■■■ 歴史散歩 

南北路】【東西路
市外北部】【市外東部】【市外西部】【市外南部

>> 更新 2005.12.11 その他の道(清水坂・産寧坂・二年坂・五条坂・茶碗坂・鞘町通・渋谷通・鳥羽街道・伏見街道・京町通・両替町通・油掛通) 12通り
 
ニュース 2004.12.28

「哲学の道」や「さざなみ街道」 
歩きたくなるみちに 500選入り 

 全国知事会などでつくる「美しい日本の歩きたくなるみち推薦会議」(会長・観光立国懇談会木村尚三郎座長)は27日、秋田県田沢湖町の「神秘の湖・田沢湖畔のみち」など、自然と地域の魅力にあふれ、心豊かに歩ける「歩きたくなるみち500選」を発表した。 

 500選には、京滋からは京都市の「古都京都をめぐるみち」、大津市の「比叡山・門前から峰道を巡るみち」などが選出された。 

 全国から2427件の応募があり、書類選考後、全国の約830人の会員が5月から半年かけて630カ所の道を実際に歩き、自然環境の魅力などを評価した。 

 京滋で選ばれた道は次の通り。 

 京都▽古都京都をめぐるみち(哲学の道、鴨川、祇園)▽京都、大原・三千院を訪ねるみち▽伏見の酒蔵と伏見稲荷1000本鳥居を訪ねるみち▽古都、嵯峨野のみち=以上京都市▽天橋立・海を渡るみち=宮津市▽海軍と赤レンガ倉庫を訪ねるみち=舞鶴市▽美山・かやぶきの里を訪ねるみち=美山町▽亀岡七福神と和らぎのみち=亀岡市▽竹の道と竹林を訪ねるみち=向日市▽長岡天満宮と勝竜寺城を巡るみち=長岡京市▽世界遺産の宇治・源氏物語を訪ねるみち=宇治市▽当尾の石仏を訪ねるみち=加茂町 

 滋賀▽比叡山・門前から峰道を巡るみち▽大津京から仰木の棚田につづくみち=以上大津市▽長浜・秀吉六瓢箪を巡るみち=長浜市▽中山道(竹佐宿?愛知川?高宮宿)=近江八幡市・安土町・五個荘町・愛知川町・豊郷町・彦根市▽同(鳥居本宿?番場宿?醒井宿)=彦根市・米原町▽近江八幡の歴史散歩=近江八幡市▽琵琶湖さざなみ街道と古津堅田のみち=草津市・守山市・大津市▽旧東海道(土山宿?水口宿?横田の渡し)=甲賀市・湖南市▽海津大崎・観桜のみち=高島市・西浅井町▽新旭・湧水の里を訪ねるみち=高島市 
 

■ 関連頁
町並み】【京都故事】【ねねの道】【京屋敷 幕末・維新頃
kyoto-Map】【京都観光情報マップ】 只今、試験中!

■ お勧め地図サイト
goo 地図の検索】 旅行・出張に役立つエリア検索。 その他の地域(全国)は こちら
infoseek 地図検索】 全国版は こちら
Yahoo!! 地図情報図】 道路の更新は一番早いかも 全国版は こちら

■ お勧めサイト
時間・空間グループ】【京都の歴史と文化財保護問題】【財団法人京都市埋蔵文化財研究所】【国際日本文化研究センター
京の道資料館】【京都の石碑】【京都市の石碑】【京都のいしぶみデータベース
玄武の会 -平安京の四神と都市計画について- 】【平安京探偵団
閼伽出甕】【歴史データーベース】【歴史サーチ】【東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室
京都銀行 -「寺御幸」のわらべ唄-】【近畿道ものがたり・川ものがたり

■ = 坊さん頭は丸太町 = Mid

ぼんさんあたまはまるたまち(丸太町)
つるっとすべってたけやまち(竹屋町)
みずのながれはえべすがわ(夷川)
にじょうでこうたきぐすりを(二条)
ただでやるのはおしこうじ(押小路)
おいけででおおたあねさんに(姉小路・三条)
ろくせんもろおてたここおて(六角・蛸薬師)
にしきでおとしてしかられて(錦・四条)
あやまったけどぶつぶつと(綾小路・仏光寺)
たかがしれてるまどしたろ(高辻・松原)


 
 

鞍や寺、上立五つ、今や元、
武一、中立、長者三通り、
出水下、椹木、
丸竹夷二、押御池、
姉三六角、蛸錦
四条綾仏、高辻や、
松万寿に、
五条雪駄屋、魚の棚、
数珠二筋万年寺、
七条越えて、通り名なし
 
 
 
 
 
 




■ 南北路 
 途中で一部分中断している道路もあります 

 木屋町通

北は二条通から南は七条通に至る高瀬川東畔の通り。
全長約ニ・ニキロ。

木屋町通りは、高瀬川なしには成立しなかった。
慶長十六年(1611)から十八年にかけて、この運河は、時の著名な大土木技術者角倉了以によって計画され、開通された。
全長十キロメートル余りに及ぶ。
その川幅は約七メートル、総工費七万五千両(現在額で約百五十億円)。

明治二十八年、平安遷都1100年祭紀念の第四回内国勧業博覧会会場へのアクセスとして計画された電気軌道の施設工事が、この通りで始まった。
日本最初の本格的市街電車の開通を目指してである。
「ごめんやっしゃ、ごめんやっしゃ、電車がきまっせ、はようどいておくれやす」。
電車の前に「先駆人」と称する男が走って、物見高い京都の見物人に注意を捉したという。

 (北から順番に)

島津創業記念資料館・高瀬川一之船入址・幾松(桂小五郎と芸者幾松が潜伏)・佐久間象山、大村益次郎遭難地・金茶寮(武市瑞山寓居之址)・吉村寅太郎寓居之址・池田屋騒動の址・酢屋(坂本龍馬寓居之址)・土佐藩邸跡・本間精一郎遭難の碑

 河原町通

北は葵橋西詰から南は十条通に至る、全長約六・六キロメートル。

天正十八年(1590)前後から大規模に進められた、豊臣秀吉の京都大改造後に開かれた道である。
道幅も数メートル級のものであるが、いつ開通したかについては、実はあまり明かではない。
天正十九年に築造された、京都の四周を巡らす「お土居」が、この通りの西側に一直線に走っているのをみると、それ以後であるのは確実である。

名称はかならずしも統一されなかったようで、二条通から以北は「河原町」で通っていたが、二条通より南では、河原町二条に角倉屋敷(現日本銀行京都支店)が所在した事によって、「角倉通」とも称されていた。
河原町通東側には、二条あたりから、角倉屋敷に続いて長州藩屋敷(現京都ホテル)、金沢藩屋敷、対馬藩屋敷(現ロイヤルホテル)、岩国藩屋敷、丸亀藩屋敷、土佐藩屋敷(旧立誠小学校)など、武家屋敷街を形成していた。

大正から昭和、今出川通から七条通の間に市電が開通。

 室町通

平安京の室町小路にあたる。
北は北山大橋西詰から南は十条通下がるに至る、全長約八・一キロメートル。

大阪の本町(どぶ池筋)、東京の堀留と並ぶ和装のメッカである。

 (北から順番に)

室町幕府址(同志社大学西隣)・富岡鉄斎邸址(京都府議会公舎)、三井越後屋京都本店記念庭園、金座遺址、銀座遺址、金剛能楽堂

 新町通

平安京の町尻小路にあたる。
北は玄以通から南は久世橋通に至る、全長約九キロメートル。

歌人として有名な藤原定家は『名月記』に、七条町は「土倉員数を知らず、商売充満し海内の財貨は只そのところにあり」と記し、「黄金の中務」と呼ばれた裕福な人物も登場する。

町尻小路が「新町通」と呼ばれるようになった年代は明らかでない。
『京都坊目誌』は「天正以来今名(新町)となる」と記す。
『京町鑑』(宝暦ニ年<1752>刊行)には、「此通あらたに建つづきしゆへ俗に新町通りとよぶ」とある。
おそらくは豊臣秀吉の京都改造以後の呼称であろう。

 (北から順番に)

京都守護職邸(下長者通と丸太町の間)・茶屋四郎次郎清延(本名中島氏)屋敷址

 油小路通

平安京の油小路にあたる。
北は竹殿南通から南は府道中山稲荷線に至る、全長約九・ニキロメートル。

小路名の由来についてはよくわからないが、当初からつけられたものではなく、条坊制による番号システムが嫌われていたころ、すなわち十世紀頃にはその名が成立したものと考えられている。
「太閤秀吉公、洛中洛外の限りを立給ふ節、油小路を中にとりて条里を割給ふ」という説がある。
つまり、京都の洛中と洛外を分ける「お土居」をめぐらしたときに、その中心線を油小路においたというのである。

京都では最も多い十数藩の京屋敷が油小路に沿って並んでいた。

再興された本能寺は、天正十年六月二日には、四条口の木戸を破った明知光秀の軍勢が、寄宿している信長を襲い、兵火にあって全焼している。

 (北から順番に)

旧本能寺、山本亡羊読書室址、西本願寺伝道院(明治四十五年に完成した西本願寺の教学研究所)

 千本通

平安京の朱雀大路にあたる。
北は鷹峯源光庵の南から南は宮前橋の東に至る、全長約十七キロメートル。

千本丸太町西の内野児童公園に、「大極殿遺址之碑」と刻んだ碑が建っている。

平安京が造営された時の大内裏跡である。
南面した朝堂院の正殿大極殿を中心に殿舎が並び、正門には朱雀門がそびえた。

朱雀門から平安京南端の羅城門までは、幅二十八丈(約八十五メートル)の朱雀大路が一直線に通った。
朱雀大路で都は西の右京、東の左京に分けられた。(天皇は南面するにより、左右が決まった)

朱雀の名は、高松塚古墳に描かれた壁画「四神図」で知られる中国の四神相応の思想による。
方向をつかさどる四つの神々で、北は玄武、南は朱雀、東は青龍、西は白虎がつかさどった。
朱雀門は大極殿の南の正門であり、南を守護する神の「朱雀」の名が冠せられた。
朱雀大路も同様であった。

北大路の南にぽっかり浮かんだような標高百二十メートルの船岡山がある。
山頂から南へ遮るもののない眺望を眺め下ろして、羅城門までの朱雀大路が設定されたという説もある。

通り名の由来は諸説ある。
両側に千本の卒塔婆に由来するとも、千本の桜が並木をなしていたからとも。
さらに桜ではなく松並木であったという説もある。
卒塔婆説は、通が北の葬送の地蓮台野につながり、鞍馬口下るに通称、千本閻魔堂と呼ばれる引接寺が残っていて、道すがらに卒塔婆が立ったことは十分に想像できる。
桜説も、引接寺境内に「普賢象桜」と称される桜が残り、花の季節には念仏会が開かれたという記述がある。

西高瀬川が開かれたのは文久三年(1863)。
古い文書によれば「大堰川から水を引き樋の口を作り、舟だまりをもうけ、梅津から太秦大石村えお経て山内南部で御室川を交差し、池尻の舟だまりから西院春日の森を南に回り、三条街道に出て千本にいたる。そこに舟つき問屋があり、千本通を南へ五条、七条通と下がって吉祥院から鴨川に合流する」と。

開設時は薪炭、米が中心だったが、明治中期に嵯峨、梅津、桂の三ケ所に集められた木材が千本に移ったという。

明治二十九年に園部〜二条間に京都鉄道会社の鉄道が敷かれて、二条駅が開設され、水路が鉄道に変ったあとも、材木問屋は活況を呈した。

  余談

大正天皇の御大典のとき。
千本通は、真直ぐに羅城門まで市電が走る予定だったが、大反対したのが周辺の材木商。
「通が広うなっては同業者町は分断される」というのが理由だった。
市電は千本三条から「く」の字に曲がって後院通を通ることになったのだった。

 (北から順番に)

史跡 お土居、五番町遊郭址、大極殿址、朱雀門址、壬生遊郭址、島原歌舞練場、輪違屋、角屋、鴻臚館址、羅城門遺址

 先斗町通

北は三条通の一筋南から四条通まで。
全長約500メートル

先斗町通ができたのは、寛文八年(1668)に大規模な鴨川改修が行われてからのことである。
幕府は、鴨川右岸と左岸に石垣を築き、洪水防止をはかったが、このとき右岸の鴨川沿いに造成されたのが先斗町と先斗町通。
四条通から木屋町通までを、石垣にちなんで西石垣通(さいせきどおり)と呼んでいる。

「先斗」を「ぽんと」と呼ぶのは難読だが、この読みはポルトガル語のポント(先の意)に起因するという。
もともとこのあたりは、造成前から「御崎」と呼ばれ、それをハイカラ風に呼んだものという。

先斗町通に最初の家が建ったのは、若松町あたりで、延宝二年(1674)。
それから続々と建てられ、三十数年後の正徳二年(1712)には「生洲株」が公認され、料理茶屋・旅籠屋などが軒を連ねた。
文化十年(1813)には芸者も誕生している。

 (北から順番に)

瑞泉寺・

 新京極通

北は三条通から四条通まで
全長約500メートル

新京極通、かつては大阪の千日前、東京の浅草と並んで、日本の三大盛り場の一つに数えられた。

新京極通が誕生したのは、明治五年。
この開発を唱導したのは、当時の京都府参事であった槇村正直だったという。
文明開化期の置き土産といえるものである。

明治維新後の宗教政策、排仏毀釈によって、このあたりは変化を迫られていた。
整地された新通りの両側の土地の値段は、坪50銭。
それでも買い手がつかず、京都府は現在でいう露天商の元締、阪東文治郎に依頼して、なんとか町並みをととのえさせた。

明治10年頃には、芝居座三軒、浄瑠璃三軒、寄席六軒、身振狂言三軒、見世物十二軒、ちょんがれ祭文二軒、大弓九軒、半弓三軒、楊弓十五軒、料理十一軒、牛肉二軒、煮売屋・蕎麦屋・茶店二十九軒、このほかに饅頭・菓子・人形・小間物・小鳥の店々が、この通りに沿って店を張りだした。

明治三十年代は、新京極興行界の革新期であった。
明治三十年には、この通りにあった東向座で、稲畑勝太郎がフランスから持ち帰った活動写真(映画)の試写会が行われた。
(明治二十九年の神戸に続いてのものである)
新京極に専門の映画館ができたのは明治四十一年、「電気館」と名づけられていた。

興行界の変化の旋風は、白井松次郎・大谷竹次郎の双子兄弟から巻き起こった。
明治三十年代にはいって、次々と新京極通の芝居座を買収し、ついに明治三十九年には南座までも手に入れてしまった。
興行資本の確立と経営システムの近代化、この兄弟が新京極通から打ち出した革新の嵐は強烈だった。
この風は、大坂、さらには東京にまで延びたのである。

 (北から順に)

誠心院(和泉式部寺)・染殿院・

 寺町通

平安京の東京極大路にあたる。
北は鞍馬口から南は五条通まで。
全長約4・6キロメートル

寺町通が誕生したのは、天正十八年(1590)である。
通り名もこのときにつけられている。
この通りもさかのぼると、すでに平安京の成立期に出現していた。
それも、東京極大路という堂々たる幅員三十二メートルの大道としてであった。
東京極大路であるから、平安京ではもっとも東にある道路であった。

平安末期から中世にいたると、さらに邸宅群が東側(京外)、西側(京内)に続出して、平安京でも有数の高級住宅街となっていた。
だが、ご多分に洩れず、この整然たる街路も、十五世紀後半の応仁・文明の大乱によって荒廃してしまった。

東京極大路は、足利将軍が祇園祭を見物するところとしても知られていた。

秀吉によって再建された寺町通、その名が示すように、東側のほとんどは寺院で占められている。
その数約八十か寺。諸塔頭を含めると、寺院数はぐんと増大することになる。

京都御所の地域は別にして、およそ丸太町通以南の西側では、多く商家が軒を連ねた。
十七世紀末前後には、位牌・櫛・書物・石塔・珠数・挟箱・文庫・仏師・筆屋などがあって、寺院とのタイアップ型の店が並んだ。
さらには張貫細工・拵脇差(こしらえわきざし)・唐革細工・紙細工・象牙細工・煙管・琴・三味線などの細工人衆も、この通りに集住している。

明治にはいると、文明開化の一つのシンボル牛鍋屋が生まれた。
西洋菓子屋・写真館が出現したのもこの通りであった。
さらに新京極の開発後は、三条通〜四条通間の様子が一変し、さまざまな見世物小屋が生まれ、繁華街の一翼を担うことになった。

明治二十八年以降になると、今出川口から寺町通を南下して二条通に達するまでの、狭軌の京都電気鉄道が開通している。
この寺町線は蹴上まで通じていた。

 (北から順に)

藤原定家一条京極邸址(今出川下る西側)・大久保利通邸址(京極小学校東向)・紫式部邸址(蘆山寺)・京都市歴史資料館(寺町御門向い)・新島襄旧邸(資料館南隣)・

 御幸町通

北は丸太町通から南は五条通まで
豊臣秀吉の京都改造によって誕生した。

戦国期、高倉通から以西は、まともな道とてなかったが、そこに新しい道をつけたのである。

御幸町(ごこまち)の由来については、江戸時代にすでに論争がある。
秀吉が大坂から禁裏御所に参内する時に、この道をよく使用したので、その名があるとしたものもあれば、いや大坂と違う、それは伏見城からだとしたものがある。
さらには、「御幸」は、天皇・上皇だけに使用するもので、秀吉とは厚かましいとしたものまで・・・・・。

秀吉は、最晩年の慶長二年(1597)、御所東南側の地に聚楽第にかわって、広大な京都の邸宅を造営しているから、この御幸町通を利用したことは、大いに考えられる。
貴族の最高位関白でもあった秀吉の行粧は、天皇以上のものであろう。
「御幸」もそうしたことから、つけられた可能性はある。
御幸町通は、江戸期において、五条通(当時は橋通)を越えて南伸しているが、北部では、皇居の拡大によって丸太町通で行き止まりとなってしまっている。

 (北から順に)

平尾伝右衛門(有職漆)

 麩屋町通

平安京の富小路にあたる。
北は丸太町通から南は五条通まで。白山通ともいう。
全長約2・3キロメートル。

麩屋町通は、平安京の建設期において、すでに登場していた。
「富小路」としてである。
これはちょっとややこしい。
この通りの西側の通りが、現在「富小路」と呼称されているからである。
この原因は、天正期(1573〜92)の京都大改造にまでさかのぼる。
しかし、現在の麩屋町通は間違いなく、平安期の「富小路」に該当する通りである。

平安期の富小路は東京極大路の西側にある小路で、幅員十二メートルをはかるものであった。
この両側には、染殿・京極殿あるいは河原院の豪邸があり、貴族の邸宅も多数甍を連ねていた。
いわゆる貴族の集住街であった。

中世になると、とくに三条通以南で諸商人・細工人の進出が目立ってくるが、応仁・文明の乱が凄まじい荒廃をつくりあげた。
道路はほとんど消滅し、田園化した。

この回復が行われたのは、天正十八年の京都大改造である。

もっとも当初から、「麩屋町」として通り名が定着していたわけではない。
別名に「白山通」とあるからである。
「白山通」の由来は、諸書によると二条通角に白山神社があるからだと伝えている。
おそらく、長く混用していたと思われるが、貞享ニ年(1685)に刊行された『京羽二重』には、麩屋町通の由来について、昔、この通り筋に豆腐・麩麺類を商う人が多数集住していたからだ、という解説を載せている。
しかし、肝心の『京羽二重』にも、十七世紀後半期の段階で、豆腐屋・麩屋の職種の記載がみあたらないから、もうこの頃には、どこかに集団移転していたか、商売替えをしてしまったのか。

江戸時代中期、この通りには「国問屋」と称する地方物産を扱う問屋街が成立している。

 (北から順に)

白山神社(御池上る東側)

 富小路通

北は丸太町通から南は上珠数屋町通まで。
全長2・8キロメートル。
京都改造によって誕生。

本来、この富小路は、平安時代の小路名であるが、その旧富小路の道筋は、東隣の麩屋町通にある。
なぜ、それが逆転したのか、しかとした理由はわからないが、この富小路は、まったく新しく通貫された通りである。
ちょうど旧富小路(麩屋町通)と旧万里小路<までのこうじ>(柳馬場通)の真中を開通させた。

当初は、北は下立売通まで、南は橋通(現五条通)まで開通していたが、十八世紀初頭の宝永の大火後は、御所域の拡大によって、丸太町通までで閉塞してしまった。
下立売通〜丸太町通間にあった町家は移転させられたが、移転先は、鴨川東の仁王門。
町人達は、旧地を忘れず、ここを新富小路と名づけている。

江戸時代、この通りには職人衆が多く、『京羽二重』には鍛冶屋・目貫小柄屋・白革屋・塗師屋が住んだとある。
なかでも二条通付近にあった鍛冶屋は有名であったらしく、通りのシンボルともなっている。

また、四条下るに現在も存在する徳正寺は、慶長七年(1602)、二条城の造営に伴って移転してきた浄土真宗の寺で、江戸時代、秀吉の「御陣太鼓」をもつことで、大いに知られていた。

 (北から順に)

富小路殿跡碑(京都府中京庁舎)・枳殻邸(突き当たり)

 柳馬場通

平安京の万里小路にあたる。
北は丸太町通から南は五条通まで。
全長約2・3キロメートル。

江戸時代に入っても、柳馬場と万里小路は、ともに併称されているぐらいだから、通り名が定着するには、三百年間もかかったことになる。

平安期の道幅十二メートル、現在はその約半分ぐらい。
京都大改造で、応仁の乱以後、ほぼ失われていたこの通りが復活した。

その前年の天正十七年、周辺一帯が田野と化していた二条通との道筋に「二条柳町」という、京都一の遊里がつくられた。
秀吉の肝煎であったという。
遊里は「柳院」との異称をもっているぐらいだから、そのまわりに柳の並木が形成されていたらしい。

しかし、この華やかな「二条柳町」は、慶長七年(1602)、二条城の造営にともなって六条の地に移転した。
その跡地では、慶長九年の豊国祭臨時祭礼で大規模な馬揃えがあったが、柳馬場は、これにちなむものといわれている。

平安時代、この柳馬場通、つまり万里小路沿いには北域に紀貫之邸があり、南に河原院という広大な邸宅があった。

中世に入ると、この通りは、様子をがらりと変え、足利将軍家の邸宅街となった。
二代将軍足利義詮は錦小路、権勢を誇った三代将軍義満は三条通、四代将軍義持も六角通に邸宅を一時構えていたから、南北朝・室町時代には、すでに武士たちが充満していたことになる。
十四世紀以後、この道は、もう馬が疾駆する「馬場通」の様相を示していたかのようである。

江戸期に入っても、若干こうした雰囲気がもちこまれたようで、竹屋町通り上るところには有馬藩、同じく、下がるところには小笠原藩があり、三条通下るには米沢の上杉藩、錦小路下るに秋田の佐竹藩の各京屋敷があった。

元禄期には、木地屋・漆屋・合羽屋・葛籠・扇骨・茶柄杓などの、京を代表する手工業者が町を形成していたことを伝えている。

 京都御苑の道
 
東は寺町通、西は烏丸通、北は今出川通。南は丸太町通に囲まれた総面積九十二ヘクタールの京都御苑。
このうち六十五ヘクタールが環境庁管理の国民公園の御苑。
あとは宮内庁管理の京都御所など。
外周を一周すると約四キロ。

明治維新まで天皇がお住まいになった京都御所は、町名でいえば京都市上京区京都御苑一番地、大宮御所が二番地、環境庁京都御苑管理事務書は三番地。

御苑外周には九つの門があり、あとは石垣を開いただけで自由に通行できる。

御苑内には白雲神社・宗像神社・厳島神社があり、九条池の捨翠亭は九条家の邸宅跡で月二回一般公開され、お茶会にも利用されている。
御苑には明治維新までは何百という公家屋敷がひしめいたが、天皇東行で廃墟同然となり、屋敷は取り壊され、現在の国民公園となった。

御苑内の道は広大な玉砂利の道。
通り名は不要だろうが、四つだけある。
京都御所建礼門から真っ直ぐ丸太町通に向うのが建礼門前大通。
大宮御所から南が大宮御所前大通。
乾御門の東西路が北大通。
そして烏丸通の出水口大通。
ただし、御苑関係者しか知らない通り名である。

 堺町通

北は丸太町通から南は五条通まで。
途中、仏光寺通〜高辻通間で中断。
全長約2・2キロ。
京都改造によって誕生。

通りを北上し、丸太町通に出た所に御所の堺町御門がある。
御所を発した時代祭りや葵祭りなどの華やかな行列が通り抜ける。
元治元年(1864)七月、この御門周辺では、烏丸通の蛤御門とともに壮絶な砲撃戦が繰り広げられた。

この通り名も定着するには二百年以上の時間を要している。
十八世紀後半まで二条通から南、四条通からこのあたりまでを「材木町通」、四条通あたりから「亀屋突抜」とも称したという。
通り名の由来は、江戸中期の『京町鑑』に、「堺」といったのは、戦国期には高倉通までしか人家がなく、この通りにあたるところが「原」と「町」の境だったからと記している。

 (北から順に)

石田梅岩邸跡(蛸薬師通上る東側)・夕顔塚(高辻通西側)・鉄輪井戸址(松原通下る西側)

 高倉通

平安京の高倉小路にあたる。
北は丸太町通から南は八条通まで。
途中、枳穀邸で中断。
全長約3・5キロ

平安時代、この通りの北域には、高陽院・高倉殿・花山院・大炊内裏など貴族の邸宅、臨時の内裏が並んでいた。
南域にも六条内裏があった。
しかし、中世になると、偶然にも、その名に引き寄せられて店を構えたのが、「倉」に縁の深い業者が軒を連ねた。
酒屋・土倉(金融業)・油屋が多く、さらに伯楽座もあった。

この小路も応仁の乱で廃退し、再開発されたのは「京都大改造」以後のことである。

江戸時代に入ると、北域の下立売通〜丸太町通間の道路が、公家町・御所の拡大によって消滅してしまったが、主に手工業者が、この通りに集住していた。
とくに竹製品を扱う店が多く、竹屋、扇骨屋、挿竹屋、葛籠・籠細工屋があり、一種の同業町を形成した感があった。

 (北から順に)

在原業平邸址(御池西角)

 東洞院通

平安京の東洞院大路にあたる。
北は丸太町通からJR東海道本線の北まで。
全長約3・5キロ

かつては「ひんがしのとい」と発音していたようである。
洞院とは、天皇が退位した後の住居を意味するが、この大路にはその名称に相応しい院や内裏が堂々と構えられていた。
高陽院・花山院・小一条院・大炊内裏・二条殿・小二条殿・東三条内裏・六条内裏・東八条院・八条院と北から南へ時代に若干のずれはあるが、陸続として建てられて、その偉容を誇った。

しかし、中世に入ると、少しばかり変かをみせ始める。
相変わらず院御所も存在したが、武家群が進出して邸宅を構えるようになっていた。
姉小路あたりには、一時期「鎌倉殿宿所」も登場していた。
室町時代になると、さらに変貌し、南の下京では酒屋・魚座・さらに五条大路(現松原通)あたりには、京都唯一の傾城町が形成され、ちょっとした歓楽街をつくっていたのである。

むろん、応仁の乱で、この通りも荒廃したが、不思議なことに一条東洞院では、唯一内裏が生き残って、その存在をアピールしていた。

秀吉による大改造は、東洞院を回復させたが、この勢いは江戸時代に入っても続いた。
秀吉・家康と続く皇居の再建・拡大は、北域で事実上この通りをストップさせたが、十八世紀初頭の宝永の大火後の皇居拡大で、完全に丸太町通以北の道は消滅してしまった。

これに対し、南の方へは発達を遂げた。
とくに、竹田街道(大和街道)へ連なる幹線道路となったために、市内の車馬道路として注目された。
江戸時代中期、享保年間(1716〜36)になると、その交通渋滞はピークに達した。
町々の訴えによって、対策を協議した結果、町奉行所は、この通りを北行き一方通行としたのである。

日本で最も早い、市内の一方通行規制がこの通りから始まった。

 (北から順に)

呉春宅址(錦通上る西側)・法蔵館(中珠数屋町通<正面通>東入る南側)

 烏丸通

平安京の烏丸小路にあたる。
北は今宮通から南は久世橋通りに至る。
途中、京都駅で中断。全長約6・6キロ。

烏丸通は、平安京成立期の烏丸小路に出発するから、千二百年の歴史をもつ。
当初は幅員12メートルの小路であったが、現在は20メートル級の、京都の中枢的な幹線道路の一つである。
京都の道路の多くが、平安時代より、かなり狭小になっている事実からみると、その時代より拡幅されている例としては、珍しいほうに属する。

烏丸通、現在は「からすま」と呼んでいるが、正式には「からすまる」である。
この小路名からとった元貴族烏丸家は「からすまる」と発音している。
小路名の由来は明らかではないが、平安時代には小路とはいえ、なかなか著名な通りであった。
一条大路から二条大路、さらに三条大路にかけては、藤原氏一族の豪邸がずらりと軒を連ねており、それはまるで藤原ストリートといえるほどのものだった。

この藤原氏の邸宅は、平安中期以降になると、しばしば「里内裏」という臨時の内裏(御所)となった。
本来の内裏がたびたびの火災によって失われると、そのたびに臨時の内裏が生まれたが、早くいえば天皇が皇后や中宮の実家へ臨幸する、というかたちであった。
もちろん、内裏が焼け、さらに再建という繰り返しが行われている間は良かったが、王朝政府の手元不如意、つまり財政難が続くと、この内裏再建もままならないものとなった。
実際、内裏の焼亡は、最初、建設から百数十年間はなかったが、一度失火すると、あとは平均十年前後で焼失するという有様である。

そのたびに「里内裏」に臨幸したのであるが、中世に入ると、ついには、もとの平安京以来の宮域に再建することを断念してしまった。
臨時の里内裏は、固定された内裏となってしまい、それが烏丸小路以東に定着し始めたのである。
現在の京都御所は、この里内裏すなわち藤原氏邸を出発点としている。

しかし、天皇家や貴族が集住する烏丸小路も、十五世紀後半の応仁の大乱でほぼ壊滅状況となってしまった。
乱の終息後、一条東洞院にあった内裏の付近には、「禁裏6丁町」がつくられたが、まだ戦国期には、烏丸小路の一条から二条の東西両側に、広大な田園風景がみえるのみであった。

その烏丸通を再建したのは秀吉の手による京都大改造である。
禁裏御所の再建は織田信長時代に始められたが、秀吉によって、さらに大規模に進められ、烏丸通以東の大空間が急速に埋められた。
この通りの今出川〜丸太町間では公家衆屋敷が並び、さらに町屋が軒を連ねるようになっていた。
秀吉の後を受けた徳川家康も、烏丸通の甦りに手を貸していた。
慶長初年に東本願寺と寺内町の寺地を烏丸六条の地に与え、五条通(当時の橋通)で開発がストップしていた烏丸通の南伸を、七条通まで進めたからである。

さらに、十八世紀初頭、江戸時代京都の三大大火の一つに数えられる「宝永の大火」によって、烏丸通は変化をみせた。
幕府側がこの大火を機に、禁裏御所と公家町の拡大を計画したからである。
烏丸通の今出川〜丸太町間にあった多数の町屋を疎開させ、その跡に多くの公家衆屋敷を増築したのである。
まるで平安時代を彷彿させるかのような街路が誕生した。

むろん、この江戸時代の烏丸通も狭いものであった。
幅員数メートルである。
その街路に沿って、丸太町以南では、蒔絵屋・古手屋・絹布屋・鼓屋・袈裟屋・経師屋・色紙・短冊・手本紙・張貫人形などの商店街が形成されていた。

明治十年、京都ステンション(ステーション)の設置は、烏丸通をスターの座にのしあげた。
七条通以南に道路が貫通したからである。
その勢いは、明治末年まで続いた。
京都市が大規模な都市近代化計画を実施した明治四十年代、烏丸通は、北への延伸と道路拡張が行われ、近代都市に相応しいインフラが整備されたのである。
そして明治四十五年六月、市営電気鉄道が丸太町〜京都駅間を走った。

大正天皇・昭和天皇の即位大礼の行粧は、いずれもこの烏丸通を行進した。

 

金座・銀座遺跡(両替押小路)・金剛能楽堂(室町錦)

 両替町通

北は丸太町通から南は三条通に至る
全長約一キロ

ここは、江戸時代の日本の造幣・金融をつかさどる、きわめて重要なストリートであった。

この通りが開通したのは、天正十八年(1590)のことで、平安時代の通り名でいえば、烏丸小路と室町小路の中間を貫通させたものである。
両替町通を開くにあたっては、十四世紀南北朝時代の太政大臣を務め、秀れた歌人として聞えた二条良基の元邸宅で、その後も二条家のものとして、その名園とともに誉れの高かった二条御池殿を毀っている。

通り名が名実ともに成立したのは、慶長期(1596〜1615)以後であることは確実である。
慶長五年(1600)、徳川家康によって、この街路に、江戸とともに金座が設けられたのであった。
ここは京後藤、すなわち後藤庄三郎家を中心に、その一族が集住し、小判の製造を始めていた。
そして慶長十三年になると、さらにこの通りは充実しはじめる。
伏見にあった銀座が廃止され、ここに移転させられたからである。
同じく慶長十四年になると、独占権をもつ朱座も三条上ル町に置かれている。

おそらく慶長末年以後から両替町通という名が呼称され始めたのだろう。
この通りに住む町人の職種も、蒔絵屋・金銀朱座のほかに両替商・長崎糸割符商人・針口屋(貨幣をはかる天秤の製作・販売)など、金銀および金融に関係する業者たちが軒を並べていたのである。

いずれも豪奢な佇まいであったらしく、その様子は「両替町風」と呼ばれて、驚嘆の目でみられていた。

江戸後期になると、ついに粛清旋風が吹いている。
銀座の年寄・座人の不正がばれて、頭人の大黒常是を除いて全員が追放されたのである。

その銀座跡には、明治に入って小学校が建設された。

 

嘉祥閣(能)・徳川時代金座遺跡(押小路下る東側)・銀座遺跡(金座より少し南)

 衣棚通

北は大門北通から南は六角通に至る
途中、紫明通〜上御霊前通の一筋北、一条通〜下長者町通間で中断
全長約四・三キロ
豊臣秀吉の京都改造によって誕生した。

整然とした碁盤目状の京都の通りにしては、いささか曲折が多い。
ぼんやり歩くと違う道に出たりする。 

天正年間(1573〜92)、秀吉が下長者町通〜三条通間に開いた小路。
それがしだいに北上、南下を続けてきた。

衣棚通の由来は宝暦十二年(1762)の『京町鑑』には、「三条上ル町に袈裟法衣商ふ店多く有によつて衣店という。しかるにいつの頃よりか店を棚に事かへたり」とある。

上京区衣棚下立売下ルの門跡町は足利義昭の旧二条城の地で、東本願寺の教如が一時、この地に仮住まいをした。

『京羽二重』には本多飛騨守の呉服所、戸沢上総介の屋敷、銀座の役人の住居があったと記す。
衣棚通椹木町下ルの今薬屋町にも大名の呉服所があり、「薬や町」「うおや町」「青物町」などの記録もあり、大名屋敷や町民の消費地であったことが知れる。
衣棚通三条下ルから六角通へ抜ける小路を了頓辻子と呼ぶ。
秀吉と親交のあった茶人広野了頓の邸宅跡で、町民に邸内の南北通り抜けを許したための通り名である。

 

じゅらく染織資料館(寺之内通上る西側)

 釜座通

北は下立売通から南は三条通に至る
全長約一・ニキロ

天正十八年(1590)に新開された通りである。

現在は三条通までとしているが、新設当時は、さらに高辻通から七条通まで通じている現若宮通を含んで、釜座通と称していたらしい。

通り名の由来は、釜座が三条通にあったゆえとされているが、実際、鎌倉時代に釜座の存在がすでに知られるから、由緒はなかなか古いのである。
現在も、大西家という京都ではもっとも古い釜師が仕事を続けており、釜座の通り名も、ほぼ当初から定着していたにちがいない。

釜座は現在「かまん座」と呼んでいるが、これは「かまの座」の音便変化である。
それに、江戸時代の呼び名も「釜座突抜通」となっており、新町通と西洞院通の間を突き抜けた意味を十分に伝えていた。

釜座通は、開設期には三条通まで約一・六キロ、高辻通から七条通までは約一・二キロと二分されており、中間の四条通あたりではすこし道筋があって、途中で消滅するような変則的なものであった。

こうした理由からか、十七世紀中頃には、三条通以北では釜座突抜として、はっきり定着したが、それ以南のところでは、しばしば名前が変化している。
菊屋町通、あるいは仏具屋町通とあまり定着をみせない。
最終的に若宮通になったのは、幕末の天保期以後のことである。

江戸期の諸書をみると、この通りには釜屋・茶道具屋・医師・練張物屋が多かったことが記されている。
また、若宮通では、仏具屋の存在も知られた。

しかし、比較的静かな商いで知られたこの通りも、幕末期になると、大きな政治の舞台を提供するようになった。
文久二年(1862)、下長者町通と丸太町通にあった通りが消滅させられ、ここに会津藩主であり、京都守護職として着任した松平容保の「守護職屋敷」が造設されたからである。
屋敷は広大であった。

明治維新で、この「守護職屋敷」は接収され、「軍務官屋敷」となって、戊辰戦争を争う軍事的中枢となった。
その後明治六年には「京都中学」がここに校舎を建てたが、明治十八年には、二条城にあった京都府庁がこの地に移転して、官庁街をつくることになったのである。

 西洞院通

平安京の西洞院大路にあたる
北は武者小路通りから南は十条通りに至る
全長約五・八キロ

明治三十八年十二月、東洞院通に遅れること十年、この通りにチンチン電車が走った。
昭和三十六年廃線となる。

平安京の西洞院通に発しているから、建設当初は、幅員二十四メートルの大道であった。
洞院西大路とも呼ばれていたが、その洞院(院御所)の名前が示すように、北域では官衙町(官庁街)のほかに広大な高陽院、大炊殿、陽成院、閑院、東三条などが、ずらりと顔を並べていた。
火災も多かったようである。

しかし、この通りも、中世に入るとしだいに様相を変えてくる。
通りに沿って西洞院川が南流していたこともあって、酒屋・油屋が多く集まり、ことに四条通以南で紙漉・紙屋の集住が目立っていた。
もちろん、応仁・文明の大乱で、この通りも一時逼塞してしまったが、戦国期の十六世紀には、早くも紙漉・紙屋・染屋の集住地となって、京の回復の一翼を担っている。

清冽な西洞院川の水を利用した染屋の出現は、一つの技術革新をも生み出した。
室町将軍家の兵法指南としても知られ、剣術家であった吉岡憲法は、染業を営んでいたが、彼はこの地で「憲法染」を開発した。
今でいう黒染である。

しかし、実際に、西洞院通りを回復に導いたのは、天正十八年(1590)の都市再開発によってである。
南北に通貫する通りとして甦り、この通りに沿って、さらに多くの町人たちが住み始めた。
江戸期に入ると、それはいっそう加速されていた。
「憲法染」は、この通りの名産として声名を高めたが、同時に紙漉屋も、その需要増によって大いに生産をあげていた。
「西洞院紙」というのがそれで、早くいえば古紙をを漉きなおした再生紙にすぎないが、もっぱら宿紙(御所が出す辞令)・鼻紙に用いられたところが特徴である。

江戸時代の諸書には、この通りの職種として紅屋・中紅屋・茶染屋をあげ、さらに紙屋として土佐紙・半切紙・扇地紙の問屋商売を記している

 

藪内家茶亭

 小川通

北は紫明通りから南は錦小路通に至る
全長三・七キロ

天正十八年(1590)、都市改造によって登場した新道が小川通である。
錦小路でいったん途切れるが、再び高辻通から塩小路通りまで延びている。
ただし、高辻以南は、天使突抜通または東中筋通とも呼んでいる。

小川通は、現在は「おがわ」と読ませているが、古くは南流する「小川」を「こかわ」または「こがわ」と呼んでいるから、江戸時代中頃までは「こかわどおり」と呼んでいた。
中世には小川沿いに小道もあり、一条小川には革堂行願寺の庶民信仰の中心地があった。
また一条通南には室町将軍足利義尚邸の「小川御所」もあって、このあたりは、賑やかな界隈を形成していた。

江戸時代には、この通りに沿って、羽子板屋・組糸屋・靫屋・帯屋・包丁鍜冶・木綿屋などがあったとされる。

豊臣秀吉が千利休の子少庵に千家再興を許し、小川通寺之内上がるに土地を与えた。
少庵の子宗旦がこれを継ぎ、さらに宗左・宗室へと伝領された。
これが現代まで続く宗佐の不審庵(表千家)、宗室の今日庵(裏千家)となった。
日本きっての「家元通り」なのである。

 

後花園天皇火葬塚

 天使突抜通

北は仏光寺通りから南は木津屋橋通りに至る。中筋通りともいう。
全長一・五キロ。豊臣秀吉の京都改造によって誕生した。

西洞院通松原下るの五条天神はかつて「天使の杜」と呼ばれた。
『京都坊目誌』に「元五条天神社の境内を貫通し新たにこの街を開く」とある。
五条天神を突き抜けて開設されたための名称である。

江戸後期の国学者橋本経亮の『橘窓自語』には「五条天神の神霊は、金の宝船なるよし。天明の大火災の時、動座させ奉りし時、町屋菊屋権兵衛語れしと中野熊玄物語せり。例年、大晦日、節分にたから船の画を出せるを人々、請い受けてお守りとする」と書いている。
平安遷都の時、弘法大師が大和宇陀の天神をこの地に勧請したという古社。
『徒然草』にも出てくる。
医薬の神として庶民の信仰を集め、かつては京都町奉行所お墨つきの霊薬が社前で売られていた。

東中筋六条下がるに学林町がある。
近世、西本願寺の寺内九町組みの学林組に由来する。
学林は僧侶の教育機関。
講堂のほか学生寮が十八棟もあったといわれ、学林町には歌舞音曲を生計にする人は住めなかった。

 

伝導院

 醒ケ井通

北は六角通から南は五条通に至る。途中、堀川高校で中断。
全長約一・一キロ

『京都坊目誌』には、「北は六角に起こり、蛸薬師錦小路間を中断して南は三哲通を越え、西九条町に至る」とみえているが、先の戦争の疎開で拡張された堀川通と合流してなくなった。

通り名の由来となった佐女牛井跡は、五条通下るで、かつてのゆかりが泉水町、佐女牛井町の町名に伝えられている。

佐女牛井は、もと源氏の堀川館の井戸といい、あたりに住んだ室町中期の茶匠村田珠光がこの水を好み、将軍足利義政の東山山荘に召されたとき、この井戸の水を汲んで献茶したと伝える名水で、度々の兵乱で涸れたが、天正年間(1573〜92)、織田信長の弟の織田有楽斎が再興したといわれる。
今は、その跡に碑だけが建つ。

観音寺は、最澄が自ら彫ったという本尊十一面観音を祀るが、台所の神様の三宝荒神として有名。
住吉神社は、藤原俊成が五条室町の邸に勧請した新玉津島神社に始まるといわれ、歌道の神様として信仰が篤い。
境内には柿本人麻呂を祀る人丸神社がある。

空也堂、山本亡羊読書室址

 堀川通

平安京の堀川小路にあたる。
北は竹殿北通りの北・賀茂街道から南は八条通に至り、油小路に接続する。
全長約七・九キロ

堀川通は、京都の中央部を南北に貫く堀川に、その名が由来する。
堀川の水源は明確ではないが、平安京造営以前まで、鴨川がこの川筋を流路したという説がある。
また、北山の京見峠に発した若狭川が伏流水を集めて流れ、平安京造営時には大内裏の資材運搬などに用いられたという。
朱雀大路を中心に、西堀川(紙屋川)と対をなして、東堀川と呼ばれた。

川幅は四丈(約十二メートル)。
中世には、美しい流れに鮎を捕って食べたという記録がある。
川沿いには堀川院、高陽院、冷泉院などの大邸宅が建ち並んでいた。

平安京造営のゆかりから川筋に材木商人も集まった。
丹波山城の木材をはじめ、遠く土佐、瀬戸内などの遠隔地から運ばれた材木が貯木され、商人は「堀川材木商人」とも呼ばれた。
「一遍上人絵伝」にも五条堀川に材木市が立ち、近江や丹波から運ばれた材木を組んだ筏の行き来する姿が見える。

長禄三年(1459)、祇園社に属する堀川十二町の神人材木座を結成、活況を呈した。

宝暦十二年(1762)に刊行された『京町鑑』には、堀川材木町として川筋に「堀川中立売下る富田町、同上長者町下る二町目、同下長者町下る三町目、同出水四町目、同下立売下る五町目、同椹木町下る六町目、同丸太町下る七町目、丸太町ほり川ひがし入丸太町」の八町があげられている。

近世以後は織物の町西陣を控えた環境と、豊富な伏流水に恵まれたこともあって、友禅染の染色業者の同業者町が形成された。

先の戦争までは、この人工的な運河に、川沿いの業者が水洗作業に使用した水を流して、川は藍色や紅色に染まった。
京都の染色界の好不況は、堀川の流れの色でわかったといわれる。

この堀川も、もはや往時の姿を見るべくもない。
昭和三十年代に水源を失い、わずかな水量を残したが、今は、水道整備で今出川〜丸太町間、丸太町通〜四条通間、西本願寺前などの一部が開渠されるだけで、ほとんどが暗渠になっている。

「堀川第一橋」と欄干に彫り込まれ、周囲の人々から「鶴橋」の名で親しまれた石橋の中立売橋、死出の旅から戻った宮中の文章博士三善清行や渡辺綱の鬼退治のエピソードを残す戻橋から、二条城前、川底に御影石を亀甲のように敷きつめた西本願寺前の堀割の風景が、わずかに「川」の姿を伝えているだけである。

堀川通は、この堀川の堀割を真ん中にして、もともと東西両側につくられた小路。
東は、東堀川通、西は西堀川通と呼ばれた。
現在の堀川通は、西堀川通にあたる。

先の戦争の終戦間際の昭和二十年三月、空襲による火災の類焼防止策として西側の民家を強制疎開、終戦後に市街整備計画で、幅五十メートルに拡張されて南北幹線道路となったのだった。

 

賀茂街道下る東西に史跡お土居
堀川北大路下る西側には紫式部の墓
狩野永徳・元信墓
紫明通下る東側に後花園天皇火葬塚
西陣織会館
晴明神社
一条堀川東入には、
謡曲「草紙洗」の舞台で知られる井戸が民家にある。小野小町と宮中の歌合せで詠草を競うことになった六歌仙の一人、大伴黒主は、その前夜、小町の邸に忍び込み、小町の歌に『万葉集』の歌を書き込んだ。やがて当日。黒主は、小町が差し出した歌を『万葉集』の盗作だと中傷する。濡衣に小町は、かたわらに汲んだ水で歌を洗ったところ、細工された歌が消え、黒主の敗北となる。

伊藤仁斎古義堂址
山崎闇斎邸址
高陽院址

 猪熊通

平安京の猪熊小路にあたる。
北は御園橋西詰めから十条通りまで。
途中、二条城や西本願寺などで中断。
全長約八キロ

猪熊通りは、平安京の道路企画からいうと、小路(幅員12メートル)にあたるが、当初から「猪熊」であったかどうかは問題がある。
鎌倉初期につくられた『拾芥抄』によると、その平安京図には、この小路の北端には異字同音で「猪隅」と書かれているし、また南端には「南市門」と二とおりの名が記されている。
「南門市」と名がつけられているのは七条大路を中心とした地域にあった、巨大な国営マーケット「東市」の南に市門があり、その市門前を通る道路が猪熊通りでもありながら、平安京の南域では、どうも「南市門小路」が通り名として通称されたらしい。

平安京図を見ると、北域には官衙町(官庁街)が展開している。
織部町・大舎人町・左衛門府町・修理職町・外記町・神祗官町である。
織部町・大舎人町というのは織物に関係深い町であるが、このような官営工房が軒を連ねていた。
いわば、今日の西陣機業地の原型がそこにあった。

中世以降になると、この通りの様子は大きく変わった。
南域にあった東市が解体してしまい、いつしか「南市門小路」の名が忘れられてしまったのである。
これに対し、北域では先端技術をもつ織物工業がいっそう活発に営みを始め、「猪熊」が残った。
それどころか、一条大路の平安京城を超えて道路が北神していた。
のちには、今出川以北を「北猪熊」と呼ぶことさえあったという。

十五世紀後半の応仁の大乱で、この通りも例外なく廃亡してしまった。
戦国期においては一条通以北にその道を残していたが、南の多くは失われてしまった。

江戸時代以降になって、この通りの本格的快復がはかられるが、北域では西陣機業地としての発展を担っているものの、南では二条城の築城などによって、道路は分断されてしまった。

明治以後、北は寺之内通、南は東寺道に至るまで貫通している。

 

紫竹小学校の北側に、お土居
西陣会館の南側に、晴明神社

 大宮通

平安京の大宮大路にあたる。
北は御園橋北から久世橋通の一筋南に至る。
途中、二条城で中断。
全長約十キロ。

「糸屋町には、傘いらん」
西陣の人は、かつて言った。
糸屋町は通称で、大宮通の北は五辻通りから南は元誓願寺通りまで。
大宮通に面して連なる芝大宮町、観世町、五辻町、桜井町、元北小路町、薬師町、石薬師町、北御門町の各町の総称である。
並んだ家々は、紅殻の千本格子に虫籠窓。
深い軒下をもっていて、軒を伝って歩けば、雨の日といえども濡れずにすんだというわけである。
「かしき造り」と呼ばれる深い軒下の構造は、命より大事な生糸を雨で濡らしては、という配慮から生まれた知恵であったのか。

大宮絹の名もあるように大路には宮廷織物を任された人々が住んだ。
その名残ともいえる織部町、大舎人町。
糸屋町の名は、江戸期の『京羽二重織留』には「糸屋町八丁」の名でみえる。
『西陣天狗筆記』には「分け糸屋」の名で、三十八件の糸問屋が並んだとある。
買いつけ商人が泊まる糸商宿屋もできた。
糸屋町の中心の今出川通りとの交差点は「千両ケ辻」の名でも呼ばれた。
一日に千両の荷物が動いたというのが命名の由来である。
千両の荷は、いうまでもなく生糸。

近くにある桃園小学校(今もあるのかな?)
明治二年、全国の小学校中九番目に開校した。
上京十一番組校、通称大宮校と呼んだが、明治二十年、現在の校名に。
開校当時、京都府の補助を仰がず、区内の糸商らの有志金を基金に用地を取得した。
校内の南に観世稲荷がある。
もと学校の命名の由来にもなった桃園親王の鎮守社。
その後、大和猿楽の観世三郎清次(観阿弥)が住んで、氏神として信仰した。
社内に井戸が残っていて、この井戸に竜神がおりたったとき、水面にわかに動揺して波紋を描いた。
これを紋様化したのが観世水(観世紋)のデザインの起源という。

 

名和長年戦没地 - 一条下がる東側
二条陣屋 - 御池通り下がる西側 (予約必要)
平家西八条殿址

 櫛笥通

平安京の櫛笥小路にあたる。
北は松原通から南は十条通りに至る。
全長約1.8キロ。

櫛笥は櫛、紅など化粧道具を入れる箱の意味。
通りの名前は平安時代、櫛笥大納言が住んでいたため。
その旧地が花屋町上る南谷家の櫛笥第だといわれる。

『空也上人絵詞伝』によると上人が嵯峨嵐山に住んでいた頃、三条櫛笥あたりを望むと紫雲が立ちのぼり、ここに市中道場極楽院を建てた。
これが天慶(938〜947)の頃だという。
この道場は応仁の乱で焼失した。
上京区日暮通椹木町上るに櫛笥町があるのは、平安時代の櫛笥通りが日暮通りにあたるため。

現在の櫛笥通りは松原通りの中堂寺西寺町から始まる。
末慶寺には「烈女富山勇子」の墓がある。
京都府庁前でのどを切って自害した富山勇子、二十七歳の若さであった。
詳しくは、「ロシア皇太子襲撃事件」関係の本を読んでください。

歓喜寺町は平清盛の西八条邸のあったところで、鹿ケ谷の謀議が発覚したとき、俊寛らを鬼界ケ島に流すなどの処分を決めたのもこの西八条邸。

 智恵光院通

北は大徳寺南門前から竹屋町通に至る。
全長約2・6キロ

『京都坊目誌』には寺之内通から下立売通となっている。
地元の人はNHK京都放送局の東側の通りも智恵光院通と呼んでいる。

平安京の大内裏の東部にあたり、かつては聚楽第のあったところ。
「山里町」は、秀吉がつくった聚楽第に山里の風景を採り入れた広大な庭園があった名残。
もちろん、今は偲ぶものはなにもない。

名前の由来は、浄土宗智恵光院という知恩院の末寺による。

 

衣懸塚 - 北大路通下がる東側
首途八幡宮 - 五辻通下がる西側 - 牛若丸が金売吉次と東国に向かうとき、ここで武運長久を祈願した。

 壬生川通

平安京の朱雀大路にあたる。
北は後院通から南は九条通。
全長約2.7キロ

平安時代からある壬生大路が起源。
二条大路で平安京の大内裏の美福門び突きあたるため美福門大路とも呼ばれたが、早くから荒廃した。
現在の壬生通は明治以降、市街地の拡大、西進にともなって広げられた。

壬生川は消滅した。

 浄福寺通

北は建勲神社の南から南は竹屋町通。
全長約2.4キロ

もとは寺之内通から丸太町通までだった。

秀吉の京都改造後に開かれた道で、笹屋町下がる浄土宗浄福寺が通り名の起源だ。
浄福寺は平安時代の創建。
現在地に移転したのは元和元年(1615)だから、それ以後につけられた名前。
東門が朱塗りのため、「赤門寺」とも呼ばれる。
境内には光格天皇皇女霊妙院や女流歌人柳原安子らの墓がある。
お堂には鞍馬山の天狗を祀る。

七面天女を祀る慧光寺は、吉野太夫ゆかりで有名な鷹峯の常照寺の本寺。

正親小学校の辺りが、聚楽第の中心にあたる。

寺之内通りの西に、猫寺として有名な称念寺がある。

 坊城通

平安京の坊城小路にあたる。
北は三条通から南は七条通りまで。
全長約2キロ

坊城小路の一帯が「壬生」と呼ばれるのも「壬」が水を意味し、水に縁が深いことからの命名なのだろう。
京野菜の壬生菜、芹などを産した。

綾小路の南に坊城通りを隔てて向かい合う二軒の門構えの家があり、新選組が屯所とした跡を伝えている。
東側が壬生郷士前川家、西側が壬生郷士八木家。
前川家の長屋門の出窓格子は新選組が改築した遺構である。
池田屋騒動のきっかけともなる志士の古高俊太郎が捕らえられ、拷問を受けた蔵が残る。
八木家は清川八郎が新選組を組織したゆかりの地であり、芹沢鴨や近藤勇が常舎とした。
芹沢はここで近藤に斬殺された。

四条通の西南角に、素戔鳴尊ほかを祀る梛神社。
本殿北側に祀られた隼神社は瘡神としての信仰があり、”くさがみさん”の名で、できものの平癒の霊験が伝えられる。

 

京都市中央卸売市場青果1号館の東側には、島原歌舞練場、輪違屋、角屋などがある。

 七本松通

平安京の皇嘉門大路にあたる。
北は寺之内通から南は十条通。
全長約6.4キロ

通り名は、宝暦十二年(1762)刊の『京町鑑』には「此通下の森に一株七本に分れたる松あり、故に通筋の号とす」とある。
平安中期の天暦年間(947〜957)に一夜にして七本の松が生えたからという伝承もある。

開通は『京都坊目誌』には元和元年(1615)と記している。

メモ
唐橋小学校の北には、西寺址がある。
洛南中学の東側には、琵琶塚児童公園

 御前通

平安京の西大宮大路にあたる。
北は北大路通のやや南から札の辻通に至る。
全長約7.2キロ

名前の由来は、北野天満宮の御前の道というところから、近代以後に通称されるようになった。

平安京の時代には西大宮大路といって、大内裏の西側の大きな道路であり、大路の規定に添って幅員二十四メートルに達した。
道路の中央を西大宮川が南流していたが、今はもう暗渠になって姿を消している。
北域では、大内裏に近接しているということもあって、官衙町(官庁街)がずらりと並んでいた。
兵庫町・右近町・右兵衛町・左馬町・兵部町などがそれで、今日でいえば、平安京の治安をあずかる軍人・警察官の町。

しかし、この西大宮大路は、平安京の中頃になると、二条大路以北の部分を残して、早くに退転し始めている。
が、この道路に沿って一条以北に、軍人・警察官の馬場があったためか「右近馬場通」という名もつけられていたようだ。
江戸時代には、この通り名が一般的である。
『京町鑑』という江戸期の記録にも、通り名の由来をそのように記述している。

たしかに北野天満宮が創建される十世紀以前までは、この付近は「北野の森」と称され、周辺一帯が広大な牧場であった。
多数の馬・牛が飼育され、「乳牛院」というミルク工場まで存在していた。
中世の天満宮には「大座神人」という牧童の座があったが、これなども、古代の牧場・馬場の名残である。

御前通りは、明治以降になって、大きく回復したが、道幅までは回復していない。

 

北野天満宮付近には、お土居二ヶ所。
今出川通り近くに、右近馬場址。

 西大路通

平安京の野寺小路にあたる。
北は北大路通りから南は十条通りに至る。
全長約7.6キロ

昭和初年から十年代までに都市計画道路として完成した幹線道路である。
平安京の道路でいえば、若干のずれがあるが、野寺小路に相当する。

小路名の由来である野寺は、一条大路の北辺にあり、飛鳥時代に建立した寺院といわれ、また秦氏の氏寺であったとする由緒ある寺であった。
四天王寺式の伽藍配置で、東西二百メートル、南北二百四十メートルの広大な寺域を誇っているが、一説には広隆寺の前身であるとされている。

平安中期以降には、早くも衰退の傾向をみせ、とくに平安末期から中世にかけては、都市的景観を失い、田園化している。
近世には、明確に洛外の農村の位置にあった。

この西大路通が京都市街の外郭線として完成したのは、昭和十八年のことであった。
昭和五十三年、市電全線廃止によって姿を消した。

 佐井通

平安京の道祖大路にあたる。
北は氷室通から南は西高瀬川左岸まで。
春日通りともいう。
全長約6.3キロ
西に佐井西通(全長約3.9キロ)がある。

明治・大正・昭和にかけて、順次開通された道路。
別名春日通ともいうが、地域によっては春日通のほうが通り名としてよく知られているから、まだ混用され、定着していない面もある。

春日通りの名は、西院地域にある春日社からとられたものという。

佐井通りは、平安京における右京の道祖大路にほぼ該当する。
幅員二十四メートル級の大路で、西洞院通大路に対称する道路となる。

平安時代までは、この大路に沿って四条大路あたりに、「西院」ともあるいは「南地院」とも呼ばれた。
方二町の淳和院があった。
淳和天皇の後院で、嵯峨・淳和両上皇が遊宴したところでもあり、幽居山水の地として知られていた。
淳和上皇が死去されたのちは、寺となり修行道場となっていた。

この道祖大路の中ほどには小河川が九条大路まで一直線に流れていた。
それを抜けた京外の地域は、平安京以前から「石原郷」と称されていたところであった。
ちょうど桂川と鴨川の合流点にあたっており、この周辺を「佐比河原」とも呼んでいた。
平安時代九世紀の史料にも、このあたりが近辺農民の葬送の地であり、放牧の地であったことを載せている。
しかも、この地には佐比寺という、王朝政府の帰依を受けた寺院も存在した。

道祖大路の運命は、そう長いものではなかった。
平安中期頃には、朱雀大路以西、つまり、右京の都市的衰退とあいまってしだいに消滅させられたのである。

ことに道祖大路に沿っては、南に行けば行くほど小泉・湿潤地が多数散在していた。
ややのちのこであるが、現在の西院地域を「小泉」と称していたほどである。
事実、十一世紀から十二世紀にかけての平安後期には、「西院小泉庄」とか「小泉御厩」などという名がみえ、この一帯が完全に農村化した様子を伝えている。

中世に入ると、さらに変化をみせ、戦国期には、このあたりに勢力をもった小泉氏が、四条通北の地域に小泉城を構えるほどになっていた。
近世に入ると、農道としての佐井通が切れ切れに出現するが、それが連なっていくのは明治以後のこと。

通り名も定着したものではなかったが、西院の地名、南の佐比河原の地名にちなんで、賽の河原伝説が生まれるとともに、佐井通が春日通とともに使用されるようになった。

 三本木通 (東三本木通・西三本木通)

北は京都府立医科大学の南から丸太町に至る。
途中(京都地方法務局南側)、東三本木通と西三本木通に分かれる。
丸太町通近くで再び合流。
総長約 0.8キロ。

三本木通という名も珍しい。
事実、この通りの周辺を「新三本木」とも称している。
「新三本木」があるからには「旧三本木」もあるはずである。
貞享二年(1685)刊の『京羽二重』には「洛陽異名」として「旧三本木」のことが掲載されていた。

「旧三本木」。
もとの三本木は、中心部の東洞院通に沿って町並みをつくりあげていた。
北は出水通から南は丸太町通にかけて、上三本木町・三本木二町目・三本木三町目・三本木四町目と続いていたのである。
この地域と通りは、現在は京都御苑のなかに入ってしまって、その姿をみることはできない。

もとの三本木の各町から引っ越してきた人たちがつくりあげたものだった。
その引き金になったのは、宝永五年(1708)の京都大火である。
これを機会に京都町奉行所では、防災の上から御所近辺の拡張と整備を決意し、新たに替地を準備して、御所周辺の町々を移転させた。
これはかなり大規模なもので、移転先は総じて、鴨川以東に集中している場合が多い。

江戸中期の諸書には「新三本木」「三本木」と記されている。
鴨川以西のこの地は、当時荒神河原あるいは近衛河原と称された、比較的未開発の地域であったが、大火による移転によって一変した。
新三本木には「旧三本木」の町人だけではなく、門跡・公家・大名京屋敷・御所役人などがともに移り住んでいる。
かの有名な桂昌院御用屋敷もこの地にあったというから、一時は、御屋敷町の観さえあった。

その新三本木が通りに沿って展開しはじめて数十年後、町人町には北から順に上之町・中之町・南町という町々が形成された。
しかも、その後の発展は遊所として知られるようになった。
諸書に「洛下遊宴の地」として紹介されているが、この地がスタートした時には、「旅籠屋二軒」と記される程度であったから、接客業の拡大はめざましいものがあった。
町芸者も出現していたが、この芸者は舞系の人たちが多く、かなり上品なものだったという。
一味ちがった遊所であった。

幕末期には、さらに繁盛をみせていた。
料亭もいっそう充実をみせ、多くの志士が出入りしていた、
なかでも吉田屋は勤皇派が出入りするところとして知られており、木戸孝允もあやうく新選組にここで殺られそうになったが、虎口を脱している。
幕末期の三本木は、勤皇・佐幕の武士たちが入り混じって往来する通りだったといってよい。

名所として、水西荘がある。
「山紫水明処」のこと。
頼山陽は文政五年(1822)に、ここ三本木南町に移った。
居宅全体が水西荘、その鴨川に面した離れ屋が「山紫水明処」である。
天保三年(1832)、山陽はここで没している。

学問的雰囲気でいうなら、この地にあった清輝楼(現大和屋)もそうである。
明治期に入ってこの通りにあった遊所は、明治五年に廃業となったが、その残された料亭清輝楼は、京都法政学校(立命館大学前身)の開講場となった。
その後の変化は大きい。
三本木通りの北域に京都府立病院・医専が誕生した。

 

大和屋旅館の北に「三本木遊郭址」、南側に「山紫水明処」

 ニノ宮町通
 三ノ宮町通
 須原通

 土手町通

北は丸太町通りから南は七条通りに至る。
途中、夷川通〜上ノ口通間で中断。
全長約 0.7キロ

土手町通の地名は、豊臣秀吉が天正十九年(1591)に築いたお土居による。
京都防衛、鴨川氾濫防止などのため、秀吉は東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯、南は九条に延長22.5キロのお土居(土堤)を築いた。
内側を洛中、外側を洛外とした。

ところが京都市街の発展につれてお土居が邪魔になり、宝永五年(1708)鴨川西岸のお土居を撤去して道路とした。
この頃には鴨川西岸の堅固な堤防が築かれており、お土居の役目は終わっていた。

土手町通は京都御所の東南にあたり、有栖川、近衛、鷹司などの公卿屋敷があった。
その名残が竹屋町通土手町東に旧木戸孝允邸。
旧木戸邸は昭和十八年、遺族がそっくり京都市に寄贈したが、市では母屋と達磨堂だけを残し、そのあとに職員の厚生施設を建てた。
母屋は木造二階建て、書院風のものだが、いつもは雨戸を締め切ったまま。

明治維新の画期的事業にゆかりの通り。
現在の銅駝美術工芸高校は日本の化学技術の夜明けを告げた舎密局の旧地。
セイミはオランダ語の化学を意味する。
舎密局は明治三年、河原町二条のの旧長州藩邸跡に仮開局、明治六年、土手町通夷川に本局を開設した。

丸太町橋西の南側に「女紅場址」の石碑が建つ。
女紅場とは婦女子の教育機関。
明治五年、土手町通丸太町下がるの九条家河原町別邸跡に建てられた「新英学校女紅場」が最初。
これがのちに英女学校女紅場から府立第一高等女学校を経て、現在の府立鴨沂高校に発展した。

明治六年には祇園、島原、北野上七軒に遊所女紅場が設置され、「手に職を持つ」女性の育成につとめた。
先斗町花街にも芸妓の教育機関として女紅場が作られ、明治二十八年、現在の先斗町歌舞練場が作られた。

 中町通
 新椹木町通
 新烏丸通

 裏寺町通

北は六角通から南は四条通に至る。
全長約 0.4キロ。

裏寺町通ができたのは、豊臣秀吉が寺町を造成してからのことである。
裏寺町という言葉が定着したのは、判然としないが、江戸期後期頃には、寺町通に対する裏寺町通として通称されていたらしい。
西側には中世以来の四条道場金蓮寺をはじめとする大寺が並んでいたが、東側には、十か寺以上に及ぶ浄土宗を中心にした小寺院が軒を並べていた。

元禄期頃(1688〜1704)になると、この裏寺町通にもちょっとした変化がおきていた。
四条道場金蓮寺境内に見世物小屋や芝居小屋が出現するようになり、雰囲気が変わってきたのである。
季節によっては「立花会」が興行されたこともあり、たくさんの老若男女が往来するようになっていた。
人が集まれば水茶屋ができ、その水茶屋が人を呼ぶことになる。

明治維新後は、さらにこの通の西側に新京極通が出現し、繁華街として大変貌を遂げる。

 

丸寿(蛸薬師通上る東側)

 間之町通

北は丸太町通りから南は七条通下がるに至る。
途中、姉小路通〜高辻通間、松原通〜万寿寺通間で中断。
全長約 2キロ。

『京町鑑』によると、高倉通と東洞院通の間にできた通りなので「間之町通」と通称されたという。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による京都大改造計画によって誕生した通りである。

途切れ途切れに続くこうした通りは、とくに南北通りに多く見られる。
これは京都改造期の京都の都市改造の結果生まれたものでだった。
戦国期のおよそ百年、京都は一条通以北に上京の町々があり、下京の町々はほぼ三条以南、松原通以北に集中していた。
つまり、上京と下京の町々の間には、約二キロにわたって田畑が展開するという、かつてみたことのない都市景観が広がっていたのである。
早くいえば、京都は上京と下京の二つの町からできあがっていたのである。

この南北に離間していた二つの町を連続させようとして計画されたのが、秀吉による壮大な都市改造であった。
間之町通も、こうして田畑地の真ん中を貫通させてできた通りである。
当初は、北が上長者町通から出発して道路開発が行われていた。
下京に至ると、既に町が形成されており、姉小路あたりからは南北に貫通させることができないので、そこでストップ。
あとの万寿寺通以南は田畑地であるから、また七条通まで開通ということに相成ったのであった。

間之町通も、当初からその通り名が定まっていたわけではない。
今在家通、新在家通という名で呼ばれていたこともあったが、これは十七世紀の後半で消え、間之町通という名が定着したらしい。

 

上村松篁邸(丸太町下がる東側)・六条院址(五条下がる下京税務署南側)

 車屋町通

北は丸太町通りから南は姉小路通りに至る。
全長約 0.8キロ

天正十八年(590)に開通した通りで、秀吉の手による産物。

当初、北は出水通から貫通し、南は姉小路にまで至った。
姉小路から松原通りまでは中断し、この通りはさらに南下することになるが、この通り名は「不明門通 あけずのもん」となっている。
通り名の由来については、『京都坊目誌』が「天正以来、車輛製造の者、此街の南に住居せしより名とす。一に車屋町突抜と称せし」と載せているが、現在も姉小路通・東洞院西入るには車屋町がある。
『京羽二重』には「車かじ」の職業が載せられ、また『京雀』によると、この町には「車借」の業者が多かったと記されているから、輸送業者や車鍛冶の人々が集住していた地域であったことは間違いなかろう。

やはり宝永五年(1708)の大火で、京都御所拡大により、町人町の移転が行われた。

この通りに沿って少将井御旅町(京都新聞東側)がある。
ここにかつて祇園社の御旅所があったことで有名だった。
この少将井の名水が、悪疫を払う名水なのであった。
江戸時代までは、近郊近在からこの霊水を汲みにきた、という話が残されている。

 不明門通

北は平等寺山門前から南は塩小路通に至る。
全長約 1.3キロ。

通り名というのは、平安京開設以来、ニックネームであった。
ニックネームであるから、時代によって変わることもあれば、場所によって呼び方が異なることもある。
一つの通りで三つの呼称があったことも、しばしばである。
天正十八年(1590)に開通したこの不明門通もそうである。
現在は「あけず」と呼ぶが、かつては少し違った。
しかも、この不明門通、北の方では「車屋町通」である。

『京羽二重』によると「松原通より南へ七条通まで、因幡堂つきぬけとおり(通)とも、あかずのもん通共いふ」とあって、元禄期(1688〜1704)前後はまだ「因幡堂突抜通」といったり、「不明門通」といったりして、十分に定着してはいなかったらしい。
そのほか「薬師突抜」とも称したらしいから、おそらく三つの呼称がよきように使用されていたのである。
現在の「あけず」に統一されたのは、はっきりとはしないが、幕末期から明治期にかけてのことだろう。

さて、どうしてこの通り名がついたのか。
いずれも松原通りにある因幡薬師堂(平等寺)にちなんでのものであろう。
『京都坊目誌』によると、松原通に南面してあった門が「常に鎖して開かず」、そこから「あけずのもん通」が生まれたとある。

因幡薬師堂は、平安期以来のお堂であった。
平安期には京中に仏寺を建立することが禁止されていたが、お堂に類するものは黙認されていた。
たとえば、革堂・六角堂・千本釈迦堂は、因幡薬師堂とともに京の「町堂」として信仰され、古くから存在していたものであった。

 

菊姫神社(五条上る東側)・法蔵館(正面通/中数珠屋町通南側)

 諏訪町通

北は高辻通りから南は花屋敷町通に至る。
全長約 0.8キロ。

諏訪町通は二つあった。
それはご丁寧にも東西通りと南北通りにあり、しかもややこしいことに、この二つの通は交差していた。

この諏訪町通は、天正十八年(1590)に開通されたものであり、北域では両替町通と呼ばれた。
例によって、南北通も北と南では呼称がことなるのである。
両替町通は丸太町通りから発して三条通でストップしているが、南域では高辻通りから南下して花屋町通りまで至っている。
東は烏丸通、西は室町通にはさまれたか真ん中を貫通している。
いわゆる秀吉による都市改造の短冊切の都市計画道路である。

おそらく、この通りは七条通まで貫通していたようである。
それが花屋敷通で止まっているのは、慶長七年(1602)二月、本願寺門主であった教如が、新たに徳川家康によって四町四方の寺領を寄進され、ここに東本願寺が創立され、道路が消滅されたことによっている。
慶長七年頃のこの地、「東六条」あたりは、東本願寺建立に続いてやたらと建設ブームがあった。
東本願寺寺内の拡張があり、諏訪町通の周辺にも町々の建設が目立っていた。

しかもその上、もう一つ耳目をそばだてる出来事が起こった。
それは二条柳馬場にあた「二条柳町」と呼ばれる日本最大の遊里が、この東本願寺の北側に移転を命ぜられるという話である。
これも慶長七年のことであった。
「六条三筋町」の成立である。
有名な吉野大夫もこの三筋町に住んだ。
この時、もう一つの諏訪町通(東西通り)が出現した。
東洞院通から新町通に至るまでの短い通りである。
この通りは、通りに面して諏訪神社が鎮座していたので、「すわのとおり」と呼ばれた。
六条三筋町の遊里では下ノ町の通りにあたる。

江戸時代の長い間、諏訪町通といえば、この東西通の諏訪町通を指していた。
とすれば、南北の諏訪町通はどう呼ばれたのか。
この通りも、諏訪町通と呼ばれて混用されていたのである。
明治以後、東西の諏訪町通は「的場通」と通称されるようになっているが、その由来も確かではない。
ともかくも、南北の諏訪町通が確定し、一つとなったが、この諏訪町を「すわんちゃう」と呼んだのは、「すわのちゃう」の音便変化である。
ひょっとして、江戸時代は「すわ」と「すわん」の呼び変えで、東西・南北通りの区別をしていたのかもしれない。

 小田原町通

 若宮通

北は高辻通りから南は七条通に至る。
全長約 1.2キロ。

新町通りと西洞院通の間を貫通しているのが、北域では釜座通で、これは丸太町通から三条通で終わっている。

この若宮通の由来は、六条西洞院にあった若宮八幡の神領を貫いてつくられたところから、そう名付けられたという。
若宮八幡は、現在、五条橋東五丁目に移転しており、かつての鎮座場所とはかなり離れたところにあるが、陶器の神様も合祀されて、このあたりの陶芸家たちからも尊崇される神社となっている。

所伝によると、若宮八幡は、もと源頼義の屋敷神として祀られていたものだという。
確かに平安後期には、左女牛西洞院には源頼義の邸宅があり、この説を裏付けるような雰囲気はある。
実際、若宮八幡宮は源家の信仰が篤く、源頼朝などがこの神社に対して熱心な寄進を行っていたことは事実である。
室町時代に入っても、源氏の一族を自認する室町将軍家からも尊崇され、社地の拡大をはじめ、多くの荘園が寄進されているのをみても、その熱の入れ方がわかる。
むしろ、室町時代において、若宮八幡の勢力は最高に達したとみたほうがよいのかもしれない。
とにかく堂々たる構えの境内が「足利義持参詣図会巻」のなかに描き込まれている。

この若宮八幡に由来する若宮通は、天正十八年(1590)に開通した。

高辻通りを出発点としているが、そこは菅大臣社の門前町を形成していたところであった。
菅大臣社は、菅原道真の邸宅跡(紅梅殿)として知られ、その邸宅跡に社殿がつくられ、神社となった。
かなり大きいもので当初は方一町のものだったという。

この門前の町は、菊屋町といった。
それで若宮通りは、当初から江戸後期の十九世紀初頭まで菊屋町通といわれていた。
菊屋町は寛永年間(1624〜44)には「だいうす町」とも呼ばれていたようで、『京雀』にも、キリシタン・バテレンが住んでいたので、そう呼ばれたと記している。
この菊屋町通は、同時に仏具屋町通とも呼ばれている。

 西中筋通
 東堀川通
 西堀川通
 葭屋町通

 岩上通

北は御池通りから南は塩小路通に至る。
途中、松原通〜下魚棚通間で分断される。
全長約 1.9キロ。

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の京都大改造後に新通された通りである。
堀川通りと猪熊通りの間に設けられた道路であって、もともとは、元誓願寺通より、松原通にまで至っていた。
それが現在のように分断されたかたちになったのは、慶長七年(1602)、徳川家康が幕府直轄都市としての「京ノ城」、二条城を構築する計画を推進したからであった。

幕府はこの時、北は丸太町通以南、押小路通以北、堀川通以西を域地として指定し、この区域にあった町人の移転を命じたが、岩上通筋の町人もこの時七条通以南に移転しており、同時にこの区間の通りは消滅した。
これによって、北域の元誓願寺通より丸太町通間の新道は、「葭屋町通」となっている。
それがいつ、どういう理由で名付けられたかについては判然としないが、元禄期(1688〜1704)までには、組糸・絹糸類の商いを営む業者たちの集住する通りとなっていた。
いわゆる西陣機業の人々である。
しかし、この通りの出水通下ル町の元福大明神町には、江戸前期の著名な学者山崎闇斎が講席を開き、有名となっていた。
垂加神道を唱えた大学者であり、江戸・京都を往復しながら没するまで、ここに住んでいた。

南の通りは、岩上通と呼ばれた。
御池通から出発して松原通に至る、約1.9キロの通りである。
江戸前期には「岩神通」が一般的に使用されているが、『京雀』には「此町に岩神の社ありける故に、此筋を岩神筋ともいふ」とする通り名の由来を載せている。
江戸中期になると、「岩上通」になってきたようで、宝暦十二年(1762)刊行の『京町鑑』には、通り名の由来として「岩上といふは、六角下ル町に岩神の社あるによりて通の号」とすると記している。

実際、六角下ル町の現岩上町には「石上神」を祀る岩上宮と中山神社(石上寺)が所在する。
江戸時代、平安期以来の伝統を持つもの社は、子育ての神社として京女に深く信仰されたものだった。
同神社が母乳の神様として知られたからである。
社には「乳汁漏出」の絵馬が、多数神前に掲げられていたという。

 

フランシスコの家(四条通下がる西側)・妙満寺址(二十六聖人発祥之地)四条通下がる西側

 黒門通

北は元誓願寺通から南はJR東海道本線に至る。
途中、丸太町通〜押小路間、松原通〜下魚棚通間で分断される。
全長約 3.5キロ

天正十八年(1590)、豊臣秀吉の京都大改造後に新通された通りである。
開通当初は一直線に松原通まで通じていたが、丸太町通〜押小路通は、慶長七年(1602)の二条城築城によって城域となり、通りは消えてしまった。
通り名は当初からそう名付けられたかどうかは、あまり明らかではない。
しかし、江戸中期頃には、一般的な呼称として、そう呼ばれていたらしいが、それも元誓願寺通〜丸太町通間の、限定された地域だけだった。
黒門通の通り名の由来については、『京町鑑』に「太閤秀吉公聚楽城の鉄門の有し通ゆへ号す」と記しているが、事実、この通りは破却された聚楽第の城地の横を通り抜けている。

この黒門通、二条城より南の御池通以南では、さまざまな呼称が江戸時代にはあったらしい。
『京町鑑』の伝えるところでは、御池通を南へ下がったところで「新シ町通」、四条通あたりでは「御太刀松通」、仏光寺通あたりでは「竹屋町通」とややこしい。
いやまだある。
御池通以南を、「丹波屋町通」あるいは「新シ町通」を呼称しているのである。
呼称の不統一は、明治にも持ちこされ、黒門通に統一されたのは、昭和も戦後になってからであった。

 

所司代屋敷跡(二条城北)

 松屋町通
 下松屋町通
 日暮通
 西日暮通
 神泉苑通
 美福通
 矢城通
 裏門通
 土屋町通
 大門通
 後院通
 新千本通
 六軒町通
 東新道
 西新道
 下ノ森通
 東御前通
 檜町通
 天神通
 西土居通
 高山寺通


 若狭街道

出町柳付近から高野川沿いに北西方向へ進み、大原から滋賀県大津市の伊香立途中町を抜ける。
さらに安曇川沿いを北上し、高島郡の保坂で今津から来た九里半越に合流、その道を一直線に福井県小浜まで、延々六十八キロの道程。
別名鯖街道。
小浜で捕れた鯖に一塩し、この街道を京都まで運んだことから、人々はそう呼んだ。

鯖だけではない。
鰻も運ばれた。
江戸時代の終わり頃、若狭久々子湖で捕れた鰻を京都まで運び、巨利を得たものがいる。
川渡甚太夫。
彼は、その金を元手に船を買い、日本海を北上、蝦夷の産物を西廻りで大坂に運び、さらに富を得た。
いわゆる北前船の船頭である。

その若狭街道について、今も寺町通今出川を少し西に入ったところに、大原口町という町名が残っている。
京の七口の一つ大原口がこの付近にあったことによる。
『京羽二重』という江戸時代の案内書には、「大原口、寺町通今出川通東河原へ出る所」と記されている。
鴨川を渡ると、もうそこはお土居の外、洛外の地である。
この大原口付近、寺町通今出川の角に、今も一本の道標が建っている。
慶応四年(1868)の建立だが、他の道標に比べて珍しいのは、石面に刻まれた文字数の多さである。
標の指し示す地名を列挙すると、下かも(下鴨)、吉田、真如堂、比ゑい山、黒谷、坂本越、かう(革)堂、六条、清水、六角堂、祇園、三条大橋、内裏、金閣寺、あたご、北野、御室、上御霊、くらま、今宮、上加茂、大徳寺と、実に二十二か所にのぼっている。

道を田中から高野へと進む。
旧道を進み琵琶湖疎水の分流を越えたところに、賀茂波爾神社(通称赤の宮)が鎮座する。
下鴨神社の境外摂社で、延喜式内社でもある。
当社の本殿右脇には波爾井の御神水があり、今も清涼な清水が湧き出ている。
境内に一株の桜樹がある。
「鐘紡の桜」で、明治の末年、高野の地に鐘淵紡績の工場が開業した。
高野は明治から大正にかけて鐘紡の街といった風であった。

北山通りを越えると、山端の町並み。
山端は街道筋の腰掛茶屋が発展してできた集落。
今でも鯰料理の十一屋や、麦飯とろろが名物の平八茶屋が店を構えている。
十一屋は寛永年間(1624〜44)の創業だが、平八茶屋はさらに古く、永禄年間(1558〜70)に始まるという。

上高野で高野川を渡る。
天台宗の蓮華寺がある。
庭園の作庭は石川丈山とも小堀遠州とも伝え、定かではない。
新緑も紅葉も素晴らしい。

蓮華寺の東の山の手に鎮座する崇道神社は、早良親王(崇道天皇)を祭神とする。
同社を左に拝しながら、道を辿ると、八瀬に入る。
かつて朝廷の駕輿丁を務めた八瀬童子の里である。
八瀬から比叡山頂にケーブルが開通するのが大正十四年。
それと同時に遊園地も開業したが、近年閉園。

道はやがて大原の里へ。
花尻橋を越えた左手に明治四十二年建立の道標が建っている。
「魚山(三千院のこと) 右へ十八丁」「大原御幸古墳 寂光院 □□十八丁」と碑面に見える。
□の部分は「左へ」の二文字が刻まれていたのが、街道の開通とともに消されたのだろう。
壇ノ浦で我が子安徳天皇とともに入水した建礼門院は、はからずも助けられ、出家後寂光院に身を隠した。
墓は寂光院の東北隅にあり、建礼門院大原西陵と呼ばれている。

かたや三千院は、天台宗の門跡寺院。
現在の寺号は明治四年からのもので、古くは梨本房、円融房、梶井門跡などと呼ばれていた。

寂光院から旧道に出て、そのまま道をまっすぐ進むと古知谷に着く。
そこから山の手に六百メートルの坂道を登れば、阿弥陀寺である。
坂はかなりきつい。
光明山法国院阿弥陀寺。
慶長十四年(1609)、弾誓上人が如法念仏の道場である。
京都最北の仙境と呼ぶにふさわしい。

まだ若狭の地は遠い。

 三条街道

三条大橋を起点に江戸日本橋まで百二十六里六町一間、ざっと五百キロ。
この道が、江戸時代の五街道のなかでもっとも重要な意味をもった東海道である。

三条通をまっすぐ東へ、東山三条を越えると白川に出る。
白川橋のたもとに京都最古の道標が建つ。
延宝六年(1678)建立。
知恩院・祇園・清水道を示す道標だが、碑面に「京都無案内の旅人の為に之を立つ」と刻まれている。
ウェスティン都ホテルから蹴上げの発電所と浄水場、さらに琵琶湖疎水のインクラインへと道は続く。
いずれも京都の近代化を演じた主役たちである。
発電所は、琵琶湖疎水が開通した明治二十三年に起工、完成は翌二十四年、我国最初の水力発電所である。
日本で最初のものがもう一つ。
京都の市電も、この発電所の電力によってはじめて都大路を走り抜けている。

九条山付近の壁を注意深く見ると、中央に車の轍の跡が抉られた長方形の石が、国道沿いの擁壁に利用されている。
「車石」と通称される敷石で、江戸時代も終わりに近い文化二年(1805)、京都〜大津間に牛車通行の便にと敷設された。
三条通り九条山のカーブ付近に旧東海道へ入るところがある。
旧東海道の南側に梅香庵跡、亀の水不動から湧き出る清水は今も冷たい。

「五条分かれ」の道標は宝永四年(1707)の建立。

奴茶屋とう名店がある。
伝えによれば創業は文安四年(1447)。
今からざっと五百五十年前のことである。
此家の先祖に片岡丑兵衛という者あり。
勇猛の奴、殊には射術の達人也・・・・・盗賊ここかしこに起り旅人を悩ます事数知らず。
丑兵衛見るにしのびず弓箭を帯しかの盗人等を討亡し、人家もなかりければ此所に茶店を建て、表には兵器をかざり、つねに弓矢を携えて山中の間旅人を送り迎ふ。
『拾遺都名所図会』に紹介された奴茶屋の由緒である。
皇女和宮や明治天皇が利用した座敷も今に残るが、JR山科駅前の再開発計画により、建物は取り壊され、ホテルで営業再開らしいが未確認。

「山科三条会」、その商店街のなかにある三品菓舗という菓子屋の前に、昭和二十三年の新しい道標が建っている。
「京三条はしまで一里半」「大津札の辻まで一里半」。

さらに道を行くと、四ノ宮川にさしかかる。
今は川幅も狭く、知らぬまに通り過ぎてしまいそうになるが、遠く平安時代から幾多の文献に登場する「四宮河原」は、このあたりだったのかもしれない。古くからの交通の要衝として市場も開かれ賑わったが、また要衝の地ゆえに格好の戦場ともなり、『平家物語』や『太平記』にもその名が登場する。
近くの徳林庵は、人康親王が出家後、この地に移り住んだことから、親王の霊を弔うために創建されたという。
人康親王は仁明天皇の第四皇子であることから、四宮の地名もつけられた。
江戸時代、親王は琵琶の祖と仰がれたことから、毎年検校位をもつ盲人が全国から集まり、その腕が競われたともいう。
徳林庵門前の六角堂には四宮地蔵が祀られる。
京都六地蔵の一つ。
その右横のお堂のなかには、文化十年(1813)、「京都三度宰領中」と陽刻された釜が残っている。
京都・江戸・大坂を行き来した三度飛脚が、この地で喉の渇きを癒したのだろう。

追分に出ると、「柳緑花紅」と刻まれた道標が、伏見からの街道との合流点を示している。

いよいよ大津。

 大和大路通

北は三条通から南は一橋小学校の南に至る。
三条〜四条通間は縄手通ともいう。
全長約 2.9キロ

大和大路通りの三条〜四条通間を特別に縄手通と呼ぶのは鴨川東岸の土手(畷)道の意味で、細い縄のような畦道だ。
『洛陽勝覧』(1737年)には「縄手、大和大路と称す。いにしへの大和街道なればなり。この筋、元結屋多く、名物なり。東側商売家にして西側多く茶屋なり。これを縄手の茶屋と言ふ。この辺、洛中随一繁昌の所なり。茶立女あり」と記し、五十九軒の茶屋があった。
茶立女は茶屋で食事やお茶を出す女で、実質的には遊女とかわらなかった。
『洛陽勝覧』は芸者を呼んで芝居に連れ出したと記す。
大和橋の南には金屋という仕出し弁当屋があり、九重弁当が八十文、八重桜が六十四文。
うどん、そばきり、豆腐、酒を出前し、野風呂まであった。
茶屋の名前が「吉野」「嵯峨」「玉鍵」「吉文字」「松葉」「大和」などなまめかしい。

大和大路通は三条通〜四条通間を縄手通、四条通〜五条通間を建仁寺通、五条以南を大仏仁王門通と呼んだ。
現在は四条通以南はすべて大和大路通と呼んでいる。
大和大路通りは三条大橋東の大橋町から始まるが現在、京阪三条駅に取り込まれている。
バスプールのあたり五軒町は江戸初期、五軒しか家がなかったという。
大和大路三条下ル東の大黒町には四軒寺として、西願寺、三縁寺、養福寺、高樹院があった。

京阪駅の南が有済小学校。
その校庭にある榎の大樹は木曾義仲の愛妾山吹御前の墓と伝えられ、榎明神として大事にされている。
木曾義仲は源範頼・義経の軍に敗れ、大津の粟津に逃れて討死した武将。
大正四年発行の『京都叢書』に「若松町西南四一〇番地。地域十六坪のところに古椋の大樹に株生ぜり。その根のところに宝篋印塔の破損せる墓標あり。土人つたえて山吹御前の墓という。木曾義仲の寵妾なり」と出ている。
現在の大樹は榎だが、この不思議な伝説のいわれはよくわからない。
有済小学校が昭和十二年に改築されたときにはこの榎を避けて設計した。
祟りを恐れたためらしい。

大和大路通の四条を南にとれば臨済宗建仁寺派総本山建仁寺が見えてくる。
繁華街になぜ禅寺がと思うかもしれないが、これは逆で明治の上知(地)令で建仁寺の膨大な寺地が国に召し上げられたのだ。
それ以前の建仁寺の敷地は四条通まであった。
建仁寺は京都五山の第三位。

建仁寺は建仁二年(1202)栄西禅師の開創。
土御門天皇の勅願寺で寺号は年号による。
比叡山延暦寺が年号から寺号としたように天皇による寺名の下賜だ。
栄西禅師は日本に茶をもたらした人。
毎年四月二十日、建仁寺本坊で四つ頭茶礼が開かれる。

五条通を越えて正面通に出ると、秀吉の大仏殿方広寺の巨大な石垣。
重さ数十トンという巨大な石が組まれている。
秀吉が全国の大名に命じて集めた巨石で、運ぶのに難儀した「泣き石」の名前も残っている。

大仏は創建以来、落雷、地震などで何度も倒壊し、寛永の地震の時には大仏が潰されて寛永通宝として流通、世に「大仏銭」と呼ばれた。
方広寺大仏殿周囲には「棟梁」の名のつく町が多いが、大仏殿造営にちなむものであろうか。
大仏(木造)は昭和四十八年に焼失したまま。
方広寺大仏殿は豊臣家にとっては忌まわしい「国家安康 君臣豊楽」の銅鐘と石垣が残るのみ。
大仏は秀吉の意思に反して悲劇の歴史の連続である。

方広寺の南隣は豊国神社。
秀吉を祀るが豊臣家滅亡で荒れ果てていたのを明治新政府が再興、唐門は伏見城の遺構といわれ、国宝である。
神社の西側に耳塚と耳塚児童公園がある。
秀吉の命で朝鮮出兵した文禄・慶長の役で朝鮮兵士の耳や鼻をそいで塩漬けにして持ち帰った。(異説あり)
その供養塔。
勲功のしるしだが、残酷な話だ。

国立博物館は皇室の御料地だった現在地に明治三十年、開館した。
国宝、重要文化財の仏像、絵画、工芸品など六百点を含む八千点を展示する有数の博物館。
本館前に、源義経の家臣佐藤継信・忠信兄弟の墓といわれる「馬町十三重石塔」二基が残っている。
正門西には「太閤石垣」がある。

三十三軒堂は後白河上皇の勅願で、平清盛の造営。
方広大仏殿ができて、その山内の千手堂になったことがある。
現在は妙法院門跡に属する。

 

祇園女子妓芸学校分教場 (新門前通縄手東入ル南側)・仲源寺-目疾地蔵- (四条通大和大路東入ル南側)・恵美須神社 (大和大路通八坂上ル西側)

 大手筋通

伏見城の大手筋。
東は桃山御陵から国道一号線に至る。
全長約 2.5キロ

伏見の里、伏見野辺などと、平安時代の歌枕に詠まれた伏見の地は、中世には伏見九郷と呼ばれる農村地帯として、古記録類に登場する。
その景観が一変したのは、天正末年から文禄年間(1592-96)の十六世紀も末頃、豊臣秀吉による伏見城の築城と、それにともなう城下町の建設によってである。

とりわけ文禄三年、それまでの隠居城を本格的な城郭とすべく、秀吉は伏見城(指月城)の普請にとりかかった。
城下の大名屋敷建設も着手されていたが、時あたかも文禄五年閏七月、畿内を襲った大地震によって、城の主要部分や大名屋敷が大破してしまった。
秀吉は即座に城地の移転を決意し、伏見山に再建の槌音を響き渡らせた。

槙島堤を築いて宇治川の流路を変えるなどの土木工事を起こし、伏見〜大坂間の水運を開いた。
さらに京都と奈良を直結させる伏見街道などの陸路を開いた。
城下建設当時の規模は不明だが、江戸時代の終わり頃、天保年間(1830-44)で人口四万、町数265か町であった。

伏見山の山上が明治天皇御陵。
明治四十五年八月六日、伏見城の跡地、紀伊郡堀内村大字堀内小字古城山に、御陵の建設が発表された。
御陵参道の南側には大正五年、殉死した乃木希典将軍を祀る乃木神社も創建され、伏見はいちはやく「聖地」となったのである。

伏見九郷の総鎮守、御香宮が鎮座する。
南面する表門はどっしりとした薬医門。
重要文化財である。
境内に入ると、すぐ左手に伏見義民の碑が建つ。
天明五年(1785)、時の伏見奉行小堀政方の圧政に抗議した伏見町年寄文殊九助、丸屋九兵衛、麹屋伝兵衛らは江戸に下り、寺社奉行に越訴を敢行、幾多の曲折の末、町民らの決死の嘆願が聞き届けられ小堀政方は領地没収となった。
町民たちが勝訴した珍しい、しかも輝かしい事件であった。
その石碑が御香宮神社の参拝者をまず迎える。
本殿は、慶長十年(1605)再建。
桃山様式を伝える五間社流造り、檜皮葺き。
この建物も重要文化財である。
その左手には、日本名水百選に指定された名水が今もこんこんと湧き出ている。

時は幕末、鳥羽伏見の戦いでのこと。

ここ御香宮は薩摩軍の屯所となり、対する新選組などの幕府軍は、南にわずか数百メートルの伏見奉行所(現市営桃陵団地)に布陣。
両軍の間で激しい戦闘が交わされた。
鳥羽伏見の戦いいちばんの激戦地とされており、伏見の町も大きな被害を受けたのである。
京町通の老舗料理屋魚三楼の表の格子には。当時の鉄砲玉の跡が残され、かつての激戦の様を伝えてくれる。

古来、伏見は「伏水」とも呼ばれた。
桃山丘陵から流れ出る豊富な地下水が伏流水となって、銘酒をを生み出すのである。

 鞍馬街道

葵橋から鞍馬寺門前を経て、広河原に至る。
全長約 30キロ

深泥池のバス停を過ぎたあたりから、道は急に細くなり、一挙に旧街道という雰囲気になる。
かなり急坂の峠を越えると、右側に円通寺が見えてくる。
江戸時代の初め頃、後水尾上皇は洛北の地、長谷・岩倉・幡枝の三ヵ所に山荘をこしらえた。
円通寺は、その幡枝離宮の跡である。
比叡山を借景にした雄大な風景が待ち受けている。

市原までのあたりは、昭和三十年代まで、まだ原野の面影を残していたという。
はるか昔、弘仁四年(813)、嵯峨天皇が遊猟した「櫟原野」とはこの地のこと。

鞍馬寺。
山号は松尾山。
宝亀元年(770)鑑真の門弟鑑禎が、霊夢により毘沙門天を安置したことに始まるという。

街道筋の滝沢家住宅は重要文化財。
鞍馬の旧家は、それぞれ屋号をもっている。
滝沢家を別に匠斎庵と呼ぶのも、屋号の匠斎からきているらしい。

京都と丹波、若狭を結ぶ街道筋の面影を、そこここに残す町。

 玄以通

東は新町通りから西は紫竹西通に至る。
全長約 1.2キロ

玄以という名は、この南側にある小山北玄以町や西玄以町などの町名にもつけられているが、昭和十年頃までのこの一帯は、賀茂玄以町と呼ばれ、さらに昔は、上賀茂村の一部であった。
「玄以」はその当時の小字だったのかもしれない。
ともかくも、その名が通りの名称として採用された。

この通りの西の端近くに、大宮交通公園がある。
昭和四十四年五月五日、子供の日に開園した市営の特殊公園で、子供が遊び感覚で交通ルールが身につくよう工夫されている。

この公園近くのバス停の名を見ると、「大宮御土居」となっている。
お土居とは、天正十九年(1591)、豊臣秀吉が都市改造の一環として京都の周囲に巡らせた土塁である。
この通りの西端から玄琢に上がる道の脇に、秀吉当時のお土居の跡が残り、金網越しに見ることができる。
お土居の跡は京都市内に9ヵ所あり、そのすべてが国の史跡に指定されている。
玄琢下のこの地から、お土居は東北東に延び、加茂川中学校の北側で南東方向に曲がっていた。

 北山通

東は白川通から西は千本通りに至る。
全長約 5.2キロ
昭和三十年代以降、都市計画道路として建設された。

北山通りの北側の山裾に沿って松ヶ崎の集落があるが、その背後の山が、毎年八月十六日の晩に行われる五山の送り火の一つ「妙法」の山である。
西山に「妙」、東山に「法」の文字が点火される。
面白いのは「妙」が草書、「法」が楷書で書かれていることで、妙法が左から書かれていることと考え合わせれば、二つの文字は同時に書かれたものではないようだ。

その「法」の字の山下には、京都七福神巡りの第一番札所、松ヶ崎大黒天(妙円寺)があり、西側の涌泉寺境内では、毎年送り火の夜に合わせて八月十五・十六日の両夜、題目踊り(京都市無形民俗文化財)が行われる。
二列の円陣を組んだ男女が、太鼓に合わせて題目を繰り返しながら、扇を上下させるという単調な踊りが、赤々と燃える送り火のイメージに重なり、いかにもゆっくりとした時の流れのなかに身をゆだねているかのようだ。

 東から

メリノール修道院(松ヶ崎橋を西へ、マンションの裏側付近)・京都府立総合資料館(地下鉄北山駅付近)・京都府立植物園(地下鉄北山駅〜北山大橋東側)・親鸞聖人研究所(北山通新町東角)

 今宮通

東は鴨川右岸から西は千本通に至る。
全長約 2キロ

今宮神社は、紫野の地に鎮座する京都でも屈指の古社である。
平安時代も中頃の正暦五年(994)、当社の南にある船岡山に御輿二基が安置され、疫病退散の御霊会が行われたという。
その後の長保三年(1001)、再び洛中は疫病の流行に見舞われることになるが、そのとき船岡山の北、紫野の地に疫神を祀り、「神殿三宇」を建てた。
これが現在の今宮神社の、そもそものはじまりとなる。

今宮通りは、この神社の前を通る道である。
明治四十二年の地図では、大徳寺の東端あたりから田圃の畦道となっており、しばらくして道は途絶えていた。
今は、まっすぐ東へ延び、北大路バスターミナルの裏手で賀茂川にぶつかっている。

この通りの主役は、なんといっても今宮神社だ。
とくに当社で行われる「やすらい祭」は、太秦の牛祭、鞍馬の火祭りとともに、京都市の三大奇祭の一つとして無形文化財に指定されている。
社伝によれば、陰暦三月、桜の花の散り始める頃に疫病が流行するというので、花の霊を鎮めるために行われたのがはじまりとされる。
古い記録によれば、平安時代末期の久寿元年(1154)、京中の人々が鼓や笛で囃したて、夜須礼(やすらい)と号して紫野社に参詣したことがみえている。
今も白小袖に緋縮緬の打掛をまとい、赤熊をつけて太鼓や鉦を打ち鳴らしながら踊る姿を四月の第四日曜日に見ることができる。
このときには、桜や椿の花々できれいに飾った風流傘も参加し、この下に入ると、その一年間は、無病息災だと信じられているのだ。

今宮神社に名だたるものがもう一つ。
あぶり餅である。

指先でちぎった餅を竹串(この竹串は神前にお供えした斎串)に刺し、炭火であぶって白味噌をつける。
今宮神社の東門の前に、元祖「いち和」と本家「かざりや」が向かい合って店を出している。

 北大路通

東は白川通から西は西大路通に至る。
全長約 5.5キロ

この通りが開かれたのは、大正末期から昭和初期にかけてで、それまでは、道の影も形もなかった。

その影も形もなかった大正十三年、下鴨半木町に、日本最初の本格的な公立植物園が開園した。
現在の京都府立植物園である。
北は北山通、東は鞍馬街道の西側、南は北大路通の上手、西は賀茂川によって区切られた、およそ二十四万平方メートルの敷地に四季折々の花が咲き乱れ、市民の憩いの場として親しまれている。
この植物園は、第二次大戦後、進駐軍によって一時接収され、米軍家族の住宅地として利用されたが、昭和三十二年に返還を受け、三十六年に再開された。
ドーム型の大温室はその頃に完成したもので、以後設備を充実させて現在に至っている。

市民の足として利用されている市バスは、この植物園と出町との間で、営業運転を開始したのは昭和三年のことである。

堀川通りとの交差点を過ぎて、さらに西へ行くと、右手に大徳寺の総門が見えてくる。
臨済宗大徳寺派の大本山。
天正十年(1582)、豊臣秀吉は大徳寺で織田信長の葬儀を盛大に挙行し、菩提寺として総見院を建立、自分こそが信長の後継者であると、天下に宣言したことは、広く知られているところである。
伽藍には国宝や重要文化財が数多く、塔頭の庭園などにも見るべきものが多い。

この大徳寺の南に、たおやかな山容を見せるのが、船岡山である。
平安京正中線(南北の中心線)上に位置するところから、都の造営の基準点ともなったといわれる。
古くこの地では疫病退散の御霊会が修され、清浄の地として崇拝されたが、その一方で、「岡は船岡」と、清酒納言をして賞賛せしめたほどの景勝の地でもあった。

 東から

後冷泉天皇火葬塚(北大路通千本上がる東側)・

 鞍馬口通

東は出雲路橋西詰から西は金閣寺(鹿苑寺)門前に至る。
全長約 3.2キロ

鞍馬口は京の七口の一つである。

鞍馬口の名前は十五世紀の中頃にみえており、ここには、天皇の節会の酒肴をつかさどる御厨子所という役所が管轄する関所などが置かれていた。
くだって天正十九年(1591)、豊臣秀吉がお土居を築造したとき、その外側に鞍馬口町と呼ばれる町場が開かれ、のちには鞍馬口村として幕府の土地台帳(「天保郷帳」)に見えている。
ちなみに鞍馬口町の名前は、今も付近に残っており、出雲路橋の西の袂には「出雲路鞍馬口」と刻まれた石碑も建てられている。

寺町通と鞍馬口通の交差点付近に、上善寺がある。
この寺の地蔵堂に安置されているお地蔵さんは、「深泥池地蔵」とか「鞍馬口地蔵」と呼ばれ、平安時代の学者として知られる小野篁が刻んだとの伝説もあり、毎年八月二十二日、二十三日の両日に行われる京都六地蔵巡りのなかの一つに数えられている。

烏丸通を過ぎてしばらく行くと、南側に京都貯金事務センターがあるが、、敷地内には江戸時代の金工師として著名な後藤家の庭園擁水園があり、春、秋の二回、期日を定めて公開されている。

 東から

擁水園(鞍馬口通新町東入る南側)

 寺之内通

東は烏丸通から西は廬山寺通に至る。
全長約 2.2キロ

寺之内通は寺町通とともに、京都の寺院街として知られている。

天正年間、十六世紀の後半、豊臣秀吉は京都の都市改造を行い、寺町と寺之内に数多くの寺院を移転させた。
しかし、それよりずっと以前から、この地は実はお寺の町だった。
平安時代、寺之内通大宮上ルの土地に、安居院という大寺が建立された。
同寺は、比叡山東塔北村竹林院の里坊であった。
寺之内通にお寺との縁ができたのは、このときからである。

平安時代の末、この寺に澄憲という説教(唱導)のたいへんうまい僧侶がいた。
その評判はしだいに広まり、「四海大唱導一天名人也」と激賞されるまでになった。
一天、四海とは全世界をさす言葉で、この世の中で一番の唱導師と賞されたのである。
しかし安居院流唱導の本拠地ともなった同寺は、応仁の乱で惜しくも焼き払われ、以後再興されることはなかった。

この付近は、応仁の乱のいちばんの激戦地だった。
人形寺で有名な宝鏡寺門前の東側にあった百々橋を挟んで、山名・細川の両軍が戦の鎬を削ったのである。
百々橋が架けられていた小川は昭和三十八年に埋め立てられたことから、橋も撤去された。
現地にはかつての橋の基礎が一つ残され、説明板も建てられている。
寺之内通の東詰にある室町小学校にも、もう一つの礎石が残されているが、昭和五十年に、橋材の残りの大部分は洛西ニュータウン内の公園に移転し保管されることになった。

この応仁の乱で一帯は焼け野原になり、戦後には広大な空き地が生まれることになった。
この空き地に目をつけた秀吉は、この地に、洛中にあった大寺を次々に移転させた。
妙覚寺・妙顕寺・本法寺・妙蓮寺などがそれである。
現在の景観は、実にこのときに始まったのである。

殺伐とした戦いもあれば、奥深い茶道の世界も、この通りの顔である。
それを演出したのもまた、豊臣j秀吉だった。
表千家不審庵。
本法寺の東門前に居を構える。
千利休が天正十九年(1591)、秀吉によって自刃に追い込まれてのち、千家は再興を許された、
離宮の次男千宗淳少庵は大徳寺門前にあった利休の茶室「不審庵」をこの地に移し、再興したのである。
宗淳ののち、子の宗旦が跡を継ぐことになるが、彼は江戸時代に入った正保三年(1646)、三男宗左に跡を譲ってみずから隠居し、不審庵の北側に「今日庵」を営んだ。
不審庵の裏手にあたるところから、裏千家と呼ばれ、表の本家は表千家と呼ばれることになった。

宝鏡寺の西、堀川通に面して、茶道総合資料館が建っている。
同館は、裏千家の歴代家元の収集になる多数の資料を基礎に、昭和五十四年にオープンしたもので、一階は展示室、二階は図書室(今日庵文庫)として公開されている。
展示された茶道具類は名品ばかり。
茶道の奥深い文化に気軽に接することができる。

 東から

じゅらく染織資料館(寺之内通衣棚西入ル北側)・じゅらくクラフト館(同左南向かい)・泉妙院/尾形光琳乾山墓所(寺之内通新町西入ル北側)・光照院/旧常盤御所(同左南向かい)・称念寺/猫寺(寺之内通北側西熊町)

 上立売通

東は寺町通から西は馬代通に至る。
途中、六軒町通〜平野道間で中断。
全長約 2.6キロ

上立売通りの名の由来の「上立」とは、店舗を構えず、道端などに店を広げて立って商いをすることをさしていうのだが、近世以前から、この通りはそういった商業者が多くいたようだ。
室町時代の「饅頭」という狂言に、田舎者が京見物に出かける場面が出てくるが、彼はそこで立売を見物する。
「爰は何という所じゃ知らぬ。ヤアヤア何というぞ、爰は立うりじゃ。扨も扨も聞及んだよりは殊の外賑やかな事じゃ」とたいそうなはしゃぎようで、起上小法師や風車といった玩具類m、茶の湯の道具、武具や馬具までさまざまな品物を見て歩くのである。

京都の立売は、上立売通のほか四条通でも行われていたので、この田舎者が見物したところがどちらであるかはわからない。
ただ、このような賑やかな立売風景が、活気に満ちた花の都を象徴する風景だったのである。
応仁・文明の乱ののち、室町幕府は法令を書いた制札を「立売ノ辻」と「四条町ノ辻」の二ヶ所に立てた。
制札は人の集まる賑やかな場所に立てるのが通例であるため、この二か所は、上京と下京の各ブロックの中心街と意識されていたのである。

ここでいう「立売ノ辻」は上立売通と室町通の交差点、「四条町ノ辻」は四条通と新町通の交差点である。
京都は、応仁の乱によって焼け野原となるが、天文十八年(1549)には、上京に「立売四町組」といった町組ができているのが、当時の資料によって確認できる。
上京の立売は、乱後みごとな復興を遂げていたのである。
ただ、いつしか立売は、本来の意味から離れ、地名として定着するようになったと考えられる。
店舗を構えた商店が軒を連ね、町名のみには古くからの「立売」の名を残したのであろう。

寺町通から歩いてみると、相国寺東側の少し手前に「薩摩戦死者墓」と深く刻んだ大きな墓石が建っている。
昭和三十九年、蛤御門の戦い百年を記念して建てられたものであるあることが駒札によってわかる。
西陣には、西陣の五水と呼ばれる五つの名水があるが、上立売通と智恵光院通の交差点付近にある雨宝院、通称西陣聖天のなかに、その一つ「染殿井」がある。
この井戸から汲む清水は、染物に用いるとよく染まるとの伝えがあるようだ。

また上立売通より一筋南の五辻通にある本隆寺は、享保・天明と京都を襲った二度の大火にも本堂が焼け残った。
これは本堂安置の鬼子母神の霊験によるものと信仰され、一名「不焼寺」とも呼ばれているらしい。
境内には、先の西陣五水のうちの「千代野井」があり、また墓地には京都の儒医で『雍州府志』などの著作で知られる黒川道祐の墓がある。

雨宝院の西、通りに面した町家の路地の奥に、二メートルくらいの高さの巨石が祀られている。
祈ればお乳がよく出るようになるというので、婦人の信仰が篤いという。
 

 東から

仏殿跡/後水尾天皇髪歯塚(相国寺境内南側付近)・禁門変長州藩殉職者殉難者墓所(瑞春院 雁の寺北側)・三時知恩寺 入江御所(新町通上立売)

*西陣五水*
@ 染殿井 = 智恵光院通上立売上ル聖天町
雨宝院(西陣聖天)の南門右側の手水井

A 桜井 = 智恵光院通五辻下ル桜井町
民家の庭にあり、桜井基佐邸跡という。

B 安居井 = 大宮通寺之内西入ル下ル
比叡山東塔竹林院の里坊安居院ゆかりの井戸と伝える

C 千代野井 = 智恵光院通五辻上ル紋屋町
本隆寺本堂付近にあった。四角形の石框が残る。天明の大火の時、この水を汲み堂宇にかけたので堂寺は災いを免れたと伝える。

D 鹿子井 = 智恵光院通寺之内下ルの民家内にある 

 仁和寺街道

東は浄福寺通から西は馬代通に至る。
全長約 1.6キロ

仁和寺街道の千本通りを越えたところが五番町である。
水上勉の『五番町夕霧楼』に描かれた五番町遊郭はこの地のこと。
付近には一番町から七番町までの町名が残っているが、これは天正十五年(1587),
豊臣秀吉が聚楽第造営に際して、このあたりを七つのブロックに分け、大名ではない武士を居住させたことによってつけられた町名である。

道はまっすぐ西に延び、西大路通りを超えて馬代通との交差点を北上する。
そこで通り名は一条通(周山街道)と変わり、仁和寺に向かうようになっている。
しかし、明治二十二年測量の地図では、天神川を越えるとかなり狭い小径となり、そのまま途切れてしまっている。
したがってm御前通か天神通を北上して一条通を西行し、双ケ岡に突きあたって再度北上する道が、仁和寺に向かう旧道だったようだ。

仁和寺門前のあたりは御室と称するが、これは宇多法皇が仁和寺内に営んだ御室(御座所)に由来している。
この御室にゆかりの深い芸術家がいる。
近世初頭の陶工野々村仁斎である。
通称清右衛門。
御室に移り住み、窯を設け、御室焼を創始した。
仁斎の号は、仁和寺の仁と通称清右衛門の清の字から付けられた。

 東から

 妙心寺道

東は御前通り西は府道花園停車場御室線に至る。
全長約 1.9キロ

この古くからの参詣道は、歩いているとまだそこここに、虫籠窓のある古い町家が残る。

馬代通を過ぎて西へ行ったあたりは、江戸時代、木辻村と呼ばれていた。
その道の北側に、「牛若丸首途乃井」と彫られた石標が建っている。
いつ頃生まれた言い伝えかはわからないが、この地はかつて金売吉次の屋敷跡で、義経が吉次に伴われて奥州に落ち延びるとき、吉次の屋敷の井戸で水を汲んだというのである。
その井戸は今埋められて見ることはできない。
さらに西へ行くと、今度は道の南側に、「義経かどで地蔵尊」と刻まれた石標があり、その路地の奥に地蔵が祭られている。
江戸時代の『山城名跡巡行志』という案内書では、吉次の邸宅が同村(木辻村)にあるとしているが、おそらく、木辻と吉次の音が似ているところから、このような伝承が今に残されているのであろう。

 東から

 木辻通

平安京の木辻大路にあたる。
北は妙心寺道から南は太子道に至る。
全長約 600メートル。
通りの延長線上、さらに金閣寺の東南、馬代通から鞍馬口通間も木辻通といわれる。

木辻通りは、行政上では南が太子道、北が妙心寺道で区切られた区間の呼称である。
ただ太子道から南でも、住んでいる人たちは木辻通りと呼んでいる。
生活の実態と行政上の区間のずれも、道の場合はよくあることなのだろう。

妙心寺道と木辻通の交差点北西角が私立花園高校、明治五年、妙心寺山内に開設された宗門子弟教育のための般若林がそもそものはじまりで、その後幾多の実態を重ねて、現在の校名となったのは昭和二十三年のことである。

今からちょうど千二百年前、平安京ができたときには、木辻大路と呼ばれる幅広い道であった。
西端の西京極大路から東へ行った最初の大路で、この南北の通る二つの大路の間には、無差小路・山小路・菖蒲小路という三本の小路が通っていた。
ちなみに現在木辻通の東を南北に走る馬代通りも、平安京の時代の馬代小路の名残といえる。

平安時代の終わり頃、鳥羽天皇の松尾行幸や二条天皇の平野行幸にも、その行幸ルートに木辻大路の名がみえている。

その後平安京は、西半にあたる右京の部分が土地湿潤のため衰退し、中心は左京へ、さらにそのなかから上京と下京の二ブロックにわかれて発展していくという経過を辿ることになる。
そのため、いつしか木辻大路も荒廃していった。

現在の妙心寺道と木辻通の交差点付近一帯が木辻村と呼ばれるのは、江戸時代の初め頃のこと。
村の石高は273石余りであった。
あたり一面が田圃で、ところどころに茶畑がみられるというのどかな風景であったことがうかがえる。
この地区が市街地となるのは、昭和に入ってからである。

 

 千代の古道

京より上嵯峨広沢池周辺に通じる道。
平安初期の歌人在原行平の嵯峨天皇を偲ぶ和歌に譬喩として詠まれた「千代の古道」が、後世、歌枕としてさまざまな地に比定された。

千代の古道は平安時代、幾多の歌に詠まれてきたが、どうも在原行平(818〜893)の歌が最初らしい。

  さがの山 みゆき絶えにし芹川の
    千代のふる道 跡はありけり

この歌にみえる芹川は、嵯峨にも伏見にもあるが、現在では伏見説に軍配があがっているようだ。
また嵯峨の山も嵯峨の地をさすのではなく、天皇をさす言葉と理解されている。
さらに言えば、千代の古道は具体的な道をさすのではない、という話もあるようだ。

しかし、江戸時代の案内書のなかには、広沢池に出る道として紹介されているから、当時の人々の間では、嵯峨の地のいずこかの道が千代の古道と意識されていたことも確かである。
明治二十二年の地図では、広沢池に出る道は数本記入されている。
今の地図にあてると
@ 京福電鉄嵐山線有栖川駅方面から北上する道
A 常盤方面から西北方向に広沢池に向かう道
B 京福電鉄北野線鳴滝駅の北側から音戸山西麓沿いに広沢池の東方に出る道
などである。

今は@のルートと考えられているらしく、「千代の古道」と刻まれた数本の石標が道沿いに建っている。
石標は二種類あり、一種類は昭和五十九年に京都西ロータリークラブが建立したもの。
この手の石標は四本建っている。
石標には趣向が凝らされており、石面のそれぞれに「千代の古道」を歌い込んだ後嵯峨院や後鳥羽院などの和歌四首が刻まれているのである。

ただこの石標が示す千代の古道は、やや現代版にルート変更がなされているようで、新丸太町通がその入口と意識されている。
京福電鉄北野線常盤駅から新丸太町通を西行した太秦開日町付近のT字路の角に、最初の一本が建っている。
残りの三本は、そのT路地を北上し、途中二度ほど曲がって音戸山西麓を巻いて市バス山越バス停に向かう道に沿って建てられている。

その道の途中に、もう一種類の石標(道標)が建っている。
この道標は古く、昭和七年一月の建立で、石面に「千代の古道」「すぐ廣澤の池」とあり、それらの文字の上に指で方向を示す形が浮彫りされている。

音戸山の上には「君が代」の歌に登場する「さざれ石」と呼ばれる岩が露出しているそうだ。
ただ現在、音戸山は京都市の所管なっており、登り口は鉄扉で閉鎖されている。

 唐櫃越

西京区上桂と亀岡市山本を結ぶ峠道。
全長約 10キロ

鬼水山宝泉寺、その寺の北側から唐櫃越の道は続いている。

いつからか唐櫃越と呼ばれてきたこの道は、山陰道の北側に並行して、山々の稜線を辿る。
桂川近くの西京区山田まで全長10キロ余り、丹波と山城を結ぶ最短ルートとして歴史の裏舞台を支えてきた。

唐櫃越の様子は、『太平記』にもっともいきいきと描かれている。
京都に向かって急襲をかけたり、夜陰にまぎれて敗走するときなどに使われた狭く険しいこの道は、危険を覚悟した人達だけが通る裏道であった。

また、天正十年(1582)六月二日未明、織田信長を襲った(本能寺の変)明智光秀が、丹波亀山城から一万三千の軍勢を、京都盆地へなだれ込むように移動させたのも、関所のないこの道であったといわれている。

亀岡盆地を背にして、迫った山塊に向かって歩き始めると、急な上り坂が標高400メートルぐらいまで続く。
みすぎ山の山頂からは遠望のきく尾根づたいの道が続き、足利尊氏が六波羅攻めにあたって祈願をした篠村八幡宮からせりあがってくる道とも合流する。
さらに、王ケ辻から国境の天蓋峠(標高426メートル)、そして沓掛山山頂近くを通り過ぎる。
老ノ坂の谷の彼方には小塩山と竹林が見渡せる。
なおも尾根づたいに続く道を進むと、やがて東側の樹間からは京都盆地の広がりが見え隠れする。
いっぽうの西側は、高級住宅地の名が高い「桂坂」の新しい家並みと、国際日本文化研究センターの丸屋根が眼下に見える。

 東から

京都大学桂キャンパス (桂坂東側)

 西国街道

東寺口から向日市を経て、西宮市で山陽道に接続する。
山崎道・唐街道ともいう。
全長約 50キロ

京都からの起点は、九条通りの羅城門跡。
そこから真南に延びるのが鳥羽街道。
西へ行くのが西国街道である。

西国街道を、山城と摂津国の境あたりまで歩いてみると、その行程のほとんどが旧道のまま辿れ、幅広い国道などの幹線道路に出ることはあまりない。
また現代の道路標識や江戸時代の道標が、道沿いに多数残されており、まず間違えることはないだろう。

 川端通

北は馬橋東詰から南は塩小路に至る鴨川・高野川東畔の通り。
全長約 7.2キロ。
北へ松ヶ崎橋付近までも川端通といわれる。

白河院が「不如意なるもの」の一つに挙げる鴨川。
この川は実に洪水が多く、そのため天長元年(824)、朝廷は防鴨河使(ボウカシ)という役職を設置して新堤の築造につとめた。
都市防災などを目的として、寛文年間(1661〜73)に大修築された。
両岸に石垣を築き、長大な堤防をつくったのである。
東岸は二条通から五条大橋まで、西岸は今出川通から五条大橋まで。
これによって鴨川の氾濫の心配はなくなり、それとともに鴨川東岸に一部ではあるが、道路が開通した。
これが現在の川端通の前身にあたる道である。

京阪電車の七条駅から北が地下になったのは昭和六十二年。

荒神橋手前に赤煉瓦の古風な建物が見える。
現在は京都大学東南アジア・アフリカ地域研究センターになっているが、この建物は、明治二十年に設立された京都織物会社の建物である。
当時の資本金50万円、蒸気の力を利用した機械で、帝国議事堂や芝離宮の装飾品のほか、無地紋織・ハンカチーフなどを製造していた。
京都織物会社のさらに以前は、明治五年開設の牧畜場であったが、その由来を記した石碑が、門内の右手に建っている。
この地は幾多の変遷を重ね、京都の近代と現代を形づくってきたのである。

出町柳で加茂川と高野川が合流する。
「叡電」と通称される京福電鉄の出町柳駅ができたのは大正十四年。

 南から

洛東遺芳館(川端通五条下ル)・宮川町歌舞練場(川端通松原上ル)・与謝野鉄幹・晶子歌碑(川端通四条上ル)・弁財天/陶匠青木聾米宅跡(同左、少し北)

 東大路通

北は北山通りから南は九条通りに至る。
全長約 8.2キロ

鴨川と東山連峰の間を南北に走る幹線道路。
昭和三年までは田中里ノ前から泉涌寺門前前だった。
市電東山線は大正元年から昭和三年にかけての開通、昭和十八年、北大路線と結ばれた。
北山通りそのものが昭和三十年代以降の都市計画路線だから、現在の南北幹線の東大路道路ができたのはまだ新しい。

東大路通りの基礎は、四条通の祇園石段下から北へ白川に抜ける小堀通、『京町鑑』にも出ている。
明治四十五年に拡幅、大正二年三月、東山通りと命名。
小堀の名前は消えた。

東大路通りとは直接関係ないが、仁王門一帯には赤穂浪士の義士会館のある本妙寺、義士ゆかりの西方寺、香川景樹の墓がある聞名寺、関西身延と呼ばれ初代片岡仁左衛門の墓のある妙伝寺、囲碁の本因坊歴代の墓所寂光寺など特色ある寺が並ぶ。

 南から

賀茂波爾神社/赤の宮(高野交差点上ル疎水北西)

 哲学の路

北は銀閣寺橋から南は若王子橋に至る。
琵琶湖疏水分流西畔の通り。
全長約 1.5キロ

京都帝国大学の西田幾太郎、河上肇、田辺元らの哲学者が散策したことから「哲学の道」と呼ばれる。
時期的には大正時代が中心。

琵琶湖疏水に沿う小道で、京都市が昭和四十五年十一月一日に市民の遊歩道として開いた。
当初は若王子橋から鹿ケ谷の第二寺ノ前橋までだったが、のちに銀閣寺橋まで延長した。

琵琶湖疏水は滋賀県大津市美保ケ崎から京都までの運河。
工部大学校を出たばかりの田辺朔郎が設計、明治十八年に着工した。
長等山トンネルを潜る大工事で、都が東京に移って沈滞した京都に活力を与える国家的事業だった。
当初は船運、続いて発電所、現在は京都市民の飲料水の安定供給に重要な役割を果たす。
哲学の道は田辺朔郎の予想もしなかった副産物。

銀閣寺参道の手前に一跨ぎの石橋。
ここを右に折れると哲学の道。
西田幾太郎の碑「人は人吾はわれ也 とにかくに吾行く道を吾は行なり」がひっそり建つ。
鞍馬石に刻まれたもので、昭和五十六年五月の建立だ。
周囲には京都画壇の巨匠橋本関雪の妻米子が大正十年に植えた関雪桜が巨木になっている。

法然院の墓地は「名家墳墓」として知られ、内藤湖南、九鬼周造、河上肇、谷崎潤一郎らの墓がある。

若王子神社から山道を十五分ほど登れば同志社の創始者新島襄の墓があり、徳富蘇峰、阿部磯雄、山本覚馬ら同志社人やクリスチャンの墓が並ぶ。

 南から

昭子内親王墓/後水尾天皇皇女(若王子橋上ル西側)・久爾宮陵墓(住友・有芳園東隣)・粟田山陵・冷泉天皇陵(同左を北へ西側)・冷泉天皇桜本陵(安楽寺西向い)

 神宮道 北は冷泉通から南は円山公園北入り口に至る。 全長約 1.2キロ
 岡崎道 北は春日北通から三条通に至る。 全長約 1キロ

通り名でわかるように、平安神宮の応天門前から南に開かれた参道である。
両側に京都市美術館、京都府立図書館、京都国立近代美術館、画廊を控えた京都市の文化公園ゾーンの真ん中を分けて通る。

平安神宮は、明治二十八年、京都をあげて繰り広げられた平安奠都千百年記念祭のモニュメントとして創建された。
平安京大内裏の正庁の大極殿朝堂院を模して、およそ八分の五に縮尺した模造大極殿。
設計には、のち建築家としてはじめて文化勲章を受けた伊藤忠太らがあった。
総工費は、三十八万七千百余円。
祭神には桓武天皇が祀られた。

奠都千百年記念祭は、明治維新後の沈滞した京都の状況の中で進められきた復興政策の成果でもあった。
平安神宮の造営をはじめ、その周辺一帯を主会場に第四回内国勧業博覧会など記念事業が繰り広げられた。

五万坪の博覧会場には機械館、農林館、工業館、動物館、水族館、美術館、などが並び、展示品は十六万点。
入場料は日曜十銭、土曜三銭、平日五銭。
七月末の会期中に百十三万人が入場した。
当時の京都市の人口のおよそ三倍であり、その賑わいは想像できよう。

黒松と欅の並木が続く神宮道を華やかに彩るのは、朱色の大鳥居と、東西に横切る疎水に架けられた美しい擬宝珠の慶流橋だ。
大鳥居は東の京都市美術館と西の京都国立近代美術館、京都府立図書館の間に建つ。
高さは八十尺六寸、柱の幅十二尺。
鉄筋コンクリートの明神型である。
設計は、京都大学助教授坂静雄があたった。
昭和三年六月に着工、翌四年三月二十五日に完成した。
総工費は二万六千七百九十余円だった。

三条通に出る北東の一帯は、世界にも知られた粟田焼きの窯元が並んだ。
明治から大正時代にかけて錦光山などの窯元が輸出用の陶器を制作した。
西に入れば、明治の元勲山県有朋の無鄰庵や平安神宮の神苑の造園にあたった「植治」こと小川治兵衛の旧邸、京七宝の創業で知られる並河靖之の旧家がある。
(並河靖之七宝記念館:http://www8.plala.or.jp/nayspo/

この神宮道の東に並行して岡崎道が通る。
岡崎の名は真如堂、黒谷につながる栗原岡の先端に位置するからだそうで、当時、その道の広さから「広道」の名もある。

丸太町通の北西角に小沢蘆庵の寓居跡があり、向かいの南西角に、日本聖公会京都聖マリア教会がある。
南の路地奥には、関西美術院がある。
明治三十五年、ヨーロッパから帰国した洋画家浅井忠が新設の京都高等工芸学校に赴任したのを機に、画塾として開設した。
安井曾太郎、梅原龍三郎、津田青風、黒田重太郎、霜鳥之彦、須田国太郎、伊谷賢蔵らが学んだ。
ここの南隣には、博愛主義者の厨川白村が住んだ。

南に下れば京都市動物園がある。
大正天皇御成婚を記念して京都市記念動物園として発足した。
一帯は、もと六勝寺跡。
白河天皇の発願で創建された法勝寺、鳥羽天皇の最勝寺、近衛天皇の延勝寺、待賢門院璋子の円勝寺、崇徳天皇の成勝寺、堀川天皇の尊勝寺をいうが、応仁・文明の乱でまったく姿を消した。

 北から

尊勝寺跡(二条神宮道北西角)・成勝寺跡(二条神宮道南西角)・最勝寺跡(二条岡崎道北西角)・円勝寺跡(二条岡崎道南西角)・法勝寺跡(動物園北側)・延勝寺跡(みやこメッセの西側付近)

 仁王門通

西は川端通から東は三条通(粟田口)に至る。
全長約 1.7キロ

川端通から仁王門通に入ると、左手に頂妙寺。
向かって右に持国天、左に多聞天を配した二重、三間一戸の堂々たる同寺の仁王門が、この通りの名付け親である。
この寺もさることながら、東大路通との交差点までは、寺院が実に多い。
理由ははっきりしている。
東大路に出る手前を南北に走る通りは、西寺町通りと呼ばれ、そこには宝永五年(1708)の京都大火以後、寺町通にあった寺院が続々と引っ越してきたからだ。
囲碁の本因坊で知られる寂光寺、豊臣秀吉五奉行の一人前田玄以ゆかりの専念寺などは宝永の大火以後の移転寺院である。

仁王門通の東大路通東入ルには、赤穂義士吉田忠左衛門や貝賀弥左衛門らの霊を合した墓のある本妙寺が南に門を開いているが、寺院街の仁王門通もこの寺で終り、それから東は、別の仁王門通が顔を見せる。

疎水の南側には、屋上に中国風の八角堂を載せた一風変わった建物が、観光客を不思議がらせる。
近江商人藤井善助が大正十五年に設立した有鄰館。
ここには、古代中国の殷代から清代までの約四千年にわたる文化財が展示されている。

 東から

インクライン(蹴上交差点東側)・国際交流会館(南禅寺交差点西側)・琵琶湖疏水記念館(南禅寺交差点を北へ西側)・京都観世会館(仁王門通岡崎道西入ル南側)・有鄰館(観世会館西隣)・

 古川町通

北は仁王門通から南は白川右岸に至る。
全長約 500メートル

東大路仁王門の東一筋の細い南北の道、これが古川町通だ。
格別の用事でもなければ、京都人でもめったに通ることはない。
気取らない庶民の町で、ある意味では小隠れた路地道の匂いのする通りだ。
商店街の中ほどに評判の蕎麦屋がある。
予約して行ったほうがよい。

『京都坊目誌』には「白川筋二町目西入ル一筋下ル。少しばかりの地にして南北に通ず。大正以前よりある道路にして、これを若狭街道とす。大和大路(俗に縄手通という)再開に際し、いったん廃道となり、寛文六年(1666)、旧道を開く。これを古川町通となす」とある。
寛文以前は田畑ばかりだったが、文化年間(1804〜18)以降、急に人家が密集し始めた。

古川町通の名前について『京都坊目誌』は、白川の支流がこの地を流れたためかとある。
寛文六年の開発で町地となり「新町」と呼ばれ、のちに以前の古川町通りとなった。

三条通を挟んで西海子町、南西海子町がある。
これも『京都坊目誌』によれば、このあたりにp葵の大木があったためという。
p葵はマメ科目の落葉高木。
長いサヤエンドウのような豆果をぶら下げる木で湿地帯を好む。
白川筋にふさわしい木だ。
北木之元町、南木之元町の由来もやはりp葵の大木があったことによる。

古川町や西海子町は粟田神社の氏子町にあたり、西海子町は十月の粟田大祭には十八本の剣鉾のうち琴高鉾を捧げ持ち、古川町は葡萄栗鼠鉾を出す。
かつては白川に架かる狭い橋の上でお神輿や鉾の曲持ちというサーカスまがいの秘技が披露され、町内が熱狂したという。

 北から

 花見小路通

北は三条通から南は安井北門通に至る。
全長約 1キロ

四条通を境に南北に二つに分かれ、南は赤壁に竹矢来のお茶屋「一力」亭を東南角にしてお茶屋に置屋、料理屋がほとんど。
京格子に駒寄せ、二階には簾がかかり、はんなりしたバーやスナックに混在して、やはりお茶屋がある。

寛文年間(1661〜73)以降、新橋通を中心に内外六町が公許の廓として開かれた祇園町。
花見小路は、そのはんなりした名前から祇園町を代表する通り名にはちがいないけれど、その開通は、新しい。

明治期になるまでは、祇園町の南側一帯は建仁寺の境内地で、竹薮のなかに細い一筋の道が通り、西側に清住院、東側に大中院、霊源院、定慧院、光沢院、普光院、正伝院といった塔頭が並んだ。

明治四年、この境内地が、当時の遊女解放令にともなう京都府の政策で上知令を受け、江戸期に六十四院を数えた塔頭も十四院を残すだけとなった。

この七万坪余りの土地を祇園甲部お茶屋組合が明治七年に譲り受けてつくられた町が、現在の祇園町南側である。

新しい土地には、東西に南園小路、青柳小路、初音小路などが開通。
真ん中に南北一本の道が通された。
花見小路である。
旧塔頭跡の庭園は花見小路花屋敷と呼ばれ、四季の花を咲かせた。
名の由来は明確ではない。
一説に「一力」の南あたりにみごとな桜の木があり、花街のゆかりから命名されたともいわれる。

全国に先駆けて開催された「京都博覧会」の付博覧として京舞井上流の三世井上八千代(片山春子)と一力の杉浦次郎右衛門らが創案した「都をどり」は、明治五年に知恩院に近い祇園林下町で幕開けしたが、翌年から旧清住院で開かれ、以後、大正二年に祇園甲部歌舞練場が現在地に新築されて芸舞妓の殿堂となるや、花見小路通は、祇園のメーンストーリーとなる。
四条通から北はまた、先の戦争の疎開で拡張されて延長。
花見小路通は名実ともに祇園を代表する通りとなる。

 北から

 新門前通

西は大和大路通りから東は東山通りに至る。
全長約 500メートル

新門前通の横文字の看板は、なにも今の表現の仕方ではないのだ。
もう百年も前から、そうなのである。
そして「シンモンゼン」の通り名は、古美術店の通りとして、世界に知られたインターナショナル・アートストリートなのである。

その名から推測されるように浄土宗総本山知恩院の門前通りである。
この通りが古美術の通りとして知られるようになるのは、明治の中期頃であろうか。

蹴上の「都ホテル(現 ウェスティン都)」、円山公園の「左阿弥」、河原町通御池の「常盤ホテル(現 京都オークラ)」といった外国人観光客の宿泊ホテルが登場したのがきっかけだった。
日露戦争のあと、妙法院、智積院に収容されていたロシアの俘虜が、骨董品を買ったこともある
通りには旧来からの茶道具の店に骨董の店が並び、格好の散策道になった。
こうした外国人観光客を対象にした新しい美術商の店も進出した。
林忠助を草分けに池田清助、野村正二郎、森川商会・・・・・など。

通りにはいち早く英語の看板が登場した。
英語の看板は、京都でも新門前通だけだった。
店々の番頭はんも丁稚さんも修行は英語からだったという。

大きな打撃を受けたのは第二次世界大戦だった。
英語は敵性語だというので看板もおろされたことがある。

戦後の回復は早かった。
昭和二十一年には京都市役所前にあった「京都美術倶楽部」が東大路西入ルに移転。
「シンモンゼン」は、駐留軍の兵士や観光客の足を集める。

 新橋通 西は大和大路から東は東大路通に至る。 全長約 500メートル
 白川南通 西は大和大路から南は新橋通に至る。 全長約 150メートル

北側と南側にそれぞれ二十軒前後。
両側に並んだ二階建ての家々は、ほとんどがお茶屋。
家々の表構えは一様に瓦屋根に千本格子、表は京殴りの駒寄。
二階にはたゆみをもった簾が軒から下がる。

江戸中期に、廓として発祥した祇園町。
新橋通のなかの町内である元吉町はその中核ともいえる「祇園六町」の一つ。

新橋通は、この町を流れる白川に架かった橋の名に由来する。
白川は、比叡山の山中に発し、東山の麓の銀閣寺、南禅寺・・・・・と経めぐって流れてきて、知恩院の前から西に折れて新橋通の一筋南の白川南通りに沿って鴨川に落ちる。
宝暦十二年(1762)刊の『京町鑑』には「此町の西に橋有。新橋といふ」とある。
明治十年代の『京都府誌』には「元吉町、橋本町の間にあり、石造り」とも。

昭和四十八年だった。
町内に三階建てのビルを建てる計画がもちあがった。
毎朝、表の道路を掃き、打ち水をし、京格子を丹念に拭いて、町内を守ってきたお茶屋の女将さんたちの「おいどにも火がついた。さっそくに「祇園新橋を守る会」を発足させ、反対に立ち上がった。
女将さんの住民運動である。

やがて京都市から保全修景計画安が出され、一年後には新橋通は「特別保全修景地区」に指定され、町並みは守られたのだった。
昭和五十年には、「重要伝統的建造物群保存地区」に。
家の増改築には、周囲の景観にあった二階建てで、日本瓦に格子の外観などが義務づけられた。

新橋通の南に白川に沿って続く石畳の白川南通は、祇園情緒を伝えて観光客の散策が絶えない。

川のほとりに華やかな提灯が掲げられ、芸妓舞妓さんの信仰を集める辰巳稲荷。
川沿いの桜が満開となる春は、花びらが川にも石畳にも埋まって目を欺く美しい絢爛の風景である。
ちょうど真ん中あたりに、鞍馬石の歌碑がかがまる。

 かにかくに祇園はこひし寝るときも
  枕のしたを水のながるる

と。
『祇園歌集』などで知られる吉井勇の有名な歌碑である。

この白川南通は、もとはといえば、お茶屋の敷き地跡。
終戦直前の昭和二十年三月、あたりの茶屋が疎開で立ち退かされて生まれた通りである。
石畳は市電の敷石である。

歌碑の位置は、文芸芸妓で名高い磯田多佳女が女将を務めた茶屋「大友」の跡。
歌は吉井勇が、この大友で詠んだゆかりがある。

新橋通の茶屋の落ち着きと白川の清らかな流れ。
祇園のすべてを象徴する景観なのである。

 

青木木米宅跡(大和大路白川南通り西北角)・

 下河原通 北は八坂神社の南門から霊山観音参道に至る。下河原町通ともいう。 全長約 400メートル。
 石塀小路 西は下河原通から東は高台寺前に至る。 全長約 300メートル

東山通りの東の正面に八坂神社の朱塗りの楼門が見える。
これは裏門にあたり、正門は東大路の一筋東、下河原通に面する南門。
下河原通はここから始まる。
ここは高級京料理旅館や料亭がずらりと並び、壮観だ。
八坂神社の中に二軒茶屋で知られる中村楼がある。
桃山末期から江戸初期の創業で田楽豆腐で有名。
かつては二軒が向かい合っていたが、残ったのは中村楼一軒。
板垣退助、伊藤博文も宿泊した。

下河原通の名前は高台寺山から流れる菊渓川と清水音羽山の轟川が合流するためと『京都坊目誌』は伝える。
慶長十年(1605)、北政所が夫豊臣秀吉の菩提を弔うために高台寺を創建、舞芸に達者な女性がこの地に召し出された。
のちに下河原遊郭となり明治に廃絶した。
旅館、料亭が多いのはその名残だ。

下河原通りからちょっと東の路地に入ると石塀小路がある。
この小路の誕生は大正初期。
 

 
更新
 清水坂
 産寧坂
 二年坂

清水坂は、松原通を東大路から清水寺に至る。
全長 600メートル。
産寧坂は、西向院の北から清水坂に至る。
全長約 210メートル。
二年坂は、下河原町から産寧坂に至る。
全長約 140メートル。

東大路通松原交差点から東に進み清水寺に至る道。
道路でいえば松原通りの延長線だ。
東大路松原に市電の「清水道」電停があった頃、観光客はここで降りて清水坂(清水道)をまっすぐ登って清水寺にお参りした。
洛中からの最短距離になるが、修学旅行や団体バスは五条坂から一気に門前の駐車場にやってくる。
また歩く観光客は二年坂、産寧坂の散策コースから清水さんに向かうため、歴史上、もっとも早く開けた清水坂はひっそり。
門前下の坂が観光客でぶつかり合うほどでも、清水坂の人出はまばらで、土産物店もさっぱりだ。
源義経と弁慶の伝説は「京の五条(現松原通)の橋の上」だが、『義経記』では清水坂が舞台になっている。

清水坂入口にあたる星野町は『京都坊目誌』に「元耕地にして東西極めて高低にあり。明治七年、町地となる。しかれども閑寂にして明治四十年までは人家なし」とあり、東大路松原の清水五丁目については、「松原通の開通年月は不祥だが東大路は明治三十三年開通、大正元年十二月、電車を通す」とし、清水四丁目は「松原通東大路より東へ二町目境まで。この地、はなはだ高低あり。いわゆる清水坂なり。この辺より西へ弓矢町に至り往時、坂面といい略して坂という。弓矢師多く、これを坂の者と呼ぶ。明治維新前、本町北側に日向飫肥藩伊東氏、東側に近江国西大路藩市橋氏の藩邸あり。明治三年、共に廃す。数年、耕地であったがやがて人家が稠密す」と書いている。

清水寺の創建は延暦年間(782〜806)、清水坂もこれにともなって開かれた。
山科から東海道に抜けるため交通の要所となり、清水坂には今でいう運送の馬車などの業者があり、その利権をめぐって争いが起こったり、清水参詣人をねらう盗人の横行、貴族の慈善を乞う貧窮者らでごったがえした。
現在のように散策しながら観音詣でという雰囲気ではなかったようだ。

清水坂は、清水二丁目の有名な「七味家本舗」で五条坂と産寧坂と三交差して、五条坂は清水坂に吸収されてしまう。
この三角点に建つ七味家は江戸時代、参詣客の茶店であったが江戸末期、七味家となり、七味唐辛子の専門店となる。
ここからお寺の楼門前までがもっとも賑やか。
清水寺までの参道左に、聖徳太子を本尊とする経書堂がある。
参詣者がここで小石を拾い、お経の文字を書いて奉納したことから経書堂と呼ばれる。
現在は清水寺の管理。
その隣の大日堂(真福寺)には高さ二・三三メートルの木造大仏(重要文化財)が祀られているが、観光客の波に押され立ち寄る人は少ない。

七味家の左手の坂が産寧坂。
三年坂ともいう。
四十六段の石坂道だ。
『京都坊目誌』には「二町目に上る石階を産寧坂と称し再念坂に作る。三年坂ともいう。北に二年坂あり。けだしやや小坂なるをもってこの名あり」とある。
これには多くの説があり、清水寺の子安観音に参る道なので安産の意味で産寧坂とか、坂上田村麻呂が大同三年(808)にこの坂を開いたので三年坂。
『京師巡覧集』巻四には「この坂で転ぶと三年を待たずに死ぬと俗にいう。また清水観音に詣で願がかなって再びお礼に詣でるので再念坂という」とある。
この坂にはかつて坂本龍馬が常宿にしていた跡という明保野亭(土産物店)がある。

二年坂、産寧坂は昭和四十七年、国の重要伝統的建造物群保存指定地区となり、祇園新橋、上賀茂社家町のように町並みに保全集景がなされた。

二年坂南 → かさぎ屋(しるこ)・

 五条坂
 茶碗坂

五条通上を東大路通から清水坂に至る
全長約 450メートル

五条坂から清水寺に至る
全長約420メートル

五条坂は、五条通東大路の大谷本廟(西大谷)の北を東へ450メートルばかりの坂道である。

清水寺の参詣道であるのはいうまでもないが、町としての「五条坂」は、清水焼発祥の地の総称であり、陶芸家の町を代表する。
東大路以東だけでなく、五条大路東詰まで広げて呼ばれる。
一説に宝永、正徳年間(1704〜16)頃、東山の大日山の山上の陶土を利用した陶工が、あたりに窯を開いたのがはじまりと。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』には「二人はそうそう、この坂をおり立て(中略)此山内をくだりゆくさきに清水焼の陶造軒をならべて、従来の足をとどむ。此所の名物なり」との描写がある。

五条通東大路西入ル北側の若宮八幡宮前に「清水焼発祥之地」の記念碑が建つ。
昭和六十年三月三十日に五条坂陶器まつり運営協議会が建てた。
碑の書は、七代清水六兵衛の筆になる。

戦後まもなくまで、この通りを軸に周辺に十数基の登り窯が並んだ。
北側に東から藤平(長一)、小川(文斎)、三浦(竹泉)、浅見(五郎助)、入江(道山)、大塚。
南側には西村、山本(龍山)、清水(六兵衛)、井野(祝峰堂)、高橋(道八)、河井(寛次郎)、清風(与平)、菊岡、平野(仁平)、陶磁器協同組合など。
それぞれの登り窯が陶器の町五条坂を象徴した。

町を大きく変えたのは、終戦直前の昭和二十年三月の強制疎開だった。
北側の歩道の端から南側の家が撤去させられた。
昭和四十五年には、両側の登り窯が大気汚染防止条例の煙害で槍玉にあがり、窯からは火が消えた。

通りとしての五条坂が始まる東大路通南東角に、入口に「累世 陶師」と墨で書かれた白の麻暖簾の下がった清水六兵衛さんの家がある。
五条坂の玄関口を主張するようで、東に登れば、走泥社を創立した故八木一夫ら名だたる陶芸家の住まいが続く。
陶磁器会館の東で、道は三叉路になり、南の通りは、清水寺の裏参道で、女坂。
五条坂と同様に陶芸家や陶器商も多く「茶碗坂」の別名がある。

 西から

五条坂東側を 東南角→清水六兵衛・京都市美術工芸ギャラリー・京都陶磁器会館・八木邸
茶碗坂 近藤悠三記念館

 鞘町通

北は五条通から南は塩小路通に至る。
全長約900メートル。

鞘町通りは鴨川の東、本町通の一筋西を南北に走る道で、行政上の範囲としては北は五条通に始まり、南は塩小路通で終わっている。
宝暦十二年(1762)刊行の『京町鑑』という書物には「此通、刀脇指の鞘師多し、故に号す」として通り名の由来を紹介している。
またそれより八十年くらい前の『京羽二重』という本にも「さやぬし(鞘塗師)」や「刃物かじや(鍛冶屋)」といった職業が記されており、武具関係の職人が集住する透りだったようだ。

現在は、そんな職業は見られないが、かわりに機械工具類を販売する店が目立っている。
店先に並ぶ道具も年代物で、それを見て歩くだけでも楽しいものがある。

正面通を過ぎると東側に貞教小学校がある。
京都の小学校は皆、古い歴史を持っている。
この小学校も明治二年、耳塚の近くに下京第二十九番小学校として開校したもので、校名は近衛篤麿寄贈になる扁額「章志貞教」の文字によっている。

 北から

道楽(もとは方広寺門前の茶屋で寛永年間1624〜44)頃の建物

 渋谷通

西は本町通から東は清閑寺の南に至る。
馬町通ともいう。
全長約 1.6キロ。

京都の東玄関口は、粟田口を経て三条大橋に入る旧国道一号線と、昭和四十二年の東山バイパスによる山科から清閑寺と阿弥陀ケ峰の谷間を通り五条に入る国道一号線の二つがある。
新旧二つの国道は、古く平安京の東の玄関口であった。

渋谷通は、国道一号線の南に位置し、「苦集滅道 くずめじ」ともよばれた。
馬町通りともいう。
この道が戦略的にも重要視されるようになるのは、鎌倉幕府の京都の出先機関として六波羅探題が営まれた時代だ。

『京都坊目誌』には「今昔の苦集滅道にして、大津に通ずる間道なり。平氏六波羅に館し、別邸を小松谷に設くるや、極めて繁昌の地たり」と記している。
馬町通りという名の由来は、当時、六波羅探題から鎌倉幕府に送る馬をつないだことによる。

南北朝時代には、桜の名所として知られた清閑寺は物見遊山の人々で賑わった。
清閑寺は真言宗智山派の寺院で、智積院に属する。
六条、高倉天皇を寺内に祀る。
本尊十一面千手観音を安置した本堂と鐘楼、茶亭郭公亭がある。

渋谷通の中心部は、平家ゆかりの郷社三島神社の周辺になる。
三島神社は、後白河天皇の女御建春門院(平滋子)が摂津国の三島神社に祈って皇子出産を得たのにちなんで勧請したのが創建である。

東大路との交差点「馬町」一帯は、五条坂に近く陶芸家が点在する。

昭和二十年一月十六日午後十一時二十分頃、「馬町」一帯はB29no攻撃を受け、死者四十一人、負傷者四十八人、家屋の全半壊百四十二戸に及んだ。
被害者総数は七百二十九人に達した。

東大路西に、「ヒーロー」などの人気の銘柄を次々に売り出し、「煙草王」と呼ばれた村井吉兵衛が明治二十八年、煙草工場を興した跡が残っている。

 東から

府立陶工高等技術専門学校(南側)・三島神社・平重盛小松殿跡(「馬町」交差点北東)・村井吉兵衛煙草工場跡

 鳥羽街道

千本通の九条以南にあたる。
鳥羽の作り道ともいう。
全長約 9.0キロ

当時から西に三百メートル、唐橋羅城門町の公園に、「羅城門遺址」と刻まれた石碑が建っている。
ここがかつての平安京表玄関。
鳥羽街道、すなわちかつての鳥羽の作り道は、そもそも平安京造営に際して羅城門から一直線に南下する計画的な道路として開かれた。
当初六間ないし十五間といわれた広い道路も、いつしか狭くなっていったが、道の重要性は江戸時代になっても変わらなかった。
街道は鳥羽から淀川沿いに大坂へと通じており、京街道、大坂街道とも呼ばれた。
この街道は京〜大津間の逢坂越えや竹田街道とともに、京都への物資の搬入路としても重視され、牛車による輸送に便利なようにと、車石と呼ばれる敷石が敷設されていた。

羅城門跡から陸橋を渡り、鳥羽街道の旧道を上鳥羽あたりまで歩くと、民家の多くが数段に積まれた石垣上に建てられていることに気づく。
それというのも、上鳥羽から下鳥羽にかけての地は、鴨川、桂川、西高瀬川の合流地点で、大雨となると川が溢れたからだ。
一方このあたりは昔、九条葱や壬生菜などの野菜が多く採れたが、それは水つきによって土地が肥えていたためである。

道はやがて小枝橋にさしかかる。
この地は幕末、鳥羽伏見の戦いの火蓋が切って落されたところ。
橋の袂には「鳥羽伏見戦趾」と刻まれた石碑が、京都・城南宮を示す道標の横に建っている。
その南側が、白河上皇らの鳥羽離宮跡。
跡地は広大な公園となっており、公園の北側の秋の山は、かつての離宮の築山の名残である。

羽束師橋を過ぎた辺りが、草津湊の跡。
京都から西国へ旅立つ人々の川の玄関口であった。

旅立ちといえば楽しそうだが、保元元年(1156)讃岐国に流された崇徳上皇が、恨みを残して乗船したのもこの草津湊であった。

 北から

鳥羽伏見戦趾・小枝橋・鳥羽離宮址・草津湊址・田中神社御旅所・戊辰役戦場・淀城址

 伏見街道

五条通から本町通を南下し、伏見で京町通に接続する。
全長約 6.0キロ

この道は伏見街道、別名大和街道とも呼ばれている。

京都から伏見、さらに奈良へと向かえば九里、およそ三十六キロの道程。
といっても健脚でならした昔の旅人であれば、充分一日の行程であった。
道は、豊臣秀吉が伏見城(指月城)を築いた文禄年間(1592〜96)頃、京と伏見を直結する道として開かれたといわれている。

街道の京都側の入口は、五条大橋東詰の三筋目を南へ。
このあたりは地域的に本町通と呼ばれている。
『京羽二重大全』という案内書によれば、道筋には菓子、油、酒、筆、扇、からくり人形司、餅、薬などと業種が多く、「其外一切諸品あらずといふ事なし」と念を押しているぐらいだ。
本町一丁目から南へ十丁目あたりまで進むと宝樹寺がある。
この寺の北側が昔の一ノ橋にあたり、宝樹寺はもと橋詰堂と称したと、門前の駒札にある。

もうこのあたり一帯は、東福寺の門前町である。
臨済宗東福寺派大本山。
境内は広く、南面する国宝の三門は、今からおよそ六百年前、応永年間(1394〜1428)の建立になる。
現存最古の三門である。
また仏殿と開山堂の間の渓谷(洗玉澗)に渡された通天橋から眺める紅葉は、今も昔も変わらず美しい。

街道筋を南に進むと、商売の神さん伏見稲荷大社の朱塗りの楼門が見えてくる。
全国に四万社はあるという「お稲荷さん」の総本社である。
饅頭喰いや鎧武者、熊と金時など素朴な姿に親しみのある伏見人形は、稲荷大社参詣の土産として売り出されたもの。
はじまりは桃山から江戸時代初期とされるが、その伝統技術を今に伝えているのは、本町通の「丹嘉」さんだけだ。

道を挟んで赤煉瓦の小屋は、国鉄最古のランプ小屋である。
明治二十二年に全通した最初の国鉄東海道線は、京都駅から今の奈良線を通って稲荷駅まで行き、そこから東にカーブし、山科を抜けて大津まで行くという南への迂回路をとっていた。

  大石良雄が山科の その隠家はあともなし 赤き鳥居の神さびて 立は伏見の稲荷山

鉄道唱歌のこの部分は、全歌詞六十六番のうちの四十五番目。

 北から

丹嘉(伏見人形)・ランプ小屋・荷田春満旧宅・墨染寺・橦木町遊郭跡・

 京町通

北は国道二十四号線から南は南浜通に至る。
全長約 1.9キロ

文禄三年(1594)、豊臣秀吉は指月の森に伏見城(指月城)築城の普請を起こすすとともに、城下町の建設に着手。
南北に規格的な道路を開き、町地の開発を行った。
京町通は、そのなかでも最も古い南北通で、以後の城下町建設の基本線となったといわれている。
道は京町一丁目から十丁目まで北進し、そこで城下町からはずれ、伏見街道となる。
また一丁目からすこし東へ行くと観月橋(かつての豊後橋)に続き、向島に渡って大和街道となり、奈良へと向かう。

江戸時代、この通りに沿って東側には武家屋敷が連なっていた。
今も通りの東側に並ぶ町の名前は、北から水野左近、伊井掃部、筒井伊賀、羽柴長吉といった武家名を冠している。
京町一丁目の東側には国有地を借り受けて造成された伏見公園があるが、その北側には東奉行町、西奉行町、奉行前町などの町名が示すように、伏見奉行所があった。
明治の地図には、跡地に工兵営の文字が見えているが、これが工兵第十六大隊。
今は団地群となっている。

京料理の「魚三楼」、このあたりはかつて鳥羽伏見の戦いの激戦地で、御香宮の薩摩軍と伏見奉行所の幕府軍が、至近距離で対峙した、その真ん中である。

 北から

 両替町通

北は伏見郵便局北側から南は南浜通りに至る。
全長約二キロ。

両替町通は、最南端の両替町一丁目から同十五丁目まで、伏見市街地を南から北に縦断し、遊郭として知られる撞木町(恵美酒町)に出る。
このうち両替町の五丁目から八丁目にあたる区域に、慶長六年(1601)徳川家康が伏見銀座を設置したので、その区域は銀座一丁目から四丁目と呼ばれるようになった。
この伏見銀座は、銀貨の品位を統一するために設置された役所で、そのときまでは、品位がまちまちの貨幣が通用していたのである。
いわば、家康の貨幣制度改革に重要な役割を担った日本で最初の銀座がこの地である。

伏見銀座は慶長十三年、洛中、今の中京区両替町通の二条から三条の間に移転し、短命に終わったが、そのあとに、銀座の伝統を引き継いで両替町が数多く集まり軒を連ねたという。
通り名の由来も、そこらあたりに求めることができるだろう。

今は、大手筋通との交差点西北角に昭和四十五年建立の「此付近伏見銀座跡」と刻まれた背の低い石碑が建つのみ。

 北から

 油掛通

東は道阿弥町通から西は府道京都守口線に至る。
全長約 2.1キロ。

江戸時代は旅人の往来で活気に満ちていた。
淀川をさかのぼって京橋で三十石舟を降り、伏見街道を京都へ向かう旅人の多くは、この油掛通を通ったのである。

地元商店会によって油掛町の由来を記した駒札が建てられている。
それによるとこうだ。
町内にある西岸寺に祀られている地蔵尊は、伏見上皇が特に信仰した石の地蔵さんであったが、あるとき山崎の油商人が地蔵の前でつまずき、担いでいた油桶を落してしまった。
油はそこらじゅうに流れたが、商人は残った油を地蔵尊にかけて供養した。
すると商運が開け、これこそ御利益であると、通るたびに油をかけて祈願した。
この噂はたちまち広がり、多くの参拝者で賑わった、という。

駒札の斜め向いが西岸寺。
境内に入ると、左手の堂内に、油で黒光りした地蔵尊が祀られている。
堂内では、地蔵尊の前に油壺が置かれ、柄杓で油をかけて誰でも祈願できるようになっている。

 東から

西岸寺(油掛地蔵)・

 
 
洛外の道

<市外の北部>

加茂街道
御園橋通
竹殿上通
竹殿北南通
竹殿通
竹殿南通
玄以北通
玄以南通
大門北通
大門南通
大門通
北山北通
北山北中通
北山南通
紫竹北通
紫竹通
紫竹南通
紫竹西通
牛若東通
牛若通
今宮北通
今宮南通
今宮門前通
小柳北通
小柳通
小柳南通
紫野北通
紫野通
紫野南通
大徳寺通
若菜通
若菜中通
若菜南通
御所田上通
御所田北通
御所田北中通
御所田通
御所田南中通
御所田南通
御所田下通
紫明通
旭通
上総通
建勲北通
建勲通
船岡山東通
船岡山北通
船岡山西通
船岡山南通
鏡石通
平野通
上野通
上野西通
氷室通
上御霊前通
仲之町通
下之町通
蘆山寺通
塔之段通
五辻通


<市外の東部>

岩倉中通
宝ヶ池通
松ヶ崎通
修学院離宮道
北泉通
鴨西通
下鴨西通
下鴨中通
下鴨本通
下鴨東通
曼殊院通
一乗寺通
高原通
東鞍馬口通
御影道
志賀越道
東一条通
鞠小路
神楽岡通
北白川疎水通
白川通
鹿ケ谷通
近衛通
吉田東通
桜馬場通
神楽坂通
春日上通
春日北通
冷泉通
新丸太町通
新麩屋町通
新車屋町通
新富小路通
新東洞院通
新柳馬場通
新間之町通
新堺町通
新高倉通
新寺町通
孫橋通
若松通
古門前通
辰巳通
華頂道
知恩院道
宮川町東西通
八坂通
宮川町通
大黒町通
本町通
六波羅裏門通
問屋町通
音羽川北通
日吉南通
醍醐道
墨染通
新本町通
泉涌寺道


<市外の西部>

周山街道
太子道
馬代通
西小路通
葛野大路
天神川通
葛野中通
葛野西通
釈迦堂清滝道
山陰街道


<市外の南部>

札ノ辻通
久世橋通
旧烏丸通
竹田街道
竹田中道
竹田駅東通
西浦町北中央通
西浦町南中央通
西浦町西中央通
西浦町東中央通
竹田土橋通
新城南宮道
城南宮道
墨染通
津知波橋通
木挽町通
呉服屋町通
枡形町通
清水町通
小豆屋町通
納屋町通
南部町通
新町通
竹中町通
伊達街道
上板橋通
堀詰通
丹波橋通
下板橋通
西楽図子通
毛利橋通
車屋町通
南浜通
道阿弥町通

続く

- back -