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[ 2004 ]

■ 三月の話

■ 雛祭りのこと

三月三日の雛祭りを桃の節句といいますが、実際には桃の花の咲く時季より少し早すぎます。
これは当然、新暦と旧暦の関係です。
戦前までは一ヶ月遅れで四月に雛祭りをする家も多かったとか。
やはり桃の花をお供えしないと、節句の意味がないということなのでしょうか。

古くは「桃源郷」という言葉があり、桃の枝は「邪を祓う」神事に使われていました。
鬼を退治する桃太郎の物語りも同じ意味からの派生です。
そもそも雛人形は使い捨ての厄払いだったのです。

江戸時代には当然もう、豪華な雛人形が飾られています。
使い捨てどころかお嫁入りに持っていく。
今では一家に一式あれば充分って感じですが、昔は女の子一人に一つずつあるのが本当で、大名家などは五段飾りだの七段飾りだのといった本格の雛飾りを、娘の人数ぶんだけいくつも飾りたてていました。
加えて奥様方の雛飾りもある。
あっちの部屋こっちの部屋と、奥勤めの女性たちが覗いてまわって、かなりの大騒ぎ。
まさにお祭です。
そして雛人形の衣裳も、身分にあわせた格式で整えられていました。

雛祭りの歌の中で「お内裏様とお雛様」なんていってますが、お内裏様とは帝のことですから、内裏雛を飾っていいのは宮中だけ。
宮家なら親王雛、将軍家は将軍雛、大名家は大名雛です。
衣裳にも道具にも、家紋が大きく使われています。
だから母親の雛飾りを受け継ぐわけにはいかなかったのです。
並べ方も今とは逆で、向かって左が女雛でした。
ただし関西では昔から、向かって左が男雛だったらしい。
つまり、向かって左に男雛が置かれるのが公家式で、女雛が置かれるのが武家式だったということです。
明治維新で江戸にも公家の風俗が流れこみ、雛飾りの並べ方も逆転し、一般市民が飾る人形までが武家雛から公家雛に変わりました。
いま普通に売っている雛飾りは公家雛です。
それも最高格式の内裏雛。
お宅に雛飾りがあるなら、試しにご覧くださいな。
男雛が黒の衣冠束帯で、女雛は唐衣加冠(十二単を着て、額に金色の飾り付き)のはずですから。
まさしく歌の通りに「お内裏様とお雛様」ってこと。

構わないのかって?
おそらく平気なんでしょう。
今の宮中では、正式な礼装は洋服であると規定されていますし、古式の衣裳は神事のとき以外に着ませんので。
その際の衣裳は、またちょっと違うものです。
ゆえに雛飾りと同じ衣裳を着ることなど、もう全然ないみたいです。



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■ 二月の話

■ 節分のこと

「節分」は本来、季節の移り変わる時の意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。
特に立春が1年の初めと考えられることから次第に、「節分」といえば春の節分を指すものとなりました。
立春を新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて、追儺(ついな)の行事が行われていたわけで、その一つが「豆まき」です。
追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事のことで、平安時代、陰陽師たちにより宮中において大晦日盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。
古く中国に始まり、日本では文武天皇が1300年程前に宮中で行った行事が最初と言われています。
鬼にふんする官職のものたちに、大豆をぶつけて退治することで、当時流行していた疫病をしずめようとしたそうです。(追難)
豆まきは、江戸時代からは民衆にも広まり、現在の形になりました。
元々「節分」とは季節の変わり目(年4回)を意味していて、豆まきを行うのは立春の前日(2月3日)のみのところが多いようです。

一般的には、豆まきは年男(その年の干支を持つ生まれの人)、または、一家の主人が煎った大豆をまき、家族は自分の歳の数だけ豆を食べるとその年は、病気にならず長生きすると言われています。
家の中にたまった瘴気(邪気)や鬼を豆をまいて追い出すというお馴染みのものです。
この儀式のことを一般的に追儺(ついな)と呼びます。
この追儺は朝廷の年中行事ですが、もともとは中国の儀式で、日本で初めて行われたのは慶雲三年です。
追儺は「おにやらい」とも読み「鬼遣」と書くこともあります。
読んで字のごとく鬼を追いやる行事で、これが時代を下るにつれ、次第に民間にも広がっていきます。
ちなみに、豆は「煎った大豆」である必要があります。
大豆であることは重要ではないかもしれませんが、「堅い豆を煎る」という事は必要です(もし煎った豆から芽が出ると悪いことが起こるという話もあります)。
これは「金」を表す堅い豆を「火」で煎ることにより、「火剋金」が成り立つ必要があるためです。
「金」は五行思想では病などを表すこともあり、それを剋する、つまり負かすことで病などに勝つ、という願いが込められています。
このとき食べる豆は自分の年齢+1個です。
今まで生きてきた年、そして新たに始まった年、その数の豆を食べることで「金に剋」、つまり、病などに負けないという願いが込められています。

なぜ豆をまくのでしょうか?
陰陽五行、十干十二支という考え方が大きく関わってきます。
「鬼門」ってご存知でしょうか?風水や家相などの東洋占星術でよく使われる言葉で北東にあたる方位が鬼門とされています。
では、なぜ北東の方位が鬼門なのでしょうか?
いろいろな説があるのですが、昔の中国の道教の影響があると言われており、冥府の神として信仰されていた「秦山府君」が住むと言われていた山が北東にあったことから、冥府→北東→鬼門といわれています。
鬼門の方角は十二支では、丑と寅の方角(うしとら)に当り、鬼の姿はこの牛の角をもち、トラのパンツを身に付けています。
ここで、丑というのは12月を、寅は1月を指します。
ちょうど12月から1月にかけての季節の節目に「鬼門」があるのです。
鬼門は鬼の出入りする方角でこの邪気を祓うことにより、春が無事に迎えられると考えられていました。
ここで陰陽五行の法則の登場です。
五行とは、自然の道理を木、火、土、金、水の五元素の事を表しており、この「金」というのが、硬いとか、厄病という意味があり、鬼の象徴で鬼が金棒を持っているのもこの「金」の象徴です。
この「金」の作用をなくすのが、五行でいう「火」に当ります。
大豆というのは、とても硬いという事で、「金」に当ります。イコール鬼です。
これを火で煎る(火が金を溶かすという火剋金の作用)と同時に、豆まきで外や内にこの大豆がばらまかれて結局、人間が食べてしまうことにより、鬼を退治することになります。
また、豆をまく事により、五行の「木」を助けるという事で、「春の気を助ける」から「春を呼ぶ行事」でもあります。

節分の日、「巻き寿司のまるかぶり」が節分のイベントととして世間に浸透してきたのは、大阪が発祥の地といわれており、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行った行事をマスコミが取り上げ、全国の食品メーカーがそれに便乗して全国に広まったそうです。
太い巻き寿司をラッパを吹くようにくわえて恵方に向かって私語を交えずに丸ごと食べる事により、1年間良い事あるそうです。
巻き寿司を使うのは理由は、「福を巻き込む」からで、また、まるごと食べるのは、「縁を切らないために包丁を入れない」という事です。
また、恵方とは陰陽道で、その年の干支に基づいてめでたいと定められた方角の事を表します。

節分の行事で使われるのは『豆』に『枡』、それから『ひいらぎ』『鰯の頭』や『あたり棒』、『南天の実』といったところでしょうか。
豆(=魔目)は鬼の目を打つためのもの。 
南天の実は"難を転ず"の語呂合わせから節分向きの縁起好し!な植物。
トゲのある柊に、悪臭も強烈なイワシの頭を刺して玄関先に飾って鬼を牽制、あたり棒(擂粉木)は鬼撃退の武器、と、かなり念入りな鬼退治。

■ 一月の話

■ 「かるた」のこと

カルタの登場
カルタはいつ、どこで、だ れが、初めて遊び始めたのだろうか。
最近では中国・インド・ペルシャ・エジプ トなどが考えられている。
カルタがヨーロッパに現れたのは1370 年代でこれらの国々から上陸したようだ。
やがてカルタはヨーロッパ中で人気になり、大航海時代になるとスペインやポルトガルの船乗りたちが世界各地に広めていった。
全ヨーロッパに広がったカルタは、当時の王様や貴族から一般の人にまで遊ばれた。
様々な遊び方があり、1組60枚や78枚のものはタロットゲームの始まりになった。
時が経過すると、ヨーロッパ各地方に独 自のマークを持ったカードが発達し、枚数も地方ごとに変化がでて、色々な物が入り乱れた。
アジアにカルタを持ち込んだのは、大航 海時代のポルトガル人である。
日本にも16世紀の中頃に彼らが渡 来し、色々なものと一緒にカルタも伝えた。
ところで、当時のポル トガルのカルタには4枚のエースの札に竜(ドラゴン)入れる習慣があった。
よって日本のカルタには竜が登場するものが多く、最近 まで実際に遊ばれていた。
このことから世界中の研究者に注目されて いる。

日本で最初のカルタ
16世紀中頃、カルタが日本へ伝わった。
16世紀末、日本の三池でも、カルタが 作られるようになった。
これが天正カルタである。
カルタを作るには、高い水準の工芸技術が必要だった。
その後、天正カル タを基にしてウンスンカルタが作られた。
その中には豪華なものがあり、何組かは今でも残っている。

江戸時代のカルタ
江戸時代になると、ヨーロッパから伝わったカ ルタは、日本独自のカルタ文化を開花させる。
ポルトガル系のカルタ遊びは、めくりカ ルタなどの遊びとなって生き続けた。
平安時代から遊ばれていた会覆(かいお おい)にヒントをえて、いろはカルタや百人一首やどうさいカルタが作られた。
カルタはヨーロッパの人々によって、ア ジアの様々な地域に伝わったが、日本ほど巧みに、固有の遊戯文化と融合させて、カルタ遊びを
発達させた国はない。
つまり日本はカル タ王国であるといえる。

その後のカルタ
こどものための「いろはカルタ」は江戸時代の 末期から明治、大正にかけてには、それを つかって子供に読み書きを教えていた。
いわばカルタは学びの旅立ちをかざり、励ます玩具であった。
しかし、テレビゲームの普及などによっ て、カルタは年々衰退しつつある。
カルタは今後どうなっていくんだろうか。
 

「いろはかるた」 京都 江戸
  京都 江戸
一寸先は闇 犬も歩けば棒にあたる
論語よみの論語知らず 論より証拠
針のめどから天を覗く 花より団子
二階から目薬 憎まれっ子世に憚る
仏の顔も三度 骨折り損のくたびれ儲け
下手の長談義 屁をひって尻つぼめる
豆腐にかすがい 年寄りの冷や水
地獄の沙汰も金次第 ちりも積もれば山となる
綸言汗の如し 律義者の子沢山
糠に釘 盗人の昼寝
類を以って集まる 瑠璃も玻璃も照らせば光る
鬼も十八番茶も出花 老いては子に従え
笑う門には福来る 割れ鍋にとじ蓋
蛙の面に水 かったいの瘡恨み
夜目遠目笠の内 葦の髄から天井の覗く
立て板に水 旅は道連れ世は情け
連木で腹を切る 良薬口に苦し
袖すり合うも他生の縁 総領の甚六
月夜に釜を抜かれる 月夜に釜を抜かれる
猫に小判 念には念を入れよ
済す時の閻魔顔 泣きっ面に蜂
来年のことを言えば鬼が笑う 楽あれば苦あり
昔採った杵柄 無理が通れば道理引っ込む
氏より育ち 嘘から出た真
鰯の頭も信心から 芋のにえたも御存知ない
のみと言えば槌 喉元過ぎれば熱さを忘れる
負うた子に教えられて浅瀬を渡る 鬼に金棒
臭いものに蝿たかる 臭いものに蓋をする
闇夜に鉄砲 安物買いの銭失い
蒔かぬ種ははえぬ 負けるが勝ち
下駄と焼き味噌 芸は身をたすける
武士は食べねど高楊子 文はやりたし書く手は持たぬ
これにこりよ道才坊 子は三界の首つ枷
縁の下の力持ち 得手に帆を揚ぐ
寺から里へ 亭主の好きな赤烏帽子
足下から鳥が立つ 頭かくして尻隠さず
笹の先に鈴 三べん回って煙草にしよ
義理と褌は欠かせれぬ 聞いて極楽見て地獄
幽霊の浜風 油断大敵
盲の垣覗き 目の上のこぶ
身は身で通る裸ん坊 身から出た錆
しわん坊の柿の種 知らぬが仏
縁の下の舞 縁は異なもの味なもの
瓢箪から駒がでる 貧乏ひまなし
餅は餅屋 門前の小僧習わぬ経を読む
栴檀は双葉より芳し 背に腹は代えられぬ
雀百まで踊り忘れず 粋は身を食う
京に田舎あり 京の夢大阪の夢


 
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