今年の干支は 丑 なので、京都で縁のある寺や場所など 菅公(菅原道真)を祀った北野天満宮は牛を神使としているが、その理由についてはよくわからない。一般に菅公が生まれた承和十二年(八四五)六月二十五日が丑年にあたるからとか、あるいは菅公が亡くなった際、遺体を乗せた牛車が途中で動かなくなったので、その場所に埋葬したなどともいわれる。また一説に菅公は天満大自在天神ともいわれ、その像容ガ八臂三眼で白牛に乗るといわれるところから、菅神も当然牛に乗るもと信じられ、これが天神に牛が仮託されたのではないかと思われる。
北野天満宮の牛に対する信仰はきわめて絶大で、境内の一隅に祭る牛大神は俗に牛さんとよばれ、本殿よりも人気が高い。ご神体は小さな石造臥牛像であるが、入学試験合格を祈る熱心な人々の参詣が絶えない。
牛を神使いとする風習は他の一般の農業神にも例があって、北野天神のみが専売特許ではない。城陽市水主の樺井月神社は延喜式内の古社であるが、古来牛疫の守護神として有名である。『続日本後紀』によれば、承和十二年(八四五)、綴喜・相楽両郡において虻が発生し、多くの牛馬が病死するので、神に占ったところ、樺井月神の祟りであることがわかった。そこで勅使を派遣して病疫の平癒を祈願したところ、悪疫はたちまちやんだという。これにちなみ、当社は牛馬の守護神と崇められ、毎年二月二十日の例祭には牛馬攘疫祭が行われる。
宇治市五ケ庄の許波多神社は一に柳大明神ともいう。『捨遺都名所図会』巻四によれば、寛永年間(一六二四 - 四四)に牛疫が発生し、多くの牛が病死したとき、村人たちは当社に祈願をしたが、いっこうに効果がなかった。思案にあまって領主の近衛家に愁訴したところ、信尋(応山公)は、 憐れみをたるる柳のかみなれば 死ぬるを憂いし(牛)と思はざらめや と一首したためて与えた。村人たちはその色紙を当社の神殿に捧げたところ、不思議にも牛疫はやんだという。
久御山町佐山に神牛石社と称する霊石を祀った小社がある。口碑によれば、この石は鎌倉時代の寛元元年(一二四三)に興正菩薩叡尊が当地の三福寺(廃寺)に安置していたものと伝える。色は黒く、形は牛のようで、天下に凶事のあるときは必ず汗を流すといわれ、爾来牛の守護神として崇敬された。神牛石は赤・白・黒の三種類があって、一つは上野国(群馬県)、一つは琵琶湖中にあり、ここの石はそのうちの黒石であると伝える。
山科小野の随心院は小野小町ゆかりの寺として知られるが、また牛皮山曼荼羅寺ともいい、牛に関する縁起を伝える寺でもある。それは、当寺の開山仁海僧正は亡き母が牛に生まれ変わっていることを夢に見、その牛を捜し求めて養ったが、牛の死後その皮をはいで両界曼荼羅を描いて本尊とした。このとき牛の尾を埋めたところが背後の牛尾山といい、法厳寺はそこへ建てた寺と伝える。
牛に関する祭りとして有名なのは、十月十二日の夜に行われる太秦の牛祭りである。京都の三奇祭の一つといわれ、青鬼・赤鬼の行装をした四天王を従えた麻ダ羅神が、牛に乗って広隆寺の境内を一巡し、薬師堂前に設けられた祭壇上で祭文をながながと読みあげる。この祭文の内容は奇妙奇天烈を極めてよくわからないが、神明の加護により、災害を除き、びょうまをしりぞけ、天下泰平と五穀豊穣を祈ることだけはわかる。ところがこの祭文はながく、読みあげるのに一時間以上もかかる。しかもむかしは声が低くてよく聞き取れないから、群集から盛んなヤジが飛び交い、人々を笑わせた。川柳子はこれを諷して、 松明けにむせぶ鬼あり牛祭 ぐるりよりどなられてをる麻ダ羅神 麻ダ羅神をりをり威厳をとりもどし とよんでいる。この長い祭文に人々がそろそろ飽きてくる頃、麻ダ羅神の声が突然やんだと思うや、脱兎のごとく薬師堂の中へ駆け込み、祭りはあっけなく終わる。堂内へ逃げ込むのは、群集につかまるとひどい目にあわされるからだという。祇園祭や葵祭りと違うのは土俗的な祭礼で変化がなく、単調なことだ。牛祭りは本来は大酒神社の祭礼であり、広隆寺は単に会場として場所を提供しているだけである。
嵯峨の清涼寺も牛と関係がある。毎年四月十九日に行われるお身拭式で、本尊の釈迦仏を白布で拭い清める。その由来は後堀川天皇の御代、安嘉門院の母(北白川院)は在世中に善根なく牛に生まれていたが、女院の信仰と釈迦の導きによって立派に業因を果たして往生した。その牛が死ぬとき、釈迦の肌を拭った白布で経帷子をつくり、牛に着せて火葬したところ、紫雲がたなびき、極楽往生したという伝えによるもので、四月十九日はその牛の命日にあたるといわれる。当日は西方寺(苔寺)から送られてきた水で香をたきこめ、白布にひたし、引声念仏の中で尊像を拭う。このときに使用された白布で経帷子をつくり、死後着用すれば、極楽往生するといわれ、敬虔な信者は競ってこれを授かろうと郡参する。 罪けがれわれも拭はんありがたき みほとけの布頒かたせ給へ 吉井勇
貴船の牛石は貴船神社より北、貴船川の流域にある。宇治の橋姫が貴船の社に七日間参籠し、生きながら鬼神となり、ねたましいと思う相手の男女を取り殺した話は謡曲『鉄輪』によって世に名高い。この石は橋姫が丑の刻参りをしたとき、石が牛になったととも、あるいは橋姫が石になったともいわれる。