■■■ 大徳寺
(什宝等、省いた点が多くある)

竜宝山と号する臨済宗大徳寺派の大本山で、洛陽十刹の随一として、その名は世に高く知られている。

当寺の開山大灯国師妙超は、弘安五年(1282)播磨国揖西(兵庫県竜野市)の豪族浦上氏の子として生まれ、十一歳で書写山の戒信律師の下に参禅した。
のちに洛西安井の韜光庵に南浦和尚(大応国師)を訪ねてその弟子となった。
一時南浦に従って鎌倉に移ったが、延慶元年(1308)師の遷化によって帰洛し、東山の雲居庵に隠棲した。
ときに播磨国守護赤松則村(円心)は妙超の縁者であった関係で帰依し、正和四年(1315)紫野に一小院を建立して寄進した。
よって妙超はこれを「大徳」と号して、紫野に移住した。
次いで花園・御醍醐両帝の深い帰依をうけ、元亨四年(1324)雲林院の北の地を賜って寺基を拡張し、大徳寺と号した。
御醍醐天皇は「本朝無双之禅苑」の宸翰を与えて祈願所とされ、南禅寺と並んで禅宗五山の上位に列せしめられた。

妙超は建武四年(1337)五十六歳で寂したが、寺運はその後も栄えた。
しかし、御醍醐天皇の吉野遷居によって有力な外護者を失ってからは、足利幕府の保護するところとならず、足利義満が五山十刹を定めるにおよんで、十刹の第九位に寺格を下げしめられた。
よって永亨三年(1431)には十刹の位を辞し、幕府の庇護をうける天竜・相国などの五山派に対して在野的な立場をとり、世にいう林下の中枢として、当代禅界に独自の立場を占め、詩文や学問に傾倒して、世俗化した五山派の禅風に対して、座禅本位の禅風を昂揚した。

亨徳二年(1453)火災にかかり、未だ復興をみないうちにまた応仁・文明の乱に罹災し、一時寺運は衰徴した。
時の住持一休和尚は宝器を奉じて乱を堺に避けたが、文明五年(1473)御土御門天皇より復興の論旨を賜り、堺の裕福な商人の支持を得て再建につとめた。
安土桃山時代には秀吉が織田信長の葬儀を当地で行い、山内に総見院を建ててその菩提所となし、生母のためにまた天瑞院を営み、寺領二千石を寄進するなどして、大いに当寺を庇護したから、寺運はようやく隆盛におもむいた。
江戸時代にも徳川幕府や諸大名の下護をうけ、諸堂も多くこの頃に完備し、洛北随一の巨刹となった。
しかし、明治維新後は塔頭の大部分を廃絶に帰し、寺勢も一時は衰えたが、近年茶の湯の流行とともに観光に訪れる人が多くなっている。

寺地は船岡山の北方、北大路通りに面して東西八百メートル、南北五百メートルにわたる広大な地を占め、境内の中央には勅使門・三門・仏殿・法堂が南北一直線に建ち、法堂の後方に寝堂・方丈・庫裡の一画があり、浴室・経蔵・鐘楼等はその東側に配置する典型的な禅宗伽藍で、その北方および西方にはまた多くの塔頭子院を擁し、書院・方丈・茶室・庭園・襖絵等に東山時代から桃山・江戸時代にわたる多くの文化遺産を有している。

[勅使門] (重文・桃山)
桃山時代特有の絵様彫刻をほどこしたすこぶる雄偉な建物である。
もと慶長造営の皇居の南門を移建したとつたえる。

[地蔵宝塔石仏] (鎌倉)
勅使門の左、参道傍らにある。

[三門] (重文・桃山)
金毛閣という。
天正十七年(1589)千利休によって上層が完成したといわれ、禅寺三門のうちでは、東福寺の三門に次いで古い。
上層内部には、釈迦三尊像をはじめ十六羅漢像および千利休の像を安置し、鏡天井や柱には長谷川等伯五十一歳の筆と伝える極彩色の雲竜や天人図を描く。

[仏殿] (重文・江戸)
内部は床瓦敷、正面須弥壇上には本尊釈迦如来像を安置し、背後の障屏には海北友松の筆といわれる「雲竜図」が描かれ、また天井には狩野元信の筆になる天人散花の図を描く。

[法堂] (重文・江戸)
寛永十三年(1636)小田原城主稲葉正勝の遺命により、その子正則が寄進したと伝える。
内部は床瓦敷とし、天井には狩野探幽が三十五歳のときに描いた活力あふれた丸竜図を描く。

仏殿の東には、寛永十三年(1636)建立の経蔵(重文・江戸)や元和八年(1622)京都の豪商灰屋紹由が寄進したとつたえる浴室(重文・江戸)および鐘楼がある。

[庫裡] (重文・室町)
室町時代の建築様式をとどめている。

[方丈] (国宝・江戸)
住宅風の大建築で、庫裡と同じく寛永十三年京都の豪商後藤益勝の寄進とつたえる。

内部は普通六室の方丈形式に二室を加えて八室とし、背面に雲門庵を並置して開山大灯国師の遺骨と像(重文・南北朝)および花園法皇の御髪塔を安置する。
また各室の襖絵は、狩野探幽の筆になる「山水図」等八十三面(重文・江戸)からなる見事な水墨画を描いている。

[方丈庭園] (史特名・江戸)
寛永十三年後藤益勝が方丈を再建した際、修造したもので、南庭と東庭の二つからなる江戸初期の禅院式枯山水庭園である。

南庭は天祐和尚の作庭といわれ、東南部に大刈り込みを用いてその下部に巨石を立てて枯滝とし、それより西へ向かって数個の石組みを配し、植込みをあしらって遠山をしめし、他は白砂敷として海洋を表している。

東庭は二重刈り込みの籬に副うて十五個の小石を七五三に配列し、はるかに比叡山や賀茂川を借景としたもので、沢庵和尚と親交のあった小堀遠州の作庭といわれる。

[唐門] (国宝・桃山)
豊臣秀吉が天正年間に造営した聚楽第の遺構と伝える。
子細にわたって観賞すれば、一日では足らぬところから、一に日暮門とよぶ。

[什宝]
各塔頭の有するもの以外に大徳寺所蔵の什宝をして、頂相・肖像・絵画・書跡・工芸品等にわたって多数有する。
なかでも頂相では「大灯国師像」一幅(国宝・南北朝)、肖像では絹本著色「後醍醐天皇像」一幅(重文・鎌倉)がその代表作であろう。

絵画では牧谿筆の「観音・猿鶴図」三幅(国宝・南宋)等、すぐれた中国画があり、書跡では「後醍醐天皇宸翰御置文」一幅(国宝・南北朝)や「花園天皇・大灯国師御問答書」二幅(重文・南北朝)は著名な什宝である。
但し仏像彫刻に優品の少ないのは、他の禅宗寺院と同じである。

▼ その他の主な院・塔頭

■ [養徳院] 南門右側
足利義満の弟満詮が先室のために建立した妙雲院を起こりとする。
はじめ東山祗園の地にあったが、義満の没後、大徳寺内に移し、満詮の法号養徳院に因んで寺名とした。

■ [徳禅寺] 養徳院の北隣
霊山と号し、暦応元年(1338)徹翁和尚の塔所として建立された山内最初の塔頭である。
徹翁は梶井宮法親王の帰依をうけ、船岡山の東麓の宮地を賜って創建したが、応仁の乱に焼失し、文明年間(1469−87)、一休和尚によって現在の地に移ったとつたえる。

方丈庭園 (江戸)
約四十坪の地割に石組本位の枯山水の庭園とし、五葉松を中心として鶴亀二島を配置している。

■ 黄梅院
はじめ黄梅庵といい、永禄五年(1562)春林和尚によって創建された。
その後、法嗣の玉仲和尚が小早川隆景の帰依により、天正年間に再興し、隆景の法号に因んで黄梅院と改めた。

本坊 (重文・江戸)
内部は六室からなる禅宗特有の方丈建築で、玄関(重文・桃山)とともに建築細部に桃山風の豪壮な彫刻がみられる。
元禄元年(1558)武野紹オウ(區鳥)が作ったという昨夢庵茶室は、四畳半の台目床をそなえた桃山初期の書院好みの席である。

庭園
本堂前庭と書院南庭からなり、前者(波頭庭)は正方形の地割を葛石に以って二分し、前面を白砂敷き、後面を苔庭として松の木一株を植え、観音・不動の二石を配置した簡素格調高い枯山水の庭としている。
後者(直仲庭)は江戸末期の平庭で、船岡山を借景にした枯池泉の庭であるが、明治以後、度々改造された跡がある。
他に本堂背後に「作仏庭」と称する庭園がある。

墓地
小早川隆景夫妻、毛利元就、蒲生氏郷等、戦国時代の武将をはじめ、画家雲谷等益、同小田海僊の墓がある。

■ 龍源院
永正元年(1504)能登の領主畠山義元が豊後の大友氏、周防の大内氏等と協力し、東渓和尚を開山として建立した大徳寺南派の本庵である。

本堂
室町時代の禅宗方丈建築で、表門(重文・室町)とともに山内最古の建物である。

庭園
北庭(竜吟庭)は面積四十坪、室町時代特有の三尊石組からなる須弥山形式の枯山水庭園で、青々とした杉苔は果てしない海洋をあらわし、石組みが陸地をあらわしている。
作庭者は不明だが、東渓和尚の作かとも考えられる。

南庭(一枝担)は正方形の地割に白砂敷きとし、大小の石数個を配した蓬莱山形式の庭園で、近年の作庭である。
もと中央に山茶花の巨木があったが、惜しくも枯れ死した。

他に奥の新築開山堂の前庭、本堂東の坪庭(東滴壺)、書院南庭(阿吽の庭)は、いずれも近年築造された清楚な小庭である。

なお什宝に豊臣秀吉と徳川家康とが対局したと伝える四方蒔絵の碁盤と碁笥等がある。

■ 大慈院
天正十三年(1585)、大友宗麟の姉見性院等が天叔和尚を開祖として建立した塔頭の一で、本堂前庭には「紫式部碑」がある。
この石碑は寛政七年(1795)、有志の人達によって紫野御所田町の式部の墓の傍らに建立する予定であったが、故あって大徳寺山内碧玉庵に建立され、次いで明治維新に同庵が廃寺となるにおよんで当院に移したとつたえる。

墓地
茶人藤村庸軒の墓がある

■ 瑞峯院
豊後国(大分県)臼杵城主大友宗麟が徹岫和尚に帰依し、天文四年(1535)に建立した。

本堂 (重文・室町)
創建当初の建物であるが、昭和四十六年(1971)解体修理の際、屋根は浅瓦葺であったが桧皮葺に復元された。

庭園(昭和)
本堂を中心として南・西・北の三庭からなっている。
南庭(独坐庭)は東西に延びた約七十五坪にわたる細長い地割に波状の白砂を一面に敷き、背後に大小の石組みと刈り込みを配した蓬莱山式の枯山水庭園で、荒波に洗われる孤島の姿を巧にあらわしている。
西庭は茶室(余慶庵)と本堂のあいだの中庭をいい、一木一草を用いず、青石を一面に敷きつめ、その中央に近く立手水鉢を設けた斬新な茶庭としている。
北庭(閑眠庭)は茶室(安勝軒)と本堂のあいだの庭をいい、キリシタン大名の大友宗麟に因んで七個の石が十字架に組み込まれている。

■ 興臨院
大永年間(1521−28)能登の守護畠山義総が小渓和尚を開祖として建立した畠山家の菩提寺で、義総の法号に因んで寺名とした。

表門(重文・室町)
平唐門で、大徳寺中有数の古い門である。

庭園(昭和)
本堂の南側にあって、東西に細長くひらけた地割に白砂を一面に敷き、背後に桃山風の豪放な石組みを巧みに配置し、石橋を架け、あたかも青海原に浮かぶ蓬莱神仙島をかたどった禅院式枯山水の庭園である。
本庭は創建当初のものではなく、昭和五十三年(1978)本堂解体修理の際、造園家中根金作氏が『築山作庭伝』に掲げる筑前大守(畠山氏)書院庭園図を参考として作庭されたものである。

■ 正受院
天文年間(1532-55)、伊勢の関民部盛衡、美濃の蜂屋出羽守頼隆が壇越となり、清庵和尚を開祖として建立された。
堂宇は明治維新に焼失し、今の本堂は昭和に至って山口玄洞による再建である。

墓地には安土桃山時代の連歌師里村紹巴およびその一族の墓がある。

■ 三玄院 
天正年間(1573-92)、石田三成が浅野幸長・森忠成等とともに春屋和尚を開祖として建立したとつたえる。
篁庵茶室(江戸)はもと西本願寺にあったが、薮内家が当院んの壇越であった関係上、明治なって移したといわれ、織部好みの三畳台目、八ツ窓の名席として知られる。

境内墓地には石田三成、森忠政(蘭丸の弟)、古田織部、薮内剣仲(紹智)等の墓がある。

■ 真珠庵
永亨年間(1429-41)一休和尚を開祖として創建されたが、応仁の乱に焼失し、延徳三年(1491)堺の豪商尾和宗臨によって再興された山内塔頭中の随一で、特別寺である。

通僊院 (重文・江戸)
方丈の背後にある。
もと正親町天皇の女御の化粧殿を移したものと伝える。

付属の庭玉軒茶室(桃山)は金森宗和の好みといわれる草庵風、二畳台目の席で、蹲踞が囲いのうちに作られているのは、雪国の茶亭をあらわしたものという。

庭園 (史名・室町・江戸)
方丈庭園と通僊院庭園とからなっている。
前者は方丈の東面にあって、細長い地割に十五個の小石を七五三に配列し、二重刈り込みの籬を背景とした極めて幽玄的な禅院式枯山水の庭園で、一休に参禅した村田珠光または蓮歌師宗長の作庭とつたえ、後者は江戸中期作庭になる書院式露地で金森相和の作といわれる。

和泉式部産湯の井戸は方丈の北、廊下の傍らにある。
この地はもと式部の夫藤原保昌の宅址といわれる。
寺伝では紫式部の産湯の井ともいわれ、あきらかにしない。

またその傍らの手水鉢は、弥陀三尊の種子をきざんだ緑泥片岩の板碑を流用したもので、村田珠光の遺愛の品とつたえる。

境内墓地
侘び茶の元祖村田珠光や能楽観世流の始祖観世清次・元清等の墓がある。

■ 大仙院
永正六年(1509)、六角近江守政頼が創建した山内塔頭の一で、開山は政頼の子古岳和尚とする大徳寺北派の本庵である。

庭園 (特名史・室町)
土塀を背景にした極めて狭い地割につくられた禅院式枯山水庭園である。
作者については相阿弥の作とつたえるが、一説に開山古岳和尚の作ともいう。
本庭は東北隅に枯滝組をつくって深山幽谷のさまをあらわし、その前方に石橋を架けて渓流となし、中流には石船を浮かべて、末は廊下の許に流れる形式をとっている。
さながら宋元山水画を立体化した感があって、竜安寺の石庭とともに天下無双の名園とたたえられるゆえんである。

■ 芳春院
慶長十三年(1608)加賀の前田利家の室芳春院が、玉室和尚を開山として建立した前田家の菩提寺である。
寛政八年(1796)堂宇炎上の厄にあい、同十年に復興されたが、明治維新に再び荒廃した。
今の建物は明治以後の建物である。

本堂背後の二重楼閣は、「呑湖閣」といい、元和三年(1617)前田利長の請により、小堀遠州が建立したといわれ、閣内に前田家一族の位牌を安置し、閣上からは比叡山を望んで景観はすこぶるよい。
また池を「飽雲池」といい、池上に架かる「打月橋」には玉室和尚の筆になる「打月」の額を掲げる。
池中には杜若や睡蓮が多く、花時は一きわ美しい。

本庭は金閣・銀閣とともに本市に於ける楼閣山水庭園の一で、寛政年間に建物の再建改築等のために昔日の面影を失ったとはいえ、なお枯滝の石組付近に創建当初の様式をとどめる。

境内墓地
芳春尼の墓をはじめ、前田家一族の墓がある。

■ 聚光院
永禄九年(1566)、三好義嗣が養父長慶の菩提を弔う為、笑嶺和尚を開山として建立し、長慶の法号を採って寺名とした。
千利休もまた笑嶺和尚に参禅したゆかりに因んで、茶道三千家の菩提寺となっている。

庭園
長方形の苔庭の直線上に多くの庭石を配した蓬莱式枯山水の庭園で、俗に「百石の庭」または「積石の庭」とも呼ばれ、千利休の作と伝える。
また本堂につづく茶室閑隠席(重文・江戸)は、利休好みの三畳台目の席で、利休自刃のところといわれ、それにつづいて四畳半の桝床席(重文・江戸)が付属する。

千利休の墓は土塀を隔てて本堂庭園の南側にある。
花崗岩製、高さ二メートル余りの石造多宝塔(重文・鎌倉)で、基礎から相輪まで一石からなり、塔身の四方に穴をくり抜いているのは、後世の所刻であろう。
また基礎の台石は、十三重塔(鎌倉)の屋根石を流用したものである。
周囲には表・裏・武者小路の三千家歴代の墓や三好長慶の墓といわれる五輪石塔がある。

■ 総見院
天正十年(1582)、豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔う為に古渓和尚を開祖として建立し、その葬儀をとりおこなった寺である。
次いで同十三年三月、当院を中心にして信長の追悼茶会を催した。
境内には秀吉遺愛とつたえる「わびすけ」椿や信長・信忠・信雄等、織田氏一族の墓がある。

当院は明治維新後、一時修禅道場となっていたが、近時道場を他に移し、旧に復した。

なお境内西南隅には、近衛信尋より忠房に至る近衛家一族の墓がある。

鐘楼 (重文・桃山)
内部に架かる銅鐘(桃山)は織田信長の一周忌に堀久太郎秀政が寄進したものといわれ、古渓宗陳撰文の天正十一年(1583)の銘がある。

■ 高桐院
慶長六年(1601)細川忠興(三斉)が、父藤孝(幽斉)のために叔父の玉甫和尚を開祖として建立した細川家の菩提寺である。
創建当初の建物は残っていないが、利休屋敷から移したとつたえる書院とそれに付属した茶室がある。

松向軒茶室 (江戸)
三斉好みの二畳台目の席で、奥に三畳の水屋が付いている。
壁はすべて黒壁とし、天井の変化を以って巧に調子をとり、床の天井まで網代としている。

この茶室は豊臣秀吉が北野で茶会を催した時、影向の松の下につくった茶室を移したものといわれ、忠興はこの席をいたく愛し、自分の法号を松向寺殿とも称したほどである。
幽邃な庭内には。朝鮮の王城の礎石と伝える袈裟形の手水鉢がある。

忠興の墓は小庭を隔てて本堂の西にある。
六角型の石灯籠(南北朝)を墓標としているのが珍しい。
この石灯籠はもと利休の所蔵であったが、秀吉と忠興の二人から所望され、わざと笠石の蕨手の一つを欠きとり、秀吉には疵物と称してことわり、忠興に与えた。
忠興はふかく喜び、これを陣中にまではこんで愛玩したという。

絹本著色「牡丹図」二幅(重文・元)は、わが国に於ける中国画牡丹中、もっともすぐれたものといわれる。

■ 玉林院
慶長三年(1598)後陽成天皇の侍医曲直正琳が月岑和尚を開祖として創建したが、のちに大阪の鴻池氏が当院の大竜和尚に帰依し、その祖山中鹿之助幸盛の墳墓をつくり、一族の昭堂(南明庵)を建立したことから、鴻池氏菩提寺となった。

南明庵 (重文・江戸)
寛保二年(1742)昭堂として建立されたもので、山中鹿之助の位牌を安置する。

蓑庵は三畳の間に中板を入れ炉を切り、壁を藁すさであらわした野趣に富んだ茶室。
霞床席は四畳半の席で、床の違棚には常に富士山の額をかけて、霞に見立てている。
ともに裏千家天然如心斉の好みの席といわれ、重要文化財に指定されている。

境内墓地
山中鹿之助や片桐且元、曲直頼正琳の墓がある。

■ 竜光院
慶長十一年(1606)筑前福岡の城主黒田長政が父孝高(如水)の菩提を弔う為、春屋和尚を開祖として建立し、孝高の法名に因んで寺名とした。
建物はいづれも創建当初のものである。
屋根の後面左右があたかも兜の如くに突き出ているので、世に「兜門」とよばれる。

磐桓廊 (重文・江戸)
天井組木の妙を以って世に聞こえる。

書院 (国宝・江戸)
前庭に朝鮮将来のものとつたえる石灯籠(江戸)を配置する。

密庵茶室 (国宝・江戸)
この書院の西北の間にあって、宋の密庵咸傑の墨書を掛けるところから、この名がある。
四畳半台目の席で、小堀遠州の好みといわれ、書院式の茶席としては孤蓬庵の忘筌茶室とともに代表的なものとされている。

庭園 (江戸)
本堂前に一面に白砂を敷き、築山を設け、石組みを配した軽快な禅院式の枯山水庭園であるが、江戸中期以後に改作されたところがある。

■ 大光院
秀吉の弟で大和郡山の城主豊臣秀長の菩提寺として、文禄元年(1592)に建立されたが、慶長四年(1599)藤堂高虎が古渓和尚を開祖とし、郡山より大徳寺に移したと伝える。
文政七年(1824)に焼失し、藤堂家によって再建された。

墓地には豊臣秀長の墓がある。

■ 孤蓬庵
慶長十七年(1612)小堀遠州守政一は竜光院内に一小庵を営んだが、寺地狭隘のため、寛永二十年(1643)に今の地に移し、江月和尚を請じて建立した。
その後、寛政後年(1793)火災にかかって焼失したが、松江藩主松平治郷(不昧公)の協力によって再興された。
寺名の因となった「蓬」とは、舟の上を覆う”とま”をいい、境内から見える船岡山を孤蓬(孤舟)に見立てて名付けたといわれ、茶室や庭園もまた湖水に浮かぶ孤舟に擬してつくられている。

忘筌茶室 (重文・江戸)
床脇の長押に「忘筌」としるした遠州自筆の額を掲げ、天井は砂摺り天井とする書院式の茶室である。
また庭に面して広縁と落縁とを設けて「舟入板の間」とし、中敷居を入れて上下に明障子を立て、下に「露結」と名付ける手水鉢をみせ、前方に庭の景をとり入れた全く独創的なものである。
「忘筌」といい、「露結」といい、いずれも遠州が荘子の言葉から選んで名付けたといわれ、晩年の彼の心境をよくあらわしている。

庭園 (史名・江戸)
本堂前庭と忘筌前庭、書院前庭、山雲床前庭の四つに細別される。
いずれも遠州作の江戸初期の庭園を復元修理されたもので、このうち本堂前庭は、二重の刈り込み籬をつくって水平線とし、船岡山を舟に見立ててた象徴的な借景庭園であり、書院前庭は遠州が故国湖東を追憶して作ったといわれる近江八景を模し、石組みと刈り込みを多く用いた書院式枯山水庭園としている。

山雲床前庭と忘筌前庭は、ともに手水鉢を中心にした書院式茶庭である