■■■ 京都事典
■ 人名、地名、社寺などは除く

【わ】



=わ=

● 和糸問屋

江戸期、国内産の生糸を取引した問屋。
和糸屋とも記す。
江戸初期には中国から輸入した白糸(生糸)が高級西陣織の原料だったが、白糸の輸入が減少し、国内で安価な生糸が生産されるようになると、日本各地から京都へ流入する和糸が急増、正徳六年(1716)で約十三万斤に達した。
この結果、和糸問屋が増加したが、中期以後糸価が高騰したため、和糸問屋と西陣の織屋の間でしばしば紛争が起こった。

● 若狭街道

加茂大橋(今出川通)西詰北にあった京の七口の一つ大原口を出、出町柳から高野川の左岸を北上し、八瀬・大原・途中越を経て滋賀県高島郡今津町保坂に至り、今津と福井県の小浜を結ぶ九里半越若狭街道に合する道。
敦賀街道とも呼ぶ。
花折断層線沿いの直線的な道筋で京都と若狭湾を短絡し、京都への鮮魚輸送路の一つであったため、「魚街道」とも称した。
歴史的には文治二年(1186)後白河法皇の大原御幸で名高く、三幅前垂れ・手甲・脚絆姿の大原女が炭などの行商に京へ往復する道でもあった。

● 若狭口

京の七口の一。
現在の北区深泥池付近にあたり、洛中と若狭国と結ぶ起点。
若狭へは二コースあり、一つは鞍馬寺参詣道の延長上にあり、久多から朽木に出て小浜(若狭)へ至る道。
もう一つは高野川沿いの大原から途中峠を越え、朽木から小浜へ至る道である。
若狭口は前者ルートの起点であったらしく、特に室町期には深泥池に上賀茂神社支配下の関所も置かれた。

● 若狭藩邸

若狭藩は若狭国遠敷郡に置かれた藩で、小浜藩ともいう。
藩主は譜代大名酒井氏。
京屋敷は、江戸初期には西ノ京池ノ内町に構えたが、その後姉小路神泉苑町へ移り、幕末に至る。
呉服所は丸屋七左衛門。

● 若狭物

福井県の小浜地方で水揚げされた魚の称。
特にグジ(甘鯛)やカレイ・サバに一塩を施し、鮮魚の乏しい京都に出荷した海魚を京都では若狭物と呼び、珍重した。

● 輪型地蔵

牛馬車のための舗石である車石(輪型石)でつくった地蔵尊。
正行院にある。
高さ約一メートル。
竹田街道にあったのを明治初期に移したという。
交通安全守護の信仰を集める。
東九条上御霊町、長福寺にもある。

● ワグネル

ドイツ人化学者。
明治元年来日し、有田焼の改良につくし、のち大学南校(東京大学の前身)の教師に転じた。
同十一年京都府の招きに応じて舎密局に着任。
同局内に新設された化学校で理化学を教授するとともに、陶磁器や七宝の釉薬、ガラス・石鹸の製造の指導にあたった。
これによって透明な洋式七宝釉薬や陶磁器の石炭窯がつくられるなど、京都産業の近代化に功績があった。
同十四年舎密局の廃止により、再び東京へ帰り東京帝国大学などで製造化学を教える傍ら、各種工業技術の指導にあたった。
東京で没し青山に葬る。
京都にいることわずか三年であったが永楽善五郎・島津源蔵らも教えをうけ、同志社のハリス理化学校の飛鳥井孝太郎、京都市陶磁器試験場の藤江永孝らも東京職工学校でワグネルに学び、その人脈も広い。
岡崎公園勧業館横に記念碑が建つ。

● 和装小物

和装に付随する装飾品。
小物・袋物に大別でき、小物とは着物の着装時に用いる付属品一切をさし、襟芯・伊達締・腰紐・帯枕・前板・帯金具などの実用的な小物と、半襟・帯揚・帯締・羽織紐・足袋などの装飾も兼ねた小物・筥迫・抱帯・扱・扇子などのように特定の衣装に用いる装飾小物とに分かれる。
袋物は小物の中で袋状になったもので、銭入・紙入・煙草入・手提袋・信玄袋など。
現在京都で大部分を生産する。

● 輪違屋

島原中之町にある置屋。
養花楼ともいう。
置屋は太夫・芸妓を抱える家で、太夫・芸妓は揚屋にきた客の招きにより出向く。
元禄年間(1688〜1704)に創業し、安政三年(1856)に焼失、現在の建物は翌四年の再建。
明治四年の改造を経る。
一階は台所廻りが広く、土間は小屋組の構造。
二階は一間の無地銀箔の大襖に、道中傘の紙を貼りこんだ傘之間、壁に紅葉をあしらった紅葉之間など意匠を凝らした部屋がある。
また太夫や遊女などの衣装や書を伝え、往時の様子がうかがえる。
特に維新の名花といわれた桜木太夫は輪違屋きっての太夫で、伊藤博文と馴染みを重ね、伊藤がハルピン駅で倒れたあとは北区西賀茂に尼となって隠れ住んだという。
大正末には太夫・芸妓など十八名を抱えた。

● 童べ唄

京の童べ唄は洗練された歌詞・旋律を特徴とし、手まり・鬼遊び・お手玉など遊びの唄、身のまわりの動植物や自然現象、年中行事にちなんだ歌など、いずれも各地のものと比べて童べ唄特有の土の匂いが少ない。
都の生活様式と京ことばのもつまろやかななまりが独特の雰囲気をもたらすためである。
たとえば
「ひいふうみいよ/四方の景色を春とながめて/梅にうぐいす/ホホンホケキョとさえずる/あすは祇園の二軒茶屋で/琴や三味線/はやしテンテン手まり歌/歌の中山/チョ五五五/チョ六六六/チョ七七七/チョ八八八/チョ九が九十で/チョと百ついた」(四方の景色)は全国の手まり歌の中でも秀歌といわれる。
また「いんでこ大文字/大文字がとぼった」は「さいなら」(別れのあいさつ)の代わりに歌われた。
「さのやの糸桜/盆にはどこも/いそがしや/東のお茶屋の/かどぐちに/赤前だれに/糯子の帯/ちょっと寄らんせ/はいらんせ/きんちゃくに/金がない/のうてもだんない/はいりゃんせ/おう辛気/こう辛気」(さのやの糸桜)はお盆の頃、夕涼みの子供たちが町内をまわりながらうたった歌。
歌詞の出典も幅広く、手まり歌「ひいふの三吉」は義太夫「馬追い三吉」から、「白木屋のお駒さん」は人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」から、「千本手まり歌」は歌舞伎「千本桜」から題材をとる。
仏語らしい言葉がみられる歌もある。
また「雪やこんこん/あられやこんこん/お寺の柿の木にいっぱいつもれこんこ」が、平安期の「ふれふれ粉雪/たまれ粉雪/垣や木のまたに」(「徒然草」)に原型をもち、江戸前期には「雪やこんこ/あられやこんこ/お寺の柿の木に/ふりやつもれこんこ」(一休咄)であったなど、文献的にさかのぼることができる歌もある。
一方、かつての京の里(周辺市域および隣接地域)には里の歌とともに京の歌も伝承され、里人が独自の生活を営みながら、京となんらかのつながりを保ったことを物語る。
京の童べ唄のほとんどは全国へ流れており、地方の歌でも源流は京都にあるものが多い。

● 和ろうそく

藺草の芯でつくった灯芯に、はぜの実からとった蝋をとかし、手で巻きつけてつくる。
京都で全国の七割を生産。
寺院用・茶事用(数奇屋ろうそく)が多い。


- back -