初頭にかけて現伏見区淀にあった魚市場。
位置は納所の南西で、旧宇治川・木津川・桂川の合流地点の島付近。
平安期から鎌倉期に入ると、淀津(桂川の西岸、現在の淀水垂町・淀大下津町付近が中心とみられる)は淀魚市としても有名になる。
岩清水八幡宮と関係をもち、魚市の得分中から、岩清水の灯油料として若干の寄進を行い、魚市の在住者は八幡宮網曳神人だった。
市場は専門商人である問丸が運営、取引商品は洛中および西岡付近の塩座に配給した。
室町期には西園寺・三条西両家が支配し、年貢を徴収。
天文年間(1532〜55)以後、河流の変移と鳥羽独特の牛車の発達によって淀市場は衰え、代わって伏見が栄えた。

● 淀川汽船会社

明治前期、京都・伏見間の淀川で営業した小蒸気船会社。
正称は淀川汽船合資会社。
同六年頃、淀川筋に小蒸気船の曳船業が始まり、同十年頃、若村又兵衛ほか五名がつくった曳船業組合を基にして設立。
明治二十年頃には伏見丸ほか十二隻を所有したが、同業者が増えて過当競争となり、同三十五年三月に解散。

●淀城

京都南郊の戦略要地であった現伏見区淀に築かれた城。
戦国期と江戸初期の二度築城。
現在同区淀本町に後者の本丸石垣と内濠の一部がのこる。
戦国期の淀城はこれよりやや北の納所に築かれ、のち豊臣秀吉が愛妾淀君の産所として修築、天守を設けたが、文禄三年(1594)伏見城の築城とともに廃された。
その後、元和九年(1623)に至り松平定綱が幕命をうけて現淀本町に築城、伏見城天守を移すべく天守台を設けたが、実際には二条城の天守を移建した。
定綱のあと永井尚政・松平光煕・松平乗邑が城主となり、享保八年(1723)以後は稲葉氏の居城。
明治維新後破却された。

● 淀堤

伏見区淀納所町の旧淀小橋北詰と伏見三栖を結ぶ堤防。
現在は宇治川北岸の堤であるが、当初は巨椋池北岸の堤として築かれた。
「家忠日記」によると、文禄三年(1594)八月八日に「淀堤つき候」、同九日に「淀堤出来、真木嶋へ人数越候」とみえ、槇嶋堤に先立って築かれたことがわかる。
堤上に桜を植え、太閤堤の代表として知られた。
また堤上は近世、伏見・山崎を結ぶ山崎街道となる。
淀納所町から北は鳥羽堤に連なって一種の輪中堤をなし、小倉・槇島堤と対向する。

● 淀の水車

淀城の北と西に設けられた揚水用の水車。
戦国期からすでに設置されたことが知られるが、江戸初期、松平定綱の淀築城以降も引き続き規模を大きくして使用した。

● 淀藩

元和九年(1623)伏見城の廃棄にともない、松平定綱が三万五千石で入封し立藩。
定綱は淀古城のあった納所ではなく、宇治川対岸の川中島を自然の要害地として選び築城した。
淀藩は伏見にかわる京都守衛の任務を第一としたが、寛永十年(1633)に定綱にかわって永井尚政が十万石で入封してからは、京都所司代を補佐し畿内近国・西日本の幕政に直接関与する政治顧問的な役割もになった。
尚政は木津川の流路をつけかえて城と城下の拡大・整備を行い、淀藩の規模を確定。
永井氏のあと石川氏・戸田氏・松平氏などとかわったが、享保八年(1723)十万二千石で入封した稲葉氏は廃藩まで続いた。
鳥羽・伏見の戦いに際し、稲葉氏が城門を閉じ幕府軍を敗走させたのは有名。

● 淀藩邸

淀藩は山城国久世郡に置かれた藩で。江戸初期、永井氏が藩主の時には壬生坊城町に京屋敷を構えた。
江戸中期、石川氏が藩主になると河原町二条上ルに移り、幕末期、稲葉氏の時には上長者町通葭屋町に設けた。
藩主は頻繁に交代したが、淀が京・大坂間の要衝の地であったため、幕府は常に譜代大名を配置した。

● 淀船

淀川筋の川舟による最初の組織的な舟運とみられる。
淀上荷船ともいう。
中世、岩清水八幡宮の支配下に属する船主たちが同社領内の住人を舟子とし、淀を母港として淀川本流・宇治川・木津川にわたり、川筋の輸送に従事した。
その後、織田信長に運上を出して舟運特権を得、従来の二十石船のほかに三十石船も公許された。
さらに豊臣秀吉・徳川家康からも朱印状を付与され、伏見港に拠って舟運活動を拡充し、淀船の勢威は盛んとなった。
この結果、過書船仲間との権益抗争が続いたが、享保七年(1722)淀上荷船仲間はその主張通り過書船仲間に編入。
天明七年(1787)、過書船の総船数九百二十七艘のうち淀船は五百七艘を占めた。

● 米沢藩邸

米沢藩は出羽国置賜郡に置かれた藩で、藩主は外様大名上杉氏。
京屋敷は江戸中期に堺町通三条下ルに構えた。
呉服所は米沢屋久左衛門。

  ● 米沢屋久左衛門

  江戸前期の商人。
  三条通柳馬場西入町に住む。
  先祖は白川口の髪結い。
  のち出羽米沢藩上杉家に出入りし、麻苧問屋ならびに上杉家御用達となり、米沢に支店を置く。
  三、四代栄えて東洞院通四条下ル町にも大邸宅を構えていたが、米沢産業の運搬路の工事で身代を費やし没落。

● 四方の硯

随筆。
畑維龍(貞道)著。
文化元年(1804)刊。
雪・月・花の三巻。
源義経・細川幽斎など歴史に名のある文武の人、あるいは無名の畸人・隠士の逸事など種々の逸話を収載。
催馬楽・校倉・香物などの考証も行う。
京都に関しては、嵐山のほとりの竹林に群集する阿止里という鳥のこと、武者小路実陰が三条西実教のもとで「浦千鳥」という題を得、沈思して歌を詠んだ話、嵯峨に住む歌僧涌蓮が香合を炉中に落とし、その罪を詫びて歌を詠んだ話、小沢蘆庵が能書であった話、京ことばが四方のことばの入り混じりであるという話などを記す。

● 与力・同心

江戸幕府の諸奉行や城代・京都所司代などの配下に属し、庶務を担当した者。
京都町奉行の配下には東西各々与力二十名、同心五十名(定員)が所属。
与力は、公事方・勘定方・目付新家方・証文方・欠所方・御番方に分かれて同心を指揮し、司法・行政を遂行した。
与力・同心とも二条城の西に宅地(組屋敷)を与えられ、その職は概ね世襲された。


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