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鹿苑寺(金閣)

山号 - 北山 
開基 - 夢窓 疎石
宗派 - 臨済宗宗国寺派

金閣を拝観できるのも、十二世住職・貫宗承一によるものである

【歴史】

13世紀の始め、西園寺公経が豪勢な山荘を営んでいたが、その後長らく荒廃したのを、足利義満が譲り受け、1397(応永4)年にその権力と財力で別荘北山殿を造営した。

主たる建物は義満の居所とした北御所、夫人日野康子の南御所、崇賢門院藤原仲子の女院御所をはじめ、護摩堂・宸殿・公卿の間・天鏡閣・舎利殿等からなっていた。
 
現在の金額にすると、約百億円といわれる。
 
ここで有名な北山文化を生み出した。

1408(応永15)年義満の死後、北山殿は夫人の住居としてのみ使用されたが、夫人が没すると、遺言によって足利義持が禅刹に改め義満の法号にちなんで鹿苑寺と 号した。

昭和二十五年七月二日未明、学僧の放火により焼失。
(五年後に、二千八百万円で創建当時の姿に再建される)

昭和六十二年(1987)金箔のすべてが修復される。
(金箔二十万枚、約七億五千万円、総枚数二十万枚、六十五行程、岩手県をはじめ国産漆1.45トン)
 
・ 舎利殿(金閣)

鏡湖池のほとりに建つ三層の楼閣をいい

初層(法水院)は藤原時代の寝殿造り風
二層(潮音閣)は鎌倉時代の武家造りの仏間
三層(究竟頂)は禅宗仏殿風とし、仏舎利を安置する

・ 陸舟の松

義満手植えの松といい、盆栽から移し樹齢600年

大原宝泉院の五葉の松(近江富士)、善峰寺の遊竜の松とともに、京都三松の一つといわれる

・ 庭園

創建時、池の水は桂川から引き入れ、池の中央に葦原島(蓬莱島)をおき、夜泊石組、出亀島、入亀島、淡路島などがあり、その他細川石・赤松石・畠山石など大名寄進の石が配置  されている。
また九山八海石等を配し、池を浄土曼荼羅に描かれた七宝池に見立て、極楽浄土の様相を表そうとしている

・ 銀河泉

山畔の側面に浅い洞窟をうがち、水が滴り落ちている
義満がお茶の水に用いたといわれている

・ 巌下水

前後に大石を横に組み合わせ、左右の石のはざまから遣水が流れるようにし、石の間に溜まった水で手を洗うようになっている
寺伝では、義満手洗用の水と伝える

・ 竜門滝

北山殿当時は四十五尺におよぶ豪快な滝口であったが、今は往時の姿はなく、鯉の滝登りをあらわした「鯉魚石(水分石)」という石がある

・ 安民沢

池中に小さな中島があって、島中に「白蛇ノ塚」と称する石層塔を安置する
白蛇は古来、西園寺家の鎮守とされる

・ 夕佳亭

茶人金森宗和が後水尾法皇の臨幸にあたって作った茶室
三畳の席には南天の床柱や萩の違い棚があり、露地には富士形手水鉢、宗和形石灯篭、貴人搨がある

・ 拱北楼

義満の居間の旧跡と伝える
義満は、この北山殿に隠棲後もなお政務を聴き、威勢並びなく「北辰之居 其所、衆星拱之」といわれたのに因んで名付けた

・ 不動堂

明王院といい、俗に北山不動堂という
本尊石造不動明王像は、砂岩製、高さ1.7メートルの投身像で、鎌倉初期の作品と見られている
毎年二月の節分と八月十六日には、本尊石仏の特別開扉が行われる

【足利義満】

1358〜1408年室町幕府三代将軍。

生母は義詮の側室紀良子。

幼名 春王

通称 北山殿

法名 鹿苑院天山道義

従一位

准三后

太政大臣

1378年上京の北小路北・室町東の地に花の御所(北小路亭・室町殿)を造営。
 
明徳三年南北両朝合一を実現。祖父尊氏以来の内乱に終止符を打つ。

ついで土岐・山名・大内などの有力守護大名を討って幕府を確立、また公家社会にも威勢を張った。

1394年将軍職を退いて出家したが、太政大臣として実権をふるった。

菩提所は北区等持院。

【不可解な建築様式】

一層は寝殿造りで法水院
二層は武家造りで潮音洞
三層は中国風の禅宗仏殿造りで究竟頂と呼ばれる

一層目は白木造りで、二層三層が金箔なのはなぜなのか?
 
屋根の上の「鳳凰」は、平等院・金閣寺・銀閣寺等にしかないのはなぜか?

【お薦めの本
 
小学館文庫 - 『天皇になろうとした将軍』 井沢 元彦
 
中央公論社 - 『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』 横浜市立大学教授 今谷明

                 『金閣寺』 三島由紀夫

         『五番町夕霧楼』 水上勉  

【重要文化財】

大書院壁画 50面

子元祖元高峰顕日問答語

慈聖院井寿寧院遺誠

絹本着色足利義満像

絹本着色足利義満像(伝飛鳥井雅縁筆)

余談

北海道恵山町には実物大模型金閣あり。

 【金閣炎上】

1950年(昭和25年)7月2日午前三時ごろ、鹿苑寺は雨に包まれていた。
人々があわただしく走り回る物音で目覚めた当時十四歳の修行僧、江上泰山は、前日故郷の福井から父親に連れられ、戻った矢先だった。
外に出ると、国宝金閣が炎を上げて燃えていた。
消防車も十一台出動したが、山門が狭いため大型ポンプ車が境内に侵入できず、小型消防車が鏡湖池から水を吸い上げ放水するのがやっとだった。
火災報知器の故障が、発見を遅らせたという。

火は一時間近く燃え続け、建物は一、ニ層の骨格だけを残し全焼した。
また、国宝足利義満座像など仏像五体も焼いた。

鎮火後、庫裏玄関の広間で点呼をすると、大谷大学一年生、林養賢=当時(21)=がいなかった。
林の部屋には普段使っていた布団や蚊帳、机、本などが何もなく、これらのものはその後、焼け跡から見つかった。
林も同日午後七時ごろ、左大文字山山腹で昏睡状態のところを逮捕され、「マッチで放火後、自殺しようとカルモチン百錠を飲んだが、死に切れなかった」と語ったとい  う。

西陣署の取調べに対し林は「美に対する嫉妬と自分の環境が悪いのに金閣という美しいところに遊びに来る有閑的な人に対する反感からやった」と自供 した。

林の母親=志満子・当時(50)=は事情聴取を終え、帰郷途中の山陰線の保津橋を越えたあたりで列車から保津峡に身を投じた。
林も事件の六年後、刑期を終え入院した病院で肺結核のため死去した。

元京都新聞記者でフリーライターの高木好澄さんは
「美に対する嫉妬というのはマスコミの脚色。放火の本当の理由は別のところにある」と初めて胸のうちを明かす。

大谷大学予科の二年間、林と同級生だった。
当時は物も自由に買えない食料統制の時代。
貧富の差は学生の間で大きかった。
「同級生なのに裕福な寺の子弟には毎週、門徒さんが米、野菜、醤油、金銭を持ってくる。新しい制服や靴が何着もある。
 なのに、われわれは仕送りもなく、ぼろぼろの生活でした」
事件の二ヶ月前のある日、林ら四、五人の学友と車座になって話した。
舞鶴市安岡町成生の西徳寺の出身で、母子家庭でもあった林の話は一番先鋭的だったという。
林はいつもの持論をぶった。
「こういう不平等な社会なのに、寺が大寺院や大教団をつくり、世の中の差別を助長しているのはけしからん。
人類は根本的にやりなおさなあかん。そのためには、大衆から遊離している大寺院は焼いてなくしてしまったほうがいいんだ」と。

現在、金閣(鹿苑寺)への年間参拝者は200万人といわれる。

■ 室町将軍一覧 ■
足利 尊氏  1 代 1338〜1358年 五十一歳を以って急逝
    義詮  2 1358〜1367年 居館は三条坊門万里小路第
    義満  3 1368〜1394年 鹿苑寺(金閣寺)造営
    義持  4 1394〜1423年 日明貿易中止
    義量  5 1423〜1425年 酒色におぼれ十九歳で病没
    義持 1425〜1428年 幕府史上初の将軍空位のうちに没す
    義教  6 1429〜1441年 のち天台座主となる
    義勝  7 1442〜1443年 九歳で将軍職につくも翌年疫病で病没
    義政  8 1449〜1473年 東山山荘(のちの銀閣寺)造営
    義尚  9 1473〜1489年 「樵談治要」は諮問に答えて執筆した
    義稙  10 1490〜1493年 「島の公方」
    義澄  11 1494〜1508年 近江の岡山で没す
    義稙 1508〜1521年 俗に「島の公方」
    義晴  12 1521〜1546年 近江穴太の山中で病没
    義輝  13 1546〜1565年 ヴィレラの京都布教を公認する
    義栄  14 1568年 阿波に逃れ病没
    義昭  15 1568〜1573年 信長により河内の若江に追放される

北区・等持院には歴代将軍の座像があります。

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慈照寺(銀閣)

山号 - 東山 
開基 - 夢窓疎石
宗派 - 臨済宗相国寺派

【歴史】

室町時代の文明年間(1469〜87)、将軍職をゆずった足利義政が、晩年この地に隠棲し、もっぱら風流の遊興、清雅の韻事に努め、わが国美術史上に東山時代と称せられる一時代をつくった東山殿の後身である。

これよりさき、義政は寛正六年(1465)南禅寺塔頭恵雲院の地に山荘の造営を計画したが、応仁の乱の勃発によってとりやめ、乱後の文明十四年(1482)浄土寺の旧地にあたるところをえらんで着工し、翌年常御所ができると早速移り住んだ。
次いで禅室(西指庵)、山上亭(超然亭)、持佛堂(東求堂)、会所、泉殿(弄清亭)、竹亭(漱鮮亭)等が完成し、もっともおくれて長享三年(1489)に観音堂(銀閣)の立柱が行われた。

造営に当たっては、横川景三を主とする相国寺の禅僧達が相談相手となり、作庭に関しては善阿弥、障壁画や襖絵の制作には絵師小栗宗湛・狩野正信、殿内諸所に掲げる扁額の制作には彫刻の弥次郎等、当代一流の人々があたった。

その経費の調達は、主として守護大名に割り当て、その領国に段銭をかけて上納させ、また公家・寺家からも普請料を徴収する等によってととのえられた。

義政の東山殿での生活は、僅か七年足らずの短い期間であったが、多くの同朋衆や護持僧たちに囲まれた芸術三昧な生活を過ごした。
 「わが庵は月待山の麓にて傾むく月の影をしぞ思う」
と詠んだのは、丁度その頃の詠歌であるが、満ち足りた生活の中にあっても、足利家の行く末に一抹の不安を抱いていた事は被い隠す事はできない。
果たせるかな、間もなく長享三年(1489)春三月、近江の陣中で一子義尚が陣没するという予期しなかった不幸があって、義政をいたく落胆せしめた。その悲しみは
 「埋木の朽ちはつべきは残りて若枝の花の散るぞ悲しき」 と詠んでいることでも知られる。

寺伝ニよれば、義政はその年の新盆を迎えるにあたり、義尚の菩提を弔うため、横川景三の進言により、家臣の芳賀掃部に命じて、如意ケ嶽の山面に「大」の字形の火床を掘らせ、盂蘭盆の八月十六日の夜に点火し、年若くして没した義尚の精霊を送ったという。
『蔭涼軒目録』等、当時の記録にはないので、この説をただちに信じるわけにはゆかない。
間もなくその年の秋十月頃から中風を患い、翌延徳二年(1490)正月七日の午過ぎ、にわかに危篤となり、義尚の後を追うようにして五十六歳の波瀾の生涯を閉じた。

没後、遺言によって寺となし、夢窓国師を勧請開山とし、義政の法号慈照院殿に因んで慈照寺と号した。
初代住持は相国寺の宝処和尚が任ぜられた。
それより歴代の住持は相国寺から入寺し、保存管理にあたった。
天文十九年(1550)五月には前将軍義晴の葬儀が、先例を破って行われた事があり、その頃までは義政在世中とあまり変らなかったようであるが、その後の天文・永録の兵火ニ罹災し、銀閣と東求堂だけを残して、伽藍および義政遺愛の幾多の名宝・珍器を焼失した。
名園もただ一面の白砂に埋まり、道行く人に境内が見えるというほどの荒れ様であった。
慶長ニ十年(1615)当寺の檀越宮城丹波守豊盛によって池の掃除が行われ、寛永十六年(1639)にはその孫豊嗣が寺の復旧につとめた。
現在の方丈・庫裡・総門等は、江戸時代になって新造されたものである。

【本堂】 江戸

方丈を兼ね、中門や方丈玄関の唐門とともに寛永年間(1624〜44)の再建である。
内部は仏間を中心にして六室からなり、各室を仕切る襖障子には与謝蕪村筆の「樹下人物図」「山水図」および「棕櫚に鴉図」、池大雅筆の「琴棋書画図」が描かれ、簡素な建物とよく合致している。

【東求堂】 国宝・室町

その名の起こりは「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」の法語から出転して名付けたといわれ、義政の西方極楽浄土への願望が現れている。
内部は前後左右の四室からなり、前部左側は仏間とし、床は拭板敷、天井は折上小組格天井に仕上げ、中央須弥檀上には本尊阿弥陀如来立像、左方の脇仏壇上には足利義政法体の等身座像(室町)を安置する。

同仁斎は東北隅にある四畳半の室をいう。
義政の書斎であるとともに、また書籍や文房具・茶道具類の飾り座敷でもあった。
義政はここで唐宋の名画・和漢の名器を集め、愛玩観賞し、能阿弥らの同朋衆に命じて「東山御物」をえらばせた。
故に床がないのはそのためであって、初期書院造りの姿を伝える貴重な遺構であるといわれるゆえんである。
しかし、時によっては村田珠光を招き、いわゆる侘びの茶の湯を試みた事もあったであろう。
たまたま四畳半であることから、四畳半茶室の元祖のごとくに伝承されたのは無理もない。
なお西面の側壁に設けられた腰掛(西向床)は、昭和三十九年(1964)解体修理の際に復元されたもので、大津櫪堂師筆の「隔簾」の扁額をかかげる。

【銀閣寺型手水鉢】 江戸

花崗岩製で袈裟型ともよばれる四角型の大きなもので、四方の側面を堅横いろいろの線条で、市松模様に飾っている。
普通、袈裟型というのは、石造多宝塔身の古物を利用したものか、またはその模造をいうのであるが、これは全く斬新な意匠で、数奇者に好まれている。

【弄清亭】

もと泉殿といい、義政聞香の間であった。
明治二十八年(1895)に再建され、毎年正月七日の義政の命日には、茶人達が集まって献茶が行われる。

【銀閣(観音堂)】 国宝・室町

下層を心空殿といい、東側正面に吹放しの縁を設け、内部の床は拭板敷、天井は吹寄格天井につくり、外側は腰高障子を立てた住宅風としている。
その奥の間には須弥檀を設け、千体地蔵像が安置されている。
上層は潮音閣といい、三間四方の仏殿で、観音像を安置する。外側四方に高欄付きの縁をめぐらし、桟唐戸と火(花)頭窓を配置し、内外ともに黒漆塗で仕上げられているところは禅宗仏殿風で、意匠は北山の金閣とよく似ている。
これがため、江戸時代になって金閣に対して銀閣と呼ばれるに至ったが、義政は西芳寺の瑠璃殿をまね、あくまで観音堂として建てたものであり、これを参禅の室とするつもりであったが、竣工をみずに没した。
従って銀箔で仕上げる予定であったかどうかは、分らない。

【庭園】 史名・室町

夢窓国師の作った西芳寺(苔寺)の庭を範とし、畿内の多くの名園より庭石や庭樹を徴発し、当時作庭の名手といわれた善阿弥によってつくらしめた。
従って本庭は西芳寺の庭と同じく、上下二段の庭からなっている。

上段の庭は昭和六年(1931)に発掘された庭園で、山に囲まれた東北隅にお茶の水といわれる湧き水の石組みがあり、その泉の流れにのぞんで漱蘚亭の疎石がある。
この湧き水は西芳寺の「竜淵水」にあたる東山殿の遺構の一つで、「相君泉」と称する。

下段の庭は錦鏡池を主体とする池泉廻遊式の庭園になっている。
池は東西の二つに分かち、池畔には作庭に協力した守護大名たちの名をつけた大小さまざまの石がたてられている。

この庭は義政がもっとも力をそそいでつくったものであるが、惜しくもその後の兵燹にかかって荒廃するに至った。
元和元年(1615)宮城丹波守豊盛によって修復されたが、このとき旧態を損じるところもあるが、東求堂前の中島(白鶴島)を中心とする付近から、洗月泉の滝付近に至る石組みは余り変化はなく、義政在世当時の手法をそのままつたえている。

【銀沙灘・向月台】

本堂前の盛砂をいう。
銀沙灘は白砂を壇状につくり、表面に直線の縞文様をつけているのに対し、向月台は白砂を円錐状に盛り上げ、頂部を水平にならしている。
中国の西湖を模し、月待山にのぼる月の美を賞するためにつくられたといわれるが、江戸時代の作である。

*月の光がこれほど似合うお寺・庭はほかではお目にかかる事はできないと思います*

乱世を烈風のごとく生きた日野富子はいずれ「人物」のコーナーに書きます。
 

銀閣寺、銀箔なかった  科学の目 通説裏付ける 2007.01.05

世界文化遺産・銀閣寺(慈照寺、京都市左京区)には銀箔(ぎんぱく)がまったく使われていないことが、お寺の初めての科学的調査で確認された。金箔が豪華に張られた金閣寺(北区)と違い、漆塗りの建物だったことで通説を裏付けたかたちとなったが、お寺は「銀箔がなくても銀閣の価値は変わらない」としている。 

調査は国宝・銀閣(観音殿)の二層外壁のうち、表面のすり減り具合の顕著な部分を大規模な修理の行われた大正時代以前のものと判断。その部分から試料を採取して行われた。エックス線による元素分析とICP/MS(誘導結合プラズマ質量分析法)と呼ばれるごく微量の元素でも検出できる分析法を用いたが、銀は検出されなかった。 

銀閣寺は室町幕府の足利義政(1436-90)が造営した山荘の東山殿を義政の死後、禅寺に改めて現在に至っている。銀閣はこけらぶき二層の楼閣建築で、数度の修理を経て、創建当時の姿をとどめている。 

「銀閣」の通称は江戸時代以降に使われ始めたといわれる。金閣に対する呼び方、あるいは池の反射光が漆塗りの外壁に映ったことからそう呼ばれたというのが通説となっている。幕府の財政難や完成直前に義政が死去したために銀箔が張られなかったともいわれ、一部では実際に銀箔が張られていたという説もある。 

今回の調査結果に、坂根孝慈執事長は「これで銀箔がなかったことが確定した。東山文化は幽玄やわびさびの美意識の枯淡美(こたんび)を基調としている。たとえ銀箔が使われていなくても、銀閣の価値はまったく変わらない」と話している。

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蓮華王院(三十三間堂)

山号  - なし 
開基  - 後白河上皇
宗派   - 天台宗
妙法院の境外仏堂

・ 【歴史

当院は後白河上皇が長寛二年(1164)法住寺御所内に一宇の仏堂を建立し、一千一体の千手千眼観音像を安置し、蓮華王院と称せられたのを起こりとする。

俗に三十三間堂と称するのは、堂内内陣の柱間が三十三間あることによるもであり、また観音の慈悲が三十三相に示現するという経旨によったものである。

造営には平清盛が当たった。
彼は、この功により播磨守となり、その子重盛は正三位に昇叙された。
これよりさき天承二年(1132)清盛の父忠盛は洛東白川の地に鳥羽上皇御願の得長寿院を造進し、平氏興隆のもとを築いたが、かかる由縁から清盛もまたその邸宅六波羅の南に隣るこの地に千体観音堂を造進し、後鳥羽上皇との結びつきをさらに強固なものにしようと図ったのであろう。

次いで承安四年(1174)五重塔が竣工し、さらにその周辺に不動堂や宝蔵・北斗堂・鎮守社等、多くの堂塔が建立された。
寿永二年(1183)の法住寺殿焼き討ちの際には被害を免れたが、建長元年(1249)三月二十三日の市中大火には鴨川をへだてて当院にまで延焼し仏像の一部を除いて建物は総て焼失した。

九条道家を中心としてただちに再建に着手され、十七年後の文永三年(1266)に竣工した。
四月二十七日の落慶供養には亀山天皇をはじめ後嵯峨・後深草両上皇および、大宮院(後嵯峨中宮)が臨幸され、「諸司百官残るなし」(増鏡第七)といわれるほどの盛儀であった。
これが現在の蓮華王院本堂である。

この建物はその後の南北朝の戦乱や応仁の兵火に罹災することもなく、多数の仏像とともに今日までよく維持管理されてきた。

近世の人形浄瑠璃や歌舞伎の「三十三間堂、棟由来」によって新しい息吹を得、早くから京都屈指の観光寺院として全国の人々に親しまれてきた。

・ 【本堂】(国宝・鎌倉)

東を正面とする長大な建物で、長さの点ではわが国随一である。
その特色は屋根の軒は深く、周囲に広い縁をめぐらし、正面は総て板扉・明障子とし、明けるとほのかな明かりのなかに千体観音像が拝せるようになっている。
これに反して側面および背面は多く連子窓とし、所々に板扉を設けて出入りに備え、正面とはまったく違った感じを呈していることであろう。

内部は中央三間を本尊安置の場所とし、その天上は折上小組格天上としている。
但し左右十五間ずつは天井を張らずに化粧屋根裏とし、前後の柱間に大きな虹梁を二重に架け、板蟇股をのせている。
外陣もおなじく二段の繋虹梁を架け渡し、そのあいだに蟇股を入れ、天井は張らずに化粧屋根裏とし、前代からの和洋建築の手法を踏襲している。
もとは堂内一帯に極彩色の装飾文様がほどこされていたが、今はほとんど剥落し、わずかに化粧屋根裏のタルキや裏板にその痕跡をとどめているにすぎない。

・ 【本尊千手観音座像】(国宝・鎌倉)

像高3.35メートル、寄木造り、金箔押し、背後に雲焔と唐草造彫とし、表面に観音の三十三変化身を配した光背を負い、八角九重の蓮華座上に安置されている。
頭上の天蓋は中央にみごとな大蓮華文を彫り、まわりに飛雲を配し、外縁には八方に吹き返しの飾りをつけ、雲形彫刻で埋め尽くしている。

作者は鎌倉時代の代表的な仏師湛慶で八十二歳の時の作品で、建長三年(1251)から三年半ついやして建立した。

・ 【千体千手観音立像】(重文・平安 - 鎌倉)

十級の階段上に各五十体ずつ、合わせて一千体の観音像。
像高は1.65メートル前後、頭上に十一面と四十二の手をもち、頭の後ろから七方に射光を出す。
この中には建長時の火災を免れたもの百二十四体、残りの八百七十六体は建長三年(1251)から文永三年(1266)に至る十六年間の造像といわれ、湛慶以下多くの仏師によってつくられたことが、その足柄や腕の付け根に記された銘文によって判明している。
玉眼を入れたのは五体でそれ以外は彫眼である。

・ 【風神・雷神像】(国宝・鎌倉)

寄木造り、玉眼入り、極彩色の等身像で、風神は大きな風袋を背負い、雷神は背に太鼓を背負って手にばちをもつ。
その彫法はきわめて写実性に富み、風貌怪奇のなかにあって一抹の軽妙洒脱さを覚える。

・ 【二十八部衆立像】(国宝・鎌倉)

いずれも寄木造り、玉眼入り、極彩色の等身像。
二十八部衆とは、風神・雷神とともに千手観音を守護する眷属をいい、帝釈天、大弁功徳天、毘沙門天は別として、一般にはなじみの少ない護法神からなっている。

・ 【南大門】(重門・桃山)

切妻造り、本瓦葺、三間一戸の巨大な八脚門で、中央一間を出入り口とし、左右に板扉をはめ込み、梁や貫の上には桃山時代特有のみごとな花鳥禽獣をあしらった蟇股があり、側面の妻飾りにも桃山らしい豪快な気宇が見られる。
長さ93メートル、高さ5.3メートル。

この門は豊臣秀吉が大仏殿方向寺の建立に当たって蓮華王院を方向寺の一院(千手堂)として加えた際、西大門とともに建立されたといわれるが昭和二十九年(1954)修理の折り、慶長五年(1600)秀頼の建立であることが判明した。

・ 【築地塀(太閤塀)】(重門・桃山)

屋根は本丸瓦。丸瓦や平瓦には桐の紋ががついているので、俗に太閤塀という。
この土塀はもと西面にあったが、今は失われている。

・ 【通し矢】

むかし本堂の西側の縁上(縁上南端に座し、縁の北端に向かって矢を射る)で矢を飛ばし、矢数によってその優劣を競った競技をいい、的に当たるのが主眼ではない。
その起こりは諸説あって明らかにしないが、通説では今熊野観音寺の別当梅坊(一説に梛坊)は射芸をたしなみ、東山八坂の青塚(高台寺の西野にあった古墳)の的場に通っていたが、ある日、三十三間堂に立ち寄って休息中、こころみに矢を放ったのが起こりといわれる。
記録の上では慶長十一年(1606)正月十八日、浅岡平兵衛が五十一本の通し矢をおこなったことが明らかになっているので、あるいはそれ以前からすでにおこなわれていたものと考えられる。

通し矢は毎年四・五月の日の長い晴れた日をえらび、百射・千射または日矢数等、おのおの意に任せておこなった。
昼間のみ射るのを小矢数といい、暮れ六つ(午後六時頃)より二十四時間ぶつづけで行うのを大矢数と称した。
大矢数の場合は大篝火を焚き、検証(通し矢の役人に堂見と検見があり、堂見は六人、弓術六流から一流毎に一人づつを出した。
但し当日勤務は二人とし、射手と同流の者一人、他流の者一人であった。検見(記録に証判する役)は一人で、妙法院坊官(寺役人)松井三河がつとめた)の役人が立ち並び、非常警固の火消し役は纏をふり立て、そのさまはすこぶる厳重をきわめた。
これを見んために集まった人々は堂の西の芝生の上に結われた竹矢来の外にあって、武士は桟敷、庶民は土間に座してこれを見物し、「五百本」の幟が立つ毎に拍手喝采をおこなった。

その最も盛んであったのは寛文から貞享年間(1661 - 88)であった。
尾州の家臣星野勘左衛門は六千六百余本の通し矢を射って「天下一」または「惣一」となったが、寛文八年(1668)紀州の家臣葛西西園右衛門が矢数九千本、通し矢七千本余りを射って「惣一」を奪った。
これを聞いた星野は翌九年(1669)国元から八千の幟を染めて捲土重来し、五月一日の夕刻より翌二日の昼頃までに総矢数一万五百四十二本、通し矢八千八本を射り、葛西の記録をみごとに打ち破った。
「翁草」によれば、星野は終わってからのち京都所司代や町奉行所等へ挨拶回りをし、それより馬首を島原遊里に差し向け、ここで徹宵痛飲した。
その精力絶倫さには京童も矢数以上に驚いたという。

それより十余年間、「惣一」は尾州藩によって保持されてきたが、貞享三年(1686)紀州の家臣和佐大八郎が総矢数一万三千五十三本(一昼夜で射るということは一分間で九本射ることになる)を射って新記録を立て、永久に記録保持者となった。
この時、大八郎は年齢十八、九歳、前髪立の若衆姿で・肩衣をぬぎ、白衣姿で射ったという。
公認記録は額にして本堂の長押の上に掲げ、破られた記録の額は撤去するのを例とした。

この通し矢はその後、天保十三年(1842)四月、京都所司代の勤番侍、石崎長久が矢数六千百本、通し矢四千四百五十七本を射って「天下一」をとったが、明治二十八年(1895)五月、石崎の高弟若林素行の通し矢四千四百五十七本を以って最後とし、以後中絶するに至った。

・ 【夜泣地蔵】

本堂の北に安置する石造り大日如来座像(江戸)をいい、もと本堂の正面東の井戸のそばにあった。
この井戸は夜な夜な震動して鳴くので、夜泣泉とよばれた。
あるときそばに地蔵尊を安置したところ、泣き声が止んだというので夜泣地蔵とよばれ、小児の夜泣き止め祈願の信仰が生まれた。

・ 【楊枝浄水供】

『因幡堂縁起』によれば、後白河法皇は常に頭痛に悩まされ、八方医術を尽くしても一向に効果がなかった。
あるとき紀州熊野に御幸し、権現に平癒を祈られたところ、夢の告げに洛陽因幡堂の薬師に祈れとあったので、因幡堂に参篭された。
満願の夜、一人の貴僧が現れていうには、法皇の前世は熊野にあった蓮華坊といい、全国を行脚して仏道を修行した人である。
その功よって今は帝位についているが、前世の髑髏は今なお紀伊の岩田川の水底に沈み、その頭に柳の木が貫き生え、風に柳の揺れ動くたびに今の身にこたえるのだ。
急ぎその頭を取り上げればこの苦しみも免れるであろうといい、香水を法皇の頭に注ぐのをおぼえて目がさめた。
法皇はさっそく人をして川底を探索せしめられたところ、果たして川底より髑髏を得たので、これを観音像の頭部に納め、三十三間堂を建立し、前身の蓮華坊の名をとって蓮華王院と名付けられた。
またかの柳の木は伐りとって堂の材料に用いられたという。

【余談】

一昼夜の速吟を競う矢数俳諧も、本寺の通し矢にならったもので、井原西鶴が1684年の住吉神社(大阪市住吉区)での二万三千句で覇権を握った。

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清水寺

山号 - 音羽山
開基  - 延鎮上人
宗派  - 北法相宗大本山
西国三十三カ所霊場第16番

・ 【歴史】

音羽山観音寺と号し、清水寺とは俗称である。

寺伝によれば、光仁天皇の宝亀九年(778)大和国子島寺の僧延鎮は夢告によって木津川の流れをさかのぼるに金色の水の流れる一支流があり、その源を尋ねて山中に入ると滝の下に達した。
滝の傍らに草庵があって、白衣の老翁が座していた。
延鎮が尋ねると、わが名は行叡といい、ここに住むこと二百年余り、常に千手観音の神呪をとなえ、汝の来るのを待つこと久しい。
自分はこれから東国へ行くが、汝は代わりにここに住み、楓の木で観音像を刻み、寺を建てるがよいと告げて飄然と去った。
しかし、資力のない延鎮は空しく日を送っていたが、延暦十七年(798)、鎮守府将軍坂上田村麿が遊猟にきて延鎮に逢い、病妻のために加持祈祷を請うた。
その結果、妻の病気が平癒したので、田村麿は感激して自宅を喜捨し、大同ニ年(807)伽藍を造営した。
これが清水寺の起こりとつたえる。
その後、弘仁元年(810)に国家鎮護の道場となり、田村麿の子孫を寺家職に、延鎮の門徒を寺司に定められたとつたえるが、正史にはなく、坂上氏の私寺として存在していたものであろう。

当寺の史上に於ける初見は、村上天皇の天徳三年(958)三月十三日に祇園感神院(八坂神社)と清水寺の衆徒が争いを起こし、検非違使がこれを制止したという『日本紀略』の記事による。
感神院は延暦寺の別院として衆徒が立ち籠り、清水寺は南都興福寺の末寺として衆徒の占領するところであったから、当寺はつねに南都北嶺の最前線となり、しばしば兵火の災厄を蒙った。
それにもかかわらず、その都度再建されたのは、藤原時代にはじまった三十三ヶ所観音霊場の第十六番となり、奈良の長谷寺、近江の石山寺とならぶ観音の霊場と崇められたからであろう。
清少納言をはじめ『更級日記』の作者など、多くの人々が当寺に参篭し、観音に祈誓したことは、あらたかな観音霊験譚とともに王朝時代の古典文学に幾多紹介されている。
現在の伽藍は寛永年間(1624 − 44)徳川家光によってさいけんされたものが多いが、国宝の本堂、重要文化財の建物十六宇を数え、その壮大にして美しいたたずまいは観音の信仰とともに霊場として、今なお庶民に信仰されている。

・ 【仁王門】(重文 室町)

三間一戸、入母屋造り、桧皮葺。
左右に安置する仁王像(鎌倉)は京都における現存仁王像中ではもっとも大きい。

・ 【馬駐】(重文 室町)

馬5頭がつなげるようになっている。
むかし貴紳が参詣のとき、ここに馬を駐めておいたところで、厩の遺構としてはわが国最古である。
因みに鐶が二箇所逆についていることで、清水寺の七不思議の一つとなっている。

・ 【鐘楼】(重文 桃山)

慶長十二年(1607)の建築で、桃山時代後期の華麗な装飾彫刻がついている。
銅鐘(室町)は文明十年(1478)大工国久のつくった陽鋳銘があり、撞座の蓮華文や唐草・独鈷文を鋳飾模様に優れたところがみられる。

・ 【随求堂】

慈心院ともいい、本尊は衆生の求願に随って救済されるという随求菩薩座像(江戸)を安置し、傍らの厨子内に毘沙門天立像(重文 藤原)と十一面観音立像(重文 平安)を収めているが、一般には拝観できない。

・ 【西門】(重文 江戸)

一見拝殿かと見まがうほどである。
寛永八年(1631)の建造といわれ、極彩色の天井や建築細部に桃山時代より江戸時代に移る過度期の跡がうかがえる。
後方両脇の間に持国天・増長天のニ天像(南北朝)を安置する。

・ 【三重塔】(重文 江戸)

寛永十年(1633)本堂とともに再建される。
大型で鈍重さを覚えるが、大体古様を帯びている。
内部は大日如来像を安置し、柱や天井には極彩色の装飾文様が施されている。

・ 【経堂(講堂)】(重文 江戸)

正面両側ともに蔀戸とし、落ちついた感じがする。
内部は須弥檀を設け、釈迦三尊を安置し、下陣に一切経を納める。

・ 【忠僕茶屋・舌切り茶屋】

東を忠僕茶屋
幕末の頃、当寺の住職であった勤皇僧月照上人の下僕重助が、月照の追福を祈るかたわら、ここに茶店を営み、余生を送ったところである。

西を舌切り茶屋
当寺の寺侍で、月照を庇い、六角の獄舎で舌をかんで自害した近藤正慎の営む茶をいい、いずれも維新史の悲話として知られる。

この話は、いずれ別のコーナーで詳しく書くつもりです。

・ 【開山堂(田村堂)】(重文 江戸)

堂内には坂上田村麿および行叡居士(室町)・延鎮僧都(室町)等の諸像を安置する。

・ 【中門(轟門)】(重文 江戸)

中央一間を通路とし、正面左右に持国天・広目天のニ像(藤原)を安置する。

・ 【轟橋】

この橋は清水寺の口を象り、橋板中央の木板は舌を、両側石段は歯を意味するといわれ、傍らの手洗水で口をゆすぐと歯痛・頭痛が治まるとつたえる。
手洗水は「梟の水」といい、珍しいのはその台石が宝篋印塔(鎌倉)の塔身を用い、四隅に梟のような鳥形を浮彫りにしていることである。
尚、私の記憶では、曼殊院と伏見の民家にある計三点だと思います。(違っていたらご免なさい)

・ 【朝倉堂】(重文 江戸)

永正七年(1510)越前の守護代、朝倉弾正貞景の寄進とつたえるが、今のは寛永十年(1633)の再建で、内部中央須弥檀上の厨子(重文 江戸)には十一面千手観音像を安置する。なお東側に釈迦の足跡の文様を刻んだ仏足石があり、一に「景清足形石」ともいう。

・ 【本堂】(国宝 江戸)

寄棟造り、桧皮葺の屋根をした宸殿造り風の優美な建物を中心とし、左右と前後の三方に裳階をつけ、前方左右に翼廊を出し、翼廊のあいだは板張りの舞台とし、舞台の下は数十尺の長材を縦横に組み合わせた束柱にささえられ、断崖上に架かっている。
田村麿が長岡京の紫宸殿を賜って本堂としたといわれ、今のは寛永十年(1633)の再建であるが、平安時代以来の形式を踏襲している。

【立願】

江戸期の庶民信仰 願いがかなう? 江戸時代、多くの庶民が願をかけて飛び降りた清水の舞台
「清水の舞台」からの飛び降り事件は、江戸時代に計234件にのぼっていたことが、清水寺の古文書調査で、このほど分かった。
ことわざ通り「飛び降り」が頻繁に起きていたことが実証されたが、時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。
調査は、清水寺塔頭の成就院が記録した文書「成就院日記」から、飛び降り事件に関する記述を抜き出してまとめた。
記録は江戸前期・元禄七(1694)年から幕末の元治元(1864)年までだが、間に記録が抜けている分もあり、実際は148年分の記述が残っていた。
調査によると、この間の飛び降り事件は未遂も含め234件が発生した。年間平均は1.6件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では424件になる計算という。男女比は7対3、最年少は12歳、最年長は80歳代。年齢別では10代、20代が約73パーセントを占めた。
清水の舞台の高さは13メートルもあるが、生存率は85.4パーセントと高い。10代、20代に限れば90パーセントを超す。
60歳以上では6人全員が死亡している。
京都の人がが最も多いが、東は現在の福島や新潟、西は山口や愛媛にまで及んでいる。
門前町の人らが相次ぐ飛び降り事件に耐えかね、舞台にさくを設けるなど対策を成就院に嘆願したという記録も残る。
明治五(1872)年、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。

お寺では「ことわざがなぜ生まれ、現実はどうだったのかという関心から調査を始めた。
江戸時代に庶民の間で観音信仰が広まり、清水観音に命を託し、飛び降りて助かれば願い事がかない、死んでも成仏できるという信仰から、飛び降り事件が続いたのだろう」と話している。
 

堂内は本尊を安置する内々陣、さらに内陣、外陣に分れ、内々陣の須弥檀上には三基の厨子(国宝 江戸)があり、中央に本尊十一面千手観音立像、右に勝敵毘沙門天像、左に将軍地蔵像を安置し、厨子の両側に二十八部衆と風神および雷神、計三十体(室町〜江戸)の天部形の諸像が祀られている。
このうち本尊は古来秘仏としてみることはできないが、両手を頭上に高く差上げ、如来形の化仏一体をささげる容姿といわれ(世にこれを「清水型」と称す)、外陣の欄間にかかげる懸仏(一般に「お前立ち」と称す)によって知ることができる。

なお外陣の長押の上には諸願成就を祈って奉納された多くの絵馬があり、なかでも朱印船絵額三面(重文 江戸)は、美術史上貴重な資料とされている。

・ 【釈迦堂】(重文 江戸)

釈迦如来座像(藤原)を安置する。
今の建物は昭和四十七年(1972)七月、山崩れによって倒壊後の再建である。

・ 【阿弥陀堂】(重文 江戸)

もとは滝上寺と称し、文治四年(1188)五月、法然上人が不断常行念仏三昧をはじめたところといわれ、堂内には本尊丈六阿弥陀坐像(江戸)と脇侍伝観音・伝勢至(重文 鎌倉)および法然像を安置する。

・ 【奥の院】(重文 江戸)

別名、千手堂ともいう。

僧延鎮の住房址といわれ、十一面観音像を安置する。

・ 【音羽ノ滝】

水源は背後の音羽山中より流出。
むかしは諸病に効くとてこの水を汲んで持ち帰ったといわれ、今なおこの滝に祈願するものが多く、滝の前には垢離堂が設けられている。

因みに、清水寺の名の起こりは、この滝に因る。

・ 【錦雲溪】

音羽川流域の渓谷を称する。
もとは桜樹が多く、洛東第一の桜の名所であった。

・ 【子安の塔】

錦雲渓をへだてて本堂と相対する南谷の丘上にある。
三十塔(重文 江戸)で、泰産寺と号し、千手観音像を安置する。

寺伝によれば、光明皇后は当観音に祈って孝謙天皇を安産され、その報恩のために建てられたという。
一説に桓武天皇の宮人坂上春子(田村麿女)の本願にて、皇子葛井親王の生誕を報賽して建立されたものであるといわれる。
かかる縁起により、後世女人の安産祈願の信仰がうまれ、世に子安観音とあがめられ、洛陽観音第十四番札所となった。

・ 【成就院】

清水寺の本坊。

文明年間の創立で、勤皇僧月照の住房として知られ、門前に月照・信海両上人の記念碑がある。

<庭園>(名勝 江戸)

谷をへだてて霊鷲山を借景とする池泉廻遊兼観賞式で、池中に鶴亀のニ島をつくり、背後に二重の籬をめぐらす。
もとここには赤松義則の邸宅があったとつたえ、東西に広く、北部が狭いのは室町時代以来の地割を利用したことを示している。
『都林泉名所図会』には、相阿弥の作、小堀遠州の修理と述べているが、作者は明らかでない。
江戸初期に遠州系の誰かが、室町時代の庭園の地割を利用して作庭したものであろう。

庭内には灯籠や手水鉢など石造美術品が多く、なかでも豊公寄進とつたえる「誰が袖手水鉢」は書院の縁先にあり、瀬戸内海の大島産の自然石からなっている。

・ 【景清爪形観音】

随求堂の前。

悪七兵衛景清が爪で彫刻したという線彫りの小さな観音像で、景清の足形石(仏足石)とともに清水寺七不思議の一に数えられている。

・ 【鹿間塚】

寺伝によれば、坂上田村麿は懐妊せる夫人のために鹿の胎児を求め、音羽山中へ鹿狩りにきて僧延鎮に遇い、殺生によって安産を得ようとすることの非を論され、獲りとった鹿をここに埋葬したと伝える。
一説に延鎮は田村麿の帰依により、この地に伽藍を営もうとしたが、山中嶮岨にして尺地もなかったところ、山神の鹿が現れ、一夜にして平地と化せしめたので、報恩のために鹿を埋めたのだともつたえる。

・ 【首ふり地蔵】

通称「善光寺」ともよばれる小堂の縁先にある。

これは地蔵ではなく、祇園の幇間の鳥羽八が生前に作り、生形見として奉納したものといわれる。
ところがこの首は三百六十度にうごかすことができるので、想う人の住む方向へ向けて祈願をすれば、願い事が叶うといわれ、いつしか待人祈願の信仰が生まれた。

清水寺の七不思議

・岸駒(がんく)の虎
仁王門の右下にある灯篭をみると虎の絵が刻まれている。
上京後まもなく有栖川家に仕えた江戸時代の画家岸駒が寄進したもの。
八方睨みの虎と伝わる。

・阿形の狛犬
狛犬は2体ともに「阿形」に口を開いている。

・カンカン貫(仁王門)
腰貫の端を指で叩くと、斜向かいの柱に伝わってカンカン音がすることから、カンカン貫と呼ばれる。

・龍の鬼瓦
三重の塔には文字通り鬼の瓦があるのだが、東南角のみ龍が巻きついている。
龍は雨を呼び、火を防ぐ守護神とされている。

・6本足の鐘楼
通常は4本

・平景清の足跡
本来は仏足石だが、源平の戦いで活躍した怪力男平景清の足跡とされる。

・梟の手水鉢
この水を含んで祈ると歯痛にご利益があると伝わる。

・轟橋
重要文化財の轟橋は水がないのにかかる橋。
板張り部は舌、石部分は歯に見立てられており、歯痛の人は渡ってはならないとされる。

・弁慶の指跡
本堂を一周するこの傷は弁慶の指跡とされている。
実際はお百度参りに来た参詣人達が手にしていた数取り串の跡らしい。

・爪彫りの観音
灯篭の中に線が見えるが、平景清が爪で観音様を彫ったと伝わる。

・弁慶の錫杖
大きい方は長さ2.6M重量96Kg、小錫杖は長さ1.76M重量17Kg。

・弁慶の鉄下駄
1足12Kgもの鉄の下駄。
男性がこの鉄下駄を触ると浮気をしなくなると伝わるが、、、。

▼ 余談

江戸期の庶民信仰 願いがかなう? 
 清水の舞台から飛び降り234件

 「清水の舞台」からの飛び降り事件は、江戸時代に計二百三十四件にのぼっていたことが、清水寺(京都市東山区)の学芸員横山正幸さん(77)による古文書調査で、このほど分かった。ことわざ通り「飛び降り」が頻繁に起きていたことが実証されたが、時代背景に「命をかけて飛び降りれば願いごとがかなう」という庶民の信仰があったという。

 調査は、清水寺塔頭の成就院が記録した文書「成就院日記」から、飛び降り事件に関する記述を抜き出してまとめた。記録は江戸前期・元禄七(一六九四)年から幕末の元治元(一八六四)年までだが、間に記録が抜けている分もあり、実際は百四十八年分の記述が残っていた。

 調査によると、この間の飛び降り事件は未遂も含め二百三十四件が発生した。年間平均は一・六件。記録のない時期も発生率が同じと仮定すると、江戸時代全体では四百二十四件になる計算という。

 男女比は七対三、最年少は十二歳、最年長は八十歳代。年齢別では十代、二十代が約七三パーセントを占めた。

 清水の舞台の高さは十三メートルもあるが、生存率は八五・四パーセントと高い。十代、二十代に限れば九〇パーセントを超す。六十歳以上では六人全員が死亡している。京都の人がが最も多いが、東は現在の福島や新潟、西は山口や愛媛にまで及んでいる。

 門前町の人らが相次ぐ飛び降り事件に耐えかね、舞台にさくを設けるなど対策を成就院に嘆願したという記録も残る。明治五(一八七二)年、政府が飛び降り禁止令を出し、下火になったという。

 横山学芸員は「ことわざがなぜ生まれ、現実はどうだったのかという関心から調査を始めた。江戸時代に庶民の間で観音信仰が広まり、清水観音に命を託し、飛び降りて助かれば願い事がかない、死んでも成仏できるという信仰から、飛び降り事件が続いたのだろう」と話している。

 調査結果は「実録『清水の舞台より飛び落ちる』」として自費出版した。問い合わせは清水寺事務局 電話075(551)1234へ。

・ 【地主神社】

大己貴命ほか四柱を祀る旧郷社である。

八坂神社とともに東山方面における古社の一であるが、その創祀年代を明らかにしない。
おそらく愛宕郡八坂郷の産土神として、この地の先住民から崇敬されていたのが、清水寺の創建によって寺の地主神とされてしまったものであろう。
天禄三年(972)の臨時祭に円融天皇が行幸されたことから、鎮座の古いことが察せられる。
延喜の式外社であるが、むかしは氏子区域もひろく、鴨川の西にまでおよび、祭礼も盛大をきわめた。
もとは地主権現と称したが、明治の神仏分離によって独立し、今の名に改めた。
境内には古来桜樹が多く、世に地主桜として名高い。

・ 【本殿】(重文 江戸)

寛永十年(1633)徳川家光によって再建されたが、建築の細部にわたって桃山風の名残をみせる華麗な建物である。

・ 【拝殿】(重文 江戸)

天井には狩野元信筆とつたえる画竜が描かれている。

・ 【総門】(重文 江戸)

屋根の反りが大きく、鬼瓦が大きいため、やや重厚さを覚える。

・ 【めくら石】

本殿前にある左右二個の守護石をいう。
一方の石より他方の石へ眼を閉じて歩く事ができれば、諸願成就するといわれる。

・ 【地主桜】

境内の桜をいう。

古来「地主権現の花盛り」と謡曲「田村」や「熊野」にうたわれ、詩歌にも数多く詠まれた。
一に「車返しの桜」ともいい、明治維新前までは毎年花時にこの一枝を宮中に献上するならわしになっていた。

・ 【音羽山】

もとは清水寺の所有地であったが、明治初年に上地せしめられ、今は国有地となっている。
山科の音羽山、比叡山下の音羽山とともに古来和歌の歌枕となった名山である。

・ 【音羽川】

清水寺境内の南より五条通の南側に沿って西へ流れ、末は疎水(もとは鴨川)にそそいでいる。
現在は東大路より西は多く暗渠となり、その姿をみることはできない。

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平等院

山号 - 朝日山
開基  - 明尊
宗派  - 単立

朝日山と号し、もとは天台・浄土兼学であったが、今は天台浄土系の単立寺院となり、境内塔頭の最勝院と浄土院のニカ寺によって交互に管理されている。

平等院は関白藤原頼道通が父道長から伝領した別業(宇治院)をあらためて寺としたもので、永承七年(1052)に落慶供養が行われ、大日如来像を本尊とし、名も平等院と名づけ、翌年阿弥陀堂(鳳凰堂)が竣工した。

その後、右大臣師実・忠実、ことに頼通の女四条宮寛子(後冷泉皇后)らによって多宝塔をはじめ経蔵・鐘楼・法華堂・五大堂・不動堂・釣殿等、多くの伽藍が建立され、輪奐の美を誇ったが、藤原氏の衰微とともに寺運は次第に傾き、中世以降は相次ぐ兵火に犯されて諸堂の多くを焼失した。
今はわずかに阿弥陀堂と釣殿(観音堂)・鐘楼を残すにすぎないが、藤原氏の盛時をしのばせる多くの古文化財を有する点に於いて貴重な存在となっている。

・ 【鳳凰堂】 (国宝・平安)

境内の中央にあって、池を前にして東面する。
正しくは阿弥陀堂といい、天喜元年(1053)の建造で、創建当初の遺構というところに稀少価値がある。
さらにその特色は、中堂と左右翼廊および尾廊からなり、その形が鳳凰が両翼をひろげて飛び立とうとするようにみえるので、江戸時代から鳳凰堂の名が生じたが、また屋上の両端にかかげる青銅製の鳳凰によるものともいわれる。

中堂は、外廻に裳階をつて外観は重層建築に見える。
また正面中央の廂を一段と高くし、池を隔てて内部の本尊を正面から礼拝できるように工夫され、また軒の線にうつくしい変化を与えている。

翼廊は床下の高い切妻造りとし、楼閣は三間三面の宝形造りとしている。

入母屋・宝形・切妻の三種の屋根をかくも巧みにとり入れて外観の変化に富んだものとしては、塔婆に於て奈良薬師寺の三重塔、仏堂としては鳳凰堂とされている。

・ 【阿弥陀如来坐像】 (国宝・平安)

鳳凰堂の本尊として、仏師定朝によって作られた仏像である。
丈六の寄木造り、金箔押とし、上品上生印をむすんで八角九重の蓮華座上に結跏趺座する。
顔容は円満相好、姿態は流麗で、藤原時代の代表的な仏像である。

光背は二重円光と火炎透彫りの舟形飛天光とし、雲中に供養する天人像を図案化し、台座はまた金粉を散らした漆塗地の上に螺鈿をもって、宝相華文をはめ込んだ豪華なものとしているが、惜しくもいまは多く剥離している。

・ 【天蓋】 (国宝・平安)

天井の中央、本尊の頭上に吊るされている。
折上小組天井を張り、その中央に円形の花蓋があり、折上げの周囲には宝簾を吊し、その下に瓔珞を飾っている。
いずれも宝相華を透彫りとした金箔押の豪華なもので、堂内の雰囲気を華やかにしている。

・ 【雲中供養仏】 (国宝・平安)

周囲の長押の上の小壁にかかげる五十一体の小像をいう。
像は雲にのり、いろいろな楽器を奏し、中央の阿弥陀如来を供養する様をあらわしている。
木像彩色像であるが、いまは剥落し、後世の補作になるものが含まれる。

・ 【壁扉画】 (重文・平安)

周囲の扉や板壁に大和絵の筆致で、極彩色に描かれている。
いずれも仏説観無量寿経の所説にもとづく九品の阿弥陀来迎図を描写したもので、正面三間の扉には上品、向かって右側の扉には中品、左側には外品の来迎図を描いている。

九品の来迎とは、往生者が一生につみかさねた善根によって、極楽から阿弥陀如来が来迎するさまに上品上生から外品外生にいたる九種の区別があるといわれ、かかる経説にもとづいて各扉や壁に描いたものである。
いまは剥落汚損が甚だしくて見にくいところもあるが、優美な山水風景をとり入れて、来迎の法楽にみるものをして心よく酔わそうとつとめた筆者の努力がみられる。
また壁画の上方、色紙形のところには、源俊房または源兼行の筆と伝える美しい書体の経文が書かれている。

その他、柱・長押・天井など、あらゆる木部にわたって各種の文様が極彩色に描かれ、藤原美術独特の雰囲気をただよわせている。

・ 【石灯籠】 (重文・平安)

鳳凰堂の正面にある。
但し古いのは円形の基礎だけで、竿以上は鎌倉時代末期ごろの補作になる。
世に”平等院型”とよばれて、茶人の愛好するところで、基礎には優雅な蓮弁をきざみ、側面には形のよい格狭間をあらわしている。

・ 【庭園】 (史名・平安)

鳳凰堂の中島を中心とし、周囲に池をめぐらして浄域としていわゆる浄土式庭園で、他にもいくつかの島があったと思われるが、今は宇治川の築提等によって、原形をだいぶ失っている。
しかし、堂の前がゆるい曲汀を描いて、池に張り出していることや堂後の地割に作庭当初のおもかげがみとめられる。

* 現在、創建当時へ復元するための調査が行われており、十年以上の長期にわたり作業が行われています *

・ 【銅鐘】 (国宝・平安)

堂内の南の鐘楼にかかる。
高さ約ニメートル。
鐘身には天人・鳳凰・唐草文様などを浮彫りした縦横の帯によって、上下三段・左右四区に区分され、上段(乳の間)には、各区に四段七列の乳を配し、中段(池の間)には天人、下段(草の間)には獅子が浮彫りにされている。
古来、形は平等院、音は三井寺、銘は神護寺といわれ、わが国三名鐘の一つに数えられている。

・ 【観音堂(釣殿)】 (重文・鎌倉)

境内の北部にある。
内部は内陣・外陣にわかれ、内陣中央に本尊十一面観音立像(重文・平安)および地蔵菩薩立像(平安)・不動明王像(平安)を安置する。
もと釣殿であったのを、のちに観音堂に改めたとつたえる。

・ 【扇の芝】

観音堂の北側にある三角形の小さな芝生をいい、扇のような形をしているので扇の芝という。
治承四年(1180)五月二十六日、源三位頼政が平家と戦って敗れたとき
  埋れ木の花咲九個ともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける (平家物語 巻四)
と辞世の歌をしたため、軍扇を敷いて自害したところとつたえる。

松の根本には、
  花咲てみとなるならば後の世にもののふの名もいかでのこらん
としるした歌碑があり、天保年間(1830〜44)、末孫太田氏の建碑とつたえる。

また頼政が馬をつないだ「馬繋ぎの松」および頼政が鎧を脱ぎすてたという、「鎧懸の松」というのがあったが、今はどの松をいうたものかあきらかでない。

・ 【阿弥陀水】

鳳凰堂の池畔にあり、井戸のそばに六字の名号を刻んだ石碑が建っている。
宇治七名水の一といわれ、毎年大幣神事にあたって、柄杓一本づつを古例としている。

◎ 【最勝院】

鳳凰堂の背後にある。

天台宗に属し、三井寺円満院門跡明親僧正の開創とつたえる平等院の塔頭の一で、門内正面に玄関(重美・桃山)は桃山時代の豪壮な唐破風からなり、欄間には図案化された藤の花の透板彫がある。

本堂には本尊不動明王像、客殿には女神坐像(平安)を安置し、地蔵堂には「池殿地蔵」と称する地蔵菩薩坐像(南北朝)を安置する。
他に頼政の念持仏とつたえる片袖阿弥陀像や絹本著色「源頼政像」(室町)一幅、「平等院境内絵図」(室町)一幅および望月玉仙が描いた紙本著色「牡丹孔雀図」(江戸)の衝立一基がある。

・ 【頼政塔】

境内の左隅にあり、ニメートル足らずの石造宝篋院塔(江戸)で、供養のためにつくられたものであろう。

毎年五月二十六日には頼正をしのんで頼政忌が行われる。

◎ 【浄土院】

平等院の塔頭の一で、浄土宗知恩院派に属する。
明応年間(1492〜1501)平等院修復の際、栄久上人によって開創したと伝える。

本堂には本尊阿弥陀像と傍に帝釈天像(平安)・阿弥陀如来立像(鎌倉)各一躰を安置する。
明示維新までは、塔頭に養林庵・和学庵・金樹院・東向庵・願海寺等があったが、養林庵を書院として残した以外は、すべて廃寺となった。

・ 【養林庵書院】 (重文・桃山)

伏見城から移したと伝えるが、その確証はなく、あきらかでない。
単層、入母屋造り、桧皮葺、庭に面した広縁に沿って上段・ニノ間・三ノ間がならび、うしろに次ノ間・茶室等が接している。

このうち上段ノ間六畳は正面に床の間をもうけ、違棚と付書院とは広縁の側にならべてつくってあるのが変わっている。
二ノ間と三ノ間との境の欄間には、大きな藤の花の透板彫りがあり、広縁の欄間の透彫りとともに桃山時代の気宇をよくあらわしている。

また上段と二ノ間の金碧襖絵「梅に籬図」八面、同「雪景山水図」三面は、いずれも桃山時代狩野派の典型的な作風で、寺伝では山雪の筆と伝える。
但し違棚天袋貼付の「草花図」二面は、江戸末期の補作である。

庭園(江戸)は細川三斎の作と伝える平庭枯山水の形式からなり、ささやかな庭内に石組みや織部型灯籠を配している。
茶庭を兼ねた庭園で、織部灯籠は露地用としてよく調和を保っている。

なお什宝として絹本著色「源頼政像」一幅(室町)をはじめ紙本墨書「平等院修造勧進状」一巻(室町)、同「平等院旧起」一幅(江戸)等を有する。

・ 【源融遺愛の桜】

門内左の枝垂桜。

・ 【通円墓】

門内左手にある。
自然石の表面に「太敬庵通円之墓」としるす。
通円は治承の戦に頼政に茶を献じて戦死したと伝える。
その子孫は宇治の橋守となり、代々橋畔に茶店を構えて現在に至っている。

なお境内墓地には茶師上林氏一族の墓がある。

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「平家物語」の舞台めぐり

 三十三間堂 → 六波羅蜜寺 → (祇園女御塚・雙林寺・西行庵) → 長楽寺 → 祇王寺 → 滝口寺 → 小督塚 → 常寂光寺 → 神護寺 → 仁和寺 → 法金剛院 → 寂光院 → 大原西陵 → 鞍馬寺

 日吉大社 → 三井寺 → 義仲寺 → 瀬田唐橋 → 宇治平等院 → 安楽寿院 → 城南宮(鳥羽離宮) → 恋塚寺 → 石清水八幡宮 

「源氏物語」宇治十帖めぐり

 寄木(宇治橋上流左岸約500メートル) → 橋姫(橋姫社) → 夢浮橋(宇治橋西詰) → 東屋(京阪宇治駅横) → 
  早蕨(宇治川右岸上流宇治神社境内) → 総角(同・大 吉山登り口) → 蜻蛉(京阪電車三室戸駅東500メートル) → 
  浮舟(三室戸寺参道) → 手習(京阪電車三室戸駅東200メートル) → 椎本(乙方神社内) → 源氏物語ミュージア ム

 やんごとなき平安貴族たち
    牛車で「宇治橋」渡ったか

 「平安貴族が牛車に揺られ、宇治橋渡って別荘通い」 - 京阪電鉄が発行した宣伝パンフレットのこの文章が、波紋を投げかけている。
 「宇治十帖」の舞台を紹介する記事だが、「源氏」成立の頃(十一世紀初め)は、宇治橋が架かっていなかったか、橋があっても破損して通行できなかった、との説があ るからだ。
 さて、あなたも宇治橋を巡る”なぞ”解きに挑戦してみませんか。  

「維新の史跡」めぐり 寺社に関するものの一部

 妙法院(七卿都落ちの出発点) → 清閑寺郭公亭(西郷隆盛と月照の会談の地) → 清水寺(忠僕茶屋・舌切茶屋と成就院) → 
  護国神社(桂 小五郎ら志士達の墓所) → 月 真院(禁裡御陵衛士屯所跡) → 金戒光明寺(会津藩本陣となった所) → 
 京都御所(蛤御門の変) → 二条城(大政奉還の場) → 壬生寺(新撰組隊士の墓)

「仏像観賞」めぐり

 東寺 → 泉涌寺(楊貴妃観音) → 蓮華王院 → 六波羅蜜寺 → 広隆寺 → 千本釈迦堂

「塔のある寺」 五重・三重・二重

 五重塔
 東寺・八坂塔(法観寺)・仁和寺・醍醐寺・海住山寺

 三重塔
 清水寺・子安塔・真如堂・黒谷光明寺・宝積寺・浄瑠璃寺・岩船寺

 多宝塔
 永観堂・常寂光寺・神護寺・善峰寺・宝塔寺・知恩院・安楽寿院・大覚寺・法輪寺・真宗院・鞍馬寺・本法寺・三明院・延暦寺・金胎寺・穴太寺

「謡曲」めぐり

 羅城門(「羅城門」) → 泉涌寺(「舎利」) → 新熊野神社(観阿弥一座が足利義満の前で演能した所) → 清水寺(「盛久」「田村」「花月」「熊野」) → 東北院(  「軒端の梅」)
 → 下鴨神社(「班女」「賀茂」「葵上」) → 小町寺(「通小町」) → 鞍馬寺(「鞍馬天狗」)  

「節分会」めぐり

 吉田神社 → 聖護院 → 須賀神社 → 蘆山寺 → 千本釈迦堂 → 北野天満宮 → 壬生寺 → 伏見稲荷大社
 その他に八坂神社、平安神宮、法輪寺(達磨寺)、六波羅蜜寺、狸谷不動院、下鴨神社、藤森神社、松尾大社、毘沙門堂、天竜寺など各社寺でも行われる

小説に描かれた社寺

「金閣寺」 ・ 帰郷 − 大佛治郎 ・ 金閣寺 − 三島由紀夫 ・ 梅雨金閣 − 佐藤左千夫

「等持院」 ・ 私本太平記 − 吉川英治 ・ 雁の寺 − 水上勉

「竜安寺」 ・ その人の名は言えない − 井上靖

「仁和寺」 ・ 山吹 − 室生犀星 ・ 石の面 − 井上靖

「東海庵」 ・ 青衣の人 − 井上靖

「広隆寺」 ・ 広隆寺と絵と宿 − 井伏鱒二

「法輪寺」 ・ 虹いくたび − 川端康成

「苔寺」  ・ 帰郷 − 大仏次郎 ・ 球形の荒野 − 松本清張 ・ 美しさと悲しみと − 川端康成

「銀閣寺」 ・ 銀の庭 − 水上勉

「哲学の道」 ・ 暗夜行路 − 志賀直哉 ・ 虹いくたび − 川端康成 ・ 卯の花くたし、鹿ケ谷、琵琶湖疎水 − 田宮虎彦  

「南禅寺」 ・ 楼門 − 井上靖 ・ 黒い眼と茶色い眼 − 徳富蘆花 ・ 月と狂言師 − 谷崎潤一郎

「平安神宮」 ・ 細雪 − 谷崎潤一郎

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