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Journal of Japanese Gardening ・20042005・2006】【Traditional Japanese Garden Styles 〈 伝統的日本庭園の形 】【Traditional Japanese Garden Styles


 
ニュース 2005.10.28

故重森三玲の“美”感じて 
昭和代表する作庭家 書院と庭一般公開

http://www.est.hi-ho.ne.jp/shigemori/index.html

昭和を代表する作庭家で庭園史研究家の故重森三玲(みれい)の旧宅(京都市左京区吉田上大路町)にある書院と庭園の試験的な一般公開が、今秋から始まった。個人宅のため特別なイベント以外は非公開だったが、吉永小百合さんが出演するテレビコマーシャルでも取り上げられた庭園に注目が集まっており、家族は「重森の業績の再評価につながれば」と期待している。 

重森三玲は1896年、岡山県に生まれ、独学で生け花や庭園など伝統芸術を研究。1975年に79歳で亡くなるまで、全国の庭園を巡り実測した経験などを基に「100年後も評価される昭和のモダンな庭園」を模索した。東福寺方丈庭園や松尾大社庭園など200以上を作庭したほか、日本庭園史図鑑など約80冊の著書も残した。 

旧宅は43年、吉田神社社家の鈴鹿家から譲り受けた。木造平屋建ての書院は国の登録文化財。庭園は、15畳の座敷からの眺めを意識して重森本人が設計した。鎌倉期の庭園に通じる、立たせた石を重なるように配した力強いイメージの枯れ山水を完成させた。 

三玲の孫で旧宅を管理する重森三明さん(40)は「庭園を通じて人の輪が広がるよう、再活用のあり方を探りたい。まずは多くの人に祖父の目指した美を感じてほしい」と話す。 

予約制で有料。希望者は、前日までに電話かファクスで重森旧宅TEL075(761)8776、または携帯電話090(8467)8988に申し込む。


 

■ 京都と庭園

京都は名園の宝庫といわれている。
庭の形態が築造された当時に近い姿で保存されてきたものを、各時代別に分類してみる。

 平安時代に作庭

宇治平等院庭園 ・ 嵯峨御所庭園(大覚寺大沢池名古曽滝跡) ・ 神泉苑(昔の一部を残すのみ) ・ 法金剛院庭園(滝口のみ) ・ 浄瑠璃寺庭園(南北時代に作庭のもの) ・ 西芳寺庭園 ・ 天竜寺庭園 ・ 南禅寺庭園 ・ 等持院庭園 ・ 鹿苑寺庭園

 室町時代に作庭

慈照寺庭園 ・ 大泉院書院庭園 ・ 霊雲院庭園 ・ 龍安寺庭園 ・ 退蔵院庭園

 桃山時代に作庭

醍醐寺三宝院庭園 ・ 聚光院庭園 ・ 燕庵庭園 ・ 本法寺庭園

 江戸時代初期に作庭

西本願寺大書院庭園 ・ 金地院庭園 ・ 南禅寺方丈庭園 ・ 桂離宮庭園 ・ 清水寺成就院庭園 ・ 大徳寺方丈庭園 ・ 孤蓬庵庭園 ・ 渉成園 ・ 高台寺庭園 ・ 修学院離宮庭園 ・ 酬恩庵庭園 ・ 曼殊院庭園 ・ 知恩院庭園 ・ 詩仙堂庭園 ・ 雑華院庭園 ・ 表千家庭園 ・ 裏千家庭園 ・ 青蓮院庭園

 江戸時代中期以降に作庭

円通寺庭園 ・ 智積院庭園 ・ 玉鳳院庭園 ・妙心寺本坊庭園 ・ 鹿王院庭園 ・ 東海庵庭園 ・ 官休庵庭園 ・ 堀内家庭園 ・ 久田家庭園 ・ 桂春院庭園 

 明治・大正時代に作庭

無隣庵庭園 ・ 清風荘庭園 ・ 市田邸庭園

 昭和初期に作庭

平安神宮庭園

このほか、名園の部類に入れがたいものでも、庭園研究家たちによって推奨されている庭園が数十ヶ所ある。
また記録には明確に書かれながら、現在は消滅してしまっている庭園もたくさんある。

 記録上の庭園

平安時代の作庭では、白河上皇の鳥羽離宮、藤原頼通の高陽院庭園、源融の河原院庭園。
鎌倉時代の作庭では、藤原定家の京極第庭園、藤原公経の北山第西園寺庭園(鹿苑寺庭園はこの跡に造られた)。
南北朝時代の作庭では、夢想疎石の作庭した臨川寺庭園、等持寺庭園、遍照心院庭園
江戸時代の作庭では、妙心寺塔頭の幡桃院庭園、大通院庭園等々枚挙にいとまない。


 

■ 名 庭

  西芳寺

俗に「苔寺」の名で知られている。
暦応ニ年(1339)に夢窓国師がこの西芳寺を中興し、同時に作庭を行ってから百年余の間は、国師によって布置された殿宇樹亭の結構は素晴らしいものであった。

当時の西芳寺には、方丈、仏殿、舎利殿、潭北亭、釣寂庵、貯清寮、礪精、湘南亭、邀月橋、合同船、向上関、背後の山腹から山頂にかけて、指東庵、碑亭、縮遠亭等の建築物が庭園の池を囲んで要所に配置されていたのである。
人々は向上関から山腹に登って指東庵に至り、指東庵の東面に建つ小門を潜って、現在の豪快な石組みの間を縫いつつ山頂の縮遠亭に至り、周辺の眺望を楽しんだと記録に残されている。
夢の如き仙境と賞賛された西芳寺の建物庭園も応仁の乱の兵火によって灰燼に帰してしまった。

現在残る当時に近い建物としては指東庵とその小門(いま拝観入り口横に移される)のみ。

指東庵東面の枯山水滝口と説明されている石組みは、前述の山頂にあった縮遠亭その他亭宇への登山口石段の修景のためのものである。
この石組みの上部苑路も、応仁の乱後のたびたびの山洪水によって、亭建物と共に流失し昔の面影を残していない。

メモ
臨済宗天竜寺派
奈良時代、聖武天皇の勅願によって行基が創建
苔は100種以上に及ぶ
西芳寺川の橋のそばに虚子の「禅寺の苔をついばむ小鳥かな」の句碑が立つ
すぐ近くに、江戸の文人画家池大雅美術館

  天竜寺

暦応ニ年(1339)八月、後醍醐天皇が吉野に崩ぜられると、夢窓国師は足利尊氏にすすめて、天皇の冥福を祈るべく一寺創建を計り、亀山殿跡に天竜寺を造営した。
尊氏は弟直義とともに自ら木石を運んだという。

康永二年(1343)殿宇完備し、国師は天竜寺十境を定め、曹源池を作った。
いま残る方丈庭園がそれである。
当時の十境はことごとく消失したが、曹源池と石組みは、当時のままの姿である。

曹源池は夢窓国師作庭中、最もよく作庭当初の模様を保存している作品である。
地割と石組によって知られる雄渾な気魄と優れた手法は、国師の芸術家としての美的感覚をいまに伝えると同時に、この庭園が日本の作庭史上最高峰の優れた作品であることを示している。

築山の中央に高く築かれた滝口は、築山の背後亀山の山裾より噴出する泉水を樋で引いて落とし、滝口の右側の流れには、境内の北西、小倉山下の沼地より延々と水を引き池中にそそぎ入れていた。
これらの水源も今は枯れ、水道は破壊されている。
しかし池中より涌出する清水は池を満たし、緑の影を落とし、遠く借景した嵐山、亀山の紫峰とよく調和して美しい。

夢窓国師の作庭は厳しい禅僧の修行と高い教養の基礎の上に立った技術と感覚であるだけに鋭く、寒氷をみる如き冷気の中に澄んだ美しさをたたえている。
石組みは保津峡の石を用い、池中の鋭く立った組石の律と一文字に架けた石橋の横の線を交差するところを始点とした庭の構成は、天地無限の力の広がりを暗示している。

メモ
臨済宗天竜寺派本山
京都五山の第一位の格式を誇るが、度重なる火炎で現在の諸堂は明治の再建。
方丈の南西に後嵯峨、亀山天皇の御陵がある。

  鹿苑寺

義満が洛北に北山殿と称する別荘を造営したのは応永四年(1397)の正月であった。
この北山殿の資料は殆ど残されていないので、その設計者や工事の主宰者のこと、そして当時の建物の配置、庭園の地割りなどの詳細は明らかでない。
ただ応永四年四月十六日、立柱上棟式が行われ、主要建物として舎利殿、護摩堂、懺法堂、法水院、宸殿など十数棟と庭園が作られたことが分っている。

舎利殿すなわち金閣は、これらの建物中で最も重要な建物であって、三層楼閣の庭園建築である。
義満は金箔を張り陽光に輝く金閣、即ち舎利殿に仏舎利を祀り、僧形となって仏に帰依した。
そして金閣の前面池中には蓮花を植え、九山八海石(現存)を据えて、金閣を中心として展開した広い庭を、曼荼羅に描かれている七宝池に意味させて、金閣と池庭とでもって極楽浄土の様相を具象したのである。

九山八海石とは「須弥山」の意味である。
このような名称の庭石を庭中に据えることは室町時代に好んで行われている。
義満は洛西の西芳寺にしばしば詣でて、舎利殿である瑠璃閣において参禅しているので、西芳寺の庭園と舎利殿の配置をこの北山殿においても真似たのであろう。
しかし、建物と庭園とで極楽浄土を表現する作庭思想は、平安時代から行われた日本の作庭思想の根本をなすものであった。

メモ
臨済宗相国寺派
鹿苑寺の詳細は「修学旅行」の頁にあります。

  慈照寺

足利義政が文明十四年(1482)に造営した山荘、東山殿を、義政の死後寺院としたものである。
現在寺内に残る観音殿すなわち舎利殿(銀閣)と東求堂の二つの建物は、義政の築造当時のもので、文化史上、東山文化とまで称された。
義政を中心として興った当時の芸術文化を知る上に最も貴重な遺構である。
庭園は、義政の側近として登用されていた芸術家達の一員であった善阿弥、および彼の孫、又四郎の手によって作庭されたものである。

義政は一代の趣味人であり、彼の周囲には常に一芸一能に秀でた者が同朋衆として集まっていた。
義政は生来、美的感覚に優れ、彼自身が芸術家の域に達していたと思われる。
義政は美術、文学のみでなく庭園を非常に好み、機会を作っては寺院その他の名園を観賞した。
彼が最も好んで訪れたのは西芳寺の庭園であった。
『蔭涼軒日録』には義政が豪雨の中をいとわず西芳寺を訪れていることを書き記している。

このように愛好した西芳寺庭園の模様を、義政は自分が築造しようと計画した東山殿庭園の地割りにそのまま模写しようとした。
東山殿の建物および庭園は、その配置、名称まで西芳寺のそれに因んだものとした。

メモ
臨済宗相国寺派
慈照寺の詳細は「修学旅行」の頁にあります。

  大仙院

永正六年(1509)に大仙院開山である古岳宗亘(大聖国師)が書院の建築と共に自ら石を集めて作庭を行ったと伝えている。
このことは大仙院の古文書の中に、南禅の駐雪撰書になる『大聖国師行状記』が残っているが、この行状記にその事が記されている。

江戸時代、松平定信が集めた数寄屋絵図および旧三井家所蔵の同じ数寄屋絵図集の中に、大仙院書院と庭園が起こし絵図として収録されているのは著名である。
現在の同庭園の白砂敷及び庭園中央の小渡り廊下は、この古絵図と寺院の記録をもとにして中根金作氏が復元修理したものである。
書院の建築と共に渡り廊下も全く室町時代の建築様式をそのままに今日に伝えており、庭園も共に変化なく、数多くの名園のうちでも、この庭は築造当時のままにその形態を保存されている唯一の庭である。

数十個の大小の庭石を少しの破綻もなく巧みに、しかも雄渾に石組みして優れた芸境を示しているのは、作者宗亘の禅僧としての教養が基礎となっているからであろう。
室町時代中期頃から流行した枯山水庭と称される小庭、石庭が一つの作庭技術、庭の形態的表現として生まれてきたのは、禅宗の唯心論的な思想の影響によるものである。
この時期を機会に枯山水庭の作庭様式は後世にまで引き継がれていくのである。

メモ
臨済宗大徳寺派本山

  等持院

衣笠山腹の上部に位置していたが、江戸時代現在地に移されたといわれる。
移転前の等持院の模様については明確に知る資料も定かでないが、現在の境内の模様から推察すると仏殿、本堂等の主要建物は現在の立命館大学工学部のある位置となり、書院、客殿等の建物は庭園の付近に配置されていたのではないかと思われる。
庭園はかなり荒廃し、江戸時代中期の等持院庭園は現方丈と茶室の間の池庭が芙蓉池として、『都林名勝図会』に掲載されている。
しかし庭園は、池の東畔にある足利尊氏の墓所から東側に広く展開していたもので、その地割は優美で古く、西芳寺庭園に似た雰囲気をもっている。
それまで雑木に覆われて足を踏み入れる人もないほどであったが、昭和三十六、七年中根金作氏が現況に修復した。
二つの池は一連のもので、何時かのとき尊氏墓の所で埋め立てたものである。

メモ
臨済宗天竜寺派
足利氏の菩提寺で尊氏以下の将軍の木像をまつる。
水上勉の『雁の寺』で知られる。
建武のころ、中京区の御池通の北に等持寺を創建、別院を衣笠山麓に造営した。

  霊雲院 <非公開>

この寺院は妙心寺の四派の一つとして、格式の極めて高い寺院である。
この格式を示すが如く、室町時代末期に属する書院がある。
この建物は、後奈良上皇御座の間であり、上皇参禅による因縁のものである。

書院の前面築地塀との間の幅狭い庭園は、室町時代末期に近い頃の作庭家として著名であった。
相国寺の画僧子建の作庭である。
子建は西芳寺にも在し、号を是案と称した。

この庭は、大仙院の庭園の如く、立石状石と共に地形に起状を行って山水の景を表現した形態とは少し趣を異にし、数少ない大小の庭石によって石組みし、巧みに遠近をつけ、そこに樹木、下草をあしらって、深い山溪の景を表現している枯山水庭である。
きわめて小さい石庭の中に無限の自然観を表現した技巧と感覚は、禅僧子建の優れた才能を示しており、室町時代後期における作庭の秀逸といえる。

メモ
臨済宗妙心寺派本山妙心寺塔頭

  龍安寺

別頁になりますので、【こちら】 からどうぞ

  退蔵院

退蔵院は応永十一年(1404)に建立された寺であるが、応仁の乱の兵火によって妙心寺と共に炎上し、後、亀年和尚によって中興されて今日に至っている。

退蔵院庭園は方丈の西側から南面にかけてなりたっている。
西側が主庭であり、方丈正面にかけての庭は平坦地の広場、中央に松一本を植えたのみの形態である。
主庭は山石を主とした豪快な手法の石組みで枯山水の景色を表現した、枯山水庭である。
寛政十一年(1799)に出版された『都林泉名勝図会』には、この庭園が詳細に描かれ、「庭中は画聖古法眼元信の作なり他にこの類なし」とある。
退蔵院庭園は狩野法眼元信の作庭であるというのだ。

元信は文明八年(1476)から永録二年(1559)にかけて活躍した画家で、狩野派様式の確立者である。
どのような関係で、この庭の作庭者を元信としているのか、この説を裏付ける資料がなにも残っていないので明確に知ることはできない。
しかし、いまこの庭を眺めるとき、豪快なうちに優雅豊満な感じをもつ手法で作庭された見事な構成には目をみはらされる。
絵画的であり、庭全体の構成や石組みの一つ一つにも、画家でなくてはなし得ない感覚が漲っている。

特にこの庭の特色は、用いた庭石に色彩感があり、重厚な山石を数少なく巧みに組み合わせて、力強い中に美しい線の流れを表現しているところにある。

メモ
瓢鯰図(国宝)は有名
「隠しの席」と称する囲の席(茶席)がある。

  聚光院 <非公開>

永録九年(1566)三好義嗣が笑領和尚を開山として建てた寺である。
千利休との関係から庭は利休作とする説もあるが、もとより確証はない。
境内の墓地に利休の墓と利休切腹の場となった茶室が残されている。

庭園は俗に「百石の庭」と称されている。
庭の奥に一直線に石橋で結ばれたニ島と、その前景の如く手前右に寄って一島を配置した、「三島一連の庭」形式の枯山水の平庭である。

メモ
閑隠席は利休好みの茶室
庭園南側の墓地には千利休の墓所があり、墓石の石塔は朝鮮からの渡来品で重要美術品に認定されていた
利休の墓石を中心に三千家歴代の墓がある
北隣の総見院は織田信長の菩提寺である

  本法寺

本阿弥光悦の作庭と伝えられる。
『都林泉名勝図会』にはこの庭の江戸期の姿を描いていて、現況と変わっていない。

光悦は本法寺の大檀家で、光悦と寺との関係はきわめて密接であるから、この作庭説は信じたい。
さらに光悦作庭説をうなずかせるものは庭の意匠である。
三島を配置した平庭であるが、その三島を巴形にしたこと、中央の一番大きな島に滝口を組み、滝口を表現する二つの立石の間に白線の入った青石を斜めに、またその下部に同模様の石を据え、あたかも滝水が岩間を迸り落ちるように見せている意匠、そして、三島の手前に切石を変形に組んで縁取りした小池を作り、池中に蓮を植えている意匠は、他に類例のない意匠であって、光悦ならでは思い及ばぬ優れた意匠である。

三巴の三島は神仙島であり、小池は七宝池である。
即ち本法寺の法燈の永劫を祈っている。

メモ
日蓮宗
現在の諸堂は江戸時代の再建
寺域の墓地に本阿弥家の墓がある

  三宝院

三宝院庭園は慶長三年(1598)に豊臣秀吉が築造した桃山時代を代表する名園である。
この庭園ほど作庭工事中の模様や工事関係者、作庭技術者等がはっきりと記録に残されている庭園も希である。
秀吉が一応作庭を完了したのち、当時の三宝院座主であった義演准后によって約20年間にわたって修改造が行われた。
その作庭に最終的に従事した山水河原者賢庭は、後陽成天皇から、「賢庭ト云天下一ノ上手也」と勅を賜ったほどの名人であった。
後に小堀遠州に従って南禅寺塔頭金地院庭園の石組みも行っている。

このような人物達が作庭しただけに石組みは見事であって、近世の名園中傑出した作品である。
庭石の選定と用い方が極めて上手である。
品位と格調が高く、石組みの手法も優れている。
この庭園は寝殿から眺める観賞本位の庭園であって、反橋や石橋が架けられているが、散策するためではない。

この庭園様式を寝殿式庭園といい、平安時代に流行した貴族の住宅庭園様式である。
寝殿の正面に池を穿ち、池の向こう側に築山を築き、築山の左に寄って滝口を構えた地割、そして池中には三島を配して、中央の中島には反橋と直線の橋を架け寝殿前の岸辺と池の向こう岸を結んでいる。
このような地割構成の作庭は長く継承され、今日の庭園にもこの様式が至るところに応用されている。

築山裾に据えられている名石藤戸石は、寝殿の正面の位置になる。
主人守護石といって、中世から観賞本位の庭園にはこのように守護石を据えることが形式上の約束となっている。

主人を守護するという意味であるが、藤戸石を中心にニ、三の庭石が脇石として組まれている。
この守護石の組石は三尊仏を崇める思想から発想したものである。
寝殿に近く手前の池岸に、守護石に対して礼拝石という平らな石を据えることもある。

このように藤戸石を据えた意味がわかれば、その位置と組石の手法を理解する事が出来、その周辺の石組の調和にまで観賞の眼が届くことになる。
そして守護石となる立石が品位と量感、美しさに充分な神経を払って選定されていることの理由にも気づくのである。

観賞本位の庭園であると同時に、思想的な意義をも持っている。
池中に造られた三島は神仙島である蓬莱島、方丈島、瀛州島の三島を意味しており、庭園の形態で永劫の繁栄を願う意味を示しているのである。
現代の作庭において、島を造り、松を植える庭園の構成は、この思想と形式から継承されている技術である。

メモ
真言宗醍醐寺派総本山醍醐寺の塔頭
一山の中心子院で門跡寺院

  金地院

金地院庭園は寛永四年(1627)、徳川家康の政治的相談役であった崇伝が建物と共に小堀遠州に依頼して築造したものである。
この庭園の記録も崇伝の日記『本光国師日記』に記載されていて、遠州とその配下達の活躍が明らかに判る。

金地院庭園は方丈の建築のほか、茶室、東照宮などの建築と同時に、遠州の指図によって開始されたもので、崇伝は遠州の意匠に事のほか満足であったことも記録されている。

この庭園は方丈の前面に大きく展開した枯山水庭で、正面に三尊石の石組みを設け、左右に鶴島、亀島のニ島を相対して配置し、その手前に平坦な大石を伏せて礼拝石としている形態である。
俗に「鶴亀の庭」と呼ばれて江戸時代から著名であった。
この庭園を眺めてまず不思議に思われることは、鶴亀島と称するニ島をなぜ配置して庭園を構成したのか、それは何のためなのかという点であろう。

意味するものは神仙島であって、鶴は千年亀は万年生きると伝えられる東洋の伝説によって、その鶴亀の長寿を神仙島の不老不死の霊薬に結びつけているのである。
そしてニ島には松樹を植え、特に亀島には真柏を植えている。
ニ島中央の三尊石と、その手前の礼拝石は、浄土信仰の表れをここにこのような形で表現したものである。

ここで設計者遠州の作庭意図に感心するのは、庭園の背景であり丸形に刈り込んで図案的に配列された樹木の向こうに、家康を祀った東照宮があることである。
家康と崇伝の深い関係を知っている遠州は、方丈にある崇伝が東照宮に対して、家康の冥福と徳川家の繁栄を祈る意味を庭園に形どろうとしたのである。

庭園を観賞するとき、このように形態と様式を理解していればなおおもしろい。

メモ
臨済宗南禅寺派大本山南禅寺の塔頭
茶席八窓席は遠州好みで名席として知られる

  南禅寺

南禅寺は亀山法皇が、離宮であった禅林寺殿を正応四年(1291)大明国師に帰依して禅院とされたのがはじまりである。
現在の方丈は慶長十六年(1611)後陽成天皇より清涼殿を拝領して移建したものという。

方丈の庭園は、崇伝が金地院庭園の作庭を小堀遠州に依頼したとき、同時に作庭依頼したものと考えられる。

宸殿造り様式の方丈の前庭として作庭されたこの庭は、石組みがあたかも親虎が子虎を従えて川を渡る様に似ているところから、何時しか「虎の子渡しの庭」という名で呼ばれるようになった。
さほど広くない前庭の平坦地に、面積に比べて大き過ぎるほどの大石を頭に大小の庭石を巧みに組み流している手法は、さらりとして品位がある。
遠州の好みらしく、庭石も華やかな色調であるが、石組みに配され植栽が優雅で落ち着きをみせている。

もともとこの庭は、南方の南禅寺山を借景としていたのであるが、昭和の初期に現在の庫裡が新築されたので、その借景は無くなってしまっている。

メモ
京都五山の上位。
三門は、大阪夏の陣で倒れた将士を弔うために藤堂高虎が寄進したものである。
石川五右衛門の伝説で名高いが、五右衛門の死後に建てられたものである。
方丈各室の襖絵は狩野派の筆になり重文指定のものが多い。

  成就院 <特別公開あり>

清水寺の本坊成就院の庭園は、書院が建築された寛永年間の作庭と思われる。
作者は誰であるか解らないが、清水山の山裾を利用して築山とし、その下に地山の岩盤を穿って池を造り、築山には滝口を落とし、池中にニ島を配置して神仙島を形どっている。
庭園としては狭い面積であるが、庭の背後にある深い湯屋ケ谷の向こうの山形を借景として見事に雄大な風景として構成している。

池中の中島の大きい島には、滝口横から反りの美しい木橋を架け、島中に奇形の立石、烏帽子岩を据え、その横に蜻蛉灯籠と名付けられた石灯籠を立てている。
そして今一島には穴を穿たれた大きい自然石を据えている。
面白い構図であるが、この三者がこの庭の主役である。
即ち烏帽子岩は陽、男性、穴を穿った自然石は陰、女性を表徴している。
陰陽和合の図である。

山裾を利用した築山上には斜面に四角形、三角形等数多くの刈込み樹木を調和よく配置して修景し、その上に重層の石塔を据えている。
この形もの刈込み樹木の配植は、日本の作庭では昔から行われていたもので、刈込みの植栽ヨーロッパのみの特色ではないことを示している。
享保年間(1716)に出版された『築山庭造伝』には、「典雅温淳の体の庭」として全景と共に掲載されている。
その説明の如く、瀟洒な品位ある庭である。

メモ
北法相宗大本山清水寺の本坊。
現在の諸堂は徳川家光の再建。
清水から大谷本廟へ抜ける途中が平安時代からの墓場である鳥辺山。

  真珠庵 <事前申し込み必要>

真珠庵は永享年中(1429)一休禅師を開祖として創立された大徳寺塔頭で、応仁の兵乱の後、延徳三年(1491)尾和宗臨によって再建されている。
さらに寛永十三年(1636)後藤盛勝によって現在の方丈が建てられ、旧方丈は庫裡とされた。
方丈東庭の「七五三の庭」は村田珠光の作と伝えられているが、珠光が一休に参禅し、墓所が寺内にあるところからその伝説が生まれたものであろう。
手法からいっても室町時代にさかのぼることはない。
大徳寺本坊の東庭の構成と酷似しているところをみても、この庭は方丈新築の寛永十三年頃以降の作であろう。

作庭年代はともあれ、方丈側面に小石で淡々と配石した模様が、枯山水庭特有の枯淡の中に強いタッチになり勝ちな庭を、侘びた静寂な茶所大徳寺らしい庭の一つにしている。
またこの庭は、方丈奥に位置する客殿の囲いの席、庭玉軒の庭に対する外露地にもあたる。

方丈の北奥、廊下伝いに継がる客殿は通遷院という。
この建物は寛永十五年(1638)に御所より移されたもので、その前庭は、狭い空間に立石に数個の組石をした瀟洒な平庭である。
この庭は客殿の前庭であるが、縁先に近く飛石を配置して、客殿の北隅に付属する囲いの席、庭玉軒の露地の役割をもたせているのである。
茶席庭玉軒は金森宗和の好みと伝えられる。

この庭は方丈東庭より優っている。

メモ
創建後応仁の乱で焼失、延徳三年(1491)祖渓宗福和尚によって再建、方丈は寛永十五年(1638)の改築、一休禅師の像を安置する。
襖絵の山水図、花鳥図等は曾我蛇足の筆と伝え著名。
また商山四皓図、蜆子猪頭図は長谷川等伯の筆で優れている。
方丈の背後の客殿通遷院の襖には狩野元信筆の水墨山水図、西湖図がある。
金碧花鳥図は土佐光起の筆。

  孤蓬庵 <特別公開あり ・ 事前申し込み>

孤蓬庵は、はじめ慶長十七年(1612)の頃に小堀遠州によって大徳寺山内龍光院の境内に建立されたのであるがその土地が狭くなったので現在地に移され、方丈、書院、茶席が設けられた。
そしてこの寺は小堀家の菩提寺とされたので、遠州も特別に念を入れ、彼の創作的思想の終局的表現ともいえる作品であるといいうる。
建物、庭園ともに、遠州の晩年における最も注目すべき作品である。

当時の建物は寛政五年(1793)失火のため焼失したが、時の住持還海和尚が雲州の松平不昧公に計って現在の建物が再建された。
不昧は大名茶人として当時特に著名な人物であり、彼は遠州の茶風を継承した人といわれているだけに、記録をもとに旧様式に再建したといわれる。
したがって建物の結構と、特に庭園は、遠州作庭当時の模様を今日に伝えていると考えてよい。

孤蓬庵の「蓬」は舟の上を覆うとまのことをいうので、孤蓬は孤舟の意である。
庭とその周囲の外景を湖景にみて、建物を湖水に浮かぶ孤舟に擬して名付けられたものであろう。
方丈の北側にになる忘筌の間は十二畳敷きの書院式茶室で、席外の広縁と明かり障子は躙口、室の軒打ちは飛石を打って内露地としている。
忘筌の西に続く書院直入軒の前庭は、近江八景を写したといわれ、湖水を表現した枯山水庭であるが、これは外露地となっている。

メモ
孤蓬庵に伝わるものに不昧公ゆかりの国宝、井戸茶碗がある。
慶長のころ大阪の町人竹田喜左衛門が所持していたので喜左衛門井戸ともいう。
のち本多能登守忠義に奉られ、中村宗雪などを経て、安永年間に不昧公が金百五十両で購入したが、この茶碗には腫物のたたりがあると伝えられ不昧公も病み、その死後、子の月潭も腫物に苦しみ、ついに文政五年(1822)孤蓬庵に寄付された。

  酬恩庵

酬恩庵は一休宗純の終焉の地で、一休寺とも呼ばれている。
康正年間(1455)一休禅師の建立であるが、現在の寺院結構は慶安三年(1650)前田利常の再建によるもので、方丈建物に続いて作庭も行われたと思われる。
伝えによれば、この庭は松花堂昭乗、佐田川喜六、石川丈山の合作によるもので、「三作の庭」といわれる。
いずれにしてもこの庭は、江戸時代前期作庭の、禅院の枯山水庭として力作である。

メモ
臨済宗大徳寺派
一休の居室跡の虎丘庵の庭は村田珠光の作といわれる。
一休座像は頂相の佳作として知られる。
一休寺納豆は寺の名産。

  西本願寺

大書院の庭は、もと伏見桃山城にあり、徳川家光が寛永七年(1630)に良如上人に寄進して現在地に移したと伝える。
庭の作者は、伏見の佳人朝霧志摩之助であるといわれるが、この人物の実在は疑わしい。

大書院の建築については寛永九年(1632)の新築説もある。
事実とすれば、本願寺の実力は驚嘆すべきものである。
庭園の作風も桃山の建築意匠に対照的に、力強く見事な枯山水庭である。

メモ
浄土真宗本願寺本山
現在の伽藍は秀吉の寺地寄進で建立されたもの。
大書院、唐門、飛雲閣などは、秀吉の伏見城や聚楽第の遺構を移築したもので壮麗な桃山文化を今に伝える。

  曼殊院

昔洛中にあったものを、明暦ニ年(1656)に当時の門主良尚入道親王が現在地に移したものである。
寺院の中心をなす大書院、小書院の建築は優れたもので、桂離宮の意匠に相似点が多い。
庭園も明暦二年の建築に引き続き作庭されたもので、江戸時代前期における書院庭園の平庭として名作の一つである。

格調高いこの庭の作庭者は不明であるが、門主良尚親王は芸術センスに秀で、書道、華道、茶の湯に優れ、特に絵画は狩野探幽に学んでいるほどで、おそらく庭園の設計には親王の意志と好みが基本となっていると思われる。
庭園は大書院から小書院にかけて造られた、山水の風景を表現した枯山水庭であるが、白砂敷きで水面を表現した中に三神仙島を築き、その奥に低い築山を連ね、滝口を架けた石組みは品位のある手法である。
外側の山々を借景としている。

メモ
竹の内門跡とも呼ばれる京都の天台五門跡の一つ。
小堀遠州好みといわれる八窓席は、名の通り八つの窓をもつ茶室として名高い。

  玉鳳院

妙心寺の開山堂である。
花園上皇の開創になる。
境内の東側の開山堂、微笑庵は延文五年(1360)慧玄入滅のときに建てられたものであるが、天文七年(1538)東福寺より移建された。
開山堂に並ぶ玉鳳禅宮は明暦二年(1656)仙宮を模して改建されたという。
庭園はその頃作庭されたと思われる。
前庭を清浄な白砂敷きのたたずまいに図面的に延段で意匠し、建物間の中庭に格調高い石組みを配置している。

メモ
一に花園御殿とも麟徳院ともいう。
法皇法体像を安置する。
唐門は寛文年中に淀屋辰五郎の寄進と伝える。
禅宮の東隣りの開山堂の微笑庵には、関山慧玄(無相大師)の像を安置する。
堂前の唐門は四脚平唐門で鎌倉様式を残す室町時代の建築である。
北東隅に武田信玄、勝頼父子や織田信長の石塔の廟がある。

  智積院

この寺は新義真言宗の本山で、慶長六年(1601)に玄宥僧正が家康から与えられた秀吉の長子鶴松の菩提寺祥雲寺の寺地に開いた寺である。
書院の庭園は、住持第七世運敞僧正によって作庭されたと記録は伝えている。

この庭の特色は池が書院の床下深く入り込んでおり、寝殿造りにみられる泉殿や釣殿の如き形式をとっていることである。

そして、書院に迫る如く池をはさんで近々と見上げるばかりに築かれた築山には、池上に、滝口を組み築山の斜面に多数の庭石で段々に石組みをして渓谷の景を模している。
中国の蘆山の風景を模したといわれるこの景は、江西の名勝蘆山の山頂より滝水が湖水に向かって落ちる様を彷彿させる。
また築山の頂には十三重の石塔を建て、築山斜面に刈込みの植物を配し、特に書院前から池を渡った石橋傍に大きく琵琶形に形取った大刈込みの意匠は見ものである。

メモ
紀伊根来寺の智積院を再興したものである。
収蔵庫には長谷川等伯をはじめ門下生の描いたという多くの障壁画を展示している。

  円通寺

この付近一帯は、はじめ後水尾天皇の営まれた離宮、幡枝御殿、または幡枝御茶屋のあったところである。
当時の離宮の模様は明らかでないが、山地によってニ、三の御茶屋が点在していたようである。

後水尾天皇が修学院離宮を造営された後は、幡枝離宮は廃止されたが、残された御殿は霊元天皇の乳母円光院の乞いによって尼寺とし、円通寺と名付けられた。
円通寺の庭園は延宝六年(1678)御所の建物を移して仏殿とされたころ作庭されたものである。
江戸時代中頃出版された『都名所図会』に庭園の全景が掲載されていて、当時の規模が想像できるが、現況はかなり北面部分が変更されているようである。
しかし、庭園の主体はかなり正確に残されており、小振りの美麗な庭石を平坦に低く横長に組み流し、焦点に比叡の霊峯を借景として取り入れている。

見事な借景の構成は、他に並ぶものがない。

メモ
臨済宗妙心寺派
平安時代、大内裏や社寺の瓦を焼いた栗栖野はこの辺という。

  勧修寺

醍醐天皇の勅願寺として由緒深い寺院である。
寺内の大林泉は氷室の池と称される古い庭園であるが、地割の古式を残すのみとなっている。
この庭園で見るべきは客殿前の庭である。
低い生垣で客殿の南面を囲った狭い面積の中に、勧修寺型灯籠として著名な石灯籠を焦点に十数個の石組みを配石し、庭一面を覆う如く枝を地上に拡げたハイビャクシンと数本の庭木を配植した瀟洒な庭である。

メモ
真言宗山階派大本山で門跡寺院
書院は江戸初期の書院造りの典型的な建物。

  大徳寺

大徳寺方丈庭園は、方丈が建築された寛永十三年(1636)、大徳寺百六十七世の住持天祐和尚によって作庭された。
小堀遠州の説もあるがこれは間違いらしい。
庭は方丈の南と東に作庭されており、一連の庭ではあるが、またそれぞれが独立した庭としての形態もそなえている。

南庭は方丈の主庭である。
長方形の広い平坦地の南東隅に大石を二つ立てて滝口に擬し、立石の背後に椿の古木を山形に刈込み連山を形どって、深山にかかる滝と渓谷を表している。

この山水をさらに強調するべく、遠望される東山連山を借景としているのは、作庭者の優れた意匠的センスを示している。

東庭は、滝口より北に向かって方丈東面の細長い空間を、三つないし数個のグループに分けて石組みを長く連続させ、やはり遠望される比叡の秀峰をその焦点として借景にした意匠で、瀟洒である。

メモ
大燈国師が、正中元年(1324)開山し、一時は五山の上位に列せられた。
応仁の乱で焼けたが、一休禅師によって復興された典型的な禅寺の伽藍配置である。

  二条城

二之丸の庭園は築城当初すでに造られていたようであるが、寛永三年(1626)三代将軍家光が、後水尾天皇の行幸を迎えるために小堀遠州に命じて新たに築造させたものである。

遠州は作庭とともに池の南畔にのぞんで行幸殿を建て、池の西側には女房衆の休処、数寄屋が設けられたという。
したがって、庭園は二之丸御殿大広間と黒書院から眺められる正面と、さらに池南側の行幸殿からの観賞にもたえられるように作庭されている。

この庭園は遠州の作庭の中でも仙洞御所と並び、規模と出来栄えからも偉作中の一つに数えられるものである。
武家の庭園らしくこの二之丸庭園も池中に三島を築き、神仙島を表現して、永劫の繁栄を祈っている。
この庭の特色としては、二之丸御殿、黒書院の大建築と華麗な桃山調の装飾に対抗できるように、庭石も大石を用い、多彩な色調を考え数種の異なった産地の自然石を選んでいる。
四国の青石、地元洛西の赤味の勝った山石等を多量に用いて、雄渾なタッチで石組みをしている。

京都の名園中、最も華麗な庭園である。

池の北西隅に組まれた滝口も、池に比し大きくはないが立石を多く用いた力強い手法である。

  雑華院

方丈の南側に作庭された枯山水の平庭である。
築地塀に囲まれた平坦地に十数個の大小の奇岩怪石を配置したこの庭は、昔から十六羅漢になぞらえて、釈尊大会の体形を表したものと伝えている。
庭の向こう左に寄って奇形の大石を中心に一群の石組みをし、右方に順次点々と配石した石組は妙味のある手法を見せており、簡素の中に静かな雰囲気をもった庭である。

禅宗の思想が作庭思想に影響を与えた結果、石組みによって仏の体相を象徴させることが流行した。
この庭もその一つの作例である。

メモ
妙心寺塔頭
寺宝の中に、二条昭実夫人像(織田信長の娘)と大野治長夫人像があり、龍安寺の細川昭元夫人像を加えて三名幅といわれる。
北隣の海福院には狩野探幽筆の唐人と猿の図があり著名。

  仙洞御所 (拝観手続き必要)

寛永五年(1628)後水尾天皇が上皇となられたときに造営された。
天皇は譲位の後、寛永六年から崩御される延宝八年(1680)まで、この仙洞御所に居られた。
仙洞御所は上皇のお住まいになる御所で、「仙洞」のほか「縁洞」「芝はこやの山」とも呼ばれ、中国の古事をとって名付けられたもので、「仙人の住い」の意である。
上皇を仙人に見たてたものである。
この仙洞御所は寛永初年造営当初から今日までかなりの変遷をかさねている。
第一に注目するのは寛永十一年(1634)小堀遠州が奉行して大改造を行った作庭である。
このときの作庭がいまみる仙洞御所の庭園の元となっている。
安政三年(1856)炎上した仙洞御所の建物は、再建されずに今日に至っている。

庭園は遠州の意匠であるだけに見事な結構をみせており、草の庭と呼ばれる西の苑池の雄大な磯浜の景観は、他に例を見ない。

メモ
京都御所御苑の南東を占め、築地塀をめぐらし、東部は庭園、南西部の樹林が、仙洞のあと。
北西部に、皇室や国賓の宿舎に使われる大宮御所がある。

  普門院

正面開山塔所からその前庭を眺めると、右側は白砂敷きに島を築いた枯山水庭である。
左側は築山と池をもった林泉の庭である。

平庭白砂敷きは地模様を美しく描き、すっきりした近代的感覚のみられる庭となり、林泉庭は石組みこそ拙劣な手法であるが、禅院の庭らしい簡素な趣をみせている。

メモ
臨済宗東福寺派大本山東福寺は京都五山の一つ

  東海庵

書院の庭は、妙心寺末海蔵寺の住職東睦和尚が作庭したものである。
この庭は江戸末期の作庭であるが、設計図が残され、三つの築山は蓬莱、方丈、瀛州の三神仙島と記されている。
そして東海一連の庭という。

築山の左側には三尊石の石組みが組まれ、東海庵法燈の永劫の繁栄への祈りを込めている。
書院と方丈の中庭には、白砂を敷き、七つの庭石を配石し、動きのある枯山水庭としている。

メモ
妙心寺四派の一つ
文明十六年(1484)斉藤越前守利国の室利貞尼が、悟渓和尚を請じて建立した。
悟渓は尾張の人、雪江門下の傑僧で、教えを東海道に弘通して東海派を樹立した。

寺宝に狩野元信筆の水墨画、瀛湘八景図、絹本着色の十六羅漢像十六幅がある。

方丈前庭は「白露地の庭」と称され、禅院の無一物の意を表した庭として知られる。
方丈広縁に添って棗形の手水鉢がある。

  無隣庵

無隣庵は明治維新に活躍した長州の山形有朋が、明治二十八年(1895)に経営した別荘である。
この無隣庵の築造は、当初は簡素な二階建建物と、三畳台目の茶室、洋室を内部に持つ土蔵と、これらをめぐる庭園であったが、その後、東に地域を拡張して今日見るような庭園が営まれたのである。
作庭は植木職小川治兵衛(植治)があたった。
しかし、全体の地割から細部の作庭まで、有朋が細かく己の好みによって指図したようである。
この作庭後、治兵衛は数々の作庭を行って名声を得たが、これらの作品と比較して、無隣庵の庭が格段に出来栄えがよく、治兵衛の好みと感覚とは大いに異なるところから、無隣庵の作庭は有朋の感覚が主体となっていることが理解できる。

この庭は明るい柔らかな手法に洋風の感覚を加味しており、明治の欧米文化輸入の時代相を作庭に示した作品といえる。

メモ
庭は一般公開されている。
母屋と茶室も使用できるが有料で、管理する京都市文化観光局の許可が必要。


 

■ メモ

  重森三玲邸書院・庭園

http://www.est.hi-ho.ne.jp/shigemori/index.html

  葵殿庭園

目の前に立ちふさがる急傾斜の岩肌を、琵琶湖疏水から引き込んだ水が一気に滑り落ちる。「雲井の滝」と呼ばれるこの滝は、途中から二筋に分かれて約十五メートル下の滝つぼに流れ込む。滝の流れとは対照的に、庭園の周囲はモミジやクスの葉に覆われ、静寂に包まれている。
 都ホテルの宴会場「葵殿(あおいでん)」の南側約千二百平方メートルに広がる。ホテル五階の専用連絡口から入る散策路は、木の枝や葉があふれ、両側にはこけむした木々がそびえ立つ。大木の根が下部の石を抱え込むように巻き付き、足下にはシダなどの低木がうっそうと茂る。自然の力強さがそのまま庭づくりに生きている。

 明治の造園家小川治兵衛が一九三三年に都ホテルの敷地内で作庭した。自然の地形を舞台にした回遊式庭園は、近代造園の礎を築いたといわれる七代目治兵衛にとって最後の作品となった。九四年に京都市の指定名勝になった。

 葵殿庭園の散策路は急な上りが続く。途中、頭上を覆うように茂っていた木の葉が開ける場所があり、左京、東山一帯の京都盆地が眼下に広がる。さらに上ると都ホテルの和風宿泊施設「佳水園」に着く。数寄屋風の平屋別館で、外国人宿泊客らの利用が多いという。ここにも岩盤を生かした特異な和風庭園「佳水園庭園」がある。治兵衛の長男小川白楊(はくよう)が手がけた作品で、親子の庭園美の競演が楽しめる。

■ところ
京都市東山区粟田口華頂町

■拝観時間
10:00〜16:00。年中無休

■拝観料
無料。一部入場制限あり

■問い合わせ
都ホテル代表 電話077(771)7111

  大角氏庭園

縁側に立つと、まず急こう配の築山が目に飛び込む。それを囲むように生け垣が巡らされ、落ち着いた雰囲気が漂う。やや視線を上げれば借景として取り入れられた日向山が遠くに見える。江戸時代、東海道を往来する人たちの休憩所となった大角家住宅の庭園。
 大角家は東海道に面し、街道名物の漢方薬「和中散」を製造販売する「和中散本舗」として十七世紀初めに創業した。十七世紀末ごろ、この地が草津宿と石部宿のちょうど真ん中に位置する「間(あい)の宿」だったため、大名や公家たちの休憩所に使えるように座敷や庭園を増築し、接客ができるだけの「小休み本陣」となった。

 近世の絵師として評価の高い曽我蕭白(一七三〇〜八一年)が、滞在のお礼に描いたふすま絵なども多く残されており、建物は一九五四年に国の重要文化財に指定されている。

 庭園は、かつて大名などしか使えなかった「上段の間」に面しており、小休み本陣として整備されたころの作庭。東海道沿いに栄えた商家の趣を伝える数少ない庭として、今年一月には国の名勝に指定された。

 敷地は約千平方メートル。中央の池の周囲をめぐる池泉回遊式庭園で、池の周囲にはせり出すように伸びる樹齢三百年のマツや、サツキ、カキツバタなどが植えられている。

 その池の奥には、三メートルほどの高さに盛られた急こう配の築山と、高さ一メートルほどのなだらかな築山が並ぶ。一八六九年、明治天皇が江戸へ向かう途中に休憩し、築山に登り景色を楽しんだという。いまでも大きな築山には道が整備され、登れば眼下にかわら屋根が広がり、垣根の向こうに、近江富士で知られる三上山を望むことができる。

■ところ
滋賀県栗東町六地蔵

■拝観料
大人400円、中学生以下200円(見学は予約が必要)

■問い合わせ
旧和中散本舗 電話077(552)0971

  苔 水 庵

東に再建された福知山城の天守閣、西側の福知山市役所の背後には伯耆(ほうき)丸公園を臨む。苔水(たいすい)庵を挟むように南北に伸びる通りの名が、「切り通し」「新切り通し」と呼ばれているように、江戸時代までは、このあたりは城内だった。「二の丸御殿」があった場所の真下に位置するとされる庭には、城を掘り下げた際に露出した自然岩が、うまく取り入れられている。
 一九一三(大正二)年、福知山の豪商、高木重兵衛が住宅として建築し、自身の雅号から「苔水庵」と名付けた。庭は敷地の西側と南側に計約五百平方メートルもある。元々、茶庭として造られたこの庭の魅力を、重兵衛の孫にあたる所有者の高木米太さん=京都市左京区=は「市中山居。街中の山のたたずまいを感じる」という。さりげなく置かれた福知山近郊産の赤珪石(けいせき)の踏み石や、玄武岩の灯ろうなどに、重兵衛の地元を愛した気持ちが見て取れる。

 水害に悩まされ続けた福知山にあって、苔水庵は、由良川の流れに近い市街地に位置しながらも、少し高台にあるのが幸いして、これまで洪水の被害を免れてきた。そのためか、建物とともに、庭もほぼ当時のままの姿をとどめている。「今は枯れてしまった木もあるが、シーズンになると、モミジやハギが美しい姿を見せます。さらにはセキレイやシジュウカラなど、いろんな野鳥がやってきては、美しいさえずりを聞かせてくれる」(米太さん)。

 現在の苔水庵は、敷地の北側に立つマンションのロビーや、茶会の会場などとして使用されているほか、団体での見学者もあるが、維持管理には苦労している様子。米太さんは「今の日本の法制度では、資金面などから個人所有が難しい。このままでは日本の伝統ある建築物や庭はなくなってしまう」と危機感を募らせ、行政による保護策の必要性を訴えている。

■ところ
京都府福知山市内記1丁目

■建物は数寄屋風の本格的な木造建築で、学術的な評価も高い

■問い合わせ
苔水庵 電話0773-22-2011

  徳 雲 寺

 園部町のJR園部駅の西口から町に足を踏み入れる。駅の西側になだらかに続く丘陵地では宅地開発が進む。一昨年開校の園部第二小前に立つ寺名を示した石柱に沿い一本道を行くと、山のすそのに徳雲寺が見えてくる。モノトーンな風情のせいだろうか、空気もどことなく涼しげだ。

 徳雲寺は園部藩主小出家の菩提(ぼだい)寺で、藩内曹洞宗の本山として栄えた。南北朝時代の一三八五年、当時、この地に勢力を張った豪族の荘林(しょうばやし)氏が道元禅師九世の法孫・希曇(きどん)和尚を招き、創建したと伝わる。

 竜宮造りの唐門をくぐると、大きくはないが、落ち着いた感じの江戸期につくられた禅式の庭がある。藩主の御廟所にあった灯ろうなどが移され、彩りを添えている。

 なかでも興味深いのが、四隅にフクロウの彫刻をほどこした石づくりの手水(ちょうず)鉢。初代藩主の小出吉親(よりちか)が出石(いずし)から移ってきた時に持ってきたとされ、極めて珍しい彫り物という。先代住職の妻の諸岡道子さん(82)は「昔、小出家のおばあさんが『夜になると、ホーって鳴くでしょ』と、冗談をおっしゃっていました」と懐かしむ。

 「そんなに大きくはありませんが」と案内してもらった中庭も面白い。池の中に石を組み合わせて仕立てた亀がいて、その背に石のカエルがちょこんと乗っている。ただ最近では修復してもすぐに崩れてしまうそうだ。

 寺の後ろにある、塩田山。最近、屋根がふきかえられた本堂の横から続く道の先には小出家の姫御廟所として多数の法塔が建つ。「昔は徳雲寺に行くのは怖いといわれたくらい、周囲には何もなかったんですよ」と諸岡さん。時の流れが違うような気がした。

ところ
京都府園部町小山東町

狩野派の絵師が描いた歴代園部藩主の肖像があるが、中でも初代の「小出吉親公夫妻画像」は狩野探幽の手で園部文化博物館で保管されている

■問い合わせ
徳雲寺 電話 0771(62)0503

  玄 宮 園

彦根城の北東に位置する玄宮園(げんきゅうえん)は、城に足を運んだ人が必ずといっていいほど訪れる、彦根市の中心的な観光スポットだ。

 元は旧彦根藩の大名庭園で、四代藩主井伊直興が延宝五(一六七七)年に造営した。中国・唐時代の玄宗皇帝の離宮になぞらえたといわれ、池や周囲には「近江八景」を模して、琵琶湖に浮かぶ竹生島や沖島を表現する石を配置、江戸初期の庭園の造形美を見事に表現している。

 池を眺める園内の築山には、藩主が客をもてなすための茶室「鳳翔台」、池の西側には歴代藩主の下屋敷だった「楽々園(槻(けやき)御殿)」もあり、船遊びや茶道をたしなんだ当時の大名の文化的な生活がしのばれる。

 一九五一年に庭の敷地約二万八千七百平方メートルが名勝に指定され、現在は彦根市が維持、管理している。年間約五十万人が訪れるほか、テレビの時代劇や映画のロケ地としても知られる。

 初夏にはハナショウブ、秋には紅葉と、四季折々の花が観光客の目を楽しませる。九六年には、園内のスズムシやコオロギなどが奏でる虫の音が、彦根城の時報鐘とともに、環境省の選定する「日本の音風景百選」に選ばれるなど、豊かな自然環境も備えている。

 ボランティアでガイドを務める平居圭子さん(66)は「広くはないけど落ち着いていて、日本三名園にも負けない良さがある。茶室や船着き場がほぼ当時のまま残っていて、大名文化の名残を感じ取れる庭です」と解説する。

ところ
滋賀県彦根市金亀町

開園
8:30〜17:00

入場料
大人500円、小中学生200円(彦根城と共通)

問い合わせ
彦根城・城山公園事務所 電話0749(22)2742へ

  三上家住宅

豪快にすえられた石が迫力ある景観をつくりだし、紫色のカキツバタと池の水が、あたりをおだやかな雰囲気に包み込む。江戸時代から宮津の迎賓館として使われた三上家住宅には、訪れた多くの著名人を楽しませた庭園が広がる。
 三上家は、廻船業などで財をなした宮津藩屈指の豪商。住宅は、江戸時代中期に自宅兼店舗として建てられ、庭園の美しさと座敷の見事さから、幕府巡見使(宮津藩を視察に来た幕府の役人)の宿に選ばれた。

 その後は宮津の迎賓用施設として利用され、元老の西園寺公望や天皇の親族らも宿泊した。邸内には四人しか入浴していないVIP専用の風呂も残るほどだ。一九八九年に住宅が府指定文化財になり、昨年は庭園も府指定名勝に選ばれた。

 庭園は、宮津藩御用庭師だった「江戸金」の作とされる。座った位置からが最も眺めが良いとされる「座視観賞」を強く意識した造りが特徴で、約百八十平方メートルの庭園に大小三百余の石を配置している。これほど石が多い庭は、この時期には珍しいとされ、「北前船でもうけた財力を生かして、値の張る石をふんだんに使ったのでは」と言い伝わる。

 市が住宅を買い取り、観光スポットとしてオープンした昨春から、多くの観光客が足を運ぶようになった。石の迫力にはだれもが注目し、特に中央付近の大きな石がライオンの横顔に似ていることから「ライオン石」と評判になっている。

 この住宅の永久徹管理長(53)は「訪れた人の中には、一時間も座敷に座って、くつろいでいる人もいるんですよ」とほほ笑む。かつての迎賓館は今、くつろぎのスペースとして観光客たちに親しまれている。

ところ
京都府宮津市河原

開館
9:00〜17:00。年末年始のみ休館

入館料
高校生以上250円、小学生以上150円。茶室使用は全日5000円、半日2500円

問い合わせ
三上家住宅 電話0772(22)7529へ

  桂坂野鳥遊園

望遠鏡越しに、水辺の草むらをじっと見つめる。静寂。重なり合う葉の奥で何かがかすかに動き、さっと翼を広げ飛び去っていく。
 大きなガラス窓がはめこまれた小屋「観鳥楼」は、週末になると野鳥観察の人々でにぎわう。子どもたちが備え付けの望遠鏡で鳥たちの姿を探しては、息を詰め、視線を注ぐ。

 桂坂野鳥園は十年前、全国でも珍しい住宅地内の野鳥園として、宅地に接した山すそに不動産開発会社が開設した。昨年七月に京都市社会福祉協議会に寄贈され、現在は市洛西ふれあいの里保養研修センターが管理。名称も「遊園(ゆうえん)」と改められた。

 観鳥楼から見える池と周囲の植え込みは人工的に造られ、野鳥の住みやすい工夫が随所に凝らされている。水辺に群生するアシ、マコモなどは鳥が外敵から身を隠す場所。水面には翼を休めるための枝や岩が突き出している。岸にこんもりと茂ったクマザサは巣作り場、砂場はキジやコジュケイの砂浴び場だ。

 えさ用の畑や果樹もあり、園内(二十七万平方メートル)ではこれまでに九十二種もの野鳥が確認されている。恵まれた環境が、渡り鳥を含め多種多様な鳥たちを呼び寄せるのだという。

 「裏山にはハイキングコースもあり、最近は中高年の来園者が多い。子どもの環境学習にも一層役立つよう、新たな運営方針を練っている最中です」と同センターの窪田実さん。地元住民をまじえた会合では、「開園日数を増やして」などの要望も出たという。

 この季節、木々の間にはカワセミやオオルリ、ウグイス、ツグミなどが飛び交う。新緑のまぶしい園内は、人と自然との共生の場だ。

ところ
京都市西京区御陵北大枝山町

開園
土日曜日の10:00〜17:00

入園料
無料

問い合わせ
京都市洛西ふれあいの里保養研修センター 電話075(333)4651

  旧藤井彦四郎邸

広々とした邸宅の縁側を降り庭に出ると、眼前に琵琶湖を模したという池が広がる。薫風がそよぐ園内では、日差しに誘われようにヒバリがさえずり、池のコイが水音を立てる。旧藤井彦四郎邸は、近江商人のふるさと滋賀県五個荘町の、のどかな田園にたたずむ。
 一八七六(明治九)年、この地に生まれた藤井彦四郎は、人絹や毛糸の輸入製造販売を手がけ、一代にして莫大(ばくだい)な財をなした。自らは京都市左京区鹿ヶ谷に住み、この家は客をもてなす別邸として、生家の隣に一九三四年に建てた。

 池の周囲には、大小の灯ろうや巨大な岩、テーブルに利用したという珍しい逆三角すいの石などが配置されている。広さは八百坪もある。松やツツジ、サツキ、モミジなどの木々を配した庭は、初夏の新緑、晩秋の紅葉、冬の雪化粧など四季折々の情景が楽しめるという。木々の間からは、西にきぬがさ山、南に箕作山が穏やかな借景を見せる。

 散策を楽しむための泉池回遊式庭園として、彦四郎自身が庭造りを監修したという。池の全景が見渡せるように、南側に小高い丘を築くなど、客人に琵琶湖や近江の自然を知ってもらおうとした彦四郎の意匠が伝わってくる。

 邸宅は一九八〇年、町に譲られ、町歴史民俗資料館に生まれ変わった。全国から年間約九千人の観光客が訪れる。資料館では、商家で使われていたそろばんや大福帳などの商売道具を常設展示しているほか、「ひな人形展」など季節ごとに企画展を開催している。

 建物は九七年、国の登録文化財になった。今年三月、県指定文化財に指定されたのを機に、四月から庭も一般公開することになった。

 坪田保治郎館長は「この庭からは、富や財力を誇示するのではなく、客人を心からもてなそうとした先人の知恵がうかがえる。失われつつある近江商人の美学や理念に、思いをはせてほしい」と話す。

ところ
滋賀県五個荘町宮荘

開館
9:30〜17:00まで(入館は16:30)

入館料
大人300円、高校生200円、小人100円。月曜と祝日の翌日は休館

問い合わせ
五個荘町歴史民俗博物館 電話0748(48)2602へ

  勝竜寺城公園

 JR長岡京駅東口から南へ五百メートルほど歩くと、堀と石垣に囲まれた勝竜寺城公園が見える。堀にはコイが泳ぎ、カメが顔を出す。カモも羽を休めていた。その堀に架かる小さな橋を渡り、高麗門をくぐると、小川や池をあしらった和風庭園が広がる。

 長岡京市の東南部にある勝竜寺城公園は、同市が総工費二十二億円をかけ、一九九二年春に再現した。春は桜とツツジが咲き誇り、五月になると、初夏の日差しを浴びた新緑がまぶしい。秋には市民まつり「長岡京ガラシャ祭」が開かれ、恒例となった細川玉の輿(こし)入れ行列の会場として大勢の住民らでにぎわう。

 勝竜寺城の歴史は古い。南北朝時代の一三三九(暦応二)年、足利尊氏率いる北朝側の細川頼春が築いたという。吉野の南朝に、にらみを利かせるためで、京都盆地の西南部を防衛する前線基地として西国街道沿いのこの地を選んだ。

 細川ガラシャ夫人にまつわるロマンも秘められている。明智光秀の三女・玉(後のガラシャ夫人)は一五七八(天正六)年、細川藤孝の長男忠興のもとへ嫁いだ。

 四年後に「本能寺の変」が起こり、光秀勢は天王山の合戦で豊臣秀吉に敗れた。玉は反逆者の子として丹後へ幽閉され、その後、石田三成の人質になるのを拒んで自害した。

 ガラシャの悲劇から約四百年。勝竜寺城は公園に姿を変え、市民に親しまれている。市内の観光名所を案内する長岡京市ふるさとガイドの会の菊池博会長(74)は「観光客の関心も高い。平日は子どもたちを遊ばせるお母さんたちの人気スポットで、公園に来ている人を見かけます」と話す。

ところ
京都府長岡京市勝竜寺

 園内の管理棟の二階に展示室が設けられ、公園建設に伴う発掘調査の出土品をはじめ、細川家ゆかりの古文書などが並べられている。休園日は火曜日。夜間はライトアップで彩られる。

  史跡正道官衛遺跡

 住宅街の入り組んだ生活道路を抜けると、密集した家の中にぽっかり開けた空間にたどり着く。追いかけっこをする小学生の笑い声や、高校生が持ち寄ったラジカセの音楽をBGMに、ジャージー姿で姿勢よく歩いていくお年寄りの姿。好天のひとときをそれぞれ楽しむ市民がいる。

 一九七四年に国の史跡に指定された正道官衙(かんが)遺跡。七世紀後半から九世紀にかけての三つの時期に分かれ、役所跡と見られる掘っ立て柱建物跡が多数出土した。「当時、地方の役所跡として府内最大級だった。文献に残る役所の建物配置などを確かめる上で貴重な遺跡」(市歴史民俗資料館)。城陽市が九〇年から三年がかりで遺跡公園として整備した。

 東側の入り口から園内に入ると、遊歩道に沿って万葉集に詠まれた三十種類の樹木が植えられ、それぞれに句碑が添えてある。ウメやモモ、ツバキなど春を彩る花はすでに散り過ぎ、今はヤナギの新緑からこぼれる陽光がはや初夏を思わせる。

 公園となった約一万八百平方メートルは、同遺跡でpは最も新しい八世紀から九世紀にかけての建物があった区域。百メートル四方ほどの範囲に、執務などを行った中心施設の「庁屋(ちょうや)」やその裏に付随する「副屋」、正門にあたる「南門」など五棟の跡があり、公園化の際に庁屋など三棟を再現した。

 出土した柱穴や同時代の資料から、大きさや構造を推測してできる限り忠実に再現したというが「屋根に関する資料がなく、手入れの大変さもあって」(同館)、柱と塀のみの不思議な構造物となった。それでも南門から正面を望むと、築地塀で庁屋の一部が隠れ、奈良時代の役所の威厳あるたたずまいを感じさせる。

ところ
京都府城陽市寺田正道

入園は自由。一帯は5世紀の古墳や6〜7世紀の集落跡も出土した複合遺跡。芝生の広場で遊ぶ子どもも多い

問い合わせ
城陽市教委 電話0774(56)4049へ

  大池寺「蓬莱庭園」

 臨済宗妙心寺派、大池寺(だいちじ)の「蓬莱庭園」。サツキを刈り込んだ枯山水が美しく広がる。サツキを刈り込んだ枯れ山水が美しく広がる。「サツキは四季折々に変わり、味わいがあります。静寂の中で、ゆっくり鑑賞していただければ」と住職の清水壽晴さん(37)。

 五月下旬から六月中旬には赤や白の花が咲き誇り、夏には新芽の緑が見る人を魅了、秋になると奥の真っ赤に紅葉したモミジを借景に、庭砂の白、サツキの緑が浮かび上がる。雪がうっすら積もった冬の朝は水墨画を見るような趣がある。

 庭の中央の刈り込んだサツキは宝船をかたどり、その中の七つの石と角形や円形の小さい刈り込みは、七福神と七宝を象徴。庭に敷いた白砂は大海原、奥の二段刈り込みは大波と小波、右手前にある六つの石とそれを覆うサツキは亀を表す。

 庭園は江戸時代初期の茶人、小堀遠州の作。遠州は近江の国・坂田郡小堀村(現在の長浜市)に生まれ、豊臣秀吉に小姓として仕え、徳川家康に遠州守に任ぜられて茶を学んだ。蓬莱庭園は、遠州が水口城の落成祝いで造ったとされる。

 大池寺は、僧行基が紫香楽宮造営に訪れ、農民のためにかんがい用の池を造った時に開山。元の名は青蓮寺だったが、織田信長の焼き討ちで焼失した後、寛文年間(一六六一〜一六七二)に瑞鳳寺(宮城県)の丈巌禅師がこの地を訪れ、残されていた本尊の釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)坐像などを見て、大池寺として再興したという。

 大池寺は県立自然公園内にあり、遊歩道も整備されて住民の憩いの場になっている。大みそかの年越しの約一時間はライトアップして無料で特別公開、地元だけでなく京阪神や東京など遠方から訪れる人もいる。

ところ
滋賀県水口町名坂

参観料
大人400円、中学生300円、小学生200円

問い合わせ
大池寺 電話0748(62)0396へ

  居初氏庭園

 庭園の門をくぐると、足元に敷かれた石畳が真っすぐ伸びている。琵琶湖はすぐそこ。石畳の上に視線を走らすと、奥の垣根の向こうに琵琶湖が銀色に輝いている。対岸の三上山の端麗な姿も望める。江戸時代の俳人小林一茶はこの庭にたびたび訪れ、庭に入った際の視線の動きを「湖よ松それから寿々(すす)み始むべき」と詠んだ。

 一茶の句に出てくる庭園内にあった松の大木は、昭和初期に枯れてしまった。今は、センリョウやサツキなど実や花をつける木々が植えられ、訪れた人に四季の変化を感じさせてくれる。

 樹木は、琵琶湖や対岸の景色を庭園の景観に取り込むため、どれも低い。視界が樹木に遮られず、約六百九十平方メートルの庭が実際よりも広く感じられる。

 平安時代から大津市の堅田一帯で漁業や船運を取り仕切ってきた居初(いそめ)家の敷地内にあり、現在は二十九代当主の居初寅夫さん(七五)が管理している。

 庭園を造ったのは、十九代当主の居初市兵衛。一六八一年ごろ、市兵衛の親せきの北村幽安と、幽安の茶の師匠だった藤村庸軒が設計した、と伝えられる。庭園の一角に茶室も造った。庸軒は千利休の孫、千宗旦の高弟として知られ、寅夫さんは「市兵衛は早くに父や祖父を亡くし、十九歳で当主になった。立派な茶室と庭を造り上げることで、自分の力を示したかったのでは」と推測する。

 茶室と庭園は客をもてなす場として利用されてきた。居初家に伝わる資料によると、茶室に立ち寄った天台宗の僧りょ六如上人が一七九九年、茶室からの眺めが琵琶湖など自然の風景を切り取ったように見えたことから「天然図画(ずえ)亭」と名付けたという。庭園は一九八一年、国の名勝に指定され、茶室も九三年、県指定文化財になった。

 琵琶湖畔の開発につれ、茶室から見える自然の姿が変わった。寅夫さんは「子どものころは、対岸に菜の花が咲くと黄色いじゅうたんのようだった。今は湖岸が埋め立てられ、ビルが建ち並ぶ。じゅうたんはもう見られません」とつぶやいた。

ところ
滋賀県大津市本堅田2丁目

開園
9:00〜16:30(11:30〜13:00は閉園)

入園料
高校生以上500円、中学生200円。蔵を利用した資料館もある
予約制

問い合わせ
居初寅夫さん 電話077(572)0708へ


 

 

 

 
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