■■■ 京都御所・京都御苑

京都御所

京都御所御苑の中央北部に位置し、周囲を築地塀と御溝水をめぐらした清楚なたたずまいの中にある。

もとは大内裏といい、平安時代の頃は、朝堂院(大極殿)を中心に豊楽院・太政官・神祇官等、多くの宮殿・官庁があり、天皇日常の住居とされた内裏もこのうちに含まれていた。

その場所は現在地より西へ約二キロ、上京区の西南部に位置し、今の千本通りを中央とする東西一・一キロ、南北一・五キロにおよぶ広大な地を占めていたが、長い年月のあいだに火災や台風・地震等によって荒廃するに至った。
ために天皇は京中の別院や藤原氏等の公家の邸宅を仮御所として利用されることが多く、これを里内裏といった。

現在の京都御所はこの里内裏の一であって、もと東洞院土御門殿といい、北朝の光厳天皇が元弘元年(1331)に入居され、次いで崇光・後光厳両天皇も御在所とされてより、北朝の皇居となり、さらに南北両朝の合一後は正統天皇の皇居となるに至った。

しかし、当時の皇居は規模も小さく狭いものであったから、永禄年間(1558-70)織田信長によって修理され、次いで豊臣秀吉や徳川家康によって整備拡張が行われた。
とくに徳川二代将軍秀忠の娘和子(東福門院)が、後水尾天皇の後宮入内によって大々的に拡張増築された。
しかしこのときの内裏は、承応二年(1653)の火災によって焼失した。
その後、万治四年(1661)、寛文十三年(1673)、宝永五年(1708)、天明八年(1788)と再々炎上し、その都度再興との歴史をくり返した。
とくに寛政二年(1790)の造営は、総奉行松平定信が紫野栗山や裏松固禅に命じ、平安京内裏の古制に則って本格的に再造が行われた。
しかるに寛永七年(1854)大宮御所よりの出火によってまたもや類焼したため、再び造営に着手し、翌安政二年(1855)に完成したのが現在の建物である。
但し、平安京内裏そのままではないが、その主要な部分は如実に再現され、建築史的にも注目すべきものがある。

現在の京都御所は東西二百四十九メートル、南北約四百四十八メートル、広い境内には紫宸殿をはじめ多くの優雅な寝殿造りの建物があって、内部の調度品とともに、よく王朝時代の宮廷生活をしのばせている。

【紫宸殿】

皇居の正殿で、南殿ともいい、即位・朝賀などの大儀はここで行われる。
正面中央に岡本保孝の筆になる「紫宸殿」としるした額をかかげ、十八段の階段の左右には左近の桜、右近の橘があるだけ。
典型的な寝殿造り。

玉座(高御座)は母屋の中央にあって、その右後方に皇后の「御帖台」が置かれ、背後に住吉広行の筆になる中国古代の賢人三十二人の像を描いた「賢聖の障子」がある。

また紫宸殿の前の庭を「南庭」といい、白砂をもって一面に敷き、東西南の三方に丹朱の廻廊をめぐらし、南に承明門、東西に日華門・月華門がある。
即位の大礼には、親王・大臣以下の諸臣がここに列立し、諸儀式が行われたところで、白壁に映える丹朱の円柱は、王朝時代をしのばせるに足るものがある。

【宜陽殿】

紫宸殿の東、日華門の北に接する建物をいい、天皇の受禅のさい、諸臣に饗宴を賜ったところである。
ここから紫宸殿に通じる敷石廊下を「軒廊」といい、大嘗祭の前に悠紀・主基の斎田の候補地を卜った「亀卜の座」という石がある。

またその北の小庭をへだてた狭い板敷きの間を「陣の座」といい、左近衛府の武官が陣を設けたところで、近世は親王宣下・改元などの重要な会議室とされた。

【清涼殿】

紫宸殿の西北にあって中殿ともいい、天皇の日常の御座所とされたところで、紫宸殿とちがって内部は複雑になっている。

先ず中央の南北に長い九間と二間の母屋(身舎)をおき、その周囲に廂をつくり、東側には吹き放しの弘廂(孫廂)を設け、その外に簀子の縁先をめぐらしている。
そこは諸臣が列座し、重要な政務やおごそかな儀式を行ったところで、その庭前には白砂を敷き、漢竹・呉竹を植え、清冽な御溝水が流れている。

母屋と東廂の南半分は「昼の御座」といい、御帖台や大床子の御座があり、東南隅には天皇が毎朝神宮・内侍所以下を遥拝される石灰檀がある。

昼の御座の北には天皇が御寝になる「夜の御殿」と護持僧が伺候した「二間」があり、さらにその北側に接して女御・更衣がはべった「藤壺上御局・萩の戸・弘徽殿上御局」がある。

一方、西廂の方には女官が奉仕した「鬼間・台磐所・朝餉の間・お手水の間・お湯殿の間」等、一連の部屋が勝手廻りとして列んでいる。

また南廂を「殿上の間」とよび、ここでもっぱら宮中の事務をつかさどり、五位上・六位の蔵人以上の殿上人がはべったところで、櫛型窓・鳴板・日給の簡・年中行事の障子・昆明池障子等があって、いずれも古制によってつくられている。
しかし、近世に常御殿がつくられてからは、ここでは単に儀式を執り行うときのみ用いられているにすぎなかった。

なお、北廂の北にある半蔀戸のあるところが、黒戸廊であって、滝口の武士が警固をしていた滝口がある。

【春興殿】

宜陽殿の東にあって南面する。
大正天皇即位のとき、三種の神器のうち、御鏡を安置するために臨時に建てられたもので、賢所にあたる。
入母屋造り・銅板葺、内部は外陣・内陣・内々陣の三つからなっている。

【小御所】

紫宸殿の東北にあって、東面する。
内部は畳敷きで、上中下の三室からなる書院造の構造。

ここは東宮の御元服、御書始め、立太子の儀式など、皇太子の儀式に用いられたから、一に「御元服御殿」ともよばれる。
また幕府の使者、諸大名を引見する御殿としても使用された。
明治維新史上に有名な小御所会議はここで行われたが、それはもとの建物で、今のは昭和三十四年(1959)の再建である。

【御池庭】

小御所の東に展開する借景本位の池泉廻遊の庭園(江戸)をいい、池中に中島を作り、橋を架け、石組みを用いる。
西岸の一部を刈り込みにしているが、池は栗石を以って一面に敷きつめて浜とし、周囲は白砂を敷いて広々とした景観をあらわす。
寝殿造りの建物によく調和した上品な品格をそなえた江戸初期の庭園。

【御学問所】

小御所の北にある。
ここは月次のお歌会や親王の御講書始めなどに用いられ、その前庭では蹴鞠などが行われた。

【御常御殿】

御学問所の東北にあって南面する。
清涼殿の儀式化により、天皇の日常生活が不便となり、別に造営されたのがこの建物である。
故に内部は書院造りとするが、いずれも簡素なもので、徳川氏の二条城の豪華さに比すべくもない。
南階の左右には、紅白の梅樹を植えた「壺庭」、四季の草花を植えた王朝風の「前栽」がしつらえてある。

【御三間】

御常御殿の南西に接する。
上・中・下段の三間よりなる建物で、南と西に御縁座敷があり、ここで涅槃会・茅輪・七夕や盂蘭盆の儀が行われた。

一般に拝観できる場所は以上である。

御常御殿の北には廊下をへだてて「迎春」(孝明天皇書見の間)、「御涼所」(避暑用の御殿)および御茶屋「聴雪」、「錦台」等の建物があり、その北には「御花御殿」(皇太子御殿)がある。
これらの建物をとりかこんだ御内庭は、池泉と流れ本位からなる幽邃な庭園で、平安時代に流行した遣水の面影がみられる。

なお御内庭の北域には、「皇后御殿」、「若宮・姫宮御殿」、「飛香舎」(藤壺)等があり、歴代天皇の御物を収めた「東山文庫」は、その東北隅にある。

【仙洞御所】

京都御所の東南にある。
仙洞とは上皇の御所の意で、寛永六年(1629)後水尾上皇の御所として、徳川幕府が桜町の地を相して造進した。
故に桜町宮または桜町の仙洞とも称した。
爾来、霊元・中御門・桜町・後桜町・光格各上皇の仙洞となった。
その間、数度の火災に焼亡し、寛永以後は再興されなかったから、今は庭園だけが残っている。

庭園(江戸)は三部分よりなる池泉廻遊式の観賞庭園。
寛永十一年(1634)小堀遠州が泉石奉行となり、庭師賢庭を用いて作庭したといわれ、東西約百メートル、南北三百メートルの広大な地に大池をつくり、奇岩怪石を配置し、古木老樹を植えて深山幽谷の景観をあらわしている。
このうち北苑の池泉は巨石を組んで「真」の山水とし、桃山時代に行われた書院式廻遊庭園としの様式がとられている。
中苑の池泉は東部滝組を中心にして行体の景を示し、八ツ橋を架け、小田原石を敷いて浜を作り、中島を設け、爽快な池泉庭園としての景観を形成している。

なお北苑北隅の一潭を「阿古瀬淵」といい、紀貫之の旧栖地とつたえ、渡忠秋撰文の石碑が建っている。

【大宮御所】

仙洞御所と同域内にあって、築地塀を挟んでその西北につらなる。
寛永年間(1624-44)に徳川幕府が後水尾天皇中宮東福門院のために造進した御所である。
皇太后をはじめ天皇の御生母の女院を大宮と称したことから、大宮御所という。
現在の建物は嘉永七年(1854)の炎上後、慶応三年(1867)の再造で、外観は古風をとどめているが、内部は改装され、皇室や外国の貴賓の宿舎にあてられている。
その庭園は遣水を主として、多くの庭木を配植した簡素な庭となっている。

京都御苑

京都御所の周辺を公苑とした地域をいい、東は寺町通りより西は烏丸通まで。
北は今出川通りより南は丸太町通りに至る東西約七百メートル、南北約千三百メートルにおよぶ。
面積は約六十五ヘクタール。
周囲に九門(南に堺町御門、北に今出川御門、東に石薬師・清和院・寺町の三御門、西に乾・中立売・蛤・下立売の四脚門)を設け、他は築土をきりひらいて自由に通行できる。

明治維新まではここには皇族・公家の邸宅や門跡寺院の里坊等、二百をこえる多くの家屋が密集していたが、明治二年(1869)車駕東行の後は逐次とりこわされ、その後は空地の一部を利用し、京都画学校や観象台(測候所)・府立図書館が建てられた。
また明治十四年(1881)には博覧会場が建設される等のことがあったが、大正の御大典を機にいずれも撤去され、芝生や樹木を植えて公苑となった。

公家の邸宅内にあった庭園や鎮守社はそのまま残された。

以下に主なものを書く

【捨翠亭】

堺町御門を入った西方、大きな池の畔にある。
ここは九条家の屋敷址で、池と捨翠亭のみが残った。
寛政年間(1789-1801)九条家の離れとして建立し、主に茶会や歌会に使用したものとみられ、往時の貴族の風流を偲ばせる貴重な遺構。

また庭園(江戸)は「勾玉池」を中心とした廻遊庭園とし、東方池辺には滝口を設け、池中に岬を交互に突き出し、地泉に変化を与えている。
今は池の中央の反橋によって東西に分断され、大いに感興をそがれているが、中世末期の作庭手法を随所にみせていて、近世の公家屋敷の庭園を知る上で貴重な実例の一となっている。

【厳島神社】

旧九条家の池の中島にあるもと同家の鎮守社である。
平清盛が母祗園女御のために安芸の厳島神を勧請したのが起こりといわれ、はじめ兵庫の築島にあったが、のちにここへ移したとつたえ、祗園女御を配祀する。
社前の石鳥居(重美・室町)は小型ではあるが、笠木と島木がともに唐破風になっているのが珍しく、京都三珍鳥居の一とされている。

注)
この石鳥居も兵庫の築島にあったが、足利将軍義晴が上洛の際、細川高国邸内に移した。
その後、明和八年(1771)九条道前公が徳川幕府に乞うて移したとつたえる。

【宗像神社】

九条家址の西北、築地塀をめぐらせた一画内にある。
もとは花山院家の鎮守社で、宗像三神と倉稲魂神・天石戸開神を祀る。

はじめ左大臣藤原冬嗣が、下京の東西両市の守護神として宗像神を勧請したのが起こりであるが、またこの地にあった自邸の小一条院にも勧請したともいう。
花山院はこの小一条院の東にあった貞保親王(清和帝皇子)の邸宅であったが、のちに藤原氏が領有し、両院を合わせて花山院と号するに至った。

東南隅には樹齢六百年といわれる苑内第一の巨木「くす」の木がある。

【旧閑院宮邸】

江戸時代の公家建築の一端を知る上で貴重な遺構である。

現在、本御殿は京都御苑保存協会の事務所となり、邸内の一隅には環境庁の御苑管理事務所がある。

【白雲神社】

上同所より北へ三百メートル、建礼門に至る苑道の東側にあって、市杵島姫命を祭神とする西園寺家の旧鎮守社である。

はじめ妙音天といい、もとは西園寺公経が造営した衣笠山麓の北山殿内妙音堂に祀られていたが、明和六年(1769)前内大臣西園寺公晃によってこの地に勧請再興された。
明治維新に屋敷はとり払われ、白雲神社と改めて鎮守社だけが残った。

【蛤御門】

京都御苑の西側、烏丸通下長者町上るところに面する門をいう。
もとは新在家御門といい、今のところより苑内北側に南面していた。
この門はいつも閉ざされていたが、天明八年(1788)の大火によって開門されたので、「焼けて口あく蛤」にたとえて蛤御門とよばれるに至った。

この門をいちやく有名にならしめたのは、元治元年(1864)七月十九日、長州藩と御所九門を固めていた会津・薩摩を主力とする藩兵との間に起こった「禁門の戦」(元治甲子の役)中、とくに蛤御門を中心としての戦いがもっとも激烈をきわめ、一に「蛤御門の戦」とよばれたからである。
今もなお門柱に弾痕をとどめている。

なお蛤御門を入った苑内玉砂利道の中央にある一本の椋の大樹は、長州藩士来島又兵衛が自刃したところとつたえる。

【車返しの桜】

中立売御門を入って御清所御門へ廻る西北角、芝生の中にある。

この地はもと菊亭家の邸址にあたる。
邸内に有る見事な桜の前を後水尾天皇が通られたとき、あまりの美しさに御車をもどして観賞されたというので、車返しの桜とよぶに至ったとつたえる。

【県井】

中立売御門を入った北(宮内庁京都事務所の西側)にある。
石の井筒には、文化年間一条家の大夫加茂保孝の筆による「県井戸」としるした文字がみえる。

むかしは井戸の側に県宮があって、毎年正月に行われる県召の除目には、諸国の外官(地方官)がこの井戸水で身を清め、栄進を祈ったといわれ、一に井戸殿ともいわれたが、今は神社はない。
江戸時代には一条家の邸内の井戸となり、昭憲皇太后の産湯に使用されたとつたえる。
古来、洛陽の名水の一に数えられ、また山吹の名所として歌枕にもなった。

【旧近衛家庭園】 (江戸)

今出川御門を入った西側にある。
ここは天正末期以来、近衛家の邸宅があった。
庭園はその東部にある池泉廻遊式の庭園で、細長い池中には石橋を架け、池汀や中島護岸の石組みに桃山風の雄大な手法をとどめている。

毎年春にさきがけて開花することで有名な邸内の糸桜は、今は苑内芝生内に新しい桜数株が植えられている。

【猿ケ辻】

京都御所の東北角をいう。
ここは御所の表鬼門にあたるため、ここだけは築地塀を入り込ませ、また築地屋根の下の板蟇股には、烏帽子をつけ、御幣をかついだひょうきんな猿の像が彫り出されている。
この辻は古くは「つくばいの辻」と称したが、この猿像に因んで「猿ケ辻」とよばれるに至った。
さらに文久三年(1863)五月二十日、宮中の会議に参加した姉小路公知が、夜遅くになって退出の途次、凶徒に襲われたことから、その名は明治維新史上有名となった。

注1)
猿は古来、日吉山王の神使といわれ、鬼門除けのためにつくったという。
その表面を金網で覆っているのは、猿が夜中に出て悪戯をし、その鳴く声が天皇の御耳にまで入ったので、釘付けにして金網をかぶせたら、そのことが止んだとつたえる。

注2)
蹲踞の辻。
百井塘雨著『笈埃随筆』によれば、夜更けにこの辻を通ると茫然として途方に迷い、つくばってしまう。
まことに怪しい事だと記している。
また猿像は、三位石山師香卿の作になるとも併記している。

【祐ノ井】

猿ケ辻の東北にある。
ここは嘉永五年(1852)明治天皇が降誕された中山忠熊邸址にあたる。
今も残る簡素な平屋建ての家は天皇の産屋といわれ、六畳二間からなり、ここで天皇は四年間養育をうけられた。
井戸は芝生内にあって、白川石の井筒を置き、傍らに中山忠純建立の碑がある。

因みにこの井戸は天皇二歳の夏、邸内の井戸がみな涸れたときに掘られたもので、深さは十一・五メートル、水はいかなるときにも増減がないといわれ、天皇の幼名祐宮に因んで、祐ノ井と名付けられたとつたえる。

この中山邸址のうしろにあって、築地塀をめぐらす一画は旧桂宮邸址である。
またその東方、石薬師御門より南の清和院御門に至る苑内には、明治維新までは多くの公家の邸宅が建ち列んでいた。
 

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