■■■ 伏見稲荷大社

伏見稲荷公式ホームページ



伏見稲荷大社は稲荷山の西麓に鎮座する旧官幣大社で、俗に「伏見稲荷」とよばれ、古来、上下万民の崇敬を得ている屈指の古社である。

当社の創建は和銅四年(711)といわれるが明らかでなく、『山城風土記』逸文には、秦の中家(本家)の遠祖秦伊呂具が驕富のあまり、餅を的にして矢を射ったところ、餅は一羽の白鳥と化し、山の頂に飛び去った。
その鳥のとどまったところに稲が生えたので、伊奈利社と名付け、秦氏が代々禰宜・祝となって春秋のまつりを行ったのが起こりだとつたえる。

しかし稲荷山は神の降臨する神奈備山として古くから崇敬されていたから、上は深草地方に勢力をもつ秦氏が、農耕生産の守護神として祀ったことを伝説化したものであろう。

平安遷都以後は真言密教と結びついて次第に信仰をひろめ、天長四年(872)空海は稲荷神を以って東寺の鎮守神として祀り、朝廷もまたはじめて従五位の神階をさずけられた。
爾来、年とともに累進し、延喜の制には名神大社に列し、四度の官幣ならびに祈雨祭の幣にあずかり、二十二社に班せられ、正一位の極位を賜った。

また後三条天皇の延久四年(1072)に、はじめて当社と祇園社とに行幸があり、これを「両社行幸」と称し、歴代の慣例となって鎌倉時代にまでおよんだ。
さらに熊野信仰が盛んになるにつれ、その道中の守護神として崇敬され「護法送り」の風習が起こった。
●護法送り=熊野御幸の帰途、当社にて行われる奉納の儀

社伝によれば、創建時の社殿は今の山下にあったが、のちに山上にかけて中社・上社が設けられ、山下の下社と合わせて「稲荷三神」または「稲荷の三つの社」と呼ばれた。
左大臣藤原時平が延喜八年(908)はじめて三社を修造してより、たびたび修造が行われたが、風害やその他の事情により、山上の社殿が破損し、もとの山下の社殿に還したという。
とくに応仁二年(1468)の戦乱には山上・山下は戦場となり、ために三所の社殿は炎上した。

現在の社殿は明応三年(1494)から同八年(1499)にかけて造営されたもので、このとき、下・中・上の三社別殿の古制を改め、新たに田中・四大神の両摂社を合祀し、五社相殿となったとつたえる。
次いで天正十六・七年(1588・9)、豊臣秀吉の立願米による修造が行われ、ほぼ現在の姿となった。
稲荷大社と改めたのは戦後のことである。

境内は山上・山下を合わせて約二十六万坪といわれ、山麓の台地を巧みに利用して本殿以下多くの摂・末社などが建ちならび、朱塗りの鳥居はみどりの木々に映えて、ひときは荘厳な雰囲気を漂わせている。

【楼門】 (桃山)

表参道に面して厳然として建つ朱塗りの楼門。
天正十七年(1589)豊臣秀吉が母大政所の病気回復を願って寄進したといわれ、昭和四十九年解体修理の際、垂木に同年号の墨書銘を発見した。

【本殿】 (重文・室町)

外拝殿をへだてて楼門の東にあり、西面する。
祭神は宇迦之御魂神・佐田彦神・大宮能売神を主神とし、田中大神・四大神の二神を配祀して五座としている。

社殿は明応三年(1494)の建造で、五間社、流造り、屋根は桧皮葺とした稀にみる大建築で、世にこれを”稲荷造り”といい、本殿と拝所あいだが極めて短い。

また正面の唐破風の向殿は、秀吉の本殿修理後に付け足したもので、内部の蟇股には牡丹や唐獅子や唐草など、桃山風の豪華な彫刻がみられる。

【権殿】 (桃山)

は「若宮」ともいい、本殿の向かって左にある。
権殿とは本殿を造営するとき、神璽をその期間中にうつし祀る御殿をいう。
天正十七年(1589)の造営で、寛永年間の修理とつあえる。

【石灯籠】 (鎌倉)

鎌倉時代特有のどっしりとした重厚味のある石灯籠であるが、火袋から上は近年(昭和二十九年加寿賀会の寄進。設計は川勝政太郎博士、施工は石工新谷素男)の復元補作にかかる。
その他境内には多数の石灯籠が奉納されているが、いずれも新しいものばかりで、古いものは、これだけである。

【御茶屋】 (重文・桃山)

もと後水尾上皇の仙洞御所にあった建物を当社の祠官羽倉氏が拝領し、寛永二十年(1643)に移築したとつたえる。

書院造り風にしつらえた茶席で、柱や竿縁天井には面皮材を用い、欄間や建具に数奇屋好みの意匠を施し、いかにも宮廷好みの御茶屋らしい高い品格を備えている。
邸内には他に瑞芳軒、残香亭などの茶席がある。

【奥宮】 (室町)

明応年間の造営にかかる。
祭神は稲荷神、三社殿または上御殿といい、下・中・上三社が別殿であった古い頃の上社あるいは中社に深い関係をもつと考えられる。

【白狐社】 
奥宮の北にある末社の一で、稲荷の神使白狐(命婦専女神)を祀る。
住古の下社の末社「阿古町」の後身といわれ、一名「命婦社」とも称する。

【玉山稲荷社】 

白狐社の下段の地にある。
末社の一で、もと宮中に祀られていたが、宝永五年(1708)、修学院高野村にうつされ、明治初年に現在の地に移したと伝える。
同時に勅願・宸筆・七夕和歌・御冠・御衣などが神宝としてともに納められた。

【大八嶋社】 

四大神という地主神を祀る摂社の一で、もと稲荷山の荒神ケ峰にあったが、中世にここへ移したと伝える。
大和の大三輪明神とおなじく、社殿を設けず、玉垣をめぐらした山林それ自身が神体とされている。

【奥社奉拝所】

奥宮より朱塗りの鳥居が立ち並ぶ参道を行くこと約二百メートル、通称「命婦谷」にあって、一般には「奥ノ院」の名で知られる。
ここは稲荷山三ケ峰の正西にあたり、山上の神蹟を遥拝するために設けられたといわれ、社殿は明応頃の創建である。
境内には後醍醐天皇の歌碑や「おもかる石」とよばれる神占石が人目を引く。

【お山めぐり】

稲荷山は標高二百三十メートル、山頂を三ケ峰といい、一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰からなっている。
神の降臨地として古くから神聖視され、山中至る所に神蹟やお塚があり、ときには古鏡などを出土する。
これらのお塚を巡拝することを「お山めぐり」という。
いずれも明治以後につくられたものであるが、そこには自然物を対象とした原始信仰の遺態がみられ、ふかい興味をそそられる。

中でも三ケ峰の北背後の御膳谷は、むかし、ここに御饗殿と竈殿があって、山上の本社に神饌を供進した根本道場である。
今なお神饌石と称する神石があり、大山祭りはここで行われる。

藤原末期に築造されたと思われる経塚は、御膳谷より東、春日峠の南側といわれ、明治四十四年(1911)、経巻の軸十本とともに古鏡・華瓶・合子・古銭等、三十二種類の収蔵品を納入した陶製の経筒が発見され、神仏習合時代の稲荷信仰を物語っている。

また上同所より一ノ峰に至る途中の御劔社(長者社)は、一個の巨大な岩石を以って神体としいる点で注目される。
この石は雷石ともいい、雷を捕らえたところとつたえる、
磐座信仰の一形態と思われるが、また稲荷の雷神信仰の一面をもうかがわしめている。

一ノ峰は稲荷山の最高峰にあたり、上社の旧鎮座地にあたる。
ここから二ノ峰(中社)にに至るあいだを青木谷といい、古来「しるしの杉」といわれている神木のあったところとつたえ、のちにはこの谷間一帯の杉を称するようになった。
むかしは年を経た杉木が繁茂し、白鳥(神霊)の棲家とみられたものであろう。

その他、山中には「こだまの池」「膝松さん」「おせき稲荷」「御産婆稲荷」等、土俗的な民間信仰による神祠が多く、山中の渓谷にはまた多くの滝があって、敬虔な信者の行場となっている。


=主な年中行事=

【大山祭】 毎年一月五日

稲荷山上の神蹟七ヶ所に注連縄を張ることから「注連縄張神事」とも「注連縄懸けの神事」ともいう。
当日は午後一時、山上の御膳谷に於いて清酒とにごり酒を斎土器七十枚に盛り、神饌石の上にならべて神に供える。
祭礼後、神職達は日蔭蔓をかけ、杉の小枝を烏帽子に挿し、各神蹟を巡拝して下山する。

このときの斎土器は、古来、招福のまじないとされ、とくに酒造家は酒性をよくし、水質を清ませる霊験があると信じられ、祭礼後、多くの人々が競って土器の奪い合いをする。
これを俗に「かわらけ拾い」といい、勇壮なものであったが、怪我人が出ることから改められ、今は土器引換券によって希望者に頒布されている。

【初午祭】 四月二十日前後の日曜日

神幸祭を行い、西九条の御旅所へ渡御され、五月三日に還幸する。
むかしは四月第二の午の日より五月第一の卯の日まで行われたので、俗に「うまうまと来て、うかうかとお帰り」といった。
また一に「勅裁祭」ともよばれ、神幸の途上に綸旨を奉じて巡行したといわれ、華麗をきわめたが、今は五基の神輿をトラックに乗せ、松原通以南、鴨川以西の下京・南区一帯の広い氏子区域を巡幸する。

【御田植祭】 毎年六月一日

午後一時から行われる。
稲荷神に日々供える御料米をつくる神の祭礼で、王朝時代をしのばせる荘重な御田舞を奏し、早乙女による華やかな田植神事がくりひろげられる。

【火焚祭】 毎年十一月八日

一に「鞴祭」ともいう。
五穀豊穣をもたらした神恩に報謝するために行われる祭礼で、当社の年中行事中、もっとも古く且つ重要な祭儀となっている。

一に「ふいご祭」といわれるのは、一条天皇の御代、三条小鍛治宗近が稲荷明神の霊験をこうむり、稲荷山の埴土で名剣をきたえたという故事によるもので、これに因んで鍛冶屋や火を使う職業人の信仰がある。
謡曲「小鍛治」は、これを能楽化したものであることは、いうまでもない。

当日は夕刻から神前で御神楽が奉納され、庭火に映える荘重な中で古雅な人長舞が奏せられる。


荷田春満旧宅 (史・江戸)

稲荷大社拝殿の南側にある。
ここは稲荷大社の祠官羽倉家の旧宅で、同家出身の国学者荷田春満誕生の居宅といわれる。

建物は武家風であるが、内部は書院造りとし、各室の襖をとりはずすと二十畳余りの広い部屋となり、講義室となるよう工夫がこらされている。
その欄間の意匠も双葉形の透かしをそれぞれ変化させ、すこぶる変化に富んでいる。

春満(東丸)は江戸中期の稲荷大社の祠官であるが、国学をきわめ、その門下に賀茂真淵があり、その後にあらわれた本居宣長や平田篤胤とともに国学の四大人といわれた。
元文元年(1736)六十八歳で没した。
墓はここより東南二百メートル余、在ノ山墓地にあり、自然石の墓石の表面に「荷田羽倉大人之墓」としるされている。

東丸神社

上同所の東に接する。
明治十六年(1883)荷田春満(東丸)に正四位を贈位されたのを記念して社殿を造営し、神霊を奉斎したもので、旧府社である。

社前には祭神にあやかり、学業成績上達を祈願して奉納された小絵馬が多数かかげられているのも、当社の特色である。



 
 

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