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渉 成 園 (枳穀 邸) - 真宗本廟の飛地境内地 (名) * 参拝の手続き必要 *東本願寺の別邸で、その周囲に枳穀を植えるところから枳穀邸とよばれ、また東本願寺の正東にあたるので、一に東殿とも東園ともいう。
この地は寛永十八年(1641)、本願寺十三世宣如上人が徳川家光から与えられ、承応二年(1653)石川丈山と謀って庭園を築き、隠退所としたところである。
文人墨客の吟嘯の地となった。【印月池】
邸内の六分の一を占める広大な池。
西を正面とし、東山を借景とする池泉舟遊式の庭園で、池中には二つの中島と小島がある。【漱枕亭】
中央、東面する平屋建ての書院で、園内を一望に見渡せる景勝の地を占めている。
内部には明治天皇が行幸されたときの玉座となった嘉楽の間や石川丈山筆の額をかかげる。【傍花閣】
園林堂(持佛堂)に対する楼門の形でつくられた中国風の建物。
閣上には四畳半の一室を設け、天上には石川丈山の創意になる磁石形の十二支を描き、軒には絵馬形の額があって、狩野永納の筆になる熊谷直実・平敦盛の像を描く。【滴翠軒・臨池亭】
現如上人の好みによってつくられた小書院で、背後の築山から水の取り入れ口を設け、滝としている。
【代笠】
四畳半の茶室。付近にはむかし茶を栽培した茶畑が残っている。
【縮遠亭】
中島(五松塢)にある数奇屋風の茶席で、入り口の土間には飾り籠を据え、茶席に上がる板縁がある。
二畳台目、草庵舞台造り、上段の間付、天上の棹は賤ケ岳の七本槍の柄を用いたものと伝える。
亭前の蹲は「塩竈の水鉢」といわれ、石造多宝塔(鎌倉)の塔身上部をうがって水鉢としている。
亭前下方の洞穴は、源融が塩を焼いた塩竈の址と伝える。【源融塔】
鶴島と称する池中の小島にある。
九重の層塔(鎌倉)で、基礎の四方に格狭間をいれ、開花の蓮華を陽刻し、初層軸部の中にも四方四仏をあらわしている。【回棹廊】
縮遠亭より丹楓渓に至る途中、池にかかる橋廊をいう。
【句仏上人句碑】
加茂の真黒石の表面に「勿体なや祖師は紙子の九十年」ときざまれている。
*因みに園内に源融に関する遺跡の多いのは、ここが河原院の旧跡にあたるという伝承によるからであるが、河原院は渉成園より東北の地にあって、関係はない*
明徳二年(1391)金山明昶の開創に係る。
【庭園】 波心の庭
方丈前にひらけた池泉式の枯山水で、面積は約三百八十坪。
州浜型の枯池に三尊石組みを配し、背後にサツキやツツジを雲紋の狩り込みとし、雲の上に茶亭羅月庵の窓と壁と障子を含めた大円形の月が昇る姿をかたどっている。
これは禅語にいう
「雲ハ嶺上ニ生ズルコトナク、月ハ波心ニ落ツルコト有リ」の句によるもので、これにちなんで「波心の庭」と名付けられた。なお門内入り口付近を「雲嶺の庭」という。
* 昭和十四年(1939)重森三玲の作庭 *
静かなお寺です。
庭を見つめているだけで一時間でも二時間でも過ごせます。
他の観光寺にあるような、おしつけがましいところは全く有りません。
女性好みだと思います。注)拝観料金は”志納”を玄関入って向かって左側の竹筒に入れてください。
室町時代の応永年間(1394?1428)、足利義持が大業徳基(68世)を開山として創建した塔頭の一で、はじめ葛野郡北山(北区)にあったが、
慶長十年(1605)以心崇伝によって移建再興された。
崇伝は徳川家康に信任され、天下僧録司に任ぜられ、宗教界の行政・人事を左右し、明治に至るまで当院住持がその職に補せられた。
従って当院の勢力は重く、代々の僧録司はみな当院から出る例となった。唐門(桃山)は表門を入った左にある。
明智門といい、天正年間(1573?92)明智光秀が母の菩提のため建立したものと伝え、もと大徳寺にあったものを移建したものである。
方丈(重文・桃山)は寛永初年に伏見城の遺構を移したと伝える桃山風の豪壮な建物で、各室ともに狩野尚信筆とつたえる「松梅図」「仙人図」
「群鶴図」などの華麗な装飾画によって満たされている。
二条城二の丸御殿や知恩院方丈画と一脈相通じるものがあり、江戸初期の障壁画としては代表的な作例とされている。庭園(特名・江戸)は、東西に長い平庭に一面に白砂を敷き、右に鶴島、左に亀島をあらわした枯山水とし、ニ島のあいだの長方形の大きな平石は、
この庭をへだてて南上段の地にある東照宮を遥拝するための遥拝石として配置したものと伝える。
本庭は寛永九年(1632)小堀遠州の作庭と伝えるが、実際は遠州が以心崇伝の依嘱をうけ、庭師賢庭が作庭に当たったというのが定説となっている。
古来「鶴亀の庭」とよばれ、東山の数ある名園の筆頭におかれている。八窓席茶室(重文・江戸)は方丈北側の小書院に付設された遠州好みの三畳台目の茶席で、窓が八つあったので八窓席とよばれ、曼殊院のものとともに名高い。
現在、六窓しかないのは明治に修繕した時、二つの窓を取り除いたからである。
この茶室につづく小書院の襖絵「老松図」六面と「猿猴捉月図」四面は、長谷川等伯中期の作といわれ、桃山時代の水墨画の代表作とされている。開山堂には以心崇伝の墓があり、堂後の墓地には近代の画家浅井忠の墓がある
*以心崇伝の人物記を読むと面白い。南禅寺が別格寺院となった理由、豊臣家が滅んだ理由などがわかります。*
三千院より北へ約二キロ。
若狭街道から六百メートル余り登った山腹に有る。古知谷光明山と号する浄土宗知恩院派の寺で、慶長十四年(1609)木喰僧弾誓上人が創建した如法念仏の道場である。
上人は尾張国海辺村の生まれ、九歳にして出家し、諸国を回遊して京都に至った。
たまたま五条橋上より北方に紫雲がたなびき、光明赫然たるを発見して、遂にこの地に来って一宇を建立したのが、当寺の起こりと伝える。
上人はこの地に住すること四年、慶長十八年(1613)五月、六十二歳で示寂した。本堂(開山堂)には世に「植髪の像」と称し、弾誓上人の髪を植えた自作の像を安置し、右脇壇には阿弥陀如来坐像(重文・鎌倉)を安置する。
その背後の開山窟には、上人の遺骸をおさめた石棺があり、宝物殿にはまた上人常用の法衣や仏具等が展示されている。【御杖水】
書院の背後の谷間に有る。
弾誓上人が鉄杖で掘ったところ、清水が涌き出たといわれ、これを服するものは病苦を免れると伝える。【禅公窟】
書院の背後三百メートル余りの山上に有る。
享保年間(1716?36)弾誓上人の行跡を慕って来山した澄弾上人が参禅した石窟とつたえる。真に洛北の仙境というべきところである。
新緑、紅葉ともに素晴らしい。かなり上まで車であがれますが、急な坂道で離合が大変です。
下の駐車場から歩いて行かれた方が良いと思います。
竜宮門からみる紅葉はお勧めです。月輪邃境にあって、東山または泉山と号し、古くから皇室の香華院として尊崇される真言宗泉涌寺派の大本山である。
当寺は天長年間(824 ? 34)弘法大師空海がこの地に一宇の草庵をむすび、法輪寺と名付けたのが起こりといわれる。
また一説に斉衡三年(856)左大臣藤原緒嗣が建立し、はじめ法輪寺と号したのがのちに仙遊寺と改めたとも伝える。
『元亨釈書』巻十三にかかげる別の説もある。はじめ四宗(天台・真言・禅・律)兼学の道場として発足し、朝野の崇敬をあつめた。
とくに御鳥羽上皇から資を賜うこと篤く、元仁元年(1224)に御堀川天皇の勅旨によって勅願寺となり、寺運は大いに栄えた。当寺は真言宗であるが、伽藍が一見して禅宗的な雰囲気を覚えるのは、宋寺の規模によって建てられたからであり、当寺安置の諸仏像にもまた多分に宋風彫刻がみられるのはこれがためである。
歴代の御陵域となったのは、四条天皇の月輪陵が仁治三年(1242)に寺内にいとなまれたのを起こりとする。
それより百三十二年後の文中三年(1374)後光厳天皇を当寺に於て御火葬してより前後九代の天皇の御火葬所に当てられ、さらに後水尾天皇から孝明天皇まで歴代天皇・皇妃の御陵もまたここに定められた。
さらに遠い御代の天皇・皇后の尊牌も奉安され、まったく皇室の菩提寺として崇められるようになった。慶応元年(1865)当寺は海内諸寺の上に班たるべき旨の勅命が出されたのは、まったく異数のことである。
他の寺院にみられぬ尊厳さと品格があるのはこれがためである。【大門】
南宋の書家張即之の筆になる「東山」としるした額をかかげる。
もと内裏にあったものを下賜されたと伝える。【観音堂】
唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈るため、その容姿を写して造ったという聖観音座像を安置する。
湛海和尚が十六羅漢像とともに宋国からの将来品で、江戸時代には洛陽三十三観音巡りの一として信仰されていた。【仏殿】 重文・江戸
天上画や張付画は、ともに狩野探幽68歳のときの筆とつたえる。
【舎利殿】 江戸
湛海が二回も入宋して懇望し、白蓮寺から持ち帰ったという仏牙の舎利(釈尊の火葬骨)を本尊とする。
韋駄天立像は羅刹足疾鬼に仏舎利を盗まれまいとして、警護のために安置されたものであろう。
天上の画竜は狩野山雪の筆と伝える。【御座所】 江戸
明治十五年の火災後、京都御所の皇后宮御里御殿を賜り、月輪御陵参拝に天皇・皇后の休息所とされた建物で、安政ニ年(1855)の建築である。
光格天皇御遺愛の桑の座机が置かれている。
障壁画は復古大和絵派の宇喜田一薫の筆になるものが多い。【庭園】 江戸
清楚閑雅な池泉観賞式の庭園で、池畔には光格天皇遺愛の雪見灯篭(桃山)があり、この種の灯篭中では一番古く、形もよく整っている。
【霊明殿】
いわば皇室の仏壇所ともいうべき建物で、当寺伽藍中もっとも重要視されている。
【海会堂】
御念持仏を安置する
【月輪御陵】
四条天皇をはじめ後水尾天皇以降、仁孝天皇に至る天皇・皇妃・親王を奉葬した所で、二十五陵五灰塚九墓からなる。
その墓石は主に天皇は九重の層塔、后妃は無縫塔、親王は宝篋印塔を以って標されている。
なかでも四条天皇の九重石塔(鎌倉)が一番古く、花崗岩製、全体として塔身が細長い。【開山堂】 重文・江戸
俊仍(クサカンムリあり)律師の遺骸を埋める。
堂内安置の墓石は八角形の台座上に安置された無縫塔(重文・鎌倉)で、高さ1.6メートル、安山岩製、塔身正面中央に「開山不可棄和尚之塔」と陰刻する。
基礎の台座は宋風を好んだ俊仍の塔に相応しい。
廟前に当寺歴代住持の墓塔46基があり、このうち江戸期の四基と五輪塔一基を除いた四十一基は、いずれも鎌倉から室町各時代におよぶ無縫塔である。【泉涌井】
仏殿の南にある。
俊仍律師が当寺造営の時、崖下から湧き出したと伝える井泉である。【清少納言歌碑】
泉涌水の傍にある。
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」という清少納言の代表的な歌をきざむ。*泉涌寺の塔頭は現在九ヶ寺を数える。*
天台宗延暦寺派の寺で、古くは円融院(円融房)または円徳院、梨本房、梶井宮などとよばれたが、明治四年(1871)三千院と改めた。
寺伝によれば、延暦年間(782?806)伝教大師最澄が比叡山に根本中堂を創立した時、東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構えたのが起こりとつたえる。
その後、貞観二年(860)承雲によって堂塔を整備し、最澄自作の薬師如来を本尊とし、一念三千院または円融房と称した。
また山麓の東坂本梶井の里(大津市)に里坊を設け、梨本流の拠点とした。
次いで応徳三年(1086)白河天皇中宮賢子の菩提のため盛大な供養が行われたとき、丈六の九体阿弥陀像を安置し、円融房を円徳院とあらためた。当院が門跡寺院となったのは、堀河天皇の第二皇子・最雲法親王が梶井に入室し、大治五年(1130)梶井の第十四世法主となられたときである。
これが皇族入寺としてのはじめてであり、それより梶井の宮と称するに至った。このとき、大原魚山の大原寺を加預(管轄)され、大原に政所を設置し、来迎院を中心とした上寺と勝林院を中心とした下寺の取り締まりにあたった。
魚山とは、承和五年(838)入唐した慈覚大師円仁が、中国山西省天台山の支峰魚山で流行していた声明(しょうみょう)を修得し、帰国後、大原の地を相して声明の本源とさだめたとき、唐土魚山にならって山号を魚山と名づけ、また大源の水を去って大原寺を号したのに因る。
爾来、魚山の本坊となり、承仁(18世)・尊快(20世)・最仁(22世)等、代々法親王の入室する門跡寺院となり、青蓮院・妙法院とともに天台三門跡の一つとなった。
鎌倉時代の貞永元年(1232)火災にかかって堂舎を失ったのを機会に、以後は坂本より京都市中に本拠を移した。はじめ市中を転々としたが、建長二年(1250)船岡山(北区)の東麓に移り、ここに壮麗な御所を造営した。
而してこの地にあること約二百余年におよんだが、応仁の乱にかかって焼亡し、所領の大原に移った。
元禄十一年(1698)、徳川将軍綱吉は入道慈胤親王(43世)が天台座主に補せられるにあたり、上京区梶井町の地に住房(里坊)を造進し、寺領1064石を寄進するにおよんで、大原は修行の地となった。
しかし、明治維新に昌仁法親王(50世)が還俗し、梨本宮家をおこされたため、里坊(梶井御殿)にあった仏具類はすべて大原に移管し、大原の政所を梶井門跡の本殿とさだめ、円融房の本堂三千院に因んで三千院と号するに至ったものである。【 客殿 】
天正年間(1573?92)、梶井門跡跡応胤法親王(40世)が禁裏修理の余材を得て建立されたとつたえ、政所竜禅院に因んで一に後竜禅院とも称する。
現在の建物は大正初年に修補され、内部各室の襖や杉戸には今尾景年・望月玉泉・鈴木松年・菊池芳文・竹内栖鳳等、当時の画壇を代表する画家達によって飾られている。【 聚碧園庭園 】 (江戸)
地泉観賞式の小庭をいう。
面積は約255坪。
山畔を利用して上下二段式とし、「さつき」の刈込みと複雑に入り込んだ浅い池によって構成されている。
金森宗和の修復といわれるが、現客殿の建てられた大正時代に改作された跡がみられる。【 宸殿 】
宮中で行われた御懺法講(おせんぼうこう)等の法儀を執り行うため、昭和元年(1926)に再建された当院中、もっとも重要な建物である。
故に外観は紫宸殿に模して寝殿造りとし、内部中央の間(内陣)には本尊薬師瑠璃光如来と御懺法講に用いられた楽器類が安置され、西の間には歴代法親王が秘仏とされた救世観音半跏像(重文・鎌倉)および不動明王立像(重文・室町)を安置する。
また東の間(玉座の間)は一に「虹の間」ともよばれ、下村観山が描いた七彩の虹が、襖から鴨居のうえまでとどくように描かれ、その大胆な構図はみる人を一驚せしめる。【 瑠璃光庭 】 (大正)
往生極楽院に通じる苔庭をいう。
青苔のみどりにはえる紅葉の秋景は、晩春五月の石楠花のうつくしさとともに、色彩美の極致と賞賛されている。【 涙の桜 】
瑠璃光庭の一隅にある。
室町時代の歌僧頓阿が、その友陵阿上人の極楽院旧栖を訪ねたとき、上人手植えの桜をみて見るたびに袖こそ濡れる桜花涙の種を植えや置きけん (草庵集 巻十)
と詠んだのに因んで「涙の桜」とよばれた。
一説に西行法師の手植えともいわれる。【 往生極楽院 】 (重文・藤原)
もと極楽院と号し、三千院の境外仏堂であったが、明治になってその本堂となった。
恵心僧都の妹・安養尼の持仏堂といわれたが、近年高松中納言実衡の後家・真如房尼が、久安四年(1148)に建立した常行三昧堂であることが判明した。江戸時代に正面に一間の向拝をつけたりして、旧態をだいぶ失った。
しかし内部は周囲一間通りを外陣とし、中央を内陣とし、外陣は化粧屋根裏としている。
殊に舟底天井は珍しく、それに二十五菩薩の来迎図を描き、また本尊背後の来迎板には両界曼荼羅図、外陣の小壁には千仏を描き、さらに柱・長押等には仏像・宝相華のうんげん彩色をほどこす等、藤原時代の阿弥陀堂のいみじき有様がありありと思い起こされる。堂内に安置する阿弥陀三尊像(重文・藤原)はいずれも寄木造り、彫眼入り、金皆色。
このうち中尊は丈六の坐像で、上品下生(じょうぼんげしょう)の印相をしめし、八角形の低い台座に裳裾をたれて結跏趺坐する。
光背は二重円光に蓮華唐草と梵字十三個を彫り出し、周辺部にも蓮華唐草と十三体の化仏を透彫としている。また右脇侍の観音菩薩は両手を蓮台にささげ、左の勢至菩薩は合掌し、ともに膝を屈し、蓮台上に跪坐する姿は、来迎の姿をあらわしたものというべく、本像は藤原時代を代表する屈指の優像である。
【 有清園庭園 】 (江戸)
往生極楽院の周庭をいい、面積は約五百坪。
【 阿弥陀石仏 】 (鎌倉)
律川をへだてて三千院境内の東北隅にある。
俗に「大原の石仏」といわれ、高さ2・25メートルの大きな自然石の表面に定印の阿弥陀如来坐像を厚肉彫に刻み出している。
光背は無地の二重円光式。
大きさといい、形のよく整っていることでは、京都付近では屈指の石仏である。【 売炭翁旧跡 】
石仏同所とつたえるがなにもなく、むかし、この辺の山中で炭を焼く炭竈があったのに因んで称したものであると思われる。
売炭翁とは炭の生産販売を業とする人々を擬人化したもので、『白氏文集』巻四に、炭を売る翁は常にうすい衣をまといながら、売った炭は他人の保温料となるも、自身の寒さを防ぐには足らないという意を寓した詩があり、これに因んで炭焼く人々を売炭翁と称した。
大原はもと山林を伐採して薪炭とし、これを販売するのを業とした炭焼きの里である。
その起こりは平安時代に宮中に御竈木(みかまぎ)として納めたことに因る。
それより大原の山中各所に炭竈が設けられたが、そこから立ちのぼる煙は、王朝時代の歌人によって歌枕として採り上げられ、世に有名になった。この地は、はじめ後水尾天皇の幡枝御陵(幡枝御茶屋)とよぶ山荘があったが、修学院に本格的な山荘を造営されてからは、御幸も途絶え勝ちとなり、遂に寛文十二年(1672)山の御茶屋は近衛家に下賜され、御殿は霊元天皇の乳母であった贈左大臣園基任(そのもととう)の息女、円光院文英尼公に下賜された。
よって、尼公は延宝六年(1678)、妙心寺の禿翁和尚(とくおうおしょう)を開山とし、大悲山と号する臨済宗妙心寺派の寺に改めたのが当寺の起こりである。
本堂には本尊聖観音坐像を安置する。霊元天皇は御幼少の頃、ここで過ごされたことから、御成人後もこの地の風光を愛され、しばしば御幸になったことは『霊元法皇御幸記』によって明らかである。
また当寺は寺の南の山麓に三猿堂や潮音堂・霊泉庵等があり、丘陵上には京見台などもあって、御遊の場所とされたが、今はいずれも廃絶した。現在の寺域は狭く、昔日の面影はないが、客殿(仏殿と御幸の間)の建物は、ともに皇居にゆかりのある殿舎を移建したものといわれ、釈迦立像(しゃかりゅうぞう)および歴代の尊牌を安置し、ノキ(木偏に眉という漢字です)上には黄檗隠元筆の「大悲山」・「円通寺」等の額をかかげる。
【庭園】名勝
約一、三ニ〇平方メートル、南北に細長く、長方形の地割の中に立石と横石と臥石四十数個を置き、これに低い小丸刈込みのつつじを配した枯山水の平庭である。
もとは白砂敷であったが、今は美しい深い杉苔におおわれた苔庭となっていて、その後方に秀麗な比叡山がそびえ立ち、さながら一幅の絵を見る如き観がある。本庭は後水尾上皇みずから指図して作庭されたものと思われ、竜安寺石庭と西芳寺(苔寺)と大徳寺方丈の三庭を一つにした趣があって、上皇のこの方面における御造詣の深さがしのばれる。
なお寺宝に紙本墨書「霊元天皇宸翰御消息」一幅(重文)を有する。
・ 東寺 - 国家鎮護の密教道場
国宝25件59点・重文59件164点他
* 四羽の鵞鳥に乗る梵天座像は稀有の造形 *・ 大報恩寺(千本釈迦堂) - 知られざる秘宝の寺
国宝1件8点・重文21件
* 本尊の釈迦如来は秘仏 *・ 東福寺 - 紅葉の名所
国宝6件・重文59件341点
* 塔頭寺院も25ケ寺の内12ケ寺が重文を伝える *・ 泉涌寺 ? 皇室御香華院
国宝2件・重文11件(除塔頭分)
* 霊明殿は天智天皇以降貞明皇后まで、皇室の御尊牌134柱を奉祀する *・ 智積院 - 国宝大障壁画の寺
国宝27点・重文6点
* 桃山時代の巨匠長谷川等伯とその一門の作で、25面が国宝。わが国障壁画の最高峰と評される名宝 *・ 清水寺 - 濁らじ物をきよ水の、緑もさすや青柳の
国宝1件・重文25点
・ 六波羅蜜寺 - 京洛阿弥陀聖の寺
重文17件
* 本尊十一面観音は秘仏だが、空也上人像が名高い。*・ 南禅寺 - 大禅刹
国宝2点・重文34件141点
・ 銀閣寺 - 幽玄・清雅の庭の寺
国宝2棟・特別名勝・特別史跡
・ 曼殊院 - 名庭・名画の紅葉寺
国宝2点・重文19件105点
* 天皇宸翰源氏物語など *・ 仏光寺 - 重文聖徳太子像を伝える
・ 平等寺 - 当寺の重文薬師如来は清涼寺釈迦、善光寺阿弥陀と共に日本三如来と称する。重文2点を伝えるが、京都国立博物館へ寄託。
・ 壬生寺 - 本尊の重文地蔵菩薩立像や他に重文2点。本尊・収蔵庫の拝観は事前に許可が必要。 075?841?3381
・ 頂法寺 - 重文指定は毘沙門天立像
・ 相国寺 - 国宝1件4点、重文12件49点を伝える。
・ 石像寺 - 鎌倉時代の阿弥陀三尊石仏が重文
・ 蓮華王院 - 本堂と本尊、二十八部衆二十八躯、風神、雷神が国宝。1001体の千手観音と南大門、築地塀が重文。
・ 養源院 - 16面が重文
・ 法観寺 - 重文五重塔
・ 六道珍皇寺 - 重文薬師如来 拝観は往復葉書で事前申込
・ 建仁寺 - 方丈、勅使門が重文。画幅・墨跡71点が重文指定
・ 隻林寺 - 薬師如来像は重文
・ 知恩院 - 大伽藍は重文7棟を数え、国宝5件56点、重文30件
・ 青蓮院 - 国宝不動明王ニ童子像は日本三不動の一つ。重文に浜松図襖絵17面外3件。
・ 聖護院 - 重文書院をはじめ重文彫刻三、重文六件を伝える。
・ 金戒光明寺 - 重文三重塔
・ 真正極楽寺 - 国宝法華経六巻、重文4点。
・ 禅林寺 - 国宝ニ点、重文15件55点。
・ 三千院 - 弥陀の浄刹・天台声明本源地
国宝2件3点・重文18件
・ 寂光院 - 建礼門院悲史の紅葉の名所
重文仏像1躯
・ 大徳寺 - 一休和尚復興の大禅苑
国宝8件9点・重文174件ほか
* 寺内には国宝建築5、重文建築26、画幅墨跡、茶器、書籍などに、国宝16件19点、重文83件423点、重文経巻2034冊を数える *・ 鞍馬寺 - うず桜咲く霊境の寺
国宝2件200余点・重文6件
・ 妙心寺 - 戦国武将ゆかりの大禅刹
国宝3点・重文50点ほか
・ 広隆寺 - 古仏にみちる秦氏の氏寺
国宝20点・重文48点
・ 法金剛院 花と苑地と古仏の寺
重文5点・指定名勝庭園遺構
・ 仁和寺 - 御室桜と壮麗な堂塔伽藍
国宝15件95点・重文54件
・ 清涼寺 ? 三国伝来の釈迦霊像
国宝2件17点・重文24件34点
* 源融が山荘棲霞観を寺にし、白楽山棲霞観と呼んだ平安時代初期の古寺 *・ 神護寺 - 紅葉の密教瑜伽初伝道場
国宝9件17点・重文18件40点・重文経巻・文書2547点
・ 高山寺 - 幽寂の紅葉名所
国宝8件23点・重文50件
・ 正伝寺 - 重文本堂、重文画幅古文書4件6点
・ 遺迎院 - ニ尊(重文)、紙本阿弥陀如来摺仏など68枚も重文
・ 阿弥陀寺 - 重文阿弥陀如来
・ 鹿苑寺 - 大書院壁画50面のほか4点の重文
・ 龍安寺 - 重文等持寺絵図 (非公開)
・ 西光寺 - 重文阿弥陀如来
・ 天竜寺 - 重文10件 (非公開)
・ 常寂光寺 - 多宝塔は重文
・ ニ尊院 - 重文ニ仏(発遺の釈迦、来迎の弥陀)、画幅古文書に重文8件19点
・ 大覚寺 - 国宝2件・重文27件185点
・ 遍照寺 - 重文十一面観音不動尊を伝える
・ 西明寺 - 清涼寺式釈迦が重文だが寺宝は非公開
・ 峰定寺 - 重文本堂は最古の舞台造り。仁王門、供水所、仁王一対も重文。他に重文7件を奈良国立博物館に寄託。
・ 福徳寺 - 古仏六躯のうち三躯は重文
・ 勝持寺 - 大原の里の古仏と花の寺
国宝1点・重文6点
・ 醍醐寺 - 密教美術の宝庫
国宝15件37点・重文79件約300点
・ 随心院 - 石楠花と梅の門跡寺院
重文4件8点
・ 法界寺 - 日野の里の名宝阿弥陀仏
国宝2点・重文4件37点
・ 万福寺 - 壮麗な中国式の大伽藍
重文建築16棟・重文146点
・ 三室戸寺 - 古仏を秘める紅葉の山寺
重文1棟・重文彫刻5点
・ 平等院 - 平安貴族の夢浄土
国宝7件70点・重文2点
・ 橋寺(放生院) - 地蔵尊と宇治の橋守り寺
重文仏ニ躯・重文2点
・ 酬恩庵 - 一休さん遺愛の禅院
重文建築5棟・重文3件
・ 蟹満寺 - 蟹の恩返しと白鳳の釈迦像
国宝仏一躯
・ 神童寺 - 秘められた古仏群と行者伝説
重文1棟・重文彫刻7点
・ 本願寺西山別院 - 松に藤、桜に牡丹図襖絵は重文
・ 善峰寺 - 多宝塔他1点
・ 光明寺 - 重文三点(非公開)
・ 乙訓寺 - 重文毘沙門天
・ 大念寺 - 阿弥陀如来立像
・ 宝積持 - 八躯の重文彫刻と板絵着色神像、塔婆が重文
・ 法性寺 - 国宝千手観音立像
・ 安楽寿院 - 5点重文の内、絵画は京都国立博物館に寄託。
・ 本國寺 - 重文経堂
・ 勧修寺 - 2件4点の重文
・ 能化院 - 重文地蔵菩薩坐像
・ 西導寺 - 薬師、毘沙門は重文
・ 禅定寺 - 重文仏像9*、重文古文書3件
・ 称名寺 - 重文薬師如来座像
・ 寿宝寺 - 重文千手観音立像
・ 観音院 - 国宝十一面観音
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