■■■ 嵐山・奥嵯峨 == 更新 == 2004.05.25
嵐山大堰川渡月橋嵐山公園法輪寺櫟谷神社戸無瀬滝千鳥ケ淵大悲閣保津峡小督塚大堰川臨川寺大井神社
長慶天皇陵天竜寺嵯峨天皇・亀山両天皇陵野宮神社大河内山荘常寂光寺落柿舎小倉山二尊院清涼寺薬師寺
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壇林皇后深谷山陵 | 愛宕山 | 愛宕神社 | 月輪寺 | 空也滝 | 水尾 | 円覚寺 | 清和天皇社 | 清和天皇水尾山陵 |

嵐山 (史・名)

渡月橋を隔てて大堰川の右岸(南側)にそびえ立つ山をいい、高さ382メートル、全山青松に覆われ、桜や紅葉が点在する。
やや峻険ではあるが、山麓を流れる大堰川と相まって、天下第一の勝景をなしている。

嵐山は松尾大社の鎮座する荒子山(あらしやま)の支峰にあたり、荒子山(荒樔山)の転訛したのが山名の起こりといわれるが、また一説に山の桜やもみぢを吹き散らすことから生じたともいわれ、諸説あって明らかにしない。

古来、紅葉の名所として多くの古歌にうたわれたが、後嵯峨天皇が亀山殿を造営し、吉野の桜を移植されてより、桜の名所となった。
嵐山の花見は江戸時代がもっとも盛んに行われ、市民は遠路をいとわず、競って花見に訪れるのをならわしとした。
王朝時代以来、嵐山ほど親しまれたところは他になく、今なお四季を通じて来遊するものが多い。

大堰川

大堰川は一に「大井川」に作る。
嵐山の麓を流れる清流で、古くは葛野川といい、東の鴨川に対して西川ともよばれた。
秦氏が堰を設けて水利の便としてより、大堰川の名が生じた。
その水源は大悲山より発し、丹波国保津村(亀岡市)を経て嵯峨に至る。
この間を保津川といい、嵐山に至って大堰川と称し、末は桂川の名のもとに淀川にそそぐ。

王朝時代には斎内親王は、この川のほとりで禊をされ、また夏季にはこの川でとれる鮎を天皇の食膳に奉ったので、禁河ともなった。
とくに船遊地として、歴代天皇の行幸多く、大宮人もまた春秋には水上に船を浮かべて詩歌管弦の楽しみに耽った。

なかでも延喜七年(907)九月十一日に行われた宇多法皇の大井川行幸はもっとも名高い。

それより約二十年後の延長四年(926)十月六日、再度宇多法皇は大井川に御幸され、さらに同十九日には醍醐天皇とともに御幸された。
よほど舟遊びがお気に召したのであろう。
このとき、醍醐天皇々子雅明親王は僅か七歳であったが、船上でみごとに万歳楽を舞って、天皇・法皇の嘉賞を賜った。

いわゆる詩歌管弦の三船に分乗し、風雅な遊びをされたのは、寛和二年(986)十月十日の円融法皇の御幸のときであるが、このときの詠進和歌集にはみられず、藤原公任にまつわるエピソードのみが一般に知られる。

勅撰集や私家集の中で、大井川御幸の歌のもっとも多くみえるのは、承保三年(1076)十月二十四日の白河天皇御幸のときであろう。
この日、天応は公卿侍臣を従え、鷹狩に嵯峨に行幸されたが、次いで大井川畔に立ち寄り、もみじに映える嵐山や大井川の秋景をこころゆくまで観賞された。
川畔には行幸頓宮(仮御所)が設けられ、下流の梅津辺にも御在所がつくられた。

大井川舟遊びは華やかな王朝時代を代表する遊楽であったが、平安末期の世情不安から御幸もなくなり、九条道家の大井川行楽を最後として、和歌史上からみられなくなった。

江戸時代に皆川淇園らがこれを模して三船を浮かべ、詩を賦したこともあったが、公儀においては遂に行われることはなかった。

因みに毎年五月第三日曜日の「三船祭」は、往時の舟遊びを復元するために行われる車折神社の特別祭事である。

渡月橋

この橋は承和年間(834-48)僧道昌によって架橋されたのがはじめだといわれるが、あきらかでない。
しかし、平安初期頃に架橋されていたことは、この橋に因み、下嵯峨一帯を古くは葛野郡橋本郷と称していたことでも想像される。
はじめは法輪寺橋と称したが、亀山上皇がくまなき月の渡るに似ているとて、渡月橋と名付けられたといわれるが、史実によるものではなく、おそらく夢想国師が「亀山十境」と題し、天竜寺附近の名称を詩に賦したとき、渡月橋の名のみえるのが初見であろう。

往時は今よりも100メートルばかり上流にあって、県礼門院の雑仕横笛はこの橋のもとで入水したと伝える。
中世には兵燹や出水によってしばしば破損流出したが、慶長十一年(1606)角倉了以が大堰川をひらいて水利を計ったとき、現在の場所に架け替えたと伝える。

いまの橋は昭和九年(1934)五月に竣工した鉄桁鉄筋コンクリート製で、延長155メートル、幅員11メートル、嵐山の山水の美と調和するように木製の欄干としている。

嵐山公園

渡月橋を挟んで大堰川の南北両岸にある府立公園で、亀山・中ノ島・臨川寺の三地区からなっている。
面積は10.6ヘクタール(約32.000坪)。

嵐山公園のうち亀山地区がもっとも古く、明治四十三年(1910)葛野郡の事業として開設され、亀山公園と称した。
ここは小倉山の東南部を占める亀山の丘陵上に位し、大堰川を挟んで嵐山と相対するもっとも景勝の地に富み、園内には小さな料亭や茶店が散在する。
また園内には赤松を主とし、桜や紅葉が多く、山頂(小倉山)からは嵐峡を俯瞰して眺望はすこぶるよい。

中ノ島地区は大堰川の中州をなす中ノ島にある。

臨川寺地区は臨川寺の門前をいう。

【嵐山東公園】

嵐山中ノ島地区の下流、松尾橋に至る桂川(大堰川)右岸の河川敷を利用した総合公園で、面積は11.4ヘクタール。
上流部は散策広場とし、中流部は運動広場、下流部は児童広場からなる。

法輪寺 

渡月橋の南詰、嵐山の中腹にあって、境内から大堰川をへだてて嵯峨野一帯を望むのにもっともよい場所を占めている。
俗に「嵯峨の虚空さん」とよばれ、嵐山の花見に、また四月十三日の「十三詣り」に参詣する寺として、昔から親しまれている。

当寺は智福山と号する真言宗御室派の寺で、寺伝によれば、和銅六年(713)元明天皇の勅願により、僧行基が創建したといわれ、古くは木上山葛井寺と号したと伝える。
太秦広隆寺を再興した僧進昌は、かねてより虚空蔵求聞持法を修せんことを願って、勝地を求めていたが、天長六年(829)たまたま葛井寺に参籠し、水垢離をしていたところ、明星天が衣の袖の上にあらわれ、たちまち虚空蔵菩薩に化身したので、道昌はそれをうつして一体の像を刻み、本尊として安置したのが当寺の起こりといわれ、このとき名も法輪寺と改めたという。

今も境内の南隅に明星天を祀った「葛ノ井」という古井戸があって、一に「落星水」とも「明星水」ともよんでいる。

その後、天慶年間(938-47)空也上人が参籠し、勧進によって堂塔を修造した。
道命阿闍梨も、晩年当寺に住したことがある。
彼は当代屈指の美声の持ち主として知られ、聴聞に訪れる人少なからず、和泉式部や赤染衛門ら多くの女流歌人たちも競って当寺に参篭したものである。
中世、寺運は衰微し、近世は徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院によって再興された。

現在の本堂は元治元年(1864)の兵火に罹災し、明治の再建であるが、堂内には日本三虚空蔵の一といわれる虚空蔵菩薩坐像を本尊とし、傍らに持国天・多聞天立像(重文・鎌倉)を安置する。

その他、大黒天堂や多宝塔・鐘楼・客殿・庫裡等、多くの建物があり、また浦上玉堂の碑をはじめ、人形塚・童話塚・獣魂供養塔、当寺の幅広い活躍を物語る多くの施設が境内いたるところにある。

【小督局塔】

本堂の背後にある石造宝塔(鎌倉)をいう。
花崗岩製。
高さ1.2メートル、非常に風化しているが、塔身の扉を開き、内に多宝・釈迦並座を梵字であらわしている。
塔は小督局の隠棲地という伝承に基いてつくられた供養塔であろう。

【十三詣り】

四月十三日、十三歳になった児女が虚空蔵菩薩より福徳智恵を授かるようにと当寺に参詣することをいう。
これは十三歳前後は身体の変調期とされ、その厄難除けを祈願するためといわれ、参詣後、もし渡月橋を渡り切るまでにうしろを振り返ると、授けられた智恵を失うといわれる。
その起源はあきらかにしないが、寛政十一年(1799)刊『都林泉名勝図会』巻四にも記されており、江戸中期頃から盛んに行われたものとみられる。

【針供養】

毎年十二月八日に行われる。
当寺は技芸や芸能上達祈願に霊験が著しいとして崇敬され、この日、宮中から下賜された針や全国から持ち寄った針を集めて盛大な「針供養」を行い、色とりどりの糸のついた大きな針を「こんにゃく」にさして仏前に供える。

櫟谷神社 いちいだにじんじゃ

松尾大社の境外摂社で、櫟谷大神(奥津島姫命)と宗像大神(市杵島姫命)の二神を祀る。

社伝によれば、天智天皇七年(668)筑紫の宗像から勧請したと伝える。
このうち櫟谷社は嘉祥元年(848)無位より従五位下を、さらに貞観十年(868)には正五位下の神位を授かり、延喜の制には官社に列せられた。
一方、宗像社は式内社ではないが、貞観十二年(870)葛野郡鋳銭所に近きゆえを以って、櫟谷社とともに新鋳銭を奉納されたことが、『三代実録』にみえる。
いずれも水運の安全を祈って祭祀された古社であり、松尾大社の末社として、古くから秦氏が祭祀にあずかったとつたえる。

戸無瀬滝

櫟谷神社より100メートル余り、岩にせかれて三段になって流れ落ちている滝をいい、天竜寺の正西背後にあたる。
仙洞亀山殿造営のとき「戸無瀬の滝もさながら御墻の内にみえて」と『増鏡』にしるされている如く、後嵯峨上皇の御眼を楽しませたことであろう。
歌枕として名高い滝の一である。

尤もこれには異説があって、大堰川の急流となっているところを戸無瀬と称し、大堰川を一に戸無瀬川とも称した。
この戸無瀬は角倉了以の開鑿工事によって、「亀尾滝」とともにその形跡を失ったとつたえる。

千鳥ケ淵

上同所よりさらに430メートル、断崖にのぞんで深い淵となったところをいう。
往生院に滝口入道を訪ねた横笛が、相見ることがかなわなかったのを嘆き、この淵に身を投げたところとつたえる。

大悲閣

正しくは千光寺といい、黄檗宗に属する。
嵐山の中腹にあって、脚下に保津川(大堰川)を見下ろし、対岸の小倉山をへだてて遠く京都市中をのぞむことができる。

当寺は慶長年間(1596-1615)、保津川をきりひらいて舟や筏を通した角倉了以が、工事のために協力した人々の菩提を弔うために創建した寺で、観音の慈悲をたたえて大悲閣と号したのを起こりとする。
本堂には千手観音像を本尊とし、脇壇には右手に石割斧をもち、太い縄の円座の上に片膝を立てて坐した法体姿の了以像(江戸)を安置する。

狭い境内には了以の嗣子素庵が建立し、林羅山が撰文した「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」と記した顕影碑があり、またその傍らには嵐山々頂にあった夢想国師の座禅石とつたえる大きな石がある。

【嵐山城跡】

大悲閣の背後、嵐山の山頂にあたる。
足利管領細川政元の家臣、香西又六元長が永正年間(1504-21)に築いた城で、城といっても城柵程度のものであったろう。
今も山頂を取り囲んで、六つの曲輪址と土畳若干が残っている。

香西又六は永正四年(1507)細川家の家督争いから、細川政元を暗殺し、同志と謀って澄之の政元の養子とし、足利管領職をつがせようとした。
この凶変を知った細川澄元(政元の養子)は急遽本国阿波国より三千余騎の軍勢を率いて上洛し、上京に布陣した。
因って八月一日、香西勢は嵐山城を出、上京西陣の百々橋にて細川澄元と戦ったが、うちやぶられ、又六は流れ矢にあたって戦死した。
澄之もまた城に火を放って自害したといわれる。

保津峡

大悲閣附近より上流の保津川の渓谷をいい、一に嵐峡ともいう。

保津川は亀岡より山峡に入り、途中で水尾・清滝の二川と落ち合い、嵐山に至る。
途中の川中には書物岩・屏風岩等、多くの奇岩怪石があって奇勝をなし、水は急湍となって奔流する。
行程16キロにおよぶ水上を、約二時間を費やし、軽舟に棹を差して下ることを世に「保津川下り」という。

保津川下りは、藤原惺窩によって早く世に紹介され、江戸時代には文人墨客の来遊するもの多く、皆川淇園も保津川下りの感銘忘れ難く、帰宅早々一篇の詩に託して述懐している。
しかし、淇園の保津川下りは、嵐山へ帰る舟に便乗したときのもので、これを観光遊楽化したのは、明治時代の末期からであり、夏目漱石の『虞美人草』にはその様子が描かれている。

因みに浮田神社の社伝によれば、上古、丹波国は大きな湖水であり、その水は赤かったので、丹波といわれた。
ある時、大山咋の神が鋤を以って山を切り開き、岩を砕いて水を山城国へ流した。
このため湖が涸れて丹波国が生まれた。
そのときの排水路が即ち保津川である云云とつたえる。

小督塚

渡月橋北詰より大堰川の左岸(北側)に沿い、亀山公園へ行く中程にあり、椋の老樹の根もとに小五輪石塔を置いて小督局の塔と称している。

『平家物語』巻六によれば、小督局は高倉天皇の寵を得たが、中宮建礼門院の実父平清盛ににらまれ、嵯峨に身を隠すに至った。
よって、北面の武士、弾正少弼源仲国は天皇の密命をうけ、小督の行方を求めて法輪寺のほとりまでたずねてきたところ、かすかに聞こえる琴の音によって、小督の隠れ家を見つけることが出来たという。
この高倉天皇と小督の悲恋物語は、室町時代の謡曲『小督』に採り上げられ、後世ひろく世の関心と同情をあつめるに至った。
これがこの地に小督塚をつくらせるもとになったものであろう。

元禄四年(1691)落柿舎に杖をとどめた俳聖松尾芭蕉は、嵯峨の名所旧跡を探訪し、小督塚にも詣でた。
その頃、嵯峨には小督の遺跡というのが三ヶ所もあって、ここはそのうちの一つだと『嵯峨日記』にしるしている。
しかもその墓といういうのは墓石はなく、ただ桜の木が一本植えてあるだけなのをみて
 
 うきふしや竹の子となる人の果

と美人の末路を哀れんでいる。
従って小督塚というものが築かれたのは、早くても江戸初期の頃とみられる。

因みに渡月橋の北詰近くに琴聴橋(駒止橋)と称する小橋があり、仲国が小督の弾奏する「想夫恋」をこのところにて聞いたといわれるが、いずれも後世の付会によることは、いうまでもない。

臨川寺

霊亀山と号し、臨済宗天竜寺派の寺である。

この地は亀山殿の別館川端殿(川端宮)があったが、のちに亀山法皇の皇女昭慶門院嘉子内親王に賜り、さらに女院は後醍醐天皇の皇子世良親王を養子とし、川端殿を譲られた。
親王は元翁本元(仏徳禅師)に師事し、川端殿を禅院に改めようとされたが、早世のために果たさず、禅師もまたつづいて逝き、世の争乱もあって、そのままとなっていた。
そこで後醍醐天皇は親王の遺志をつぎ、併せて親王の菩提を弔うべく、あらたに夢想国師を請じて開山としたのが当寺の起こりである。
これは天竜寺の創建にさき立つこと十年、建武二年(1335)のことである。

夢想国師はその後、天竜寺の開山となったが、晩年は臨川寺を以って隠居所とし、また親王と国師の塔所に弥勒堂を建立し、三会院と称した。
また境内の東に仮山水をつくり、自ら竹を植え、篩月軒や竹亭友雲庵をつくり、観応二年(1351)九月、七十七歳の高齢を以って示寂し、遺骸は当寺に葬られた。
臨川寺はその後五山十刹の第二位となり、寺運は隆盛におもむいた。
しかし、応仁の兵火につづく数度の火災に罹災し、諸堂の多くを失った。
現在は本堂・書院・中門等を残すのみで、昔日の盛時の面影はしのぶべくもない。

[本堂(三会院)] (江戸)

正面に裳階のごとき屋根を付して重層とみせ、外まわりは柱だけを立てて吹放しとし、正面中央に両開きの桟唐戸、左右両脇に花頭窓をつける。
内部は床瓦敷とし、中央須弥壇上に弥勒菩薩坐像。左脇壇上に夢想国師坐像を安置し、その奥につづく開山堂(祀堂)は、国師の塔所となっている。

[書院] (江戸)

住宅風の建物で、内部は水墨山水図等、十六面からなる障壁画があり、寺伝では狩野永徳筆といわれるが、室町末期から桃山時代初期に狩野派の画家によって描かれたものとみられる。

[庭園]

昭和の新作になる枯山水の石庭で、中央に三尊石を組み、その周囲に小さな石を数個配置し、あたかも釈迦の説法を十六羅漢がうかがっているさまを表現したものという。
故にこの庭を「竜華三会の庭 りゅうげさんねのにわ」と称している。

[世良親王墓]

墓は高さ約1メートル余の小さな石造宝篋印塔である。

大井神社

臨川寺の西、民家のあいだの小路を入ったところにある。
現在は倉稲魂命を祭神とし、松尾大社の境外末社となっている。

一に大堰神社または大橋神社ともいい、秦氏が大堰をつくってこの地方を開拓したとき、治水の神として祀った神社と思われるが、詳細は明らかにしない。
『三代実録』貞観十八年(876)に「堰神」に従五位下の神位を授けられたことがみえ、また『延喜式』にしるす「乙訓郡大井神社」とあるのは当社といわれ、乙訓郡は葛野郡の写し誤りであろうとの説がある。
因みに当社の付近に古代の葛野鋳銭所の址がある。

長慶天皇陵

角倉町にあり、正しくは嵯峨東陵という。

長慶天皇は後村上天皇の第一皇子で、正平二十三年(1368)に即位された南朝方三代目の天皇である。
在位十五年、元中年(1384)位を皇位弟後亀山天皇に譲られ、薙髪して覚理長慶院と号された。
後亀山天皇の和平的な動きに対して相容れぬものがあり、のちに南北朝が合一の際には、後亀山天皇のみ帰洛されたという。

したがって応永元年(1394)八月一日の崩御地についても諸説があって明らかでなく、永く即位も認められなかったが、大正十五年(1926)に至って人皇第九十八代として皇統に加えられ、その後、皇嫡子海門承朝の入寺されていた嵯峨長寿院の旧地にあたる現在の地に陵墓が治定された。
陵は皇子承朝王の墓とあい並んで、西面する。

天竜寺

当寺は吉野の行宮で憤死された後醍醐天皇の冥福と南北朝の戦に犠牲となった人々の霊を慰めるため、足利尊氏が夢窓国師を請じて建立した臨済宗天竜寺派の大本山で、正しくは霊亀山天竜資聖禅寺と号する。

はじめこの地は嵯峨天皇皇后橋嘉智子が旧嵯峨院の別館を捨てて禅刹とされた壇林寺があったが、平安中期の一条天皇頃には荒廃するに至った。
その後、鎌倉時代の建長七年(1255)に至って後嵯峨上皇によって仙洞亀山殿が造営された。
一に嵯峨殿ともいい、その規模は『古今著門集』巻八によれば、今の天竜寺を中心とし、北は野宮神社、南は大堰川畔におよぶ広大な地域を占め、自然の風光をそのまま離宮内にとり入れたものであった。

『増鏡』第六、おりゐる雲の巻に
 嵯峨の亀山の麓、大井川の北の岸に当たりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。
 小倉の山の梢、戸無瀬の滝もさながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのずから情けを加へたる所から、いみじき絵師といふとも筆も及び難し云々。

とあるごとく、磯石ばかりが僅かに残っていた壇林寺の旧地を整地し、権大納言西園寺実雄の指揮によって造営工事が進められた。

離宮内には亀山殿をはじめ、その北に北殿御所・寿量院・薬草院および浄金剛院や法華堂等があり、東南には芹川殿・川端殿等が建ちならび、その壮観さは鳥羽上皇の鳥羽離宮(城南離宮)に匹敵するほどであった。
歌人藤原為家は、

 亀の尾の山の岩根の宮造り動きなき世のためしなるべし (家集)

とその竣工を祝した。
嵐山もこの仙洞の庭内とし、吉野山から桜を移植して花見の御遊をされたり、また庭の池水は大堰川から水車で汲み上げられたことが、『徒然草』五一段に見える。
次いで亀山上皇も亀山殿に移られ、ここを仙洞とされた。

 音にきく蓬が島の跡とめて亀の尾山にわれ家寄せり (亀山院御集)

とは、亀山上皇のこのときの述懐である。
その後、いわゆる大覚寺統の仙洞となり、後宇多・伏見・後伏見・後二条各天皇が御幸された。
とくに後醍醐天皇は幼少の頃、亀山殿で修学された有縁の地でもあったから、その頃すでに荒廃していた亀山殿を改め、禅刹としたのが天竜寺の起こりである。

天竜寺は暦応二年(1339)まず光厳院の院宣があり、翌三年より五年の歳月を経て康永三年(1344)に至ってほぼ寺観を整えた。
翌貞和元年(1345)後醍醐天皇七周忌法要と天竜寺開堂供養が、足利尊氏・直義参会のもとに盛大に行われた。
また多くの荘園寺領が寄せられ、天竜寺船の運上を以って堂舎造立の資に充てられるなど、その後の造営にもっとも意がそそがれた。

往時は境域も広大な地を占め、塔頭子院も百五十ケ寺を擁し、室町時代には京都五山の第一位となったが、その後の兵火に罹災すること八回におよんだ。
とくに元治元年(1864)長州藩兵が京都を犯したとき、天竜寺は長州兵の屯営となったため、幕軍の攻撃するところとなり、兵火を浴びて一山焼亡した。
さらに明治初年の廃仏毀釈によって寺運はさらに衰微し、その後は久しく荒廃にゆだねられていたが、近年観光ブームの波に乗って整備されるに至った。
しかし、三門・仏殿等、禅寺寺院としての主要な建物は、未だ再建には至らない。
伽藍は東を正面とし、東西一直線上に建ちならび、その南北に塔頭八ケ寺を配置する。

[勅使門](桃山)

総門を入ったところに東面する。
切妻造り、桧皮葺、もと伏見城の遺構と伝え、当寺最古の建築で、細部にわたって桃山様式を表現している。

[法堂](江戸)

放生池をへだてて、勅使門の西にある。
旧選場(座禅堂)を移して法堂としたもので、内部中央須弥壇上には本尊釈迦如来三尊像、左右脇壇上には夢窓国師と足利尊氏像を安置する。
天井には明治の画家鈴木松年筆の雄渾な雲竜図が描かれている。
*最近、改修されたはずです*

[硯石碑]

画家鈴木松年が法堂の天井画を描くときにあたって用いたという巨大な硯石で、高さ約ニ・六メートルもある。

[大方丈](明治)

明治三十二年の再建で、当寺最大の建物である。
内部中央に釈迦如来坐像(重文・藤原)を安置し、襖絵は画家若狭物外の筆になる闊達な竜の図が描かれている。

[多宝殿]

昭和九年、紫宸殿を模して再建したといわれる。
内部には後醍醐天皇像および歴代天皇の尊牌を安置する。

[庭園](史名・鎌倉)

亀山と嵐山を巧みにとり入れた池泉廻遊式庭園で、夢窓国師の作庭といわれるが、仙洞亀山殿の旧苑池を利用し、北宗山水画式の庭園様式にあらためたものであろう。

曹源池を中心にして、池の前庭は州浜形の汀や島をつくり、白砂と松の緑がきわ立ち、大和絵さながらの味をみせている。
池の彼方にはまた亀山の山脚を利用してつくられた滝組があり、その前に自然石の橋をかけ、池中には中島や多くの岩島を配している。

本庭は鎌倉時代作庭としては、本市における代表的な名園で、天竜寺で見るべきところはここだけである。

なお塔頭妙智院は、雲居庵(廃寺)・真乗院(廃寺)とともにその庭園は『都林泉名勝図会』にも紹介される名庭であったが、惜しくも今は破却され、庭にあった名石「獅子巌」も他所に移されたとつたえる。

[四辻善成墓]

松巌寺(塔頭)の旧墓地内にある。

四辻善成は順徳天皇の孫兼雅王を父とし、従一位、左大臣となった南北朝時代の人である。
貞治年間(1362?8)将軍足利義詮の命で源氏物語の注釈書『河海抄』ニ〇巻を著わした。
古典文学の研究者であり、また歌人としても知られる。
晩年出家して常勝と号し、この地に松巌寺を創建し、応永九年(1402)九月三日、七十四歳で没した。

松巌寺はのちに天竜寺仏殿の北に移ったが、墓だけが残った。
付近には松巌寺の開山晦谷和尚や曇華院開山智泉禅師等の墓がある。

嵯峨天皇・亀山両天皇陵

天竜寺境内の西北隅にある。

東西に二陵が並び、陵内にはそれぞれ法華堂が建っている。

嵯峨天皇は土御門天皇の第一皇子。
仁治三年(1242)北条泰時の擁立で践祚されたが、在位五年にして後深草天皇に譲位され、その後、文永九年(1272)に至るまで院政を行われた。
在世中は幕府との対立を避け、もっぱら仏教を研鑽し、しばしば高野・熊野にも巡幸された。
また和歌に長じ、藤原為家らに命じて『続古今和歌集』を撰集せしめられた。
文永九年二月十九日、蒙古襲来の風聞裡に宝算五十三歳にて崩御され、同十九日薬草院にて御火葬後、御骨は浄金剛院に移されたが、翌年法華堂が成るにおよんでそこへ納め奉った。

亀山天皇は後嵯峨天皇の第三皇子で、後深草天皇のあとを嗣いで即位された。
在世中、文永・弘安の役が勃発し、岩清水八幡宮に参籠して国難平癒を祈願されたことは、史上有名である。
嘉元三年(1305)九月十五日、亀山殿の如来寿量院にて崩御、同十七日亀山殿の後山にて火葬された。
宝算五十三歳。
遺骨は南禅寺・高野山金剛峰寺にも分納された。

野宮神社

一に「野々宮社」とも記す。

昼なお暗い竹薮の中に朱の玉垣と石垣を周囲にめぐらし、黒木の鳥居と小柴垣がひときわ目を引く。
鳥居内には天照大神を祀った本殿および末社があるだけで、普通一般の神社に見られるような厳しさがなく、いかにも野宮といった野趣味に富んでいる。

野宮とは斎王に卜定された未婚の内親王が、伊勢皇大神宮の奉仕に向かわれる前の一年間、清浄な地を選び、精進潔斎のために籠られるところをいい、その場所については一定ではなく、時代によって異なっていた。
賀茂斎院が紫野を選ばれたのに対し、伊勢斎宮は主に嵯峨野が選ばれ、禊祓いは葛野川(大堰川)の清浄な水辺で行われた。

伊勢斎宮は、崇神天皇皇女豊鍬入姫命にはじまり、後醍醐天皇の皇女祥子内親王まで七十四代にわたってつづけられたが、中世の兵乱によって廃絶した。
旧地はその後久しく荒廃し、民家の後方、竹林中に小祠としてとどめていたが、明治六年(1873)村社になり、近年有志の人々によって社殿を移築されるに至った。

当社がいつ頃の野宮であるかは明らかにしないが、境内の黒木の鳥居・小柴垣は、『源氏物語』賢木の巻に描かれる野宮をしのばせるに足るものがある。

大河内山荘

小倉山の麓にある。

昭和初期に時代劇俳優として知られた大河内伝次郎が、昭和七年(1932)以来、三十年の歳月をかけて営んだ山荘で、六千坪(約二万平方メートル)におよぶ広大な邸内には、大河内好みの持仏堂や瀟洒な茶室等がある。
庭園は全邸内におよび、とくに邸内からの眺望がよく、東を望めば嵯峨野をへだてて遠く京都市中が見え、背後には保津の清流を眼下にすることができる。

常寂光寺

小倉山と号し、日蓮宗本圀寺派の寺。

寺伝によれば、文禄五年(1596)本圀寺第十六世の日ワ辮lの隠居所を、寛永年間(1624-44)寺に改めたもので、この地が清浄閑寂たること常寂光土の如しということから、寺号としたとつたえる。
上人は角倉栄可・了以父子をはじめ小早川秀秋・小出秀政等、多くの人々の帰依をうけ、寺観をととのえた。
これより先、上人は慶長十一年(1606)角倉了以によって大堰川の浚鑿工事が行われた際、本圀寺の備前国(岡山県)伊部の末寺(宝蔵寺)の檀家であった舟夫の一群を嵯峨に呼び寄せ、当寺に寄宿させ、了以の事業を支援させたことがあり、これが保津川下りの濫觴となった。
近年、境内に角倉栄可供養塔や角倉資料館が設けられるに至ったのは、かかる由縁によるものである。

現在の本堂は二世日韶上人が伏見城客殿を移したものとつたえ、本尊法華題目・釈迦多宝仏を安置し、また仁王門(南北朝)は本圀寺客殿の南門を移したとつたえ、茅葺屋根の瀟洒な建物は、当寺のシンボルとなっている。

[多宝塔] (重文・桃山)

総高約十二メートル余、均整のとれた美しい姿で、石山寺多宝塔と比肩される。
内部に釈迦・多宝二仏を安置するので、一に「並尊閣」と称する。
元和六年(1620)京都町衆によって寄進されたとつたえ、往時の町衆の財力をしのばせる貴重な遺構である。

[歌僊祠]

当寺は藤原定家小倉山荘址という伝承に因み、定家・家隆両歌人を祀った祠堂である。
もと仁王門の北にあったが、当寺建立にあたって現在の山腹の地に移したとつたえる。

因みに当寺が一に「軒端寺」といわれるのは、藤原定家の
 
 忍ばれんものとはなしに小倉山軒端の松に馴れて久しき

とうたった和歌によるもので、これに因んで傍らに「時雨亭跡」としるした石碑がある。
境内は楓樹に覆われ、眼下に嵯峨野を俯瞰し、景観すこぶるよい。

他に小倉藩主小笠原氏三代(秀政・忠修・忠真)墓、日ワ辮l墓および俳人高桑義生翁の墓があり、また多くの歌碑や句碑がある。
中でも「女ひとり生き、ここに平和を希う」としるした*「女の碑」は印象的である。

*「女の碑」=銘文の筆者は市川房枝。第二次大戦に際し結婚を逸し、戦後の苦難を耐え忍んだ多くの女性たちの生きた証として建立した。昭和五十四年(1979)女の碑の会建立

落柿舎

茅葺、平屋建ての小さな建てもので、内部は四帖半と三帖を主室とし、炊事場や物置からなっている。
また土間の入口の荒壁にかけた蓑と笠は、庵主在宅のときはかけ、不在のときははずして、在宅の有無を示したものと伝える。

また生垣に囲まれた狭い庭内には、目前の嵐山が迫り、松の根元には「柿ぬしや木ずえは近き嵐山」としるした去来の句碑があり、庵の西側にはまた柚の老木があって、芭蕉が「柚の花や昔しのばん料理の間」とよんだ往時の落柿舎を追憶せしめる。

落柿舎は芭蕉十哲の一人、向井去来閑居の跡である。
去来は洛東聖護院の兄元端の家に住んでいたが、元禄の初め頃、嵯峨に古家を買い求め、隠居所とした。
この家の庭内に四十本の柿の木があって、ある年、柿の実を上人に売ることを約したが、生憎く風のために一夜のうちにことごとく落ちてしまった。
翌日見舞いに来た商人はこのありさまをみて驚き、契約を破談にしてしまったことから、落柿舎と名づけられたといわれる。

俳聖松尾芭蕉が落柿舎に去来を訪ねたのは、元禄四年(1691)四月十八日であった。
それより五月五日までの十七日間滞在し、嵯峨の名所旧跡を探訪した。
そのときの随想をかきとどめたのが、世に有名な『嵯峨日記』である。
それによると、芭蕉は舎中の片隅の一間を伏所(寝所)とさだめ、机の上に硯・文庫・『白氏文集』などを置き、唐の蒔絵を描いた五重の器物に菓子を盛り、名酒一壺にさかずきを添え

 夜の衾、調菜の物共、京より持ち来って貧しからず、われ貧賤を忘れて清閑をたのしむ

とあり、また同日記二十日の記には

 落柿舎の昔のあるじの作れるままにして、処々頽破す。中々に作りみがかれたる昔のさまより、今のあはれなるさまこそ心とどまれ。彫せし梁、画ける壁も風に破れ、雨にぬれて、奇石怪松も葎の下にかくれたる。竹緑に柚の木一もと、花芳しければ

 柚の花や昔しのばん料理の間
 ほととぎす大竹藪をもる月夜

とあり、そして出発前日の五月四日の記には、名残を惜しんで家中を見て廻り

 五月雨や色紙へぎたる壁の跡

と去り難い思いをしたためている。
当時の落柿舎はやや荒れはててはいても、料理の間がある程の広さがあり、多くの俳人が集まって句会も開かれていたようだが、去来の没後は荒廃し、遂にとりこわすに至った。

落柿舎ははじめ渡月橋畔、臨川寺の西辺にあったとつたえ、現在の地に再興されたのは、明和七年(1770)になってからのことである。
従って今の落柿舎は、場所も建物も去来在世当時のものではない。
それにも拘らず、往時の落柿舎をほうふつせしめて、なおあまりあるのは、ここが周囲の風光とよく合致しているためであろう。
洛東一乗寺山下の金福寺とともに、京都に於ける俳諧遺跡の双璧となり、多くの人々を引き寄せている。

[去来墓]

落柿舎の背後、二尊院に至る路傍にある。
墓は高さ三十センチばかりの立烏帽子型の自然石で、表面に「去来」の二字を刻む。
去来の墓は洛東真如堂にその一族の墓とともにあったが、隣接墓地の拡張によって撤去され、今はこの地が唯一の墓となっている。
なお傍らには落柿舎後世の庵主となった俳人山鹿栢年、工藤芝蘭人の墓がある。

[涌連上人墓]

去来と同じ墓地内にある。
江戸中期の歌僧で、『近世畸人伝』にもその奇行逸話を紹介している如く、専ら嵯峨に隠棲し、安永三年(1774)五十六歳で寂した。
家集に『獅子巌集』がある。
その歌風は、思いにまかせて詠むところに特長があり、上田秋成などの歌と一派共通している。

[有智子内親王墓]

落柿舎の西に隣る。
墓は東面する小円墳で、樹木が繁茂している。
有智子内親王は嵯峨天皇の第二皇女で、年若くして学を好み、詩文をよくされた。
弘仁元年(810)賀茂社の初代斎王となり、退下の後は閑居し、承和十年(843)四十一歳にして薨じられた。
後世、墓の上に小祠を建てて「姫明神」と称したが、これが訛って「緋の明神」・「日裳明神」といい、ついに「緋裳明神」として壇林皇后(嵯峨后)の緋の袴を埋めたところと誤伝された。
明治になって有智子内親王の墓と治定されるに至ったが、町名は今なお「嵯峨小倉山緋裳明神町」と称している。

小倉山

大堰川をへだてて嵐山と相対する、海抜292メートル、古来歌枕として世に知られる名山である。

小倉は「小暗い」の意で、樹木のうっそうとして繁茂するさまから山名となり、古くは嵐山をも含めてひろく小倉山と称した。
しかるに後嵯峨上皇が亀山殿を造営し、吉野より桜を移植して嵐山と呼ばれてより、大堰川北岸の山のみ小倉山と称するようになった。

この山が史上もっとも有名なのは、もみじの名所として多くの歌にうたわれいるところにある。
なかでも貞信公藤原忠平の

 小倉山峰のもみじ葉こころあらば今ひとたびの行幸待たなん (拾遺集、十七、雑秋)

の歌は「小倉百人一首」にもえらばれ、世に名高い。
この歌は延喜七年(907)宇多上皇が大堰川遊覧に御幸されたとき、山の紅葉があまりに美しかったので、主上(醍醐天皇)にも行幸されるべきだと仰せられたのに対し、貞信公が「その旨を主上に奏上いたしましょう」と申し上げて、この歌をよんだといわれる。

小倉山は山荘地としても知られた。
なかでも兼明親王の雄倉殿、藤原定家の小倉山荘がもっとも有名であるが、西行法師も出家後、しばらくこの山麓に庵をむすんでいたことがあり、『山家集』などには、小倉山隠棲中にうたった歌が多い。

また藤原俊成の猶子で、のちに出家した寂蓮法師もこの辺に閑居していたらしい。
その他、和歌の上からみた小倉山麓の隠棲者は、八条院高倉、待賢門院の中納言局、藤原公雄(雄倉中納言)、藤原光経、飛鳥井雅有、覚性法親王等があり、近世では世に「嵯峨居士」とよばれた僧涌蓮、俳人では芭蕉十哲の一人向井去来の落柿舎が知られる。

因みにこれらの文人歌人の山荘はいずれも廃絶し、現在そのところを明らかにしない。
僅かに藤原為家の中院山荘(厭離庵)や向井去来の落柿舎が、往時の山荘をしのばせているにすぎない。

[亀山]

小倉山の東南部、天竜寺の後山を称するが、古くは小倉山全体を称したようだ。
その山容があたかも亀が這っている如くにみえ、西北部を亀の頭、東南部を亀の尾とみられた。
亀の尾にあたるところを、「亀尾山」、略して「亀山」という。

亀山の名は古く、寛和二年(986)兼明親王が山荘(雄倉殿)造営の際、清泉のないのを嘆き、「亀山の神」に祈って霊泉を得られたことが『本朝文粋』にみえ、次いで後嵯峨上皇の仙洞亀山殿の造営によって、亀山の名はより一層有名となった。
のちに天竜寺を霊亀山と号し、公園を亀山公園というのも、いずれも亀山に因んで名付けられたものである。

歌枕としての亀山はまた小倉山とともに歌われ、亀にあやかって、長寿を願う歌が多い。

二尊院

小倉山と号し、天台宗延暦寺派の寺で、寺名は発遣の釈迦と弥陀の二尊を本尊とするところから名付けられた。

この地はもと嵯峨天皇が慈覚大師をして創立せしめられた華台寺の旧址とつたえ、その後久しく荒廃していたが、鎌倉時代に正信房湛空が師の法然上人の遺跡を慕って来在し、当院の再興につとめたのが起こりとつたえる。
次いで叡空上人は皇室の帰依あつく、寺運は大いに隆昌に赴いたが、応仁の兵火に罹災した。
その後、三条西実隆父子の帰依によって再興され、豊臣・徳川二氏もまた寺禄を寄進し、二条・鷹司・三条等の旧堂上貴族や角倉家等の菩提所となるにおよんで再び寺運は栄え、近世は西峨の一名山となった。

[総門] (桃山)

角倉了以が伏見城より移したとつたえる薬医門。

[本堂] (室町)

堂内中央厨子内には本尊釈迦・阿弥陀立像二体(重文・鎌倉)を安置し、傍らに「法然上人足曳きの御影」と称する法然上人画像(重文・鎌倉)をかかげる。

[茶室御園亭] (江戸)

後水尾天皇々女賀子内親王の化粧ノ間を賜って茶席にしたといわれ、一間の床の間に一間の違い棚を設け、違い棚の天袋の絵は狩野永徳の筆とつたえる。

[本堂前庭]

「竜神遊行の庭」といい、むかし門前の池に棲む竜女が、当院の正信上人の感化によって昇天したという故事にもとづいて名付けられた。
白砂を敷いた広前の垣はきわめて低く、蛇腹の模様をあらわしたものといわれ、俗に「二尊院垣」と称する。

[銅鐘] (桃山)

慶長九年(1604)天命の鋳物師大川忠右衛門の鋳造したものである。

[湛空上人廟]

中興開山湛空上人は左大臣徳大寺実能の孫といわれ、土御門・後嵯峨天皇の戒師となり、建長五年(1253)七月、七十八歳で示寂した。
墳上に立つ空公行状碑(鎌倉)は、上人の経歴行状を漢文で刻したもので、大宋国慶元府の石匠梁成覚の作になる。

[伝後奈良・土御門・嵯峨三帝塔]

南の後奈良天皇塔というのは、高さ三メートルの堂々たる石造宝篋印塔(重美・鎌倉)で、土御門天皇塔は中央の五重層塔(重美・鎌倉)をいい、小型ながらも穏和さがある。
また嵯峨天皇塔は十三重の上部を欠いて十重となった層塔(鎌倉)をいう。
いずれも鎌倉時代の特長をあらわす石塔であるが、宝珠を欠いているのが惜しい。

その他、付近には三条西実隆をはじめ三条実万・実美父子・角倉了以一族・伊藤仁斎・東涯父子および旧堂上華族の墓が多く、近年は画家富田渓仙や映画俳優坂東妻三郎等、著名な人の墓が設けられている。

清涼寺

五台山と号する浄土宗知恩院派の寺で、俗に「嵯峨の釈迦堂」とよばれる。

もとこの地は左大臣源融の山荘棲霞観があったが、融の没後、その遺志によって寺にあらため、棲霞寺と号した。
天慶八年(945)融と血縁の深い式部卿宮重明親王は亡室のために新堂を建て、金色等身の釈迦如来一体を安置した。

それより四十二年後の寛和三年(987)南都東大寺の僧「然は宋より帰朝し、請来した釈迦如来像と摺本一切経を棲霞寺に安置した。
「然は愛宕山を中国の五台山になぞらえ、その麓に大清涼寺を建立しようと考えていたが、それを果たすことなく、長和五年(1016)に示寂した。
「然の弟子盛算は先師の意志をついで棲霞寺内に一宇を営み、釈迦像を安置して五台山清涼寺と号した。
ここに於いて、棲霞寺の境内に釈迦堂の小清涼寺が同居する形となったのが、そもそも当寺の起こりである。

清涼寺ははじめ華厳宗であったが、平安末期の世情不安と浄土教信仰の発達とともに釈迦如来に対する信仰を得て、天台・真言・念仏宗を兼ねた寺として次第に発展していった。
法然上人も若き修行僧のころ、清涼寺に於いて七日間参籠祈請したことがある。
とくに嵯峨に隠棲する多くの念仏僧の中心となり、専修念仏の道場として栄えた。
建久元年(1190)の火災以来、たびたびの災厄にも拘らず、その都度再建されるに至ったのは、これらの念仏僧の努力によるものであり、また当寺が庶民に開かれた寺として、上下の信仰をあつめたからでもあった。
それに比し、棲霞寺は貴族の没落とともに寺運は次第に衰退し、終いには清涼寺境内の阿弥陀堂となって合併されるに至った。
されば清涼寺には、大覚寺や天竜寺とちがった庶民的な雰囲気が、今なお深くただよっているのは、かかる伝統ある遺風の賜物であり、庶民から親しまれるゆえんでもある。

[仁王門] (江戸)

丹塗りの楼門で、安永六年(1777)の再建である。
ビ(木+眉)上に「五台山」と号した額を掲げ、上層内部には十六羅漢を安置し、下層左右には長享年間(1487-9)作とつたえる金剛力士像(室町)を安置する。

[本堂] (江戸)

元禄十四年(1701)徳川五代将軍綱吉の発願により那波・住友などの富豪と一般の人々の寄進によって再建された。
正面ビ(木+眉)上に掲げる「栴檀瑞像」の大額は、黄檗隠元禅師の筆である。

内部は内陣・外陣に分かれ、内陣中央須弥壇上には徳川桂昌院(綱吉母)の寄進と伝える豪華な厨子があり、本尊釈迦如来立像(国宝・北宋)を安置する。
俗に「嵯峨の釈迦」とよばれ古来上下の信仰をあつめた尊像で、高さ160センチ、赤栴檀の霊木でつくられ、右手は臂を曲げて施無畏、左手は垂れて与願印を結ぶ。
頭髪は縄を巻いた如く、衣文は流水文といわれる半円形のひだが重なり合い、三国伝来というにふさわしい異国的な姿をしている。
平康頼の『宝物集』によると、源平の合戦で国内が乱れたとき、本尊の釈迦如来が日本に愛想をつかし、再び天竺(印度)へ帰られるという噂が立った。
これを聞いた都の人々は大いに驚き、今のうちに嵯峨へお詣りをしておかねばならぬと、市中から嵯峨へ陸続と参詣人が押し寄せたという。
本市に於ける屈指の霊仏である。

さらに昭和二十八年(1953)、釈迦像胎内より多くの奉籠物(国宝・北宋)が発見され、絹製五臓のあることで一層有名になった。

[棲霞寺阿弥陀堂] (江戸)

文久三年(1863)の再建で、旧棲霞寺の本尊阿弥陀如来三尊像(重文・藤原)は今は境内霊宝館に収蔵され、かわりに新しい阿弥陀像や如意輪観音像を安置する。

棲霞は源融の山荘棲霞観のなかに建立された源家の私寺である。
山荘は東は大覚寺、北は観空寺に接した広大な地を占めていたが、寺はその東部に建てられていたようで、大体現在の清涼寺の地と推定される。
寺といっても貴族が詩歌の遊びや法要に利用するだけで、庶民にとっては閉ざされた貴族寺院であった。
藤原道長も当寺に参詣したことがあり、紫式部は『源氏物語』松風の巻を執筆するにあたって、「嵯峨の御堂」は当寺を意識して描いている。
しかし、境内に三国伝来の釈迦仏を安置した清涼寺が営まれると、この方に都下万民の信仰があつまり、庇を貸した棲霞寺は衰微し、阿弥陀堂として現在に至っている。
しかし創建当初の阿弥陀三尊像および兜跋毘沙門天立像(重文・藤原)だけでも残ったことは僥倖ともいうべく、源融も以てめいすべしといえよう。

[多宝塔] (江戸)

元禄十三年(1700)本尊釈迦仏が江戸の護国寺に出開帳されたとき、江戸市民の寄進によるものと伝える。

[源融塔]

多宝塔の背後にある高さ1.6メートルの石造宝篋印塔(鎌倉)をいう。
供養塔として後世につくられたものであろう。
融の墓は他に渉成園にもある。

[嵯峨天皇・壇林皇后塔]

向かって右の石造宝篋印塔(鎌倉)を嵯峨天皇の塔、左の石造宝篋印塔(平安)を壇林皇后の塔とつたえる。
宝篋印塔は相輪も折れ、笠石四隅の突起も失われているが、層塔は古色蒼然としている。

[鐘楼]

近年の再建であるが、銅鐘(室町)は文明十六年(1484)融通念仏の聖宝鎮上人が本願主となり、足利義政とその夫人日野富子、将軍足利義尚および数百名の無名の僧俗男女の寄進によってつくられたもので、鐘の表面に助成者の法名や俗名を細字で多数刻まれている。
鎌倉時代以降、融通念仏の道場として栄えた清涼寺の信仰上の歴史を物語る貴重な遺品である。なおこの鐘は「清涼晩鐘」、「五台晨鐘」として、古来嵯峨八景、または嵯峨十景の一に選ばれた名鐘でもある。

[経蔵] (江戸)

もと「然請来の蔵経が納められていたが、現在は伝大士と笑仏を安置し、輪蔵に明版大蔵経を納める。

[八宗論池]

蔵経の前にある小さな池をいう。
寺伝によれば、弘法大使空海が南都八宗の学僧と宗論におよんだとき、この池をめぐって問答し、相手を論破したという。

また嵯峨上皇が奉ぜられたとき、遺詔によって御棺を掛けられたという「棺掛桜」もこの池畔にあったが、惜しくも枯れて今はない。
いずれも「大師行状記」に因んだエピソードによって名付けられたものであろう。

[弥勒多宝塔石仏] (鎌倉)

表面に弥勒菩薩坐像、裏面に多宝塔を刻み出しているのが珍しい。
全体に磨滅が甚だしいが、頭上に宝珠付きの天蓋と左右に蕨手を出し、如来の面相も円満である。
寺伝では空也上人の作といい、江戸時代には「空也上人塔」といわれ、空也僧は寒夜鉢を叩いて来詣した。

=当寺の主たる行事=

[嵯峨お松明式]

毎年三月十五日の夜八時から境内にて行われる。
一に「柱炬」ともいう。
松明は高さ七メートル余、松の枯枝や藤づるなどで巧にゆわえ、漏斗形に組み立てたものを三本つくり、これを本堂前に鼎立させ、合図によって火をつける。
点火は火のついた枯松を竹竿の先につけ、松明の上から落とすと、火はたちまち燃え出し、凄まじい音とともにさながら火竜の天上する如き壮観を呈する。
この火勢の強弱によって、その年の農作物の豊凶を占い、また嵯峨各町名をしるした高張提灯十三個を並べ、それをささえる竹竿の高低によって十二ヶ月の米価の高低を占ったという。
今は一般の株が対象となっている。

[大念仏狂言]

毎年四月に行われる融通大念仏会に際し、境内の狂言堂で行われる郷士臭のあふれた素朴な狂言をいう。
鎌倉時代に円覚上人が庶民に教義を説くために創始されたとつたえ、囃子は鐘や太鼓・笛で奏し、所作はすべて無言で行われることは壬生狂言と同じである。
謡曲「百万」は、この大念仏を舞台として作られている。

[お身拭式]

毎年四月十九日、本尊の釈迦仏を拭いきよめる儀式をいう。
西芳寺(苔寺)から送られてきた水で香をたきこめ、白布にひたし、引声念仏の中で尊像を拭い奉る。
このときに使用された白布で経帷衣をつくり、死後着用すれば極楽往生するといわれ、敬虔な信徒は競ってこれを授かるために群参する。
世にこれを「嵯峨のお身拭」と称し、「知恩院のお身拭」とともに京都の主なる年中行事の一に数えられる。

=当寺の墓地=

ここには大坂夏冬の陣の名将渡辺一族の墓があるが、これとは別に東北隅にもある。
もと塔頭地蔵院(廃寺)の墓地であったが、今は大覚寺の塔頭覚勝院の管理となっている。

[石造宝篋印塔] (重文・鎌倉)

花崗岩製、高さ二メートル余、基礎正面の格狭間内に開蓮華を陽刻し、塔身四方に四方仏を半肉彫りとしている。
相輪は後補であるが、全体によくととのっている。

[円覚上人塔]

八角石幢(鎌倉)をそれとつたえるが、確証はない。

[遊女夕霧墓]

三基の小五輪石塔をいい、墓石の台石に「扇屋」と刻まれている。
夕霧は嵯峨中院町生まれ、本名は「てる」という。
長じて島原の扇屋の抱え遊女となったが、寛文十二年(1672)大坂新町に移り、延宝六年(1678)正月六日、二十六歳で没した。
島原の吉野太夫、江戸吉原の高尾太夫と並び称せられ、世人はその容色と才を惜しんだ。
のちに夕霧を主題とした浄瑠璃や歌舞伎狂言が上演された。

夕霧の墓は大阪市天王寺区下寺町の浄国寺にあるが、彼女の生家が代々地蔵院の檀家であった関係上、この地に分骨または遺髪を葬ったものであろう。
因みに毎年十月の第三または第四日曜日に「夕霧忌」が行われる

[「然上人墓]

墓石は花崗岩製、高さ1.55メートル、八角形の石幢(鎌倉)で、幢身上部に仏像を刻んでいるのがわずかにみえる。
中台や基礎がなく、幢身と龕部を一石でつくって、長い柱状としているが、上の笠は後補である。

 
薬師寺

清涼寺本堂の西にある。
竜播山と号し、浄土宗知恩院派に属する。

はじめ真言宗大覚寺派に属し、嵯峨天皇勅願所としてその保護をうけ、明治維新までは嵯峨御所事務所として重んじられたが、明治初年頃、浄土宗に転宗し、今は清涼寺の境内塔頭となっている。

寺伝によれば、当寺の本尊薬師如来像は、弘仁九年(818)天下に悪疫が流行した折、嵯峨天皇が弘法大師をしてつくらしめた霊仏といわれ、天皇もまた般若心経を浄写し、病魔の退散と招福を祈念されたところ、忽ち悪疫が止んだという。
天皇が写経された心経は、大覚寺の心経殿に納入されたが、薬師像は勅封の秘仏として薬師寺に安置し、その後は万民の守護仏として崇敬された。
当寺を一に「寮病院」と称するのは、かかる由縁によるものであろう。

本堂には中央厨子内に右の薬師瑠璃光如来坐像を本尊とし、背後の左右壇上には嵯峨天皇坐像(室町)・阿弥陀三尊像およびもとこの付近にあった福生寺(招金山と号し、真言宗大覚寺派の寺。旧地は嵯峨大覚寺門前町六道町。今林陵の東南にある)の遺仏とつたえる地蔵菩薩坐像(鎌倉)・小野篁坐像を安置する。
他に寺宝として「薬師如来絵伝」二巻(江戸)等を有する。

因みに福生寺は一に「生六道」ともいい、小野篁が冥土より帰り着いたところとつたえ、その出口という七基の井戸(薬師寺住職の談によれば、三十平方メートルの狭い所に井戸が中央に一つ、両側に三つずつ並び、その周囲は石仏によってとり囲まれていたという。付近の町名を「大覚寺門前井頭町」というのは、これに因るものであろう。井戸は間もなく埋め戻し、宅地となっている。)が近年発掘されたことがある。

 
宝篋院

臨済系の単立寺院で、小楠公(楠正行)と足利義詮の墓がある寺として知られる。

当院ははじめ善入寺と称し、白河天皇の勅願によって創建されたと伝える。
中世、夢想国師の高弟、黙庵禅師によって中興されたが、当時、楠公行はふかく黙庵に帰依し、正平三年(1348)正行が河内国四条畷にて戦死すると、その首は黙庵によって当院に埋葬された。

足利二代将軍義詮もまたふかく黙庵に帰依し、善入寺の壇越となり、諸堂を営んだ。
貞治六年(1367)義詮が没すると、生前の希望により正行の首塚の傍らに埋め、且つ義詮の法号を採って宝篋院と改めたとつたえる。

それにより足利歴代の崇敬を得て、寺運は隆盛におもむいたが、応仁の乱後衰微し、元治元年(1864)の兵火に天竜寺とともに焼亡し、正行・義詮の墓も所在不明となった。
宝篋院は天竜寺塔頭寿寧院に合併されたが、明治二十四年(1891)たまたま正行の位牌が発見されたことから、現在の地に堂宇を再興するに至った。
本堂には千手観音像を安置し、客殿は明治天皇行在所の建物を移したものという。

[小楠公首塚足利義詮墓]
「もみじ」に覆われた境内の奥まったところにある。
右の五輪石塔を正行の首塚、左の三重石造層塔を義詮の墓と称している。
いずれも鎌倉時代の作になるもので、両人在世時のものより古いのは、他所より移したものであろう。

 
厭離庵

寺伝によれば、ここは藤原定家の小倉山荘址とつたえ、久しく荒廃していたが、安永年間(1772-81)冷泉家によって再興され、霊元法皇から厭離庵の号を賜った。
はじめ真言宗大覚寺派に属したが、今は臨済宗天竜寺派の尼寺となっている。
現在の建物は明治三十四年(1901)、白木家の先代大村彦太郎の寄進によるものといわれ、ささやかな境内には本尊如意輪観音像を安置する小さな本堂と茶席「時雨亭」および定家が「小倉百人一首」を染筆するときに用いたという「柳の水」や定家塚等がある。
いずれも後世の仮託によるものであるが、定家の小倉山荘址とつたえるにふさわしい景観を呈している。

しかし、ここは定家の嗣子為家の岳父、宇都宮頼綱(蓮生入道)の中院山荘にあたる。
頼綱は定家山荘の敷地の一部をゆずりうけ、文暦元年(1234)頃、ここに一宇の山荘(頼綱が山荘の障子に貼るために藤原定家に依頼した色紙が、のちの『小倉百人一首』となった)を構えたが、のちに女婿(頼綱の娘。為家没後、阿仏尼と号した。『十六夜日記』の筆者)の為家に寄贈した。
為家は康元元年(1256)出家して融覚と号し、出家後も中院山荘に久しく住み、小倉山をテーマとした多くの和歌を残した。
為家が一に中院大納言または中院入道といわれるゆえんである。
建治元年(1275)五月一日、七十九歳の高齢で没した。
墓は厭離庵の東、数歩のところにあり、石柵をめぐらし、中央に一株の榊を植えてしるしとしている。

[慈眼堂(中院観音)]
厭離庵の門前、愛宕参道に面して北側にある小堂をいい、十一面千手観音立像(平安)と定家・為家・為相の名をしるした位牌および毘沙門天立像を安置する。

談によれば、千手観音像はもと定家の念持仏といわれ、為家から中院(愛宕神社の中院のあった処。上院は山上に、下院はこれより南にあったという)の住人に与えられ、この地の浜松屋善助(浜善)の屋敷内に祀られていたが、文政五年(1822)浜善が没落したため、町の人々によってここに祀られるに至ったとつたえる。

毎年正月十四日から十五日の日の出まで「日待」の行事を行い、また為家の法要を営むなど、今なお中院住民の尊崇を得ている。

[二条家古墓]
厭離庵の背後、善光寺山町の竹ヤブの中にある。
ここは定家の小倉山荘の西北隅に当たり、二条良基をはじめ、二条家十二代の人々の墳墓地である。
但し墓といっても墓石はなく、雑草におおわれた小さな塚があるだけで、どれが誰の墓なのか、今は知るすべもない。
嵯峨野の山野に現存する旧家の墳墓としては、貴重な存在である。

 
祇王寺

真言宗大覚寺派の尼寺で、往生院と号する。

『平家物語』巻によれば、祇王は近江国(滋賀県)野洲郡江部庄に生まれ、父の死後、妹祇女とともに母刀自にともなわれて京都に出、白拍子となったが、平清盛に見染められ、非常な寵遇を得た。
ところが、ここに加賀国(富山県)より仏御前という白拍子の名手があらわれてから、清盛の心は祇王よりはなれてしまったので、祇王は

 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはで果つべき

と一首を障子にかきしたため、清盛の屋敷から去って行った。
ある日、清盛は仏御前の無聊をなぐさめるべく、無理に祇王を呼び出したが、祇王は

 仏もむかしは凡夫なり、我等もついに仏なり

と今様を謡い舞って、並みいる人々の涙をさそった。
その後、人生の無常を感じた祇王母娘は、浮世を逃れて嵯峨の往生院に入って尼となったが、仏御前もまたいくばくもなく祇王を訪ねて尼となり、もろともに念仏三昧に余生を送ったという。
時に祇王二十一、祇女十九、母刀自四十五、仏御前十九と記している。

往生院は大原の良忍(聖応大師)の弟子、良鎮上人が融通念仏弘道の道場として再興した寺であるが、中世以降荒廃するに至った。
祇王寺はその中の一院であったが、祇王祇女の哀話が世に有名になるに及んで、江戸時代に再興された。
当時の様相は安永九年(1780)刊行の『都名所図会』巻四に挿画を掲げ

 祇王寺は浄土宗にして往生院と名づく。
 いにしへは西の山上にあり。
 後世、今の地にうつす云々。

としるしていることによって知られる。
しかし、このとき往生院の再興はなく、祇王寺がその名を継ぐに至った。

現在の建物は明治二十八年(1895)、時の京都府知事北垣国道が祇王生前の事績に感動し、自分の別荘内の茶室を寄進して本堂としたもので、寺院らしさのないのはこのためである。

堂内には本尊大日如来像をはじめ、平清盛と祇王ら四人の尼僧像を安置し、境内の一隅に祇王姉妹等の墓とつたえる石造三重層塔(鎌倉)および平清盛塔とつたえる五輪石塔(鎌倉)がある。
五輪石塔は水輪に金剛界四仏の梵字をきざんでいるのが、珍しい。

 
滝口寺

もとは三宝寺といい、ここも往生院の子院の一であり、また祇王寺とともに『平家物語』ゆかりの地として、江戸時代から知られた寺であったが、いつの頃にか堂宇は退廃し、久しく空地のままとなっていた。

それが昭和のはじめ頃、長唄の杵屋佐吉によって再興されたのが、今の滝口寺である。
小倉山と号し、真言宗大覚寺派に属し、本堂には滝口入道と横笛の坐像を安置する。

『平家物語』巻十によれば、小松内府重盛の家来、斉藤時頼は、人にきこえた偉丈夫であたが、治承三年(1179)の春、清盛の西八条殿の宴で、建礼門院の雑仕横笛のあでやかな舞姿に魅了され、横笛を妻にと父に乞うたが許されず、世をはかなんで出家し、滝口入道と号して嵯峨の往生院に入寺した。

これを聞いた横笛は自責の念にかられ、滝口に会って一言侘びをせんものと思い立ち、ある秋の暮れつ方、嵯峨の奥に滝口入道の庵室を訪ねてきたが、道心堅固な滝口は会おうともせず、無常にも追い返してしまった。
横笛は悲しみのあまり、大堰川の千鳥ケ淵に身を投げたといわれ、また一説には奈良の法華寺に出家遁世したともいわれる。

『平家物語』巻十や『源平盛衰記』巻三九によって紹介されたこの二人の悲恋物語は、のちの世の人々の同情心をそそった。
これがこの地に祇王祇女とともに、滝口・横笛をつくらせた因である。

今も門前にある「歌石」という石もその一つである。
この石は、滝口入道を慕って訪ねてきたのに会えなかった横笛が

 山深み思ひ入りぬる柴の戸のまことの道にわれをみちびけ

とこの石に書きしるしたものだとつたえる。
境内には、他に平清盛を祀る小松堂や平家供養塔と称する十三重石塔がある。

新田義貞首塚

滝口寺の門前南にある。

「贈正一位新田公首塚碑」ときざんだ大きな石碑と勾当内侍供養塔と称するささやかな三重石層塔が建っている。

碑文によれば延元三年(1338)越前国(福井県)藤島で戦死した新田義貞の首をひそかにここに埋葬し、新田十三社と称したが、その後廃絶するに至った旨をしるしている。
明治初期の歌人渡忠秋は、義貞の家臣渡某の後裔といわれ、義貞の墳墓の湮滅するのを嘆き、生前にこれを修復しようとして果たさずして没した。
明治二十七年(1894)、富岡鉄斎翁はその遺志をつぎ、有志と相謀ってこの碑を建てたとつたえる。

また勾当内侍供養塔は、義貞の寵姫勾当内侍が義貞の戦死後、髪をおろして尼となり、往生院に入ってその菩提を弔ったという伝説に基き、昭和七年(1932)につくられたものである。

[法宝閣檀林寺]
真言宗大覚寺派に属し、松森山と号する。

昭和三十九年の創建で、本堂には檀林皇后を似せて作ったという准胝如意輪観音像を本尊とし、霊宝館には皇后ゆかりの品をはじめ、日本・中国の仏教美術の数々を集めて、往時の檀林寺をしのぶよすがとしている。

後亀山天皇陵

嵯峨小倉陵といい、陵内中央の五輪石塔が天皇の墓石で、四隅の小石塔は皇妃皇子に墓石である。

後亀山天皇は南朝最後の天皇として即位されたが、明徳三年(1392)南北両朝の合一によって吉野(奈良県)より帰洛され、いったん大覚寺に入御されたが、応永三年(1394)二月落飾され、小倉山東麓の小倉殿に隠棲された。
しかし、天皇は常に北朝の不徳を痛く不満とされていたものの如く

 思い遣る人だにあれな住み慣れる嵯峨野の秋の露はいかにと (新続古今集、十七、雑歌上)
 忘れんと思ふ甲斐なく古事をまたいひ出でてしぼる袖かな

と歌に託して述懐されたことでも想像される。
天皇は三十余年のながい月日をこの奥嵯峨に閑居され、応永三十一年(1424)四月十二日、七十五歳にて崩御された。

小倉殿はその後仏寺にあらため、福田寺と号したが、中世以降荒廃し、明治十五年(1882)大聖寺(上京区)に合併されてしまって御陵のみが残った。

化野念仏寺

華西山東漸院と号する浄土宗の寺で、おびただしい石塔のある寺として、近年とくに有名になっている。

寺伝によれば弘法大師がこの地に葬られた多くの死者の菩提を弔うために一宇を創建し、五智如来寺と称したのが起こりと伝える。
中世には法然上人がここを常念仏の道場としてより、五智山念仏寺と改めたといわれるが、おそらく化野の墓守り寺として創建されたものであろう。
化野とは愛宕参道に沿った奥嵯峨一帯をいい、東の鳥部山、北の蓮台野とともに古くから葬送地とされたところである。
『徒然草』第七段

 あだし野の露消ゆるときなく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習なれば、如何に物の哀れもなからん、世は定めなきこそいみじけれ云々。

としるすごとく、鳥部山の煙と化野の露は人生無常の象徴とされた。
また歌枕ともなり、歌人の感傷をいやが上にもそそった。

さして広くない境内には、阿弥陀如来坐像(鎌倉)を本尊とする萱葺屋根の本堂をはじめ、鐘楼・水子地蔵・仏舎利塔等があり、また庫裡の背後の池には「モリアオガエル」が棲息し、毎年梅雨時には木の上に純白の泡のの塊をかけ、そのなかに卵を生みつける。

[賽の河原]
境内中央の十三重石塔(江戸)を挟んで約八千体におよぶ石塔群をいう。
もとあだし野一帯に散乱・埋没していたものを、明治三十六・七年頃に集めたといわれ、葬送地であったことを如実に物語っている。
これらの小石塔は主に室町時代に作られたものが多く、一部江戸時代に及んでいる。
もっとも寺の入り口にある薬師・弥陀石仏二体は鎌倉時代の作になり、小さいながらも愛すべき姿をしている。

[千灯供養]
毎年八月二十三・四両日の夕刻より行われる。
多くの無縁仏の霊にローソクを供えて慰める行事で、光と闇と石仏がたくみに織りなし、さながら荘厳浄土を再現した感があり、当日は参詣者によって狭い境内は大いに賑わう。
(当夜の参拝は事前予約必要です)

他に九月第二日曜日は、境内の虫塚前にて虫供養があり、同じく千灯供養が行われる。
なお背後の竹林中には角倉素庵の墓がある。

曼荼羅山

愛宕参道を挟んで化野念仏寺に相対する高さ二百メートル余の山をいい、一に万灯籠山ともいう。
その麓を流れる川を曼荼羅川という。

口碑によれば、弘法大師が化野に両界曼荼羅をつくったとき、化野を金剛界、この山を胎蔵界になぞらえたが、これに因んで曼荼羅山と呼んだという。
しかし、本当は毎年八月十六日の夜、五山送り火の一として鳥居形の送り火を点火し、万灯供養を行うことから生じたものであろう。

[鳥居形大文字]
山の東南面の急傾斜地に百八本の鉄製火床(杭)を立てて鳥居形とし、その先に松のジンでつくった松明をつきさす。
その大きさは笠木が七十二メートル(杭三十本)、柱七十六メートル(杭各二十本)、貫七十メートル(杭二十八本)、額束二十六メートル(杭各五本)で、松明を全部で百八本とするのは、百八の煩悩を焼きつくすという仏説によるものであろう。

なおまた曼荼羅山を、一に仙翁寺山というのは、むかし仙音寺(仙園寺)という寺があって、それが訛って仙翁寺となったからだとつたえる。
この寺は仙翁花という珍花を栽培していたことで知られたが、鎌倉時代頃以降廃絶し、その名は山麓に嵯峨鳥居本仙翁町(旧仙翁寺村)として残った。

鳥居本

化野念仏寺を経て、一の鳥居に至る延長約六百五十メートルの愛宕参道沿いの集落をいい、送り火を奉仕するところから村名となり、また地名となった。
狭い道路を挟んで鄙びた民家が建ち並び、町並みと自然とが一体となり、嵯峨の山里らしい景観をなしている。

鳥居本は室町末期頃、農林業中心の集落として開かれたが、江戸中期からは愛宕神社の門前町としての性格が加わり、農家や町家、茶店などが建ち並ぶようになった。
今なお茅葺屋根の古い農家風の建物や二階に格子窓のある「むしこ造り」の町屋風の建物が多い。

昭和五十四年、重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

一の鳥居

愛宕神社の一の鳥居のあるところをいう。

鳥居の傍らには江戸時代の享保年間創業とつたえる腰掛茶屋が二軒あって、いずれもくずや茅の店構えに、表に赤毛氈を敷いた床机を置き、鮎を焼く煙が格子から流れているさまは、あたかも芝居の書き割り(舞台の背景)のようだ。
一つは「鮎所」、一つは「鮎の宿」と銘うっているのは、保津川でとれた鮎をここで水替えし、京都の街へ運んだからである。
もとは愛宕詣りの人々の休息所であって、むかしはここで名物の「しんこ」をたべ、わらじをはき替え、愛宕山頂までの五・五粁の山道を歩いて登ったものだ。
その途中の「試み坂」は、参詣人の足の力を試練するところといわれたが、今はトンネルになっている。

[亀石]
一の鳥居をくぐった道路傍にある。
愛宕山頂の愛宕神社にも同様の石があり、「下り亀石」と呼ぶのに対し、山麓のここのは「上り亀石」といい、昔から一対をなしている。
役行者が置いた石と伝えるが、由来を明らかにしない。
大和春日神社の出現石、河内観心寺の弘法礼拝石などと称せられる名石である。

愛宕念仏寺

等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺派の寺で、延喜年間(901-23)千観内供の開創とつたえる。
千観は空也上人の教えをうけ、常に不退念仏を唱え、世に念仏上人とよばれたので、寺名も念仏寺と称したのであろう。
はじめ東山六原付近(東山区松原大和大路東入ル弓矢町)にあって、七堂伽藍をそなえた大寺であったが、中世以降衰微し、大正十一年(1922)現在の地に移った。
愛宕の名を冠するのは、旧地の愛宕郷によるものか、あるいは隣接の愛宕寺(現珍皇寺)の寺名を継いだものとみられる。

[仁王門] (江戸)
江戸中期の再建であるが、古寺にふさわしい和様を主とした復古的な建物である。
門内左右に仁王像(鎌倉)を安置する。

[本堂] (重文・鎌倉)
山腹を切り開いた台地上にある。
本瓦葺の簡素な和様建築からなり、高山寺石水院にもおとらぬ建物である。

堂内には十一面千手観音立像(鎌倉)を本尊とし、右に吉祥天女像(平安)、左に千観内供像を安置し、左右の脇檀上には二十八部衆を安置する。

地蔵堂には火除地蔵とよばれる地蔵菩薩坐像(平安)を安置する。
古来火除けの信仰があり、今なお「火之要慎」の護符が授与される。

なお境内崖下にある二個の石塔のうち、右の名号笠塔婆(室町)は、清水寺の千日詣結願供養塔としてつくられたもので、永世九年(1512)の銘があり、左は地蔵菩薩像を陰刻した板石塔婆(室町)である。
他に石造宝篋印塔(江戸)や近年信徒有志による五百羅漢の石仏多数が安置され、深草石峰寺の石仏群におとらぬ壮観さをみせている。

壇林皇后深谷山陵

一の鳥居より左の水尾路を四百メートル、さらに北へ三百メートルばかり入り込んだ深谷山の山中にある。

皇后の名は嘉智子、橘氏の出身で、年若くして神野親王(嵯峨天皇)に見染められ、乞われて妃となり、天皇即位の後は冊立されて皇后となった幸運の女性である。
在世中、仏教を篤く信じ、嵯峨に檀林寺を創建されたので、世に檀林皇后とよばれた。
また学館院を設け、橘氏一族の子弟の教育にも力をつくされた。
嘉祥三年(850)五月四日、嵯峨院にて崩御され、遺言によって薄葬とし、山陵は営まれなかったという。

それがため、後世、皇后に関する幾多の伝説が生まれた。
その一つは、葬送のとき、棺に覆うた帷子が風にふかれて散ったところが、現在の帷子ノ辻だといわれ、二尊院門前にあった長明神社は皇后の髢、同じく裏柳社は散った上衣を祀った神社、また日裳宮は皇后の緋の袴を祀ったところだといわれた。
いずれも皇后の死を悼むのあまり、後世になってつくられた伝説である。

清滝

愛宕山麓下の清滝川を挟み、料亭・旅館が建ち並ぶ渓谷の集落をいい、洛北貴船とともに京都に於ける数少ない納涼避暑地として知られる。

もとは愛宕詣の人々の水垢離をするところであったが、次第に宿場として発展するに至った。
とくに清滝川の清冽さと紅葉の美しさは世の評判となり、古来、文人墨客の来遊するものが多かった。
元禄七年(1694)初夏、俳聖松雄芭蕉は三回目の落柿舎滞在中、清滝の地を訪れ、「清滝や波に散り込む青松葉」と一句ものした。
また「清滝の水汲みよせて心太」とよんだのは、芭蕉が俳人野明亭に対する挨拶をふくんだものだが、この句はともに清冽な清滝川に寄せた芭蕉のあこがれが現れている。

明治二十年(1887)の秋、同志社の学生であった徳富蘆花は、初恋に破れ、傷心の身を清滝の旅館「ますや」に横たえ、二十日間あまり滞在し、読書三昧にふけった。
このときに読んだ『レ・ミゼラブル』は、蘆花のその後の進路を決定づけたといわれる。
滞在中の情景は、その自伝小説『黒い眼と茶色の眼』のなかに描かれている。
また昭和五年には与謝野寛・晶子夫妻も旅館「ますや」に宿泊した。
晶子はこのとき
 
 ほととぎす嵯峨へは一里京へ三里水の清滝夜の明けやすき

と詠んだ。
また梶井基次郎や織田作之助らも、学生時代に泊まったことがあり、清滝は単に紅葉の名所としてのみならず、近世文人・歌人の諷詠地でもある。

愛宕山

山城・丹波両国の境にそびえ立つ高さ九百二十四メートルの峻峰をいい、東の比叡山と相対する。
比叡山が天台密教の聖地とされるのに対し、西の愛宕山は火伏せの神を祀る神山として畏敬され、その特長ある山容は京都市民の朝夕仰ぐところである。
山中は五峰からなり、朝日ケ峰・高雄山・竜上山・鎌倉山と称し、山頂の朝日ケ峰には愛宕神社が鎮座する。
古くは丹波国に属したが、のちに山城国に移った。
従って山は丹波高原の一部であって、全山古生層からなり、山頂部は侵食による角岩の残丘からなっている。
東斜面は清滝川の断層谷に、西方は亀岡盆地東方の断崖に、南方は保津川の渓谷をへだてて嵐山に相対し、周囲の山からとび抜けてひときわ高く見える。
山中には老杉巨桧がうっそうと生い茂り、いかにも天狗が棲息するような雰囲気がただよっている。

この山へ登るには清滝からの四・二粁を本道とし、他に月輪寺道・水尾道・高雄道があるが、いずれも道は険しい。
しかし、山頂からの眺望はよく、京都市街はもとより南山城地方から奈良・大阪または丹波高原を一望にすることができ、その雄大にして壮観なる景観は、けだし洛西の諸峰中、随一であろう。

愛宕神社

愛宕山頂の朝日ケ峰に鎮座する旧府社である。
『延喜式』に「阿多古神社、丹波桑田郡」としるされている神社であって、もとは愛宕大権現と称し、神仏習合時代には社僧によって執行されてきたから、その創祀由緒については諸説多く、あきらかにしない。
しかし、一般の通説では、はじめ丹波国桑田郡国分村に祀られていたのが、のちに愛宕郡鷹ケ峰にうつり、次いで天応元年(781)僧慶俊によって愛宕山頂に移され、和気清麻呂が社殿を造営したと伝える。
おそらく丹波国または山城国を開拓した国津神の苗裔が、その祖神を祀ったのが起こりであろう。

祭神は伊弉冉命・迦倶槌命・大国主命を主神とし、他に多くの神々を祀っている。
このうち迦倶槌命は降誕にあたって母伊弉冉命を焼き給うたので、一に仇子・熱子ともいわれ、火をつかさどる神と崇められ、のちに火除け・火伏せの守護神とされた。
このため当社は鎮火の神を祀る神社として崇敬され、貞観六年(864)に授位あって以来、累年加位され、延喜の制には名神小社に列せられた。

しかるに山岳仏教が盛んとなるにつれて次第に仏徒がこの山に目をつけ、唐の五台山にならって山中五峰に五寺(朝日峰白雲寺・大鷲峰月輪寺・高雄峰山神護寺・竜上山日輪寺・鎌倉山伝法寺)を設け、その本地仏は勝軍地蔵と称し、迦倶槌命をその垂迹とし、これを愛宕大権現と称した。
修験者もまた天狗太郎坊栄術を配祀し、愛宕山を修験道七高山の一つに数えてより、神社としてよりも仏寺として盛大になり、全国に愛宕神を勧請するもの八百余社に及んだ。

とくに本地仏勝軍地蔵に対する武家の崇敬あつく、これを信仰すれば必ず勝利を得るといわれ、豊臣秀吉は征韓の役に当社の神宝笹丸(重文)を請いうけて出陣し、徳川家康は武運長久を祈って、慶長八年(1603)江戸芝の愛宕山に神霊を勧請した。

なかでも明智光秀が天正十年(1582)五月、山上の白雲寺の威徳院で催された連歌会に出席し、「時は今あめが下しる五月かな」と一句ものして、それとなく信長への叛意をしめした話は有名である。

細川幽斎も、天正十五年(1587)十月二十七日、白雲寺の福寿院に一泊し

 今日の今宵こころの闇も晴るばかり光を添へよ法のともし火 (衆妙集)

と神前に敬虔なる祈りをささげた。
白雲寺は愛宕神社の供僧寺として子院多数を擁して栄えたが、明治初年の廃仏毀釈によって廃寺となり、久しく本地仏として祀られていた勝軍地蔵を他所に移し、迦倶槌命を主神とする本来の愛宕神社に戻った。

現在の社殿は寛政十二年(1800)失火後の再建で、本宮には伊弉冉命外四柱を祀り、若宮には迦倶槌命外二柱、奥宮には大国主命外十六柱を祀る。
他に拝殿・社務所・楼門等があり、楼門より本殿に至る参道の両側には、江戸初期から末期に及ぶ年号をしるした石灯籠(愛宕灯籠)が多数並んでいる。

因みに第二次大戦までは清滝から山頂近くまでケーブルが通じ、参詣にも比較的便利であったが、戦時中、金属回収のために供出され、今は甚だしく不便となっている。
それにも拘らず、月参りと称し、毎月二十三日には多数の参詣者によって賑わっている。

[千日詣]
毎年八月一日午前零時に行われる当社の通夜祭に参詣することをいう。
愛宕詣ででは俗に「伊勢には七度、熊野へ三度、愛宕さんへは月参り」といわれるが、この日の参詣は千日の参詣に匹敵すると信じられ、七月三十一日の夕刻からえんえん長蛇の列をつくって登山する。
とくに幼児は三歳までに参詣すれば、一生火難にかからぬといわれ、子供を背負ってのぼる夫婦が多い。
参詣後、火災除けの護符と樒の枝をみやげとし、これを神棚や門戸に挿し、知己にくばる風習がある。
とくに農家においては、この護符を篠竹に挿して田畠二に立てておくと、作物の虫除けになるといわれる。

[亥猪祭]
亥の子祭とも火臼祭ともいい、毎年十一月亥ノ日におこなう祭礼をいう。
猪は愛宕神の神使といわれ、この日、参詣者には亥の子の護符を授け、火難除けと子女の良縁の速さを祈った。
また家では萩の餅を配り、老人のために炬燵開きをする。

月輪寺

一に「つきのわでら」ともいう。
愛宕山の支峰大鷲ケ峰の山腹にあって、鎌倉山と号する天台宗延暦寺派の寺である。

寺伝によれば、天応元年(781)僧慶俊の開創とつたえ、そのとき出土した古鏡の背面に「人天満月輪」の文字が刻まれていたことから寺名とした。
その後、空也上人によって中興され、法然上人も来山修禅し、月輪関白藤原兼実もこの地に閑居したといわれ、親鸞上人は承元流罪の際、兼実を当寺に訪ね、別離を惜しんだとつたえる。

本堂には本尊阿弥陀如来坐像(重文・平安)および千手観音立像(重文・平安)・空也上人立像(重文・鎌倉)を安置し、祖師堂には伝藤原兼実坐像(重文・平安)および法然・親鸞両上人坐像(江戸)を安置する。

[時雨桜]
本堂前にある。
親鸞上人が兼実との別れを惜しんで植えたものとつたえ、毎年五月の頃には雨も降らないのに、葉末よりしずくの雨を降らせるとつたえる。

[竜女水]
一に竜奇水ともいい、境内の崕下から湧出する清泉をいう。
空也上人が修行中、清滝川の竜神の示現によってこの水を得たといわれ、愛宕山中、唯一の飲料水である。

空也滝

月輪寺より東へ山路を下りること約二キロ、さらに西の山中へ四百メートルばかり入り込んだところにある。
高さ十二メートル、幅一メートル余、まさに天然の大シャワーともいうべき壮大な滝で、京都近郊中、最大の滝である。
ここは空也上人修行の地とつたえ、付近には行者の道場がある。

さらにここより上流に寒蝉滝(日暮滝)という大きな瀑布があり、細川幽斎は愛宕参詣の帰途、この地に立ち寄り

 昨日今日秋くるからに日ぐらしの声打ちそふる滝のしら浪 (衆妙集・秋部)

とうたっている。

水尾

「みずのお」ともよむ。
愛宕山の西麓に位置し、西南は山を隔てて丹波国保津村(亀岡市保津町)に接し、北は原・越畑につらなる山間渓谷にのぞんだ幽邃地で、古くは「水雄」ともしるし、丹波国に属したこともあったが、中世以降は葛野郡水尾村と称した。
昭和六年(1931)京都市右京区に編入され、今は嵯峨水尾町という。

南の老ノ坂とともに山城・丹波の両国をむすぶ要路として早くからひらけていた。
宝亀三年(772)十二月、光仁天皇は南都よりはるばるこの地へ行幸されたことがあり、桓武天皇もまた延暦四年(785)九月、長岡の都より遊猟に行幸されたことが国史にみえる。
また『宇津保物語』あて宮の巻には、源少将仲頼が水尾に隠棲したことがしるされ、東の八瀬大原に対して西の清浄幽邃地として、早くから大宮人に知られていたものであろう。
されば清和天皇も譲位の後は水尾に仙居し、ここを終焉の地となし給もうた。
水尾の婦女子が榛の木染めの三巾の赤前垂れを、今なお常用するのは、天皇に奉仕する女官が用いた緋の袴の遺風を伝えるものといわれ、東の大原女とともに京洛風俗の好一対とされている。

水尾の里女はまた榛の枝をあたまにいただき、毎日早朝より背後の愛宕神社の神前に供えてのち参詣者に授与する風習がある。
拝受した人々はこれを家に持ち帰り、神棚に供えて「火伏せの神花」とする。
榛は極めて香気の高い木であるので、昔から神花として用いた。

昔は戸数も百戸を越え、人口も千人近いときもあったが、延宝七年(1679)の大火以来、度々の災火によって衰微した。
殊に山陰線が開通してからのちは一層さびれた。
耕地面積が僅か0.1平方キロ余しかないのがその原因であるが、さいわい果樹の栽培に恵まれ、とくに枇杷や松茸とともに柚子は水尾の特産としてしられ、冬季各家でたてる柚子風呂は薬湯としてよく、近年は入湯に訪れる人が多い。

円覚寺

水尾町のほぼ中央にあり、粟田山と号する浄土宗知恩院派の寺である。

ここは平安時代に京都七大寺の一であった水尾山寺のあったところとつたえる。
清和天皇は譲位後の元慶四年(880)三月、水尾山寺に入寺し、ここを終焉の地と定めて仏堂の造営に着手されたが、幾程もなく疾病のために洛東粟田の円覚寺へうつり、十二月四日、同寺に於いて崩御された。
円覚寺は室町初期まで存続していたが、応永二十七年(1420)に焼失し、一先ず水尾山寺へ移された。
しかし円覚寺は再建されることなく、水尾山寺と併称するうち、円覚寺の名のみが残った。

本堂には清和天皇念持仏とつたえる薬師如来坐像(藤原)を安置し、傍らに清和天皇坐像(江戸)および地蔵立像・観音立像等を安置する。
また寺宝には、もと清和天皇陵内にあった十三重石塔の梵字の種子拓本断片を有する。

[貞純親王塔]
門前の一隅、老松の下にある。
惜しくも相輪の上部を欠いているとはいえ、南北朝時代の優品である。

貞純親王は清和天皇の第六皇子、清和源氏の祖といわれ、延喜十六年(916)五月七日、四十四歳にて薨去された。
円覚寺にて葬儀を行い、遺骨は水尾の山に納めたとつたえる。

なおその傍らには、源頼義・為義・義朝等、源氏一族の供養塔と称する小石塔があり、いずれも粟田円覚寺より移したものであろう。

清和天皇社

円覚寺の東北背後にあり、清和天皇を祭神とする水尾町の産土神である。
うっそうとした樹木の生い茂る中に本殿と四所神社の二社が、一つの覆屋の中に相並ぶ。
四所神社とは、天皇の生母染殿皇后の信仰される大原野神社の祭神四柱を勧請祭祀したものとつたえる。

なお毎年四月三日に行われる当社の花笠踊は、古雅質朴に富んだ踊りであるが、今は行われていない。

清和天皇水尾山陵

清和山中腹、標高三百メートルの高地にある。
陵は西面して方形をなし、三方を丈余の石畳の崖となったところに端門を構え、透塀をめぐらし、陵内には古松老柏が亭々としてそびえ立ち、清風は常に谷間よりわき上り、拝者をして襟を正さしめる。
 

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