■■■ 藤森神社



深草一帯の産土神で、伏見稲荷や御香宮神社とともに古くから崇敬されている旧府社である。

但しその創建由緒についてはあきらかでなく、社伝によれば神功皇后が三輪征伐より凱旋後、その旗と兵器を納めたのが当社の起こりといい、今も境内にある旗塚はそれを埋納したところとつたえる。
また早良親王は天応元年(781)蒙古追討にあたって当社に詣で、戦勝を祈願されたといわれ、たぶんに伝説めいたところがあるのが当社の特長である。

かかる伝説から当社の祭神は、神功皇后を主として応神天皇や武内宿禰(紀氏の祖)、疫病除けの素戔鳴命、武神としての日本武尊、八幡神の若宮仁徳天皇や別雷命など、七座におよぶにぎやかな神々を本殿に合祀している。

さらに室町時代の永享十年(1438)には。藤尾の地に藤尾社の祭神天武天皇と舎人親王の二座を合祀し、また文明二年(1470)には本町十六丁目にあった塚本社の祭神井上内親王、早良・伊豫両親王の三座を合祀した。
この三座は御霊神ともあがめられ、世に藤森天王・藤森天神として知られたのも、時勢の推移によるものであろう。

かくの如く祭神が十二座におよぶということは特異なことで、これがため室町末期の吉田神社の祠官吉田兼右は『諸社根元記』を著して藤森縁起なる一文を掲げ、山崎闇斎は寛文十一年(1671)『藤森弓兵政所記』をつくって当社を武神なりと称した。

それよりこの説が受け継がれ、毎年五月の祭礼(藤森祭)には勇壮な甲冑武者の行列が加わるのが恒例となった。
但し近年は祭神中の舎人親王にあやかり、専ら学問上達を祈る信仰に重点がおかれているのも、時勢の推移によるものであろう。

【本殿】 (江戸)

正徳二年(1712)拝殿とともに中御門天皇より宮中賢所の建物を賜ったといわれ、現存する賢所としては最古のものといわれる。

内部は中央の座に神功皇后以下七神を合祀し、東の座に天武天皇・舎人親王、西の座に早良親王以下三神を合祀している。

【八幡宮社・大将軍社】 (重文・室町)

本殿の背後、東西に並ぶ摂社の一で、八幡宮社は応神天皇、大将軍社は磐長姫命を祭神としている。
とくに大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のために京都の四方に祀られた南方の守護神といわれ、古来方除けの神として信仰されている。

両社殿とも永享十年(1438)足利義教の造営とつたえ、向拝と奥の正面にある蟇股などに室町時代の特色をあらわしている。

【旗塚】

神功皇后が旗を埋められたところで、当社縁起発祥の地である。
今は塚の上には枯れた「いちい」の老株が残っているにすぎない。
因みに「旗」は「真幡寸」の約言であって、式内真幡寸社の旧鎮座地によるものだろうとの説がある。

【蒙古塚】 

七塚の一で、境内にある。
蒙古の将兵の首を埋めたところといわれ、また神功皇后が兵器を埋めたところともつたえる。

【かへし石】

一に「力石」ともいう。
むかし所司代巡検の折、当社の神人をして拝殿より鳥居までころがす行事に用いたものといい、または祭日に集まった人々が力試しに用いたともいわれる。
今は二つにこわれている。

その他、境内絵馬舎には慶長十八年(1613)在銘の白馬・黒馬の扁額があり、手洗舎の水鉢は宇治浮島の十三重石塔の層石を用いたものといわれ、歌舞伎芝居ではここで石川五右衛門が就縛したところとなっている。

【藤森祭】

一に「深草祭」ともいい、毎年五月五日に行われる当社の祭礼をいう。
清和天皇の貞観年間(859-77)の創始という古い伝統をつたえる祭礼で、江戸時代には朝廷から撫物として白銀五枚が下賜され、幕府もまた太刀や馬を献上するならわしがあった。

この祭りの特長は、美々しく着飾った甲冑鎧武者が三基の神輿に供奉し、氏子区域を巡幸することであろう。
とくに払殿行列の如きは、神功皇后が纛旗をなびかせ、新羅より凱旋されたありさまをあらわしたものといわれる。
また境内では見事な走馬曲乗りが氏子達によって演じられ、見物人の拍手かっさいをうける。

なお菖蒲の節句に武者人形をかざるのは、当社の祭りからはじまるといわれる。



 
 

- back -